第22話 炎

 ルシカは優しい風がそよぐ,広い草原に立っていた。知らない場所のはずなのに,なぜか懐かしい気がする。

(ここはどこだろう・・・?)

 なぜ自分がこんなところにいるのかわからなかった。ふと振り向くと,少し離れたところに一人の少女が立っているのに気がついた。流れるように艶やかな黒髪が揺れ,清らかな微笑みを浮かべている。その少女が誰だがわかったとたん,ルシカは目をみはった。

「・・・ライラ?」

 そこにいたのは,ライラ・コノンだった。ルシカの記憶にある,愛らしい姿そのままにこちらを見つめている。もう一度彼女に会えた喜びと,静かなあきらめがルシカの胸に広がった。

(そうか,俺は死んだのか・・・)

 父さんをリャオに殺され,自分も彼に殺されたのか。

 不思議とルシカは穏やかな気持ちだった。もしここが死者がおとずれる場所ならば,どこかに父と母がいるだろう。大切な人達と今度こそ幸せに暮らせるかもしれない。

 ルシカはライラに向かって小さくほほえみかけた。

「久しぶりだね,ライラ」

 ライラもほほえんでうなずいてくれた。

「ルシカに会いたかった」

 ルシカは彼女のもとへ駆けよろうとする。だが,足が全く動かなかった。今立っているこの場から動くことができない。

(なんだ,これ?)

 いぶかしんでいるルシカに,ライラは少し悲しげに眉をさげた。

「・・・あなたはまだ,ここに来ちゃだめ」

「え・・・?」

「あなたはまだ生きている。戻って,ルシカ。あなたが生きていくべきところに」

 離れたところにいるはずなのに,彼女の声をとても近くに感じた。ルシカは首を振る。

「嫌だ」

 ライラは首をかしげた。

「どうして?」

「父さんはもう,死んでしまった・・・。大切な友達にも裏切られた。・・・もう,生きてきたいと思えないんだ」

 多くの悲しみにおしながされ,生きていく力がどこかへ消えてしまったのかもしれない。あんな残酷な世界に戻るなら,ここで穏やかに過ごしたい。

 そんなルシカの心を見透かすように,ライラは静かな声音で問いかける。

「絵は?もう描かなくていいの?」

 その問いに,ルシカは息をのんだ。

 なぜだろう,今まで,絵を描くことなんて頭になかった。あまりにもつらいことが多すぎて。

 最後に絵を描いてからそんなに経っていないはずなのに,もうしばらくの間木筆(ロッタ)を握っていないような気がする。

 ラウガ王子に絵を描けと言われた時,ルシカはきっぱりと拒絶した。

 だって,俺は――

「ルシカ。私は前に,“どうして絵を描いているの?”って訊いたとき,“お母さんの代わりにお父さんの物語に絵をつけている”って言ったよね。お父さんが死んでしまったから・・・だからもう絵は描かないの?」

 その問いかけに,ルシカは反射的に首をふる。

「それは違うよ」

 自分が絵を描き続けた本当の理由。そういえば,それを思い出させてくれたのはライラだった。

「俺は,俺の絵を見た人に,幸せになってほしくて絵を描いていたんだ。・・・だから,父さんは――」

 そこまで言いかけて,ルシカははっとする。

 そうだ。父が死んでも自分は絵を描き続けていく。たとえリャオと決別しようとも,自分は絵を描き続けていく。

 誰かの幸せのために,自分は絵を描いて生きていく。

 それは誰にも・・・リャオや父にさえも左右されることのない,ルシカが自分で見つけた道だった。


 絵を描きたい。生きて,絵を描きたい。


 小さな芽が,固い土を押し上げて顔を出すように,その思いはゆっくりと力強くルシカの中に芽生えた。その瞬間,まわりの美しい草原・・・そしてライラの姿がぼんやりと薄くなる。ルシカはたじろいだ。

「よかった」

 ライラが安堵したようにつぶやく。

「ライラ・・・」

 ルシカはライラを見つめた。生きるために戻れば・・・せっかく会えたのに,また彼女に会えなくなってしまう。

「・・・また,君と会えなくなる」

 素直な言葉が自然と口に出た。ライラは少し目を見はったあと,切なげな,どこかうれしそうな笑顔を見せる。

「ありがとう」

 温かな風が吹いた。その風の感触さえ,ルシカはもうあまり感じることができなかった。

「ルシカ,これからも私のことを忘れないでいてくれる?」

 ルシカはうなずいた。

「ああ。・・・うまく言えないんだけど,君のことは多分ずっと忘れられないと思う」

「じゃあ,大丈夫。あなたが私を忘れないでいてくれれば,私はあなたの心の中で生きていくことができる。あなたが絵を描き続けてくれれば,私はルシカの絵の中で生きていくことができる」

「え?」

「あなたが私を忘れないでいてくれれば・・・いいえ,忘れてしまっても,私はあなたの心の中にいる。あなたの絵を描く力に・・・あなたが生きていくほんの少しの力になれる。私だけじゃない。あなたのお父さんも,友達も・・・」

「ライラ・・・」

「ねえ,ルシカ。描くことって,何かを残すことだと思うの。すべてのものは,いつか消えていってしまう。それでも,それを何かの形に残し,未来の誰かに繋いでいくこともできる」

 周りの風景はいよいよ薄れ,ライラの姿や声が少しずつ消えていく。ルシカは必死に目をこらし,耳をすませた。

「だから,ルシカ。絵を描き続けて。あなたが見たもの,あなたが出会った人,あなたが思ったこと・・・いつか消えていくものを,あなたの手で未来に残して」

「ライラっ・・・」

 自分の名をよび,手をのばす少年を,ライラは涙をためた瞳で見つめていた。本当は彼のもとにかけよって,抱きしめたかった。でも今はまだ,そんなことはできない。彼はまだ死んではいけない。

 ライラは祈った。たった一人,恋した少年のために。


 絵を描くことを,あなたが見つけた生きる道を,どうか見失わないで。

 精いっぱいやり遂げて。

 私は,いつかあなたがここに戻ってくるのを,ずっと待っているから。



 目を覚ますと,胸に鋭い痛みが走った。

「う・・・」

 ルシカはうめきながら身をおこす。胸から腹にかけて真っ赤に染まっているが,思ったよりも傷は浅かった。

 ラウガと対峙し,リャオに斬りつけられたこの部屋をルシカは見まわした。床は自分の血で赤く染まっている。

 リャオの裏切り,父の死・・・それらがゆっくりと胸を満たし,ルシカは絶望にとらわれる。


 ルシカ,絵を描き続けて。


 暗闇の中に光がさすようにライラの言葉が頭をよぎった。あれは夢だったのだろうか。それとも,ライラの魂が自分を励ましてくれたのだろうか。

(絵を)

 ルシカは身体をひきずり,壁際まで近づく。

(絵を描きたい)

 机の引き出しに入っている絵の道具を取りに行くのが億劫なほど,ルシカはその思いにとらわれていた。描くためのものはすでにここにある。

 腕を動かそうとすると,身体が軋むように痛んだ。

(・・・やっぱり,俺はもう死ぬのかもしれない)

 あなたはまだ生きている,とライラは言ってくれたけれど,この身体で,この状況では自分の死は決して遠いものではないだろう。

 それでもいい。今は絵を描きたかった。

 ルシカは自分の血みどろの身体に触れ,指先にべっとりと血をつける。赤く生臭く,自分が今生きているという証。

 ルシカはそれを壁にこすりつけた。


 描くことは,残すこと。

 ルシカは思い出す。母に抱きしめられた遠い記憶。父や伯父と暮らした森。木漏れ日のように優しい父の物語。

(バルおじさん・・・きっと心配してるだろうな・・・。必ず帰るって言ったのに・・・ごめんなさい)


 赤がかすれてくると,ルシカは再び指先に身体の血をつけ,壁に塗りつけていく。


 人と羊がともに暮らすコロノ村。ハロバ村長や双子の姉妹ルナとレーシャン,小さき羊飼いスロザ。独りひっそりと暮らしていたサハル。優しい村人たち。

(みんな元気かな。“父さんと一緒に帰っておいで”って言ってくれた・・・)


 人売りから逃げ出したとき,助けてくれたのはロナとインバだった。一週間近く家においてくれ,市を案内し,服まで作ってくれた。

(初めて三の区で会ったのがあの人達で本当によかった)


 貧血のためか,頭がぐらぐらしてくる。ルシカは必死に意識をたもって,手を動かし続けた。


 大通り市場で絵本を売っていたクレンと絵本作家のアルド。二人ともルシカと同じように絵本が大好きな人達だった。アルドは,次に会った時にはルシカが驚くようなすごい絵本を見せる,と言ってくれた。

(アルドさんの絵本,読みたかったな)


 三の区の宿で女主人として働いていたバルの恋人シャナ。ルシカが今まで知らなかった,ルトやバルの過去を話してくれた。

(シャナさんには,伯父さんと幸せになってほしい)


 二の区で出会ったライラ。重い病におかされながら,それでも幸せそうに笑っていた少女。自分の絵をずっと見てくれていた少女。

 今ならはっきりとわかる。自分は彼女に恋をしていた。ずっと忘れていた,誰かのために絵を描くという気持ちを思い出させてくれた。

(もう少しで,きっとまた君に会える)


 グリムスは,医術師であり絵描きだった。豊富な絵の道具を貸してくれ,“お前には才能がある”と言ってくれた。自分が大けがをしたときも,きっとたくさん助けてくれたのだろう。

(人のために医術師として,絵描きとして働いているグリムスさんが,うらやましかったんだよなあ)


 自分の背丈だけではとても描ききれない。近くにあった椅子をひきずってきて,ルシカはその上によじのぼる。


 森で倒れていた自分を助けてくれたソノマ。ラニ,コルト,ホルソム――

 人知れず死んでいった彼らのことは決して忘れない。どんな目にあっても,生きる希望を失わなかった彼らを。

(今もどこかで,多くの人が苦しんでいるんだ)


 事実をあるがままに受け止め,自分にできることを探し続けていた,ラージニアの国王ナターラ。

(あの人がいれば,きっと世界はよくなるんだろうな)


 そして,これまでの長い旅のことを思い出すとき,どんな場面にもリャオがいた。

 人売りから助け出してくれた。いつもそばでルシカを励まし,元気づけてくれた。

 たとえリャオがもう自分の知っているリャオじゃなくなったとしても,彼とともに旅をした事実は消えはしない。

(俺は,君と生きていきたかった)


 自分を冷たいまなざしで見下ろしたラウガ。多くの人々を苦しめ,父を,自分をこのような目に遭わせた張本人。

 憎しみと悔しさを抱きながらも,ルシカはあの男の暗くどこか悲しい瞳を忘れられなかった。


 思いかえせば,なんと多くのものを見,多くの人と出会い,多くのことを思ったのだろう。

 ローニャの森で,自分の世界に閉じこもり続けた日々がとても遠い。

 興味すらもたなかった森の向こうがわには,こんなに豊かで尊い世界が広がっていたのだ。

(いつか・・・“戦争”が起きるのかな)

 それは,今を生きる人々を,皆が生きるこの大地を破壊し,燃やし,喰らい尽くしてしまうのだろうか。

(そんなのは,絶対に,嫌だ)


 父さん。

 父が今ここにいてくれたら,話したいことがたくさんある。

 戦争の物語を書いていたという父は,どんな気持ちだったのだろう?

 俺が,ずっと父さんに甘えていた俺が,ほんの少しでも変わったことを知ったら,どんな顔をするだろう。どんな言葉をかけてくれるだろう。

 俺の話を聞いてほしい。俺の絵を見てほしい。

(この絵を描き終わったら,父さんのところにいけるかもしれない)


 己の血でひたすら壁に絵を描き続けている少年の姿は,あまりにも異様で不気味で滑稽であった。それでも,絵を描くことを生きる意味として見いだした少年は最期の力をふりしぼって,自分の人生を,想いをそこに残そうとしていた。




 ラウガとハミルは互いに一歩も譲らず剣を交えていた。鉄と鉄がぶつかり合うかん高い音が広い間に響く。ハミルは内心驚いていた。剣術なら誰にも負けないと思っていたのに,ラウガはハミルの攻撃をかわし,隙をついては斬りつけようとしてくる。その動きには無駄がなく,優雅にすら見えた。

「僕を殺したら,家臣達にはなんて説明するつもりなんだ?」

 一定の間合いをとりながら,ハミルは息もあがっていない目の前の男に尋ねる。ラウガはあざけるように笑った。

「説明する必要などない」

 確信めいたそのもの言いに,ハミルがどういう意味か訊こうとした時だった。


「火事だ!」


 切迫した男の声が響くと同時に,緊急事態が起きたことを報せる大鐘の音ががらんがらん,と城中に響き渡った。

「!?」

 ハミルは驚き,思わず窓に目をやった。窓の向こうには城の西棟が小さく見える。それは遠くから見てもはっきりとわかるほど,真っ赤な炎に包まれていた。

「なっ・・・」

 ハミルの気が乱れたその瞬間を,ラウガは見逃さなかった。ラウガは長剣を振り下ろし,ハミルの胸を深く切りつけた。

「ぐっ・・・」

 ハミルは胸をおさえ,その場に崩れ落ちる。焼け付くような痛み。こんな苦痛を経験したのは初めてだった。

 あえぐハミルを見下ろし,ラウガはうすく笑った。

「これが最後の一手だ」

「・・・?」

 ハミルはもう声も出せなかった。血がとまらない。

「俺の部下達が,城のあらゆる場所で同時に火をつけた。もう,すぐにこの巨大な城は炎につつまれるだろうな」

 薄れていく意識を必死にたぐり寄せて,ハミルはその言葉を聞いていた。確かに,焦げ臭い臭いが鼻をつく。もうこのあたりにも火がまわってきているというのか。

「この城にいる家臣や兵の半数近くは,すでに俺の翼下にある。彼らが俺に反発する一部の奴等をこの混乱に乗じて始末してくれる」

 ハミルは目をみはった。ラウガは,この火事を利用して,邪魔な者を全て排除しようとしているのだ。

「残るのは,俺の意のままに動く家臣や兵達だけだ。俺はこの城に火を放ったのはラージニアだと主張し,宣戦布告をする。我が国の平和をおびやかす隣国は野放しにしておけない,とな。ラージニア国王はすぐにのってくるだろう。自然豊かなシンシアを手に入れたくてうずうずしていた国だ,この絶好の機会を逃すはずがない」

 ハミルは肩で息をしながら唇をかみしめた。それでは,百年前のシンシア・ラージニア戦争の繰り返しではないか。

「・・・さて,お前にも死んでもらおう。火事に巻き込まれ,運悪く逃げ遅れた哀れな貴族としてな」

 ラウガが剣を振り上げる。ハミルは食い入るように男を見つめていた。

 殺される・・・自分は,ここで殺されるのか?

 ニーナの笑顔が心に浮かぶ。彼女の未来を守るために,自分は心を決めたのではなかったか?

 長年,こんな自分についてきてくれた兵達を思い出す。彼らはラウガに利用され,無意味な戦争へとかりだされ,散っていくのだ。

(そんなのは,だめだ)

 

――戦え,ハミル


 父の声が聞こえた気がした。ハミルは力を振り絞って,床に落ちていた剣を取り,それをラウガの太ももに突き刺した。

「うっ・・・」

 ラウガは顔を歪め,よろめいてハミルから離れた。

「お前・・・まだ動けたのか」

 ラウガがうめくように言う。ハミルは剣を支えにして,よろよろと立ち上がった。

「武人の意地だよ」

 ハミルは痛みにこらえ,剣を構える。

「お前と差し違えてでも,僕はお前を斃す。絶対に生かしておかない」

 そのみなぎる決意と闘志に,一瞬ラウガは恐れを感じた。

 自分は今ここで死ぬわけにはいかない。

 ラウガは歯がみした。刺された右足の感覚がもうほとんどない。

(ずいぶんと的確なところを突いたな・・・)

 あの状況でとっさに足の神経が集中している部分を刺してきたのだ。

(さすがだな,ハミル)

 いくら重傷を負っているとはいえ,死を覚悟して向かってくるハミルと,利き足を失った状態で戦うのは不利だった。

 ラウガはハミルに向かって剣を投げつける。ハミルはとっさに身をかがめた。その隙をついて,ラウガはすぐ背にしていた窓を破り,飛び降りた。一階下は客室になっており,露台が突き出ている。ラウガは片足でなんとかそこに着地する。右足はもう完全につかいものにならなかった。

(誰か・・・誰か呼ばなくては)

 シャンズルでもダルタンでもリャオでもいい。誰かに命じて,あの男を殺させなくては。ラウガは窓硝子をたたき割り,客室に入った。



「くっそ・・・」

 ハミルはラウガの飛び降りた窓を睨みつける。あの足で窓から飛び降りて逃げるとは思わなかった。

(応援を呼ばれたら,間違いなく殺される)

 ハミルは腹を押さえて出入口まで歩き,扉を開けた。だがその瞬間,赤い炎が濁流のように部屋に流れ込み,ハミルは熱風と煙に襲われる。

「うあっ・・・」

 このままではラウガを斃すどころか,ハミルが焼け死んでしまう。

(もうこんなに火がまわってきているのか)

 逃げるとしたら,ラウガのあとを追い,窓から飛び降りるしかない。だが,血が止まらないこの身体では,へたに衝撃をうけたら死んでしまう。

(どうする・・・どうすればいい・・・)

 炎の中で,ハミルは必死に考えた。




 城は赤々と燃え続け,多くの人々が押しよせる波のように避難している。兵達が必死に消火作業を行っているが,とても間に合わない。喪の儀の前と言うこともあって城の近くまで来ていた貴族達がざわつきながらその光景を眺めている。

「どうしてこんなことに・・・」

「王子は大丈夫なのか?」


 そんな騒然とした様子を,リャオは少し離れたところからぼんやりと見ていた。

「おい,リャオ!」

 名を呼ばれ,リャオはゆるゆると顔をあげる。そこには返り血を浴びたダルタンが経っていた。

「お前,こんなところで何をやっているんだ?」

「ん・・・,ああ」

 生返事をするリャオに苛立ったように,ダルタンは彼の肩をゆすりささやく。

「お前は知らなかっただろうが,あの計画が早まったんだよ。ラウガ様に反抗する奴等は皆,殺した。ほぼ計画通りだ」

「ああ。そっか・・・」

 この火事に乗じて邪魔な奴等を始末する。そしてこの火事をラージニアとの戦の火種にする。

 もうずっと前から聞かされていた計画だ。

 全てがラウガ様の思い通りになっているというのに,リャオは今までのような喜びを感じることができなかった。

「だけどな,ラウガ様の姿がどこにも見えないんだ。まさかまだ,城の中にいるんじゃ・・・」

 その言葉ではじめて,リャオははっと我に返る。

「ラウガ様がいらっしゃらない・・・?」

「ああ。今,シャンズルやクッシェが捜してるが,ラウガ様の身にもしものことがあったら・・・」

 ダルタンの声はもう耳に入らなかった。リャオは燃えさかる城を見上げる。

(あの中にまだ,ラウガ様が)

 リャオは城にむかって走り出した。身体が勝手に動いたのだ。

「おい,リャオ!」

 ラウガ様は,俺が助けなくては。

 リャオは止めに入る人々を押し切って,炎の中へと消えていった。




 ラウガは片足をひきずりながら客室に足を踏み入れた。扉の隙間から入った煙が部屋に充満し,焦げ臭い臭いと熱気がラウガを包んだ。

(ここは,ルトを閉じ込めていた部屋だ・・・)

 床に落ちているのは,ルトに書かせた物語だ。最後まで思い通りにいかなかった親子を思い出し,一瞬苛立ちがこみあげる。

(まあ,いい。あの親子の絵本がなくても,国民達のラージニアへの憎しみをあおる方法はいくらでもある)

 あの親子を始末できただけで十分だ。

 とにかく今はハミルを殺し,自分もここから逃げなくては。

 ラウガは舌打ちする。予定では,こんなに火がまわる前にこの城を脱出できるはずだったのだ。まさか,ハミルにあんなに手こずり,怪我まで負わせられるとは思わなかった。

(こんなところで,死ぬわけにはいかない。ようやくこれからなのだ)

 とにかく誰かと合流しなくては――そう思った時だった。ラウガは床に倒れている人影を見とめ,ぎょっとした。

 床にぐったりと倒れているのはあのルシカという少年だった。

(馬鹿な,なぜここにこいつが・・・)

 そしてゆっくりと顔をあげたラウガの目にあるものが映った。


――シオン


 そこにあったのは,全てが赤い絵だった。壁一面に真っ赤な絵が描かれている。

 それは少年のうしろ姿だった。少年の見ている先には木々が生い茂る森がある。少年がこちらに背を向けて,深い森を見つめている。ただそれだけの絵だった。

 だがラウガには,少年はその森のむこうにある何かを見ているような気がした。

 血でかかれたのであろう真っ赤なその絵をラウガは呆然と見つめていた。

 あの赤い森の向こうに何かがある。ラウガは少し目をこらした。そのとたん,ラウガの中に何かが波のように押し寄せてきた。


 嬉しい。寂しい。幸せ。悲しい。


 それは,とても受け止めきれないほどの人間の感情だった。


 好き。憎い。楽しい。つらい。恋しい。


 喜び,哀しみ,様々な色をした感情がラウガの中に流れ込んでくる。


 苦しい。痛い。助けて。


 絵の中の木々が揺れ,ラウガに訴えかける。ラウガが殺してきた数多の命の呪詛のようにも聞こえた。


 生きたい。生きたい。生きたい。


 ラウガは一歩後ずさる。たかが絵だ――そう思っても,なぜかラウガは絵から目をそらすことができなかった。


 シオン


 木々の向こうから,あふれせめぎあう感情の中から,誰かが自分の本当の名を呼んでいる。

(誰だ?)


 シオン,あなたを愛している


 母さん?父さん?


 絵の中の少年がゆっくりとふり返る。それは幼い頃の自分だった。

 泣いている。涙を流しながらこちらを見つめている。

 ラウガはたじろいだ。


 俺はたくさんのものを奪われた。だから俺もたくさんのものを奪ってやろうと思った。

 復讐を果たすためなら,どれだけの人間が死んでも構わない。

 そう思っていた。

 

 なのに,あと少しで自分の望みが叶うというのに,なぜお前は・・・俺は,泣いている?


 その時だった。

 窓の方で音がし,ラウガはようやく絵から目をはなしてそちらを見た。血まみれで全身ぼろぼろのハミルがそこに立っていた。苦しそうにあえぎながら,剣を握りしめこちらを睨みつけている。

「ハミル・・・」

 ラウガは目をみはった。あの出血で,上の階から飛び降りたというのか?

 よく見ると,ハミルの胸から腹にかけて,凄惨な火傷の痕があった。ラウガは思わず息をのむ。

(自分の身体を焼いて,止血したのか)

 自身の身体を焼くなど,簡単にできることではない。そこまでして,俺を殺したいのか――いや,国を守りたいのか。ハミルの姿が,拷問にかけられてなお息子を守ろうとしたルトに重なった。

 どうしてどいつもこいつも,何かを守ろうとそこまで必死になるのだろう。

 ハミルは剣をかまえ,こちらに向かってくる。

 自分は守るものなど何もなかった。誰かから何かを奪うことしか考えていなかった。

 剣が深々とラウガの胸に突き刺さる。

 

 俺は,自分から人間であることを捨てたのだ。


 剣を抜くと,ラウガはゆっくりと崩れ落ちる。ハミルは荒い息をしながら彼を見下ろした。

「・・・どうしてよけなかった?」

 思わずそんな言葉が出た。片足しか使えなくても,ラウガなら今の攻撃を簡単に避けることができたはずだ。

 ラウガは床に這いつくばりながらも,小さく笑みを浮かべた。

「なんでだろうな・・・」

 ラウガはゆっくりと顔をあげる。若き当主がこちらを見下げている。あの男達にも,こうして見下され,虐げられてきた,

 苦しみ,悲しみ,泣いてわめいた。あの時の自分は確かに「人間」だった。いつの間にこんな,人を傷つけ殺すことをいとわない,化け物になってしまったのだろう。

「お前の勝ちだな」

 ラウガはひゅうひゅうと喉を鳴らし咳き込んで血を吐いた。

 あたりはもう火に包まれていた。

 早く逃げなくてはならない。頭ではわかっていても,ハミルはその場を動けずにいた。床に倒れた男が,とても小さく哀れな少年に見えたのだ。

「心配しなくても,俺はもう死ぬだけだ・・・。――はやく行け」

 そう言われ,ようやくハミルは動き出す。と,もう一人床に倒れている少年が目にとまる。

(この子は・・・)

 いつか,三の区印刷場で会った少年だった。

(ルトさんの,子ども・・・?)

 とっさに首筋に手をあて脈を確かめると,かすかだがゆっくりと脈打っている。

(まだ生きている・・・!)

 ハミルはなんとか少年をかかえあげ,炎の中を歩き出した。

 部屋を出る前,ハミルが最後にラウガを見た。血だまりの中で,床に横たわったまま全く動かない。

 ハミルはどこか後ろ髪ひかれる思いを抱きながらも,きっぱりと前を見,部屋を出た。


 炎の中を,ハミルは必死に進み続けた。だが,見知らぬ城の中ではどこに何があるのかさっぱりわからない。

(とりあえず,階段を見つけないと・・・)

 身体は石のように重く,腹の傷が激しく痛み出す。正直もう立っているのが限界だった。この少年もいつまで保つかわからない。

 ハミルは苦痛に顔を歪める。首にかかった王の証をやけに重く感じた。

(こんなところで死ぬわけにはいかない。僕はこの国の王として生きていくんだ・・・)

 その時,目の前・・・煙の中にぼんやりと人影が見えた。ハミルはとっさに立ち止まる。

 そこに立っていたのは,茶髪に赤い瞳をもつ美しい少年だった。

(この子は確か・・・この少年と一緒に旅していた子だ)


 リャオは目を見開いたまま立ちつくしていた。

今,目の前にいるのはクリスタイン家の当主・・・ハミルだ。ラウガに命じられ,暗殺を試みたが,失敗したことがある。だが,彼のことよりも,彼にかかえられている少年の方に目がくぎづけになっていた。

「ルシカ・・・」

 リャオは呆然とその名を呼び,こちらを見つめているハミルに問いかけた。

「ルシカは,生きているんですか?」

 ハミルは一瞬虚をつかれた表情になったが,うなずいた。

「ああ。まだ息がある。だが,すぐに手当てしないと・・・」

 その言葉を聞き,リャオの胸に抑えようのない安堵感が広がった。

 ルシカは,まだ生きている。

 ラウガの望みを叶えるために,ルシカの死を望み,この手にかけたというのに。

 リャオの中にはルシカが生きているということに対する喜びがあふれていた。

「君は・・・」

「この廊下の奥に,階段があります」

 ハミルの言葉をさえぎって,リャオは言った。

「そこはまだ,それほど火はまわっていません。そこから逃げてください」

 それだけ告げて,リャオは唖然としているハミルの横を通り過ぎようとする。

「待って」

 ハミルに呼び止められ,リャオはふり返った。

「君は,この子の友達だろう?一緒に逃げよう」

 その言葉に,リャオは胸をつかれた。

(そうか,この人は,僕がラウガ様の手下であることを知らないのか)

――君は,この子の友達だろう?

 リャオの中で,ずっとおさえつけられていた何かがゆっくりと溢れ出す。

(ああ)


 この少年の隣に,確かに自分はいた。


――旅をするなら,俺と一緒に行かないか?

――僕も,同じことを言おうと思って,戻ってきたんだ

(そうだ,僕は)

 せめぎあい,リャオを苦しめていた二つの想いが静かに交わり,溶け合っていく。


 ラウガ様に従い,ともに生きていきたい。

 ルシカと一緒に生きていきたい。

 

 その想いが二つとも,まぎれもない自分の気持ちなのだと気づいたとき,リャオは泣きそうになった。

「・・・はい」

 リャオははっきりとうなずいた。

「僕は,ルシカの友達です」

 自分はこの少年とともに多くの時を過ごした。ラウガの下部でいては決して見ることのなかったたくさんのものを見,多くのことを経験した。

「でも僕は,一緒に逃げることはできません」

 リャオは涙声でそう言い,すぐにきびすを返して走り出した。

 本来なら,今ここでハミルもルシカも殺さなくてはならなかった。

 でも,もうそんなことはできない。

 自分はもう,ラウガに全てを捧げ人をも殺すような,あの頃の自分には戻れない。

 必死に生きている人々を,世界を知ってしまった。

 ラウガ以外に,自分を受けとめてくれる大切な人ができてしまった。

 自分がもう,償いきれないような過ちをおかしたことに気づいてしまったのだ。

(僕はもう,ルシカと顔を合わせることはできない)

 彼の父を殺し,彼をも深く傷つけた。それだけじゃない。自分の手はすでに多くの人の血で汚れているのだ。

 ラウガに盲目的に従い,幾人もの命を奪ってきた。

 自分はもう,ルシカとともに生きていくことはできない。

 自分がやるべきことは,あと一つしかない。




 ラウガは炎の中で,苦しげに息をしながらぼんやりと赤い絵を見つめていた。傷口から血がとめどなく流れている。

(出血が多くて死ぬか,火につつまれて焼け死ぬか・・・どちらかだな)

 どこか人ごとのように思いながらラウガは顔を歪めた。身体中が痛い。身体が傷つく痛みを嫌と言うほど知っていたはずなのに,いつの間にかその苦痛を忘れていた。

 絵の中の少年はこちらに背を向けたまま森を見つめている。少年は森の中にある何を見つめているのだろう。

 森の風景が,遠い故郷の村と重なる。家族や友達とともに幸せに暮らしていた日々。

 あの優しく温かい場所から,なんて遠いところまで来てしまったのだろう。

(・・・まあ,どうでもいい。どうせもう死ぬのだから・・・)

 自分はあの森で,父や母とともに殺されるべきだった。そうすれば多くの人を傷つけ殺すこともなかった。生きながらえた自分は,痛めつけられ辱められ,ラージニアを,人間を憎みながら傷つけ殺すだけの日々を過ごしたのだ。

 ラウガが目を閉じたとき,ふと人の気配を感じた。

「ラウガ様!」

 ラウガはゆっくりとそちらを見,わずかに目を見はる。煙の中に立っていたのはリャオだった。

「リャ,オ・・・?」

 もうあまり声が出なかった。リャオは泣いたような笑ったような,今まで見せたことのない柔らかな表情をしていた。

「ラウガ様」

 リャオはふらふらとラウガのもとに来て,かたわらに座りこむ。無意識のうちに身体が和らぐのをラウガは感じた。思えば,十年近く,この少年はいつも自分のそばにいた。

「・・・負けたよ,リャオ」

 ラウガが静かにつぶやくと,リャオは小さくうなずいた。

「お前は,早く逃げろ」

 そう言うと,リャオは微笑んで首を横に振る。

 その反応に,ラウガはさほど驚かなかった。リャオなら,主である自分を失って生きるよりも,ともに死ぬ道を選ぶであろう。そういう風に彼を育てたのは自分だ。

 どうして自分は,この少年は助けたのだろう。暗い場所でたった独り,うずくまっていた彼を,自分の姿と重ねでもしたのだろうか。

 だが,結果的にこの少年も自分が生み出した深い闇の中にまきこんでしまった。

「お前に人殺しを教え,多くの者をその手にかけさせた」

 ラウガ様――といつも嬉しそうに自分の名をよんでいた少年。自分がラージニアやあの男たちに人生を狂わされたように,自分も彼の人生を狂わせたのだ。

「・・・私を恨め,リャオ」

 リャオが驚いたようにラウガを見た。

「私は,お前に恨まれるべきなんだ」

 ともに死ぬというのならせめて,自分を恨みながら死んでほしい。ラウガはそう思った。

 リャオはしばし呆然とラウガを見つめていたが,小さく微笑む。

「僕は,あなたを恨みません」

 リャオの目には涙がたまっていた。

 彼の泣いている姿を見るなんて,出会ったとき以来だった。

「・・・ラウガ様。僕は,初めて友達ができました。一緒に生きていきたいと思えるような大切な人が」

 赤い瞳から涙がこぼれる。どうして彼は泣いているのだろう。

「その人とともに,楽しいことも悲しいこともたくさん経験しました。笑い幸せな時を過ごすことができました。・・・それは全て,あの日ラウガ様が僕を助けてくれたからです」

 リャオの澄んだ声が,ラウガの耳に響く。

「僕は,たくさんの人を傷つけてきました。それは,僕が死んだくらいじゃ償いきれないほどの罪だと思います。・・・だけど」

 リャオの顔に晴れやかな笑みが浮かぶ。この少年は,こんな風に笑っただろうか。

「それでも僕は,あなたに生かされたこの十年を,過ごせてよかったです。許されないことだとしても,僕はあなたのそばで,あなたに仕えた時間を幸せだったと,思ってしまうんです」

 炎が,赤くリャオの顔を照らしている。

「だから,僕はラウガ様のことを恨むことはできません」

 ラウガは泣きながらそう語る少年から,目がはなせなかった。胸に,温かいような,ぬるま湯のような,ラウガの知らない感情が満ちていく。

「・・・そうか」

 ラウガはゆっくりと目を閉じる。

「リャオ」

「なんですか?」

 身体の痛みが,少しずつ和らいでいく。リャオの顔が,燃えさかる天井が,少しずつ薄らいでいく。ラウガは自分の最期を悟った。

「“ラウガ”は俺の本当の名ではないんだ」

 大切な何かとともに,遠いところに置いてきてしまった。父と母が自分につけてくれた,本当の名前。

「俺の,名は――」



 男が静かに眠りにつくのを,リャオはただ見つめていた。その胸に,涙に濡れた顔を押しつける。

「すぐに,あなたのところに行きます」

 リャオは顔をあげる。壁に描かれた赤い絵が目にうつった。

「・・・ルシカ」

 彼の絵を,久しぶりに見た気がする。瞼の裏に,紙綴り(クロッサ)にむかって幸せそうに絵を描いていたルシカの姿が浮かんだ。

「ごめんな,ルシカ・・・」

 炎がいっそう激しく燃え上がり,まるで親子のように寄り添いあう二つの影を包み込んだ。

 最期の瞬間,リャオは絵の中の少年がふり返り,ほほえみかけてくれたような気がした。それは,自分の姿だろうか。それとも,ルシカだろうか。

 リャオはゆっくりと目を閉じる。


――リャオ,もし記憶が戻らないときは,俺の家に来なよ。森での暮らしは楽しいんだ

――ルシカのお父さんが物語を書いて,ルシカが絵を描いて,僕は何をすればいいんだ?

――ええ・・・。なんだろう・・・。部屋の片付けかな。俺も父さんも,絵本作りに夢中になると散らかしっぱなしにしちゃうから



 そんな優しい未来は訪れなかった。

 それでも,リャオはルシカと自分が楽しそうに笑い合う声を聞いた気がした。

「・・・ありがとう」


 僕は,この人とともに死んでいく道を選んだ。

 だけど,ルシカ。僕は許されるなら,君とも一緒に生きてみたかった。

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