間章

井戸の話

 学校の裏手には山があって、山の中腹あたりにポツンと井戸がある。

 昔は誰かが住んでいたのかもしれないけれど、今はもうそこら中を樹やつたが時間と共に覆い尽くして、家があったことすらわからない。

 ただ、枯れた井戸だけがある。

 学校の近くだから、近寄った子供が落ちたりしたら危ないということで、井戸だって撤去されてもおかしくないのだけれど、なくならない。

 この街のみんながみんな、井戸のことを知っている。

 井戸についてこんなうわさがある。

 ある男が、人を殺した。

 埋めようと山まで死体を担いで行ったが、山を登っている途中で疲れてしまった。

 暗い夜だ。

 人は、疲れると色んなことがどうでもよくなる。

 人を殺すのは疲れるし、死体を片付けるのはもっと疲れる。

 男は衝動的に近くにあった井戸に死体を投げ落とした。

 すっとした。

 そして帰って眠り、次の日の朝に目が覚めて、自分がとんでもないことをしたことに気が付いた。

 男は再び山へ向かった。

 自分が今、どういう気持ちなのかもわからなかった。

 自首するべきなのか、死体をもう一度隠すのか決めかねたまま、ただ死体を見に行った。見てから決めようと思った。

 しかし、死体はなかった。

 井戸を覗き込んでも、ただ暗がりがぽっかりと口を開けているのみ。

 ライトで照らしても、朽ちかけた縄で底まで下りてみても、死体の髪の毛一本落ちていなかった。

 男は自分の正気を疑った。

 夢でも見ていたのかと。しかし、人を殺した感触はあまりにもリアルに手にこびりついていた。

 結局、男は自首をした。

 けれど、死体がどこにも見つからず、被害者はただ行方不明になったということで、男は警察からまともに相手をされなかったそうだ。

 そんな話に尾ひれがついたものが、この街のみんなの中に浸透している。

 ――人喰い井戸。

 信じている人もいれば、ただのうわさだと言い切る人もいる。

 僕は、それが本当のことだと知っている。


 僕は、父が母を殺したのを見た。

 父が母を井戸に捨てるのを見た。

 次の日、僕は井戸の底を見た。

 そこには何もなかった。

 だから、僕はうわさが本当だというのを知っていた。

 父を殺したとき、僕は人喰い井戸のことを思い出したのだった。

 父はいつも母に暴力を振るっていて、母はその暴力が僕に向かわないようにかばってくれていた。

 けれど、かばうのにも限界があることを母は知っていた。

「後ろから刺すのよ」

 母は弱者が強者に勝つ方法を教えてくれた。

 それは母にはできないことだった。

 曲がりなりにも一度は父を愛してしまっていたから。

 もっとも、僕にはそんなことは関係なかった。

 僕は刺せる側の人間だった。

 部屋にブルーシートを敷いておいて、後ろから包丁で腎臓を刺した。

 倒れたところを、肋骨に邪魔されないように刃を寝かして、心臓を刺した。

 簡単だった。

 学校には居場所がなかった。

 家に帰れば父に殴られた。

 僕には安全な場所が必要だった。

 辛いことから逃げるのに必死で、父を殺してからようやく、自分が何をしたのかに気付いた。

 そして、この世のどこにも、自分のために用意された安全な場所などないということを悟った。

 安全な場所は自分で開拓しなければならない。

 変化には痛みがともなう。外に出るためには危険がともなう。

 僕は自分を投げ出すことにした。結果的に、だけど。

 僕は自分が何をしているのかわかっていないようでいて、最善手を選んでもいた。

 父を殺して、その死体を処分する前提で動いていたのだ。

 ブルーシートから血がこぼれないようにした。

 死体になった父は、ただの物だった。

 冬だったせいで虫は寄ってこなかったけれど、固まった血とこぼれた内臓のにおいが不快だった。

 刺した時の返り血で服は汚れたので、処分しなければならない。ゴミ捨て場に出したらカラスが袋を漁って見つかるかもしれないから、焼かなくては。

 僕は裸になって、YouTubeで鳥やシカを解体するジビエ料理の動画を見た。父を解体する参考にするために。

 僕は子供で、非力だけれど、道具があれば大人ひとりをただの物に変えてしまうことができた。バラバラにして小さくまとめることもできるはずだと考えた。

 包丁で筋肉や腱を断って、骨はなるべく直接手を付けるのではなく、関節を壊すようにして分割する。手羽先を綺麗に食べる動画が役に立った。

 それでも足や胴体は大きすぎるので、糸鋸いとのこで時間をかけて切断した。

 死体を解体し終えるころには空が白んでいた。

 身体がくたくたで、指には力が入らなくなっていた。けれど、僕は勃起していた。

 痛いくらいに血が性器に集まっていた。

 達成感があった。

 解体する過程で露出した心臓を少しだけ切り取って、口に含むと、血のにおいでむせそうになった。

 けれど、同時にとても甘く感じた。

 今まで僕を、母を、屈服させてきた父のことを完全に乗り越えたのだとわかった。

 僕は生まれて初めて射精していた。


 僕はお風呂に入って丹念に全身を洗ってから、普段と同じように学校に行った。

 学校では誰も僕を必要としていない。

 僕も誰も必要としていない。何の期待もない。

 空気の中に漂っている微生物のように、誰も僕が生きていることを気にしない。教師も、クラスメートも。

 それはもう、死んでいるのと同じじゃないか。

 ずっとそう感じていて、辛かった。

 誰かに自分が生きていることを肯定されたかった。

 ただ、今日はそのおかげで助かった。

 ランドセルの中には父の死体の一片が入っていた。

 細かく分割した死体のうちのひとつを、ビニール袋に密封して、その上から中身が見えないように紙袋で包んだ。

 残りは冷蔵庫にしまってある。

 学校が終わってから、裏手の井戸に行った。

 人喰いの井戸だ。

 井戸の暗がりに向かって、死体が入った袋を投げ入れた。

 井戸の底に袋が落ちる音がするはずが、何の音もしなくて、僕は背筋がうすら寒くなって、逃げるようにして家に帰った。

 次の日も同じように学校に死体を持って行った。

 どこか浮き浮きするような気持ちがあった。

 父が母を殺した時は、人喰いの井戸は死体を消してくれた。今回はどうなのか。

 もし、井戸の底に死体が残ったままでも、僕は構わないような気がしていた。

 父を殺したという事実それ自体が、僕がこの世に存在した証明になる。

 果たして、井戸の底をのぞき込むと、昨日捨てたはずの死体の包みはどこにもなかった。

 ただぽっかりと暗闇が口を開けている。

 ここには誰も来ないことを、僕は知っている。

 みんなただの噂だってことにしようとしているけれど、心の底では井戸を怖がっているのだ。

 だから僕は、安心して死体を捨てている。

 なのに、どこからともなく視線を感じた。

 同級生や教師、浮浪者といった類ではない。そのどれでもない。

 もっと大きな力を持っていて、僕なんか一瞬で殺せるような、しいて言うならば大きな獣のようなものにじっと観察されているような気がした。

 寒いはずなのに、額から汗が垂れた。

 落ちた汗が、音もなく井戸の底に飲み込まれていった。

 動けない。

 動いたら喰われる。何か、僕を見ている何かに。

 暗闇と目が合った気がした。

 無理やり指を引きはがすように、死体が入った包みを暗闇に放った。

 すると、獣の気配がほんの少しやわらいだように感じた。

 僕は井戸の前からすぐに逃げ出した。

 恐ろしくて、心臓がドキドキしていた。

 井戸の暗闇は、死体だけじゃなくて僕まで喰い尽くそうとしている。

 走っている間ずっと、頭の中でぐるぐると色んな考えが巡った。

 恐ろしい。

 恐ろしいけれど、このドキドキはそれだけじゃない。

 僕は小学生で、力がなくて、考えを言葉にまとめることができない。

 自分を突き動かす衝動の正体をまだ僕は理解できずにいたけれど、明日からも井戸に死体を捨てに来ようと思った。


 一ヵ月半ほど、学校に死体の包みを持って行って、帰りに井戸に捨てるのを繰り返した。

 その間に部屋を掃除して、ブルーシートや痕跡になりそうなものはなるべく処分した。

 父は母が死んでからも母の服や私物を取っておいていたが、掃除ついでに片づけた。

 そうすると、同じく死んでしまった父の私物もいらない気がして、捨てた。

 僕を圧迫するものが減って、少しだけ気分が良くなった。

 僕は両親にずっと抑えつけられて生きてきたんだ、と思った。

 けれど、保護者がいなくなると、いずれ生活が行き詰まるのは僕みたいな子供にも、いや、僕のような子供にだからこそわかった。

 父が死んだことを探られると困る。

 ただ失踪した扱いになっても、僕はどこかの施設や親戚、義理の保護者の元に送られるだろう。

 僕は父に殺されたくはなかった。しかし、環境を大きく変えることも望んでいなかった。

 それが良い変化であっても、環境が変わるのはストレスだ。

 どうせ変化が避けられないのなら――僕は自分の私物も捨てていった。

 と言っても、父が僕に大したものをこれまでほとんど買い与えなかったせいで、私物は主に服や、学校で必要になったものばかりだった。

 それを最小限にしていく。

 食器も、数個だけ残してあとは全部ゴミに出す。

 アパートの部屋から色がなくなって、廃墟の中に僕という抜け殻が転がっているような生活がしばらく続いた。

 僕の心はそのことに対して、何も動かなかった。

 自分が哀れだとも思わなかった。

 ただ、僕はそういう人間なのだと思った。

 学校や周囲の人間は、僕の変化に気が付かなかった。

 擬態が完全に上手くいっていると言えたし、誰からも僕が必要とされてない証拠だとも言えた。

 構わない。

 僕は父の死体の最後のパーツである、頭部の上半分が入った包みを持って、家を出た。


 井戸の底の闇を見ている。

 闇が僕を見ている。

 僕はランドセルから包みを取り出した。

 この一ヵ月半ですっかり手慣れた仕草だった。しかし、これも今日で最後だ。

「それが最後か」

 うしろから声をかけられた。

 どっと全身の毛穴からねばい汗が噴き出た。

 今までずっと僕を観察していたのはこの声の主だとわかった。

 しゃがれた女の声だった。

 井戸の底の獣。

 声を聞いて初めて、獣が傷ついていることがわかった。

 けれど、僕を殺すことなど造作もないほどの力にあふれている。

「振り向け」

 獣は僕に命じた。

 逆らえない。

 獣は夕焼けを背に立っていた。

 僕はまぶしくて目を細めた。

 その瞬間、喉を虚無がなでたとしか言いようがない、不思議な感触がした。

 殺すのなら今、この瞬間にやったということだったのだろう。

 獣は僕のような子供相手にも全く油断をしていない。

 太陽を背に、奇襲をすることを考えて声をかけたのだ。

 何て恐ろしいんだろう。

 まぶしさにゆっくりと目が慣れて、見えたのは背の高い女の姿だった。

 僕が今まで会ったどの大人よりも大きい。

 墨染めの旅衣たびごろもは、あちこちが擦り切れて灰色になっている。

 上背が高いだけではなく、全身にまんべんなくワイヤーを束ねたような筋肉がまとわりついている。

 そして、左腕が肘の先から欠損していた。

 肘の先に巻かれた包帯にはまだ血がにじんでいて、痛々しい。

 異様な女だった。

 傷ついている。

 薄汚れている。

 それでいてなお、強く、美しい獣だった。

「お前が捨てていたのは、誰だ。やくざの使い走りでもしていたのか」

 何故か僕はとっさに反駁はんばくした。

「違う。これは、父で、僕が殺した。他の誰かにやれなんて言われてない。僕が殺したかったから殺して、捨てたんだ」

 死体の証拠隠滅をしているのだから、そんなことは言わない方がよかったはずだ。

 けれど、僕は正しい判断に従わなかった。

 きっと僕はおかしくなっている。

 いや、おかしいから父を殺したのか? 僕にはもうわからない。

「面白いな」

 ちっとも面白くなさそうな顔で獣は言った。

「僕が、死体を捨ててるのをずっと見ていたのは、あなたか。警察にでも言うつもりか」

 内心で違うだろうな、と既にわかっている問いを放つ。

「しばらくここの井戸をねぐらにしていたら、死体の入った袋が落ちてきた。腹が減っていたから助かった」

 喰ったんだ。

 すぐにわかった。

 この獣は、僕が捨てた死体を喰っていた。

 人が人を喰うことへの、倫理的な拒絶感はなかった。

 この女は獣だ。

 獣が肉を喰らうのは当たり前だ。

 僕が殺した父の死体を、獣はすっかり自分の血肉にしてしまった。

 人喰いの井戸そのものが目の前に立っている。

「食わせてもらってばかりでは悪いから、殺さずにいてやろう」

 勝手な言い分だった。

 勝手に肉を喰って、殺さないと勝手に宣言して、僕に恩を着せた気になっている。

 けれど、それほどに力の差があるのがわかった。

 強いということは、それだけで弱いものを踏みにじる。

 そういう権利があるとかの話じゃない。

 台風は存在するだけで色んなものを巻き込んで破壊してしまうのだ。

 獣は、生き物は、生きてるだけで命を食べる。

 ならば、今、その対象に選ばれなかっただけで感謝するべきなのかもしれない。

「待ってよ」

 だが、僕はもうまともじゃない。

 僕は狂っていた。

「何だ」

「あなたは、強いんでしょ」

「強い」

 獣は欠けた左腕をさすった。

「私は、強い」

 確かめるように獣は言った。

 失われたものと、これから失うものを見すえるような視線。

「だったら僕を鍛えてくれ、ください」

「何故?」

「僕は誰にも殺されたくない。親や学校や、社会や、他人や、制度や、何でもいい、僕は僕を殺そうとするやつに我慢がならないんだ。殺される前に殺すための力が欲しい」

「私が聞いたのは、何故私がそんなことをしなければいけないか、ということだが」

「あんたは僕の肉を喰っただろう! あれは僕の肉だ!」

 僕は吼えていた。

 喉が裂けて、鉄の味が口に広がった。

「捨てたんじゃなかったのか」

「捨てたって、僕の父の肉というのは変わらない」

 ほう、と獣は感心したように息を吐いた。

「私にほどこしをしたつもりか。何なら力ずくで奪ったことにしてもいい」

「やってみろ」

 僕は精一杯のファイティングポーズを構えた。

 獣はそんな子供の涙ぐましい努力をまるっきり意に介さず、不吉が人にたどり着く速度で僕の首をつかんで持ち上げた。

 頸動脈が絞められ、一瞬で意識が朦朧もうろうとしてくる。

「まだだ」

 僕は獣の顔を蹴った。

 獣はなでられた程度にも感じていない様子だった。

「まだ、終わりじゃない」

 初めて獣が、わずかに表情を変えた。

 視界が暗くなりつつある僕には、それがどういう意味だったのかはわからない。

「才能があるな」

 獣は手を離した。

 急に脳に酸素が戻ってくる。

「人殺しの才能だ」

「鍛えてくれるんですか」

 息ができる今ならわかる――獣が僕ごときの首を折ろうとしたのなら、痛みを感じる時間すらなかっただろう。

「私の名前は、片桐忌名」

 獣――片桐忌名はそれだけを言うと、きびすを返した。


 僕と片桐忌名は街を出た。

 忌名はもとより、誰も僕のことを探さなかった。

 今はそのことがもう辛くはない。

 ただ、そうか、と思うだけだ。

 あとで聞いた話だけれど、忌名が井戸に住むようになったのは僕が父を殺す半月ほど前からのようで、父が捨てた母の死体に心当たりはなかったらしい。

 そうすると、忌名がいなくてもあそこに捨てた死体は勝手になくなっていたのかもしれない。


 あの街には、まだ井戸がある。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

悪魔のグルメ 伏見彦人 @u_sobuki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ