第11話 スペクター


   *


 嵐は止み、瓦礫や木片、その他諸々の少し前までは価値だった物たちが海に浮かんでいた。

 僕はゆったりと凪ぎつつある水面の上に立って、船の残骸を見渡した。

 あの不愉快な不老不死をばらまき、長大な触手で魂を収穫していたの存在は、もうどこにも感じられなかった。形代かたしろにしていた船がバラバラになってしまったので、海の深くに潜っていったのだろう。

 ゲームは複雑で儀式めいたものであり、あの触手の目的が本当に魂を選別することだったのかどうかについては疑問が残るけれど、そもそもちっぽけな人間上がりの悪魔が推し量れるようなものではないのかもしれない。ただ、あんなものが認識出来ないだけでそこら中にいることや、またちょうどいい船を見つけて浮かび上がってくることを考えると、憂鬱にならざるを得なかった。

 一万人を乗せられる超豪華客船アデライードも、ただの爆弾の前に簡単に吹き飛ばされてしまった。どれだけ慎重かつ繊細に価値を積み上げても、つまらない理不尽な暴力がすべてを失墜させてしまう。これから僕たちが何をやっても、大きな時間の流れの中では無意味なのではないか?

「ねえ、どう思う?」

「……何の話よ」

 僕は溺れかけていた姫香を引き上げて、焼け残ったドアの破片につかまらせてやった。車椅子は爆風の中でどこかに行き、愛の守りも効果を果たし切ったことで既に失われている。しかし、その結果として姫香は生きている。それはきっと良いことだ。僕は、そう思いたい。

「不安に振り回されて憂鬱になることを繰り返している内に、不安になるんじゃないかってことでまた不安になりそうって話」

「アンタ病気よ、心の。ゆっくり休むべきだわ。温泉にでも行きなさい」

「豪華客船でゆっくり休むつもりだったんだよ。灰川のせいでメチャクチャになったけど」

「そんな奴とは縁を切りなさい」

「まあ、普通そうなるよね」

 姫香の中にある火は、当分は消えることがないようだった。仮に燃え尽きてしまったとしても、灰がまた新しい何かを育む糧となる。

 彼女を突き動かすものが理不尽によって奪われなかったのならば、今回僕がしたことにも意味があったということだし、それはきっと別の何かに繋がっていくのだから、僕はまだ大丈夫なのだ。

 その内きっと、次の次のそのまた次の何かのために頑張ることに虚しくなることもあるだろうけど、今はまだ姫香の涙の味を覚えていられる。

 ふいに、炎から逃れたトランプが一枚、潮風にあおられて手元に落ちてきた。

 スペードのエース――必殺の刺客。

 水面に立つ僕の足が、何かにつかまれた。

「まだ、終わりじゃない」

 片桐忌名――ずぶ濡れの消し炭のような姿。左腕は肘の先で途切れ、輪郭が奇妙になっている。釘を打ち込まれた前腕を切り離すことを思いついたのは、僕が目の前で自切するのを見せてしまったからだろう。

 となると、槍を包んでいた布はただの襤褸布ぼろきれではなく、耐火布だったか。周到すぎてムカつくとしか言いようがない。

「まだ私は負けていない。腕を取られただけだ。腹をえぐられただけだ。身体を焼かれただけだ。まだ何も、何も終わってないぞ」

 姫香は何だかんだで素直なので、忌名の威圧に呑まれて言葉を失っている。だが、僕はやっぱりそこまで性格がよろしくないのだ。

「いいや、終わりだよ。おたくがどう思っていようと関係ない。何故なら、勝負を決められるのは勝った者だけで、それは僕だ」

「私にはお前の魂が、ちびた蝋燭みたいに見えるぞ」

 忌名は僕を殺せると言っているのだった。けれど、それは決着がついたかどうかとは別の話だ。

「充分だよ。槍のないおたくに何が出来る? 殺し屋をやめて大道芸人にでもなるつもりだったのか」

「そう言うわりに、まだ私を殺してない。死んでない限り、終わりじゃあない。私は諦めない。諦めた心には、折り目がつく。折れた心は、どうでもいいことばかり求めるようになる。次に来る痛みを和らげることばかりを期待して! 私は絶対に諦めないぞ!」

「おたくだってわかってるだろう。人はどうでもいいことに本気になれないんだ。そして、正解し続ければ成功出来るというのも、思い込みだ。ほんのわずかの『少しマシ』を積み重ねたって、おたくは百年ももたずに死ぬ。死んで誰からも忘れられる。どこにもたどり着けない。ただの人間だからね」

「お前に何がわかる。人じゃないくせに」

 その通り。だからこそなおさら、やりたくないことはとことんまで出来ない。こいつのことはここで殺しておくべきだと頭ではわかっているが、悪魔の心は「~すべき」なんて言葉じゃあ動かない。

「おたくなんてどうでもいい。強くなりたいとか興味ないし。負けてないとか言ってるけど、どう見ても負けだよ、負け! 僕の中ではもう終わってるんだって! 闘う理由すらない。もし今から姫香や灰川、僕の家族を殺したとしても、それはまた別のことだ。今の負けがなくなるわけじゃあない。障害年金でももらって余生を過ごせ。えーと、片桐ナントカさん?」

 女は、焦げ付いた顔を激しく歪めた。

「……覚えておけ」

 そう言うと、女は再び海に潜った。全身火傷で腕を失ったまま泳いで無事でいられるとは思えなかったが、不思議と死なないのではないかという気もした。

 どちらにしても、僕にとってはもうどうでもいいことだった。

「忘れた」

 僕がこぼした言葉は、さざ波があっけなくさらっていった。

「アンタ、やっぱりどうかしてるわ。敵なんでしょ? どうして許したのよ」

「許すとか許さないとか、そういう話じゃあないんだ。死ぬべきかどうかなんてのも、個人が決めていい領分じゃない。僕はただ何となくテンションが上がらなかったし、あいつに嫌がらせがしたくなった。だから、した。それだけのことだよ」

「それだけ? それだけで済ませていいことだなんて、本気で思ってるワケ?」

「しょうがないだろう。本当にどうでもよくなってしまったんだから」

 僕は指先でトランプを弾いた。

 僕は本当に心の底から大切に思っていたものでも、一瞬で飽きて捨ててしまうことが出来るのだった。虚しさとのチキンレースを誇るつもりもない。

「あのね、本当の豊かさってのは、したい時にしたいことを出来ることなんだ。金は社会の中でそれを手助けする道具ってだけでね。君にもわかりやすいように教えてやると、世界有数の大金持ちたちが必死こいて雇うようなスターを袖にしたわけでね。これってかなり贅沢なことじゃないか? この豪華客船に乗ってた誰よりも、今の僕の方がリッチだぜ。何せ生きてるしな」

 姫香は僕の冗談には耳を貸さなかった。

「忌名……あの人は絶対にまたアンタの前に現れるわよ。火の中で失われたものは、灰の中でしか見つからないことを知ってる。そして彼女は絶対に諦めない。いいえ、普通の人なら簡単に出来る、ただほんの少し妥協するということがどうしても出来ないんだわ」

「あっそ。随分と殺し屋なんかに肩入れするんだな。ストックホルム症候群か? もしかして君、僕じゃなくて忌名に助けられたと思ってる?」

「私にわかるのは、ありとあらゆる命は互いに干渉し合ってはいるけれど、結局は自分のことにしか責任を持てないってことだけ。アンタがしてくれたことに感謝してないわけじゃないけど、私が今ここに生きているのは、私自身の選択がそうさせたということよ」

「命懸けにしちゃあ、割の合わない話だよな。正しい分、文句も言えない」

 僕は海の中に身を投じた。忌名を追うためじゃあない。しばらく潜ると、瓦礫と一緒に沈みつつある、人が住めるくらいの金庫のようなものを見つけた。灰川のいるシェルターだ。

 苦労して水面までシェルターを引き上げ、爆熱でチーズトーストみたいになった扉の部分を叩いた。すると、溶けた金属を剥がす異様な音がして、内側から扉が開いた。

 扉が水面と並行になっているせいで、室内の調度品の角度がトリックアートめいて見えたが、それよりも中に散乱している死体たちが気になった。どれもむごい有り様だったが、気にした風もなく灰川は扉までよじ登ってきた。その服は、アデライードに乗船した時同様に皺ひとつない。

「やあやあ、お出迎えご苦労」

「こんな血生臭いエスコートがあるかよ」

「グレイマンに手こずってね」

「怪我してるようには見えないけど」

「怪我がなければいいってもんじゃあない。今回の事件は徹頭徹尾、僕は後始末ばかりだった。まったく、味気ないにも程があるよ」

 船底の触手――仮に“飽食”とでも呼ぼうか――がどれだけの飢餓に身を焦がしていたかは知らないが、灰川の知的空腹はそれ以上だ。おまけに、灰川はとてつもなくグルメなのだ。

 灰川は姫香がつかまっているドアの破片には目もくれず、特別太い形を保ったままの柱に跳び移った。濡れた柱は滑って危なっかしかったが、灰川は靴すら水につけたくないようだった。

「それが君の戦果か」

 灰川は値踏みするように姫香を見た。負けじと姫香も睨み返す。二人の面通しはそれで済んだ。仲が良さそうで何より。

「いいや、僕が得たものはこれだ」

 僕はポケットからほうじ茶の缶を取り出した。当分は普段の数倍は上等のお茶が飲める。

 灰川が笑った。つまりは、僕はユーモアを手にしたのだ。ほんのちょっぴりだけど。

 僕の手を離れたシェルターに海水が流れ込み、上等な服で着飾った死体と彼らをもてなすために用意されたとびきりのスイートルームは沈んでいった。

「爆弾は起動させないつもりだった。あの犬はもうとっくに死んでる幽霊だったから、自分の死を自覚させれば消えると思ってたんだ。だから、都合のいい捨て駒工作員であることを懇切丁寧に教えてやったんだけど、彼は最後に何て言ったと思う?」

「さあ? 僕は愛国心とか所属欲求ってのを本で読んだことしかない」

「『たとえ富裕層が腐敗し、国家の上層部が神に背くような悪行に手を染めたとしても、国を支えるのは百年後には忘れらえている民衆たちだ。彼らの心の中に神が与えたもうた善なるものがある限り、俺がここで死ぬことにも必ず意味がある。そうあれかし』だってさ」

 レインマンや緋蜂など、この船に望んで乗った連中には共通点がある。それは、殺しの才能があるということだ。既存の社会では正しく有用性を発揮できない者たちは、ルールを破るという特異さでしか価値を稼ぐことが出来ない。価値がなければ、社会の中で生きていけない。僕も例外ではない。僕には才能がある。でも、僕は人の中に上手く溶け込めない。そう生まれてしまったから。

 しかし、もしも大きな時間の流れの一点を観測するに過ぎない矮小な個人が生きていくことに理由があるとするならば、それは己のわざを振るうことでしかないのだ。それが、誰にも望まれないものだとしても。

 グレイマンはその才能を望まれて生まれ、誰かが決めた有用性の尺度によって捨てられた。僕にとって、彼はあり得たかもしれない黒い兄弟だ。同情を禁じ得ないが、哀れみを受けることを彼は拒むだろう。彼は存分に自分の業を振るい、納得して死んだのだから。

「まあ、爆弾を起動されちゃったのは良くないけど、結果オーライじゃない?」

「僕の言葉に耳を貸さない奴がいたことが気に食わない」

 不機嫌を隠さない灰川。ぶすくれた表情で、全身に帯びた拳銃を海に投げ込んでいる。河川敷で黄昏れる少年じみた振る舞いだけれど、やっていることは物騒だ。

「そんなに完璧主義だっけ?」

「挑戦して失敗するのと、出来て当然のことが出来ないのは違うよ。……ムシャクシャするから、予定を変えて温泉に行こう」

 灰川の言うこと、やることはいつだっていきなりだ。

「温泉に行きたいとは言ったけどさ、虫々院蟲々居士のことはどうすんだよ」

「いーや、そんなことどうでもいいね。八幡琴音を君は助けたいみたいだけれど、僕には関係ない。やりたいことをやろうとするとやりたくないこともやらなきゃいけなくなって、やりたくないことをやっていると、やりたいことをやる時間がなくなってしまうけれど。そうして後回しにしたやりたいことは、いつのまにかどうでもいいことに変わってしまうんだ。だから、温泉に行くと決めたら、温泉に行く。これは決定事項だ」

 逆らう気は起きなかった。灰川は探偵で、僕は探偵助手だった。

 琴音と鏡に少しばかり苦労をかけるかもしれないが、僕だって燕になって何度もをすることを思えば、義理は果たしているだろう。

 柱に姫香も乗せた。ドアの破片を引き上げ、簡単なオールのようにして使う。三人が乗っても何とかなりそうだ。

「とりあえず、どっかの陸に着きたいよな。方位はわかるか?」

「ばっちりさ。星を見ればいい。それよりも……」

 急に灰川はきょろきょろと辺りを見回し、姫香に聞こえないように僕の耳に唇を近づけた。

「……僕は泳げないんだ。ゆっくり漕いでくれ」

「……マジ?」

「君にしか教えてないんだ」

 灰川は、いつになく真剣な顔だった。

 こういう風なことをされると、僕は弱い。

「ねえ、アンタもっと早く漕ぎなさいよ! 水も食料もないんだから、とにかく急いでどこか港を探さないと不味いってわかってないわけ!?」

「これだから成金は困るな。時間を優雅に使うことを知らない。急いで転覆したらどうするんだ!」

 せっつく姫香と、いつになく舌鋒に切れがない灰川。どっちの言うことも正しいので、僕はゆっくりと急いだ。中々に繊細な作業だった。


 この後、僕たちはシンガポールに流れ着き、成り行きで現地のマフィアと揉めたり、一度日本に戻って温泉に入ったり、再び虫々院蟲々居士と闘ったり色々あるわけだけれど、とりあえず今回の話はここまでだ。

 物語を受け取るみんなとなれ合うわけではないけれど、そこに変な義務感を持ち込みたくもない。

 気が向いたらまた、僕の中に蓄え込んだ意味や価値や理由なんかを言葉にすることもあるかもしれないね。


   *


 海に沈みつつある椅子の残骸の上を、一匹の蛇が優雅に這った。

 焼けただれて身体は、内側から肉が盛り上がり、太い白蛇はくじゃの姿を取り戻した。

 福々しくすらあるその美しさは、どこか一片の忌まわしさも孕んでいた。眼だけが、やけに赤かった。

「そうじゃのう――まだ何も終わっとらん。新しい何かを始められることは人の美徳じゃが、何かを終わらせられると思うのは人の傲慢というものよ。何かを終わらせようとする行為自体が、また新しい何かを生み出す。まさに、はてしない物語よ」

 蛇はそう言うと、椅子を離れて海の中に消えた。

 海にはたくさんの意味や価値や理由――物語が沈んでいった。それらはどこかに漂着し、あるいは引き上げられるのをいつだって待っている。

 くちなわの笑い声もまた、波が呑み込んでいった。



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