第10話 スカイフォール(5)
*
忌名は、真っ直ぐに突いた。
ただそれだけのことだったが、僕は必死になってかわさなければいけなかった。
あまりにも真っ直ぐで、右にも左にも、上にも下にも避けることを迷わせた。普通は、悪魔ですらも素早く動こうとすると、その
時間の感覚が、透明な泥の中を泳ぐように鈍化した。僕は一瞬を何千何万にも分割したフィルムのコマめいて感覚した。それでも、忌名の短槍の穂先が胴をかすめた。
身体が伸び切るような隙を見せずに、すぐに忌名は手元に短槍を引き寄せた。落ち着いて、ゆっくりと
意識の外を通過する紙飛行機の曲芸飛行めいた技。
忌名にとって、武器は彼女の皮膚や指の一本と変わらない、身体の一部なのだった。動かし方を一々考えたりはせずに、自然に機能を行使する。
緋蜂が忌名に向けて鎌鼬の術式を放った。無形の刃が狙うのは、頚椎の隙間。
忌名は緋蜂を見た。浄眼が二人の間にあるものを打ち消し、真空の断面はただのぬるい風になった。
忌名は、悪魔の力を持つ僕と緋蜂を常に視界に収めておきたい。そうしないと、予想もしない方法で殺されてしまうから。
緋蜂は、僕でも忌名でもどちらかを殺してしまえばどうにでもなると思っている。それほどに彼女の憎しみの力は強く、信じ込まれている。強いて言うならば、忌名の方が強敵だと考えているだろう。
僕はと言えば、これが中々どうして難しい。実は正攻法ではどちらにも勝てないわけだが、忌名の浄眼による制約が失われてしまえば、緋蜂に魂=魔力の物量差で擦り潰されるのは確実だ。
かと言って緋蜂を先に始末したのなら、それは忌名の視線を受け続けることを意味する。何にも
正直、詰んでる。でも、僕は他ならぬそれこそを望んでいたのだ。
忌名の槍が僕の頭を狙う。とっさに鉄槌打ちで下に払うが、勢いは衰えず僕の胸を突いた。
冷たい痛みが僕のぽっかりと開いた胸の穴に放り込まれ、剃刀を飲むような絶望が全身に行き渡った。
灰川に渡した
内ポケットにしまっていたトランシーバーが砕かれた。灰川と連絡が断たれる恐ろしさ。言葉が通じなくなってしまうというたまらない孤独感が、痛みよりも鮮烈に僕を苛んだ。
しかし、僕の頭の中に何かが浮かんだ。それは声だったし、映像だった。頭蓋の裏側に刻み込まれた碑文であり、情報だった。だが、同時に言葉を超越したものであり、灰川と僕とを繋ぐ糸だった。
『さて、裏切りがバレて緋蜂に殺された張・占任、雇っていた忌名に裏切られて殺されたメシエ・ブラックマン、72時間しか動かない動く死体を送り込んでいたクロエ・ミュラー。そのすべてと契約し、そのすべてを裏切ったグレイマン――君は愛国心があると言ったが、国は愛するに足るものか?』
『見返りを求めるだけの愛じゃない。それは短期的な視野しか持ちえない、ちっぽけな個人のものだ。俺は神を愛するように、深く国に尽くす』
『必ず死ぬと決まった場所に、君を送り込むような相手が神だと?』
『人には試練が必要だ。そうでなくては、ただ生きて死ぬだけでしかない。俺は死んで星になる。それが作戦が成功した証であり、国家がより繁栄するための礎だ』
『名誉が君の揚力か。燃費が良くて、素晴らしい。だが、その名誉は虚構だ。君は自分がサイボーグだと思っているようだが、間違っている』
『何?』
ピンチに次ぐピンチ、難行に次ぐ難行。試された先にしか見えないもの。死線の上で踊るのが僕の宿業なのだ。それはこの船に残った誰もが同じことだろう?
刃と弾丸の群れ、鉄火の嵐。死が追いつく一歩先だけがわずかの間、安らぐことの出来る住処。
僕は美しい景色が好き。親しい人たちと冗談みたいに甘いパンケーキを食べながらする、他愛のない話が好き。いつか見た夢、面白い物語に触れていきたい。これからも。でも、この瞬間にだって意味を感じている。
僕はどうしてしまったんだろう。けれど、それだって僕だ。誰にだって存在するツイスト。ねじ切れてしまわないように、踊り続けろ。
下段への薙ぎ払うような蹴り――霧に映り込んだ影を追うように、手応えがない。かわしざまに忌名は跳び、空中で後ろ回し蹴りを放つ。だが、僕の甲殻は貫けない。
振り切ったつま先が床に触れるか触れないかの瞬間、人間には不可能な方向転換/急加速――後ろ蹴り。
忌名は悠々と、僕のかかとを短槍の石突で受けた。破壊的な金属音。
闘いの最中にも、灰川との糸は依然切れずにここにある。
『君にはもう、生体の部分は何も残っていない。肉体は精密な機械であり、すべてが十全に機能することで維持が可能になっている。君の断片ではそれは不可能だった。君の脳はもう、腐って死んでいる』
『馬鹿な、俺は、俺は生きて、考えて、自分の倫理観で行動している!』
『それが不思議でね。何をもって生きていると定義するかは難しいが、AIでもない意志と呼べるものが死につつある肉体から発生し、機械の身体を操作し始めた。研究者は君の意志を魂と定義した』
僕と反対側の緋蜂に向けて、鋭角なV字の斬撃が奔る。鮮血が更にドレスを重くする。悪魔殺しの槍は、緋蜂の腕の肉を裂いたが骨を断つことは出来なかった。
緋蜂の顔に、冷たい焼き鏝にえぐられる痛苦と、今度は自分が敵をえぐる瞬間を期待する表情が浮かんだ。皺が深くなる/ひび割れが広がる/底なしのクレバス。
ドレスの裾がひるがえり、血臭が振りまかれた。逆手に持った深紅の釘が、回転と共に忌名に打ち込まれる。
忌名は下へ潜り込んで回避。いつの間にか抜いた剣鉈で緋蜂のすねを削ぎにかかる。
緋蜂は体重を感じさせない動きで跳躍、更に回転。目まぐるしく入れ替わる、赤と黒の影。
赤に金細工が施されたハイヒールが、僕の目の前に。圧縮された空気が解放される音がして、金細工が真っ二つに割れた。ピンヒールに加工された釘が高速で射出される。
叩き落とすが、ヒールは二つある。一拍遅れて射出された釘が、とっさに突き出した左の手の平に刺さった。真っ赤な釘が、僕の甲殻に穴を開けた。
避けられない悪業に追いつかれた僕を見て、緋蜂の魂が邪悪な喜悦にブンブン震えた。
二度目の毒/アナフィラキシーショック/正しく認識しても消せない病――死。
僕は落ち着いていた。死はいつか必ず訪れるものだと知っていた。それが、今ではないことも。僕はゆっくりですらある動きで、釘ではなく自分の前腕に手をかけた。ゆっくりは
――僕は自分の前腕を、肘の関節部から引き千切った。
トカゲの尻尾切りでよく知られる自切行動を、昆虫もよくする。呪毒は唯物世界の毒よりもずっと早く回るが、それでも免疫反応を起こすまでには余裕がある。
僕は殺されない。
自分の毒に絶対の自信を持っていた緋蜂は、何が起きたのかわからない様子だった。その隙を見逃す忌名ではない。
緋蜂の喉から、槍の穂先が突き出た。母親の腹を食い破って生まれる、
忌名は、緋蜂の背後から僕を見ている。浄眼が僕を縛り付けている。腕が再生出来ない。緋蜂も、喉をゴボゴボと鳴らすのみ。
『だが、国は君を管理しきれないと判断した。原理が解明しきれない不思議な力を無理に運用しようとして破滅するのは、ハリウッド映画の悪役だけで充分だろう? 君の魂は君の肉体、いや、ヒト型の機械を自らに紐づけているが、次はどれに乗り換えるかわからない。クロエと組んでヒトクローン計画を進めているわけだしな』
『そんなの、聞いてないぞ。ヒトクローンなんて、倫理にもとる行為だ』
『君の国はそう判断しなかった。だから、君がその身体の死を自らの魂の死と認識出来る内に、死に場所を用意してくれたわけさ』
『何故、そんなことを知っているんだ、お前は』
『君の国のえらーい人から、君が死ぬのを見届けるように依頼されたからさ。僕の立場は現在、非公式な委任執行官ということになっている。非公式な肩書なんて、変な話だけれどね』
糸が震え、グレイマンの絶望が伝わってきた。信じるものに裏切られ魂が失墜する、屈辱の悪臭が場所と時制を無視して僕にまで届いてきた。
それを最後に、灰川の幻視はなくなった。しかし、途切れたわけじゃあない。僕と灰川の間には、言葉にならない何かが依然としてあった。それは定義しようとすればするほどに形を見失うものだったので、僕は謙虚にあるがままにまかせた。
あるがままに、そのものが望むままにあるように振る舞うことは、口にするよりずっとずっと難しいことだったが、試す価値はあった。僕も、そうあれかしと思った。
僕は切り離した左手から、釘を抜いた。使えるものは何でも使う。忌名の言うことに異論はない。だから、おたくが刺されても文句を言うなよ。
甲殻の内側に緋蜂の釘をしまい込む。わかりやすく手に持って刺しに行くような真似は馬鹿馬鹿しくって、真似する気にもならない。
忌名の僕に対する警戒度が増した。それが不味かった。彼女に油断はない。だが、充分でもなかった。特に緋蜂という化け物を相手にするには。
たっぷりと血を吸ったドレスから、犠牲者の怨恨と緋蜂自身の憎しみが滴った。悪業の混交物は彼女の足を這い、靴のかかとへとたどり着き、結晶した。
それは、毒だった。
それは、釘の形をしていた。
ハイヒールに釘が再装填された。カチリ、と金細工が噛み合う音。そのものが持つ機能が意味をもたらし、価値へと変換された
緋蜂の
首に刺さった槍をそのままに、緋蜂は回転した。カポエィラやブレイクダンスに似ているようだが、それらをはるかに上回る凶悪さで僕と忌名を
互いの間にあった空気が焼け付くような幻臭を、僕は嗅いだ。そうして初めて、まだ自分が生き延びていることに気付いた。忌名の剣鉈が鍔元から折れ、金属の破片が飛び散った。
狂ったような回転に振り回され、忌名の槍が抜けた。自由になった緋蜂は、両手両足に構えた釘を縦横無尽に振り回し、更に鬱屈した不満と怒りを表現した。
〈アタシの怒りは正当な怒りだ! 奪われたものを取り返すんだ!〉
緋蜂が叫んだ。圧縮言語だったので、僕にも何を言っているのかわかった。
既に失われた仇を探している。この世のすべてが、報復を求めるに足る理由を持っていると信じている。つまり、緋蜂がしていることは子供の駄々なのだ。ただそれだけのことが、多くの物を巻き込んで破壊していく。
緋蜂は暴れた。驚異的な地団太は、いっそ優雅ですらあった。緋蜂のピンヒールは、大理石の床をまるでプティングであるかのように容易くえぐった。
ぎぃん、と硬いものを穿つ音がした。大理石の更に下に埋め込まれた鉄筋が、その役目に耐えきれずに上げた悲鳴。釘で穴だらけにされた緋蜂の足元はもう、人外の闘いを支えることが出来なくなっていたのだ。
緋蜂の回転――槍の間合いの内側に入り込まれた忌名がとっさに放ったのは、崩拳。震脚が床を揺らす。それがとどめだった。
崩落する床/空中でもお構いなしの怪物共/宙を踏んで襲い来る緋蜂/落下中の石材を器用に扱う忌名/甲殻の表面を削られるが、どれも致命傷にはならず。
十数mほどの落下の衝撃を僕は飲み込んだ。死ぬほど痛いが、今更大したことじゃあない。生きるとは、そういうことだ。
破砕音と粉塵が晴れる。
レストランの真下で僕たちを迎えたのは、いつか見たカジノだった。
場所が変わってますます猛り狂う緋蜂――彼女は玉を投げたが最後、スピナーですら止めることを許されないルーレットだった。
悪運を分配する
テーブルの上、緑色の絨毯にうず高く積まれたチップは、人の欲望の際限のなさ。誰もが
釘より更に内側の、緋蜂の手首を打った。ピンに跳ねるボールは、どこに向かうのか? 緋蜂の回転は止まらない。驚異的な筋力で慣性を無視し、逆回転。
意味と価値と理由が、どうしようもなくここにある現在によってシャッフルされる。
ありふれた狂気が、偶然に作為を紛れ込ませる。若く、あり得たかもしれない幸福な時間を取り戻すために。
しかし、結局はイカサマに過ぎないのだ。グルグルと回り続けても、一歩も外に向かっていない。いや、そればかりか、螺旋を描いて優雅に失墜しているだけでしかないのだ。
〈ひとつ聞きたいんだけどさ、不老不死になってどうするわけ? だって若返りの能力じゃないんだし、おたくが持ってても無駄じゃん〉
圧縮言語による嘲弄に、緋蜂の顔がはち切れんばかりの怒りに満ちた。真っ赤になる。ブンブン音が鳴る。
「
怒りはブレを生む。ブレはスムーズさを損なう。それを見逃す忌名ではない。
忌名は回転に逆らわなかった。槍の柄で緋蜂の手首を絡め取り、投げた。つんのめった緋蜂は空中で回転して壁に叩きつけられる。緋蜂の怒りをせき止めず、そのまま受け流して自分の力にする――合気の技だ。言葉にすると簡単だけれど、そこに至るまでは様々な機微があった。驚異的な速度で立体的に飛び回る、悪魔の動きが見えていなければ出来ないことである。何でも出来るな、こいつ。
それでも投げの一瞬、忌名は僕に背を向けなければならなかった。視線が切れ、僕は傷一つない身体に
もげた腕が回復したように見えるが、全体の魔力の密度は薄くなっている。忌名にはそれがわかる。僕も、知られるとわかっていた。わかっていても、やる。
背を見せた忌名の腎臓を狙ったボディブロー。手首だけで投げられていた鏢が、異様な角度から僕の肘の内側、関節の柔らかい部分に突き刺さって攻撃を阻止した。病的なまでに周到な戦闘の組み立て方だ。
倒れた緋蜂の腹に短槍が突き立ち、さながら虫の標本めいて縫い止めた。
忌名が振り返った。緋蜂が投げのダメージから復活するまで、あと1.25秒。
襟をつかんだ。今の投げを見ていなかったわけじゃあない。武術家の襟をつかむということがどういうことか、わかっていないわけでもない。これは必要なことだ。僕は、毒を喰う。
胸を押され、反射的に押し返そうとした時にはもう、足が払われていた。
「――
ぼそりと忌名が口にしたのは、技の名前か。
ぐるりと回った先に見えたカジノの床は、足音が吸い込まれるような赤絨毯。しかし、落とす場所は柔らかい絨毯なんかで許してもらえるわけはなかった。人に不吉が到達する速度で下から這い上がった膝と、自由になっていた方の肘が、僕の頭を同時に打った。
鋼に見立てた頭を金床とハンマーで叩き鍛えるというのが、控えめな表現に感じるほどの打撃。生き物の肉体同士がぶつかり合ったとは思えないような、破壊的な金属音がした。
浮遊感。
一瞬の走馬燈。
*
――子供の僕はタートルネックのシャツを着ていた。前後を間違えてもそんなに変じゃないから。
僕は紐で結ばないタイプの靴を履いていた。結び方を覚えるのが面倒だったし、何度も結びなおすのも馬鹿馬鹿しく思っていた。
目の前には幼い灰川がいる。
「どうでもいいことに人は本気になれない。興味がないことを無理にやるのは、いずれ破綻する。君は、自分のことすらも心底どうでもいいんだな――」
*
――再着火。
「何にもよくねえーーーーーーーーーーーーよ!!」
心の中で何かが弾けた。
砕けた頭蓋骨を拾い集めて再生すると、ちょうど緋蜂も立ち上がったところだった。
触れた場所から肉体が灰になっていくのも構わず乱暴に槍を引き抜き、忌名に向かって投げる。死んだ魔力が、白い蒸気となって尾を引いた。
忌名は難なく相棒を受け止めたが、同時に緋蜂の接近を許してしまった。
短槍の振り下ろし/横に避けた緋蜂に追いすがる急角度の一閃/必死のL字。
緋蜂の拳の隙間から突き出した真っ赤な釘が、もっともっとと餓えを叫ぶ。理不尽から生まれた犠牲者が、納得出来ずに自分と同じ報復を他者に求める。道連れへの呼び声が、悲惨の螺旋になる。
再び金属音。
短槍と釘がその先端で打ち合わされ、一方が砕けた。飛び散ったのは赤い破片。ルーレットの配当は黒が二倍だ。
釘はまだいくらでもあるぞ、とでも言うように緋蜂が続いて拳を繰り出した。
余裕を持ってかわそうとした忌名の動きが、一拍遅れる。僕がさっき襟をつかんだ時に結び付けた糸に引っ張られたせいだ。忌名が僕を睨んだ。糸は切れたが、もう意味はなかった。いつの間にか、二人の悪魔に挟まれる形になっていた。
僕の掌打を、忌名は頭を振ってかわした。後ろでまとめられた艶やかな黒髪が、鞭のように僕の腕に絡んだ。ギギギ、とガラスを引っ掻くような音がして、僕の殻が剥がされた。見ると、忌名の髪の中に刃物と言ってもいいほどに研がれた、細い鎖が編み込まれていた。
勝ちへの執着――忌名もまた、餓えているのだ。それだけが彼女にとっての価値なのだ。
何のために闘うのか。忌名は強く在るため、緋蜂はこの世すべてを屈服させるため。僕は忌名ほど自分を好きではいられないし、緋蜂のように他人へ興味を抱き続けることも出来ない。しいて言うのなら、ユーモアと美意識のためだ。意味と価値を言葉が結びつけるように、それだけが僕を定義する。
緋蜂の釘の連打。かすっただけでも死ぬような毒を何度も何度も繰り返し、辺りに向かってまき散らす。
忌名の遅れが、わずかのブレがどんどん大きくなっていく。
過ちが死という形で清算を求めようとしたが、更に忌名はそこから逃れた。体を入れ替え、僕を緋蜂の前にさらけ出すことで。
忌名の蹴り――ではない。忌名の足は僕の耳の横をかすめて後ろへ。もう片方の足が同じように僕の頭を挟み込む。曲芸じみた跳躍/僕の首を支点にした回転/全身を振り子のようにした反動による足での投げ=プロレスのコルバタだ。
死が、僕に降りかかる。影ではなく、明確な形をともなって。
それは深紅の釘でも悪魔殺しの槍でもなく、足元を伝わる振動として最初に僕の前に表れた。
それは轟音だった。海上の地響きであり、炎の群れだった。
僕は、とうとう灰川がグレイマンの爆弾の起動を阻止できなかったことを悟った。
爆風は、上と横の方向に広がる。豪華客船が、その身をバリバリと砕きながらも、空を飛んだ。
馬鹿げた光景に、情報を与えられていなかった二人の反応が遅れる。
チップが、トランプのカードやボールが、人の欲望の権化たちが、重力から解き放たれて浮遊した。
空中で姿勢を変えられない忌名が、壁に向かって落下した。
同じ速度で、忌名を追う僕、そして続く緋蜂。
忌名が身を反転させ、壁に立った。天井に飛び移る。獣のよう。
槍の間合いの内に潜り込んだ。刃は当たらないが、忌名自身が凶器そのもの。槍の柄を抑える。わずかの躊躇いもなく、忌名は左手を最大の武器から手放して、僕を打った。殴るだけで痛くてたまらないはずなのに、折れていることをちっともうかがわせない表情は氷山の断崖めいた冷たさ。
甲殻に当たる
「――
側頭部に当てられた忌名の親指が、僕の殻と頭蓋に穴を開けた。
視界が裏返る。目と鼻から血が吹きこぼれた。忌名は勝ったと思ったはずだ。僕はそう思わなかったけれど。
「
脳には痛点がない。だから僕は、忌名の指が脳の運動野をヨーグルトみたいにかき混ぜるよりも早く、動くことが出来た。
抑え込んだ槍を奪うために、忌名の指を捕った。折れない。さすがは悪魔の甲殻に穴を開けるほどの武器だ。でも、構わない。
そのままもう片方の手で忌名の首をつかみ、壁に押し付ける。忌名の髪が、鎖が再び僕の腕に絡みついた。僕は忌名の瞳を見た。忌名の瞳に映り込んだ、背後に迫る緋蜂の凶相を見た。忌名はこのまま僕を抑え込んで緋蜂の盾にするつもりなのだ。それも、構わない。
僕は、忌名の意識を上半身に集中させることに成功した。忌名は女だ。正中線に急所があることは重々承知しているだろうが、どうしてもそこは手薄になる。
忌名は僕を見ている。僕の目を。だから、つま先を変化させるのは簡単だった。ドリルのように尖ったつま先で、僕は忌名の股を蹴り上げるのも簡単だった。
肛門から内臓をえぐった感覚。忌名は苦痛の声を上げなかった。凄まじい女だ。しかし、僕の脳から指をとっさに引き抜いてしまった。
緋蜂が僕の後頭部に釘を打ち込もうと追いすがる。それがそのまま僕の棺桶の蓋を塞ぐはずだった。
忌名が短槍の柄を短く持ち直した。僕の顔を狙う。
槍の穂先が僕の頬を貫く/構わない/噛みつく/魔力が冷たく灼けて、煙を吐く/なおも喰いつく/槍を、歯で止める/奪い取る。
緋蜂の位置は、わざわざ顔を向けなくても感覚出来る。僕は頭を低くして、代わりに足を反らすように高く上げた。フルコンタクト系の空手で見られる、ダメージを与えるのではなくポイントを取るための技――サソリ蹴り。
いくら悪魔の力でも、無理な姿勢からでは当たったところで痛みにはならない。まるで実践的ではない技だが、僕の頭のあった場所を素通りした緋蜂の釘を軽く押すことは出来た。
まるで最初から僕ではなく向こう側の忌名を狙っていたかのように、緋蜂の釘は忌名の左手首を壁に縫い止めた。
中国語でも日本語でも圧縮言語でもなく、僕は世界共通語として忌名に向けて中指を立てた。それが最後の挨拶だった。
爆炎が、熱と瓦礫と衝撃波のカクテルが僕たちがいるカジノにも届き、すぐに忌名は見えなくなった。
僕と緋蜂は、この世に存在する中でも特にシンプルな暴力の波に揉みくちゃにされながらも、互いの位置を把握し合い、殺す機をうかがっていた。それはある意味で絆と呼べるものですらあった。
空中に投げ出された船が、重力に従って再び着水しようとしていた。
さっきまで床だったものが、更にひっくり返る。どんでん返しに次ぐどんでん返しは、探偵の物語に付き物だ。
天が、落ちる。
僕は失墜しない。
「お前が落ちろ」
忌名の槍を握りしめた。
同時に、炎の中から緋蜂が飛び出した。血染めのドレスは膨大な熱波にさらされ、皮膚に張り付いてしまっている。
緋蜂自身が真っ赤な釘であり、毒であり、彼女を駆り立てる炎そのものだった。試され、多くの
〈足りない! 足りない!〉
それは振り絞るような苦痛であり、憎悪に満ちた絶叫であった。
それは怒りであった。
〈何も
それはどうしようもなくありふれていて、そして安っぽい動機と執着であった。しかし、そんなものを信じ続けることが出来るのは、紛れもない狂気であり、彼女にとって特別な才能だった。
衝動は隠すことが出来ても、止めることは出来ない。絶対に。内で燃えるグロテスクな情念の炎が、どこまでも彼女を駆り立てるのだ。
〈ワガママだな〉僕は笑った。ユーモアが自分を守る殻になると信じた。
〈これは復讐じゃない、制裁って言うのよォ!〉
〈
意味と意味を、言葉が飛躍して繋いだ。
〈あの車椅子のガキは助けて、何でアタシの時は助けてくれなかったの!? アタシが貧乏人だったから? 今のアタシが醜いから!!?〉
いつしか、緋蜂の圧縮言語にはすすり泣く子供のような色がついていた。事実、彼女は子供なのだった。だが、もう誰かに許されるには殺しすぎた。あるいは、彼女を許そうとした人間から順に殺してきたのかもしれなかった。
〈無茶言うなよ。僕だって、誰だって、常に他人のために生きられるわけじゃない〉
〈アタシにとって、殺す理由はそれだけで充分さ〉
人を殺すことも、人を救うことも、大きな視点から見れば誤差に過ぎないことなど、とうにわかっていた。
ただ、自分を必要としない世界へ振り上げられたちっぽけな拳であり、それこそが己の魂を定義するものだった。その点において、僕も緋蜂も同じだった。
僕はずっと前から、絶え間なく飢えを感じている。
魂が、もっともっとを求めている。
底なしの飢えを満たすためには、喰らい続けるしかないのだ。与えられるものが、毒しかないとわかっていても。
ズタズタに切り刻まれ、分割された時間の感覚。一瞬が
僕が突き出した忌名の槍は、充分な警戒をしていた緋蜂に余裕を持って払われる。
更に接近。
緋蜂の釘/猿臂で迎撃/髪をつかむように伸ばされた僕の手を、格好の餌食と見た緋蜂が喰いつく/緋蜂の釘=今度こそ刺さる。
けれど、それは罠だ。
先程自分で引き千切り、再生したように見える前腕にはほとんど殻しかない。緋蜂自身から奪った釘の射出装置である。
圧縮された空気と魔力の混合気が破裂する音。
高速で撃ち出される釘を、驚異的な反射能力で頭を振り、避ける緋蜂。
胸ががら空きになった。
〈悪魔を殺すのには、毒なんて必要ない。失恋させるだけで充分だ〉
老いてしなびた乳房を貫いて、僕は緋蜂の命の核を握りしめた。
僕やその他大勢の悪魔と同様に、緋蜂も命の核を隠していたはずだ。何故、そんな大事なものがここにあるのか。
それは、絶対に信じられると思っていたものが信じられなくなったからだ。
緋蜂が張・占任を殺したのは聞いている。張とは盟友で、これまではどんな時も傍にいたことも。
緋蜂は張を“お上品に”殺した。渡していた自分の命の核を誤って砕かないように。そして、自分の愛情が無駄だったと自ら証明してしまわないために。
血飛沫が、僕たちを取り巻く炎の勢いをわずかに弱めた。
僕の手にある、どす黒い血の塊にも似た自分の命の核を見て、緋蜂は信じられないとでも言うような顔をした。それはきっと、彼女が今まで殺してきた相手と同じものに違いなかった。だが同時に、緋蜂の表情には一種の安らぎも含まれていた。
緋蜂の顔から急速に皺が失われていった。無理に作り上げた笑顔や虚構で塗り固めたアクセサリーもなくなり、最後には恋すら奪われた少女がそこにいた。
〈死ぬ方が……よっぽどいい……クソの中を溺れ続けて生きるよりも、よっぽどマシな選択さ……。いずれアンタもそれに気付く……〉
〈いいや。僕もお前も、いつか月の光になるのさ〉
僕は緋蜂の命の核を砕いた。
魂の引力を失った魔力がバラバラにほどけて、炎と瓦礫のカクテルと共に、暗い海へと失墜していった。
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