笑顔と君と未来
𠮷田 樹
笑顔と君と未来
「私だけでいいって……そう、いったじゃない」
「ああ……」
日は完全に落ちきっている。日本における街並みの象徴ともいうべき長屋の裏手。将来を約束した彼女をこの時間に呼び出したのには理由があった。
「何でなの? おしえてよ」
「……悪い」
別れ話。俺が持ちかけたのは、一般的にそういわれているものだ。
「私があなたの彼女であることに、ダメなところがあった?」
あるわけがない。……そういってやりたかった。
でも、口が裂けても言えないのだ。言ってはいけないのだ。
「何かあったのなら直すから……別れるなんて言わないでよ。……ねえ、なんでなの?」
いつもおとなしかった彼女の顔は落涙し、涙は絶え間なく流れている。
「……俺とお前の将来なんて、単なる口約束だ。遊びみたいな……ものだ」
心の中で自らを殴りたい衝動に駆られる。今すぐ目の前にいる彼女を抱きしめてやりたかった。でも、それは彼女を傷つけるだけの行為だから、俺は心を鬼にでも蛇にでもしなければならない。
「なんで……なんでよ……」
弱弱しく消え入りそうな声とともに彼女は崩れ落ちてゆく。
「理由はない。ただ、お前を愛することができなくなった。それだけだ」
「うそっ!」
彼女は縋りつくように必死で俺につかみかかってくる。涙で汚れたその顔を直視することは、できなかった。
「いい加減にしろよ。こんな時に恋愛にうつつを抜かしている暇はないんだ」
最後にそれだけ言い残すとその場を後にした。彼女が俺を恨み、嫌ってくれることを願いつつ、彼女の心に深い傷を負わせてしまったことへの罪悪感に押しつぶされそうになりながら。
自宅までたいした距離はない。半年前に生まれ育った自宅が燃えて以来、ここの長屋の一角で暮らしているからだ。
「ただいま戻りました。お母さん」
「あ、おかえり。……話は済んだのかい?」
「はい。黙っていていただいて、ありがとうございます」
「いいんだよ。今夜が最後ってわけでもあるまい?」
「……はい」
運が良ければ。いや、帰ってくることに意味なんてないのかもしれない。
「明日に備えて、ゆっくりしな」
「はい」
荷物の確認を済ませたら就寝するだけだ。だからか、今になって言い残したことがある気がしてならなかった。
最近、穏やかな時間など殆どなくなってしまったが、今日は不思議なくらい落ち着いている。いや、落ち着いていなければ気がくるってしまいそうなほどに精神が不安定だったのかもしれない。
彼女の表情が頭から離れなかった。彼女が俺の言葉に涙を流した。それだけが、本当の心残りなのかもしれない。
いや、余計なことを考えていてはだめだ。俺のわがままを聞いて誰にも話さず、一人出征を祝ってくれた母のためにも、俺が気丈でいなければ。
「……」
次により出頭されたい。その一文の先に記されているのは明日の日時。何度読み返しても変わらない事実がそこにはあった。
母も既に眠りについていた。そんな中俺は一人机に向かっている。
祝いの言葉とともに受け取った赤色の招集命令書をわきに置き、紙に筆を走らせていった。
感謝と平和とアジアのこれからをつづる。希望にあふれた未来を楽しく生きていく、母や友の姿。そして、彼女の姿を思いながら。
「これで、いいんだよな」
彼女への気持ち。それは、伝えるべきではない。国の未来のために死地へ飛び込む身の上であるのだから、この幸せは彼女にとって辛いものであるだろうから。
複雑な気持ちでありながらも無意識のうちにもう一つの手紙を書き始める。俺が平和になった祖国に帰還できたら、彼女とともに読もう。そんなことを考えながら。
綴る言葉は自分の迷いをあらわさぬよう、気をもって文にした。筆をおくころには日が昇り、現実が静かに迫ってくることを感じさせる。
これから見ていくのは未来であり、その先でもある。そう、心に誓った。
「おはようございます」
一人、眠る母にこぼした言葉は、小鳥のさえずりにかき消される。
「ん……。あ、待っておくれ。いま、朝食を準備するから」
「……はい」
朝が弱い母をこんなにも早くに起こすのは気が引けたが、今は甘えることこそが親孝行なのだと思う。
その日の朝食の味はよくわからなかった。配給された少ない食料であったが、なじんだ味が体に染み渡る。その感覚に涙腺が緩みそうになるのを必死にこらえ、数年ぶりに母の味噌汁をすすった。
俺にはもったいないほどの、とても豪華な朝食だった。
「いってまいります」
「……がんばんな」
荷物を背負い自宅を出る。母に見送られ、誰にも気づかれないように長屋を後にした。
短い時間だったが、多くの思い出が詰まった場所になってしまったと実感する。
自らの故郷を守るため戦いに赴くのだと思うと少しばかり気持ちの整理がついた。
見慣れた街並みへと一礼し駅へと進む。あまり来たことのなかった場所まで出てしまうと、急に不安感が襲った。
それでもと、気持ちを落ちつかせようとしたところで、その声が俺の耳に届いたのだ。
「まってよ!」
ふりむくと、そこに彼女はいた。俺が今日ゆくことは母以外知らないはずなのに。
「どこ、いくの」
「……」
「おしえてよ」
昨日、彼女から聞いた言葉と重なる。教えてほしい、その理由。彼女は……
「なんでなの……なんで何も言ってくれないの?」
「少しそこまでいくだけだよ」
苦し紛れに答えを返す。彼女への気持ちをどう言葉にしたらいいのか、もうわからなくなっていた。
「ねえ……」
「……」
「お願い……」
すがるようでもなく、ただ受け止めようという強い意志とともに彼女は俺の目を見てきた。
だから気づいたのだ。俺は逃げていただけだったんだと。彼女を悲しませたくないと、そんなのは言い訳だったんだ。たんなる自己満足だったんだ。
彼女はとても強い人だ。なのに俺は彼女の気持ちに目を向けようともしなかった。本当は誰よりも俺自身が怖くて苦しくて悲しかったんだ。
なら最後くらい本当の気持ちを言葉にしなければならない。今、本心を伝えなければ……。いや、ちがう。
「いってきます」
その一言にすべてを込める。想いも未来も希望もすべて。
「……いってらっしゃい。気を付けて」
彼女の笑顔に涙が伝う。それに、俺も笑顔でかえした。
――彼女との未来を思い描きながら
笑顔と君と未来 𠮷田 樹 @fateibuki
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