終話

 ――ひたり、ひたり。足の裏から伝わる感覚に、叶光かのみはぼんやりとした意識で僅かに考えを巡らす。

 自分の意志に反して動く体は真っ白い廊下をゆっくりと進んでいる。

 ああ、これはいつもと同じ夢だ。幼い頃から見続けている夢なのだ、と。そう思い至ったところで叶光はなにかにぶつかり勢いよく床へと尻をついた。

「いたたたっ……」

 痛みに顔を歪ませながら顔を上げた叶光は、自分と同じように床に座り込んでいる少年に目を遣る。

「大丈夫?」

 立ち上がり手を差し伸べれば、少年は怯えたような瞳で叶光を見上げた。

 なにも言わずに黙ったままでいる少年に、叶光は困ったように微笑みかける。

「……そんなに急いでどうしたの?」

 叶光はしゃがみ込み、少年と目線を合わせた。

「あっ……そ、の…………」

 少年は視線をさ迷わせ、白いカットソーの胸元を強く掴んだ。そうすれば、その左胸の辺りに付けられている『1193いちいちきゅうさん』の文字のネームプレートが中心へと引っ張られる。

「大丈夫だよ。落ち着いて」

 叶光は安心させるような笑顔でそっと少年の瞳を覗き込む。

 もう何度この夢を見たのだろうか。叶光が夢を見る夜には必ずこの場所で、この少年とこのやり取りを繰り返す。

 どこか懐かしく、そして悲しくなるような気持ちにさせられるその少年。

 けれども叶光にはその少年の正体はわからない。なぜならば、叶光の見ているこの夢はいつもここで終わりを迎えてしまうからである。

 少年が臙脂色えんじいろした頭を力いっぱい上下に振り、口を開こうとしたその瞬間。叶光は現実の世界へと引き戻されてしまうのだ。

 ――しかし、その日はいつもとは違っていた。

「……オレ、おっさんたちが話しているのを聞いたんだ。1193は才能がないからあっちの実験に回すって」

「あっちの実験って?」

「わからない」

 小首を傾げる叶光に、少年はゆるゆると首を横に振る。

「わからないけど……だけど、オレ……怖くて……」

 叶光は怯えるような瞳で俯く少年の背中に、そっと手を添えた。

「そんな顔をしないで? これ、貸してあげるから」

 言いながら叶光は胸元に光るロザリオを器用に首から外して少年へと差し出す。

 少年は顔を上げ、不思議そうに叶光を見つめる。

「これはね、お守りなの」

 叶光は少年の頭からロザリオのチェーンを通し、首に掛けた。

「……お守り?」

 少年はゆっくりと胸元のロザリオに触れる。

「そうだよ。それがあなたを守ってくれる。だから大丈夫……どんなことがあってもきっと大丈夫だから」

 叶光は少年を安心させるように柔らかい微笑みを向けた。

 少年はロザリオから叶光へと視線を移す。

「……あ、りがとう。いつか必ず返すから……絶対に返すから! そのときはまた会ってくれるか?」

 少年は叶光の顔色を窺うようにそう問うた。

「うん!」

 にこりと頷いたところで、叶光の意識は夢の中の世界から切り離されたのであった。


 朝の肌寒さが残る四月の始め。

 叶光は真新し制服に袖を通し、弾む気持ちで家の階段を駆け下りた。

 リビングの扉を開いた叶光はキッチンのほうへと顔を向ける。

「おはよう、紅真こうま!」

 カップにコーヒーを注いでいた青年――火野紅真ひのこうまがゆっくりと視線を上げた。

「ああ、おはよう。今日は随分と早起きなんだな」

「だって今日は入学式だよ? ほらっ! 紅真と同じ制服!」

 ダイニングテーブルの前でくるりと一回転してみせた叶光に、紅真はふっと笑みを漏らす。

「わかった、わかった。いいから早く座って食べろ」

「はーい!」

 叶光は自身の席に着くと、目の前に用意されている朝食へと手を合わせる。

「いただきます」

 そう言って叶光が食事を開始すれば、紅真は冷蔵庫から取り出したオレンジジュースを透明のコップへと注ぎ、それを叶光の目の前に置く。

「ありがとう」

 笑顔の叶光に紅真は、ああ、と頷く。

 ――これが二人の日常の風景である。

 紅真は叶光の家の隣に住む一つ年上の幼馴染。忙しい両親を持つ二人は互いに助け合い、朝と夜の時間をこのように共有して過ごしているのだ。

「……あれ? 紅真はもう出るの?」

 床に置いてあるスクールバッグを掴んだ紅真を見て、叶光は首を横に傾けた。

「今日はお前たち新入生を迎える準備があるからな。悪いが先に行かせてもらうぞ」

「そっかあ」

 叶光は残念そうな顔をしながらも、いってらっしゃい、と手を振る。

「ああ、行ってくる。……またあとでな」

 紅真は叶光の頭を優しく撫でるとリビングの扉を開け、一足先に学校へと向かって行った。

 叶光は紅真を見送ると急いで食事を済ませ、予定の時間よりも早く家を出たのであった。


 新しく始まる生活に胸を躍らせながら通学路を行く叶光は、目の前からくる見知った人物に足を止めた。

「あっ、びゃくだ! おはよう」

 叶光の呼び掛けに気が付いた少年――雪城白ゆきしろびゃくは眠たげな表情で、おはよう、と軽く片手を上げる。

「なんだか眠たそうだね?」

「……うん。今日はさ、日直だから早く学校に行かないとならなくて……キミは今日からだっけ?」

 くあっとあくびを漏らす白に叶光は、そうだよ、と頷く。

「そっか。キミがいないと退屈だなあ……」

 白はどこかつまらなさそうに息を吐いた。

「白も早く卒業してこっちにおいでよ!」

「早く卒業できるものならそうしたいところだよ。飛び級制度があればよかったのに」

「そうだね」

 叶光はくすくすと笑った。

「……まあ、こんなことを言っていてもしょうがないし、ボクはもう行くよ。キミは迷子にならないように気を付けるんだよ」

「迷子になんてならないから大丈夫だよ!」

 頬を膨らませた叶光に白は、それならいいんだけどね、と口元を緩める。

「それじゃあ」

「うん! またね」

 二人はそう挨拶を交わして背中を向けたのであった。


 桜が満開に咲き誇る並木道を、叶光はゆったりとした速度で歩いていた。

「……やっぱりちょっと早く出すぎちゃったよね」

 スマートフォンに表示されている時刻を見つめながら小さくため息を吐く。

 少し張り切りすぎたのかもしれない、と叶光はそう反省しながら足を止める。

「あそこで時間を潰していればいいか!」

 叶光は近くにあった公園に視線を向けながら、うんうんと一人頷く。

 並木道から逸れ、目的の公園へと一直線に駆ける。

 公園の入り口を通り抜けると、そこには想像していたよりも広いスペースが広がっていた。

 叶光はすぐ傍にあったブランコへと腰を下ろすと、真っ青な空を見上げる。

 心地の良い風が叶光の長い髪を優しく揺らした。

「……今日はいつものと違っていたなあ」

 叶光は不意にそう呟いた。

 叶光の口にした『いつもの』とは叶光が見る夢のことだ。物心ついた頃から見るようになった夢。

 夢の中でしか会えず、名前も知らない。本当に存在している人物なのかすら怪しい少年。

 けれど叶光はその少年の夢を見ると、とても懐かしい気持ちになるのだ。

「あのロザリオ……どこかで見た気がするんだけど……」

 叶光はうーんと唸って考え込む。

 しばらくの間うんうんと唸りながら様々な記憶を引っ張り出してみるも、これといったものには辿り着かなかった。

 叶光が夢の中で見た物はシンプルなデザインのロザリオだ。どこで見ていてもおかしくはないであろうし、少し見かけたくらいであれば忘れてしまっているだろう。

 しょうがないか、と諦めた叶光の目にふと一人の人物が映り込んだ。

「……どうしたのかな?」

 広い公園の片隅にある白いベンチ。その上で横になっている青年は叶光と同じ学校の制服を身に着けていた。

 こんな時間に公園のベンチで横になっているだなんて気分でも悪いのだろうか。そう心配になった叶光はブランコから飛び降り、青年のもとへと走り寄った。


「あ、あの……大丈夫ですか?」

 叶光は心配そうな表情を浮かべながら青年を見下ろす。

 青年は右腕で目元を覆い、叶光の言葉にも微動だにしない。そんな青年の様子に叶光は益々心配になる。

 叶光はその場に膝をつくと、再び口を開かせた。

「具合……悪いんですか?」

 そう問うも、やはり青年からの返事はなかった。

 救急車を呼んだほうがいいのでは、と考えながら叶光は青年を見つめる。

 しばらく青年を見つめていた叶光の視線が、青年の頭へと滑るように動いた。

 柔らかそうな臙脂色の髪。それは夢の中の少年がもつものと酷似していて。叶光はなにかに誘われるかのように青年の髪へとそっと手を伸ばし、指先で軽く触れた。その直後。

「――つけ、た」

 それまで微動だにしなかった青年がぼそりとなにかを発し、叶光の腕を掴んだのだ。

 青年が起こした突然の行動に叶光は息を呑む。

「あっ、ご……ごめんなさい!」

 叶光はばっと勢いよく頭を下げた。

 青年は叶光の腕を掴んだまま黙り込んでる。

 気まずさを感じた叶光は恐る恐るといった様子で頭を上げた。

 青年の琥珀色こはくいろの瞳が叶光の姿を映し出す。

「叶光」

 青年がそう口にした瞬間。

 叶光の心臓がどきりと大きな音を鳴らした。

 それが合図であったかのように、様々な記憶という映像が脳裏に蘇ってくる。――全ての始まり。失っていた過去。最後に見た眩しいほどの白色と、琥珀色の瞳。

 泉のように溢れ出すそれらの記憶に叶光は泣き出してしまいそうな気持ちを必死に抑え、目の前の青年を見つめた。

「…………狼琥ろく、くん……?」

 ゆっくりと。なにかを確かめるかのように、叶光はその名を紡いだ。

「ああ、そうだ」

 目を細め、力強く頷く狼琥。

「……ど、うして……わ、私のこと……」

 紅真や白は忘れてしまっていたのに、なぜ狼琥は覚えているのか。それを問おうにも、叶光は上手く言葉に出せなかった。

 そんな叶光の胸中を察したのか。狼琥はふっと笑みを漏らす。

 そうして自身の首に掛けてたロザリオを外し、それを叶光の首へと掛け直した。

「……どんなことがあってもきっと大丈夫。オレは叶光からもらったその言葉をずっと信じて生きてきた」

 狼琥は叶光の胸元に渡ったロザリオにそっと触れ、だから、と続ける。

「オレはなにがあっても忘れねえ。……約束も、思い出も、その匂いも。絶対に忘れたりしねえから」

 真っ直ぐとそう言葉にした。

「わ、たしもっ……もう忘れたりしない、よ」

 叶光は目元に浮かべた涙をぽろぽろと落としながら、何度もうんうんと頷く。

「泣くなよ」

 狼琥は真新しい制服の裾を使ってごしごしと零れ落ちる涙を拭う。

 痛いよ、と小さく笑った叶光に狼琥は、我慢しろ、と返す。

 そんな二人の間を春の暖かな風がすっと通り抜け、どこからか運ばれてきた花の香りをそっと落としていく。


 第二都市という世界で出会い、別れ、そしてまた新たな場所で出会った叶光と狼琥。

 様々な疑問を残しながらも再び動き始めた二人の『時』は、この春の日のように穏やかなものになるのであろう。

 二人を繋いだロザリオの輝きのように、二人の物語は続いていく。色褪せることなく、いつまでも、永遠に――。

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君と世界と世界の繋がりの時を 綾海空良 @aymsr

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