渋谷のボランティア団体

村上はがす樹

第1話

 よく晴れた休日の昼間に渋谷の井の頭通りが静かだったことなど一度も(少なくとも僕の記憶には)無いのだが、それでもあの日の渋谷東急ハンズ前のやかましさは確かに群を抜いていた。

 僕はどちらかというと静寂を好むタイプの人間だ。基本的に部屋のテレビの電源は入れないし、本を読む時にBGMとしてモダン・ジャズを流すようなこともない。受験勉強で深夜まで勉強をするときも(信じられないかもしれないが、僕にも一応そんな時期があったのだ)、深夜ラジオを聞くことはとうとう一度もなかった。ガールフレンドと同棲をする際に一緒にマンションを見に行った時も、賑やかな大通り沿いにするか、あるいは閑静な住宅街にするかで大喧嘩をしたこともある。結局、遮音性に優れた大通り沿いのマンションで妥協したわけだが。

 僕は小説を読むときに、あるいは参考書を読むときに、音によって集中力が遮断される事が多い。一度集中力が途切れてしまうと、まるで漁船の上に放り出された深海魚のように、僕は何もできなくなる。本を読んでもただ機械的に文字を目で追うだけで内容が頭に入らず、これから解くべき数式はまるで意味のない模様のようになってしまう。僕はバックミュージックという類のものを嗜むことができないのだ。それが音楽であるか、あるいは人の話し声であるかに関わらず。もしかしたら、僕の耳、あるいは脳には致命的な欠陥があるのかもしれない。つまり、自分がその時に必要とする音と不要な雑音を聞き分ける能力、現代風に言えばノイズ・キャンセリング機能が人よりも劣っているということだ。地味であるが非常に厄介なこの欠陥と、僕は付き合っていかなければならない。ガールフレンドがテレビの電源をつけた時は、僕は画面に背を向け耳栓を入れる。

 とはいえ、僕はあのよく晴れた日に渋谷の井の頭通りを歩いていた。もちろん、僕は渋谷が賑やかな場所だということは知っていたし、歩きながら考え事をするために井の頭通りに立ち入るほど愚かではない。ただ、井の頭通りを抜けたあたりにある紅茶の専門店でスリランカ産のダージリン・ティーの茶葉を買う必要があり、そのためにはあの忌々しい繁華街を通過せざるを得なかったのだ。その日の井の頭通りも、やはり遮音性とは対極の位置にある場所だった。狭い道路の両側からは、聞いている方が恥ずかしくなるほどの自己主張に基づいた様々な音が発せられて無秩序に入り混じり、まるで街全体がパチンコ店になってしまったかのような有り様だった。とある洋服屋の店先では限定セールの看板を掲げた女の子が餌を持った飼育員を見つけた猿みたいに甲高い声を張り上げ、CDショップのスピーカーからは、訳ありせんべいの袋詰めみたいなアイドルグループのどうしようもない歌声が毒霧のように撒き散らされていた。

 そんな混沌の中でもひときわ自己主張の強い集団が、僕の前方にあった。彼らは十人程のグループだった。見た目は20代前半の大学生で、男女比は半々といったところだ。髪の毛を安っぽい茶髪に染めてピアスをしているのもあれば、黒髪でメガネをかけているのもあった。その統一感のないグループは東急ハンズの前で横一列に並び、周囲の雑音を切り裂くように大声を張り上げていた。彼らのうちの何人かの手には大きな看板が掲げられ、民族衣装を着た少女がカメラの方を見て涙を流している写真の上に、『途上国の女性が虐げられている』というようなキャッチコピーが書かれていた。そして、ある何人かは大きな募金箱を持っていた。

 僕はポケットに両手を突っ込み、ありったけの演技力で眼光を鋭くして彼らの前を歩いた。歩行者は僕の他にも大勢いたし、危ない人間のふりをすればやり過ごせると思ったのだ。熊の前では、死んだふり。ボランティア・グループの前では通り魔。しかし僕の浅はかな擬態は彼らの前では無力だった。

「インドの女学生支援のための募金にご協力お願いします」ボランティア・グループの一人の女の子が僕に近づき、話しかけてきた。彼女の腕にはしっかりと募金箱が抱えられている。

「結構」僕は言った。

「インドの女学生は15歳で結婚させられて、教育を受けられないのです」彼女は僕の言葉を無視して言った。

「今、持ち合わせがないんだ」

「お気持ちだけで結構です。ご協力をお願いします」

 僕は大きくため息をついて、肩にかけていた鞄から財布を取り出した。そして財布の札入れから期限切れのラーメン屋の割引券を取り出し、募金箱の口に押し込んだ。彼女は信じられないという風にポカンと口を開けて僕の方を見ていた。

「この紙くずをインドに送ってあげるといい。せいぜいメモ用紙くらいには使えるだろう。ご希望の勉強も捗るはずだ」

「ひどい!」彼女はその場に泣き崩れた。そして、僕はボランティア・グループの男達に両腕を取り押さえられ、近所の公園に引きずり込まれた。なんの抵抗も無駄のようだった。

「やれやれ」と僕は言った。

 僕は人通りの少ない公園で、5人の若い男に囲まれていた。全員、敵意をむき出しにして僕を睨みつけていた。その環から少し離れて、僕が泣かした女の子が他の女性に肩を抱かれて経緯を見守っていた。

「どういうつもりですか?」茶髪の、ピアスの男が口を開いた。

「それはこちらの台詞です」僕はそう言って、僕が先程泣かした女の子を指さした。「気持ちだけで結構です、と彼女は言った。だから僕は僕の気持ちをあの箱に入れたまでだ」

「それは、どういう気持ちの表現なのです?」

「消えろゴミ共、ということだよ」僕はニヤリと笑った。

 その瞬間、僕の視界は乳白色に染まった。茶髪の男の右フックが、僕の顎にヒットしたのだ。まるで中国製の巨大なドラを叩くような強烈な音が頭の中に響き、僕はその場に崩れ落ちた。稲光の後に雷鳴が聞こえるように、痛みは衝撃の後にやって来るのだ。やはり渋谷なんて碌でもないところだ。そして、ボランティアをやっている連中の民度など、所詮はこんなものなのだ。僕はなんとか立ち上がり、ろくでもないボランティアの連中の隙間を一目散に駆け抜けた。そして、10メートルほど離れたところで彼らの方を振り向き、力の限り叫んだ。

「子供じゃあるまいし、いい年した若者が10人も集まって、馬鹿じゃないのか!?あんなところに突っ立っている時間があったら、その時間で日雇いのアルバイトでもして給料を全額寄付したほうがよっぽど効率的だろうが!結局、お前らは寄付先のことなんて何も考えていないんだ!ただいい格好をしたいだけじゃねえか!ボランティアサークルなんていう響きに群がって一日中道端に突っ立って騒音を撒き散らして、帰り際に募金が集まらなかっただの街の人達は冷たいだの好き勝手悪口を言い合いながらその募金で飯食って、そのまま家に帰ってセックスするんだろうが!お前ら、みんな死んでしまえ!そして保険金を全額募金してろ偽善者どもが!」

 長い長い捨て台詞を吐いた後、僕は公園の出口の方へ全力で走った。しかし、若者の瞬発力には敵わずあっさり捕まり、公園の隅で日が暮れるまで吐くほど殴られて、僕は気を失った。

目を覚ました時、僕は公園の木陰に横たわっていた。服はボロボロに破られ、全身に擦り傷と青あざができていた。そして、財布からは現金が根こそぎ無くなっていた。もちろん、紅茶は買えなかった。

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渋谷のボランティア団体 村上はがす樹 @murakamihagasuki

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