ブルーカーテンの向こう側(男バレエダンサーの珍道中)

@hanzawa319

第1話

ここは元ソ連の共産国家の支配下にあったハンガリーの首都ブダペスト。真っ暗な夜空から小さな雪片がハラハラと落ちている。寒く静かなアンドラシ大通りの一角に、一際輝く華やかな建物…それはこのハンガリーが誇る国立オペラ座!劇場の前には黒塗りの外交官だけに許される青色のナンバーを付けた外車が次から次へと乗りつけられ、車からドレスを着たレディーとタキシードを着た紳士が次々に劇場内に入って行く。

政界や財界、大手企業の人間もいればあらゆる芸術家たちもこぞってこの門をくぐって入って行く。何故ならばこの建物の行く先には人間の英知が結集した夢の世界が待ち受けているからだ。

劇場の正面玄関を入れば輝かしい朱色と象牙色の大理石で見事に演出された麗しい社交界の世界…。更に奥へと進むとそこは黄金の装飾で包まれた目も冴えるほどの巨大な円形状の客席空間!黒檀の木のフレームに真っ赤なベルベット生地のがっしりとした椅子が整然と舞台に向いて並んでいる。真正面に目をやれば、金糸銀糸をふんだんに使ったルネッサンス時代のバロック朝を思わせる贅を尽くしたゴブラン織りの言葉を絶するような幕が遥か高い所から垂れ下がっている。まるでパリのオペラ座がそのままこのブダペストに移されたかのように実に見事なオペラ座なのだ。

この夜、バレエ「白鳥の湖」全幕公演が夜7時に時間通り始まった。巨大な劇場の内部には定員数の1200もの客席が全て埋め尽くされ、立ち見席まで出て超満員になった。


これは一人の日本人の男バレエダンサーの話である。男の名はショージ・ハンザワだ。夢を追い続け、日本を離れて6年の間ヨーロッパを流浪した後、ようやくこの劇場のバレエ団とソリスト契約を交わし、そして今夜はいよいよ男のデビューの日。ようやく念願であった「ソリストダンサーとして踊ってみたい…」という夢が叶ったのだ。しかし、今からが本番であり、それが成功しなかったらその先はどうなるかは分からない。

奥行きが90メートル程もある舞台の背後の暗闇に主役の王子、準主役である王子の友人役のショージ、そしてショージのパートナーの女性2人がスタンバイ。主役の男性ダンサーがショージを登場場所までエスコートしている最中だ。

「この真っ暗な空間は一体何処ですか?」ショージの問いに王子役の男性が「もう舞台の上に来ているのさ。ここは舞台の後ろ半分さ…。今回の演目では舞台の前半分だけを使って上演するのさ…」

余りにも暗過ぎてショージは両手を前に出しながら主役の男性の後ろから付いて行った。主役の男が後ろから恐る恐る付いてくるショージに普通に喋る時のような声で言った。ここが既に舞台ならば この声は客席にまで聞こえてしまわないのかとショージは躊躇した。「さ、ここで待たなければ…ここにスピーカーがあって舞台監督から指示が出るから…」

一体何処からどうやって舞台上に出て行くのか見当も付かないショージに王子役の主役ダンサーが「いいかい、気を付けてこのステップ の細い階段を上がるんだぞ!階段を華やかに見せるためにわざと工夫してあるんだ。君が思っている以上にステップが細いからつま先だけで上り切ると階段の頂上で暫し芝居をする。そして直ぐに踵だけで下る階段になっている。絶対に落ちない様に気を付けろよ!じゃ、グッドラック!」

通常、舞台に出る際は必ず前もって舞台リハーサルを行ない、舞台セットの位置や踊りのスケール などを把握しておくものなのだが、今回ショージは一度も舞台リハーサルをしてもらえず、言わば ぶっつけ本番だ。小さな頃より栄養失調のために鳥目のショージには暗過ぎて足元が全く見えな かった。

上っている途中で案の定、階段を踏み外してしまい、登場が遅れてしまった。階段の頂上で観客の前に現れた王子が小声でショージに言った。「間に合わないと思ったよ…大丈夫か?」ショージは20段ほどもある大階段から下を見て「あっ!!」と絶句した。

そこには尋常ではない、驚愕するほど大きな舞台が現われたのだ。数百台にも及ぶ目も眩むほどの天井ライトやサイドライト、正面からは強力なスポットライトの閃光でショージは身体のバランス感覚を失いそうになった。

そして遥か向こうにあるはずの客席が遠過ぎて全く見えなかった。なるほどこれほど大きい舞台ならば多少大きい声を出して喋っても客席にまでは聞こえないであろう。王子の登場により観客席から盛大な拍手が起こった。王子とショージ、そして2人の女性ダンサーの4人が芝居をしながら舞台前面に進むうちにようやく観客の顔が見え始めた。しかし、観客の顔つきが一瞬にして変わった。

ショージの顔をまるで宇宙人でも見るかのように唖然として見ているのだ。きっと王子の友人であるならば金髪で背の高い白人を期待していたに違いない。ショージの背丈は僅か王子の喉元ほどしかなく、観客は日本人ダンサーをまるで異様な存在として観る眼になっている事がショージにも直ぐに分かった。

登場シーンでは王子と友人の4人での僅かな踊りと戯れるような芝居が5分ほど…。ここで女王が登場すると、ショージと女性ダンサー2人がそっと袖幕に消えて行く。7分あまりの出番を待つ間、ショージは今日自分の踊りが試されるための精神的な準備をした。

通常、ソリストが踊る「パ・ド・トロワ」(3人の踊り)の出番はたったの2回だ。王子の友人として場を盛り上げて次の話に繋ぐだけの役である。が、この役の男性1人と女性2人はバレエ団でも非常に実力のある者が選ばれる。

この準主役ともなるべき脇役は女性にしても男性にしても憧れの主役になるための一つの登竜門でもある。普通なら喜ぶべき大抜擢なのだが、ショージにとっては一つの試験であった。ハンガリー国立バレエ団の全てのダンサーはハンガリー人だ。そんな中、日本人ダンサーを客がどのように判断するかだ。

何処からともなく突然この国立劇場にやって来て、170人編成の大バレエ団の唯一の外国人として迎えられたのは、ロシア人でも無ければアメリカ人やイギリス人でも無いバレエ団の中でも最も小さい日本人のショージだった。

第一幕の開演から20分後にハイライト・シーンである王子の友人たちの踊り「パ・ド・トロワ」へと続く。女性2人とショージの3人一緒に踊る場面を終え、次はヴァリエーションと呼ばれる、女性1人きりでの踊りが1分30秒。次いでショージの1分12秒の踊りを終えた。客席から沸き起こる拍手喝采は予想以上に大きかった。ショージは日本人らしく深々と頭を下げ、観客に応えた。そして今、2人目の女性の踊りが舞台上で行われている。

舞台で挨拶を終え、袖幕に走りこんだショージの足の裏の筋肉が痙攣(けいれん)を起こした。額から汗がボタボタと流れ落ち、折角丁寧に時間を掛けて塗ったアイラインやシャドウも滲んで滴り落ちてしまった。ステージサイドに置かれたスピーカーから聞こえて来るのはオーケストラピットから勢い良く流れ出る音楽。次のショージの出番までの時間は残り1分30秒ほどか…。袖と呼ばれるステージサイドに倒れこんでいたショージは、何とかこの痙攣を抑えたいと思うのだが焦れば焦るほど筋肉が引き攣ってしまった。コップに入れておいた水にも手を出せず床の上に突っ伏して、呼吸を整えるのが精一杯だ。全力で踊ったために必死で息を吸っても酸素が身体中に回らない。出来るだけゆっくり深呼吸をしながら、体勢を立て直していくほかない。

出番まではもう時間がほとんどなかった。身体の全機能が痙攣のために麻痺していくのをほとんど精神力のみで克服しなければならない。己の気力との闘いだった。

「さ、今立たなければ間に合わなくなってしまう…!」出番が目前に近づいて来た。ショージの頭の中をよぎったのは、今夜、舞台で踊っているバレエ団の全てのダンサーたちが費やしてきた労力やこの舞台を創り上げる為に掛かった膨大な費用、国立劇場に携わる全ての関係者、付きっきりでショージの踊りのために指導して来た先生…そして何よりもこの大事なデビューの如何でこのバレエ団に生き残って行けるかどうか、契約が破棄されないか一線を画する人生最大の大勝負!

「絶対に失敗するわけにはいかない!」ショージにはバックアップしてくれる人は誰もおらず、戻る家すらなかった。日本に帰りたくても飛行機代さえも持ってない。ここで生き残って仕事をして行かなければこの男は路頭に迷ってしまうのだ。

床に倒れた状態から両腕で身体を起こしたあと、両足でガッガッと床を踏みしめて痙攣を遮った。身体はフラフラと揺れながらおよそ人間の態を感じられないような足取りで一番奥の舞台袖に向かった。


出番30秒前…!

女性のソロの踊りが終わると、観客席から惜しみの無い拍手が踊り終えた女性ダンサーの全身を包んだ。そしてコーダと呼ばれる、踊りを締め括る華やかなアップテンポの音楽に変わると、女性が最初に舞台に飛び出して行く。続いてショージの番だ。深く息を吸い素早く吐き出した。更にもう一度もっと深く酸素を肺の中に送り込んだショージは、オーケストラを操る指揮者を僅かに確認すると、舞台の真中に向かって大きくジャンプするために全力で助走をつけて一気に舞台に飛び出して行った。

バレエ団の全ダンサーもまたこの劇場の付属の国立バレエ学校の全ての教員たちも、この名誉ある国立バレエ団に一体どんな外国人が入って来たのかを検証する目になっていた。日本を発ってからもう6年もの月日が流れていた…。


1970年7月 (6歳) 交通事故とグランドピアノ

ショージは4歳の幼い時にも交通事故に遭っているのだが、その2年後に再び同じ場所で同じような忌まわしい事故に遭ってしまったのだ。お菓子を買いに行く途中の出来事だった。美味しいことで有名な「関本」というラーメン屋の前の横断歩道の所にたくさんの車が駐車していた。客が横断歩道の手前に勝手に車を停めてしまうのだ。

横断歩道などに駐車されると大人でも向こうからやって来る車が見えないと言うのにそんな車のせいで右から走って来る車が子供には見えるはずがなかった。ショージが横断歩道で止まらずにラーメン屋の前にある道の向かい側にある「黒川」と言うお菓子屋だけを見つめて手に20円を握り、一目さんに道路を渡ろうとしたその瞬間だった…。

その時のショージの目には全てがスローモーションにはっきりと見えた。白い車が手の届くような5メートル程目前に轟然(ごうぜん)と唸りを上げながら突進して来た時、ショージの身体は一気に高く上がって行った。ショージは一瞬だけ苦しくなったのだが、直ぐに楽になっていく感覚を覚えた。「どうしてこんなに高く飛べるんだろう…」道を歩いている訳でもないのに、数十メートルも道と平行に飛んで行けるのだ。眼にはその時の光景が非常にゆっくりで全てが鮮やかに映り、どちらかと言うと気持ち良くさえ思えた。

と、その瞬間、ショージは白いガードレールに「ズガンッ!!」と激しい力でぶつけられ、ガードレールの煤だらけになっている白い杭の根元で身体がくの字のように折れ曲がって潰れた。6歳になったばかりの子供は青い空を見上げ、小さな手に持っていた20円が手から零れ落ちた…。

少年の耳にはもう何の音も聞こえなかった。そして呼吸も出来なかった。だが、青い空だけはくっきりと見えるのだった。白い車はスピードを落とさずに行き過ぎて行った。非情な車の運転手は自分が轢いてしまった子供なんかにはこれっぽっちも関わりたくなかったのだろう。

「ああ…もう少しで僕は小学校に入るのに…僕の家にはいつもは全然お金が無いのに今日は優しいママがこれでお菓子を買ってもいいわよ…とくれた大事な二枚の茶色の十円玉…このお金があれば…大好きな20センチほどの紐の付いた赤いイチゴの形をした飴が一個5円…だいだい色の丸いガムが4つ入った小さな箱が5円…おせんべいも5円…そしてワクワクするクジが5円で、負けてもガムが貰えた筈なのに…そうそうは行けないお菓子屋さんが直ぐ目の前にあるのに…ああ…息が出来ない…」

悶絶しながら身を捩じらせた。50メートル向こうの方の大工の店から頑丈そうな男が飛び出して来た。そして車を無理矢理にストップさせ、白いワイシャツを着た運転手を運転席から引きずり下ろした。

ショージの目から涙が零れた。「ママ…」眠くなる時間ではない筈なのに閉じようとする瞼…。ショージにはそのあとフ~と意識が無くなっていった。気が付いた時は病院の集中治療室の恐ろしいほど強い光を放つ電光の下のベッドの上で裸にされて寝かされていた。白い医療着を着けた一人の太った看護婦が「あ~あ~、この子ったら、お漏らししているんですよ~!」

 ショージはそんな看護婦の無情な言葉に腹が立った。そして心の中で呟いた。「僕は漏らした事なんか今までに一度も無いんだ!」しかし声を出せる気力は無かった。「誰が好き好んで漏らすもんか…身体がもう言う事を聞いてくれないんだよ…ああ…また、意識が遠のいて行く…」

白く霞む雲の上を歩いているショージ…。「なんて気持ちが良いんだろう…あ~、もっと行ってみようかな…向こうはとっても気持ちよさそう…」その白いモヤモヤの中に包まれた世界ではとても気持ちが良かった。もっと気持ち良さそうな向こう側…その手前に何故だか深い溝がありそうなのだが、栄養失調で他の子供たちに比べると小さく細いショージだった。「軽くポンと飛べばこんな溝は超えられそうだな…」そしてその一歩を踏み出そうとした時に「しょうちゃんっ!それ以上は行っては駄目~っ!」普段はとても優しい母が真剣に怒っている様な声が聞こえたのだ。

その白い世界とあの溝…それこそ、三途の川…と呼ばれているこの世とあの世を隔てる一線だったに違いない。その晩、ショージは家の座布団の上で寝かされていた。怪我や病気をしても入院出来る様な金が少年の家にはなかったからだ。

その忌まわしい事故から何ヵ月か後になってショージの家にとんでもなく大きいグランドピアノが届いた。それはショージの母が少年を撥ね飛ばした運転手から多額の賠償金を受け取ったからであった。もし仮にショージの父親が賠償金の事を知ってしまったらその金は全て父親の飲み代と化してしまうだろう。そこで母親はその全額でこのグランドピアノを買ったのだった。

ショージは母親に聞いた。「ママ、凄いね!こんなにでかいピアノがどうして家に来たんだろうね?」母親は答えた。「あなたが痛い思いをしたのがこんな形になったのよ…。さ、これからはピアノをちゃんと習って一生懸命練習するのよ!」ショージには寝耳に水のような言葉だった。「げーっ!僕、ピアノ習わなきゃいけないの!?」

 これが、ショージとピアノの出会いであった。埼玉県狭山のお茶畑でチャンバラごっこをしていた、6歳の夏の話である。


1971年 3月5日 母、私、妹…3人の野宿

少年ショージが7歳になった時に家族に起こった話からだ。兄である悟(さとる)は小学3年生、ショージは1年生で妹が3歳になったばかりだ。悟がか細い声で言った。「じゃ、ショウ、元気でな…ママ…」母を見つめながら「うっ…」と言った後は我慢していたものがとうとう堰を切って溢れ出し、悟の両目の瞳からポロポロと涙が見る間に滝のように頬の上を伝った。

両親は東京で知り合い、恋愛をしてこの埼玉県の狭山市という田舎町まで駆け落ちした。狭山市の入間川と言う小さな町には米軍の基地があった。この貧しい家族が住んでいる地域には、稲荷山と呼ばれる小山があり山の上に広がる広大な場所に米軍の飛行場基地がある。稲荷山の坂の上に沢山のアメリカ人の住居があり、坂の上は金持ちの天国、坂の下はウルトラ貧乏地獄のような所だった。

ショージの家は父がちゃんとした職業が見つからず、毎晩大酒を飲んで妻に暴力を振っていた。とうとうショージの母親は離婚を決意し、長男を父親に残し、ショージと妹を連れて家を出る事にしたのだ。玄関で靴を履いたショージが上を見ながら涙声で言った。

「お兄ちゃん、元気でね…いつかまた会えるのかな…じゃね…」兄の悟は母と弟、そして妹の3人を真っ直ぐに見る事が出来ず、顔を背向けていた。それがこの兄弟の最後の別れであった。玄関にも下りて来ずに悟は固まったまま動けなかったのだ。母親は背中に妹を帯ひもで背負い、ショージを自転車の後ろの席に乗せ、あちらこちらと彷徨(さまよい)歩いた。

後年、大きくなってからもショージは当時の事を想う時、「もう思い出したくもないあまりに悲しい思い出で、忘れたくても目をつぶれば細かい色までもが鮮やかに目の裏に蘇ってしまう…」と回想する。人間はどんなに歳をとっても自分の故郷を忘れる事はない。それはショージにも同じだった。ショージは故郷について語るに当たってこう口を開いた。

「私の故郷は埼玉県狭山市にある入間川というお茶所の町です。名前の通りに入間川には秩父と飯能市の大きな連峰が繋がる深い山々から流れ出た名栗川が源流となっている川が私の生まれた町に流れているのです。小さな頃はこの川で良く遊びました。そして父親は食事の最重要ともなる動物性たんぱく質をこの川で小魚を釣る事によって得ておりました。お茶畑では良く基地を作って遊んだりしたものです。とても懐かしく想います…」

夕暮れも終わり真っ暗な夜空の下、気丈なショージの母は7歳の誕生日を迎えたばかりの息子、そしてまだ3歳になったばかりの娘を自転車に乗せて当ても無く彷徨歩いた。母が息子に言った。「ここなら雨が降っても大丈夫だから、ここで寝ましょう…」と降り立ったのは入間川に架かる橋の下であった。ショージにはいつまでもその橋の名前を忘れる事はなかった。その名は「富士見橋」。

ショージの手をとって橋げたの下まで降り立った時に母の背中におぶ紐(ひも)で背負われている3歳になったばかりの妹を見ると頭を後ろにだらんと下げて寝ていた。母親は急に何かを見ていた。その目線の向こうには橋の袂(たもと)の近くを石焼きイモの屋台を引っ張って移動して行く一人の老人の姿があった。

母親は急いでショージの手を引っ張り、橋の上まで来るとそのリヤカーの屋台の主に声を掛けて、石焼きイモをたった1本だけ買った。老人が言った。「え?1本だけでいいのかい?」その一本の芋を買う他に金は持っていなかったのだ。

そして芋を大事に抱えて3人は橋の下まで行き、普段母親が布団作りの仕事で使っていた唐草模様の風呂敷をコンクリートの上に敷き、背中に背負われている娘を降ろした。母親はその娘を身体の前に抱っこしながら「ほら、お芋があるよ!起きて食べなさい…」3歳の娘は目を覚まし、匂いを嗅いだ瞬間から小さな口が見る見る大きくなり、母親が半分に折って熱を冷ました芋にがぶりと食らいついた。そうとうに腹が空いていたのだろうがあまりに食べるのでショージは大きな声で、叱り飛ばした。「ば、ばか!そんなに食べたらママのがなくなっちゃうじゃないか!これだけしかないのに、そんなに食べちゃ駄目!」

すると母親は優しい声で言った。「しょうちゃん、ママはお腹が空いてないから大丈夫なのよ…ほら、こっちの半分はしょうちゃんのだからお食べ…」そんな優しい母に向かって泣きじゃくりながら少年ショージは「それじゃあ、本当にママのが無くなっちゃう!ウワーン…ママのが無い、ママのが無いよー!ウワーン…」

母親は微笑みながら食べさせたが、ショージにはボロボロと流れる涙と一緒くたになって芋の味なんかちっとも分からなかった。新聞紙を娘と息子に巻きつけて3人で風呂敷の上で朝まで抱いていた優しい母親だった。胸に抱かれたショージは上を見上げた。夜空があまりに変わった色なので母に聞いた。

「ママ、空を見てよ!なんで夜なのに紫色なんだろうね?変な色だね?」母は、息子と娘を抱きながら、「あら、本当ね…変な色…さ、しょうちゃん、ここで眠りましょう…」その日何処に行く当ても無い3人の親子はこの入間川に掛かる富士見橋の真下で寝た。その日…実にその日から、ショージの野宿は始まったのだった。

ショージがまだ小学生の頃は母親が必死で働いてショージとその妹を養っていた。これ以上に究極に貧しい家もそうそうは無かっただろう。長屋のボロアパートは6畳間と3畳間だけで手洗いも和式だ。いわゆるボットン式だ。そんな狭い空間にグランドピアノがドーンと置いてある。母、息子、娘の3人は一つの布団で寝て暮らしていた。

母親はショージに向かって言った。「何が何でもピアノと踊りの練習だけは絶対に続けないといけないわよ…あなたの将来をきっと助けてくれるのだから…」と。昼は自宅で布団作りの内職だ。夜に女性が出来る仕事と言えば当時、キャバレーのホステスくらいだった。子供たちのために必死に働き続けていた。しかし、そんな暮らしが徐々に彼女の身体を虫食んで行く。

ある日、息子のショージは学級会で芝居をしなければならなかった。その小道具や衣装は各々、各自で揃えなければならなかった。ショージは家の押し入れ中から大きなお茶の箱を見つけた。「あれ、この中には一体、何が入っているんだろう?」勝手に箱を開けて見てみた。するとその中から今まで見た事も無いような綺麗なチャイナドレスを見つけたのだ。

「よし、衣装はこれにしよう!」それを学級会の芝居の時に母には無断で着用したのだ。母親が遅れて学級会を観に来た。そしてショージのチャイナドレス姿を見ると慌てて家に帰ってしまった。家に帰ると母親は眉間に皺を寄せ、本当に困った顔で「このお茶の箱を勝手にいじらないで…」と泣きそうになりながら息子に頼んだ。それ以来、ショージは二度とお茶の箱に手を掛けることはなかった。あのチャイナドレスが実は母が働く時に店で着ていたドレスだったのだと気が付くにはあまりにも幼過ぎた。

母親はどんなに生活が貧しくても踊りとピアノの練習だけには金を削る事はせずに、必死に働いて念出していたのだ。

ショージにはほとんど友達はいなかった。踊りを習うために学校を早引きしなければならなかったのだ。ショージもそれについては落胆していた。彼は学校を2時間目だけで去らないとなると、誰とも遊んでもらえない。しかし、母親は学校に連絡し、必ず2時間目に帰宅させるよう先生に頼んでいた。だから学校側としてもそうせざるを得なかった。学級の生徒たちもそれを見て見ぬふりをしていた。ショージは胸を閉ざして暮らしていた。大好きだった父親と兄とは分かれて以来会う事はもうなかった。

やがてショージが5年生になった頃、母親に好きな男性が現われて再び結婚した。そしてショージにもう一人の可愛らしい妹もこの世に誕生した。だが、貧しさだけは一向に変わる事がなかった。ボロアパートは家族が増えても大きくなる事はない。相変わらずに6畳間と3畳間だ。3畳間はキッチンになっている。そこにボロボロの冷蔵庫に茶碗ダンスがあり、ガラクタもたくさん置いてある。実質的にはこの3畳間はただ歩いて6畳間に行くだけのようなものだ。大人2人に子供3人の家族にはあまりに狭い家…と言うよりも小屋であった。

ショージの寝場所は部屋の真中からグランドピアノの下になった。毎晩、グランドピアノの下から恐怖心を持って見上げた。「数百キロのピアノの重みでこのオンボロアパートの床が抜けたりしたらどうなるだろう…地震が来れば間違いなくこのボロ家の床は瞬く間に抜ける。僕はペチャンコになるだろう…。」そう考えると安心して眠りにはつけなかった。ショージは極度の地震恐怖症なのだが原因はここから来ているのかもしれない。グランドピアノは命を脅かす敵になっていた訳だ。

そんなある日、小学校の2時間目の授業の時だった。急に先生から「お母さんから電話があったから直ぐに用意して家に帰りなさい、早く!急いで帰りなさい!」ショージが家に着くと母親の異常な緊張感と声を挙げた。父と兄との別れから数年が過ぎた頃である。

「しょうちゃん、早く、直ぐに行くわよ!何も持たないでいいから、お母さんと一緒に来てちょうだい!」タクシーに飛び乗り、その中で母親がショージに言った言葉は仰天するものだった。「しょうちゃん、お兄ちゃんは…お兄ちゃんはね、病気で死にそうになっているのよ…」母親は震えながら言った。

その時、タクシーの後ろから大きな音で「はい!そこのタクシー、止まりなさ~い!」振り返ると赤い照明をクルクルと回転させながらパトカーが後ろからピッタリと付いて来ているのだ。運転手が母親に「申し訳ないがこれじゃ止まらない訳にはいかないんでね…」

そしてタクシーが止まり、運転手に言ってドアーを開かせた途端、母親は車から飛び降りるようにして、パトカーから出て来た警察官に猛烈な勢いで捲くし立てた。

「あんたたち、私の…私の息子が病院で今、死にかけているのよ!危篤なのよ!1秒を争うこんな時に…私たち国民が本当に困っている時に助けるのがあんたたちの仕事と違うの!こんな所で止めてしまって、もし息子に会えなかったら、間に合わなかったらあんたたちは、一体どうしてくれるつもりなの!」

すると女性の猛烈な剣幕にたじろぎ、2人の警察官が顔を見合わせた。そして出た言葉は、「わ、わかりました!今から、その病院まで誘導させて頂きます!どうぞ離れずにパトカーに付いて来てください!」病院に着くと、看護婦と共に廊下を走った。普段なら看護婦は「廊下は絶対に走らないでください!」と言うのであろうが、「早く、早く走ってください!」これで尋常で無い事が兄の身の上に起こっているのだとショージは思い知らされた。

 ショージの兄の悟は個人部屋で命を長らえるための機械に囲まれたベッドに寝かされていて、そこには既に親戚一同が揃っており「こちらに…」と呼ばれた母親は、長男の顔を見るなり泣き崩れ、悟の名前を何度も呼びながら咽び(むせび)泣いた。ショージには兄が一体何故こんな酷い仕打ちを受けなければならないのかそれが堪らなく悔しく思えた。声には出さずとも「まだ兄ちゃんはこれからたくさんの時間をかけて友達を作り、色々な国へ旅行して、そして感動的な経験をしなければいけないのに…。何があっても呼吸が止まっちゃだめだからね…兄ちゃん、どうか頑張って!」そこにいる時間ほど辛い時間はなかったであろう。悟は幼少の折から小児喘息を患っており、母親と弟、妹と離ればなれになってからの病状は悪化の一途を辿っていた。

 母親は息子、娘を連れて家に帰って来た。家に着いてからは一言も話さず、黙々と夕飯の支度をする。その後、数年の間に悟は危篤状態を7回も起こした。だが幸いな事に悟は母、父の願いや周りのたくさんの人の願いが届き、なんとか助かることが出来た。しかし、病院からは出られず、7年もの間、闘病生活をおくらなければならなかった。ショージは兄の緊急を知らされたあの日、兄が個室で過ごしているのではなく、本当は4人部屋で過ごしていたのを看護婦から教えてもらい、その部屋まで案内してもらった。

 兄のベッドの脇にはカラーボックスが置いてあり、これ以上は綺麗に成らないと言えるほど細かな物がきちんと整頓して並べられてあった。兄の几帳面さが窺えた。そしてカラーボックスの中に車の本がたくさんある事で、兄は車が好きな事を知ったのだった。


兄を探し出し再会!

小学5年生になったショージはある日、どうしても兄や父に会いたくなった。昔、家族がまだ一緒住んでいた頃の、米軍の航空基地となっている入間川の稲荷山のふもとにある長屋まで自転車で行ったのだ。だが、そこには兄の悟も父親ももう住んではいなかった。

「兄と父は一体、何処に引っ越してしまったのだろうか…」

その時、ショージは思い出した。父親の姉、つまり叔母にあたる人が入間川に住んでおり、割烹料理屋の「いろは寿司」をやっていることを!そこで自転車をこいで記憶を頼りに店まで行ってみた。店はそっくり消えていた。その店は数年前に引っ越しのために無くなったのだと店の近所の人から聞いた。

「すみません、その店の経営者は一体何処に引っ越してしまったのでしょうか?実は私の叔母なのです!」と近所の人に尋ねた。「確か、東京の端っこの方だったと聞いたが…あ、そうだ思い出した!青梅って聞いたな。青梅市で新たに店を開いたって聞いたよ。」ショージはその街の名前を頭に刻み込んだ。「青梅って一体、何処なんだろう…」

それから2年後、ショージは中学校に進学した。そして兄の行方を遂に探し当てたのだった。それは、電車で行っても2時間も掛かる遠い場所であったが、自転車で丸1日を掛けて会いに行った。どうしても会いたかったのだ。そしてたくさんの人に道や店の事を聞きながら、とうとう探し当てた。「や、やった!遂に店を発見した…!」兄はその叔母にあたる人の所に住んでいたのだ。

ショージの叔母である清子は東青梅市で再び割烹料亭「いろは寿司」を営んでいた。ショージがガラガラ…と音を立てて引き戸を開けた。清子はこんなまだ早い時間に客が入って来たのか?と入口を見た時、飛びあがって驚いた。そしてそれが客ではなく自分の甥っ子であると言う事を直ぐに分かったのだ。

清子は喉に唾を突っかからせながら大きな声で言った。「何よ!あんた、しょーちゃんじゃない!本当に驚かされたわね!あんたのお兄ちゃんは今、そっちの厨房にいるのよ!」と言いながら厨房に向かって叫んだ。「さとちゃんっ!ちょっと、さとちゃんたら~!誰が来たと思う?ほら~っ!こっちに早く出ていらっしゃいよ~!しょうちゃんが…」

清子が咳き込むようにしながら「しょうちゃん、よくこの場所がわかったものねー、それでどうやってここに来たんだい?電車の乗り換えも大変だったでしょう?」ショージは叔母に向かって頭を横に振り、電車ではなく自転車で来た事を告げた。「な、なんだって!?自転車だって!?あんた、狭山から自転車なんて信じられないわよ!車でさえ遠いのにさ!どんなに時間が掛かった事か…」

厨房から叔父さんや板前さんたち、お運びの女性たちまでも次々にたくさん出て来た。ショージは今までこの人たちとは会った事は無かった。店主である清子の甥っ子が遥々狭山市から訪ねて来た事を知った店で働く全ての人が厨房から出て来てショージを見つめた。

「こんなに沢山の人が働いているのか…」ショージは驚いた。しかし、その人々の中には兄らしき人の姿はなかった。清子が再び、大きな声を出して厨房にいるはずの悟を呼ぼうとしたその時、途中から涙で声が出なくなってしまった。ショージは皆が呆然と見ている中、一人厨房に入って行った。そこが想像以上に広い厨房なのでビックリしたが、奥に兄の悟が立っているのがはっきりと分かった。

 自分より遥かに大きく、横顔には昔の面影が残っていた。しかし悟はこちらには背を向けて下を向いているのであった。ショージは兄の傍まで寄ろうとした。すると悟はようやくショージを見た。悟の眼が赤くなって涙を零しながら瞬きもせずにショージをじっと見つめている。ショージがゆっくり…ゆっくりと近寄って行く。

ショージも口は開く事が出来なかったが心の中で兄に喋り掛けた。「一体、どれほどの時が過ぎたんだろうね…」ショージが兄のいる傍まで近づいて行けば行くほど兄の真っ赤な両目からボトボトと涙が零れ出た。

 「ねえ、お兄ちゃんは我慢して、声も出さずに、絶対に泣くまいとしているんでしょう?お兄ちゃん、僕もお兄ちゃんと一緒の気持ちだよ…言葉なんていらないよね…会いたかったよ、ずーっと会いたかったよ…僕は、何年か前に一度、病院でお兄ちゃんの顔を見る事が出来た…だからこれで2回目だよね…でもお兄ちゃんは昏睡状態だったから、母さんの顔も妹の顔も僕の顔も分らなかったんだね…。お兄ちゃんにしてみれば、あの最後の別れの日、玄関で俯いて(うつむいて)声を押し殺して泣きながら、固まって動かなくなったあの日からずーっと、母さんや僕、そして妹とも会えなかったんだよね…。長かった、本当に長かったね…みんな3人とも元気だよ…お兄ちゃん、こんなに立派に大きくなって どこから見ても立派な板前さんじゃないか…生きていてくれたからこそまた会える事が出来たんだよ、お兄ちゃん、本当に会えて嬉しいよ…。」

そう心の中で話しかけながら、兄の手を取り、2人で背中を震わせ泣いた。「ねえお兄ちゃん…みんな厨房の入口で、叔母さんも板前さんたちも全員が僕たち2人の再会を喜んで泣いてくれている…ああ、お兄ちゃん、生きていてくれて本当に嬉しい…!」


1980年 (16歳)最愛の人

ショージは小学校1年の時から高校生になるまで新聞配達をしていた。中学生になってからは、朝の新聞配達の他に、夕方になると近所にある「スカイラーク」と言うレストランで皿洗いのアルバイトもしていた。自分の手で金を稼ぐ事は母親を助けることにもなるからだった。

ショージは母親の勧めでピアノと日本舞踊を幼少の折からずっと続けて来た。舞踊を習うために2時間半も掛けて東京の新宿まで毎日のように通ってもいた。だが高校生になった時から、段々と舞踊を習う事が重荷になって行った。そして悩んだ。「僕にとってこれから先も続けて行く事に意味があるのか、この道が本当に僕に合っているのか、それとも僕のまだ知らない全く違う世界があるのか…」と。しかしこの悩みに終止符を打つ日が来た。

 ショージの意思で辞めなくても辞めざるを得ない出来事が生じてしまったのだ。高校に入って暫くした時に最愛の母親が突然、水臓がんと言う恐ろしい病気で亡くなってしまったのだ。しかしショージにはこの事実を受け止める事がどうしても出来なかった。

人間はあまりにも悲し過ぎる事が起きると涙さえ零れなくなる。ショージにはこれから先、一体誰を頼りに生きて行ったらいいのか解からなかった。母親は今までショージにピアノと踊りを習わせるために寝る時間も惜しんで必死に働いた。働きまくって挙句の果てに水臓の中に赤ん坊の頭と同じ程の大きさの腫瘍が出来てしまったのだ。それでも母親は子供たちの事を心配した。

病院の一室で母親は自分の死が近いと悟ったのか息子をベッドの傍まで呼び寄せた。もう喋る事さえ出来ないほど弱りきっていた母親はショージに紙と鉛筆を持って来させた。震える手で紙に書かれた文字はぐにゃぐにゃに曲がってしまったが母親は必死に書いた。「あなたは踊りを生業として生きて行きなさい…ただ妹の事が心配でならない…まだ小さな女の子なのに…私が死んでしまったら…」と書いてあった。ショージは母の両手を握りしめ、どうして良いのか分からないほどの悲しみに耐えていた。

 ほどなく母親が亡くなった。ショージは母の存在の大きさを改めて感じた。だが、折角母がショージのためにいつも言っていた「芸は身を助けるのだからね…」と諭してくれたピアノや踊りまでも辞めてしまったのだ。「これからは自分で生活の道を切り開いて行かねばならない、生きて行かなくてはいけないのだ…」と決心した。

何とか無事に高校を卒業した後、ショージはある日ミュージカルを見てとても感動した。劇団四季だ。そして強く想った。「この劇団に僕も入る事は出来ないだろうか…」幸い友人が劇団四季で働いている事を思い出し、ショージはその友人にどうしたら良いか相談をした。彼女はまず、バレエを習う事を進めた。

「六本木にある“一番街”という名前のスタジオに小川亜矢子先生という素晴らしい先生がいるから、そこへ行ってバレエをならってみてはどうかしら?ミュージカルをやりたいならまずはバレエよ!そして四季に入りたいのなら小川亜矢子先生!」と。

 これまでショージはバレエなど見た事もなかったのでその存在自体も知らなかった。そしてクラッシックバレエが、ミュージカルと一体どう関連しているのかさえ、見当が付かなかった。劇団四季を見た日から「音楽、歌、そして踊って芝居をする事はとても素晴らしい…僕もそんな世界を知ってみたい…」自分の知らない世界を知った。

 ある日、ショージはチラシを見て、何処かの劇団がミュージカルの出演者を募集しているのを知った。それはテレビでもよく見かける人気歌謡グループのゴダイゴが歌う「孫悟空」、「モンキーマジック」というミュージカルであった。しかし、そこに入るためにはオーディションがあった。即興で自分をアピールする試験があるのだ。その試験のためにショージは警視庁に働く従兄から本物の日本刀と同じほどの重量のある模擬剣を借りた。自分で勝手に武士らしい振りを付けて、武田信玄の「風林火山」の歌詞を付け派手な袴(はかま)を着て模擬剣を抜刀して歌ったのだ。

 試験に立ち会った審査員たち全ての人が目を丸くしながらショージの踊りに見入った。なんとショージはオーディションに合格した。このミュージカルに出演している人々はジャズダンサーが多かった。だがショージはジャズダンスなど全く習った事がない。また芝居の勉強もした事がなかった。きちんと台詞も言えず、歌も歌えず、この劇団の足を引っ張っていた張本人だったと自分でさえ思った。

 この劇団が行うミュージカル「モンキーマジック」には有名人がたくさん出演した。「ジェットストリーム」で名を馳せた城達也もいた。ラッキー池田と言う変わり種のタレントもいた。いよいよ劇団は公演のためのリハーサルに入った。ショージの無能さに団員たちは手こずった。ダンス指導のチーフは頭に手をやり「この男は果たして本番に使えるだろうか…」

 そして本番を迎え、十数回に及ぶ舞台の日々の中でチーフはショージに向かって言った。「君はミュージカルよりもバレエをやった方が良いのじゃないかと思う…」ショージはこの劇団と一緒にリハーサル、公演とやった中で、楽しいと言う実感が湧かなかった。むしろこう言うのは自分には向かないと言う事を知った。自分の無能さを痛感したのだった。

依然として狭山市に住んでいるショージはそこから電車に乗れば一時間弱で行ける新宿で、コマ劇場の地下にあるフラメンコを見せるレストランでのアルバイトの仕事を見つけた。厨房で皿洗いをやれば交通費も出してくれた。時間があればフラメンコも勉強出来るかもしれないと思ったのだ。その厨房に働く一人の先輩の青年がジャズダンスをやっていると言った。また、同時にタップダンスも習っているのだと聞かせてくれた。

 先輩が誘った。「君もどう?タップダンスをやってみないか?」ショージは早速その先輩に付いて行き、値段の高いシューズを買ってタップダンスを習いに行ってみた。実際タップを習い始めた初日、そのリズムと速さに圧倒されてしまい、足が付いて行けず棒のようになってしまった。2回目に行った時は先生から「どうやら君にはリズム感が無いようだね。多分、君はタップダンスよりもバレエをやった方がいいのかもしれないぞ…」と言われた。

 その日の先生の言葉でショージはタップを諦めた。リズム感を持っていない自分が情けなくも感じた。その場で他の人にそのタップシューズをあげてしまった。貰った方の男は飛び上るほど喜んでいた。そのシューズを買うのにどれほどバイトしたのか。自分に全くその才能がないと分かると惜しげもなくただで「どうぞ…」とあげてしまったのだ。バイト先の先輩がショージに厨房で言った。「実は六本木の「一番街」でジャズダンスを習おうかと考えているんだ…」ショージは以前に「一番街」ではバレエをやっているとは聞いてはいたがジャズもやっている事をその先輩の話から知った。


バレエとの運命の出会い!

ある日ショージはテレビでモーリス・ベジャール振付の「ボレロ」を見た。テレビに釘付けとなった。そして「こんな踊りの世界が存在するなんて…す、凄い!」前衛的なモダンなダンスに完全に魅了された。そしてルドルフ・ヌレエフと森下洋子による「ジゼル」全2幕を見に劇場に行った。この瞬間にショージは全身の肌から鳥肌が浮かぶほど感動した。「こ、これだ…これが僕のやってみたい事なんだ!」

 ショージはバイト先の先輩に先駆けて六本木にある「一番街」に行った。手ぶらだった。バレエをするにあたって一体、何が必要なのかも知らなかったのだ。まずは実際に目の当たりにしてからと思った。朝早く行き、門を潜るとそこに一人の婦人が一生懸命に掃除機で床のゴミを吸っていた。ショージは無造作に「ねえ、おばさん、ここは何時からやっているんですか?」と尋ねた。

 すると婦人は失礼な言葉には気を掛けずに「10時からよ!まだ時間が早いわ!」と言った。「随分とガラガラ声のおばさんだな…」と思った。10時になった。さっき掃除をしていたおばさんが更衣室辺りから出て来た。そのおばさんは真っ直ぐに稽古場に入って行った。すると掃除をするどころか、皆が一斉におはようございます!と頭を下げた。ショージは「あっ!?」と驚き、口がふさがらなかった。そのおばさんが“一番街”の主宰者である小川亜矢子先生である事に気が付いた時、ショージは目眩がした。ショージは大先生に向かって「おばさん!」と呼んでしまったからだった。「知らぬが仏…」とはこういう事だった。


動く彫刻の森

ショージが初めて見たバレエの稽古は上級者向きのクラスであった。日本のトップダンサーたちがレッスンに来ていた。数十人のスーパーダンサーたちだった。ショージは「バレエってこんなに凄いのか…どうやったらあんなに足を高く上げる事が出来るんだろうか…]と愕然とした。およそ同じ人間同士でも全く違う生物のように見えた。目の前で踊っている人間たちがまるで「生きている彫刻の森の美術館」であるような気がした。ショージはその生きているミケランジェロの彫刻のような人たちが実際に動き始めた瞬間に、その凄さと美しさに我を忘れた。「な、なんて事だ…!?この世にこんなものがあったなんて…この人たちは本当に人間なのだろうか…」

 ショージは次の日からバレエの練習に通い始めた。しかも初心者クラスと言うものがあるにも関わらず、それには行かずに朝一番に始まるこのミケランジェロの彫刻たちと一緒にレッスンを始めてしまったのだ。何をどうしたら良いのか全く分かっていない、まるで木偶の坊のようなショージに向かってバレエ教師の小川亜矢子の声が大きくスタジオ内に響き渡った。「このクラスはあなたのような初心者の人が来るべきクラスではありません!あなたの来る時間帯は夜のビギナーズクラスです!」

 ショージは次の日から先生の言葉に従い、夜のビギナーズクラスも受けるようにした。夜のクラスは朝とは違い、初心者ばかりなので素人が見てもあまり見られたようなものではなかった。それでも自身が一番分かっていないのだから仕方がないと思った。

ショージには稽古で先生がバレエ用語として使うフランス語の意味が全く理解出来ず、一体何処の国の言葉を喋って教えているのかさえ見当が付かないほどの初心者だった。遂にカンカンになった先生の小川から「朝のクラスは初心者には無理だから来ては駄目!」と言われてしまった。それでもショージとしては「絶対に“動く彫刻”と一緒にレッスンをしたい…一度、素晴らしいものを見てしまうとそれを見なければバレエに近づけないのではないか…」と思ったのだ。日に日にレッスンに通う事が好きになって行く自分がそこにいた。

 教師の小川亜矢子は「頼むからこのクラスには来ないで!」と言い渡したが今度はショージが「お願いですからこのクラスに参加させてください!」と頼んだ。小川は苦虫を噛みつぶしたような顔で「他の人たちの邪魔にならないように端っこでやりなさいよ!」と諦めて折れた。向こう見ずのこの男がどう考えても邪魔にならないはずがなかったにも関わらずにである。


埼玉県狭山市から六本木に引っ越し

ショージは埼玉県の狭山市という田舎町に住んでいた。六本木に行くには電車を何度も乗り換え、2時間半も掛かった。つまり往復5時間を電車の中で費やす事になる。交通費は新宿のフラメンコ・レストランでのバイト代に含まれていた。だがこの5時間は非常に無駄な事だと気が付いた。六本木に越してくれば無駄なこの5時間と言うものが省けると言う事に気が付いたのだ。

そして虎ノ門と言う場所に6畳一間のボロアパートを借りた。時間の節約の代わりにアパート代を新たに稼がねばならなくなった。バイトも新宿のレストランを辞めて虎ノ門のアパートの近くの花屋で朝早くから働き始めた。アパートの窓を開けば、そこは東京タワーの真下だ。バイト代からアパートの家賃とバレエのレッスン代を出すとショージの手元には一銭のお金も残ってなかった。「もっとバイトを増やさなければ…」しかしそれとは裏腹に「レッスンの回数ももっと増やさなければ上達出来ない…」とも思った。そんなショージの実情は腹が減り過ぎて死にそうであった。

 ショージは食事が出るバイト先を探せば、食費が掛からないと言う事に気が付いた。スタジオの傍に鉄板焼きをやっているレストランがある。ショージは数回ほど教師の小川に連れられて一緒に行った事があった。腹が減り過ぎたショージは取りあえず、その店に行った。そして「三日以上も食べてなくて死にそうだからここで働かせてくれないか…」と店主に詰め寄ったのだ。

 そこに居合わせた客、そして店主の奥さんも含め、10人くらいでパーティーを催していたのだが、この招かざる男が侵入し「ご飯を食べさせてください!お金は全然持ってないんですがここで何でもして働いて返します」と店主に必死に頼んだ。楽しんでいたであろう店主の家族と客がこの男の言葉で静まり返った。店主も困惑したが、「何でもいいか?」と言って肉野菜ご飯を作った。

 ショージは食べ終わってから、「金を持っていないのでここで皿を洗わせてください!」と再び頼んだ。店主は「金を持っていないのは食べる前に聞いたよ。そんな皿洗いなんて事はしなくてもいいからまたお腹が空いたらここに来なさい」と言った。ショージは真剣な目で店主に食い下がった。「明日も必ず腹が空きます。その次の日も、いや必ず毎日腹は空きます。ですが私はお金を持っておりません。ここでバイトさせてもらえればありがたいのです!どうぞ頼みます!」と更に懇願した。

パーティーの最中だった場はしらけてしまい、「もうバイトは男が一人いるから雇えないんだ…」とマスターは繰り返して言った。しかしショージの懇願する回数が店主の断る回数を上回った。とうとうショージはこの鉄板焼き屋の「アキ」で働き始める事に成功した。働き始めて数日が経った時に新たな事実がショージを驚かせた。この鉄板焼きレストラン「アキ」の店主はなんと、元バレエダンサーだったのだ。

ショージは20歳になろうとしていた。そんなある日、通っている六本木のバレエスタジオの皆からけんもほろろに言われた。「お前、馬鹿じゃない?お前の様な者がロンドンに行ってどうなるの?お前よりも素晴らしくて子供の頃からバレエをやってきた先輩のダンサーたちでさえヨーロッパに行っても全然通用しないというのに、技術もスタイルも持ち合わせていない様な男がヨーロッパに行ってどうしたいの?馬鹿らしくて話にならない…」とまるで相手にされなかった。

 ショージは自分の目で本物のダンサーというのはどんなものなのかを知りたくなったのだった。本物のダンサーたちの身体から絞り出される汗の香りや、同じ空気を吸いたかった。「何を指して本物と言うのかそれを知りたい…それに親ももうこの世にはいない…東京にいてもどうしようも無い…。それだったらいっそ僕は日本にいるよりも夢に見たイギリスに行って、英国ロイヤル・バレエ団がどんなものなのか絶対にこの目で見てみたい…!出来る事なら学校に入れてもらいたい…」

そう心に思いついた時からショージの運命は変わり始めたのかもしれない。それまで灰色にしか見えなかったこの世の全てが全く今までとは違うように見え始めたからだ。ショージは必死で朝方まで働き、バレエも1日に3回ものレッスンを休まずに受け、コツコツと飛行機代を貯めた。バイトの金で生活し、バレエのレッスンを3回もしながら金を貯めるのはとても大変なことである。食事もギリギリ死なない程度に制限していた。働いたお金はバレエに使い、残れば全て貯金にまわした。お金は使ってしまったら最後残らないからだ。

 イギリスに行くためには高い航空券代を稼ぎ、貯金もしなければならなかった。毎日腹が空いて仕方がなかったが、決して諦める事はなかった。ショージの夢だからだ。夢が無かったらどうやって生きていったらいいのかショージには分からなかった。

 「ああ…神様!本当にもし神様がいるのなら、夢を実現出来るのならば、私は長生き出来なくても良いから私の夢を叶えてください、お願いです!一生にたった1回だけで良いから僕のこの夢を叶えてくださいませんか…お願いです!」そう言って空き腹をさすったのだった。


1983年 春(19歳)六本木クラブ「愛」

ショージは今までアルバイトとして勤めていた鉄板焼き「アキ」を辞めてしまった。その理由はショージが友人の女子ダンサーからある相談を受けた事からだった。「仕事をしないと家ではもう助けてもらえないの…でも今まで仕事なんてした事がないし、どうやって探せばいいのかも分からないの…」そこでショージは自分が働いている鉄板焼きの店「アキ」の店主に掛け合ってみる事にした。

 店主は目を丸くしてショージに言った。「君一人でも、本来ならいらなかったんだがね…ならばこうしよう。私がこの女の子を雇うとする。だがその代わり君に辞めてもらわなければならない…」今度はショージが目を丸くした。「僕はまた仕事を探せばそれで良い。だけど彼女をなんとか救ってあげたい…」店主に言った。「では今日まで本当にありがとうござました。お蔭で本当に助かりました。では由美ちゃんの事をどうぞお願い致します…」女の子はこれで救われた。

ショージは新しいバイトを探すために必死に六本木中を歩き周ったが、働ける場所は見つからなかった。働き口がないと言う事はバレエのレッスンがもう出来なくなるだけではなかった。食っていけない事であり、飢え死にする事だった。アパートの家賃も2カ月分たまっていた。家主に言われた。「今週中に家賃を払えなければここから出て行ってもらう!」家賃をバレエのレッスン費に回してしまったのだ。「今日中になんとか仕事を探し出さないと本当にまずい事になってしまう…」必死になって探した。それでも見つからなかった。

そんな折、ある店のガラスに「従業員募集」とチラシが張ってある。「あ、ここが良いかも…」どうやら怪しいホストクラブだった。クラブがまだ始まっていない時間帯に店の中に入って行った。中には自称マネージャーと呼んでいる30代の怖そうな顔つきの男と面談した。「ここで働きたいだと?お前は幾つだ?それにスーツを持っているか?」ショージはスーツなど1着も持っていなかった。それよりもこんな恐ろしそうな男の元では安心して働く事は無理だと思った。

ショージはそのホストクラブの店を出て来て道を歩きながら途方に暮れた。頭をだらんと垂れながら六本木から麻布十番への坂を下って来ると、その坂の下から見えた一つの小さな看板が目に留まった。それはクラブ「愛」だった。ここでショージの人生の上で最も大切な師であり、母のような大きな存在であり、またショージがバレエを続けていくに当たって最高の応援者である人に出会う事になる。ショージの生涯の大恩人であり、生きる強さを教えてくれた人だ。

トボトボと暗い坂道を下がり歩いて来たショージは坂の下を通る道の反対側を見た。数件のスナックが見えた。道を渡り、スナックの並びの前に立った。「多分駄目かもしれないな…ま、駄目元で聞いてみようか…」そしてクラブ「愛」と言う字に惹かれ重そうなドアーを開いた。中は満員のようであったが、「こんなに忙しい状況で僕の話など聞いてはくれないだろう…」ショージは開いたドアーの手を放そうとし、店から去ろうとしたその時だ。

 直ぐに綺麗な和服姿の主人と思わしき女性がわざわざドアーの外まで出て来てくれたのだ。ショージの格好はよれよれの服であった。ましてスナックなど未成年のショージには知らない世界であった。酒など飲まないショージは怖くて中に到底入る事など出来なかった。店の外まで出て来てくれた和服姿の女性はショージの姿を見て「はて…子供かしら?」ショージは躊躇する事無く直ぐにその女主人にバイトを募集していないかと聞いた。しかし、女主人は残念そうに「今はもういるので…」と断りかけた。

 だが、ショージは「踊りを続けて行かなければならないし、食べて行けなくなるのでお願いですから私を雇っていただけませんか!」と懇願したのだ。女主人は「踊りですって?何の踊り?」と聞いた。ショージも躊躇わずに「バレエです!僕はバレエダンサーに成りたいのです!」と率直に答えた。

 すると女主人は一瞬考えてから「明日から来なさい!黒いズボンと白いワイシャツ、ネクタイを持っているかしら?」ショージは頷き、「必ず明日には全て揃えて持って来ます。どうぞ宜しくお願いいたします!店の中を覗いた時に確かにカウンターの中に男が一人バーテンとして働いていた。彼が女主人を補佐しているのだろう。

 女主人は「もう人手は足りているから雇えない…」と言っていたのに何故か主人は意思を変えてまでショージは次の日から雇ってもらう事が出来るようになったのである。この水商売の世界では女主人をママと呼ぶ。ショージが店で働き始めてから「愛」のママは、ショージがバレエのレッスンが長引いて店に来るのが遅くなっても、ただの1度も叱ることはなかった。店の従業員たちは怒った。

 「おい、お前は本来なら必要のなかった男なのに雇って貰っておきながら遅刻するなんてどう言うつもりだ!」ホステスも同感だった。だが一人主人だけは違った。むしろ周りに従業員がいない所にショージを呼んで、「あなたは将来バレエダンサーになるのでしょう?だったら何を置いてもバレエを優先しなさい。この仕事はその次で良いのです。自分の夢を優先するのです。」そしてバイト代も倍以上、ショージに払ってくれたのだ。

 そして正しい言葉使いや作法、他にもショージが知らなかったたくさんの事を教えた。ショージは心がとても温かくなって行くのを感じるようになって行った。それからショージはこの「愛」で働かせてもらいながらロンドンに行く夢を膨らませ、益々、バレエに夢中になって行った。ママにはいくら感謝しても感謝仕切れない気持ちでいっぱいのショージだった。


1984年 夏(20歳) 念願の航空チケットゲット!!

旅費を貯めるのに必死なショージは必要な物は出来る限り道で拾い集め、無駄なお金を使わないでコツコツと貯めて行った。そして遂にショージは念願の飛行機の片道切符を買った。またロンドンでの生活費に必要なごく僅かな金も貯めた。日本でさえもバイト先を見つけるのが大変困難な事であったがイギリスに渡ってから直ぐにバイトが見つかるはずも無いと思ったのだ。英語が出来ない不安も大きかったのは事実ではあったが、それよりも夢が実現する方が勝っていた。大きく勝っていたのだ。飛行機は、給油するために一度シベリアに停まり、再び給油のためにモスクワに寄ってからロンドンに向かった。ショージはソ連の航空会社の「アエロフロート」の片道切符を買ったのだった。当時航空会社の中で一番安い切符であった。

 「アエロフロートは飛行機が落ちるから止めておいた方が良い…」と周りの人たちが言っていたが、ショージには「絶対にアエロフロートは落ちない!これ以上の貯金は無理だ…これに乗って僕は自分の夢を実現するんだ!」と決めた。

 成田空港からロンドンまでの間、飛行機の中で眼鏡をかけた日本人の中年の男がショージの隣の座席に座った。最初にショージの方から男に話しかけたが男は面倒がっていた。しかしショージが初めて外国に行く事を知ってからは少しずつロンドンがどう言う所なのかを話した。ショージは緊張しながら眼鏡の男の話に聞き入った。だが男はあまり良い顔はしてはいなかった。いわゆる仏頂面でショージの話などには興味が無い様子だった。


モスクワ空港に到着

日本からは遥か遠いモスクワまでようやく辿り着いた。国際線ロビーだと言うのに、明りが点いておらず、薄暗いターミナルの中で8時間も次の乗り換えの便を待たなくてはならない。初めて外国に来たショージはこんな極寒だとは知らずに軽装で旅立ってしまったのだ。あまりの寒さで死にそうであった。ふと見れば何故か「ラーメン」と書いてある文字がまず目についた。おまけに日本にしかないと思っていた料理のサンプルがガラスのケースの中に並んでいる。「腹も減っているし、まあ美味しそうなラーメンそうだから食べてみるか…身体も温まるに違いないし…でも1200円はちょっと高過ぎるけど…」

 ショージは「よしっ!ラーメンを食べよう!」とレストランに入った。かなり太めの体格で青い目をしたウエイトレスが黙って椅子に座ったまま動かない。入口から入ってカウンターに座ったショージをじっと見ている。その姿は笑顔などなく、まるで不貞腐れているように見えた。ショージは「ラーメン、プリーズ!」と注文したら、そのやる気の無さそうなウエイトレスが30分以上も待たせてやっとラーメンを持って来た。

その器の中身を見てショージは驚いた。全くサンプルとは似ても似つかない代物だったのだ。なんと40円で売っている乾麺のインスタントラーメンを持って来たのだ。中身はネギやチャーシューなどの具が全く入っていないにもかかわらず「こんなものが1200円もするのか!」しかも麺は完全に伸びてしかも冷めていた。

 ショージは腹が立って「これは何だ!」と声を強めてウエイトレスに向かって言った。今度はロシア人の大きなウエイトレスが客であるショージが咳き込むほどの大声で「ラーメンっ!!」と答えた。

ショージは諦めた。その通りだからだ。金は注文と同時であったからどうせ戻って来ない。下手したらそのまま警察にしょっぴかれてモスクワの凍りつく刑務所に拘留させられたりしたら堪らないと直感したのだ。ソ連は驚くほど怖い所だと誰かに聞いた事があった。黙って退散する方が自分のためだと悟ったのだ。これほどまずいラーメンをショージが食べたのは初めてであった。


遂にロンドン到着!!

そして遂にロンドンに到着した。その日、ショージはまずヒースロー空港でパスポート検査に引っ掛かってしまった。ユナイテッド・キングダムまたはグレート・ブリテンと呼ばれるイギリスではヨーロッパの人でさえも当時は往復券が無ければ入国は難しかった。だが、それを知らずに日本から片道切符だけで来たショージはパスポートを見せた瞬間に検査官から「私に付いて来てください…はい、こちらにどうぞ…」と一人しか入れないような小さな部屋に入れられてしまったのだ。

無表情な顔の検査官が「私が再びこのドアーを開けるまでここにいなさい」まだ入国許可はおりていない空港の中である。ショージは部屋の窓を見た。窓には鉄の格子が嵌めてあった。「どう言う事だろう…」静かに3時間待った。ショージは部屋のドアーに手を掛けてみると鍵が閉まっていた。そこでようやくショージは気付いた。その部屋は一種の牢獄だったのだ。ショージは浮浪者として扱われ、指名手配されている犯罪者であるかどうか調べられていたのだ。

 全ての荷物を取り上げられていたが、ショージの持っていたバッグの底から元英国・ロイヤルバレエのダンサーだったバレエ教師からの招待状の手紙が見つかり、牢獄のような部屋の鍵を開けに来た検査官が「これはお前の物か?ここに何と書いてあるか言ってみろ」と聞いて来た。ショージは「バレエ!私はクラシック・バレエをやるためにロンドンに来たのです!そこには私を招待してくれた先生の名前があるはずです!」と即座にマイムを入れたり、足を上げたりして必死で検査官に説明した。

 ショージは全く英語が出来ない。高校の通信簿で英語の成績は最低の1であった。ショージは薄々、「ああ…これは駄目だ…十中八九私は日本に送り帰されるだろう…」と直感した。だが必死で身振り手振りをしての説明した事が通じた。

 「よし、ここから出ろ!お前の持っている金をすべて見せるんだ!」そしてショージはチケット購入にも満たない金を見せ、その他に預金証明書を見せると、幸いにも2日間だけロンドンに入っても良いという許可がおりた。その預金証明書はショージが麻布十番で働いていたクラブ「愛」のママに頼んでわざわざ作って貰っていたのだ。外国に行った事のある人から「預金証明書を作っておけば万が一の時に助かる…」と聞いたのだがこれが誠に功を制したのだ。

 そのたった2日間の内にショージには探し出さなければならないものがあった。それはショージの身柄を必ず責任を持ってロンドンで監視出来る人、または学校の許可があれば滞在許可が延長になるのだ。それにしても空港の牢獄のような部屋では事実上3時間の拘束であった。ショージは何も悪い事はしていないのだが、未然に犯罪者などをイギリス国内に入れないためと言うイギリスのセキューリティの厳重さが分かる。「それにしても酷過ぎる…」ショージの初めての海外生活のプロローグはそんなドロドロの苦い経験から始まった。


眼鏡をかけた悪い男

ようやくゲートから出て来ると飛行機の中にいた眼鏡をかけた日本人の中年男が直ぐに近寄って来た。「随分長かったね、あれから3時間以上だよ!ま、通過出来たんだからラッキーだよ。私は内心、君が絶対に日本に送り帰らせるだろうと確信していたんだがね…ま、どうだ、どうせ私もロンドン市内に行くから一緒にタクシーに乗せて行ってあげるよ!」

 一緒にロンドンに行くことになった。ショージがパスポート検査を終えてゲートを通過し、ロンドンの地面を踏めるまで、その男は待っていてくれたのだ。「僕の事を心配して待っていてくれたのか…本当に親切な人だ!」とショージは嬉しくなった。が、そこから2時間もタクシーに乗ってから、その日本人の男は「僕はちょっとその辺りに用事があるから…じゃ!」と突然タクシーから降りて消えて行った。

 ショージはてっきりその男は戻って来るものだと信じていた。しかし男は一向にタクシーには戻って来る様子がない。不安になったショージはタクシーの運転手に出来もしない英語で聞いてみた。「さっきの男は戻って来る?」「知らん…」「ここはロンドン市内?」答えは「ノ~!ここはイギリスのど真ん中辺りの田舎さ!方向違いもいいとこだ!空港から2時間掛けてロンドンとは全く別の方向に走って来たんだ。さ、お金を払ってもらおう!4万円だ!」と明らかに怒っている様子だ。ショージは「え~っ!?」と驚愕のあまりその事実を飲みこめないまま大事な金を財布から震えながら出した。

 「だ、騙されてしまったのか…!?信じられない…!」だが明らかなのは今この瞬間、金が一気にショージの懐から消えて行く事実だった。あの眼鏡の男はショージからタクシー代をせしめる為に、手ぐすね引いて待っていたのだ。飛行機の中でショージが元ロイヤルバレエの先生からの招待状を持っている事も男に言ってしまった。「だから、あのおやじは必ず僕がゲートから出て来るのを確信していたんだ!それにしても3時間も執拗に待つなんて…!ああ、ロンドンに来るために必死で朝まで働いて貯めた大事な金なのに…」泣くに泣けないほど悲しいショージだった。


招待してくれたロンドンの先生、ショージの絶望

結局ショージはタクシーの運転手に泣く泣く料金を払うとその足で鉄道の駅を探した。ロンドンに向かって電車で行き直したのだ。到着次第、ショージはロンドンに招待してくれた元ロイヤルバレエの教師テレンスに市内から電話をして会いたいと伝えた。

 電話口では「テレンス先生!アイアム、ショージ!ジャパニーズ!ドゥユ-リメンバー?アイ、カム、ロンドン!」すると先生は「オ~、ショージ?イエス、リメンバーユー!ロンドンに?いつ?」ショージは英語がほとんど喋れないので、電話で相手には見えないにもかかわらず身振り手振りで話ながら「え?いつですって?今です!今、ロンドンです!」

 テレンスは「エ~ッ!?ロンドンに来ただと!?一体、ロンドンの何処にいると言うのだ!?」ショージは嬉しさのあまり大きな声で「コベントガーデンです!」と答えるとテレンスは「ま、待っていろ!直ぐにそこに行くから地下鉄の駅前で動かずに待っているんだぞ!」と言って電話を切った。

 会いに来たテレンスは困惑した表情をした。まさかショージが本当に遥々日本からやって来るとは思わなかったのだ。ショージはテレンスに「私はロイヤルバレエに本当に入れますか?」と聞くと教師はその事には答えず、「とりあえず私の家に来なさい…そして相談しよう…」と言った。ショージには何の相談なのか見当がつかなかった。

 やがてテレンスの家に着き、「ショージ、確かに私は君に、君の才能だったらロイヤルバレエ学校に入れると言った。だが、ロイヤルバレエ学校に入るのには莫大な金がいるんだよ…持っているか?」。教師と彼の妻は真顔でじっとショージの顔を見つめながら聞いた。ショージは「5万円くらいなら大丈夫です!それ以上は持っていません…」と答えた。テレンスが大きな溜息を吐いた。そしてテレンス夫妻は眉間に皺(しわ)を寄せて頭を横に振ってショージの持ち合わせている金では到底、無理なのだと言った。

 「ロイヤルバレエ学校に入るのには年間350万円以上必要なのだ…」ショージはロイヤルバレエ学校に入りたいがためにここロンドンまで来たのだ。だが、それが駄目だと分かった今、帰りのチケットも金も持っていない。ショージにあるのは「絶望」と言う2文字のみであった。ショージは身体の震えが止まらなかった…。だが、ここでテレンスが口にした。「ま、心配するな!泣くのはもうよせ!お前をロイヤルバレエではないが、他のバレエ学校に入れるように考えるから私の力を信用しなさい!」

 ショージは肩を震わせるほど泣いてボロボロと零した涙と、顎まで垂れた鼻水を拭き、ようやく泣き止んだ。


バレエ教師テレンスとの出会いとショージの希望

 ショージの人生を変えたこのイギリス人のバレエ教師と知りあう切掛けになったのは教師テレンスが突然来日して、ショージの恩師である小川亜矢子(元英国ロイヤルバレエダンサー)のスタジオ(六本木)の訪れから始まった。臨時の教師を務めたテレンスは小川に向かって「このダンサーたちを使って私の作品を是非日本でやってみたい…!」との希望があったためであった。

 小川は当時、六本木の「一番街」という巨大な総合ダンススタジオの主宰者だった。そして小川はとてもエネルギッシュに「スタジオパフォーマンス」という発表会をこの大きなスタジオで毎月行っていたのだ。この特大のスタジオの壁面には巨大な観覧席が埋め込まれてあり、引っ張りだせば楽に数百人が収容出来るマジックスタジオになっている。

 ショージはこのイギリスからやって来たテレンスに大抜擢を受け、今は女優として大活躍している床島佳子と二人で主役に選ばれたのだ。これにはさすがの小川亜矢子も仰天して「あ、この子はまだ何にも出来ない新米のダンサーです。どうにもならないそこら辺の男ですよ!無理ですよ!」でも、テレンスは笑いながら「大丈夫!」ショージも先輩たちを差し置いて大抜擢された事に驚愕した。「まさか僕の後ろで先輩たちが群舞として踊るなんて…!」おまけにバレエをほとんど始めたばかりのショージは女性と一緒に組んで踊るアダージオは困難を極めた。自分で踊る事さえも満足に出来ないのに、コンクールで1位をとっている大バレリーナと踊るなど普通では考えられない事なのだ。

この振付をしたテレンスは一切、何の文句も言わずに最初から最後までショージを励ました。そしてイギリスに帰る前に「ショージ、イギリスに来てみなさい。本場のバレエを見る事はとても君のためになる…学費が無いのなら学校に交渉してあげても良いから…」と言い残しイギリスに帰って行った。


ロンドンのバレエ学校 オーディション!

 テレンスの自宅で話を聞いたあと、行く先のないショージは取りあえずテレンスの自宅に厄介になった。次の日にコベントガーデンにある「アダン・バレエアカデミー」と言うバレエ学校にテレンスに連れられて行った。見た事も無いような、相撲とりのように大きな体型の女性と、テレンスがヒソヒソと怪し気な会話をした。実はこの驚くほど太った女性こそ、この「アダン・バレエアカデミー」と言う名のバレエ学校の校長だった。生徒たちは彼女をミス・アダンと呼んでいる。

 テレンスが「ショージ、すぐに稽古着に着替えなさい!今から直ぐにレッスンが始まる」ショージは言われるままに着替えた。そしてショージと同じような年齢層のダンサーたちがたくさんいる稽古場に付いて行った。金髪の女子やジンジャーヘアーと呼ばれる生姜色の頭をした男もいた。褐色の肌をした男のダンサーやら黒人のダンサー、中には「あれっ!?日本人か?」と間違えるほど日本人にそっくりな中国人のダンサーもいる。

ショージは今まで日本人しかいないところでバレエのレッスンをしていたのでこれには圧巻だった。教鞭を執る女性の先生は、背が高く怖そうな感じの教師だった。テレンスもこの学校の責任者のような相撲とりのようなミス・アダン校長も、稽古場の真ん前の鏡の前で椅子に座ってショージのレッスン態度や技術力を確認した。果たして海の向こうから金も持たずにやって来た日本人の男は学校に入れるだけの能力を持ち合わせているのかどうかを。

 他にも幾人かの先生らしき人たちも鏡の前に加わり、何やらショージを吟味するかのような目で見ている。たくさんの外国人のダンサーたちが…いや、ショージが外国人なのだが、やはりショージに注目しているのも分る。その目は皆、「何だこのチンチクリンは?何しに来たんだ?」と言うような白い目だった。ショージはまるで自分が市場で競りに掛けられている土まみれのごぼうのようなものであるような気になった。

 背の高い女性教師がピアニストに向かって合図を出した。ピアノが鳴り渡り、渡英以来、ショージにとっての第一発目のレッスンが始まった。ショージはそのレッスンを指導してくれている女性教師ヴィヴィアンの素晴らしさに驚いた。それもそのはずだった。彼女こそ世界のトップダンサーなのだからだ。


先生は元ロイヤルバレエ団のプリンシパル

これはショージが後に知った事だが、彼女は英国ロイヤルバレエ団のトップであるプリンシパル(プリンシパルとはバレエ団の中の最高ランクを意味する。下から順に群舞のコールドバレエ、デミソリスト、ソリスト、プリンシパルと言う順列である。)をしていたウルトラ実力者のダンサーだったのだ。彼女の名前はヴィヴィアン・ローレイン。

 ルドルフ・ヌレエフ(ソ連から亡命して来た男性ダンサー)と、アンソニー・ダウエル(イギリス人でロイヤルバレエ団のトップ男性ダンサー)というクラッシックバレエダンサーの中でも世界最高の実力者である2人の男性ダンサーのパートナーをしていたのが、ショージの目の前で教鞭を執られているこの女性なのだ。

 レッスンを受けながら何も知らないショージは茫然とその美しさに見惚れた。何と長くて美しい脚のフォームか。そしてなんとエレガントな動きなのか。彼女の瞳の澄み方を見て、「この人はただ者じゃない…!」と身体から鳥肌が立つほどの感動を覚えた。「これが見たかったんだ!」と嬉しさが込み上げた。

 レッスンが進行し、意外に簡単な事ばかりなので驚いた。ロンドンではもっと難しい事をするのだろう…とばかり思っていたからだ。バレエレッスンも終盤を迎えると鏡の前で椅子に座って見ていたミス・アダン校長がショージをグッと指差し、「ヴィヴィアン先生が見せたヴァリエーション(一人だけで踊る事)のジャンプやアンシェヌマン(踊りのステップとステップを組み合わせたもの)を一人で踊りなさい!」と言った。普通なら複数人で一緒にやる事なのだが。その横でテリー先生もショージの動きを真剣に見ている。ダンサーも先生たちもみんなシーンとしてしまった。

ショージは全てのアンシェヌマンのジャンプをした後、最後にピルエット(片足を折り曲げ一本の足でクルクルと回る技術)は8回で締め括るつもりだった。最後には先生のアンシェヌマンには入っていなかったザンレール(空中で直立姿勢のまま2回転回る事)というテクニックを急遽入れ込んで片膝を床に着いてピタッと着地した。その瞬間、稽古場にいたダンサーたちが「うぉお~っ!!」と奇声の混じった怒涛のような歓声と拍手をショージに向かって投げた。その反応にはショージの方が驚いてしまった。

 レッスンを担当した怖そうな顔をしていたヴィヴィアン・ローレイン先生までがこぼれる様な満面の笑みを浮かべ、やはり両手を前に差し出して私の踊りに拍手をしていた。

 ショージには一つの基本的精神がある。「人間を外見だけで判断してはいけない…」だ。どんなに貧しそうな格好をしていても心気高い人がおり、どんなに怖そうなモンスター並みの迫力満点と言えるような人にも実は涙もろい人であったり、心優しい人もいるからだ。この基本的精神はほとんど的中している。

 教鞭をとった女性は確かに黙っていると怖そうなに見えた先生だが後々に判ったのは実は非常に優しく、また良く笑う気さくな先生だった。ヴィヴィアンはショージが憧れていた元ロイヤルバレエの輝くプリマバレリーナだったのだ。

 鏡の前に座っているミス・アダン校長とテレンスの2人が顔を見合わせて頷いた。テレンスが椅子から立ち上がり突っ立っているショージの傍まで笑顔で歩み寄った。そしてミス・アダンを見ながらこの女性は校長先生だと紹介した。校長はショージに人差し指を上に向けてチョコチョコ…とさせショージを近くまで呼び寄せた。彼女は椅子から「どっこいしょっ!」と立ち上がり、満面の笑顔で「あなたの入学を許可します…」と静かに言った。

 「あなたはお金を持っていないそうね?あなたは海外留学生学費免除の特待生としての許可ですよ…」と言ったのだ。その時の校長先生の優しさと慈悲に溢れた目をショージは生涯忘れる事がない。


一枚の証明書

 「え、本当ですか!このままロンドンにいられるのですか!?や、やった…!!」稽古場の全員がとても温かい笑顔で拍手をくれた。ロンドンに着いたばかりで絶望感と恐怖に怯え、震えていたショージの心に一筋の光が射した瞬間だった。その日の内に学校側がロンドン滞在に必要な全ての許可申請をした。校長が秘書に学生ビザの申請のため直ちに行動せよと命令し、もう一人の秘書に一通の書類を作成させた。そこには学校印、校長の直筆のサインと共に

To Whom it may concern,

Shoji Hanzawa is a student of The Urdang Ballet Academy, Coventgarden.

As fulltime oversea scholarship student.

 一枚のこの書類を校長がショージに手渡し、「もし誰かにあなたの身分を聞かれたらこれを見せなさい。あなたは私が保証します。」と言った。ショージはこの身分証明書ともなる紙を道で拾ったビニール袋に入れて胸のポケットに大切にしまってボタンを掛けた。ロンドン在住中、身体から離す事は一度たりとてなかった。こうしてショージはロンドンに残ってバレエの勉強が出来る事になったのだ。


東京と同じような生活スタイル

数日が経ち、学校の生徒たちに助けられ中国人の経営するとても臭く安いアパートも見つかった。「これは漢方の臭いだと思えば良いのだ…」と自分に言い聞かせた。やがて学校にも慣れて来た。

「何処かアルバイトが出来る店はないだろうか…」と街を歩いていたら店の張り紙に目が留まった。リージェントパークにある日本レストランだった。ほとんど文無しでロンドンにやって来たショージはロンドン暮らしの最初は東京での生活と同じように大好きなバレエのレッスンが終わったら日本レストランに直行して深夜までの皿洗いだった。ショージの生活スタイルは日本からロンドンに場所を移しただけで、バレエとバイトで目一杯であった。

生活は貧困を極めた。一週間単位で給料が出るのだが、そのほとんどはアパート代と交通費で消えてしまう。つまり部屋の中が暗かろうが寒かろうが電気代などの光熱費などは全く無い。服も買う事も出来ない。ましてショージはバイトの給料だけでは食べる事さえ出来なかった。

 バイト先の厨房の奥にある洗い場で誰も見ていない時に先輩の日本人コックが作った料理の失敗作をショージは口に入れ、捨てるような物でも口の中に入れた。それしか腹を満たす事が出来ないのだ。皿を洗っている最中、日本人のコックがいなくなった瞬間に急いでサランラップでご飯を盗み、そこら辺にあるゴマでも塩でも鰹節でもあるものは何でもご飯に掛けて急いで隠した。見つかったら最後、ショージは首になる。しかし悲しい事にそうでもしなければ次の日は一日中、腹が減って動けないのだ。


忘れる事の出来ないショージの恩人

 そんな時にショージを救ってくれたのは韓国人のコックのウォンだった。ショージがいつも腹を空かせているのをウォンは知っていた。「これ、味見していいよ…」と誰にも聞こえないように小さな声で囁いておにぎりを作ったのだ。ウォンはショージと同い年であった。この日本レストランの厨房で他の韓国人がべっ視されている中、ウォンだけは日本人と同じように揚げ物を任せられていた。日本語がとても達者で料理も上手と言う非常に稀な男だった。ウォンはショージのために日本人のシェフには内緒で「これ、君の明日のお弁当だよ!」といつもこっそりおにぎりを作り手渡した。

 他にも十数人の韓国人の下働きの人たちがいたが、日本人のシェフとウォン以外は誰一人として厨房の真中に立つ事が出来ない厳しい規律があった。ショージは日本人ではあるが、このレストランの中の階級では一番下であった。下働きの韓国人のその下にイタリア人がいて、そのイタリア人は風貌がランボーに良く似ていた。またそのランボーはかなりの変人でもあった。

ショージが「そんな生の鳥肉を食べるとお腹をこわすから食べない方がいいですよ!」と必死に止めてもニヤニヤしながら食べるのだ。そんなランボーを見てショージは気持ちが悪いとしか言いようがなかった。いつも信じられないような事をするこの変人の更にその下でショージは皿洗いとして働いていた。変人のイタリア人もその上の下働きの韓国人たちも厨房の真中までは恐れ多くて行けない。であるから規律に厳しい日本人シェフが厨房にいる時には一番格下のショージが行けるはずが無かったのだ。

シェフが居ない時を見計らってダダダ!と厨房の真中まで走ると、ひたすらご飯に鰹節をバラバラかけてラップに詰める!隠しながらまた走る!バッグに仕舞う!これが毎日のショージの基本姿勢だ。ウォンはいつもショージのために日本人シェフに隠れては「これ、今の内にパクッと口の中に入れてよ!」ショージは皿洗い場から走っては急いで口に入れてまた洗い場に戻った。毎日のように食べさせてくれた国境を越えたショージにとっての大切な恩人であった。

 ある日、ショージはいつものようにサランラップにご飯を包み、その上に鰹節をババッ!と掛け、日本人シェフに見つからないよう急いでバレエレッスンに持って行くバッグの中に仕舞った。これを明日の昼ご飯にするためだからだ。


臭う電車内の男

 ロンドンの早朝、アンダーグラウンドと呼ばれる地下鉄ピカデリー線の電車の中で異臭がするのに気づいた。それは足の臭いなどでは無く、まさに異臭だ。何処と無く和風な異臭でもあった。ショージはまず自分の両脇の臭いをチェックした。だがショージ自身ではなかった。「あ、もしかしたらソックスか?」だがそう言った臭いではなかった。

 ショージは隣の席に座っている人を見た。「何て臭い人なんだろう…!オエッ!」しかし、そのとなりの席の人が今度はショージの顔を猜疑心の目で見返して来た。「何だ、このおっさんは!?」ショージは視線を反らしつつ、「ふん!」と遺憾に思ったが、段々とその車両の乗客たちが「クンクン?ん…クンクン?」と異臭に気づき始めた。

 ショージには「この車両の何処かに異臭を放つとんでもない人間が絶対に紛れている!」と確信した。ショージはコベントガーデンのいつもの駅で降りた。車両を振り返り「ああ臭かった!まだあの臭いが鼻にこびりついている!」と思いながら、駅の階段を速足で上がって行った。コベントガーデンの駅は恐ろしく深い地下の中に設けてあり、階段は非常に長く、そして2台ある特大のエレベーターは超満員で一旦上に上がったら中々降りて来ない。しかも3回くらい待たないと乗れないのだ。だから厳しく長い階段であっても頑張って自分の足で上がった方が早いと言う事を知ったのだった。


鰹節の香りのレオタード

ショージはバレエ学校に着いてから、更衣室に行き、自分のバッグを開いてその中身を見て白眼を剥いた。「ギョエーッ!?」ショージのバレエの稽古着がご飯と鰹節でまみれているのだ。それだけなら良いが、鞄を開いた瞬間に更衣室にいた全員が「うわーっ!臭っせ~っ!」と部屋から飛び出して行った。ショージも思わず自分の鼻を摘まむほどだった。取りあえず食べられそうな飯つぶはラップに戻した。それだけが唯一の昼飯なのだ。

 「稽古着からくっついて離れないご飯と鰹節を除去しなければ…」ショージは、近くのゴミ箱にその稽古着に付いた飯を手で摘まんで捨ててしまった。これがまずかった。ごみ箱に放置した状態では更衣室に臭いが充満してしまう。せめてビニール袋に入れて捨てれば良かったのだ。だがショージはそこまで繊細な神経を持ち合わせてはいなかった。あらかた飯つぶが取れたところで、ショージはその稽古着に着替えた。それしか稽古着が無いのだから仕方がないのだ。稽古着は完全に鰹節の臭いになっている。だからといってバレエを休む訳にはいかない。

 ショージが稽古着に着替え終わり稽古場に入って行った。そしてウォームアップをしていると女の子たちは「キャーッ!臭過ぎる~!」と大袈裟に叫んで出て行った。ショージはその日以来、皆から異様な目で見られるようになってしまった。そして挙句の果てに「スティンキー・フィッシュ」(臭い魚)と言うあだ名が付けられてしまったのだった。


文無しの男の生活

ショージは自分の服もバレエのレッスン着も洗剤で洗濯した事がない。それは単に金がないので洗剤が買えないだけだからだ。汗で濡れた稽古着は学校の水道で洗い、それを家に持って帰って干し、次の日にまたレッスンが終わったら学校の水道で洗うと言うそんな毎日だった。稽古着はゴワゴワだった。普段の服もドロドロだった。女の子が見たら「オエッ!」となるであろう。でも、仕方が無かった。必死に働いてもロンドンでは労働賃金は安く、それでも黙ってこき使われるしか無いのだ。そう言った訳でショージは文無しだから、首の調子が悪いとか身体の調子が悪くなっても病院にも行けない。ましてロンドンで整体師に身体を治療してもらうなどと思いつきもしない。

 ショージの足先は生まれつき良い形ではない。良いつま先とは関節が非常に柔らかく、甲が出ていて足先がしなやかに曲がる形だ。足先を伸ばせば矢尻のように見える足、そして両足を伸ばして床の上に直接座った時につま先が床にくっ付く状態。これがバレエダンサーにとって憧れの足の形である。しかしショージの足の形はまったくそんな理想とはかけ離れており、両足を伸ばして座ると足の先端は床につくはずもなく、つま先が天井に向く。バレエダンサーになる夢を持つ人間としては非常にやるせない気持ちになってしまう。例えどんな足先の形をしていようがバレエを続ける事が本当は最大の難関であり、それが出来うる人間が結局どんな人生にせよ、どんな形にせよ実になるのかもしれない。古人いわく「継続は力なり…」だ。ショージに言わせるとすれば「継続は奇妙な実をつける」かもしれない。

 1日3度のレッスンを終えると走ってバイト先の日本レストランへ皿洗いに向かう。これをしないと生活が成り立たないからだ。ショージは路上を歩きながら思った。「バレエのレッスンだけに専念できたらどれだけ幸せだろう…そうだ!バレエ団に入れば専念出来るんだ!よし、バレエ団のオーディションを受けてみようか…」バレエ団に入りたいのはダンサーであれば皆、同じである。何処の国の人間であろうが、プロダンサーを目指す者たちの夢なのだ。だがショージは英国籍を持っていない。バレエ団に入るためには労働許可が必要になる。もし仮にショージがソリストやトップダンサーのプリンシパルとして認められたとしたら、労働許可は直ぐに下りると校長から聞いた。しかしショージは諦めた。自分にそのような才能があるとは思えないからだった。


ロシアの偉大なる教師を持つダンサー

ショージが絶対に忘れる事の出来ないダンサーは元ロイヤルバレエ団プリンシパルのスターダンサーのミスター・チンコ・ラフィックだ。彼は世界中のバレエ学校の中でも名門中の名門であるロシアの「ワガノワ・バレエアカデミー」出身で、彼の先生はバレエ界では伝説のアレクサンドル・プーシキンである。フランスに亡命したロシア人の世界的なバレエダンサー、ルドルフ・ヌレエフや同じくミカイル・バリシニコフを育てたのはこのアレクサンドル・プーシキンである。ショージはチンコ・ラフィックがゆっくりとオープンクラスに現れるとテンションが最高潮に上がり、その日がとても有意義な気持ちになる。

 稽古場に現れたラフィックをじっとショージは見つめる。センターアダージオ(ゆっくりなテンポの踊り)が始まり、ショージは自ら第2グループに入る。何故なら第1グループの彼の動きを見たいからだ。長い足のその先の甲とつま先は目を見張るほど美しく、しかも使い方がとても丁寧である。他のダンサーたち(イギリスにおけるプロダンサーのサドラーズウェールズ・ロイヤル団のバレエダンサーやロンドンシティ・バレエ団のダンサーたち)とはスタイルが全く異なり、特に顔を向ける角度など、動き一つ一つが重厚だ。

 ショージが「お早う御座います!」と挨拶すると、彼は手を上げて「 やあ、元気かい?」と応える。ラフィックの瞳はグリーンがかったライトブルーで男の目で見ても実に格好が良かった。

 ある時、ショージがコベントガーデンにあるカフェでコーヒーも注文せずに友だちとバレエ談義をしているとそこへ憧れのラフィックが「 やあ!」と、となりのテーブルに来た。「ご一緒させてもらっても宜しいですか?」とショージたちは図々しくも半ば無理やりに一緒のテーブルに座ってしまった。ラフィックはプライベートな話をする際、ゆっくりと話すのであまり英語が出来ないショージにでも理解する事が出来た。

 「プーシキン先生はどんな先生だったんですか?」とショージが唐突に聞いた。ラフィックは微笑みながら静かに「偉大な先生だったよ…」と感慨深く答えた。ラフィックの横顔と瞳に見入っていたショージは、この大先輩の彼のバレエに対する深い情熱を感じた。

ある日、アダン校長がショージを校長室に呼んで言った。「今度の卒業公演にはチェケッティクラスを担当しているホアン・サンシェズ先生が3人の女の子とあなたで振り付けをしたいそうよ。スペインの曲、グラナダですって。それと、ラストのハイライト・バレエ「パキータ」の主役はあなたがやるのよ。頑張ってね…」

 唐突な校長の言葉に驚いたショージは「 え?卒業公演ですって?じゃあ、それが終わったら僕はどうなるのでしょうか?」校長は淡々と言った。「 そうね、卒業です…」ガーン!と頭を叩かれたような感覚になった。学校に入ってまだ半年足らずなのだ。ショージは卒業後に何をしたら良いのか全く考えた事もなかったのだ。いよいよ本番当日になり、比較的こじんまりとした舞台と客席。

 あらかじめ舞台上で場当たりしながら、歩幅や目線のフォーカス先のチェックをした後、主役でありショージのパートナーであるポーラに挨拶をするためにいる楽屋に行ってみた。「あれ?」ポーラは酷い緊張状態だった。それもそのはずだった。ポーラは客がたくさん入っている舞台で初めての卒業公演の主役を踊るのだ。緊張しない人間はまずいない。

 ショージは…と言えば幸いに日本で、舞台数だけは比較的踏んでいたので、そういう意味の緊張はなかった。ただ、「ポーラをしっかりと綺麗に見せられるように男性の責任であるサポートが上手く出来るのか…」そういった不安があるものの、今日は失敗の許されない本番なのだから一切の邪念を取り払い集中するしかない。

 緊張しているのはポーラだけではなかった。主役を取り囲み、群舞として踊るたくさんの女子生徒や他の作品に出演するモダンダンスの人々…ミュージカルを目指すダンサーたち、そしてこの卒業公演に出演する全てのダンサーたちも同じであった。

 朝の舞台挨拶ではミス・アダン校長から「今日はあちこちのたくさんのディレクターたちも見に来るから、ベストを尽くして、自分の人生を勝ち取るんですよ!」と言われ、皆、益々緊張の坩堝(るつぼ)にはまった。ショージはこの校長の最後の言葉が耳に残った。

「グッド ラック!アンド テイク ユア チャンス!」

卒業公演の次の日に、校長先生が改めてショージに言った。「あなたは学校なんかにいないでバレエ団で十分やって行けるわよ。明日、ロンドン・フェスティバル・バレエ団にオーディションしてもらえるように頼んでおいたから、頑張りなさいね!明日から学校は休みに入ります!」「え~っ!フェスティバル・バレエ団だって!? 凄いぞ、よしっ!頑張るぞ!」次の日にロンドン・コロシアム劇場に行き、オーディションが始まった。英国ロイヤル・バレエ団をも凌ぐフェスティバル・バレエ団には超精鋭のダンサーたちが顔を揃え、ショージは自分の踊りの技術が彼らに比べると、まるで児戯に等しいのを自覚した。結果は散々なものだったのである。


次々に失敗するオーディション

「考えていたり、落ち込んでいても前には進まないから、また一からトレーニングして頑張るしかない…!」と自分を励まし、ロンドン市内にあるパイナップルというオープンバレエスタジオやダンスワークス、そしてコベントガーデン・アダン・オープン・バレエなどに毎日あちこちのスタジオを回っていろんなクラスを受けながらオーディションの情報収集をした。

 すると、今度の日曜日に「ロンドンシティ・バレエ団でコールドダンサー(群舞)のオーディション…」と言う張り紙が壁に貼ってあった。早速日曜日にオーディションに行ってみた。シティ・バレエ団のダンサーたちの幾人かは、オープンクラスで顔見知りであったが、オーディションともなると誰も声を掛けてはくれない。自分たちも自分のポストをしっかりと守らなければならないし、新しいダンサーは結局ライバルになるからだ。

 オーディションに来る膨大なる数のダンサーたちの意気込みは凄まじい。それに対してショージも負けじと思うのだが、ロンドン・フェスティバル・バレエ団でタジタジだった敗北者の気持ちがまたぶり返し、自分にかげろうの様に付きまとい、ショージは萎縮した。そして結果はまたダメであった。

 ショージは久しぶりにテレンスに会った。テレンスの口から「今度、ピーター・マレクと一緒にヴィエナ・フェスティバル・バレエ団を立ち上げるから、ショウジ、君をソリストで呼ぶつもりだからな…」とりあえず選任振付師となったテレンスは早速ショージを呼び出し、新しいバレエ団の演目となる創作バレエのリハーサルを開始したが、2日目にショージはテレンスに「契約書について伺いたい…」と聞くと、どうやら何か怪しい雰囲気である。数日後、やはりそのバレエ団の立ち上げの話しはおじゃんになった。監督になるはずだったピーター・マレクが資金の調達に失敗したのだと言う。

 それでもめげずに、ショージはバイト先に直行する。ショージにとってのバレエ、そして未来がどんなに上手く行かなくても確実に腹だけは減る。しかし皿を洗えば確実にバイト先でおにぎりが食べられるからだ。このおにぎりさえもショージは職場から盗むようにして食べていた訳だが。


ロンドンに来た理由、モティベ-ション

 ロンドンへやって来て以来、どれほどの月日が流れたのであろうか。ショージには時計も無ければカレンダーもなかった。学校という枠から離されてオープンクラスとバイト先の往復。そして度重なるオーディションの失敗。ロンドンの安アパートの自室で一人考えた。「何故僕は、日本を離れこんなに遠い異国の、言葉さえわからない所までやって来たのだろうか…オープンクラスだったら東京にもあるし、日本にいれば言葉も通じる。バイトもイギリスのように足元をみられて安くこき使われる事なんかないのに…。日本にいた方が時給が良いから食事だってちゃんと出来るのに…。果たしてイギリスにいる意味があるのだろうか?懐に一体幾らの金の持ち合わせがあるのか?イギリス人たちは銀行からチェックと言う物でお金を借りる事が出来るけれど、僕には銀行に口座など作れないし、財布にはその日のサンドイッチを買う金にも満たない僅かな持ち合わせしかないじゃないか…」

 だがこのショージはいつも土壇場の窮地でひらめいた。「こんな僕に何が出来るのだろう…一体何をしたいのか?あっ、そうだ…僕はロイヤルバレエ学校でメソードをしっかり学びたかったんだ!だから日本で夜中までバイトして頑張って旅費をためて遥々ロンドンまで来たんじゃなかったのか!よしっ、明日 ロイヤルバレエ学校に行ってみよう!電話する金がないから直談判だ!」


滅茶苦茶な英語の挑戦者!

地下鉄ピカデリー線をヒースロー空港方面に乗り継ぎ、バロンズコート駅でおりて暫く歩いた。「ここだな…」ロイヤルバレエ学校の門前で緊張と自身を奮い立たせるために深呼吸をした。「この場所こそ僕が夢見た学校なのだ!」門を入るとセキューリティの門衛の男が「何かここに用事でも?」と質問して来た。

 ショージは頭の中で思っていた事をそのまま自分流の英語でこの男性に言った。「校長先生に会わせて欲しいのです」すると男性はかなり困惑して、「えーと、あなたは校長先生とお約束をしておられますか?」ショージは頭を横に振りながら「いえ、今から約束を取り付けたいと思っていますが、約束したところで会いたいのは今日なのです」

 面喰っている門衛は目をパチパチさせながら「ちょっと待って下さい、あなたは校長先生と面識でもあるのですか?一体、どのようなご用事があると言うのですか?」ショージは単刀直入に答えた。「私はこのバレエ学校に入るために日本から来たのです」すると漸く考えていた男がようやく頭を縦に振って「ああ、そう言う事ですか!あなたは学校側から入学の許可を貰ったから入学の手続きのためにここに来たと言いたかったのですね?それならそれを早く言ってください!」

 ショージはまじまじとその男を見ながら「いえ、私は校長先生から学校に入るための許可を貰いに来たのです。手続きはその後になると思います」これでセキューリティの男性は完全にノックアウトだった。「は?どう言う事か理解出来ないが、ちょっとそこで待っていなさい。とりあえず校長先生にあなたの事を聞いてみますから!」

 男が眉間に皺を寄せながら電話をかけて「いえ、私にも何を言っているのか理解が出来ないのです!」と話しているのが見える。そして受話器を置くと「校長先生があなたに直接会って話を聞いてくれるそうだから、どうぞ中に…」ここでショージは拳をグッと握り「やった!中に入れた!次は校長先生か…」

 セキューリティの門衛に校長室へと案内された。初めてロイヤルバレエ学校の校長であるメール・パークに会うと、メール校長が「どのようなご用事ですか?」ショージは再び単刀直入に「私はこのバレエ学校に入りたくて東京から来たのです!どうぞオーディションをしてください!」と切り出してみた。すると校長が「あなたは今、何歳?」と聞き「21歳です。」と答えた。

 メール校長が「21歳ですって?普通その歳なら、学校ではなくてバレエ団で働く歳ですよ、それでもオーディションをしたいのですか?」ときびきびと質問をした。ショージはその場ではっきりと、「21歳であろうとこの学校にどうしても入りたいのです!」と答えた。すると校長が暫く黙り、考え込みながらショージをじっと見ている。

「では今からすぐ着替えてください。そして一番上級のクラスでレッスンを受けて頂きます」と言った。「よし、最初の難関は突破した!後は神のみぞ知るだ!全力投球するしかない!」秘書の女性がショージを連れて稽古場に案内した。

 そしてクラスが始まる前に生徒全員に「今から突然ですが入学オーディションのレッスンに切り替わります。時間も延長します」と説明した。白人の生徒たちが一斉にショージを白い目で見ている。ショージは彼らとは目を合わさずに黙ってレッスンを担当するであろう男性の先生だけを注視した。

 暫くすると、メール校長を含む4人の先生たちが鏡の前に椅子を並べて、レッスンは遂に始まった。1時間半に及ぶレッスンで内容はとても難しく、どのダンサーも素晴らしい身体を持ち合わせているのだな…と感心する半面、ショージは何故かこのクラスに自分がいて当然だと思えた。実にふてぶてしいと自分でさえ思った。

 そして全てのエクセサイズが終わり、再び校長室へ呼ばれた。緊張の一瞬だ。メール校長が椅子にゆっくりと座り、とても静かに言った。「要件から言います。合格です。あなたを学校に入れましょう。でも、奨学金はイギリス人のみが適用出来ます。この学校の一学期の料金は130万円。年間に3学期あるから390万円かかりますが、あなたは払える?」

 ショージは血相を変えた。「さ、390万円!? そんなお金あるわけありません。2ポンドも持っておりません」と答えてポケットにある細かいお金を出して「これが全財産です」と言った。電車賃のみであった。本当にそれしか持ち合わせが無かったのだ。

 校長はショージをじっと見つめて、目の前の机の上の電話を引き寄せるといきなりダイヤルを回した。ショージは危機を感じ取った。「何だろう?何処に、電話するんだろう…?」声も出さずに内心ドキドキしながらその受話器の向こうが何処と繋がっているのかとても不安で堪らなかった。「ま、まさか警察!?」


モナコ・王立バレエ学校創設者マリカ・ベゾブラーゾバ女史

 「あ-もしもし、メール・パークですがご機嫌 如何?今ここに、若いジェントルマンがいてね、オーディションを済ませたのよ…。ええ、入学は許可しましたの。そう、え?この彼は21歳!お金を全然持っていないの…学校側では奨学金を出せないので、マリカ先生の方にお願い出来ないものかと…どうしましょうね?え?聞いてみるわね…」

メール校長は不安顔のショージに優しく言った。「今、フランスのモナコという場所で、私が信頼できる方に電話をしているのよ…マリカ先生と言うのだけれど、モナコ王立バレエ学校の創設者よ。そのマリカ先生が、あなたがお掃除と買い物をこなせるんだったら、マリカ先生の自宅から通わせてくれ、奨学金の代わりに学費は要らないって言ってくださっているわ…フランスへ渡りなさい!こんなチャンスは普通無いのよ…良かったわね!」

 なんと優しい言葉であろうか。異国人のショージを思いやってくれる人間身溢れたメール・パーク校長。こんなに素晴らしい世話をしてくれる人は滅多に居ない。しかし、ショージと言う人間の頭は何処まで馬鹿なのか、次のこんな言葉を聞くと情けなくなる。

 ショージはメール校長に「私はこの学校のメソードを勉強したいためにやって来て、今はお金がありませんが、お金がないからといってフランスへ渡ろうなどと思っておりません。私の憧れはロイヤルバレエ学校であり、このメソードが学びたいのです!なのに聞いた事も無い先生を訪ねて遥々フランスには行きません。今日は本当にありがとうございました!」と言ってしまったのだ。

 秘書や校長もショージの事を心配してくれたが「皆さんには、突然の出来事で申し訳なかったです、本当にありがとうございました」と深々と頭を下げメール・パーク校長に礼を言うとロイヤルバレエ学校を後にした。

 メール・パーク校長にはあんな事を言ってしまったのだが本当のところは「今日の食べる物さえ買えない僕がどうしてフランスなど行くお金があるのか…今日、持っていたお金はこの地下鉄の切符代を払うと無くなってしまったと言うのに…」おにぎり目当てでバイト先へ行く駅に向かって歩いている途中、自分の想像していた夢が途絶えたのだとはっきりと感じた。あまりの悲しさでショージは涙が止まらなかった。

 ところが歩くうちに心の何処かで何か大事なものを失ったのと同時にブワーンと何かが広がって行くような気がした。「心の隙間を不思議な物が埋めて行く様だ…一体これは何なんだろう…。」


ダンサーでごった返すダンスワークス!

 ショージは学校を卒業したが担任教師のビビアンの事が好きで、ビビアンもショージが皿洗いのバイトで生活しているのを知っていたから「オープンクラスの料金は要らないわよ」と言ってくれた。これはショージにとっても、とても助かる事だった。ロイヤルバレエ学校のオーディションの結果も報告した。ビビアンは心配してくれていた。

 ある日、オープン・バレエ・クラスを受け持っている人気バレエ教師のパスィがレッスン前に「ショージ、ちょっとこっちに…」と皆が居ないカフェで、ショージを呼んで言った。      

「僕の奥さんが言っていたけど、君、大変なんだってね…僕のクラスは料金払わなくても良いから、頑張りなさい!」「…えーと、奥さんって誰でしょう? え、ビビアン?ビビアンって僕の担任のビビアン先生の事ですか!?うわー、凄いな!人気抜群の二人がご夫婦なんですね…ありがとうございます、本当に助かります!」

ロンドンバスに乗ってダンスワークスでも人気があるバレエ教師、アナ・デポアソンのクラスも参加していると壁にポスターが張り出してあり、「スコティッシュ・バレエ団ソリストオーディション」とあった。「ソリストか…無理なのは分かっているけれどやってみようか?いやいや、落ちるのが分かっているのに更に自分が落ち込むだけかも…んー、やっぱりやる!雰囲気だけでも勉強になるじゃないか!どうせ駄目で元々さ!」

 大抵、オーディションには百人以上来るのが普通だ。ショージはバー・レッスン審査で落とされるのを覚悟で挑戦する事に決めた。


スコティッシュ・バレエ団のオーディション!駄目で元々!

 当日の朝、スーツケースの奥で眠っていた真っ白の全身総タイツを出した。ロンドンに来て以来、真っ白な全身総タイツ姿のダンサーはまだ見た事がなかった。「どうしようかな… ちょっと目立ち過ぎちゃうし、控えめのダークタイツにしようかな?えーい、真っ白でアピールだ!」指定の場所に行くと意外に人数は少なく50名程か。

 やはりソリストのためのオーディションともなると、誰でも腰が引けてしまうのだろう。ショージは自分が立つバーの場所を探して、ウォーミングアップを始めた。すると秘書とディレクターであろう、ピーター・ダレル氏が入って来た。その場の空気が一気にピーンと張り詰めた。ショージは緊張で審査員には目も合わせる事が出来なかった。

 そしていよいよバー審査が始まった。一連の動きはショージが得意としている振付内容で、テンポも速過ぎず複雑過ぎず、ゆっくりとしたバランスなどがあり、審査の結果、7人が残った。ショージも辛うじて残ることが出来た。

 センターエクセサイズのアダージオ(ゆっくりの踊り)は全員一緒であったが、ターン、つまりピルエット(回転の技術)のワルツは、一人ずつの審査でアレグロ(速いスピードの踊り)も一人ずつ。 間違えないようにしなければいけないので緊張状態は頂点に達した。次の、グランジャンプはショージの最も得意とするものである。ここぞとばかり思い切り飛んだ。空中回転のトゥール・アンレールを済ますと、アラセゴンターン(片足を身体の真横90度に上げて回転)をした。最後にはピーター氏本人が出てきて、モダンダンスの振り付けをして一人ずつの審査となった。最後まで残れて良かったのだが、やはり結果が心配だった。暫く休憩があり審査は終了した。

赤毛のイギリス人のダンカンが呼びだされ、何やら簡単に話が終わった。ショージは完全に駄目だと思っていたので、着替えようとしていた時、「ちょっとそこの人、こっちに来て!」みんな立ち止まって顔を見合わせた。「そこの人です!白いタイツの人!」ショージは辺りを見回した。「え、白いタイツ? 白いのは僕だけ…え?嘘?え…や、やった!」

 ピーター氏は笑顔でショージを迎えた。そして秘書が言った。「あなたをソリストとして採用します」


アンビリーバボ-!こんな事ってあるんだ!

スコティッシュ・バレエ団と言えばスコットランドの名門だ。そんな有名なバレエ団に入れるだけでもとても凄い事なのにまさかのソリスト契約だ。ショージには何か夢でも見ているように思えた。ピーター・ダレル氏と秘書が「再来週にはスコットランドのグラスゴーに来て下さい。契約書は直ぐに送ります」ショージは説明を聞きながら、喜びで天にも昇るような気持ちで一杯になった。頭の中もポーッとさせながらコベントガーデンに戻り、学校の校長室に向かうと階段ですれ違った赤毛でそばかすがチャーミングなエレーナが笑顔一杯に「ショージ、おめでとう!」ショージは「え?何の事がおめでとうなんだろう…」頭をかしげて校長室に向かった。

 部屋の前に校長や秘書、他の生徒たちもいてショージを見つけるなり「うわーっ!おめでとう!スコティッシュおめでとう!」ショージは驚いた、「えっ、何で、どうやってこんなに早く知っているんだ?」 皆に「ありがとう…」と、そして校長のミス・アダンにも「本当にありがとうございました、お世話になりました!」と伝えた。

 するとミス・アダン校長に「契約書は?」と聞かれた。ショージは「後で送ってくれるそうです」と答えた。そして校長室を出て階段を下り、1階でオープンクラスを受け持つビビアンがレッスンの指導を終えるのを待ち、先生に結果を報告した。ビビアンも大変喜んだ。

 それからバイト先へ向かった。日本レストランの厨房の奥には、10数名の韓国人の労働者たちが相変わらず疲れきった表情で働いていた。いつもショージのためにこっそり食べ物をくれるウォンに「スコットランドのバレエ団のオーディションに受かったよ!」と伝えるとウォンが韓国語で皆に「ショージがバレエ団に受かったんだって!」と大きな声で言うと、厨房の奥で働く十数人の韓国人の皆は重苦しい表情からパッと顔を輝かせ、一斉に「うわーっ!」と歓声を挙げて喜んだ。自分の事のように喜んでくれる皆の明るい表情がショージには堪らなく嬉しかった。

 厨房の責任者である日本人のシェフに「今週いっぱいで皿洗いのお仕事を辞めさせてください。私はスコットランドのバレエ団で働く事になったのです。勝手を言って申し訳ありません」と伝えるとその責任者は渋い顔をしながら仕方が無いといった表情で了承した。

 シェフの向こう側ではウォンがおにぎりを作って待っていた。「これさ、今日も持って帰って食べなよ。お腹が空いているんだろ?」ショージはありがたくそのおにぎりを受け取った。ショージはウォンに礼を言い、また厨房で働く先輩たちの韓国人の皆の所へ行って頭を下げながら日本語で言った。「とてもお世話になりました。

本当に皆さん今までありがとうございました!」

週が明けて友人がイギリス版「ダンスマガジン」と言う雑誌を見せてくれた。そこには特報として、「Shoji Hanzawa, Scottish Ballet as soloist 」(ショージ・ハンザワ、スコットランドバレエ団とソリスト契約)と書いてあり、ショージは驚いた。どのようにして雑誌社の編集部はそんな事が直ぐに分かったのだろうか。


1985年 3月 最早、絶望…

 コベントガーデンのオープンバレエレッスンへ通う日々、ショージは新しい仕事場であるスコットランドへ旅立とうと希望で胸を膨らませていた。21歳になった。渡英した時から、バレエのタイツとシューズ、やる気と夢の他には何も持っていない。

 ショージが住んでいる安アパートの小さい空間はガランとしていて、本当に何も持っていないとはこの事だ。朝早くから薄い布団を跳ね除けて「よっしゃ~!」と飛び起き、「そうだ!部屋を綺麗にしないといけないな…」しかし部屋の片づけなどは、全く必要がないほど生活用品は何もなかった。

 「中国人の オーナーにスコットランドへ引っ越す事を伝えておかなければいけないな…」翌日、学校の校長に挨拶をしに行くと、何やら校長が心苦しそうな表情でショージにゆっくりと言った。「ショージ、労働許可がどうしても国からおりないのよ…スコットランドのディレクターのピーター・ダレル氏もかなり掛け合ってくれたのに…とても残念ね…。」

ショージは耳を疑った。「ど、どういう事だろう?仕事が出来ないって!?僕は先週でバイト先を辞めてしまったよ…ど、どうしたらいいんだろう?」担任の教師であったビビアンのオープンクラスでレッスンをすると、レッスン後にビビアンが、「ショージ、話しがあるわ…カフェに行きましょう」カフェとは、そのバレエ学校の一階、稽古場の直ぐ脇にあるグランフロアの中にある小さな店と椅子が5脚ほどおいてある所で、ビビアンが静かにじっとショージを見ながら言った。

 「ショージ…話しは校長先生から聞いたわ…オ~、ショージ、とても 残念でしょうけど、イギリスわね、沢山の失業者がいて、イギリス籍を持たない外国人にはとても厳しいのよ。でもね、イギリス人の女性と結婚すればイギリス籍を取れるわ。一緒に暮らさなくても結婚してくれる人がいると言う話を私は聞いた事があるのよ。ショージ、結婚さえすればあなたは自由に仕事をする事が出来るようになれるのよ、それしかないわ!」 「ビ、ビビアン先生…僕が結婚ですか!? 考えられないです…でも、心配して頂きありがとうございます…」ビビアンに頭を下げ、心配して自分を黙って見続ける教師の元からショージは立ち去った。

 「ああ、進退極まったとはこの事だ…もはや絶望だ。ああ、何故こんな事が起きるんだろう。労働許可証がもらえないだって?仕事が見つかったのに労働許可証が出ないのなら仕事が出来ないだけではなく、仕事を見つけても意味が無いと言う事じゃないか!じゃあ、僕はこれから先、バレエ団で働けないって事なのか。ずっとこの国の日本レストランの店の主人に足元を見られ、雀の涙ほどの僅かなバイト代を稼いで生きていかなければならないのか!?僕は何と言う所に来てしまったのか!バレエも出来なきゃ、着る物も無く食べる物さえ無いじゃないか!日本に帰る金も無ければ生きて行くのに必要な最低限の物さえ買えない生活がこれからもずっと続くのか!何て事になってしまったんだ…」


背水の陣、落ち込んでいる時間はもう無い

人間というのは、夢が吹っ飛んでしまって生活が脅かされるその瞬間は、深い絶望感と恐怖から言葉などなくなり、ただ震えてしまう。ショージはしばらくの間、学校の地下にある更衣室で誰とも話さず、ただ独り絶望感に打ちのめされて泣き震えていた。だが今日の食べ物は今日中に探し出さなければならないほどの貧困だった。それがまず一歩を踏み出す引き金になったのだ。人間は動物の本能である「生きる」という事だけに焦点を合わせる事が出来る。動かざる者生きるにあらず、働かざる者食うべからずとショージは教わって来た。頭を抱えて泣いていたり時間を掛けて悲しみを味わっている余裕など今のショージには無かった。他人に相談してみても何も解決はしない。

 リージェントパークの日本レストランへはもう戻れないと決めていた。例えばもしショージが日本人の責任者であるシェフに頭を下げて「すみません、バレエ団から労働許可がおりないから、またこの店で働かせてください」と願ったとしても、いずれ労働許可がおりるチャンスが巡って来た時には、ただちに店を辞めなければならないのだ。そんな良い加減な男に仕事をくれるはずもないと分かっているからだ。

ウォンがこっそり作ってくれたおにぎりがどれだけ助かった事か…それを想うとショージは目が熱くなった。ウォンの様な温かい人には滅多に出会う事が出来無い。悲しい事だが、もう店には戻れないと自分で答えを出した。「そうなると新しいバイト先を見つけなければいけない…!出来る事ならコベントガーデンに日本レストランがあれば、時間短縮になりバレエのレッスンの後直ぐにバイトに行けるんだけどな…」

くまなく探し歩き、暫くすると「ありゃっ?」実に灯台元暗しで、意外にコベントガーデンから近い場所に日本レストランを探し当てた。学校から歩いて行けるとても近い場所であった。早速、「バイトをさせてください!」と掛け合うと、接客という形でオーケーが出た。

ショージはキッチンの方の仕事に入れて貰えた方が本当は嬉しかった。何故ならば、ご飯または客には出せないおかずや捨ててしまう料理の失敗作などを持ち帰れる事を望んでいたからだ。しかしこの際どうこう言っている時ではなかった。何でも良いから早く働いてアパート代と地下鉄とバスの定期代を稼がないと本当に生きて行けなくなってしまう。それにしてもラッキーだった。まさか自分の拠点地の直ぐ近くに日本レストランがあるとは思いもしなかった。ショージはその日から仕事をさせてもらい、最初の一週間の給料はその日払いで貰えるよう店の責任者と交渉した。

 これから働く日本レストランの中には食事をする場所と同じ階にカラオケバーがあり、そこのカウンターの中でショージはバーテンとして働いた。以前、東京で同じような仕事をしていた経験がありバーテンの仕事は手慣れていた。

 時給は1ポンド。日本円で350円。日本のバイトなら時給が確実に800円以上は貰えた。イギリスでは10ペンスが10枚で1ポンド。20ペンスあれば小さなポテトチップが買える。30ペンスあればコロッケが買えた。この国は物価がとても高い。1ポンドは日本円で500円くらいに相当する。それにしても時給1ポンドは低過すぎだった。だがどんなに時給が低かろうとショージには文句が言えなかった。他に仕事は無いし、今のショージには選択権など無いのだ。

 アパートの電気は部屋に備え付けてある料金箱の中にコインを入れれば電気が点くようになっているのだが、金を入れた試しは全くない。その金額は半日で50ペンス。ショージのポケットには30ペンスしか入っていない。コロッケが買える金…それが全財産である。

 新しい仕事をこなしながら少しずつ毎日のペースを戻した。日々の流れはやはりバレエがメインドリームだ。オープンクラスには休む事なく通っていた。それは教師のビビアンと旦那のパスィ先生がショージだけに限り、レッスン料金を免除してくれたお陰だった。ビビアンもパスィも、ロンドンではトップ人気のオープンレッスンをしており、この2人の温かい援助がなかったらショージはバレエを続けていられなかったかもしれない。


ミスターチンコ・ラフィックの話に愕然!

時折やってくる、憧れの元ロイヤルバレエ団のプリンシパル(バレエ団の最高位)のミスター ラフィックが、「やあ…ショージ、レッスン後にカフェでも行こうよ…」と誘ってくれた。嬉しさで胸がいっぱいであった。憧れのスーパーダンサー、ミスターチンコ・ラフィックがだ。目がとても印象的で身長が185センチもの長身だ。

 ラフィックとカフェに着くと、ゆっくりとラフィックが話し出した。「パスィから聞いたよ…ショージはスコティッシュ・バレエ団へは、労働ビザが出ないから行けなくなってしまったんだってね…。残念な事だとは思うけど、イギリスは今厳しいからね。ところで僕がまだロシアにいた頃、キーロフ時代の友人が、イタリアでバレエ学校とバレエ団をしているんだ…。彼の名前はマリネルと言って、ルーマニア人で非常に素晴らしいダンサーだよ。かなり変わった性格だけど彼の踊りは素晴らしい…。バリシニコフと一緒のコンクールで二人同時に金メダルだったんだ…。だから金メダルは半分に割って、それぞれに分けたんだよ…。その彼が今度ロンドンでオーディションをするらしいからショージも受けてみなさい…。」

 ラフィックの話しを聞いてショージは驚いた。「バリシニコフと金メダルを半分ずつだって!? 」だが例えそのような素晴らしいダンサーがロンドンでオーディションをしても、きっと素晴らしいダンサーしか連れていかないであろう。しかしラフィックと話しが出来るのは至福の時間であった。「ラフィックさん、分かりました…ありがとうございます!僕、受かるとは思いませんが頑張ってやってみますね!」ラフィックはしみじみと言った。「僕も現役に戻りたいな…この歳になっても、バレエレッスンを受けるのはそれほどバレエに魅力があるからなんだ…僕はバレエが大好きなんだよ…」ラフィックの横顔を見るショージ。「この人は多分、40代後半なのかな…?なんて渋くて甘味を醸し出すハンサムでダンディな大先輩なのか…。」顔がイギリス人俳優のアンソニー・ホプキンスとバリシニコフを足して2で割ったような感じだ。

 やがて、ルーマニア人ダンサーで今ではバレエ団とバレエ学校を営むマリネルと言う男性ダンサーがイタリアからオーディションの為にコベントガーデンに来た。しかも、ショージの通っていた学校内のスタジオでオーディションをすると言うポスターが張り出されたのだ。「よし、やるしかない…それしかない!」


イタリアのバレエ団のオーディション

オーディション当日、ショージが通っていたコベントガーデンのアダン・バレエ・アカデミーの最も広い5階スタジオ。 スコティッシュ・バレエ団の時のソリストの為のオーディションとは違い、ランク無しなので人数も多いだろう…と5階に上がって目を剥いた!やはり大勢のダンサーで溢れ返っているのだ。ざっと300人以上だ。ショージはその数を見て目眩がしたが、こんな数に負けてはいられない。

 今までどれほどレッスンをして来たのか…一日に3回のレッスンをして来た。練習量の数は誰にも負けてはいない。レッスン以外の他の空いている時間には自分の技術の改良のために全ての労力を注ぎ込んで来た。オーディションに集まるダンサーたちはそれぞれ廊下や溜まり場でウォーミングアップしているがその間を縫うようにしてショージもバッグを置き、服を脱いでタイツ姿になった。そして足の指先から順番に筋肉をほぐして行く。

 「皿洗いと空腹の飢えから脱出出来るかどうかは今日の一戦で決まる…。もうこんな生活とはおさらばだ!絶対に他のダンサーたちに負ける訳には行かない…」ショージは他の人には目もくれず、床だけを見つめ身体じゅうの筋肉の力みを抜いて行った。オーディションクラスも3回に分けられ、ショージは第3グループに入れられた。

 待ち時間は恐ろしく長く感じたが、とうとうバー審査が始まった。複雑なステップの組み合わせであった。それでもこの日は身体が軽く感じ、音楽のリズムが楽しくさえ思えた。他のダンサーたちの姿がショージには見えなかった。ここは真剣勝負だ。全神経を集中させたのだ。フラメンコに使う黒いズボンを穿いた長髪の男性がバー審査の振りの順番を見せる事だけがショージの視界に入っていた。そして30分経過した。ここで暫く休憩が入り、3グループの中から選りすぐられたダンサーの発表。

 「君!そして君!それと、そこのアジア人!」ショージを見ている。「よし、何とかクリアーか!」30分後にセンターエクセサイズ審査が始まった。アンシェヌマン(ステップの組み合わせ)を見せてくれるのは芸術監督のステファネスク氏本人だ。イタリアから来ただけあって、白いブラウスを胸まで開けてズボンは黒いフラメンコ調。顔が少し色黒だが、アントニオ・ガデス(フラメンコダンサーの頂点に立つ有名なスペイン人)に実にそっくりだった。アンシエヌマン(ステップの組み合わせ)は、かなり基本を重視しながらの長いコンビネーションだ。最終審査では15人ほどに絞られたが、まだクラシックテクニックを重視した踊りが続いている。「あれ、モダンやコンテンポラリーの試験は無いのかな?まあその方が嬉しいけれども…。それにしても今日は身体が本当に軽いな…」

 前日の夜に2時間も掛けて身体の全ての筋肉をマッサージしておいたのが功を制したのだ。回転もアレグロ(速いスピードの踊り)も大丈夫で問題は全くなかった。ワルツの時はピルエットを音の中で回り切れるように全速力のスピードで回転させた。それでも安定した6回転だ。音を少しでも外せばそこが命取りになる。

 審査官である長髪の男性の目は何も見逃さない確かな目である事がショージにも他のダンサーたちもはっきりと分かった。グランジャンプ(大きいジャンプの踊り)が来た。これはショージの最も得意としている分野だ。ショージはジャンプする時に自分が自由になるのを感じる。そして空間に漂う時、全てが喜びに変わるのであった。

オーディションも終盤になった。ここからが勝負なのはもうショージだけでなく誰にも明らかだ。審査官の男性がここで大きな声で「ここからは一人ずつの審査になります。ダブルザンレール(空中で直立の姿勢で2回転)とピルエット(つま先立ちで片足を上げての回転)、そしてアラセゴンドターン!(片足を身体の真横90度に上げての回転)「はい、そこの赤い髪の毛の君から始めようっ!」ショージは一番、最後だ。


一瞬の判断と賭け

 ショージはアラセゴンドのターンの際、つま先が綺麗に伸ばす事が出来ないのとフィニッシュのまとめ方が良くないという2つの問題を抱えていた。いつもタイミングが合わないのだ。が、この日だけは何故か失敗せずに、まぐれで「バシッ!!」と成功した。

 そして試験会場のスタジオの奥の片隅から対角線上にダブルザンレール(空中2回転)をピアノの演奏と共に3回繰り返す。これには自信があった。最後はピルエットだが、早めにザンレールを決めた後にプレパレーション(回転する前の用意)は早めに切り上げて、ピルエットを限られた音楽の時間内に、出来るだけたくさん回れるよう注ぎ込む一瞬の判断をした。ショージの持っている全てのパワーをこの最後のピルエットにぶつけたのだ。グングンと上がるスピード、頭の回転を身体と同調させながらショージには目の前に座って見ている検査官の男性の顔がはっきりと見て取れた。回転は8回転を超えていた。試験会場の男性ダンサーたちから「ウオ~ッ!」と言う声がどっと聞こえて来る。

本来ならピルエットだけで終わるはずなのだが、ショージは勝手に自分のフィニッシュの仕方を変えた。審査官である監督が気に入るかどうか一つの賭けに出たのだ。

 これまでずっと独りで改良を続けて来たダブルザンレールから膝をついて直接床に座るテクニックだが、ショージが改良したのは、床に足先が触れるまでのギリギリまでつま先を伸ばし続けておく難度の高い技だ。これを失敗すると足先はへし折れ木端微塵になる危険性があるのだが、これが驚くほど見ている者たちを魅了するザンレールになるからだ。遂にショージがこれをやった瞬間、目の前の椅子に座っている黒いフラメンコ調のズボンを穿いたバレエ団の総監督である男性は大きく目を開いて驚いた。そして周りの男性ダンサーたちから「おーっ、すんげー!」と大きな声が湧き上がった。ショージにも手応えを感じたフィニッシュであった。


審査発表!

ここで審査が終了。シーンと静まる男性ダンサーたちが一人の男を見つめた。その視線の先には監督と、監督の娘さんであろう可愛らしい小さな2人の女の子も椅子に座って見ている。試験に参加した全ての男性ダンサーたちはその瞬間に自分たちの人生が掛かっているのだから、誰もその視線を変えない。その場で結果が言い渡された。

 「君!白ティ-シャツの黒人のダンサー、そして、アジア人の君の2名だ!」ショージが指差された。この成功率は実に300分の2であった。 最終的に残ったのはただ2人。周りのダンサーたちは溜息とともに「あ~あ…!」と残念そうな声を出し、退場して行った。黒人のダンサーはガッツポーズを取って友人たちに肩を叩かれながら満面の笑顔だ。

 しかし、ショージは今回、ぬか喜びはしなかった。どうせまたスコティッシュ・バレエ団の時と同じ理由でこの期待を裏切られるのが目に見えていると思ったからだ。それは以前に起きたオーディションの際、ソリストとしての大抜擢にも関わらず、政府側が「君はイギリス籍ではないから、働く事は出来ない。君のために労働許可を発行する事は出来ない!」と言った理由であった。

 その場でショージはイタリアのバレエ団のディレクターに向かって言った。「すみません…私は日本人です!イギリス人ではないので、労働許可証を持っておりません。どうなんでしょうか?」するとディレクターは、はっきりとショージに「君はイタリアに来る気持ちを持っているのかい?持っているのなら、私が責任を持って許可証を申請するから心配は要らない。が、イタリアまで来る気持がないのなら帰りなさい。すぐに決めなさい!他のダンサーに決めなければならないから…」

 今度ばかりは喜びで全身が反応した。「行きます、行かせてください!お願いします!」ショージの目から生まれて初めて喜びの涙が堰を切って滂沱(ぼうだ)の様にぼろぼろと流れ落ちた。「ミスター・ラフィックさん、僕は掴みましたよ…!とうとう掴みました…!僕は自分のこの手で本当に夢を掴む事が出来ました!ああ…ラフィックさん」

 ディレクターは大きな声で笑いながら「お願いする必要ないよ、君はオーディションで受かったのだから。さあ、泣いてないで食事に行こう!」ショージは両手で涙と鼻水を拭きディレクターに「恥ずかしい話ですがお金を持っていないので、レストランどころかカフェにも行けません…」と項垂れ(うなだれ)ながら言うと、ディレクターが更に大きな声で笑いながら「誘っているのは僕だよ…!レストランに来る気持ちがあれば来なさい。無いのなら無理にとは言わないが…」

 レストランで食事をしながら、もうひとりのダンサーである黒人のイギリス人、ランドルとショージは互いに自己紹介をすると、ディレクターのマリネルは自分のバレエ団の話や今までどのようなバレエ人生を歩んで来たかなどを話した。そして監督が胸のポケットに手を入れ、ショージたち2人にイタリアまでの航空チケットをくれた。ショージはそれを無くさないように大事に胸のポケットに仕舞った。この時、監督が驚くような事を口にした。

「契約が終わった時点で世界の何処であろうと、次に行くバレエ団のある場所までの航空運賃も支払う」と言ったのだ。

ショージは重大な事を今この監督に正直に話しておかなければならないと意を決した。監督がレストランのボーイを呼んで勘定を済まそうとしたその時、ショージは「すみません!あの…本当に申し訳無いのですが給料の前借りをしてもいいですかね?」すると黒人のランドルが驚いて「こいつ…嘘だろ!?」とショージを見た。監督も、そしてレストランのボーイまで驚いて目を丸くしてショージを見た。

 監督が大きな黒い目を更に大きくしながら「前借りって、幾ら?」ショージは深呼吸して「私がイタリアのバレエ団まで行くに当たって監督がこれだけあれば旅費は十分だろうと思う金額をです。何せ私は一銭も持って無いのです…」

 すると監督が胸に仕舞ってある札束から数枚取り出し「航空チケットは渡してあるのだからこれくらいあれば多分、十分だろう…」と残りの札を胸に戻す瞬間、ショージは胸の方を指差しながら「あの、それもう一枚足したら、私は途中でちゃんと食べれるんじゃないですかね?必ず給料から分割でお返しします!」「わ、分かった…」そしてちゃっかり前借りに成功したのだった。


1985年 5月 イタリアへ出発!

 イタリアへ出発する当日の朝、中国人の経営する安いアパートを出ると荷物を持ってランドルの家に向かった。ショージの荷物は少なく、初めてロンドンにやって来た時と同じボストンバッグが一つ。箪笥代わりに廃品回収で拾ったスーツケースは元通りの廃品回収へ。

 イタリアへと出発する日は意外に早くやって来た。これまで世話になったバレエ学校の校長や、バレエ教師のビビアンとパスィに挨拶を済ませた。しかし憧れだったミスター・ラフィックには残念な事だが会えずじまいになってしまった。

 思い起こせばロンドンに初めて来た時からショージは空港のパスポート検査でただ独り拘束されて檻(おり)の付いた個室に3時間にも渡って閉じ込められた。その理由は金も持っていなければ服装も貧相で、特にイギリスでは絶対に受け入れてはもらえない片道切符の渡航であったからだ。

ショージはこのロンドンで生涯忘れる事が出来ない酷な1年を経験した。限界ぎりぎりの生活とショージ自身の精神との闘いであった。と同時に人の温かさは国境を越えても同じなのだと言う事も知った。人は迷い悩みそして強さを掴む事を学んだのだ。ロンドンに降り立ったあの瞬間からショージは神から試されていたのかもしれない。この経験を持ってショージは「きっと大丈夫!もうこれからの僕を待ちうける未来がどんな過酷な状況になろうとも絶対生きて行ける!」そう信じてやまなかった。

 「イタリアに行くんだ…厳しいこのイギリスからとうとう脱出出来る!」そこにはいないラフィックの顔を頭に思い描きながら呟いた。「ラフィックさん、本当にありがとうございました。僕はバレエを踊るためにドーバー海峡を越えてイタリアへ行きます。いつの日か僕は絶対に再びロンドンに戻って参ります。その時までラフィックさん、どうぞ元気でいてください」

ショージは固く心に誓った。「ロンドンに戻って来るその時はパスポートコントロールを難なくパス出来るよう莫大な現金と驚くほど立派な格好をするんだ!もちろん、その際は往復切符を必ず購入しなければ!ロンドンに来た時にパスポートコントロールの検査官たちが僕に向かって、良くいらしてくださいました…と笑顔で出迎えてくれるように自分が成長するんだ!ラフィックさん、レストランのウォンさん、学校の先生たち!本当にありがとう!そして見ていろよロンドン、僕はまた戻って来るぞ!きっと…きっと…!」


正に究極の振付!

イタリア到着以来、数日が経った。長いレッスンが終わって、30人ほどの団員たちの身体中から汗を吹き出しているが、ショージはと言えばほとんど身体が自分のものではないほどくたくたで倒れる寸前だった。ランドルを見ると声を出さずに口パクで伝えて来た。「オー、マイ、ガーッド…!」ショージも横目で頷きながら、体が動かない。マリネル監督がイタリア語で「20分後にリハーサル開始!」と全員に伝えた。振り付けはストラビンスキーの「春の祭典…人間創世」だ。

太陽の神や水、空気などの踊りの後に類人猿…つまりアウストラロピテクスのような、ほとんど猿の群れのような動きを習うのだが一糸も乱れてはいけないらしい。しかも激し過ぎる踊りであるにも拘らずにだ。ショージはクラッシックの技法に基づいた振付を想像していたのだが、いざ、その振り付けになると数十人の男たちと女たちが一斉に身体を折り曲げ、全員で4足歩行になり、右の足と右の手を同時に前に出して、なんば歩きをしながら右左の腕と足を床にダッダッダッ!!と高速で叩きつける。全員が同時に真横に進んだかと思えば今度は前進した。

 監督が大声で叫んだ。「そのまま後退しろ!」気絶しそうなほど辛い姿勢での大驀進であった。2時間たっぷりのリハーサルをすると、誰もがもう疲れ果てて言葉さえ出なかった。ランドルもショージも互いの顔を見たくとも2人とも白眼を剥いて「おえっ!」としながら吐き気をこらえていた。

 それを終えると4時間ほどの休憩時間がある。団員たちは車でさっさと自宅に帰って行く。ショージとランドルはバスで市内まで戻り、大衆レストランでセルフサービスランチを摂った。イタリアと言えばパスタの本場だ。色々なパスタがあり、スープも様々でメインも羊や牛肉、ポークにチキンと所狭し並んでいる。この2人は秘書に頼んで給料を先払いしてもらっていた。そのお蔭で好きな物が食べられるこの幸せを充分に感じた。

 ショージはローストチキンにサラダ、そしてスープをトレーに乗せた。「これを夢見ていたんだ!ああ、なんて美味しいんだろう…これこそ幸せと言うものだ!」ランドルが「街を散策して歩こうじゃないか!」とショージを誘った。沢山の店が並ぶ歩道を歩いていると、イタリア人たちがショージとランドルをとにかく振り向いて見つめた。どの目もまるでショージたち二人が宇宙人でもあるかのように見つめるのだ。しかしショージには何故、街の人々がそんなに自分たちを見つめるのか訳が分からなかった。

 バレエ団の稽古場に帰ってから、団員に「道行く人たちが僕たち2人を異様な目で見つめるのはどうしてなんだい?」と英語を話す事が出来るブルティーニに聞いてみた。するとブルティーニは「振り向かないほうが可笑しいさ、だって黒人のランドルとアジア人のショージの組み合わせはこの土地では珍しい色と顔の組み合わせだからな」ショージは黒人のランドルを見つめた。「確かにこいつは珍しいかもな…でもこの僕が?」

 そして次のスケジュールを聞くと「げ~っ!またレッスン!?その後にまた4足歩行でダッダッダッ…!の類人猿のリハーサルを2時間もだって!?」聞いた瞬間、ショージは目眩がした。リハーサル開始から数日経つと筋肉も脳味噌も心底疲れ果ててしまって更衣室でも皆げっそりと静かであった。それでもレッスンは毎日朝夕たっぷり2時間ずつある。

再びリハーサルが始まり、ショージも猿の一匹となって床に這いつくばった。振り付けをする監督のマリネルは「イタリア人だけの猿の軍団よりも黒人の猿や日本人の猿が混じる事により、地球には沢山の人種がいて、元々はあちこちの変わった猿たちが進化を遂げたのだ…」という事を述べたかったのであろう。

 「そうか…その猿をやらせるためにわざわざロンドンのオーディションがあったのか…なるほどな。あのオーディションで必要だったのはバレエの技術などではなく、如何に猿らしく踊れるかって事だったのか…」


初めての給料!

日本で世話になった六本木のクラブ「愛」のママ。バイト先のママであったがショージが母親の様に慕っていた人だ。限り無くショージを応援してくれ、今でもきっと心配してくれているに違いなかった。ショージは劇場の前の公衆電話まで走り、貰った給料の一部で電話をしようと気が急いた。電話が繋がり「愛」のママの声が聞こえて来た。嬉しさで何から話していいのか分からないショージだった。「ああ…この声さえ聞けたらもう何もいらない…」そう感じた。涙が溢れてきて、公衆電話に入れる電話専用硬貨ジュトーネと呼ばれるコインがあっと言う間に流れ落ちて行ってしまう。電話の向こうでは必死にママが話しかけてくれていた。ジュトーネは終わってしまい残念ながら電話はそこで終わってしまった。

 部屋に帰り、買ってきた便箋に下手な字で手紙を書き、無事と現在の状況を認めた。イタリア語も分からず英語も分からない。只、踊りだけがイタリアで生きていける唯一の支えと生きがいであった。残った給料を持って食料の買い出しに市場へ行き、ざわついていた人々もショージの顔を見ると凍りついたようにショージの顔を見つめた。しかしショージにはこう言った事は慣れてしまった。イタリアの田舎町ではショージのようなアジア人がいないのである。だから皆、一応にショージの顔を珍しがって見入ってしまうのだ。だが、案外に話しかけると今度は楽しそうに魚の名前や金の勘定の仕方をイタリア語で教えてくれるのもこの人たちであった。


レッジオエミリアに降るネピア

 イタリアに来て、半年が経った。今ではイタリア語も随分と喋れるようになり、市場の魚屋のおばちゃんや八百屋の親父とも仲良くなり、劇場の周りのカフェで働く人たちとも友だちになる事が出来た。カフェの経営者、兼ウェイターのロベルト兄弟の二男のロベルトはいつも笑顔で話しかけてくれた。ある日そのロベルトが大きなオートバイに乗って来て「ショージ、乗るかい?」と誘って来た。ヘルメットも貸してくれ後ろにショージを乗せてレッジオ エミリアを一周した。普段は歩いて通う道も大きな900ccのオートバイに乗れば、あっという間に一周出来た。

ロベルト兄弟はフランス人の父親とイタリア人の母親で、まだ20代の優しい青年たちだった。

 ショージが仲良くしているレコード屋の若い男とも友達になる事が出来た。この若者は父親の後を継いで、大学卒業後に「好きな音楽が聴けるからレコード屋をやっていると楽しい!」と言っている。英語がとても達者な若者だった。このレコード屋の若者との知り合う切掛けは実はランドルの発案で、普通にレコードを買うには値段が張るしアパートにステレオがない事から店でカセットテープを買う代わりに好きに選んだ曲をダビングして貰えないかとランドルが交渉したのだ。そして値段も本来のレコード価格の半額と普通では信じられない交渉をやってのけたのであった。

 店の若者はショージにも「良かったら君にもダビングしてあげるよ」と言った。ショージにとってこれはとても助かる事であった。そこで、ショージはナルシスコ イエペス演奏(クラシックギタリスト)の「スペインの庭」というレコードと、ラフマニノフの「交響曲第2番」のダビングを頼んだ。数日後に取りに行き、ウォークマンで聴いてこの曲が如何に素晴らしいものであるか感動した。そして「いつか、スペインにも行ってみたいな…」と小さな夢を心に描いた。

次の朝、バレエ団の玄関に着いてビックリした。イギリス人のロバートが「やあ…!」と立っていたのだ。ロバートはイギリス人でも小柄な男で、身長はショージとほぼ一緒だが骨格はがっしりしていた。ロンドンでのオープンバレエレッスンで知り合い、いつも仲良くしていたが彼はイタリアのバレエ団のオーディションに落ちてしまった。その悔しさと、仲の良かったショージと離れる事を寂しがり、ロンドンで別れ際にはショージの前では見せた事のない涙を流しさえした。

 ところがそのロバートが遥かロンドンから、イタリアの小さな街レッジオエミリアに突然現れたのだ。ショージは驚き、そして懐かしさのあまり「どうしたの、何故ここに?」と聞くと、「僕は決めたんだ!ここのバレエ団に何でもするから裏方の仕事を手伝わせてくださいと頼むんだ。ただ、その代わりと言っちゃ何だがレッスンだけは一緒にさせて下さいと交渉するのさ!」ショージは耳を疑い「は? そんな事出来んの!?」 ロバートは「何でも物事は交渉次第さ!今から早速、掛け合いに行く!」と事務所へ向かった。

 ショージは呆れたが更衣室で着替えて、稽古場でウォームアップをしていると、ロバートが満面の笑顔でレオタードに着替えて入って来た。「ありゃ!その格好は…!?それでどうなったの?」ロバートはショージに言った。「僕はこのバレエ団の美術部で雇って貰えたし、レッスンもオーケーさ!ただし、給料はとても少ないけどレッスンが受けられると言う事で商談成立だ! 問題は寝る所だよ…、じゃ、そこんとこショージ、宜しくな…!」「は? 」

 人間、どこでどうなるかわからないとはいつも思っていたが、まさかこんな事があるのかとショージはロバートをまじまじと見つめた。夕方のレッスンとリハーサルが終わり、急いでアパートに帰るとランドル、ロバートの順番で夕食を作りショージは最後に作った。 ショージはフライパンでチキンを焼き上げたり色々な料理に挑戦するので時間が掛かる事から最後に回されるのだ。あまり好きではない豆料理もプロテインを補給するために調理したが、ショージの考える料理法では美味しくは作れなかった。

 遅めの夕食を食べ終えると決まって商店街を散歩した。「ああ、とても寒い…」冬の時期のレッジオエミリアはネビアという真っ白な深い霧が出る。1メートル先も見えなくなるほど幻想的でショージは大好きだった。散歩をする時には必ずウォ-クマンを携え、ヘルベルト・フォン・カラヤンが指揮する「アルビノーニ」を聞きながらベルリンに行く日を夢見た。

 ある日、ショージがアパートに帰って来るとイギリス人のロバートが満面の笑顔で、「ショージ、やったぞー!僕の思っていた通りさ!だから言ったじゃないか、やったぞ、バレエ団に入ったんだよ!」「え~っ!?おー、ロバート!流石はイギリス陸軍の父を持つ男よ、君はとうとう狙い通りにやってのけたのか…!人間、何処でどうなるか分からないって思っていたけど凄いな!やってのけたのかロバート!」

12月も半ばを過ぎた。レッスンの後、マリネル氏が「クリスマス休暇の間も各々ダンサーとして自己管理をするように!」と注意事項を言い終えると、入れ替わりに秘書が順番に秘書室に来るようにと伝えた。「どうしてだろう?」ブルティーニが英語で「クリスマスボーナスが貰えるんだよ!」とルンルンしている。「ボーナスだって?やった~っ!」1年間で12ヶ月分の給料の他に1カ月分余分にボーナスがあって、そのうち3分の2は夏に、3分の1がクリスマスにボーナスとして出るらしい。ショージには思いもよらなかった事である。嬉しさでいっぱいになった。

 冬休みになり、あらかじめ用意していた荷物を持つと旅行サービスセンターに行ってみた。インターレイルという1ヵ月の列車旅行のオープンチケットを買った。店員に「特急料金は含まれておりません」と注意を受け、レッジオエミリアの駅に来ると、「5分後にミラノ行きの列車がプラットフォームに入ります!」という慌ただしいアナウンスが流れた。ショージはこれから列車で旅に出るのだ。

 3日掛けてスイス、オランダと旅をした。オランダの首都、アムステルダムではヘット国立バレエ団の公演を見た。その素晴らしさが目に焼き付いた。「このバレエ団に入りたい…いつかここにオーディションをしてみたい!」その後イギリスに船で渡ったのだが、残念な事に入国は出来なかった。ショージの貧相な格好と片道切符がまたもや入国審査で許されなかったのだ。それだけではない。イギリスのパスポート検査官から「あなたはこの国の地を踏む事は許されない。そしてこの2人と共にオランダへ送り返します」と警察官に腕を握られ、まるで犯人扱いされて船室に戻されたのだ。

 船の前にキャプテンが立っていたが、警察官2人が目配せするとキャプテンも頷いた。ショージは心の中で叫んだ。「僕は何もしていない!どうして犯人扱いするんだ!?」オランダに着くとこの警察官はショージから離れて行った。ショージはイギリス大使館に行き、この扱いに抗議をしたが「運が悪かったのですね…諦めてください。稀にこういった事があるのです。」と言われただけであった。

 この時、ショージは初めてイギリスに来た際、檻の付いた独房に入れられた事を想い返した。「そうだ…僕はロンドンを離れる前に誓ったはずだ…二度と片道切符でイギリスには行かないと。なのに何故、僕は学習しない男なのか…」肩を落として再びアムステルダムの街中まで戻って来た。

 「これからどうしよう…」地図を見ていると一つの場所に目が留まった。「シュツットガルトか…」そこには有名な大きなバレエ団があった。「よし、行ってみるか!」再び列車に乗りシュツットガルトに向かった。アムステルダムの市内からシュツットガルトバレエ団へ電話したのだが繋がらなかったため、もう直接訪ねる事にした。シュツットガルトに到着し列車から降りると寒さで手がかじかんだ。

 「まだまだ旅は続くのだけれど残りのお金はどれくらいあるんだろう?」財布を出して中身を確認してみた。「これではあちこちに行くのにはとても心許ないな…」夜中だと言うのにショージは劇場方面へと歩いて来た。そして劇場の位置を確認すると、また歩きながら寝る所を探さなければならない。すると目の前に割合大きな公園が現れた。ショージはバッグをベンチに置いて少しの間休憩する事にした。

ふと、周りを見れば向こうに大樹があった。「何て大きな木なんだろうか…!」と呟き腰を上げてその木の周りを歩いてみると、反対側の木の根元に大きな穴が空いていた。人が入れそうなほど大きな穴だった。「何じゃこりゃ…」暫く穴を見つめていたショージはその穴が丁度自分が寝るのに相応しい感じがした。

 夜も大分と更けて来たのでショージは寝袋の初デビューをこの木の穴で試す事に決めた。「旅をすると一番費用が掛かるのはホテルだ…折角この素晴らしいアイテムをどうして僕は使わないのだろう…?よし、これが本当に素晴らしい物なのかどうかちょっと試してみなければいけないな…レッジオエミリアで登山家愛用の登山グッズ店のオーナーがマイナス24度まで対応しているんだぞ!って自慢していたもんな…」


木の穴の中は意外に…おお~っ!?

 ベンチの上に置いていた大きなバッグを木の近くまで持って来ると、まだ新品の寝袋を取り出し広げた。コンパクトに畳んで仕舞っていた寝袋は空気を吸い込みながら、ぶわっと膨らみ大人一人が十分に入り込める大きさに広がった。電車の旅は窓の外に景色が流れ、車や飛行機よりも快適だったが、時間が長く掛かるのと、重いバッグを抱えて歩き周っていたせいで身体がとても疲れた。

 早速、身体を寝袋の中に滑り入れ、頭から木の穴に入れて行くと身体の上半分は木の中にすっぽり入った。しかし完全に寝込んでしまうと大切なバッグが誰かに持って行かれるのではないかと心配になった。細いヒモで足元の先にある寝袋の穴に結び付けて置いた。これでもし誰かがバッグを引っ張ろうとすればショージに伝わる。大事なバッグを盗まれる訳にはいかない。

 穴の中は夜と言う事もあり真っ暗であったが、目が慣れてくると少しずつ見えて来た。木の温もりが伝わってくるようで快適とは程遠いが一晩は過ごせそうだ。「ん?何か、ガサガサ…」と音が聞こえた。それは紛れもなく木の中で鳴った音だが、「…?カチャカチャ…え、何だ?」目を凝らしてジーッと見つめると、とんでもなく大きいゲジゲジと呼ばれるムカデが穴の上の方に上がって行くのがはっきりと確認出来た。ショージは「うわ~っ! 」と叫び声を上げ、一気に木から脱出しようとした。

 だが身体の動きがままならなかった。何故なら顔の部分だけを出して呼吸がちゃんと出来るようにし、全身をすっぽりと包んだ寝袋の紐を顎の下できつく締めておいたのと、大きなショージのバッグを紐で寝袋に直結しておいたからだった。ショージは寝袋のまま芋虫のようにうねうねさせながら、100本足の劇太のムカデから逃げようともがいた。猛毒を持ったこの巨魁虫に刺されでもしたら命の危険もある。急いで寝袋の紐を緩めてバッグを外し穴から出た。心臓が破裂しそうなほど恐ろしかった。まじまじと木の穴を見つめた。

 真冬のドイツの寒さは日本の気温とは比べられないほど厳しい。公園を見回した。ここ以外に寝れそうな場所は他にない。かと言ってムカデと伽をするのは非常に難しい。しかし朝まで我慢してここで寝ればホテル代金は掛からないのだ。懐の寂しいショージは考えた挙句、もう一度この穴の中で寝る事に決めた。

 今度はもう一度全身を寝袋に入れ、足の方から木の穴の中に入って下半身を入れた。寝袋は羽毛で空気を沢山吸ってパンパンに膨れ上がっているからゲジゲジにも刺されることはないだろうと思ったのだ。上半身は外になった事から今度はバッグを枕のようにして寝る体勢になった。「まさかあのムカデは木から這い出て来て僕の顔を刺す事はないだろうか…」不安にかられたが背に腹は代えられないと腹を括った。睡魔が襲い、そして一気に熟睡へと入って行った。ところが…


警察官たちとシンディローパーの曲

下半身だけ木の穴に入れて熟睡していると、突然肩の辺りにドーン!と強い衝撃が走り、いきなり目の辺りが気持ち良かった暗さから真っ白に変わった。顔だけを出した寝袋のチャックを下ろすと、いくつもの懐中電灯の強い閃光がショージの目に向けて放たれて来た。一体 何が起こっているのかショージには訳が分からなかった。目を凝らすと緑色の制服を着た4人の警官たちがショージの顔の辺りに立っていた。そしてドイツ語で捲くし立てた。「こらっ、起きろ!パスポートを見せるんだ!」ショージは飛び起きて、即パスポートを取り出し緑色の制服の警官に手渡すと、警官たちは驚きながら、「オー、ジャパニーズ!? 日本人だと…何故こんな所で寝ているんだ?日本人は金持ちだろうが?」

  ショージはドイツ語で喋る警官たちに英語で答えた。「私はバレエダンサーで、朝になったらこのシュツットガルトのバレエ団でオーディションを受けるのです…現在私はイタリアで仕事をしておりますが、安いホテルも見つからなかったのでここで寝ておりました…」すると2人の警官はショージの前に残り、もう2人の警官は向こうの青色の緊急灯を回しているパトカーに戻って緊急灯を止めた。残った警官たちは態度を優しく変えた。「良く分かったけれども、こんな所は物騒だからちゃんとホテルに泊まりなさい。ドイツでは公園で宿泊する事は禁止されているんだぞ…ここからただちに出なさい。」と言い残して去って行った。

 時計は午前2時…。ショージは寝袋をかたづけて大きなバッグを持ち暗い道を歩き始めた。だがショージが恐れていた事が起きた。チラチラと白いものが上から降って来た。「雪か…?」そう、冷たい雪が遂に降り始めたのだ。こんな真夜中の時間帯にホテルなど見つかる訳などない。ショージは困ってしまい寒さで震えた。

 暫く道を歩くと意外にも一軒の喫茶店の様なバーを見つけ、ショージはドアーを開けてみた。すると店内ではシンディローパーの曲が掛かっていた。店の主人らしき男が出て来て「店はもう終わりましたよ」と言われ、ショージは「ここら辺りにホテルはありませんか?」と尋ねたが答えは、「ノー…」であった。

 一時間ほど彷徨歩いてから、また警察官に怒られるのを覚悟で先ほど寝ていた公園の木の穴に戻った。雪はビューッと激しくなって既に積もり始めていた。ショージはまた寝袋を出してさっきのポジションで寝ようとしたが、あのシンディローパーの曲がしばらく耳に残っていた。

 あれから、30年近く経った後も、ショージはこのシンディローパーの曲を聞くとあの木の穴と寒さ、そして超極大のゲジゲジを思い出す。


マリシア・ハイデ…シュツットガルトバレエ団の芸術監督

午前6時頃、異常なほどの寒さで目を覚ますと雪が雨に変わっていた。ショージを包んでいる寝袋は、ヨーロッパアルプス連峰の極寒にも対応出来るほどの保温性に優れているが、防水性には対応していなかった。上半身はずぶ濡れで寝袋もグッショグショになった。 急いで寝袋から脱出するとこれを仕舞うのに一苦労した。寝袋は畳んで仕舞うのは御法度だ。ランダムに押し入れなければならない。ところが水分を含んでしまったせいで空気が圧縮出来ないのだ。

 兎に角、何とか仕舞いきると、温かいコーヒーを探しにうろつきながら、駅まで戻った。駅は流石に早くカフェも開いており、公衆手洗い所でまず歯を磨きティーシャツを変えて顔を洗った。クロワッサンとコーヒーで一安心だ。「ああ、温かい…」だが「ありゃっ!?」首の調子が変であった。「あまりの寒さで骨まで変形したのかな…?」時間を潰しながら、マッサージしてもやはり首は真っ直ぐにならなかった。

 「これじゃオーディションの時に回転のピルエットどころか、まともにレッスン出来るのかな… 」劇場までやって来て中に入れてもらった。まだ早かったのだがカンティーン(劇場内の関係者用のレストラン)でまたコーヒー。早速着替えると、バレエザール(バレエ練習所)で念入りにウォーミングアップをしても、ガチガチに凍っていた体とひん曲がった首は真っ直ぐになりそうもない。「ああ…ちゃんとホテルに泊まっていたらな…」

 バレエ団のダンサーたちが続々と入って来た。「さあやるぞ!」と意気込みだけは凄いのだが、それでも首はひん曲がったままだった。


カテゴリーAランクのバレエ団!

 何とかレッスンを終えると、秘書を通して、芸術監督のマリシア・ハイデに挨拶をしにディレクター室に入れてもらった。マリシアは、静かな笑顔で、「どうぞそこにお掛けください」とショージを促した。静かに日本語で「コノバレエダン、アキガ アリマセーン…」ショージも釣られて「あー、そうなんですね…」と日本語で返した。後は英語で「新しいダンサーを雇用する時はフランスのモナコで教鞭を執られているマリカ・ベゾブラーゾバ先生の所の出身者しか取らないのです」とマリシアは説明した。この時、ショージは内心で「えっ!マリカ・ベゾブラーゾバだって!?その先生は確か、僕がイギリスのロイヤルバレエ学校のオーディションの後に、メール・パーク校長先生がフランスに電話してくれた先生じゃなかったか!ああ…僕の運命は一体、どうなっているのだろう…」深い溜息を吐いた。

 ショージは事前の連絡もせず突然やって来た事を詫び、レッスンを受けさせてもらえた事に感謝し礼を言うと劇場を後にした。やはり良いバレエ団でレッスンすると「また頑張らなきゃ…!」と心に火が灯り、胸が熱くなった。

 初めての冬休みはこうして終わりを告げた。アムステルダムからフェリーでイギリスに行って、イギリスには入れて貰えなかったあのとんでもないハプニングやら、オランダ国立バレエ団の凄さが身に沁みた。シュツットガルトの公園の大樹の穴の中のゲジゲジ…等々辛い事もあったが勉強になる事もたくさんあり、こんなに楽しい休みになるとは思いもしなかった。今度は一気に南のイタリアへ帰還しなければならない。


1986年 7月 オランダ国立バレエ団オーディション!

夏休みに入り、待ちに待った念願の武者修行開始だ。朝、まだ体の調子もベストな状態ではなかったが、前回の休暇に訪れ、心から感動したオランダの国立バレエ団にオーディションをしてもらえないかと電話で予約した。その期日を変える訳には行かない。

 イタリアからオランダまで直行した。早めにスタジオ入りしてウォーミングアップを入念にした。

オランダ国立バレエ団「ヘットナショナル・バレエ団」の練習室は巨大だ。色々な国のダンサーたちの肌の色が刺激的でもある。とても背が高いダンサーもいればかなり低いダンサーもいた。以前見たヘット・バレエ団の公演の際の、プリマで踊っていた女性バレリーナはラテン系の女性だろうか…身長が155センチ位の小柄な女性だった。だが踊り始めたら、そんな背の高さなど微塵も感じさせない素敵なダンサーだった。

 ショージも列車での長旅の疲れを克服し、なんとか集中する事が出来て、レッスン後にディレクター室に呼ばれた。この瞬間は普通なら誰でも緊張するのだがショージは全くしなかった。何故なら受かるはずなど無いから何も期待していないからであった。

 ディレクターのピーター・バン・ダイツィグと、秘書もそれを見守りなら静かにショージに向かって言った。「このバレエ団は普通、付属の学校からの生徒しかバレエ団に雇いません…ですが、コールドバレエ(群舞という一番格下で大勢のダンサーの一人)で良かったら、あなたを入れましょう…ただ、給料は少ないですよ」そんな思いがけない芸術監督の返事に「へ??」頭が反応しないショージであった。「あの、少ないって皆、生活は出来ているのでしょうか?」

 するとダイツィグは表情をぐっと下げながら「ぎりぎりな状態だろうな…」と低い声で答えた。「オランダの貨幣ギルドで給料の額を言われても、ショージにはどれくらいの金額なのか見当がつかなかった。しかしこの予想外の結果を聞き、ディレクターに「まだ私はイタリアのバレエ団を辞めてはいませんので午後に返事をさせて頂きます…」と言って更衣室に向かった。

 すると更衣室の中にはバレエ団で働いている二人のダンサーが着替えていた。ショージはアムステルダムのアパートを借りるなら小さなアパートでひと月幾ら位か、また生活に最低幾ら必要なのかと尋ねた。彼らに尋ねながらショージも着替えようとすると、ショージの服が見当たらない。「え?靴も無い… えっ!どう言う事だ? 一体どうしたんだろう…!?」そして見つけた。服はゴミ箱の中に、靴はトイレの便器の中に入っていた。驚いた事に靴の中に何かが入っていた。針だ。何百本もの針!

 ショージは危機感からそれらを素早く片付けると、飛び出すように劇場を出た。失意とショックで愕然としながら道を歩いた。「何故こんな酷い事をするのだろう…。何て酷い人たちが働いているバレエ団なんだ!こんな人情の欠片も無い人たちがいるバレエ団で仕事など出来やしない…どうしよう、もうイタリアに帰ろうか…」項垂れながら歩いた。「忘れよう…駅に行ってこれからの事を考えよう…」


背後から延びる黒い大きな手

ショージは一体どこを歩いているのか分からなかったが、その瞬間、目が釘付けになった。道に現金が落ちていたのだ。しかも札束だった。ショージは鷲掴みに拾い上げた。心臓が大きく鼓動して、時間が止まっている感覚だ。何処も見ずにがばっと拾うと内側のポケットに捩じり込んだ。「か、神様かな…?」拾った金を胸の内側のポケットにぐっと仕舞い込み道を歩き出して10歩も行かない内にショージの背後から、大きな黒い手がショージの肩をぼんと止めた。ショージは、「あっ!」と心臓が止まりそうになった。

 後ろを振り返ると、大きな黒人が恐ろしい顔して言った。「今、お前はお金を拾ったな?」ショージは咄嗟に「知らない、拾ってなどいない…」と答えたが相手の顔は更に醜く恐ろしい形相をして、「嘘を言うな!俺は見ていたぞ!お前は確かに金を拾った!これを買え!」一体何を買えと言うのか…。恐ろしい黒人はショージの首の後ろを引っ掴んで、道を外れた場所に無理やり連れて行った。黒い男はポケットから黒い物体をショージに掴ませ、「これを買うんだ!」と言った。この男はなんとドラッグディーラーだったのだ。非常に恐ろしい形相だった。

 およそ黒人の表情にも色々あるが、イタリアにてショージと同居しているランドルは同じ黒人でも、賢人のように賢く、真面目で優しい顔だ。このドラッグディーラーの顔は、動物的直感が強いショージに「これはいけない、殴られるか刺されるか…観念して言うとおりにしなくては非常にまずい事になる…」そう確信させた。

 「幾らで買えと言うのですか!?」男は「6万だ!6万だせ…」ショージは胸ポケットから拾った金から言われた通りの金額を渡した。拾ったお金は日本円で14万円位だった。その恐ろしい黒人の男は黒い物体をショージに握らせると、人ごみに消えて行きった。

 「良かった…殺されるかと思った…せっかく拾ったけど、まあ、まだ半分以上あるし、早く行こう、でもどこへ行こう…駅に…駅に行こう!」黒い物体をカバンの奥にぐっと仕舞い込み、駅まで振り返らずに走った。しかし人間は何かに脅かされ、その恐怖から逃げ出す時、更に恐怖感を増す。ショージにはまだ、あの醜く恐ろしい黒人が付いて来そうに思えたからだ。

駅まで慌てて走って来て、とりあえず駅の構内にあるトラベラーズサービスまで来た。「全く今日と言う日は何て事が起きたんだ…折角オーディションに受かったバレエ団ではダンサーたちに散々な目に合わされてしまった。契約書すら交わしていないのに、ダンサーたちは僕に酷い事をした。だが待てよ…まだバレエ団に入ると決まっていない僕を何故、牽制したのか?そうか…きっとこの僕がまだ決まってもいない契約の事を軽々しくダンサーたちに喋ったのが原因だったんだろうな…そうか、それならこれからは気を付けなければいけないな…」落ち着きを取り戻すと「これからどうすればいいのか…?まだまだ休暇は長いし、一体何処に行こうか…?」と言う壁にぶつかった。

 ショージの行動の基本的概念は「節約と合理的」これは懐の貧しいショージの根本から生まれる発想だ。ホテルに泊まれば当然、節約して貯めた大事な金も直ぐになくなってしまう。それにショージは虫が嫌いなので刺されたり噛まれたりしないのであれば野宿する事も平気だ。だが、寝ている間は移動が出来ない。寝ている間に移動出来る手段を考えると列車の中での睡眠と言う事になる。そして「睡眠は何時間必要になるのか…?」と言う質問を自分で出し、「8時間」と言う答えを出した。

 「列車の中で8時間の睡眠が出来る距離範囲はどこまでか?」と言う質問を自分に出し地図で検証する。コンパスは携帯してはいないがオランダのアムステルダムを中心として大きく丸を書くようにしながら地図を眺めた。スイス、フランス、北欧…これが丸の中の範囲になった。「よし!未開拓の地を自分の目で確かめよう!北欧って良いんじゃない?」

列車の電光掲示板を見ると偶然にも「デンマーク行き」と言うのがあり、「これだっ!今夜はデンマーク行きの列車の中でショージの動く城だ!しかも空飛ぶ絨毯ではなく夢を見せてくれる空飛ぶ寝袋があるからバッチリだ!」と、それまですっかり落ち込んでいたはずの目がキラリ!と光った。「決まり!北へ向かって驀進だ~!」


フィンランドの首都「ヘルシンキ」に到着!

デンマーク、スウェーデンを通過し、バルト海を超大型の豪華フェリーに乗って横断した。朝、豪華船内でも一番安い「マグロの保管棚」のような3段ベッドの一番下でショージは目を覚ますと巨大な青い船「シリアライン」はフィンランドの首都、ヘルシンキに到着した。ショージの持っているインターレイルチケットが使える範囲はここまでか。

 「ん?どうしてチケットの付属品として貰ったこの地図の右半分は空白なんだ?」もう地図には載っていない場所…それはソビエト連邦。インターレイルと言う1カ月間だけ有効のチケットは西ヨーロッパだけに限り何処までも乗れる優れものである。だが、東ヨーロッパは適用外であった。だからソビエト連邦に列車のレールが繋がっていようがそこはインターレイルの範囲外なのである。従ってインターレイルのチケットに付属した地図には適用外の場所は真っ白く何も描かれていなかったのである。

本屋に寄りソ連の地図を見てみた。ソ連がどのような場所なのかを確かめたかったからだ。地図を広げて見ると驚いた。「ソビエト連邦ってこんなに大きいのか!地球の半分くらいがソビエト連邦なんじゃないか…?バレエで有名なレニングラードはと…おー?フィンランドの直ぐ近くだぞ!」地図上には、西ヨーロッパがソビエト連邦の端にチョコンと添え付けてあるような感じだ。フランスやドイツ、スイスやスペイン、オーストリアと全部まとめてもこのソビエト連邦の大きさと比べる、象と子犬みたいである。

 しかし文化はせかせかと窮屈そうな西ヨーロッパで花開き、しかもこんなに小さな国々は独自の言葉を持ちながら、国境では入国しようとしている人間のパスポートを確認して自分たちの領土を主張している。「ソビエト連邦ってどんな所なんだろう…?」また生まれて来たショージの身体の中にある強烈な疑問と興味が。


ソ連に入りたい!

ショージはロシア大使館に行ってみた。どうしたらロシアに行けるのか知りたかったのだ。大使館の中は異様に暗い雰囲気が漂っていた。そして並んでいる人々も暗い感じがした。散々待たされた挙句、たった一言「日本とは国交をしていません。無理です!」結局、それ以上相手にしてもらえなかった。

 午後からあちこちの旅行サービスセンターへ行ってみたが、ソビエト行きの旅行など見当たらなかった。最後に行ったサービスセンターの男が「ウォッカツアーにでも行ってみたら?」と笑いながら言った。ショージは真剣に「本当にそんなツアーがあるのですか?」と聞いた。「確かにあるよ…えーと…」事務所の奥に入ってそのバスツアーの企画をしている旅行会社の場所を丁寧に紙に書いてくれた。ショージは礼を言うと大急ぎでそのツアー会社に行った。およそ一週間のツアーであった。

 このツアーの金額は割合に安く、ショージの懐事情でも問題なく賄うことが出来る。アムステルダムで拾った金があるから大丈夫なのだ。早速申し込んだが、ショージのパスポートを見た店員は顔を曇らせて「ビザが出るかどうか分からないな…」と心配そうだ。当時、まだソビエト連邦は西ヨーロッパの人たちにさえ、入国は困難を極めていた。このフィンランド以外、旅行を斡旋する所は無かったに違いない。

 ショージは何が何でもレニングラードに行ってみたかった。レニングラードにはショージが崇拝している「バレエの殿堂」がある。ワガノワ・バレエ学校と世界の頂点に立つ、キーロフバレエ団だ。店員が「ビザ取得まで4、5日は掛かりますからまた来てください。でもビザ取得は難しいかも…」ショージは宜しくお願い致しますと言うと旅行会社を後にした。「ビザが取れますように…!」と祈る思いであった。

 幾日が過ぎて、バスツアー会社を訪ねてみた。緊張と期待、不安を胸に店員に聞いた。「レニングラードに行きたい者ですが…」パスポートの束からショージのパスポートを引き抜くと笑顔で「オーケーだったよ、良かったね!」ショージは飛び上がって喜んだ。注意事項を説明され待ち合わせ場所を指定された。注意事項の一番は、「グループ行動のみで指定された場所と外国人に許可されている場所のみが行動可能」と言う事と、「ツアーのプランに従う」と言う事であった。ショージはパスポートを持ってレニングラードへ旅立つために荷物をまとめて待ち合わせ場所へ向かった。


ウォッカツアー!バスはやって来た!

街角にあるバスの待合い所へ来ると既に幾人かの男たちが居た。これから旅行に行くというような服装ではない。どちらかと言えば、酔っ払いのオヤジが朝方に二日酔いで疲れて数人で屯しているという感じだ。ショージはその男たちに向かって「レニングラード行きのバスはここからですか?」と英語で質問した。すると男たちは黙って頷いた。

 指定の時間が近づくにつれ、段々とその数だけは増えたが これは間違い無く異様なグループに見えた。30人くらいの酔っ払いの男たちが集まったところで、バスガイドが「レニングラード行きです!」と声をあげて、バスから降りて来た。金髪の40歳位の優しそうな女性であった。 男たちは黙ってぞろぞろとバスに乗り込み、ショージも乗り込むと中に一人だけ女の子がいた。若いと言えばその女の子とアジア人のショージのみだ。窓ぎわに女の子が座り、ショージは通路を挟んで反対側に腰掛けた。バスが動き出し、バスガイドがこれからのツアーのプランと注意事項を説明し始めた。

 男たちは眠り始めたか、興味無さそうにそっぽを向き、女の子さえガイドの話は上の空だ。エキサイトしながらガイドにかぶり付くように聞いているのは、ショージ一人だけであった。何時間走ったのか、たくさんの酔っぱらいとショージを乗せたバスがフィンランド国境を出た。バスを見送るようにフィンランド国境監視官たちが、見る見る遠ざかって行った。

 ツアープランや注意事項を説明し終えたガイドが一息ついて、「あら?」と不思議そうにショージを見つめた。「ガイドに僕の本当の事情を打ち明けておいた方がいいかもしれないな…」とショージはガイドに近寄って行った。「実は僕はアルコールのためにレニングラードへ行くのではありません。僕はバレエダンサーで、レニングラードでバレエを見たいのです。出来ればキーロフバレエ団へ行ってオーディションを受けたいのです。でなければバレエ学校でもいいから、レッスンを受けたいと思っているのです」

 ガイドは驚いた顔して、ショージをしばらくは見つめた。しかし、表情がさっと曇り、「勝手な行動は許されませんよ!あなたは自分が一体、何を言っているのか分ってないみたいね…!あなたは監視下にあるのですよ!」 暫くガイドにそっぽを向かれて、もうショージの話しは聞いてはくれなかった。ショージは悲しくなった。


5時間よ!5時間で何とかしなさい!

 既にフィンランド国境は過ぎて見渡す限り何にも無く恐ろしい無毛の土地だ。「この空間は一体、何処の領地になるんだろう…?もしかすると、逃げてくるソビエトの人たちのために地雷があちこちに埋めてあるのかな?」バスの中から今来た道を振り返れば、アスファルトなんかではない。それはなんとも醜い凹凸が激しく剥き出している泥道だった。半永久凍土が何百年も凍っては溶け、溶けては凍り、「うわーっ!なんて醜い道なんだ!」

 その長くて、どちらの国にも属さない領地の休憩地点でバスが止まった。ガイドは20分ほど停車する事を男たちに伝えた。ぞろぞろと30人くらいの酔っ払いの男たちも女の子もバスから降りて行った。

ガイドはバスの中に一人残ったショージに目合図をした。「こっちに来なさい…」バスから降りて人がいない静かな木々の間のところに呼び、「さっきはごめんなさいね…あなたは知らないと思うけれど、バスの中には録音装置が付いていて会話を全部盗聴されているの…。私も小さい頃からバレエを習っていたわ…あなたの気持ちは私にもよく分るわ。あちらに着いたら、最初にホテルでパスポート検査とグループ行動のための注意事項を監視官たちから説明され、それからホテルの部屋割りがあるわ。今日はそれだけになるけど 明日の朝からは決まった場所にショッピングや食事など監視官付きの自由行動が5時間あるからその時にあなたはグループから離れて。私は見て見ぬ振りをするから、なんとかその5時間で自分の思いを遂げなさい…」と言いながら、ガイドは周りに人が近づかないように用心

するのを忘れない。「頑張りなさいね…ああ羨ましいわ、あなたはバレエが出来て。私もバレエが続ける事が出来ていたなら…忘れないでね、5時間よ。さあ、あっちへ行きなさい」ショージはこのバスガイドの優しい言葉で緊張と希望で胸が一杯になった。


え、ここが芸術の国 ソビエト!?

 バスの中はウォッカとたくさんの酔っ払いの男たちの臭気でムンムンした。ショージは、座席の間の通路の向こう側に一人で座っている女の子に紙とペンを見せて「すみませんが、ロシア語を教えて頂けませんでしょうか?」と話しかけた。女の子は少し戸惑いを見せながら「え?ああ、どうぞ…」ロシア語講座の時間だ。まずは「こんにちは」や、「初めまして」で、ショージの自前の辞書作りはいつもショージが持ち歩く紙と鉛筆だけで作られる。そして「いつ? 」「どこ?」「誰?」など次々にメモをして行き 最後にレニングラードのバレエ団へうまい事入れたのを想定して、「レッスンを受けさせて欲しい」と、口頭で喋れるようにロシア語を教わった。

 ショージはこの女の子が何故、レニングラードへ行くのか聞いてみたら、なんでも彼女はフィンランド人とロシア人のハーフで、彼氏がロシア人なので久しぶりに会いに行くのだと言う。しかし彼氏に会いに行くと言うのにちっとも楽しそうには見えなかった。

 ソビエト国境に着いた。全員バスを降りたが、ショージは唖然とした。夥しい数の軍人たちが、腕の中にマシンガンを抱えて立っていたのだ。カラシニコフと言うこの恐ろしい機関銃はオモチャではなく、銃弾が入っていて銃口は本当に穴が開いていた。ショージが小さい頃持っていたオモチャのピストルの銃口は穴が開いていなかった。開いているオモチャは銀玉鉄砲くらいの物であった。

 「ま、まずい…もし僕が日本人である事がばれたその時はどうなってしまうのか…まさかシベリアに送られてしまうなんて恐ろしい話に発展してしまわないだろうな…」列を作って並び、パスポートを差し出しても表情一つ変えない恐ろしい形相の検査官。スタンプを押す時間がなんと長く感じられたことか。数百人はいそうな軍人たちもショージたち一行の方をちらりとも見せない。「なんと冷たい人たちなんだろう…」この時。ショージははっと思い出した。「あっ!僕はアムステルダムの黒人から売られた大麻を所持している!こんな物見つかったら銃殺かシベリアに連行されるのは必至だ!大変な事になってしまった!」

再びバスに乗り込みホッとした。「大丈夫だった…そりゃそうだ、僕は既に大使館から旅行ビザをもらっているんだから…」

 数時間経ってバスは街の中へ入って来た。そこはもうショージが見てきた今までの西ヨーロッパの景色とは打って変わったソビエトの街の景色であった。「一体、何なんだ、この国は…!?」


レニングラード到着!ここが…!?

 バスは揺れながら、レニングラードの街中へ入って来た。建物も都市だけあって大きく、バスが走っているこの道も片側5車線くらいもあるかなり広い道だ。だが、昭和初期の銀座通りさえ、もっとカラフルだったのではないであろうか。この国には色というものがあまりない。看板もない。ただ建物と道だけだ。

 ホテルにようやく到着した。周りに高い壁が張り巡らされた中に入って行くと、駐車場にはたくさんのバスが停まっており、その一角に降ろされた。大勢の軍人や検査官たちに囲まれてホテル内へと引率された。ホテル内は暗く、軍人や検査官たちも入り混じって誰が誰なのか、客なのかホテルの使用人なのか全然判らないほどごった返していた。

 ガイドも一緒であったが、ここでは笑顔が全くない無表情な女性検査官が一切の指揮を取っており、ショージたちのグループをロビーの一角に集めてパスポートを徴収した。パスポートの返還はなかった。ガイドが「帰る時まで、パスポートを預かります」とショージたち全員に伝えた。「何故、パスポートを返してくれないのだろう…?」訳が分らかった。

 取り敢えず制服の女性官に「レストランありますか?」と尋ねると、「ダー!」(イエスの意味)2階にあるようなので早速行ってみた。「うわ~、何て広いレストランなんだ~!?」料金はドル払いだ。5ドルほどでスープと肉の煮込み料理を頼んだ。意外に美味しい。そのレストランで水のボトルを買い込んで部屋へ戻った。

 

レニングラードの人々…

 到着から翌日の朝になった。部屋を共有するフィンランド人の男は爆睡中であった。ガイドとショージたち一行も全員ロビーに集合した。部屋を共有している男はこの点呼に現れなかった。横では朝だというのにグデングデンに酔っ払ったフィンランド人の男たちがウォッカをひたすら飲み続けている。ショージは、少々のドルを持ってホテル内の商店にパンを買いに行った。2階のレストランの横にその店はあった。「ドルで買うよりロシアの金ルーブルでは買えないのかな…?」

 店のおばさんに「ドルの表示しかありませんがルーブルだったら幾らなんですか?」と英語で尋ねると、「ルーブルでは売らないっ!」と、ロシア語で断るおばさんの突然の大声でショージは腰を抜かしそうになった。「なんでさ!ここはロシアで、この国のお金はルーブルでしょうよ!」 おばさんは更に恐ろしい形相で「売らないんだよっ!けっ!」その剣幕にショージは「殴られるかもしれない…」と諦めて、とりあえずドルで買い込む事にした。多分この外国人だけが泊まれるホテルでは宿泊客からたっぷりとドルを巻き上げる策略なのだ。

ソ連では外貨は宝石みたいであるがルーブルなど鼻くそみたいな物なのか。ロビーで朝の集合に向かうと酔っ払ってフィンランド人の男たちも、約束の時間通りに集まった。ショージの部屋の男も起きて来ていた。「あんなに泥酔していたのに、よく起きられたものだ…」と呆れた。ガイドは、「これより許された範囲内でのショッピングに向かいますので、皆さん、用意をして来てください!」ガイドの言葉が終わるのと同時に男たちが部屋へ戻って支度をし、再びロビーに集まって来た。

 一行はガイドに引率されて混雑するロビーをゾロゾロと横切った。カーキ色の制服を着て、きつい目をした無表情の数十人の女性官を横目にショージたち全員はホテルから出た。ガイドがショージに目で合図をして「今よ!行きなさい…!」そして時計を見せて手の平を軽く上げて5本の指を立てた。つまり、「5時間よ!」とショージに確認させたのだ。

 ショージは群衆からただ独り抜け出し、何食わぬ顔をして横道に外れた。そして更に他の道へ曲がると走らないように、そして目立たないようにしながら足早に更に4つ角を曲がったりして、兎に角このグループから遠ざかる事だけを考えた。人間というのは逃げる時は何者かに追われているような恐怖の感覚に陥る。振り向いたら捕まってしまうかのように、兎に角、怯えた。そしてひたすら遠ざかる事だけを考えた。なんとかグループを離れる事に成功した。監視の目から離れる事をしてのけたのだ。

 レニングラードの街中には路面電車があちこちに走っている。「ここは…いつかテレビで見た日本の戦後の銀座通りみたいだ…」ショージはやって来た路面電車に足早に乗り込んでホッと息をした瞬間、背中がゾッと冷たくなった。なんと、ホテルの場所やホテル名の入った紙を部屋に忘れてきてしまったのだ。「でも、時既に遅しだな…後の事は後で考えれば良いか…それよりレニングラードの街の何処に、キーロフ劇場はあるのかな…?」


憧れのキーロフ劇場…門前払い!!

 路面電車でホテルからはかなり遠ざかった所で一度電車を降りてみた。相当に広い道だ。歩道も広くとってあるが、道行く人々の数が凄い。レニングラードの人口は恐らく凄い人数なのであろう。ヨーロッパ系の白人もいれば、アジア系やモンゴル系、アラブ系…色々な顔があった。ショージは以前この国の地図を見た時に、ソ連は地球の半分位あるのではないかと思ったが、人種のミックスがこれまた凄いと感じた。そして何処を歩いているのかさえも見当が付かないショージは、取り敢えず道行く女性に「エクスキューズミー!」と声をかけた。すると女性が止まった。

 たくさんの道行く人々がショージたち2人を邪魔そうに避けて行く。ショージはその若い女性に英語で必死に「劇場は何処ですか?キーロフ劇場は何処ですか?」と繰り返し訊ねた。するとその女の子は「ニプニマイ…!」と頭を横に振った。ショージは女の子の唇を見つめ、小さなメモに「ニプニマイ…多分、わからないの意味」と書き込む。

 既に通りで邪魔になっているのでショージは女性に「ちょっとそっちの道の端へ行きましょう」と促して続けた。ゆっくりと「良いですか?キー、ロ、フ!シアター!シアターで分からなかったら、よしっ、フランス語ではテアトロ!…もう一度私の口を見て下さい!フランス語ですよ、OK?キーロフテアトロです!」

 ショージは手振りを入れたり大きく口を開いてアクセントを聞こえ易くして、更に大きな箱のゼスチャーを見せて「分からないかな…箱じゃないんです!劇場なんですよ、劇場!」女性は私のその姿を見ながらじれったそうに、「シュト シュト?」と 頭を横にして眉間に皺を寄せながら繰り返した。その女性の困っている表情を見たショージはまた、メモに書き入れた。「シュト…多分、何?という意味」

メモ帳を女子に差し出して、「劇場の場所を書いてください」と言った瞬間であった。女子の表情がさっと変わり、ショージのメモ帳を女子が持っていた鞄で隠した。その行動はまるでショージが恰も出してはいけない物を出した事を叱るようで、そのまま足早に女子は去って行ってしまった。仕方無く今度は爺さんに声を掛けた。同じように英語であったが、爺さんにはチンプンカンプンのようだ。だがこの爺さんはショージが迷っているのを察知した。しかしショージが再びメモ帳を出した途端、爺さんもやはり顔色が変えたが素早くメモ帳を隠すと、辺りをキョロキョロしながら、ロシア語で「駄目だよ!人前でこんな物出したら…見られたら危ないじゃないか…!」ソ連では外国人との紙のやり取りなどの行為は諜報活動とみなされスパイ容疑をかけられるのだ。

 「ゆっくり喋りなさい、何処に行きたいのかね?」ショージはしょんぼりしながらイタリア語で「テアトロ…」(劇場)と言ったら通じた。「ああ、テアトロか!劇場だね…?何処の劇場?え、キーロフ?ああ、キーロフ劇場だね?よし、私に付いておいで」爺さんはショージの手を引いて連れて行ってくれるようだ。

 「ああ…良かった!!」ショージはその爺さんの服を見ると、色がすっかり褪せて古びていていが、アイロンはしっかり当ててあった。道行く沢山の人々の服装にも色が無かった。鮮やかな色が全く無いのだ。顔にも表情がない。活気もない。ただこの限りないほど沢山の群衆はザッザッザッと歩いているだけなのだ。爺さんはショージに何かを聞いて来た。「何処から来たのか?と言っているのかな?ジャパン!」と言っても通じない。

 「ジャパンで駄目なら、ジャポン、ヤパン…駄目?分からないか…にほん、ニッポン… 日本語で言って分かるはず無いか…」だがそこで爺さんに通じたので驚いたのはショージの方であった。「おー、ニッポン? ニッポンスキーか?」爺さんは路面電車に乗ったり歩いて公園を通ったり、その都度ロシア語で歴史やら建物の説明などをゼスチャー入りで話した。「ああ、なんと優しい爺さんなんだ」


キーロフバレエ団…な、中に入れてください!

 爺さんが「着いたぞ…ここだろ?」「あっ、これだ!写真で見たキーロフ劇場だ!そうです、ここです!」ショージはフィンランドからバスでやって来る時にバスの中にいた女の子から、少しロシア語を学んでいた。「確か、ありがとうはスパシーバだったな…」爺さんに「スパシーバ ボリショイ!」と言った。するとその老人はニッコリと笑って手を振りながら沢山の人の流れの中に消えて行った。大感謝だ。

 ショージは早速、関係者入り口に回ってみた。4人ほどの爺さんたちが門衛としてドアーの前と内側に立っている。ショージは英語で「私はバレエダンサーです。中に入れてください」と言った。ここでも英語は通じない。兎に角、何でも言ってみた。「バレエ、バレエット、バリエ…」門衛の爺さんはしまいには怒りだして、「うるさい!あっちへ行け!」凄い剣幕の爺さんに追っ払われたショージは少しだけ離れた所からその関係者入口を見ていると、次々たくさんの関係者が入ろうとした瞬間を逃さずショージも一緒に混じり込んで入ろうとした。と門衛の爺さんの一人に、「何してんだ、この~っ!」と腕を掴まれて摘まみ出されてしまった。「ん~、どうやったら、中へ入れてくれるのだろう…?」このまま引き下がったら折角このロシアまで潜り込んだのに何の意味もない。でも、爺さんたちのガードは固いし…どうしよう?」


キーロフバレエ団芸術監督オレグ・ビノグラードフは来るか!?

 関係者入り口で呆然と立って門衛の爺さんたちを恨めしそうに見ていると次々に、バイオリンを抱えた人や楽譜の束をバッグからはみ出させて持ち込む人、この劇場で働く様々な人が必ず門衛に語りかける一言があった。耳を澄ませて良く聞いた。「ズド?ズドラストブツィエ…?」とこの門を通行する人々は言った。「何だ、この呪文みたいな言葉は!?」 かなり、長い間見ていたがバレエダンサーは入って来ない。「ああ…芸術監督のオレグ・ビノグラードフ氏が来てくれたら、直談判するのにな…」門衛の爺さんたちもドアーの中に入ってしまった。

 扉を開けて4人一緒で固まって座っている門衛の爺さんに聞いたばかりの呪文の言葉「ズドラストブツィエ!」って言ってみた。すると、門衛たちは呆れた顔して、「この男、まだいたのか!」と、一斉にショージをじっと見た。流石にショージも「あ、これはいけない!」と思って笑いながら「オー、ソーリー!」と言って出直す事にした。

 あまりにしつこいショージに嫌気が差しているこの爺さんたちの顔を見るとショージの方が可笑しくて笑い出してしまったが引き返そうにもまだ心残りがある 。

 ふと、キーロフ劇場の前の大きな道の反対側を見ると、もう一つ劇場らしき建物があり、何かのポスターが貼ってあるのが目に止まった。ショージは道の反対側に渡り、そのポスターを見に行ってみた。すると幾人かの球形に太った大きなおばさんたちがそのポスターを囲んで見ているので良く見えない。

 ショージはおばさんたちの間に割って入り、ポスターを見るとバレエであった。一人のおばさんに「これ、ここでやるんですか?」とゼスチャーを混ぜた英語で聞いてみると、おばさんはロシア語を機関銃のように使って「ダダダダ!」って説明してくれたが、「ロシア語のイエスはダ~だよな?どうやら、イエス、イエス、イエス、イエス ここでやるのよ!」って事かな…日本のおばちゃんも、そうそうそうよ!って言ったりするもんな…。」

おばさんの一人が大きな声を出して言った。「このバレエは良いわよ!今夜なのよ!今夜!!チケットはあそこで買うのよ!え?あんた、分ったの? 」何処の世界でも、おばちゃんは親切で優しい。そんな優しくて大きな丸い体のおばちゃんは自分の腕時計を見せて、「今日の夜!この針がここに来たらこれがここでやるのよ!あんた、分った?」とショージに念を押した。 ショージは「あっ!これはもしかしたら…」おばちゃんに礼を言うと早速その足で建物の裏側へ走り出した。


モスコウスキーバレエ団(モスクワ国立バレエ団)

キーロフ劇場と道一本を挟んだ反対側の劇場…。ここの関係者入り口には誰も立っていなかった。ハラハラしながら中へと進んだ。何食わぬ顔を装いながら廊下で門衛らしき人物にすれ違う瞬間に例の呪文「ズドラストブツィエ…」を。「…?」相手は不思議そうにショージを見ていたがショージはさも当然であるが如く中へ進み舞台付近にダンサーたちを発見した。「やっぱりこれからレッスンがあるんだ!」ショージは急いで近くのトイレでレオタードに着替えた。自分がダンサーなのだという主張をするにはこの姿が一番だからである。

 早速舞台に上がって、そこでウォーミングアップをしている女性ダンサーにロシア語で話しかけてみた。バスの中で習った、「どこ?」と言う単語に「ディレクター」を付けただけであるが。すると、女性ダンサーは「こっちよ…」とショージをディレクターのいる部屋へ連れて行ってくれた。丁度ディレクターは部屋から出て来たところでショージは英語で捲くし立てた。「私は日本人です!イタリアで仕事をしていますがこのロシアで勉強したくてやって来ました!是非レッスンを受けさせてください!」

 ディレクターはしばらく呆然とショージを見た。多分英語は通じていないのかもしれなかったが、ニッコリと笑い何かロシア語で言った。ショージはそれを「どうぞ、存分にやってください…」と言っているように勝手に解釈した。舞台に戻るとプリエが始まっていた。空いている場所にツツツ…と割って入りレッスン第一号の開始だ。舞台の一番前に老婦人が椅子に腰掛けて指導しているが椅子から立ち上がる事は無く、淡々と言葉のみをダンサーたちに伝えた。エクササイズを説明しているのであろうがショージにはチンプンカンプンだ。

 隣の女の子に小声で「あれ、誰?」とロシア語で聞くと、一言、「ドジンスカヤ!」と言った。「え?ドジンスカヤってあの有名な?うへーっ!天下のドジンスカヤのレッスンを受けちゃってんの!?すんげ~!凄い人数のダンサーたちに挟まって、いきなり舞台上でレッスン出来るなんて幸せだな…」そしてレッスンが終わって劇場を出た。「えーと…あれっ?どうやったらホテルに帰れるんだ…?」

 タクシーを待つ人々の列から100メートルほど離れた場所に立つと不思議に目の前にタクシーが止まった。「あれ?どうしてかな?」左ハンドルの運転手は助手席の既に開いている窓から身を乗り出し低い声で、「ドルか?ドル払い出来るのか?」ショージは人々が並んでいる列を見るとそのたくさんの人々がショージの方を凝視している。

 ショージは意を決して「そうだ…ドル払いだ!ホテルへ帰るけど幾らか?」運転手は「5ドル!」と言った。多分レニングラードの現状では5ドルと言うのはべらぼうな料金なのであろうが、英語を少し話せるこの色黒のジプシー風な運転手にショージは賭けてみた。タクシーに素早く乗り込むと、並んでタクシーを待っている人々がショージの目に入った。ぼやいている人や明らかに怒りの形相を表している人もいた。「なんだ!あのアジア人はドル払いをしたのか…!」とどの顔にも諦めた表情がショージの乗ったタクシーの窓の外を流れて行く。

 運転手から「何処のホテル?」と聞かれてドキリとした。「実は分から無くなってしまったのだけど…」とショージが言うと、運転手は「はあ?」暫く走り続けて「ここじゃない?」「あ、ここだ!やった、着いた!なんで、どうやってこのジプシー運転手は分かったんだろう!?」運転手は「悪いけどちょっとホテルから少し離れた場所でお金もらうからね…」と、200メートルほど離れた路地裏でタクシーを止めて、5ドルの他に3ドルを追加料金として請求して来た。ショージはこのジプシーが5ドルでさえ、ふっかけているのを知りつつも更に3ドルを支払うとタクシーはすっ飛ばして去って行った。

 何食わぬ顔でホテルの薄暗いガラスの自動ドアーの中に入って行ったが内心はドキドキだった。たくさんの監視官や軍服を着てマシンガンを腕に挟んだ兵士の間を縫うように歩いた。非常に厳しい顔をした女性がロビーで受付をしている。「私の部屋番号は604です、鍵をください…」部屋の鍵を尋ねると「さっき渡したでしょう…」とにべもない。 ショージは「あっ、そうでしたね…」と答えておいたが、多分、あの酔っ払いのフィンランド人の男が先に部屋へ帰ったのだろう。

 ショージはエレベーターの中に入った瞬間にロビーの人々がショージの事を不審に思っていないかどうかを目視でさっと確認した。エレベーターのドアーが閉まる5秒ほどの時間がなんと長く感じた事か。


ロミオとジュリエット…感動の舞台!!

 まだ時間にはゆとりがある事から、ショージは再びホテルを忍び出た。そして路面電車に乗った。今度はしっかりとホテルの場所を書いた案内やレニングラードの地図などを持って出たので心強い。劇場に着いて直ぐに今宵催される「ロミオとジュリエット」のチケットを買いに行くと、数枚かしか残っていない内の一枚を手に入れる事が出来た。「ラッキーだ!」ロシア人ダンサーだけによる舞台を見てダンサーたちの素晴らしい技術に目を見張った。芝居の表現力や演出は特筆すべきものがあった。しかし最も驚いたのはその振り付けから客に訴え掛けるその力強さだ。ショージは唸ってしまうほどに見入った。

1幕後の休憩が終わると2幕が始まった。目の前で催されている舞台に完全に魅了され、気がつけば頬が涙でグショグショになっていた。このダンサーたちの無言の表現から感じたものは「我々はロシア国民の希望と夢をしっかりとこの胸に刻んでいる!今を必死に生きている…そしてこれからもまた力を振り絞って生きて行くのだ!」と強いメッセージがこの悲劇のバレエから観客に訴え掛けて来る本当に素晴らしい作品であった。幕が閉まっても暫くの間は動く気にもなれないほどショージは打ちのめされた。そして帰りがけにショージは固く決心した。「いつか絶対にこの素晴らしい芸術の国で勉強をしたい…!必ず僕はまた来る!」と。それほどまでに魅力ある舞台だったのだ。

 こうしてレニングラードを一週間ほど体験した訳だが、最終日にガイドが「今回のツアープランのコースには含まれていないけれど、私とあなた二人でバレエ学校を見に連れて行ってあげましょう。中には入れないと思うけれど…」と誘ってくれた。ショージは喜んでガイドと一緒に出掛けた。

 バスに乗り込むウォッカツアーの男たちは飲み過ぎて更にやつれた顔をしていたが、その彼らもお土産を買うのを忘れてはいない。これでもか!と言うほどのウォッカボトルを胸に抱えていた。ショージはその男たちの滑稽な姿に大笑いした。

 こうしてショージは無事にフィンランドへと帰って来て、バスの中では余計な事を喋らずにガイドに顔の表情だけでお礼を伝えた。するとガイドもニッコリ笑いながら無言の笑顔の中に言葉を見出した。「良かったわね…思いが遂げられて…」


イタリアへダッシュ!怪しい豆

ロシアからフィンランド、スウェーデン、デンマーク、ドイツ、スイスを通過してやっと懐かしいイタリアへと帰って来た。長かった夏休みの武者修行の後のレッジオエミリアは新鮮に見えた。やはりイタリアは賑やかで目に飛び込んで来る色は他のどの国よりもずば抜けて綺麗だ。

 アパートの中で一緒に共同生活をしている黒人ダンサーのランドルと白人ダンサーのロバートが、既に明日から始まるバレエ団のリハーサルのために戻って来ているだろうと予想しながら「ハーイ!アイムホーム!」(ただいまー!!)と声を出して玄関に入って行った。すると案の定ロバートが出て来てロックを外してくれたが、エプロンを着けていて何やら良い匂いがする。キッチンで赤ちゃんが入れるほどの特大の鍋を使ってロバートが料理しているのだ。

「ロバート、一体何作ってんの?」と聞くと、「豆だよ!明日からのリハーサルでは体力が物を言うからな!体力が最後まで残っている者が、結局は勝ちって事さ!」ロバートは豆をかき混ぜながら言った。「ショージ、考えてもみろよ…、仮に、仮にだけどな?あのフランチェスコがさ、休み明けで怪我でもしてみろよ、(フランチェスコは、プリンシパルでありバレエ団では最も格が上のダンサー)ディレクターはさ、誰を彼の代役にするかな~?」ショージは思わずロバートの横顔を「え…!?」凝視した。ロバートは至って平然と味見しながら、豆を一つ口に放り込み、「この豆はね、そう言う夢の豆でもあるんだ…!」

 どちらかと言えば、ずんぐりむっくりのこのロバートがフランチェスコのパートを踊っている事を想像するとショージはブルブルと武者震いが出たが、「そう言う豆なら僕も一つ…」と手を出すとパチンと叩かれショージが摘まんだその豆を鍋に戻してしまった。

 ロバートは、黙々と彼の怪しげな豆をかき混ぜている。「ショウジはこの休みに何処で何をしていたの?」ショージはニヤニヤと笑いながら、ロシアからの土産を黒人ダンサーのランドルと白人ダンサーのロバートに手渡した。二人とも暫くバッジを見ると、目をまん丸くさせてUSSRの意味に唖然としていた。日本人にだけでは無く、西側の何処の国の人々にとってもソビエト連邦には入る事は出来ないからだ。このショージを含めた3人は、その晩は遅くまでロシアのレーニングラードの話で盛り上がった。


1986年 11月上旬 胸に仕舞ってあるこの思い…

 イタリアの小さな街、レッジオエミリアにあるバレエ団に初めてプロのダンサーとして 雇って貰ってから1年半の歳月が経った。アパートには、ショージとランドル…そしてロバート…と仲良く、時には極度のストレスのせいの口争いなどもあったが、それでも3人ともバレエが何より大好きで可笑しな共同生活をした。

 そんな中、ショージはバレエ団が休暇の度にあちこちの他のバレエ団に武者修行をして周った。自分の想像を絶する世界がある事を目の当たりにした。

ショージは日本からイギリスに留学し、そこからイタリアに来たのだが、ヨーロッパの色々なバレエ団を実際に自分の目で見た時、ショージが働いているイタリアの小さな田舎町のバレエ団との大きな違いを感じた。スイスやドイツの殆どのバレエ団は劇場の中に稽古場を持ち、とても華やかな環境の中でプロダンサーとしての仕事内容も大変充実していると感じたのだ。また、給料の多さにも驚いた。ショージは彼らの半分も貰ってなかった。 

 そしてバレエ団の中で働くダンサーたちの精神面の違いにも気付かされた。ショージが働くイタリアのバレエ団は元々、バレエ学校から始まり、その卒業生を使ってバレエ団が出来上がったのだ。生徒がそのままプロとして僅かな給料を貰って働いている訳だが、ダンサーたち全員は自分達の先生であり、監督でもあるマリネルを極端に恐れ、監督も子供をあしらう様な態度でダンサーたちに接した。ショージはこのような環境が好きになれなかった。

 この頃からショージは近い将来、今のイタリアのバレエ団を辞めてスイスかドイツの大きなバレエ団で活躍したい、腕を更に磨けばそれに見合った報酬が貰えるだろう…と夢見るようになった。そして武者修行して他の有名なバレエ団の素晴らしいダンサーたちを見ているうちに彼らにはあって、ショージには無い、ダンサーとしての技術や表現の違いにも気付いた。だがその違いをどう乗り越えていけば良いのか見当が付かない。

 そういった環境の中で、ショージはロシアにまで潜り込み、そのダンサーたちの素晴らしさや徹底された教育に度肝を抜かされた。当時ロシアはまだ共産主義国であり、日本人どころか他所の国の人々をも絶対に寄せ付けない鉄のカーテンに包まれた国であった。

 それでも、何とか侵入に成功してその片鱗を束の間だけ見ることが出来た。「ああ…僕もロシアで勉強がしたい…」そんな想いからショージが北欧で仕事を見つける事さえ出来れば、いつかまたロシアに潜り込み、勉強が出来る日も来るに違いない…と、フィンランド国立バレエ団でオーディションを受けたのだ。駄目で元々の気持ちで挑戦したオーディションは、意外にも芸術監督に気に入られ受かった。しかし難問は、ショージがまだイタリアのバレエ団と契約中で、辞める手続きなど執っていない事であった。


勇気を出して監督に…

 リハーサル後にランドルとロバートがバレエ団の建物を出て行くのを確認してから、芸術監督のマリネルの更衣室へ向かった。心臓が飛び出そうなほど緊張した。何故ならショージは彼が怖いのだ。威厳に満ち溢れ、絶対的な権力とパワーを持ったそんな芸術監督の前で「ちゃんと話せるのだろうか…」心配でいっぱいだった。

 取り敢えずノックをすると中からイタリア語で、「誰だ!」ショージは上擦った声で「ソノ、イヨ…、マエストロ!ショージ!!」(私です、先生、ショージです!)ショージたちダンサーは芸術監督のマリネルをマエストロと呼ぶ習慣になっていた。「ショージだと!?何をしている。中まで入って来い!」初めて入るマエストロの部屋となっているドアーを開けるとそこは長い廊下になっており、その先はカーテンで見えない。ショージがこのバレエ団に来て以来、このドアーをノックしたダンサーを見た事がなかった。皆、監督を極度に怖がっているからだ。

ショージが中まで入って行き、着替え中のマエストロを上目づかいで見ると監督は上半身裸で着替えをしながら言った。「何だ?ちゃんと食っているか?」ショージはおずおずと「はいマエストロ、ご飯ならちゃんと食べています…あの…今月でバレエ団を辞めても良いですか…?」と切り出してみた。すると…「ワハハハ!何を言い出すかと思ったら、誰かと喧嘩でもしたのか?ん?それとも身体の調子が悪いのか?大体お前は痩せ過ぎだぞ!ちゃんと食わないからだ!」と、てんで話にならない。

 「あの…、実はそんなんじゃないんです…」マリネル氏は「ふっ…!疲れているんだお前は!今日はもう帰れっ!」と言われ全く理解してもらえないまま終わった。「どうしたらいいのか…」ショージはそのままアパートに帰ると、ランドルが聞いて来た。「交渉は成立したのか?」ショージは「へ…交渉?あーっ!」ランドルは給料の交渉をしに行ったのだろうと勘違いしたのだ。「ん~、流石は自称ビジネスマン!」

 だが、暫くはランドルにもロバートにもその話の全貌は言えなかった。話したところで誰も共感などしてくれない事は判り切っているし、逆に冷たくされるのも嫌だったのだ。ショージはただ首を横に振るとランドルは「いや~、失敗か…。しかしお前に先を越されるとは、夢にも思わなかったよ…!そうか、失敗か…」暫く考え込んで続けた。「ショージ、絶対に俺はやって見せるさ!俺には第一、ちゃんと説き伏せる思案がずっと前から考えてあったんだからな!」なるほど…。流石は自称ビジネスマンだ。聞いているうちにショージとロバートの給料も彼の歩調に合わせながら上がって行くに違いないと確信させられそうだ。 ショージはランドルに一つだけ助言させて貰う事にした。「ランドル、でもね君も言われるよ!そんな事を言うのはお腹を空かせているからだろうって…。ちゃんと食わないからだって…」

 ランドルは眼をギラつかせながら、「俺を甘く見るな!アイ、アム、ビジネスマンさっ!」ショージはランドルの自信たっぷりの横顔を見た後、向こうに座ってテーブルに付いているロバートが静かに食べている。そう、ロバートは静かにあの「ロバートの豆」を食べているのだった。


リリアーナとマリネル…2人の芸術監督の応えは…

 マリネル氏の更衣室のドアーを叩いてから、数日が過ぎた。リハーサルが無い日のレッスン後、マエストロのマリネル氏が「ショージ、2階の面談室に来なさい…」ショージは何か嫌な予感がした。「何故、面談室なんだろう…?」いずれにしても、言われるままに、「先生、分かりました…」初めて2階に面談室などという部屋が有るのを知ったが、綺麗なイタリア独特のインテリアで施され大理石の床は勿論、ソファーの見事さと大テーブルに驚いた。更に凄いのは、マリネル氏と同様にこのレッジオエミリア・バレエ団を経営・監督をしているリリアーナ・コージ女史までもがいた事だ。「何故だ?どうしてリリアーナまでここにいるのだろう!?」

とても重い口調でマリネル氏が口を開いた。「ショージ、もう一度確認したいのだが先日君が言っていたバレエ団を辞めたいと言う話は本心かね…?」ショージは二人に向かって言った。「このバレエ団が嫌になった訳などではありません…。私は拾って頂いた事に心より感謝しています。マエストロやリリアーナを心より尊敬しています。ただ、どうぞ分かってください、この私には更なる勉強が必要なのです!」

 その刹那、マリネル氏がショージに大声で罵声を浴びせた。「馬鹿もーんっ!ショージ、私はスイスだろうがロシアだろうがイギリスだろうが、世界中に声が届くのを知っているか!お前が何処にも行けない様にする事なんか訳無い事さ!絶対に行かせないからな!」マリネル監督の酷い言葉にショージは絶句するのと同時に何故ショージがバレエ団を辞めて他に行く事を許してくれないのかが理解出来なかった。

 ショージは心の中で思った。「僕をこのバレエ団に必要としているからだろうか…?もし、そうならこんなに酷い事を言わなくても「居て欲しい」と言ってくれたら良いのに…。仮にマリネルがそう言ったとしても僕の心は変わりはしないけれども…」マリネルが声を上げて聞いた。「次の場所は何処だ?ドイツか?まさか、ロシアじゃないのか…お前、ロシアに憧れていたよな…?もしロシアなら直ぐに電話してビザを発給出来ないようにするからな!」

 リリアーナが助け舟を出した。「マリネル…、なんて言う事を言うの?お願いだから、大声を出してそんな事を言わないで…」ショージはこの瞬間に自分の心の中ではっきりと決めた。「この月の最後まで働いたらこの国を出よう!」と決心したのだ。ショージはもう誰もいなくなった更衣室のベンチに座って、この国を出るために最初にしなければならない事は何なのか考えた。数日が経ち、とうとうイタリアを出て行く日が来た。


イタリア生活の終止符

 ダンサーたち全員の顔をゆっくり見渡しながらショージは「皆、ごめんね…でもありがとう!僕は皆の事を忘れないからね。ここに来れて本当に良かった。皆に出会えて良かった!」これが最後の言葉であった。事務局の方々、衣装制作の老婆マリア…マリアはショージのために泣いた。「有難うマリア…!」そしてバレエ団の入り口に差しかかった時であった。

 入り口にはバレエ学校の生徒たちやお母さんたちが立っていて、「ショージ…本当に行くの?行っちゃうの?」ショージはとても驚いた。「何故、この人たちは僕が去るのを知っているのだろう?」しかもショージの知らないお母さんたちまで涙を流しているのだ。「ああ…知らなかった!今の今まで気が付かなかった!これほどまで僕を心配してくれた方々がいた事を…!」遂に我慢していたものがショージの両目から溢れ出した。「グラッツイエ!グラッツイエ!ソノ モルトフォルトゥナート!…エ、ポイ イオマイ ディメンティカーレ、レッジオエミリア!!」(ありがとう…ありがとう…僕は幸せ者です!そして僕はこのレッジオエミリアを永遠に忘れる事はありません!)

 「チャオ、トゥッティ…イオ、ノンディーレ、アリベデルチ!パルケ、ウンジョールノ、イン フルトゥーラ、リトールノ クイ!チャオ トゥッティ!」(じゃあ…皆さん私はさよならは言いません…いつの日か、またレッジオエミリアに戻って来ます!じゃあ…、皆さん!)ショージは手を大きく振ってバレエ団を後にした。


レッジオエミリア駅のプラットフォーム

とうとうイタリアを去る最後の日となった。電車が来るまでランドルは10メートルも向こうで背中を向けて立っており、ロバートも話しかけてはくれない。電車が到着した。ショージの顔を見ようともしない向こうのランドルとロバートに最後の礼を声にした。「今まで本当に有難う、とても楽しかった!君たちの事は絶対に忘れないよ…」

と、その瞬間、ランドルが走り寄って来て「うわっ~!」と叫びながら石敷きのプラットフォームに泣き崩れた。「え、ラ、ランドル…!?」ランドルのこんな泣く姿など見た事もなかった。「ショージ、ドントゥ ゴー!ホワイ?ホワイ、アーユーゴーイング?」石敷きのプラットフォームに咽んでいるランドルをショージは呆然と見つめ、次いでロバートを見ると、普段はブルドッグの様なガッシリとした身体の静かなロバートが肩を震わせて泣いているではないか!「あ…!?」 ショージは電車に乗り込み2人に声を掛けたくても、涙で詰まってもう声が出ない。無情にもドアーが閉まり2人が見る見る流れて去って行く。ランドルは地面にうつ伏して泣いており、ロバートは頭を抱えているのが最後の別れとなってしまった。

 電車のドアーにしがみつくショージは、「ランドル…ロバート…いつかまた会おうね!ありがとう…今まで本当にありがとう!」心の友だちがそこにいた。そして列車は、ひたすら北欧へと走って行く。


絶対絶命!

 巨大船のシリアラインがフィンランドの港に横づけされた。首都ヘルシンキに到着したのだ。まだ朝が早かったのだが、トラム(路面電車)に乗り込むとセントラルステーション(鉄道の中央駅)にやって来た。「ここで新しい生活が始まるんだ…」と感慨も一潮だ。

 「ああ…なんて美しい国なんだろう…」そしてこの国にもオペラ座がある。ショージの夢に見たロシアはこの地平線の向こうにあるのだ。ショージは胸一杯に空気を吸い込んだ。「よしっ、行くぞ!」 バレエ団の芸術監督を担っているドーリス・ライネ女史の部屋に入ると開口一番、「んー、惜しかったわ!あなたからの連絡が来なかったから、つい先日に新しいダンサーと契約をしたところなのよ…、あなたは連絡もして来ないから、いつこのバレエ団にやって来れるのかさえも分からなかったものね。残念ね、また空きがあったらその時ね。」

 ショージは身体が凍りつき、あまりのショックに口が開かなかった。取り敢えず、今何を言われたのかだけを把握出来たので「さようなら…」とだけ言い残して、このヘルシンキ国立劇場を後にした。

 お先真っ暗とはこの事だ。しかし頭を抱えてしょぼくれている悠長な時間などはない。財布に残っている金の事を考えると、もう走るしかなかった。一体何処に向かって走るのか?本屋だ。本屋に行き、片端からバレエ雑誌を読んだ。「何処でも良い、本当に何処のバレエ団でも良いから直ぐに雇ってもらえる所を見つけないと…!今更、イタリアのバレエ団に引き返すことなど出来ないのだ」

ショージの手元には1か月分の生活費しかない。仕事がなければもうそこで終りだ。食べる事も動く事も出来なくなる。「あー、ど、どうしたらいいんだ…絶対絶命か!?」


ブスウェーデンの第2首都、ゴッセンブルグ

スウェーデンには、2つのバレエ団があることを知った。1つはロイヤルスウェディッシュ・バレエ団で首都ストックホルムに所在するが、もう一つはゴッセンブルグバレエ団(日本読みはギョテボルグ、または、ヨーテボリバレエ団)だ。スウェーデンの第2首都的存在である。日本で言えば大阪に当たる。

 地図を見ながら、そのすぐ左横にはノルウェーという国があり、その国の首都のオスロはゴッセンブルグからは非常に近い。まずはゴッセンブルグバレエ団に電話を掛けてみた。

ショージ「あの、すみませんが…ダンサーの空きは有りますか?」相手「ああ、1つだけなら有ります。」ショージ「ほ、本当ですか!?男性ですか?女性ですか?」相手「出来れば男性を探していますが…」ショージは念を押して聞いてみた。「身長は175センチで日本人です。問題は無いでしょうか?」念を押して聞いておく必要があるからであった。

 実際にそこまで行ったは良いが、白人でなければとか背が低いとかいう理由で断られないかを前もって聞いておく必要があるからだ。ショージの財布の中は旅費と食費の分を考慮すると限界があった。もし、このひと月以内で仕事がなければ、乞食になるか、飢え死にするしかない。まさに「背水の陣!」である。ショージは電話の向こうの相手から必死に聞き出した。

 相手「何か訳有りなのですか?凄く切羽詰った感じに聞こえますが…?」

ショージ「切羽詰まっている?その通りなんです!私、直ぐにでも行きます!オーディションはいつが可能でしょうか?明日は、船の関係で無理ですが明後日なら行けます!お願いします!」

 相手「ここに芸術監督がいますので、ちょっと聞いてみますね…。」

しばらく沈黙があり、

相手「では、明後日にお待ちしています。あなたの名前は?」

 ショージ「ショージ!マイネーム、イズ、ショージ!」よっしゃ~っ!


ゴッセンブルグ・バレエ団のスタジオ

 劇場から歩いて10分ほどの距離の場所にそのスタジオは所在した。ショージは意を決してスタジオ内に入ると近くにいた女性がショージに近づいて来て、「あなた、誰?」と聞いて来た。「私は先日、オーディションしてもらえると約束して頂いた日本人です…」と応えると、「ああ、あなたなの…。明日が約束の日だったはずですが…朝、劇場で…と」ショージは約束を守らなかった事がいけなかったんだなと躊躇しながら「そうなんですが、早く着いてしまったから見学に来たのですが、邪魔だったでしょうか?」すると、「別に邪魔ではないけれど、ちょっと待っていてください。ディレクターはあの椅子に座っている方だから、挨拶したらいいわ…」

 秘書の女性は、ディレクターに突然の来訪者が来た事をその場で伝えた。しかしディレクターは椅子からは立とうとせずに、そのまま座った状態でショージに手を上げて挨拶を返しながら、振り付けを続行した。

一般的なオーディションの場合、その結果は数ヶ月経ってから連絡して来る事が多い事からショージはオーディションの前に秘書に予め願い出た。「すみませんが、即この場で、オーディションの結果の答えが欲しいのです。もし、ディレクターが私を気に入ってくれなくてもショックは受けません、お願いです、結果だけはこの場で教えて欲しいのです。私は今とても厳しい条件の下に立たされておりますので、勝手を言っているのは重々分っております。すみませんが、なんとかお願い出来ませんでしょうか?」

 秘書は困惑していたが「一応、ディレクターのウルフ・ガッドには伝えてみますが、ディレクター次第なので…」金髪をクリクリにカールした女性秘書はディレクターの方に向かって歩いて行った。秘書の話では「オーディションはスタジオではなく、劇場の舞台の上で行われます。普通、オーディションが舞台上で行われるケースは珍しいのですが、この日はたまたまバレエ団の舞台リハーサルと稽古が舞台上で行われるため、オーディションも舞台の上になるのです…」

 バレエ団のダンサーのための稽古が即ちショージの試験だ。稽古も中盤に入り、ここからが勝負だった。火蓋は切って落とされた。ここで失敗すればショージの将来は終わってしまう。もう生活する金が財布の中に半分しか残っていない。日本に帰る切符を買う金など到底持ち合わせていなかった。


背水の陣!

 早速、3人ずつグループになって一緒にジャンプするのだが、ショージの順番が来ると、4人になった。それでも音を外さない様にテンポを守りながら回っていくと、劇場の巨大スピーカーから男性がスウェーデン語でペラペラと言った。

 稽古担当のバレエ教師、ユッスィがジャンプを制止した。そしてショージの傍までツカツカと寄って来て、「今、ディレクターが君一人でマネージ(舞台を大きく旋回する技術)をしなさいって言っているんだよ…」「えっ、私一人だけでですか?」ユッスィは、皆を少し下がらせてピアニストのブルガリア人の男性に、「じゃあ、スタート!」ゴーサインを出した。

 このディミトリというピアニストがショージに目で合図を出した。「君のやり易いテンポで弾こうじゃないか…!」ディミトリの熱の籠った指先!グランドピアノの内部のハンマーが弦を強く叩きグランワルツの調べに乗ってショージもありったけの力でステップを踏み出し、ジュッテ・アントゥールラッセに入って行く。周りのダンサーたちもじっと見入った。ショージは空中にいる時間がとても好きだ。「ああ、跳んでいる、空間に浮かんでいる!」と実感し体中が喜びで満たされる。最後にパラプリ(フランス語の傘という意味のジャンプの一種)で仕上げに入れた。

 暫くしたら、全員のダンサーたちが拍手をした。すると、つかつかとディレクターが客席から舞台上まで上がって来て、ショージに向かって英語で言った。「君が私の秘書にショックを受けても良いから直ぐに合格か不合格かの返事が欲しいと言ったんだね?じゃあ、言おう…」ディレクターのウルフ・ガッド氏は、金髪の髪に真っ青な瞳でショージを睨むようにして見た。


ディレクターが舞台に上がって来た…!

真っ青な眼で瞬きもせずに、ディレクターであるウルフ・ガッド氏はショージの眼を真っ直ぐに見つめたが、深海の様な瞳が怖い。しかしその刹那、ニッと笑うと、「合格だ~っ!君を我がバレエ団に迎えよう!これから直ぐに事務局に行き、契約書にサインしてから日本で労働許可証を申請する事になる。となると今が11月だから…労働ビザが降りて君の仕事の開始は来年の8月の半ばになるだろうか…?」

 ショージはディレクターの言葉を全部聞き終わる前に、「ちょっと待ってください、私は今すぐに仕事が必要なのです!日本に帰るお金など持っていませんし、日本で申請しなくてもイタリアに2年働いていたからイタリアで申請出来ます。今から働かないともう食べて行けなくなるのです!」すると今度はメガネをかけた金髪クリンクリンの秘書が「今からって、それではボーナスが出ないわよ?このバレエ団では12ヶ月の雇用期間と13ヶ月分の給料という契約になるのだから、12ヶ月に満たない方にはボーナスは出せませんが…」ショージは即答した。「ボーナスは要りません…。お願いです!食べて行けるだけの給料が出るのならそれだけで結構です。今直ぐに仕事がしたいのです!」ショージの言葉にすかさず秘書が、反論しようとするのをディレクターが手で押さえ、「それは私にとっても願ってもない事だ!よし、善は急げだ!事務局に行こう!」

 秘書は目をパチクリさせながら、3人で劇場を出た。劇場から歩いて5分ほどの街の中心地に事務局はあった。その厳重な門を潜ると更に奥に進んで行き、一面ガラス張りのひときわ美しい部屋でタキシード姿の老人が他の人たちと話し込んでいる。

 ディレクターと秘書、そしてショージは待つ事10分。ディレクターはその老人の前では、非常に丁寧な挨拶をした。そしてショージに英語で「この方が我々の劇場の支配人だよ」と紹介した。タキシード姿の老人…いや、支配人は優しい眼をしているが、ちょっと珍しそうにショージを見た。

 支配人はパーフェクトな発音の英語でショージに「よくいらしてくれました…」そう丁寧に言うと、今度はディレクターとスウェーデン語で話し出した。


1986年11月中旬 契約書にサイン!

 早速、支配人とディレクターのウルフ・ガッド氏の立会いの下で、契約書にサインをした。契約も無事に済んだ。危機一髪のところであった。これほどの危機感は今までで1番だった。しかしこれからイタリアに、再度戻らなければならない。労働許可証の申請のためだ。普通ならば日本に帰って申請しなければならないところをイタリアで済ませられるのはとても有り難いのだが、それでも労働ビザを取得するまでに数週間は掛かり、もう財布の中を覗いたらそんな長い日数を暮らせるだけの金の持ち合わせが無い。ガラス張りの部屋から丁寧にお辞儀して出ると、支配人は優しく笑顔でショージたちを見送った。

 ショージはこの時点からショージのボスになったディレクターに聞いてみる事にした。「あの、お願いがあるのですが…、」前を歩くウルフ氏と金髪の秘書が足を停めて振り返った。「何だい?」ショージは躊躇いながら、「給料の半分を前借させて頂けませんでしょうか…?」これには秘書がびっくり仰天して金髪の髪をゆさぶり、ブルーの巨大な眼をおよそ顔半分位までに見開きながら、「な、なんですって!?」素っ頓狂な声を上げた秘書を軽く制するようにディレクターのウルフ氏がショージに向って、「君はこれからイタリアまでビザ申請に行かなければならないし、何週間掛かるか判らないから、半分の給料の前払いなら大丈夫だ。」その言葉にまた、秘書は仰天しながら白目を剥いた。

 「そうだ、ここは事務局じゃないか…スザンナ、早速手配してあげなさい!バレエ団の費用と言えば良いじゃないか、そうだろ?私は先に劇場に行っているから。じゃ、バーイ!」スザンナは、「ちょっと、ちょっ…」


信頼は直感!

 グレゴリーというイギリス籍の黒人ダンサーは、ショージがゴッセンブルグの稽古場に突然やって来た日、彼は周りのダンサーたちに向かって度肝を抜くような痛烈な皮肉や毒舌を混じえながら、その話の内容には完璧に筋が通っており、その話しぶりにショージは魅了された。ショージが今、実際に彼と稽古場内にあるリラックスルームで話をする時は全く別人のように静かで、彼の話す英語の流れに美しさを感じた。ショージはグレゴリーに初めて会話をするのに「僕はショージ…僕の友だちになってくれませんか?」と申し出た。

 彼がショージに問い返した。「友だちに?何故、僕なんだね?君はこんなに沢山いるダンサーたちの中から、どうして僕を選んだんだね…?」澄んだ黒い瞳でショージの眼を見つめた。「僕はこの稽古場で初めてあなたを見かけた時から、あなたの話を静かに聞いていました。あなたの話の中に矛盾点は無く、はっきりとした筋が見えました。何故、あなたを選んだか…それはインスピレーションです。つまり直感です!私は、あなたが信頼出来る人間なのだと直感したのです。そしてその直感にきっと間違いは無いと信じるからです。」

 グレゴリーは、初めて出会うショージのような人間からこのような事を言われて、かなり戸惑ったであろう。しかし、「そうか…。多分君は正しいかもしれない。僕は物事をはっきりと言う性質だから、このバレエ団でも異種的に見られがちだが嘘は言わない主義なんだ。それでも良かったら、僕も君の事に大いに助言させて貰うよ。」ショージはグレゴリーとがっちり握手すると、彼は電話番号を書いたメモをショージに差出した。そして、グレゴリーはリハーサルをするために消えて行きった。

 翌朝、早速電車に乗り、またイタリアへと向かった。もう慣れたものだ。今回はレッジオエミリアに帰るのではなく、スウェーデン領事館のあるミラノに向けてチケットを買った。片道切符だ。何故、片道切符なのか…それはイタリアに戻れば、領事館で労働許可証の申請後に一体どれくらいの時間がかかるのか全く見当がつかない。その申請中に何をすれば良いかショージにははっきり分っているからであった。つまり武者修行の続行である。

武者修行をするのには再びインターレイルパスが必要になる。レッジオエミリアまで行けばこのユーロ鉄道パスを買う事が出来るのだ。この特別なチケットは在住先でしか買う事が出来ない。そしてイタリアに到着し、ショージは鉄道パスをゲットした。領事館で労働許可を申請すると、その足で武者修行の続行が始まった。


陸地に浮かぶ孤島

現在地点はハノーバーだ。そして目を地図上の右に移していくと、ある部分から右は白紙になっている。それは西ヨーロッパの人間が入る事を頑なに拒否したソ連が支配する東ドイツだからである。西側の人間は誰も入る事の許されない土地なのだ。

 「ん?この地図上にある陸地に浮かぶ孤島のようなこの場所は一体、何なのだろう?」それこそが、ベルリンだった。「ああベルリン…此処こそ僕が行ってみたかった場所だ…」陸の孤島…ベルリンの街は共産圏の軍隊で包囲されて、その中で人々は世界に向けて壮絶な叫び声を発信しているのではないのか。共産圏とは一体何なのか?何故、人々はこんなに苦しまなければならなかったのか?強く生き抜くベルリンの人々とは一体どのようなものなのか?ショージはハノーバーの中央駅で決心した。「スウェーデンに帰るまでの残り僅かな時間を費やすのはここしかない…ベルリンだ…!」


共産国家境界線を越える!

 ショージの持っている地図の共産圏は全て色が真っ白で、何も描かれてはいない。そこにポッコリと陸の孤島のようにベルリンが描かれてある。空白の部分は西側の人間が入り込めない土地…孤島のように描かれてある場所には「BERIN」と文字が浮かび上がってあるが、どうしても納得がいかない事がショージの脳裏をかすめた。

 「この地図上の色が無い空白の部分は共産圏だな…列車に乗ればここを通過しなければベルリンには入れない訳だから日本人の僕はどうなるのだろう?特別な通過許可証が必要になるのではないのか…」そして駅で調べるとベルリンに入るためにはやはり列車通過ビザが必要な事が判明した。途中下車は出来無い。電車で通行するだけの特別なビザがあるという。本来は東ドイツの大使館でビザを発行してもらえば料金は安く済むのだが電車の中でも、少し割高にはなるがベルリンに渡るためのビザは取得出来る。

 そして遂にプラットフォームに「ベルリン行き」の列車が入って来た。列車に乗ると「おおっ!」ショージの大好きなコンパートメント形式だった。6人部屋の個室で革張りの席だ。3人ずつが向き合う様になっている。椅子はちょっと引っ張れば手前に出て来る。向かい合う反対側の椅子を引っ張り出せば簡易のベッドにも早変わりする。ただ、これが出来るのは客が3人以下の場合のみだ。もし3人以上客がいたとしたらベッドは諦めるしかない。さあ、出発だ!列車は動き出し、ハノーバーを後にしてベルリンへと向かい出した。


黒い大きなバッグ

 ショージはいつも小さな子供が入れるほどの黒の大きなバッグを持ち歩いて旅をしている。バレエをしていない人には驚くほどそのバッグは大きい。バレエ用具が数日分と生活に必要な全てが入れているからだ。バッグの中にはソビエト連邦共和国が一面に書かれた巨大な地図とロシア語の辞書も入っている。

このソ連の地図はモスクワが中心点になっており、ソビエトでしか買えない地図だ。一体何のために持ち歩いているのか…それはいつかショージがソビエトに再び侵入するか、またはちゃんとした正規のルールで入国するつもりだからであった。共産主義国であるソ連。ショージの夢はレニングラード(現在のサントペテルスブルグ)のバレエ団、もしくはバレエ学校に入る事だ。ショージの頭の中にはいつもそれしかなかった。

 列車は猛烈なスピードで進み、時間が暫く経つとコンパートメントは少し窮屈になって来た。ショージはビュッフェでたまにはコーヒーでも飲みながら、ウォークマンに入っているカラヤンの「アルビノーニ」の素晴らしい曲を楽しもうと、コンパートメントを出た。大事なパスポートや金、列車のインターレイルチケットなどは、ポシェットに入れて腹の前にきつく巻いた。

 コンパートメントの中に置いた大きなバッグはそのまま、ショージの大事な席を他の客に取られないように椅子の上に置いたままにした。ビュッフェでは隣に身なりの良い老夫婦が食事を摂っており、ショージは軽く頭を下げ挨拶してから隣の椅子に腰掛けた。ショージは初めてビュッフェに座った。金でいつも不自由しているショージが何故かこの時だけはVIPにでもなったような錯覚を覚えた。「こんな事も滅多にする事じゃないから、コーヒーを十分に楽しんで味わおう!」


驚愕の景色…

 コーヒーのマグカップに口をつけながら、「な、何だこれは…!?」窓に現れた異様な光景に身体が凍りついた。それは列車がやけに高い壁の間を潜り、暫くトンネルを通過し暗闇を抜け出た後に突然と姿を現した。高い鉄塔の上にサーチライトが幾つも付いていて、更に高い櫓の上には人間が4,5人は入れるほどの窓が付いた見張り台みたいな物があり、明らかにその中には人がいてこちらを見下ろしながら監視しているのが分かった。

 「何なんだ、この光景は!これじゃあ、極悪犯人を収容する北海道の網走の刑務所みたいじゃないか!」電車はそこで一度、短時間の停車をした。ショージはこの不気味な景観にしばし凍りついてしまったが、考えてみたら、電車の中で共産主義国の東ドイツを通過出来るビザを列車内で買わなければならないのだと言う事を思い出した。

 「コーヒーなんか飲んでいる場合じゃないかもしれない…」ショージは急いで席を立ち、コーヒーカップを置くと急いでビュッフェのドアーを横に開いて出ようとしたその時、ドアーの外側ではとんでもない事になっていた。停まった列車の開いているドアーから夥しい数の軍人がどやどやと雪崩れ込んで列車の中に入って来ているのだ。軍服姿の迷彩色の軍人やら、くすんだグリーンの警察隊の姿らしき人々の腕に腕章を付けた監視官たちやら、その総勢は列車の一両を丸々一杯にするだけの人数でひしめき合っており、その中の恐ろしい形相をした女性がショージを後ろに突き飛ばし、ビュッフェに引き戻した。

「何が起こっているのだ…!?」恐ろしい形相の女性検査官がドイツ語で低く押し殺したような声で何か言ったが、何を言っているのか意味が全く分らない。ショージは、「恐らく今は動いてはいけない、このビュッフェから出てはいけないのだろう…」と咄嗟に判断した。数人いたビュッフェの人たちも、もう外には出られないし、この恐ろしい女性検査官に無理やり座らせられて、動く事さえ出来なかった。

ショージは女性検査官にパスポートを取り上げられ、この女性検査官は消えてしまったが、代わりに恐ろしく大きい体格をした軍人が、数名でビュッフェの中のショージたちを取り囲み黙って立った。この大きな軍人たちはそれぞれにマシンガンを手に持っているではないか!

 やがて、女性検査官が帰って来て金を要求して来たが、それは既に知っていた事なので言われたままの金額を差し出した。20分ほど経ったであろうか…、沈黙が続いた後、電車は静かに動き出した。「げーっ!パスポートは返してくれないの?」

 そこから5分も経たない所に今度は更に陰湿な駅があり、そこでも約40分ほど待たされた。しかし、ショージの眼はその薄暗い駅の影に先ほどの人数など比べ物にならないほどのとんでもない数の軍人が、マシンガンを抱えて立っているのを見逃さなかった。

 「こ、これは、とんでもない所に来てしまった…」が、近くにいる老夫婦の紳士が、英語で「パスポートはベルリン近くに来たら返してくれるから、心配しなくてもよろしいよ…」と、言ったので少し安心したが、こんな酷い扱いに腹を立てているのも束の間、卒倒するような事件が起きたのだ。


何処!?一体、何処に行ってしまったの…!?

 列車は静かに動き始めた。そこはもう東ドイツの国に入り共産国家のソビエトが支配している土地なのだ。ショージの傍にいた老夫婦の紳士が「もう、動いても大丈夫だよ…」と首を縦に振りながら微笑んでいる。ショージも老夫婦に微笑みながら、軽く会釈してビュッフェを出た。

揺れる列車の細い廊下の壁を両手で押さえながら、何両か後ろのショージの荷物が置いてあるコンパートメントに戻って来た。「ん…あれ?ドアーが開かない…何でだ?」力一杯引いてもドアーが開かない。ガラス越しに中を覗くとショージの大きいバッグが見当たらない。

「何だ、コンパートメントを間違えたのか…」しかし、隣のコンパートメントにはさっきまでいたうるさい客たちの顔があったから、やっぱり間違ってはいない。「えっ!じゃあ、何で僕のコンパートメントの鍵が閉まっていて荷物がないの?もしや、誰かが置き引きしたのかな?よしっ、全ての客室の検査開始!」と、端から端までの列車内のコンパートメントを全てチェックしたがやはり無い。「置き引きしたところで列車の中からは逃げられないのに…」と、たかをくくっていたのだが、段々と顔が青ざめて行くのが自分でも分かった。「ひ、ひ、ひえーっ!じゃあ、一体何処にあるんだよー!?」

 急に腰が立たなくなり、よろけて廊下の壁にくっ付いている椅子に倒れ込んだ。だがもう一度ショージは腰を上げて、始めからコンパートメントを一つずつ、丁寧に見る事にした。ガラッ!とドアーを開けて「アイム、ソーリー!」と客たちにお辞儀をして部屋の上の棚の荷物置きや部屋内部の中を全て探った。幸いに金やパスポートはショージの腹に括り付けてあった。

 「あのバッグが無かったら僕は踊れないじゃないか…。待てよ、こんな事で落胆している場合じゃない!もう一回始めからだ!絶対に探し出さないと!」すると、中からは鍵が閉められないはずのコンパートメントのドアーの内側からつっかえ棒をしてドアーを開かないようにする客が続出した。


遂にベルリン到着!ベルリンで叫ぶ悲痛な声…

ヘルベルト・フォン・カラヤンが白髪を振り乱しながら両頬を震わせてベルリン・フィルハーモニーを指揮している姿を想像し、ベルリンの人々が世界に向けてその悲痛さを訴えているのをずっと想像して、このベルリンに来る日をショージは夢見て来たのに、ベルリンに到着した瞬間にプラットフォームからショージは大きな叫び声で「ンギャ~ッ!誰かが僕のバッグを盗っちゃった~!」と逆にショージからベルリンの人々に悲痛さを訴えるような事態になってしまった。

 かなり長い間歩き回っていたら、自然にオペラ座らしい劇場が見つけた。壁一面にバレエのポスターが張り出されており、看板には「ドイチュ・オパー・ベルリン」と書いてある。ここがドイツの最大級のカテゴリー・Aクラスのバレエ団であり、早くスウェーデンに帰って仕事をし始めなければ生活費が危ういショージにとって残り僅かな時間で最後に訪れる事が出来るバレエ団でもあった。表の大きなポスターと看板を見ながらショージはと言うと、「手ぶら」だった。


ドイツ最大級のバレエ団、ドイツ・オペラ・ベルリン・バレエ団!

 「劇場の中の3階まで上ってください。秘書室と稽古場は4階です」と門衛が親切に教えてくれた。手ぶらで3階まで来たらダンサーらしき男性がいたので、「今、リハーサルの最中ですか?」と聞くと、背の高い男性ダンサーは「あー、今終わったんだ…」と、答えた。ショージは着替える物も無いまま、「ガードローブはどっちでしょうね?」と聞くと、「こっちだよ、僕も今から着替えるんだ、付いて来て…」と更衣室に連れて行ってくれた。

 ショージは更衣室に着くと、その男性に泣き顔で「僕はこのバレエ団でレッスンを受けようと楽しみにしてやって来たのに、東ドイツの国境あたりで列車の中で僕の大切なバッグを盗られてしまったのです!」と見も知らない彼に打ち明けた。その話が終わらない内に続々と、男性ダンサーたちが入って来て、「おい、何だ!どうした、この人は誰?」と不審がっていたが、今度はショージの話を聞いてくれていた男性が、集まって来た男性ダンサーたち全員にショージの身の上に起こった話を話した。

 ショージはもう一度繰り返して全てを話すと、「皆さん、お願いです!なんでも良いですから、僕がレッスンを出来るように、シューズや着る物を貸してくださいませんか…」と集まっているダンサーたちに訴えた。皆、顔を見合わせながら暫し唖然とし、沈黙した。


バレエ団の更衣室にて…

 ダンサーの一人が言い出した。「あの列車の中ではいつも物が無くなるので有名なんだよ」すると、他のダンサーが「そうそう、あいつらと来たら何でもかんでも盗るんだから堪ったもんじゃないよ!僕の知り合いもあいつらに盗まれたんだ!」

 すると、1番最初の更衣室まで連れてきてくれた、背が高く皆からマーティンと呼ばれている男が、「これで良かったら使っていいよ…返さなくてもいいんだよ、どうせ捨てようと思っていたんだし…あ、でもちゃんと綺麗だからね…」と、バレエのレッスンではとても大事なティーバックのサポーターをくれた。見ると確かに後2回穿いたらTの字の縦の棒線の紐が切れそうなサポーターだった。だがちゃんと洗濯してあって、ショージにしたら最高であった。「ありがとう!」と大きく礼を言うと他の男が、「これもあげるよ!」と片方だけのベージュのバレエシューズをくれ、他のダンサーが「僕はこれを!」と黒いバレエシューズをくれた。

 背の低めのダンサーが「僕はタイツをあげる事は出来ないけれど、その代わりにこれをあげる!」と黄緑色の膝あたりをぶち切ったトレパンをくれた。誰かが叫んだ。「まだ上半身に着るものが無いんだろう?部屋の隅を見てごらんよ、あれは全部持って行っても良い

物ばかりさ!」

 隅を見ると山のように埃をかぶったティーシャツやら色んな物が有るが、流石に捨てられただけあってどうしようもないほどの屑ばかりだ。それでもこの衣類のゴミの山に手を出してみた。しかしまともに着られる物はたった1枚の赤いトレーナーだけで、それも腹の辺りでやはりぶち切られおり片腕の肘の辺りも切られていた。

 それでもやっとここに必要なものが全部揃った訳だ。「やった…揃った…これでなんとかレッスンが出来る…」ショージは最低必要な、決してまともでは無いそれらの衣類を床の上に並べてみた。右足に黒の、左足にはベージュのバレエシューズ。しかもサイズはかなり違い、片方は丁度くらいだが、もう片方は馬鹿の大足みたいに大きかった。「ま、ゴムを引っ張って調整しよう!」次にタイツ代わりの薄グリーンの膝辺りでぶち切られたトレパンの半ズボンはピーターパン調で、何かのイベントの衣装なら可愛いかもしれない。その下にはもう2回ほど穿けば間違いなく切れるサポーターにへそだしルックの埃まみれの赤いトレーナーで、しかも模様が入っている。

 床の上に並べて見ているとガードローブ中のダンサー全員が大爆笑した。ショージもこれを着て明日レッスンするのかなと思うとかなり勇気が要る。これはどう見ても「チンドン屋」だ。だけどショージにはもう選択肢はないし、いずれにしてもレッスンが出来るだけ幸せ者だ。後ろのダンサーが「これもあげるよ!」としわしわの白いプラスティックバッグ(スーパーでくれるビニール袋)をくれた。「あー良かった、これでバッグまで出来た!」この日はここで知り合った1人のダンサーの家に泊めてもらった。

翌日、稽古が始まる前にバレエマスターのアメリカ人らしき先生にツカツカと歩み寄り「私は日本人で今日レッスンに参加させて頂きます!」と言うと先生はショージを足のつま先から胸元までさっと見ると怪訝な顔して「あっそう…」おそらく、このドイツ最高のバレエ団を訪れた者の中でこのようなチンドン屋もどきの格好をしたダンサーはいないであろう。ショージは顔から火が吹き出しそうで恥ずかしかったが、こんな事でヘコ垂れていては駄目なのだと自分を叱咤した。

 ダンサーたちからバレエマスターと呼ばれる先生の号令と共にレッスンが始まった。あまりにも凄く世界的なダンサーたちが顔を揃えていた。マニュエル・ルグリ(パリ・オペラ座のダンサー)もショージの前にいた。バー・レッスンも終わると、センターエクセサイズに入る。ゆっくりと踊るアダージオをバレエマスターが説明し終えると、一斉に背の高い男性ダンサーたちはひしめき合って、限られたスペースの中で淡々と踊る。グループを2つに分けたが、それでも大混雑状態だ。

 バレエレッスンの中盤にドアーがガチャッと開いて、真っ黒に日焼けした顔の白人が外から入って来た。しかめっ面で眼光が細く鋭く、怒っているようなその顔はまるで平家蟹か大魔神が怒った時のようで普通の顔ではなかった。


踊るピエロかピーターパン!

 今日は身体の調子がベストの状態だ。こんな日がショージに稀に来る。ターンの時にはピアニストがショージのピルエット(コマのように回転する技術)が終わるのを待ってくれて最後にジャーン!と決めてくれると大笑いが起こった。何と言ってもショージは「チンドン屋」のような衣装を着ているからまるでピエロのような男の演技の締め方には最高の終わり方なのだ。

 続いて第二ラウンドの始まりでトップグループから再びワルツが続行して行く。ヒートアップしたダンサーたちは次々にピルエットを決めて行く。ショージはピアノの前の真っ黒い顔の渋柿でも食ってしまったかのように顔をしかめている芸術監督をチラッと見たが、全く何の興味も無さ気に、ただじっと全体の流れを見つめているだけであるからショージもレッスンだけに集中した。

 いよいよ終盤のグランジャンプに入った。先生がアンシェヌマン(踊りの順番)をダンサーたちに見せてマーキング(本気ではなく力を抜いてステップを音楽に合わせてステップの組み合わせ方を確認する作業)を始めた時に、ショージの脳裏にある事が浮かんだ。「どうせやるなら先生が見せてくれた順番を無視して他のダンサーたちに泡を吹かせてやるか…ピエロはピエロでもそんじょそこらのピエロじゃないという事を見せてやる!」ピアニストが鍵盤を強く両手の指先で打ち込むと嫌が応にもボルテージがググッと上がり、ダンサーたちの意気込みがその背中から燃え立つようだ。

 ショージの1番好きなこの時間がやって来た。堂々とした大きいダンサーが次々とジャンプに入って行くのをショージはもう見ない。集中して自分の内にある情熱を爆発させるためだった。ピアノの前の椅子に座っていた芸術監督のゲルト・ラインホルム氏がいきなり叫び、バレエマスターを彼の元に呼び寄せた。ショージは咄嗟に直感した。「これはいけない…彼はとうとう激怒したかもしれない…。多分、追い出されるであろう…」と。

 レッスン受けているショージの乞食のような格好と言い、また好き勝手をやってしまっているステップ…それは神聖なバレエダンサーのレッスンを汚してしまったものとも言えるかもしれなかった。芸術監督に腰を折って耳を寄せるバレエマスター、ショージは上目遣いで2人をジーッと見つめてその逆鱗に対応出来るのか…ショージ自身不安でその結果がどのようになるのか、時間が恐ろしいほど長く感じた。

 バレエマスターがショージに歩み寄り、小声で「あー、君ね、あそこに座っている人は、我々のバレエ団の芸術監督なんだがね…」ショージは「はあ、そうなんですか…」「その監督がね、君一人のジャンプが見たいそうだから今から君一人でやってみよう。じゃあ、プレパレーション…!」ショージは「えっ!?ここから出て行けって、あの人は言ったんじゃないんですか…?」完全に的が外れ、ずっこけた。ダンサーたちもシーンと静まり返りそしてニヤニヤと笑っている。ショージには彼らの心の声がはっきりと伝わって来た。

「やれ!やってしまえ!」ショージの目的は最初からそこにあった。「やるっきゃない!」

 そしてピアニストがコクンと頷くと、前奏が響きショージの全筋肉と神経が一点に集中して行った。「今回は誰に遠慮しなくても一人だけで踊るんだ。アドリブに次ぐアドリブでやろう。そして仕上げにはパラプリに急遽変更するぞ!」

 パラプリとはフランス語で「傘」の意味だが、まさしくジャンプしてから両足を大きく開いたまま空中で回転する技術なのだ。このパラプリこそショージが秘かに温めてきた最大の大技だ。それを見ていた周りからも呻き声が響いた。「おお~っ!!」その瞬間に、ピアノの前の芸術監督であるミスター、ゲルト・ラインホルム氏が大きな口を思いっきり広げ、両手を狂ったようにバシバシと叩きながら、「グワッハッハハ!いいぞっ!グーッド・ダンサー!決まりだ、お前をソリストで決めよう!ワッハッハ!よし、こっちへ来てくれ今から私の部屋で契約だ!」

 すると、ススッと秘書の女性が出て来て彼の耳元に小声で何かを囁いたらゲルト氏の顔が平家蟹のしかめっ面に戻り、ドイツ語で何かを言うとショージに向き直り笑顔になって「じゃあ3時にしよう!3時に私の部屋へ来てくれ!じゃ後で…」と言ってさっさと行ってしまった。

 ショージがこのドイツ最高のバレエ団のソリストだって!?信じる事が出来ずに呆然とした。レッスンが終わりダンサーたちが次々と稽古場から消えて行ったが、ショージは暫し呆然と立ち尽くした。起きた現実が信じられなかったのだ。レッスンを受けられただけでも幸せだと思っていたからだ。仮に最低レベルの群舞としてこのバレエ団に入れたとしても、それさえ奇跡であるにも関わらず、まさかのソリスト!?「まさか~!」と頬っぺたを抓ってもまだ信じられない。

 ショージは即カフェにある公衆電話から、スウェーデンのバレエ団に電話を入れるよりも前にまずはあの頭が素晴らしく切れる明朗快活な黒人の友人グレゴリーに電話を入れる事にした。


グレゴリーのアドバイス

グレゴリーにあらましの経緯を話したところ、「ショージ…ドイチュ・オパー・ベルリンがどんなに凄くて君がどんなにそのバレエ団に入りたいとしても、君は既にこのスウェーデンのギョテボルグバレエ団と契約済みじゃあないか。まして君はこのバレエ団から借金してそっちドイツにいる訳だろう?君の気持ちは分らなくもないけど、良い考えとは言えないな…」ショージは何とかならないものだろうか…と考え込んだ。「グレゴリー、こういう幸運は僕にとっては最初で最後かもしれないんだ!例えば僕が借りたお金をドイツから返すからという事だったらどうだろうか…?」

 すると「勿論、ショージが絶対にそうしたいならそれもやれるはずだが、ショージ…、1つだけ覚えておかなければいけないよ…仮にお金を送り返したところで、スカンディナビアの法律上で君は20年間スウェーデンどころか北欧の5カ国でも仕事が出来なくなるという事を念頭に置かなければいけないよ。それでも良いなら、君の自由にしたらいいのさ。」


決断

 膝が震えて止まらないショージは上ずった声で辛うじて、「グレゴリー、僕はもう決めたよ…スウェーデンに行くよ!こんな事で20年間もスカンディナビアに行けなくなるようなそんな行動には出たくないし、ましてブラックリストになんて絶対に載りたくない。またスウェーデンで何かと宜しくお願いね。ゴメンネ、突然馬鹿な電話をしたりして。労働許可証が降りたら真っ直ぐにスウェーデンに行くからさ、じゃあ、ありがとう!」

 監督の部屋へと向かったが、ショージは「彼に何と言ったら良いのだろう…?正直に全部話すのが一番なのだろうか…」秘書室で「ハロー!」と挨拶をすると、その奥の部屋で眼鏡を鼻の上にちょこんと乗せて、何か読み物か書き物をしていたのか芸術監督がショージに気付き、「あーこっちだ、こっちに入って来なさい!」と手で招いた。ショージはちょっと狼狽しながらオロオロと入って行った。まだ何と話し出したら良いのか見当も付かなかったが監督のゲルト氏が「んー、グッドダンサー、さて話しに入ろう!そこに掛けたまえ!」

 ショージはもう迷わずに冒頭から「大変済みません、実は私は既に違うバレエ団と契約をしておりここの契約が出来ないのです。まさかこんなに凄いバレエ団と契約が出来るなんて、思ってもみなかったのです。それが判っていたなら始めからここに来たかったのですが…」するとニコニコ笑っていた監督の形相が驚きの顔の変わり「違うバレエ団!?それは一体、何処のバレエ団だね?ドイツ中の全てのバレエ団と私は繋がりがあるのだが…」そりゃこんな大バレエ団の監督をしていれば尤もであろう。「実はスウェーデンなんです…」するとゲルト氏は眉間に皺を寄せて、「スウェ…?まあいいか…。契約済みならば仕方の無い事だ。そうか、ならば分った…」ショージはこんなラッキーをみすみす逃がすのは本当に辛かった。ショージは思った。「僕の人生は何か神様に試されているのだろうか…?」

 不思議な事に、この時から半年後にショージの無くなったバッグはスウェーデンのバレエ団に届けられた。一通の手紙が添えられており「列車内で無くされた荷物は東ドイツ人の駅員が窓から捨てたみたいで、それを拾った東ドイツの住民が荷物を駅に届けました。結果的にバッグの中のロシア語の辞書と地図が幸いしたようです…。東ドイツではロシア人を極度に恐れるためにロシア関係の物がバッグの中にあって良かったですね…」 

 ショージはその手紙を見て苦笑した。が、やはり無くなった私物が返って来るのは嬉しいものだ。バッグの中は半年前のタイツやら夥しい数の汚れた靴下などその時のままであった。「よしっ!見たかったものは全部見た。イタリアのスウェーデン大使館からも労働許可が取れた!スウェーデンに行くぞー!」


1987年3月 (23歳)手紙には…

スウェーデンに着きバレエ団で働き始めた。それから暫くしてショージは首を痛め、バレエ団から休暇をもらった。その際、母のように慕っている東京の麻生十番にあるクラブ「愛」のママに宛てて書いたショージの手紙にママから返信があった。ショージは胸を躍らせ手紙の封を切った。ヨーロッパに来て以来、誰からも手紙をもらった事のないショージに初めてママからの手紙であった。

 ショージには一つの大きな迷いがあった。「人生とは何か…そして人間は何のために生きるのか…」それをこの手紙から読み取る事が出来たのだ。そこには「一生懸命に今その瞬間瞬間を生きる事だけを考えればそれで良い…」ショージは絶句した。「全神経、全力を賭けて今この時を生き、明日に備えるために今しなければ成らない事だけに必死になれば良い…他の一切の邪念を捨て、先の事など心配などしなくて良い。必死に今の瞬間、瞬間を繋げた時にそこに自分の道が出来るのだから…」

 ショージは手紙を見ながら、その文が段々と波打って見え始めた。ショージの手紙を見つめる目から滂沱(ぼうだ)の様に涙が堰を切って流れ出たからだ。「ああ…この懐かしい筆跡!昔ママから言われた言葉を思い出す…今しか出来ない事を、その事だけをやればそれで良かったんだ!何故、僕は今まで迷っていたんだろう。先の事なんか心配する事など愚の骨頂だったんだ…」目の前から霞がさーっと晴れて行くように、そして不思議にも何かショージの前に又、進むべき道が、方向性が微かに見えるような気がした。「ああ、なんて素晴らしい字なんだろう…ありがとうママ、本当に心に沁み通る「愛」のママの言葉だった。


日本語の肉声カセットテープ

 麻布のクラブ「愛」のママからの手紙の他に、まだ包みの中には何かが入っていた。「あれ、何だこれは?」包みから出すとティーシャツが入っていた。グレーのティーシャツにマジックで寄せ書きが書いてあった。それも可笑しいことに胸の所にショージがよく通っていた麻布十番の温泉マークが手書きで書いてあるのだ。もう一つの小さな包みを開けたらそこにはショージの後輩の秀樹からの鉛筆で書かれたメッセージがあり、1本のカセットテープがあった。

 ショージは隣の家からカセットレコーダーを借りてそのテープを聴くためにスイッチを押した。「ショ-ジさんですか…?」ショージにとって手紙に書いてある日本語の字も久しぶりであったがこの声にじっと耳を傾けた。数年の間、聞いた事がなかった日本語の肉声だ。しかも懐かしい、直ぐに泣く少年の秀樹の声であった。「ああ…なんと懐かしいこの声が…」

 ショージは日本を発つ前に麻布のクラブ「愛」にこの秀樹という少年を紹介してショージの後釜としてママにお願いしたのである。秀樹とは六本木の「スタジオ一番街」の小川亜矢子バレエスタジオで知り合った。彼はまだバレエを習いたてで生活力の弱い少年であったが、この男なら真面目に仕事もしてくれるだろうし、秀樹にとってもクラブ「愛」で働く事が出来ればママからたくさんの事を教えて貰い、バレエを続ける事をママが応援してくれるだろう…そんな思いからショージは後釜として彼に白羽の矢を立てたのだ。

テープからの秀樹の声…「今からショージさんの知っている人たちが話しますから聞いていてくださいね!」「半澤君、スウェーデンにいるの?イタリアにいるって聞いていたけど、寒いでしょ北欧は…」ああ、この独特の鼻にかけた甘い声はあの人だ!そして直ぐに「半澤君、佳子です…覚えていますか?スタジオパフォーマンスの時は喧嘩もしたわよね…スウェーデンでも頑張ってくださいね!」今では茶の間でも有名になった女優の床島佳子さんであった。そうそう、確かにあの筋金入りの九州出身の女性とはパド・ドゥを一緒にした時にかなりの喧嘩もしたものだ。       

 次々に沢山の懐かしい声がテープから聞こえて来た。「思い出すな…六本木のスタジオで毎日欠かさずに皆と一緒に頑張って練習をしていた頃を…」このティーシャツに書かれてある寄せ書きは秀樹が皆に頼んで書いてもらったのであろう。ショージはそのティーシャツを着てみた。「これは宝物だ!」クラブ「愛」のママからの手紙とこのティーシャツとカセットテープからの激励が心に沁みた。迷いから脱出する事が出来たのは遠い日本にいる皆のお陰であった。


1987年12月23日 ソ連の飛行機

 スウェーデンのゴッセンブルグに来て以来、ショージはバレエ以外に習慣にしている事があった。それは毎週木曜日に必ずロシア領事館に行く事である。ソ連に入るためにビザを発給してもらうためには、何らかの伝手が無い限り日本人がソ連に入る事は不可能である事から、単純にロシア領事館に伝手さえ出来たらビザを発給して貰えるだろうという、普通の人間ならばおよそ発想しない事だ。

 ショージはイタリアのバレエ団を辞めてフィンランドに行こうと思ったのはロシアで勉強がしたかったからだ。だが、フィンランドのバレエ団では働く事が出来なかった。そこで急いでスウェーデンにやって来て仕事をさせて貰う事になったが、ショージが北欧にやって来た本当の理由は変わらない。どうしてもロシアで勉強がしたいのだ。

 そんな時だった。たまたま道で見掛けた旅行会社の看板に「クリスマスにモスクワへ…」が!これこそショージを炎に揺らめく男に変えてしまった。そしてモスクワに行く決意をした。果たして観光ビザが日本人のショージに下りるだろうか。だがその心配は無用であった。すんなりビザが下りたのだ。

 飛行機が離陸前に「シートベルトをしてください…」と機内アナウンスが入り、客たちがちゃんとシートベルトをしているのかを確認するためにスチュワーデスが機内を廻り始めた。背が高くがっしりした体躯がロシア的なのだが、アエロフロートのスチュワーデスは日航のJALやオランダ航空のKLMと違って笑顔がほとんどない。その無言の表情から読み取れる彼女らの声を代弁したとするならば、「あんたら、ベルトをしたのかい?していないじゃないかっ!ちゃんとしろっ!」とまあこんなもんであろう。

 気流が悪いせいか機体がグラグラと横に揺れ、その度にショージの胃の中はググっと込み上がり、一瞬で30メートルほど機体が落下した。「あ…駄目か…」と眼をカッ!と見開いた。イタリアのダンサーたちが「ドイツとロシアのパイロットは腕が世界でも最高ランクなんだよな…!ただ、ロシアの機体は世界の最低ランクだから、どんなにパイロットが上手でもポトッて落ちても不思議じゃないのさ!ハハハ、チャオ~!」と言っていたのを思い出した。ショージは顔が真っ青になっているのが自分でも分かった。


モスクワ到着

ここはモスクワ空港。異常な臭い(おそらくはトイレのタンクの中に入っているタブレット錠の消臭剤のせいであろうと思う)が充満するジェット機内からようやく解放され、あまりの恐ろしさにまだ足が地上に付いてない感じだ。大きなドーム状のとても暗い空港内。そこには外国人を喜んで迎え入れてくれるような雰囲気は微塵も無く、人間の感情など受け付けようとしない無言の威圧感と冷たいコンクリートの床に、これまたデザインなどを無視した共産圏独特な奇妙な天井が妙に恐ろしく感じられる。

 そして入国審査はもっと恐ろしいものであった。ツアー客同士が入り混じり、ショージも列に並んで待っているがビザは取得してあるから大丈夫なはずだ。とは言え、やはり向こうで機関銃を構えて立っている人間を見たら誰だって恐ろしさに足が竦むはずである。

 この機関銃はカラシニコフと言うマニアたちの間でも有名な武器だが、有名であろうが無名であろうがそんなものはショージには興味はなかった。それよりもショージの気を揉ませるのはこの武器を持っている人間の人差し指に少々の力が入った時に、数十名もの人間がたった数秒でこの世から消えてしまうという事だ。どうしてそんな危ない物を構えていなければならないのであろうか。理由はどうであれ、話で解決をしようとする人間たちではないのは明らかだった。

 電光掲示板に映し出された表示にはマイナス32度と出ている「,げ~っ!?スウェーデンの最低温度は今までにマイナス24度で、その時はあまりの寒さに身体が思うように動かなくなり、アパートの中でもセントラルヒーティングを目一杯にしても足りないほどだった。それなのにここモスクワではマイナス32度だって?どうやって人間が生きていられるんだ!?」俄かには信じられない数字だ。道理で道脇の雪は凍りついて固まってしまうはずだ。けばけばしく唇を真っ赤に塗った口うるさいバスガイドと共にホテルへ到着した。


1987年12月23日 鼻無しショージ

 翌朝、「さあ、出発だ~!僕の人生は自分で切り開くんだ!よ~しっ!」バッグを担いで巨大なホテルの二重ドアーの外に出た。猛烈な吹雪であった。雪がショージの両頬をバシッバシッと引っ叩く感じだった。次の瞬間、ショージは息が全く出来なくなった。その空気の冷たさは人間の限界温度を超えて、命を脅かすほどの気温なのだ。

「うわっ!」ホテルの玄関からポンと出たものの、その瞬間にまたポンと後ろ向きにホテルの中に戻ってしまった。「な、何だ、この気温は!?出られない…決して外には出られない!まず息が出来ない。どうしよう、このままホテルの中で外を眺めていても、僕の人生に何の変化は起きない。だからといって命を危険に晒すわけにもいかない…」これは大袈裟でも何でも無く,マイナス32度の気温に吹雪の強烈な風が加わるので、マイナス38度以下に下がっているのだ。日本でこの気温を体感できる場所は北海道だけかもしれない。このホテル内と外の気温差はホテル内が17度としても、実に55度ほどだ。「げ~っ!なんちゅう所に来てしまったんだ…兎に角、どうしよう…早くしないと!えーい、出るぞ~!」

バシッとドアーを開いて3歩走り出したが、瞬時に引き返してしまった。「ガビーン!何でこんな地獄のような寒さなんだ!?」そうやって5,6回繰り返している内に、どうやらこの強烈な寒さにも慣れてきたみたいでようやく行けそうだ。「よしっ!タクシーを拾ってさえしまえばこっちのもんだ!行くぞ~!」ダッダッダッダダダ…勢いに乗って、4~5百メートルは走った。もう少しで大通りに出る…という所まで来た時に、突然、目の前が真っ暗になり絶叫した。「ンガッ~!俺はアホか~!折角ここまで来たのに、お前って言う奴はこの、ろくでなしがー!」ガーン!大変な事を忘れていたのだ。ショージは自分が宿泊しているホテルの名前を知らなかった。

 「おー!危ない、危ない…」寸での所で迷子になってホテルに帰れなくなるところであった。「ああ…またホテルまで走って戻らなきゃ…」その時点で既につま先や手先、特大の鼻が凍傷を起こしそうなほど限界温度が身体中を麻痺させていた。「耳なし芳一は知っているけど、鼻が取れちゃったら、鼻無しショウジになっちゃう…」走ってホテルまで引き返し、深呼吸をして外に出る心の準備と空気を思い切り吸って肺に貯めた。「あ、ちょっと待てよ…このチラシを落としたら、それでもうお終いか…僕は再びこのホテルには戻れなくなってしまう。ちゃんとホテルの名前を見て確認しておかなきゃ…」そしてホテルのチラシを見ると、「ホテル・コスモ」と書かれてある。

 再び大通りに出るまで走り、手を上げると一台の車が止まった。だが、どう見てもタクシーではなかった。自称「タクシー」の酔っ払い運転手は右に左に横滑りを起こしながら、ようやく目的地のボリショイ劇場の近くまで来た時…「おいっ、もうそこがお前の言っていたボリショイ劇場だ。ここまでの距離は半端じゃない!2ドルじゃ到底足りない、もう2ドルよこせ!」酔っ払っている運転手が、ショージをガキだと勘違いしているのだろうが、ショージも負けずになんとか厳めしい顔つきで「おい、いい加減にしろ!2ドルでも十分すぎるくらいだ!お前が2ドルなら行ってやるって自分の口で言ったんだ!その2ドルもあれば、お前の好きなウォッカが数十本は買えるだろう!俺はここで降りる」するとこちらの剣幕に押されたのか運転手は車を止めた。


ショージの前を歩く男の背中

 路上で婆さん用の帽子を売っていたロシア人の婦人に聞いた通りに、道沿いに歩いて行くと「あ、あ…ボリショイ劇場だ、すんげ~!こんなに迫力がある劇場もそうざらには無いな!」夢の劇場がショージの目の前に威風堂々と聳え立っているのだ。「これか…これが世界中のバレエファンなら誰でも頷く、世界最高のバレエの殿堂か…!」暫し絶句。少しずつ劇場に近寄って行き、寒さなどこの瞬間は感じなかった。だが、やはりほんの瞬間だけであった。実に寒い。

ショージの横を灰色のジャンパーを着た男が素通りして行き、ショージもその男が向かう先の劇場の正面まで歩いた。「何て威厳のある劇場の正面造りなのだろう…」玄関には大型の大理石の石柱が8本もバーン、バーン…!と並んでおり、その遥か上のひさしの上にブロンズで作られた、4頭の馬を男が手綱を引いているようなモニュメントがショージを興奮させる、夢にまで見た劇場だ。

 ショージの前をズシズシと雪を踏みしめて歩いている男はダンサーらしき鞄を背負っているが、あまり背中がダンサーらしくない。「ま、鞄を背負っているのが決まってダンサーとは限らないし、兎に角、関係者入口を探そう…」前を歩く男の靴を見ると「ん?足が外側に開いている…え?まさか…こんなプロレスラーみたいな背中をしている人がダンサーのはずないよな…そこら辺のおっさんだって、ガニ股で歩く人はいるんだから。しかし、なんちゅう寒さなんだ…もう、頭がクラクラとして思考回路が働かない…早く暖を取らなければ間違い無く凍傷に罹ってしまう…」

ショージは路上の婦人から急遽買った、どちらも婆ちゃん用のケバケバがおかしい帽子と手編みの毛糸の靴下を両手にはめ、ジーパン姿にスニーカー。大きなスノーブーツは恥ずかしいからスウェーデンに置いて来たのだ。これが大きな間違いだった。スウェーデンよりもモスクワの方が気温が異常に低く吹雪いているではないか。前を行く背中が異様に大きな男性に何気なく付いて行くと、「あっ!あれは関係者入口じゃないのか…!?」


ボリショイバレエ団の看板スター

 「あっ!やっぱりあれは関係者入口だ!…って事はこの男も劇場のスタッフなのか?ま、大道具さんかもな…」その時だった、ふいにショージの右横の劇場の壁の方向から、「おいっ、イレ~ク!」と大きな声で呼ぶ者がおり、ショージもその声の主の方を見た。と、それがあまりにも大声なのでビックリしたのだが、それよりももっと驚いたのは「あーっ!この人…!」大きい声で叫んだ男はショージがビデオやテレビで何度も見た有名なロシア人バレエダンサーのユーリー・バシュチェンコだったのだ。

 「で、でっけ~!」190センチを優に越えているであろう。そしてその時、重低音の腸に響くような唸り声で「ウォ~ドブレイウートラ…」(ウォ~お早う…)とその猛獣のような声を出したのは、ショージの直ぐ前を歩いていた灰色のジャンパーを着込んで、頭には熊のプーさんみたいな面白い帽子を被った声の主を見た途端、ショージの呼吸が止まりそうになった。

 またもや絶句!そのプロレスラーのような背中でショージの前を歩いていた男は、なんと世界中のクラッシック・バレエファンの注目を一身に集めて、今のヨーロッパ、アメリカ、日本のバレエ雑誌を賑わせている、ボリショイバレエのプリンシパル(事実上のバレエ団のトップダンサー)のイレク・ムハメドフではないか!


観音開きのドアー

 観音開きのドアーをギ~と開けば又、中側にドアーがありその中間に厚手の生地で天井から幕みたいな物が垂れ下がっている。これはドアーの外のマイナス38度の極限の冷温から劇場内の温度を保つために冬限定で付けられているのであろう。先にイレク・ムハメドフ氏が入り次にショージが入り、中側のドアーを通る際にイレクが低く唸る声で「ズドラストブチエ~!」(こんにちは)と門番に挨拶をした。門番はパッと見た感じで70歳から80歳くらいまでの男性が4人いた。どうして門番が4人もいなきゃならないのだろうか…?イレク・ムハメドフ氏のボストンバッグは意外にも小さめで質素なバッグだ。ショージのバッグは中型犬が丸々と一匹入る事の出来るサイズの大き目。

 ショージもまるで昔からボリショイ劇場のお抱えのダンサーであるかのような顔つきと疲れたようなイレクの声のトーンに似せて「ズドラストブチエ~!」とイレクの直ぐ背後にピッタリと付いて行く。「おっ、やった…通っちゃった!」と脳が反応した途端…「うわ~っ!」


4人の爺さんたち

兎に角、この劇場の関係者入口の二重ドアーを入った瞬間にその劇場内の温度が予想以上に温かく、寒さが限界にまで達していたショージの身体中の先端が急激な温度差によって痺れた。だが、人間、どのような場面に遭遇してもタイミングというのが非常に大切なものだ。イレク・ムハメドフ氏が中に入った時に、そのどさくさに紛れて一緒に入ればもしかしたら門番は気が付かないかも…と、甘い考えで一緒に門を入り、イレク・ムハメドフ氏の挨拶も終わらない内にショージは爺さんたちからの死角になる、ムハメドフ氏の斜め背後を歩いて顔を少しだけ下に俯きロシア語で挨拶をしたのだ。

 そのまま止まらずに廊下を歩く事、7歩…「お、やった…やったね~!」と、その瞬間、背後からガバーっと羽交い締めにされてしまったのだ。「うわ~っ!」と驚き、後ろを見ると、門番の爺さんの4人の内の一人が得意そうに「クトエタ~ッ!クトエタッ~!?」(誰だこいつは!誰だこいつは~!?)と爺ぃ特有の甲高い声で叫んだ。ショージはその手を振りほどきたかったが、とんでもない強い力で放そうとしない。

 ショージは「よっしゃ~!爺さん、偉いっ!よくやったぞ!君はとうとう門番という大事な仕事をやってのけたのだ!部外者の侵入を阻止するのが君の役目だ!それが任務であり、使命なのだ!そして君は自分にもその侵入者を捕まえる事の出来る力がある…と言う事をとうとう立証したのだ…やれば出来る…この歳になってもそう捨てたものじゃないさ…と今なら豪語しても良いのだ!僕と言う部外者を捕まえた君に今贈りたい言葉は、おめでとう…爺さん、おめでとうっ!」などとは口が裂けても言わない。ショージの口から出た言葉は「ちっきしょ~!惜しかった~、後もうちょっとだったのにな~!爺ぃめっ!」

 ショージはその4人の門番に囲まれてドアーの外まで連れ出された。背後からも横からも羽交い締めのままで爺ぃたちはドアーをギ~と開くと「そーらよっ!」ポーンとまるで罠で捕まえたドブネズミのように劇場から外に放り出されてしまった。「げ~っ!さ、寒過ぎ~っ!こんな温かな場所を体感しちゃったその後で、又、地獄の寒さに戻らなきゃなんないのか!?」しかし人間とは考える動物。ショージの脳がフル回転し始めた。


門番の怒り炸裂!

 まだ5秒も経ってないのに即、また二重ドアーを開いて中にまるで初めてのように入って行くと案の定、「こ、この馬鹿、またお前なのかっ!何しに入って来たのだ!出て行け~!聞こえないのか、出て行け~!」また4人の内の一人が椅子から立ち上がりショージを目がけて寄って来たが、ショージは頓着せずに「あ、違いますよ、ちょっと聞きたい事があるから入って来たんですよ…」すると、門番の爺さんは「何?聞きたい事だと…?何だ、言ってみろ!」と鼻息も荒く、怖そうな形相でショージを睨んでいる。「そんなに興奮すると血が濁りますよ…」とショージは教えてあげようかと思ったが、そんな爺ぃの人生はどうでもいいか…と捨ておいて、「あーあのね、今、何時かな…って思ってさ!」

 するとショージを睨んでいた爺さんの顔が見る見る真っ赤な鬼のような形相に変わったのだ。爺さんは震えながら「そ、そんな事知った事か…!この野郎、出て行かないと…」拳まで上げている。ショージを見つめワナワナと爺さんは震えていたが、次々に楽器を抱えたオーケストラの奏者や、ダンサーたち、また劇場関係者が入口の中に入って来た。そしてようやく正気を取り戻したのか、それとも時間だけなら…と思ったのか、「お前の顔の前に時計があるだろ…見たらさっさと出て行け…」

 ショージは「あっそう…もうこんな時間なのか…じゃ、行こうかな…今日はバレエの公演は無いのかい?」すると違う爺さんが、「そんな事は正面玄関に行き自分で調べろっ!早く去れ~っ!」ショージはニヤニヤと笑いながら、「チャオ~」と偉い剣幕の爺さん4人にちゃんとイタリア式の挨拶をした。が、爺さんたち4人はこっちを見ようとはしない。ショージは「チェッ!」と舌打ちしながら、言われた通りに正面玄関に廻り人でごった返しているチケット売り場で今日の催し物を確認した。

もちろんロシア語で書いてあり、ロシア語を読むのが苦手なショージは「ん?ラ…イ…モ…ダ?あーっライモンダだ!やった~!見るに決まっているじゃーん!」はしゃぎながら大きなダルマのようなおばちゃんの列の後ろに並びチケットをゲットした。バレエ「ライモンダ」はボリショイが本家本元だ。


…とある公園に

「んー、あんなに爺ぃたちのガードが堅かったら、容易に劇場内には入れないな…でも、折角このモスクワまで来ておいて、ボリショイのレッスンを受けないで帰るのは王将ラーメンに来て餃子を食べないよりも悲しい事だし…。何か手立てを考えなきゃいけないな。どうしよう…」独りで道を歩きながらぶつぶつと呟いた。

 時間を潰すためにレストランに入った。だが中は暗く誰も人がいない。「やっているのか?」ウェイターが一人だけいた。「やっています?」「いややってはいない…」「ドルで支払いますが…」「やっているよ!」手の平をぽんと返した受け応えだ。そのレストランでシャンペンとボルシュチスープ、ストローガノフとライスの付け合わせを完食するとドルで支払いを済ませた。

 まだ劇場で「ライモンダ」が始まるまでにはかなりの時間がある。しかし、外は人間が気軽に散歩できるような温度ではない。「何処か暖房が利いていて時間が潰せる場所を探そう。」道を歩きながらボリショイ劇場から遠ざからないように歩いていると公園の前まで来た。「ん?何でこの公園はこんなに人がいっぱいいるんだ?」ショージは興味に駆られ公園内に入った。と、のっけからおばさんたちが大声で何か怒鳴っている。

 そのおばさんたちの前には簡易の小さなテーブルが置いてあり、その上に紙袋がたくさん積んであった。「あれは何だろう?」大勢の人たちがその公園にいるのは、間違い無く、物々交換か個々に仕入れた何かの商品を売っているのだろうと判った。ショージはこういう情景を見ると体内の血が燃えて来る。


群衆の顔

 公園の中に物凄い数の群衆がひしめき合い、その雑踏の中にショージも進んで入って行った。群集は生活のために自然に出来た市場なのだ。ここは金で物を買う人もいれば物々交換している人もいる、何とも迫力のある光景であった

 この市場の中でショージを驚かせたのはただ単にガチャガチャと人が集まっているのではなく服を売っている個々の店が集まったブロック、肉屋や野菜の食品のブロック、または家具や家電製品のブロック…と、それぞれが整然とそれぞれの分野に分かれていて、好き放題に勝手な場所で売っている訳ではないという事だった。考えてみれば服を売っている人の傍に肉の切り身やミンチなどを売っていたら服に肉片が付いても嫌だろうし臭いが漂っても嫌なのであろう。ま、自然な事でこれに驚いているショージ自身がおかしいのかもしれない。

ショージは極限に近いマイナスの気温の中で、その公園の中だけが群衆の吐く息で真っ白く霧がかかったようにぼんやりと霞む中、人々が物を売りさばく姿や、少しでも安く多くゲットしたい人たちを見ながら再び驚くのは、どの人の表情に笑顔が全く無い事だ。厳しい顔をして黙々とうごめいている。公園の群衆だけでなく、道を歩いている無数の群衆もザッザッザッ…と雪を蹴り散らしながらその誰にも笑顔がないのだ。そこに人間の温かみなどを感じる事が出来なかった。皆一様に暗い。ただ何処かに行き着く事だけを考えて黙って歩く無数の恐ろしい程の群衆。

 これに似た群衆をショージは見た事がある。それはショージがサーフィンに行こうと川崎を通った時に、おそらく競馬場だと思うが、その催し物が終わって帰る、負け男たちの群衆が皆、やはり一様に押し黙って、暗く重い足取りで一定の方向に歩く姿がこのモスクワの群衆に似ていた。競馬場の群衆は既にポケットの中の財布の中身をスッテンテンにしてしまって、愕然としている事だろう。群衆の男たちの目には未来も無ければ、希望も全く無いような…それならばショージは理解出来るのだが、何故、モスクワの群衆の顔には表情が無いのだろうか…?生きるためだけの恐ろしいほどのエネルギーが充満している市場で、今ショージ一人だけが大きな笑顔で走り回っていた。


勉学の場

 ショージにとって言葉を学ぶ最も適した場所と言うのが市場なのだ。これはイタリアに行った際に覚えた事であった。イタリアに初めて仕事として行った時に数字の1,2,3も「お早うございます、さようなら…」も全く分らなかったショージに市場のおばちゃんやおじちゃんが笑いながら教えてくれたお蔭で、ショージも楽しくて、毎日のようにノートと鉛筆を持って習った。特に魚屋は見ているだけでも楽しかった。何故ならばショージは魚に大きな興味を持っていたからだ。

 ショージが手に持って書き込んでいるこのノートは後に辞書となり手放した事はない。ただ、文法が滅茶苦茶なのでイタリア人と話す時には申し訳無かったと思っているが、それでもショージの言いたい事は話せるようになり、向こうの言いたい事も分るようになった。

 スウェーデンでも同じようにして言葉を学ぼうと思ったのだが、北欧の市場を見た時には唖然とした。寒さのせいなのか、魚も肉も鶏肉も野菜も、イタリアの物と比べたら大人と子供くらいの差がありミニチュアサイズのようなものに値段だけはイタリアよりもずっと高いからだ。これでは興味も失せてしまう。人間というのは面白いもので自分が学ぼうなどと思わなくても、それをしている事で実に楽しい、充実感がある、やりがいがある!と思える時は脳が勝手に学んでくれるようだ。

今、こうしてモスクワの市場を歩きながら、「シュトエタ?(これ何?)、カクエタ、ザブートゥ?(この名前は何?)、カク、ガバリーチ パ ルスキー?(ロシア語で何と言いますか?)」を連発しながら、売り物に触れたり指さして、おっちゃんやおばちゃんに聞いてみた。だがこの人たちの表情は怖かった。「あんたさ、もうちょっとその顔どうにかならないかな?」などと言おうものなら、彼らに半殺しの目に会わされそうなのでやめておいた。

 「スコーリカ パーパストイ?」(値段はいくらですか?)と買う気も無いのに商品を指差しながら「え…ダラゴ―イ!(高いですよ!)」とケチ付けて、頭を横に振りながら次の店に行った。鉛筆やノートを出して書き込むのはちょっとこの国では怖いので、公園の端に行き誰も見て無さそうな所で一気に書き込んだ。そして段々とこの市場での物価が分り始めた。


シャプカ

 おじちゃんやおばちゃんたちに質問を連発しながらこの公園の一番奥まで来ると、「おっ!」そこにはテーブルがあって、そのテーブルの上に幾つかの獣の毛が付いた商品が置いてあった。傍に寄って「これを見せてもらっても良いですか?」とおばちゃんに聞いてみた。おばちゃんは顔の表情を微動だにせず、首だけを縦に振ったので、ショージはその金色に輝く毛の付いた物を手に取ると暫し考えた。「何じゃこりゃ?」いぶかしく思いながら、ショージが見ていると「エト、シャプカー!シャプカーッ!」ショージも真似して「シャプカー?何それ?」と聞き返した。するとおばちゃんは自分の頭の上にそれを乗せ、「シャプカーッ!」

これでようやく分った。これは帽子だった。そう言えばフランス語で帽子は「シャポー」、ロシアもフランスのファッションが雪崩込んで来たために帽子という単語がそのまま「シャプカ」になったのだろうか。この金色の毛がふさふさしている帽子は明らかにゴールデンフォックス…つまり狐だ。しかしショージが今手にとって見ているロシアの狐の帽子の形が非常に変わっていて両耳部分が折れ曲がるように作られてあり、しかも顔面がスッポリと隠れるように前の部分も大きく折れ曲がるように作ってあるのだ。吹雪の時などには良いかもしれないが、普段使う時には前が見えるようにおでこの上で折り曲げるように作られている。綺麗な真っ白の毛と輝く金色が素敵なコントラストだ。

 「何て美しい帽子なのだろう…!」そこでまた「エト、スコーリカ リュブリー?」(これは何ルーブルですか?)の質問にそれまでショージがこの市場では聞いた事の無い桁(けた)の数字をおばちゃんは答えた。意味が分らないからこの時だけ鉛筆と小さく切ったノートの切れ端をおばちゃんに渡し、「書いて…」と願うとおばちゃんは驚くような高額の数字を書いたのだ。「こ、これは高過ぎますよ~!」と書いてくれた紙を叩きながらおばちゃんに言うと、首を横に振りながら「ニエーッ!アブイチシナ!ニドラガッ!」(いいや!これは高くないっ!これが普通の額じゃっ!)と、バシッ!と言われてしまった。ショージは「この帽子が欲しい…この帽子、絶対にこの場で今欲しい!」だが…


不思議な商人

そんな大金のルーブルは持ち合わせがない。「ねえ、明日もここにいる?今日はそんなにお金を持っていないんだ…それに、もうちょっと安くならないかな?」すると大きなおばちゃんは目をカッと見開き、「あんたね~、このシャプカが高い高いってさっきから何さ!あたしゃねー!安くなんかしないよっ!えっ、何処か安い店でも探せっつーんだよっ!へっ!何だいさっきから…それに今日売れちまえば明日なんかここに居るわきゃないんだよっ!売れなきゃ居るに決まってんだろうがっ!」おばちゃん、怖~っ!ショージは後ずさりしながら、「そんな高い帽子、今日は売れないと思うよ!」と言いたいところだったが、追っかけて来そうなので上目づかいでジ~ッと見ながら公園の入口の方へ戻った。

「そんなに怒らなくてもいいじゃん!」と舌打ちしながら公園から出て歩きだそうとした時、ふと横を見たらダンボール箱の汚れているのが落ちていて、その時に「あっ、そうだっ!」とショージは咄嗟に閃いた。

 持っている大きなバッグを氷雪の上に置いてガサガサと中を調べて出て来たのは「なんでもカシオの腕ドケ~イッ!!」とドラエモンみたいにモスクワの街中に向かって叫び、そのダンボール箱も拾った。そう…ショージは公園の中に戻り、ロシア民間商人組合の仲間入りをする事に決めたのだ。商品とは腕時計が2つ、鞄の中に「もしも…」のために携えていたのだ。

 これは時としてタクシー代にもなり、また飯代にもなる。流石にトイレットペーパーの代わりにはならないが。実はこの国にはトイレットペーパーがない。公衆トイレの便器の横には10センチ四方の普通の紙の束が置いてあるのだがショージは用を足しながら頭を横に捻った。「これどうやってロシア人は使っているのだろう…これじゃ用を成さないと思うけど…」その紙は全く吸水性がなく、しかも小さ過ぎる。この紙がどのようにして役に立っているのかロシア人に聞いてみたかった。

 公園の入口付近でまず、「ものは試し…」と思い、バッグを段ボールの上に乗せ、中側と外側を逆にした。すると真っ黒い裏生地が現われて、その黒いゴージャスな敷物がアクセントとしてカシオの高級腕時計をモスクワの市民にアピールしようっていう魂胆だ。「ヌハハハ!私は商人だ!「ベニスの商人」にも劣りはしないし、「ユダヤの商人」にも劣らないだろうな!」


売る者、買う者

 腕時計を黒い生地の上に乗せようとした時に、既にその行動にいち早く気付いた人が2人いた。生地に乗った瞬間、「ちょっと見るよ!ほ~!こりゃ何処の時計だ?珍しいな…幾らだ?あん、値段は幾らなんだ?」ショージはその時計を取り上げた年配の男に「これは日本と言う国のそれはそれは精巧な造りの時計で、滅多な事では時間が狂わない素晴らしい時計だよ…」だが年配の男はそんな説明より「幾らだと聞いている…え、幾らなんだ?」ショージは急に金の事を言われ値段の設定などしていなかったので、おばちゃんの売っていた狐の帽子、「シャプカ」の値段の半分の金額を紙に書いたら、「へっ!冗談じゃ無い!そんな高いの買えるかっ!イディオット(馬鹿め)!」とまで言われてしまった。

 良く考えたらそりゃそうだ…この国の人の給料の一月分ほどもする値段を書いて見せてしまったのだから、男が怒っているのも仕方がない。ショージは年配の男を追いかけて、「済みません、間違えちゃった!この値段です…」とさっきの10分の1の値段…つまり帽子の20分の1の値段にしてみたら、「ほ…そうか…その値段か。よしっ、貰おう!」その場で商談が成立した。金を頂くと、「スパシーバ!(ありがとう)」と礼を言い、もう一つの時計を出して再び黒生地の上に乗せた。

すると5分も経たない内に、おばさんやおじさんたちが時計を自分の腕に試着したりしながら、結局直ぐに売れた。今日のショージのバッグの中には売り物になるような物はもうない。ホテルに帰ればまだ腕時計もあるし他にもこの市場で買い手が見つかるような物はたくさんある。これなら、あのゴールデンフォックスの「シャプカ」の帽子を買うのにわざわざドルをたくさん使わずに少ない金を換金すれば済みそうだ。ただ、あの「シャプカ」が売れてしまった時には残念な事になるがそれはそれで仕方が無い。ショージには「シャプカ」は縁が無かったのだと諦めるしかない。

 「よしっ!今日はこれで商売は終わり!続きはまた明日、ボリショイ劇場に潜り込めなかった時にするとしよう…!さ、ボリショイに行くぞ~!バレエ「ライモンダ」の全幕が僕を呼んでいるのだ~!」


1987年12月24日 日はまた巡り…

 朝、目が覚めて、ショージが一番先にするのは軽いストレッチと背中や足のマッサージだ。ここモスクワの舞台の上で踊る事やレッスンも出来ないにも拘らず、朝の寝ざめではかなり身体中が凝った。それと言うのもショージは極端に寝相が悪いからだ。もしビデオカメラで寝ている所を撮影でもしたら、ベッドの中を器用にクルクルと時計の針の様に廻り、身体の左側を下にして身体をくの字に折り曲げているだろう。まな板の上に乗せたエビの様に恐らくなっているだろう。上になっている右目は半開きで、口も半開き…寝始めの前半はよだれを垂らし、後半ともなると野獣の様ないびきを掻いて、ちょっと常人とはかけ離れた醜い姿になっていると自分でも想像ついた。それを朝の目覚めの30分ほどで通常の人間に戻さなければならないのだから、ただマッサージと言っても相当に大変な仕事だ。

 今日も大きなバッグに一応レッスンが出来るように支度を整え、更にあの物々交換をしているプロスペクト・ミーラという場所の公園で商いをするための商品も揃えバッグの中に無事収めた。ドルをしっかりと腹周りの薄いポシェットの財布の中にしまい、もう一つの財布にも直ぐに取り出し可能な数枚の1ドル紙幣とルーブル紙幣を折り曲げて入れた。このホテル内で外国人から出来るだけたくさんの外貨を巻き上げようと言う魂胆の偉く高い朝食を摂らずに早々とホテルを出て、何処か安そうな朝食を探そうとホテルのロビーまで降りた。

 外の景色は昨日と同じで極限まで気温が下がった雪と氷の世界だ。外に出るまで心の準備と外との急激な温度差は心臓に悪いので暫くはロビーで軽い足踏みをした。マイナス35度に強風。目指すはボリショイ劇場。あの関係者入口で爺さん4人とまた揉みくちゃの大騒動となるのを知っていながら向かうのが「よっ!男の中の男!」

 ロビーでも何故かショージの行動に疑問を持つ者やショージが単独で劇場に向かう事を知っている者もいなければ声を掛けてくる者もいなかった。「本当にこれで大丈夫なのか…」と心配もあるのだが、今日は本来の目的であるボリショイ劇場…とは別にしなければならない商売がある。

 二重のドアーの外を見れば雪が横に降りつけていた。「よし…出るぞ!」外に行く決心をして大きく深呼吸をしてダダ~ッ!と走ってホテルのドアーを出ると、また直ぐにクルッと方向転換してダダダッ!と、2秒もしないうちにホテル内に走って戻って来てしまった。

「げ~っ!寒過ぎ~…!」


モスクワのメトロ(地下鉄)

ようやくホテルを出ると地下鉄を発見した。それに乗ってボリショイ劇場に行く事にした。流石にソビエト連邦の首都だけに地下鉄には朝から出勤のための途方も無い数の人込みだった。ショージはメトロの幹線地図を眺めながら、どっちのプラットフォームから乗ったらボリショイ劇場に行けるのか駅員に聞き、幾ら払えばチケットが買えるのかも聞き出した。5カペックというコインを払えば良いらしいのだが、ショージにはどのコインが5カペックなのかが分らなかった。駅員にショージの持っている手の平の中の数枚のコインの中から選んでもらった。日本の5円玉の様な色をしたもっと小さなコインだ。「ほー、これで地下鉄が乗れるのか…随分と安いんだな…さ、行こう!」

 地下鉄に乗ると電車の中は薄暗く、昔の日本の地下鉄を思い出した。ショージが母に手を引かれ、母の叔母にあたる人が住んでいる東京の「てっぽうず」と言う銀座の外れ辺りだっただろうか…。そして母の美智子は叔母の家で長い事話して、母の従弟にあたる、ショージにとっての伯父とも会った事を想いだした。その時に乗った地下鉄が丁度こんなモスクワの地下鉄の薄暗さであった。昭和43年の時の事だった。しかし、この電車の中の暗さはただ単なる照明の暗さのみならず、そこに居合わせる人間が醸し出している暗さである事も事実だ。

 電車が次の駅に止まる前に必ず、「アスタロージュナ…!ディエリ ザクリュバユッツァ スレドュシャヤ…!」(ご注意ください…!次に止まる駅は…!)とアナウンスの男性の声までが暗く感じた。が、このロシア語のトーンと言い、アクセントの流れと言い、決して

聞きづらいトーンでは無く、言葉の流れ自体はどちらかと言えばショージは好きだ。

 「お、次の駅はプロスペクト・ミーラ?って事は、意外にもボリショイ劇場からはそんなに遠く無い所までやって来たんだな?よしっ、降りる用意をしなくちゃ…地下鉄でこのプロスペクト・ミーラに来れるのならば、ボリショイ劇場に行った後でまたこのミーラ大通りの駅に戻って、あの大きな公園で物々交換の市場で商いをしよう…その後はまた地下鉄でホテルに戻れるって言うわけだな、よっしゃ~!今日も爺ぃ4人と格闘だ!それ行け~!」


クレムリン…赤の広場

 肝心の、ボリショイ劇場のある地下鉄の駅の名前を駅員に聞き忘れたために、大体の見当で電車から降りたショージ。「あれっ…お…お~っ!これはテレビに映っていたクレムリン宮殿じゃないかっ!」通称「赤の広場」と呼ばれている場所であった。「じゃあ、ここにいたらソ連の主席ゴルバチョフに会えるかな?んなわけが無いか…それにしてもだだっ広いんだな~!」それに驚くほどのツーリストの多さだ。

 「凄いなこの赤の広場という所は…」日本にいた時に昔テレビでよく見た。まゆ毛が毛虫みたいなブレジネフ書記長、そして現代になってはゴルバチョフ大統領が見守る中、赤の広場に数十万人の軍人が軍事パレードをしているのを見た事があった。巨大なミサイルや戦車も登場していた。今、ショージが立っているこのクレムリンはごく穏やかな平静さを保ち、軍人も時折ショージとすれ違った。

 クレムリンには国を守るために戦争で亡くなった軍人の魂を弔うための墓もある。向こうから足並みをカパッカパッ…と合わせた3人の衛兵がロンドンのバッキンガム宮殿の衛兵と同じように交代するために向こうからやって来た。足並みを崩す事無く、同じ高さに上げた足と、その踏み込む位置も全てが揃った美しいフォームにショージは見惚れてしまった。「でも軍人さんたち、もうちょっとその怖い顔はどうにかならない?あのね、口をこうやって、イ~っと横に大きくして目を潤ませながらさ…あ、なんか銃で頭をぶち抜かれそうだから言わないでおこう!」


ビンゴ!

「ああ、お腹が空いた…何処かで朝食を摂らないとな…」道沿いにある店の中からモクモクと煙が出ている。「おっ、何か焼いているのか?それとも煮ているのかな?」店に入ると10人くらいが列を作って並んでいた。店の中に大型のガラスケースがドーンと置いてあるのだが、そのケースの中には商品が何もない。テレビのニュースで「今のソ連には食べ物が非常に少ない…」という事を見ていたから驚きはしなかった。では、この人たちは一体何の為に並んでいるのか?煙の出所を見るとそこに大きな釜があり、とても良い匂いがする。この匂いはきっと肉を茹でているのだろう。匂いの正体を知るために並んで待っている人たちの前を素通りして従業員に聞こうとした。

 順番でも抜かされたかのように恐ろしい形相をしながらショージを見つめるおじさんやおばさん。「すみませんが、その釜の中には何が入っているのですか?」と聞くと男の店員が面倒くさそうに声も出さずに釜の中から引き揚げた物は大きなソーセージだ。「うわ、美味そう!」

このソーセージとコーヒーを買おうとしてショージも列に並び、レヂで代金を払うためにルーブル紙幣を数枚出した。「これで間に合いますか?」と聞いたらレヂ係のおばちゃんが怖い顔をしてショージを睨んだ。「お札なんか要らないんだよ!ポケットの中のコインを出せ!」とレヂの中のコインを手でつかみジャラジャラとレヂの中に落とした。買ってもらうという意識ではなく、売ってやるのだという態度であるがたてつく事は出来なかった。ショージはソーセージが食べたかったので黙って持っている全てのコインをおばちゃんに差し出すとショージの手からおばちゃんが必要な分だけコインを取った。

ソーセージにかぶりつくとその絶妙な美味しさと熱さだ。豚の脂身が良く煮えていて肉汁がジュワーッと出て来て唇と舌が火傷しそうなほど熱い。「よしっ、もう一本食べよう!」と残りのソーセージを一気に口に押し込み「ゲホッ、ゲホッ!」となりながら再び列に並んだ。

 朝食を食べ終え、ボリショイ劇場へと向かおうとした矢先、道沿いの向こうの建物の前に大きなポスターにバレエの宣伝がしてある。そのポスターの絵でバレエだという事が分かるのだが生憎ショージは近眼の乱視だからはっきりとは見えなかった。「ボリショイバレエの公演でも宣伝しているのかな?」と思ったら、それは建物の入口に近づくにつれてもっとはっきりと見えて来た。どうやらボリショイバレエとは関係が無さそうなポスターだ。そしてこの建物には入口の上にバレリーナたちが踊っている絵の看板が付いてある。入口はまだ朝だったから閉まっていた。「バレエのポスターと看板?ここでやっているっていう事か?こんな四角いビルの中で…ってことは、もしかしたら…」

 ショージは暫し考え込んだ。以前、スペインのバルセロナを訪れた事があるのだが、道行く人に「すみません、劇場は何処ですか?」と訊ねると、そのおじさんが「君は不思議な事を聞く人だね…君の立っているその場所が劇場の入り口なのに…」ショージはとても驚いた。それを今、思い出したのだ。「そうか…この普通のオフィスビルみたいな建物はあのバルセロナの劇場の時と同じように、建物の外観の見栄えが劇場らしくないのに実は建物は二重構造になっていて、実際に建物の中に入って行けばちゃんと劇場が存在しているのかもしれない…」と直感したのだ。

 バルセロナのオペラ座の劇場は外側からでは、その建物の中に目を見張るほどの素晴らしい円形劇場があるなんてツーリストには絶対想像が付かないほど普通の古い四角いオフィスビルなのだ。だが、そのビルの中に足を踏み入れ、更に奥深くに入って行くと突然巨大な空間が現れ、しかもその内部にはふんだんに美しい金細工の施された目を見張る様な素晴らしい円形劇場があるのを見てショージは度肝を抜かされた事があった。そういう経験から今、モスクワのこの建物の裏側に行けば関係者入口があるのじゃないかと建物に沿ってビルの背後に廻った。

すると…「ははーん、じゃんじゃじゃーん!あるじゃないか!これだよ…」これは劇場の関係者入口に間違いは無い筈だ。この関係者入口の中に勝手に入って行く事にした。薄暗い入口でその中がどの様になっているのかは全く分からないが、幸いな事に入口を守る門衛は一人もいなかった。誰も中にはいないのかもしれないが、なんとなく怖い物見たさ…と言うのもあってどんどん入って行った。暗い廊下の向こうに女の子が走って行くのが見えて、ショージもその女の子に話し掛けてみたいと言う事もあり、小走りで追いつこうと廊下を曲がった瞬間、「おーっ、いるわ、いるわ…!」頭の髪の毛をお団子にした紛れも無くバレエダンサーの女の子たちが…!つまりビンゴ!ショージの勘は大当たりだったのだ。

 ショージは即、その女の子たちの一人に「今からレッスンがあるの?」すると女の子はコクンと頷き、ショージは直ぐにまた、「このバレエ団のディレクターは何処にいますかね?」すると女の子は怪しそうにショージの顔をじっと見てから、頭の上から足のつま先に向かって目線を走らせ、ショージが危ない人間なのかそれとも変質者なのかを知ろうとしている。「ふふ…お嬢さん、私は危ない人間でも変質者でもないのですよ…でも変人と言うのならばその通りかも知れませんけど…」


ディレクトール(芸術監督)

 女の子はショージを見ると「あ…あなたも一応はバレエダンサーなの?」と言葉に出しては言わないもののショージがダンサーと言う事を分かってくれたのであろう。人差し指を上に向けて折り曲げ、ピョコピョコと曲げた。つまり、世界的に誰でも分かる手話の技法で「私の後ろに付いて来なさいよ」の意味だ。足が長く金髪で長身の女の子の背後から大きなバッグを肩に担ぎピッタリと付いて行った。女の子は階段の傍の小部屋をノックすると、中から初老の男がドアーを開いて現れた。男は年が50歳くらいで、まず女の子に「どうした?」とでも言うような態度を見せたが、直ぐに女の子が振り返ってショージを見たので、それに気が付いた男はショージをじっと見た。

 ショージは声を上ずらせながら少し緊張してそのロシア人の男に英語で話しかけた。「あ、ハロー!アイアム、ジャパニーズ…キャナアイ テイク バレエレッスン?」男は斜めに頭を傾げてショージを見ている。その姿がまるでショージが飼っていた犬に説教していた時、人間の言葉が分からない時に首を斜めに傾けていたのがそれにそっくりだった。突然知らない男から英語で話しかけられた芸術監督の顔には「お前の言葉は一体、何処の国の言葉?」とでも言いたげだ。

 ショージは次にロシア語で「ヤ ハチュー ブメ-スチェ ス ヴァミ ザニマッツァ クラ~サム?」(私はあなたがたのバレエレッスンを受けたいのですが…よろしいですか?)これはただ単に知っているロシア語の単語を並べただけであったから、これだって理解されなくても当然だった。すると意外にも男性は頭を縦に振って、「ヤ、ディレクトール…ミニャ ザブートゥ ゴルデーエフ…。ダー、モーシュナ!パジャールイスタ。」(私がディレクターです。私の名前はゴルデーエフ。どうぞ、レッスンに参加しても良いですよ)ショージは頭を下げて礼を言うと、目の前のトイレで30秒後には稽古着姿になった。


教鞭を執られる先生

女の子たちが向かう方向に一緒に後ろから付いて行くと、「おおーっ!立派な舞台じゃないかっ!」そして意外に沢山のダンサーたちがそれぞれにウォーミングアップをしており、舞台上に設置された移動バーの数を見て、このバレエ団が大所帯であるのに驚いた。男性ダンサーたちはあまり見栄えのしないレッスン着を着ていた。彼らは無言で何処となく疲労感を感じさせる雰囲気で床の上でストレッチをする者もいれば、バーに足を掛けてレッスンの教鞭を執られる先生が来るのを待っている。

 やがて静かに現れたのは背丈が非常に小さな老婦人だった。しかも足が恐ろしいほどエックス脚で、はっきり言って可哀そうになるほど内側に折れ曲がっており、歩くのさえままならぬ様子である。頭髪が栗色に染めているが、1950年代のファッション雑誌に出て来そうなヘアースタイルで、ショートヘアーでいながらクルクルとウエーブが掛かって頭の天辺に向かって髪が盛り上がっている。そして体形はちょっと小太りだ。先生は杖を突いていた。

 ショージはこの時に「あれ…この女性と何処かで会ったことがあったかな?いや、確かにある…何処だったか…絶対に僕はこの女性を知っている!」そう感じた。やがて舞台のど真ん前の場所に、さっきショージが「レッスンを受けさせてください!」と頼んだ男性デレィクター(芸術監督)が老婦人先生を大切そうにゆっくりと静かにエスコートしながら舞台のど真ん中まで連れて来ると、すっ飛んで端に行き、また急いで椅子を持って現れた。その椅子はその監督が座るものではなく、教鞭を執られる老婦人のためにわざわざ持って来たものであった。

ショージは近くにいる女の子に「トゥダー…エタ ジェンシナ ペダゴーギ、カクアナ ザブートゥ?」(向こうの…あの先生の名前は何と言うの?)すると女の子は誰にも聞こえないくらいに静かな声で「ドジンスカヤ先生よ!レニングラードからゲストで来てくれているのよ…ほら、レッスンが始まるわ、前を向いて!」と、ディレクターにでもばれたら怒られでもするかのように声を押し殺している。

ショージはその女の子の言った先生の名前を聞いて、ぶったまげた。「お、思い出した…!あの先生は僕がレニングラードに侵入した時に僕はキーロフ劇場に入る事を許されなくて、無念の気持ちのままホテルへ帰ろうとしたら劇場の真向かいにある、もう一つの劇場にモスクワ国立バレエ団がゲストで来ていたんだ…!そして僕はそのバレエ団でレッスンに参加した時、そのレッスンを教えていたのは…バレエ史に残る偉大で有名な…こ、このドジンスカヤ先生だったんだ!ま、待てよ…モスクワ国立バレエ団?ここはモスクワ…あっ!もしかしたらこのバレエ団は…」そう、このバレエ団こそ、ショージが以前、レニングラードで偶然にもレッスンさせてもらう事の出来たモスクワ国立バレエ団だったのである。


モスクワでの最初のバレエレッスン

ドジンスカヤ先生は通常のバレエミストレス(指導する立場の女性の先生)とは違って、実際に自分が動いて見せるのではなく、言葉でしか伝えないようであった。舞台の一番奥にいるショージからは遠く、舞台の前面で客席に背を向けて座っている先生は蚊が泣く様な小声なので意味が不明で、説明が分らないまま、いきなりピアニストが演奏をし始めた。それに合わせてドジンスカヤ先生は手を動かして「アー、ラース…!」これはロシアのバレエの先生がレッスンを始める時や、動く瞬間などに使う本来の数字の「1」の意味なのだが、本来のロシア語の数字上では「1」はアジンと言う。何故、「ラス」と言う言葉を使うのかは今のところショージも知らなかった。しかし、とても響きの良い言葉だ。

 一斉に全ダンサーがバシッと足のつま先を完全に180度に開き、一番ポジションに用意をしてバレエの稽古で必ず最初に行う動作のデミプリエ(両膝を曲げること)に入って行く。

ヨーロッパの何処に行っても外国人という事を意識させられ、言葉の壁があったショージにとって、バレエをしている時だけが、自分自身が存在しているという事を実感した。常にショージの脳裏に付きまとい悩み続けた自問自答の「何の為に生れて来たのか?お前はただの肉の塊なのだ…」から抜け出せる唯一の脱出口であった。今こうして見ず知らずのショージをも混ぜてもらい偉大なドジンスカヤ先生、そして素晴らしいダンサーたちと一緒に踊る事が出来るというのが何と幸せな事なのだろう!

 ピアニストの両手で強く叩きつけるように演奏されるピアノの音と共に、ダンサー同士が同時に命のありったけを燃焼出来る…これこそが、ショージをまた明日に向かって生かせてくれる機動力になり、それがあるからこそ、もっとやろう、頑張ろう、生き抜いてみせる!と、大袈裟になるかもしれないが勇気を湧かせる事なのだ。「ああ…バレエって本当に素晴らしい…こんなにも力をくれる…バレエをやって来て本当に良かった!」と、ドジンスカヤ先生のレッスンの始まりにはそう思っていた。ところが、段々とレッスンが進行して行くうちにとんでも無い事になり始めた。周りのダンサーたちは平然とやっているドジンスカヤ先生のステップの組み合わせが恐ろしく難しくなって来たのだ。

 そしてあまりにも複雑で分からないものだから、自分の前のダンサーや周りのダンサーの動きを盗み見している内に、そのダンサーたちの半端じゃない才能に目もパチパチとさせながら、「げ~っ!何じゃこのスーパーダンサーたちは!?」段々と身体の震えが起き、

足がもつれ頭が真っ白になった。

 このバレエ団の中にはまだ若い、18,19歳のようなダンサーたちもいれば、かなり歳をとっていそうなダンサーもいたが、一つ共通して言えるのは、このダンサーたち全員が半端じゃ無いほど凄いと言う事だ。女性も凄けりゃ、若いのもおっさんダンサーも凄過ぎる!そう言えばレッスン前に、女の子に頼んで芸術監督の部屋に連れて行ってもらったけれど、あの小部屋にいた芸術監督を前にショージは緊張していたので、「レッスンを受けさせてください…」とお願いするだけで精一杯であったが、「ミニャ ザブートゥ ゴルデーエフ…」って確かに言っていた。ゴルデーエフってボリショイバレエの花形スターでショージが憧れていた、スーパーダンサーのゴルデーエフか?「んぎゃ~!僕はゴルデーエフと喋ってたんじゃん…!」

レッスンを終えて気持ち良く,タオルで汗を拭き取ってから着替えをした。こんな素晴らしいレッスンを放っておく手はない。明日も、そのまた次もショージは来る気でいた。バレエ団の芸術監督をしているヴァチェスラフ・ゴルデーエフ氏に向かって頭をペコリと下げて、「スパシーバ ボリショイ!イズビニーチェ…モ-シュナ イシチョラス ザーフトラ、ザニマッツァ ウ ヴァス?」(どうも大変ありがとうございました!すみませんが、明日もう一度レッスンさせて頂きたいのですが、宜しいでしょうか?)

 ゴルデーエフ氏が静かに頭を頷かせたように拝見した。これはショージだけの勘違いかもしれなかったが、いずれにしてもショージは必ずやって来る気でいる。監督の返事がどうであろうとショージは来るつもりだ。

 気が狂ってしまいそうなほど限界温度の寒さの中、ショージはそのままボリショイ劇場の関係者入口に向かった。あそこには4人の侮る事の出来ない爺さんたちがいるが、ショージはそんな事にはお構い無しであった。爺さんたちは爺さんたちのしなければいけない任務を遂行すれば良いし、ショージもしなければいけないショージの目標を実行するのみだからだ。

 「今日は何としてでも劇場内に入り込む…!」である。しかし色々と考えたのだが、爺さんたちを突破する手立てが思いつかない。それでも兎に角、行ってアタックするのみか。「よしっ、爺ぃたちよ、決闘だ~!待っていろよ~!」


怒りの爺さん

 モスコウスキーバリェット(モスクワ国立バレエ団)の公演している劇場からは、それほど遠くない位置にボリショイ劇場がある。さっきの劇場にしても館内は何処でも温かいので、外の異常なまでの寒さには震えが止まらない。が、割合直ぐボリショイ劇場に到着したショージは、極々当然のように関係者入口に入った。ここは二重の入口になっており中に入って行くショージはさも劇場のお抱えダンサーの様に「ズトラストブチエ~!」(こんにちは~!)と4,5歩行ってしまおうとしたが、ショージの耳が敏感に反応したのは爺ぃたち4人の内の誰かが椅子を蹴って飛び出そうとした音だ。

 瞬間にショージはクルッと反転した。すると案の定、爺ぃ一人が「あっ、お前は…!」ショージは間髪を入れずに遮った。こういう時こそ、タイミングと言うものが大事なのだ。「あー、こっちにあんた方は座ってたんだよね…ハハ!忘れてた!今日は、ここで待たなきゃいけない人がいるから、暫くここで待たせてもらいますよ!」

 すると、爺ぃ4人共はショージの事を小悪魔が出現したかのように身を構えググッと眉を吊り上げて、口元がへの字になった。一人の爺ぃがショージの胸倉を掴もうとする手をやや下げて、爺ぃが問いかけて来た。「な、何?ここで待たなきゃいけない人だと?お、お前が待たなきゃいけない人とは誰の事だ!事と次第によってはぶん殴るぞっ!」

ショージはいきり立っている爺さんを宥めるようにゼスチャーで両手の平を下げ降ろしながら「モメントゥ パジャールイスタ!二ビスパコイシエ!スパコイニエ…ダバイ チ スパコイニエ…」(ちょっと、心配しなくていいからさ!落ち着いて…落ち着いて…)

 すると爺さんの目が見る見る吊り上がり、「は、早く言えっ!お前は誰に用があるって言うんだ!?お前なんかに用がある人間はこの劇場にはおらんっ!」ショージは爺さんの顔を済ました顔で覗き込み、「ほ~、じゃ言うけどね…」実を言えばショージにはここに用などある人はいなかった。


拍子抜け

だが、口という身体の器官の一つが脳と言う器官の命令も待たずに勝手に爺さんの顔を見た瞬間に動いてしまったのだ。 立ち上がっていきり立っている爺さんを前にショージの口から出てしまった言葉とは…。「んじゃ、言うけどね、僕はマエストロ・ユーリー…あ、そうそうミスターグリゴローヴィチに用があるんだ!だからここで待たなきゃいけないんだよ!」ユーリー・グリゴローヴィチとはボリショイバレエ団を率いる芸術総監督であり、世界中のバレエ界の頂点に君臨している人間なのである。その出し抜けの言葉に爺さんは完全に面喰って、「お、お前、今何て言った!?誰に用があるだと!?」ショージはもうろくした爺さんの耳に向かってもう一度「だから…マエストロ・ユーリー・グリゴロヴィチだって!」

 立っていた爺さんは静かにそのまま向こうの椅子に戻り、4人の爺さんは何やらヒソヒソと話していたが、やがてショージの存在の事など無かった事のように黙ってしまった。ショージは「ありゃ?」ちょっと拍子抜けして、絶対にそのまま4人に担がれて、外に投げ出されると思っていたから、身体が硬直していたのだ。「な、なんじゃ?どういう事だ!?」

 ここでそっぽを向いている爺さんたちに「分った!じゃ~ここで待っていてもいいって事か!」とバッグを床に下ろし、壁にもたれ掛かっていると、またもや爺さんの一人が「おい…そこの!お前がマエストロをここで待っていても会えるわきゃねえぞっ!マエストロはここからは出入りしねえからな…」ショージは爺さんのボソボソっと言った言葉に驚いてしまった。「な、え~!?じゃあ、どっから入って来るのさ!?」

するとさっきの恐ろしいまでの剣幕も何処へやら…急に打って変わって態度が変わり、静かな口調で、「マエストロはマエストロだけの通る事の許された門がある…そっちはわし等とは関係が無い…わし等はここが仕事場だからな…マエストロに会いたきゃ、反対側の門に行くがいい!いずれにせよ、会えるか会えないか、それもわし等には関係の無い事だ…行け、糞坊主…」

 世界のバレエ界のトップに君臨するボリショイバレエの芸術監督マエストロ・ユーリー・グリゴローヴィチ氏との面会…という、自分の口からつい出てしまった「出まかせ」に流石に自分でも呆れた。それ以上その関係者入口にいる理由も自分で消してしまったから、「ま、これも今日の定めか…」と諦めた。「こっちの関係者入口にはまた明日でも違う理由を考え出して来るとしよう。」

 今日は爺さんの言った、「あっち側」のその監督たった一人だけに許された門でも見てから、プロスペクト・ミーラの公園で物々交換をやっている市場に行き、ホテルから持って来た商品で商売でもやりに行こうと決めて、爺さんの言った通りのボリショイ劇場の反対側に行ってみた。劇場の外では雪がたくさん降って来た。「寒い…マイナス38度か…一人だけに許される門か…まるでウィーンのホーフブルグ宮殿の帝王の門みたいだな…そう言えば…」この時ショージはザクザクと凍り雪の上を歩きながら、ふ…とショージが以前に訪れたオーストリアの首都のウィーンにあるホーフブルグ宮殿での友人の話を思い出してしまったのだった。


ウィーンの王宮

その話しとは…オーストリアの首都ウィーン、この街の真ん中にホーフブルグという王宮がある。今でも王宮の前には大きな道が広がって、そこには美しい馬車がまるでお伽話のように客を乗せて走っているのだ。馬に鞭を打つ御者はシンデレラ姫の話では確かネズミになっているが、ここウィーンは格好の良いおじさんがまだ皇帝のいた当時の衣装を纏い、客を宮殿に送り届けてくれるのである。当時を想像させるのに十分であり、非常に美しい帽子を冠った御者で、一度乗ったら永久に忘れる事が出来ないだろうな…と、ショージは道の横の歩道から眺めていた。ショージは貧民ダンサーなので、眺める事が出来る、それだけで良かった。

 さて、王宮ではショージの知り合いのコンサートピアニストの友人が案内係を務めてくれたが、そのピアニストの話ではここにはハプスブルグ家代々の人が暮らしたそうだ。マリー・アントワネットもここに滞在したそうで、様々な有名な音楽家が演奏会を開いたそうである。その中にモーツアルトもいたし、シューベルトもいた。ただ、一貫して言える事は音楽家の誰しもが裏側のキッチンからしか入ってはいけなかったと言う話である。正面に位置する非常に大きな玄関は門になっている。そこは王しか通ってはいけないのだと友人は説明した。ショージとピアニストが王宮の裏側に行くと、今でもその名だたる音楽家のお墓があった。

 そのお墓を前にショージの友人のピアニストが話した。「モーツアルトはね、卑しい奴だったらしく、ここキッチンで必ずつまみ食いをして、コンサートが終わってから帰り際にも食べ物を持ち帰るような男だったらしいよ。そしてシューベルトはね、変態だったんだ…」ショージの友人のピアニスト自身は正真正銘の変態であったがシューベルトが変態なのかどうかその真相は分からない。


ベートーベン

 ショージの友人のピアニストの話は実に興味深いもので、モーツアルトやシューベルトに纏わる(まつわる)話の後に、こんな事を言った。王様が色々な音楽家を招いては演奏会を開いたのだが、その音楽家たちには飽きてしまい「今度はベートーベンを呼べ…」と王様が希望した。早速ベートーベンの家に執事が走り「王さまがあなた様をお召です…是非とも王宮に来て頂きたいのですが、宜しければ馬車を向かいに差し出しますので…」するとベートーベンは頷いてその執事の要請に返事をした。「わかりました…では、次の演奏会には私の新作を携えて王宮に伺いましょう…その時に馬車を宜しくお願い致します」

 そして演奏会の当日に馬車が予定通りにベートーベンを迎えに行き、王宮の中庭を通り、馬車の御者はいつも通りに裏側のキッチンにと続く歩道に馬車を止め「ベートーベン様…お着きになりました…では、ご成功をお祈りしております…」

 するとベートーベンは静かな口調で「馬車を真っ直ぐにあの門の下に着けなさい…。」すると御者は真っ青な顔つきで「な、なんですと!?あの門の下にですと!?そ、そんな事が出来るわけがないじゃないですか!あの門は帝王しか入れないのをよもや、お忘れでは無い筈…そんな事をしたら、そんな事をしたら…!」

 ベートーベンは全く動じずに「そうか…帝王しか入れないのか…。ならば尚更、あの門を潜る資格が私にはあるのだ…。そう、あそこの下に馬車を着けたまえ…」御者は真っ青になりながら、ベートーベンの言う通りに帝王の門の真下に馬車を着けた。

 そして御者は震えながら、馬車から降りるベートーベンを見つめた。ベートーベンは腕に新譜を抱えながら馬車から外に出て、御者に一言礼を言いながら、言葉を付け加えた。そのベートーベンの言葉はショージさえ震撼させる強い言葉であった。


帝王の門

新譜を抱えたベートーベンは御者が真っ青になって震えている顔に静かに笑みかけ、「あの門が帝王の門ならば、私には入る資格があるのだ…何故ならば私は音楽の帝王である。君は私が帰って来るまでそこで待っていてくれ給え…」そう言い残すと、ベートーベンは門に続く敷石を踏みながら入って行った。その後ろ姿を黙ってじっと見守る御者…。

 そして宮殿の広間には既に王さまもお妃も、そして皇族やら、続く伯爵、侯爵やらの貴族たちはベートーベンが来るのをワイングラスを傾けながら待っているのであろう。いつもの音楽家たちがそうであるように、皆はベートーベンも音楽家どもが入って来るであろう入口から来るのを当然として待ち受けていた。ところが、ベートーベンはあらぬ方向から入ってきた瞬間、一斉にどよめきが起こった。ベートーベンが入って来たドアーは、帝王以外の何びとも通る事は絶対に許されない帝王の門へとしか続かない廊下であったからだ。

ベートーベンは辺りのシーンと静まり返ったドレスに着飾った人々や紳士にも目もくれず、真っすぐにツカ…ツカ…とピアノへと歩み寄る中、執事が慌てふためいて会場から走って出て行った。執事はキッチンから外に出て正門に回ると、その階段の下で待っている馬車の御者に「お、お前は何という事をしでかしたのだ!?お前のようなこの道のベテランが何故、帝王の門に馬車を寄せたのだ!」

 すると御者は震えながら、ベートーベンの言った事をそのまま執事に告げた。執事は暫く呆然としていたが、演奏会に戻りピアノの演奏を聴いている帝王に、御者の言った通りの事をそっと耳打ちした。帝王はコクっと頷き、そしていよいよベートーベンの演奏が始まった。

 その見事な旋律、雄大な流れ…帝王は目を閉じ、その人間の魂を揺さぶるベートーベンの迫力ある演奏に心を奪われながら聴き続けた。やがてベートーベンの演奏が止まり、ピアノを弾き終わった。


私は音楽の帝王である…

 コンサートを終えたベートーベンはピアノの蓋(ふた)をパタンと閉めると、新譜を持ち黙ってそのまま脇見もふれずに、沢山のレディーやジェントルマンたちの間を通り抜けたが、人々はその素晴らしい音楽に魅了され、拍手喝采が鳴り止まなかった。そして驚く事にベートーベンは何食わぬ顔で、またもやあの帝王の門から消えて行ったのだ。

 しかし皇帝は何も言わず、彼が去った後に「ベートーベンか…あれも朕の門を通る資格があるのだ。何故ならば彼こそ音楽の帝王なのだから…」

その感動の話を聞きながらショージはホーフブルグ宮殿の帝王の門の下の前でその光景を頭に浮かべながら、「そうか…ベートーベンの肝っ玉も凄けりゃ、その帝王も太っ腹だな…」と溜息を吐いた。ここで話はモスクワのボリショイ劇場に戻って行く。


エンジェル

マイナス38度の豪雪に変わりだした天気の中、ショージは芸術監督のユーリー・グリゴローヴィチ氏だけが通る事の許された門の前に佇み、もしグリゴローヴィチ氏に会えたとしたならば何と言おうかと考えた。右手をサッと差し出し握手の用意…「これじゃ、あんたと俺は対等だ!の意味になっちゃうか…それとも、ハ~イ、アイアム、ショージ!アンド アイ ノウ ユー!こんな軽薄な言動をバレエ界の頂点に立つグリゴローヴィチ氏に言ったら彼はどういう表情でどんな言葉が返って来るか?ああ…馬鹿ほど怖いものは無い。」

 グリゴローヴィチ氏にだけ許された門の前に佇むが、そこには門衛などは一人もいない。中側から自動でロックされる重い門だ。ガラスドアーから中を覗き見て少し緊張しながら考えた。「果たして僕は世界の頂点に君臨するユーリー・グリゴローヴィチ氏に会えるのかな…」不安で一杯だった。勿論約束なども取りつけておらず、ショージが勝手に押しかけて来ている訳だからグリゴローヴィチ氏には会えなくても当然である。

 そしてそこにいる事、僅かに3分だった。中に誰かが通る姿を発見した。紛れもなくバレエダンサーで稽古着のままである。ショージさえ、モスコウスキー・バリェット(モスクワ国立バレエ団)で既に稽古を済ませて暫くの時間が経ち、爺さんたちとも関係者入口で再会して来た事を時間的に考えれば向こうに歩く女性ダンサーが稽古を既に終えていても何ら不思議はない。レオタード姿で歩いているのはリハーサルの合間なのかもしれない。

 ショージがドアーの前に突っ立っていると、通り過ぎようとした女性がドアーの外側に立っているショージに気が付いた…と、2人の目が一直線に繋がった。だが小柄なアジア人を見て「何よ、あのノミみたいな人は?」と過ぎ去ったとしてもおかしくはない。このケースも十中八九そうであろう…とショージは予想した。この門は芸術監督以外は開かずの門なのだからだ。

 しかし「お~っ!」彼女のつま先がこちらに方向転換した。そしてこっちにツカツカとやって来る。「そうそう…こっちまで、こっちまで…」この瞬間にエンジェルがショージに降りて来たのだ。チャンスというのは突然にやって来るものなのだ。そして人生に一度しか無いチャンスは逃す訳には行かない。遠慮などしたら、もう二度とラッキーは来ないかも知れないからだ。「でも、もしかしたらドアーの前で反転してまた行ってしまうかも知れない…」

 ショージはガラス越しに黙ってその電気も点いていない暗い通路を一直線にショージに向かって来るバレエダンサーをじっと見た。


グリーンの瞳

 もし、彼女がショージに向かって来なくて、こっちの方向に違う用があって反転してしまうのならショージはガラスを叩こうと決めた。「お~っ、来た!」女性がドアーの前でロックを外した。彼女がショージのために開かずの門を開いたのだ。ショージは開いたドアーの前に立って呆然と女性を見つめた。するとショージの想定していた「何か用なのですか?」の言葉では無く、彼女はショージを見るなり、「まあ、あなたなの!?久しぶりだこと!」と言いながらショージを羽交い絞めにするようにグッとダイレクトに彼女の胸に抱き、頬に熱いキスまでしたのだ。

 ショージは驚きが頂点に達し、何が起きているのかサッパリ分からなかった。ショージはこの世界的なバレリーナとは面識は無かったからだ。彼女の完全なる勘違いである。これはショージの憶測に過ぎないが「ボリショイバレエ団、または個人的にこの女性ダンサーを日本に招聘した人と勘違いしたのか…?」だが、その女性のグリーンの瞳にウットリとしながら、どんな勘違いであろうと、絶世の美女に抱擁されながらキスを受けるのは男性にしてみれば誰だって嬉しいものである。ただ興奮で頭の中が真っ白になってしまった。

女性バレリーナはショージの顔の前に顔を近付けながら、「でも今日はどうしてここにいるの?」ショージは茫然としながら、「グ、グリゴローヴィチ氏に会いに来たんですが…」ショージの返答も良く考えたら、おかしなものであった。全く見ず知らずのそこら辺の馬の骨が約束も取り付けていないのに、バレエ界の神様と崇められている世界のグリゴローヴィチ氏に会いに来た…と言っているのだ。

 しかし、ショージの目の前の美女は「あら、そうなの?でもマエストロは今日、劇場にはいないのよ。残念ね…でも、私が中を案内するわ、私と一緒に来て!」そう言いながらショージの右手の肘の中に彼女の腕がスルッと入り、まるでカップルの様にショージをその「帝王の門」…ならず「芸術監督の門」から劇場内へと入れた。グリーンの瞳…ショージより明らかに年配だがロシア人にしては小柄で絶世の美女だ!「ああ、とうとう僕はボリショイ劇場の内部に入るのか…」


赤い宝石

 ショージはと言えば、左手で大きく黒いバッグを持ちながら、「これは夢か…?」と、頬っぺたをつねりたくなった。このような摩訶不思議な事はショージに取って生涯で1度しか起こらない幸運を超えた奇跡としか言いようがなかった。「エンジェルよ、ありがとう!」暗い廊下を歩きながら、このボリショイ劇場の地下内部にバレリーナがショージの右腕に彼女の腕を組んで誘導してくれている。

 ボリショイ劇場の地下には様々な部門があり、鍛冶屋みたいに鉄を打っているセクションやシューズの生地や底の皮を大量に保管してあり、そこでもトゥシューズやバレエシューズを作っている人々、大工のように足場を組んで大道具のセットなどを作っている巨大なスペースの場所もあった。驚いた事に劇場のスタッフが買い物出来るスーパーマーケットのような店までもあるのだ。「一体、ここは要塞か!?」

 もし国の有事(戦争)があったとしても、この中だけで暮らしていけるのではないかと思わせるような驚くほどの設備がギッチリと抱え込まれているのである。ショージの腕に自分の腕を組ませて歩き続ける美しい年配のバレリーナは細く長い廊下をぐねぐねと曲がっては折れ、そしてまた歩き続ける。ショージはこの複雑なルートをもう覚えていない。ただただ、この美女に誘導されるがままであった。

 そしてパーティー広間のような場所に来た。そこには数十台の丸いテーブルに白いテーブルクロスが敷かれ、その上にはなんと、相撲の優勝祝いの時に総理大臣から渡される銀の大杯の様な皿がドーンと置いてあり、山の様に赤い物が積んであった。

 女性に手を引かれて傍まで行くとそれは無数の赤い宝石…つまりイクラが山のように盛ってあるのだ。「げ~っ!?これ全部イクラじゃん!」

 この大広間は劇場のスタッフだけでは無く、関係するVIPの客人も入る事の出来る広間だ。するとグリーンの瞳の美女は「私はこれからリハーサルに行かなきゃ…じゃ、ね…」名残惜しそうな目線でショージに告げた。その時になってショージは「ハッ!」と気が付いた。「こ、この美女こそが…」

この女性の顔をまともに正面から見れば、何処かで見覚えのある華やかな顔立ちだった。「あっ!こ、この人!」ショージは意を決し聞いてみた。「あなたはリュドミラ・セメ…」すると目をパッチリと開いてショージを見つめながら、その美女はゆっくりと「カニヤーシュナ!ミニャ ザブートゥセメニャーカ!ニポンメニャシュ ミニャ―?リュドミラ・セメニャーカ!」(勿論!私の名前はセメニャーカよ!あなた、忘れてしまったの?リュドミラ・セメニャーカよ!)

 その優しい性格が表れていそうな高いトーンながらも、鼻に掛かった甘い声が終わらない内にショージは声が出なかった。心の中で、「ンギャ~っ!!リュ、リュ、リュドミラ・セメニャ~カ~!ドッヒャ~!」ショージは心臓が破裂しそうになった。ショージはこのセメニャーカとバリシニコフの2人のキーロフバレエ団時代のドンキのパド・ドゥなどをビデオで見て大ファンだったのだ。「なんて可愛らしい人で、チャーミングな女性なんだろう。その憧れのセメニャーカと僕はつい今の今まで腕を組んで歩いていたんだ!」しかし人間とはあまりに夢の様な憧れの人が傍にいたら、と言うよりも鼻と鼻がぶつかりそうな近さだと案外に気が付かないものなのかもしれない。「それともそんなのは僕だけか?」グリーンの瞳の美しく小柄で痩せた、雰囲気の温かいバレリーナのリュドミラは行ってしまった。

 貴賓室の広間に一人取り残されたショージは、テーブルクロスも眩しいとても大きな丸いテーブルに座って暫くボンヤリとセメニャーカの事を考えていたが、目の前には巨大なイクラの山だ。巨大な銀杯の皿に鮭数十匹分のイクラを前にして、ショージの巨大な鼻が敏感に反応した。そして脳がショージにこう言った。「遠慮しなくても良い…好きなだけ食べても良いのだ!お前はイクラがこの上も無く好きではないか。涎など垂らしていないで、頂ける時にはしっかりと頂きなさい!」

 不思議なものでイクラを見たらリュドミラの事が一瞬どこかに吹き飛んだ。ショージは小皿を持って傍に置いてある薄いパンを取り、その上にバターを塗った。そして大きなスプーンでガバッとイクラを乗せると口にパクッ。そしてパクッ、パクッ!ちなみにロシア語では食べることを「パクーシャチ」と言う。

 腹は満腹になって幸せで絶頂になった。「あ~、タッパ持ってくりゃ良かったな!」しかし、そんな卑しい考えをしていたらきっといつか罰が当たるのも知っていた。


立ち上がる巨人

 口の周りをバターとイクラでベタベタにしながら、「おっ!こんな所でグルメに浸っている場合じゃなかった。僕は一体何をしているんだ!」と目的をうっかり忘れてしまっていた。慌ててその貴賓室から出て、ボリショイ劇場のスタッフが通れる内部をうろついた。すると「やった!」いつの間にか舞台の裏側に来ていた。そこから正面方向に廻って客席へと向かった。音がジャンジャカ鳴っているところを見ればどうやら舞台上ではリハーサルが行われているのであろう。リュドミラも「私、今からリハーサルに行かなきゃいけないから…」と言っていた。「じゃあ、きっと彼女も舞台上にいるのかな…」

「よしっ、ここが客席に繋がるドアーに違いない…」重いドアーを開くと「おーっ!」ボリショイ劇場の舞台上では衣裳を着けたダンサーたちの熱いリハーサルの真最中だ。そして客席のドアーを渾身の力を込めて「エイッ!」と開け、入って行くとショージはまず舞台を見てから客席に目線を移した。

 するとそこには数十人のダンサーやらスタッフがそのリハーサルを見ていた。丁度その時、舞台上にアナウンスが入りどうやら小休止のようだ。ショージが顔をキョロキョロさせていると、客席の椅子から立ち上がった巨人が「おー!なんだ、ここに来ていたのか?」と向こうの方から声が掛かった。ショージはその巨人を見るなり、「おーっ!」

 勿論誰なのかは知っていた。それは紛れも無くアンドリス・リエパだった。このバレエ団のトップ契約のプリンシパル(最高ランクのダンサー)に昇格したてのホヤホヤで、西ヨーロッパでもダンスマガジンなどを賑わしている実に素晴らしいダンサーなのだ。

 彼はニーナ・アナニヤシヴィリと共にモスクワ国際バレエコンクールで堂々の一位に輝いたばかりで、彼も彼女もショージが所属しているスウェーデンのゴッセンブルグ・バレエ団に「白鳥の湖」全幕にゲストで数回ほど来ていたのだ。ショージとアンドリスはテクニックに更なる磨きを加える為にリハーサルの後には必ず稽古場に2人で残り、思考と努力を重ね、技術の向上のための開発を共にした、いわばブラザーなのである。と多分ショージは一人合点している。

 客席の椅子にはまだ沢山のアンドリスの同僚のダンサーたちが座っているのだが、皆、一斉に同じ方向に歩き始めた。アンドリスはショージに唐突に「あ、あのさ、これ見ろよ!」と椅子の脇に置いてあった物を掴むと、ショージの顔の前に高々と見せつけ、「いいだろ?買ったんだよ…。どうだ?すげーだろ?」と自慢たっぷりのアイテムはビデオカメラだった。つまりハンディカメラの初期モデルであった。偉く大きなビデオカメラだ。

 その当時はまだまだソビエト連邦には普通の人の手には絶対に持つ事の出来ない超高額電化製品で、モスクワでも滅多に見る事の出来ない代物なのだ。彼の巨大な身体の前では小型化のビデオカメラに見える。こんな優れ物を持っているのはこの世界の最高峰のバレエ団の中でもおそらくは彼のみであろう。しかし、アンドリスはいつ見ても実に格好の良い男だ。

「あのさアンドリス、お願いしたい事が…」と言い掛けた時、「あっ、俺の出番だ!急がないと…」アンドリスは舞台目がけて走って行ってしまった。「ああ…レッスンさせてもらえるようにお願いしたかったのに…ま、ここに座っていればまた会えるか…」とショージ以外には誰もいない巨大なボリショイ劇場の客席に一人で座った。

 それにしてもこうしてボリショイ劇場の中にまんまと侵入し、途中から見始めたこのバレエのストーリーも、このバレエ自体の名称も全く分からない。それと、はっきり言ってこのバレエは全然面白くない…と、これが、一ダンサーとしてのショージの感想だった。ボリショイならやはり古典が1番見たかった。そして世界中にそのボリショイバレエ芸術を広めた大ヒット作のバレエ「スパルタクス」を生で見る事が出来たなら最高なのだが。

結局、アンドリスが体操選手のような衣装を着けたバレエはボリショイバレエの芸術監督のユーリー・グリゴローヴィチ氏が振り付けた「ゴールデンエイジ」と言うらしい。日本名は「黄金時代」とでも言うのであろうか。やっている事は凄いのだが、今一つ、ショージはこのバレエが好きにはなれなかった。

 リハーサルが終わりショージもこの空間…つまり、劇場から出て行かなければならない。「ああ…アンドリスはもうこっちの客席には来ないのか…待てよ?舞台の後ろにいるかもしれないな!」急いで舞台裏に回ってみたが、もう誰もいなかった。仕方もなく劇場から出るしかない。が、大きな問題が2つある。この劇場に入る時に使った「帝王の門」から出て行けば何の問題はないのだが、それはエンジェルとも言うべき美女のバレリーナ、リュドミラ・セメニャーカに腕を組んでもらって通って来た迷路のような複雑な廊下の道順をショージはもう全然覚えていないのだ。

 そして更なる問題は、ダンサーたちの皆と同じように一緒に劇場関係者の入口から出ようと思えば、劇場関係者に向ける顔は良い翁なのに、ショージだけに向ける顔は恐ろしい鬼のような顔をした4人のバラエティーに富んだ爺さんたちと、晴れて再び御面会になってしまうという事だ。

 「だが待てよ…僕を劇場内に入れてくれたのはリュドミラなのだから爺さんたちに怒られる筋合いもないか…」それでも関係者入口で再び問題にならないように大きなダンサーたちと一緒にすーっと門を出た。外に出てから後ろを振り返り「爺ぃたちよ、まさか僕が劇場内に入っていたとは君たちもよもや気が付くまい。何て気持ちの良いことだろう!さ、僕にはまだやり残している事があるから行きますかっ、いざ、プロスペクト・ミーラの公園に!」

 そこにはショージの欲しい物がある。思いっきり毛が長いゴールデン・フォックスのシャプカ…そう、帽子があるのだ。しかし、もしかしたら既に誰かに買われてしまっているかも知れない。「いずれにしても、あそこで商売をしなきゃいけないし、あの帽子は飛びきり温かいんだろうな。持っている物が全部売れさえすれば、狸でもネズミの毛でも何でもいいから、紳士用の帽子を早く手に入れたい!今、僕がかぶっているのは、御高齢用の女性の帽子だからね…ハハハ!」


商売再開

 公園に着くと、早速、あのシャプカのおばちゃんを探した。おばちゃんは「帽子が売れたらこんなの所にはもう居るはずがないじゃないのさ!売れなきゃ、ここ居るってんだよ!」目を恐ろしく吊り上げて、怖~い顔をしてショージを睨んでいた。「もうシャプカは売れちゃっているかな…。おばちゃん、おばちゃんは…お~っ!いるじゃん!はははっ!おばちゃん、売れなかったんじゃんよ!よ~し、こうなったら僕もどこかで商売道具を並べるぞ!ん?よしっ、あそこのティーシャツを売っている人の隣に隙間が空いているから、あそこにしよう!」

 バッグからショージの選んだ、ヒット商品100選とは…そんなには無いけれど、グッズを取り出した。そして前回同様に黒いバッグの外側と中側を逆さまにして底に当たる平らな部分を上にしてグッズを並べた。歯ブラシ、歯磨き粉、ストッキング4つ、ポケットティッシュ20個入りを4個ずつに分けて5セット、カシオの腕時計3個、インスタントラーメン、カレー粉、まだまだ続いた。

 並べている傍から、隣にいるティーシャツを売っているおっさんが「おーっ!」と言いながら、自分の商売を放ったらかしてショージの商品の前に来て、いきなり客に早変わりした。「マイチキ、エト、スコーリカ パーパストイ?!」(おい、小僧、これ幾らだ?)おっさんが掴んだのはカシオの腕時計だ。やはり目敏い。こういう物には超敏感に反応した。

 すると通りがかりの人が次々に寄って来て、ショージがまだ並べ終えていないグッズを手にとっては「幾ら?」の連発だ。腕時計の値段はショージが言った前回の値段と同様のルーブルの値段だった。おっさんは3個共に即買いだった。「ほ…すんげ~!一気に3個売れた…!」そしてポケットティッシュも5セット完売…まだ店開きも済んでいないのに、商売成立だった。


強き事 岩の如し

 群衆の心理というのは面白いもので、周りの人々はショージのバッグを見ながら、次に何が出て来るのか目敏く見ているのだが、あっという間に歯磨き粉と歯ブラシは同じ人が2つとも買ってくれた。若い奥さんのような女性がストッキングを見て、「これ幾ら?」すると横のおばちゃんが、3つ掴んで、「これ頂戴!」もう値段なんか関係無いみたいだ。

 それもそのはず、ストッキングはこのロシアでは非常に貴重な物だったのだ。ショージはバッグから、ショージの食べるはずだった揚げ煎餅と柿の種の辛いオカキを出した。するとおっちゃんが「シュトエタ?」(なんだい そりゃ?)と不思議そうに尋ねた。「アー、エト、ヤポンスキー クレーチェル!」(これは日本のクッキー)と答えると、「ワッハハ!よし、買う!」とこれまた完売。そう言う事であっという間に全てが売れてしまった。

 この全ての売れた金を数えてみたが、シャプカ(ロシアの獣の帽子)の値段には届かない。半分の値段にも到底届かなかった、「後は交渉するか…」おそらくあの怖い、おばちゃんには交渉の余地は無いとは思ったが、ショージの切り札は何と言ってもドルだ。これだけは必殺のアイテムであるから、「よし、おばちゃんに直談判しよう!」

 ショージは店を畳んでおばちゃんの所に行くと、おばちゃんはショージの顔を見ても「ん?」とも反応しないし、微動だにしないで「きっつい目で僕を睨んでいるのはどういう訳だろ?これじゃ岩だよ…おばちゃんはストロング アズ ロックと辞書で引けそうだぞ!」おばちゃんの前の小さなテーブルには「お、あるある!」ゴールデン・フォックスの輝くばかりの毛がフサフサの帽子が堂々と置いてあった。「おばちゃんは多分、何の反応も見せないところからすればきっと僕の事なんかは忘れてしまっただろうな…んじゃ、もう一度値段を聞いてみるか?少しは安く言い違えるかもしれないし、もし前回よりも高く言ってきたら、この前はもっと安かったじゃない!」と振り直せるか。

 「あー、こんにちは…おばちゃん、これ幾らかな?」おばちゃんはヒキガエルのような顔つきで「あんた相当なバカ?この前、値段を聞いたんだろが!そんなに早く忘れるのかい!」「…?」ショージはおばちゃんを見ながら口から言葉が出なかった。「このおばちゃんは岩は岩でも、ただの岩じゃなかったか!」


ヨーダのようだ…

偉い剣幕のおばちゃんにたじろぎながら、「あ、あ…そうだよね…でもさ、やっぱりもうちょっと安くして欲しんだけど…」おばちゃんは他所の方を見ながら動きもせずに「あー、こりゃイディオート(バカ)だわ…。あんた、それも忘れているんかいな…。あたしゃーね!安くなんかしないって言ったんだよっ~!」

ショージはその度迫力と言うか、見えない気の力と言うのか、その声だけで後ろに弾き飛ばされた。「うわ~っ!あ、思い出したよ…た、確かにそう言っていた、その通りだよね…げ~っ!このおばちゃん、妖怪か!?」

 おばちゃんは何かモグモグ…とビニール袋に手を突っ込みながら、それを口に運んで食べている。おばちゃんを見ていると、スターウォーズに出て来たヨーダというキャラクターにも似ているし、日本の元首相の宮澤喜一にも似ている。マラソン選手の増田さんのロシアンバージョンのお婆ちゃん…と言っても過言ではない。ただ、目だけは妖怪だけが持ち得る恐ろしいまでの隙の無さと言い、近寄るものは徹底的に妖術で懲らしめる天下無敵の度迫力だ!ショージはテーブルの上の輝くまでの美しさのゴールデン・フォックスを見て、「もう一度被ってもいいかな?」と上目使いで見ると、こちらには目もくれずにしきりにビニールの中の物を食べながら、こくんと頷いた。

 ショージは目を凝らしてビニール袋の中を見つめると、「おっ!向日葵(ひまわり)の種じゃん!」急におばちゃんの顔がオウムにも見えて来た。フォックスをかぶると、「ああ…なんて温かいんだ…」そして頭に手をやると可笑しいまでにボワーンと大きく、まるで巨大なマッシュルームのように手に感じることが出来た。「ここに鏡があればな…」と思ったが、いずれにしてもショージの頭にピッタリサイズであった。「欲しい…どうしても欲しい!ヤ ハチュ~!」


ネゴシエーション(交渉)

 他にも色々なシャプカがあり、明らかに狸や、ちょっと見当も付かない野獣の毛のシャプカがたくさんあるのだが、ショージはこれだけが一番綺麗で気に入ってしまったのだ。おばちゃんはそんな事には全く興味も無いのか、それとも向日葵の種がそれほど美味しいのか、こっちには目もくれなかった。と思った瞬間「おいっ!買うなら金よこせっ!買わないなら邪魔だからあっちに行けっ!」と恐ろしいほど険悪な表情で口から向日葵の種の殻をペッと吐き出した。普通のお店の店員がこんなに酷い客とのやりとりをしたら、「ふざけんな~!」と客が切れて「おいっ!店の主人を出せ!」と喧嘩沙汰にもなりそうなはずだが、今は立場が完全に逆で、下手したらこのおばちゃんに張り倒されるかもしれない。

 「わ、分っているよ…ルーブルはこれしか持って無いんだ…」そう言いながら、おばちゃんにショージの売上げ全部のお金を出して見せた。するとおばちゃんは、それには非常に興味を示し、「どりゃどりゃ…?」そして直ぐに「あんた、こんなはした金でシャプカが欲しいってか?ふざけんじゃないよっ!全然足りないんだよ~っ!」

 ショージは両目を瞑りながら、「ひえ~っ!わ、分かっているよ…だ、だからさ、これでどうかな、あのドルで、そう、ドルで残りを払うってのは?」おばちゃんは、プイっと向こうを見ながら、「あたしゃ、そんな面倒な物はいらん!全額ルーブルで頂こうじゃないかっ!自分で勝手に何処かで両替して来いっ!そんなドルだ~?いらんわいっ…」

 もう、こうなるとこの妖怪…ではない、おばちゃんは箸にも棒にも掛からなかった。全く話しにならないのである。「この人、本当にロシア人か?普通、ロシア人ならドルと言った瞬間に目を輝かせるものなのに。ああ…こうなったら是が非でも早く両替に行かなきゃ!」 おばちゃんに「じゃ、両替に行ってくるわ!」と言うと、おばちゃんは興味無さげに「ヘッ…プッ!」と口から向日葵の種の殻をショージの方に向かって吐き出した。「あな恐ろしや…!」


おや?西洋人…それともアジア人?

「何処かに銀行はないかな…?」広いプロスペクト・ミーラ(ミーラ大通り)は片道が5車線ほどもある巨大な通りで、空気が灰色によどむほど、そこにはソ連の酷い車がボーボーと黒い排気ガスを吐き出しながら走っている。なんと酷い臭いか。「ゴホッ、ゴホッ!」と咳が出るほど本当に酷い空気だった。道行く人の数が日本などとは比較にはならない。

 そして驚くのはその多種の顔ぶれだ。金髪の西洋人みたいな髪なのに、顔がアジア人ぽい人もいればアラブ人もいる。かと思えば、かなり怖い人相のモンゴル人やベトナム人もいた。「モンゴル人って不気味なお面を着けているみたいですね…」などと言ってしまおうものなら、モンゴル人の人に「お前は自分どんな顔だと思ってんだっ!」と怒られるので、思うだけに留めておいた。

 それにしても本当に色々な人種が混じった大国である。世界地図を見ればこの国がどれほど大きな事かが一目瞭然だ。東はシベリアから西はドイツの方まであるのだ。北は北極海の方から南は中国近くやアラブ系の国々の近辺までだだっ広い。因みにこの当時のベトナムは共産主義であったから、ロシアには多数のベトナム人が入り込んでおり、中近東の方もコサックで有名なグルージア諸国やオデッサ地方の国もソ連に包みこまれていた。果てはトルコの東の方面までソビエトが無理やり侵攻して領地を分捕ったのだ。故に多種の人種が入り混じるのもなるほど…なのである。そこに日本人が侵入して商売やっているのであるから、ショージも自分の内面にあったふてぶてしさに自分でも呆れた。

「ああ、本当に何処か銀行は無いかな…?お、あれは銀行じゃないかな…よしっ、行ってみよう!あ、ポーチはちゃんと腰に…ん、大丈夫ちゃんと付いているし。待てよ…中身は無事か?チャックを開いて…よし、大丈夫だ。じゃ、銀行に突撃、行くぞ!」


モスクワの銀行事情

 ポーチの中の財布の少々のドル紙幣と、腹に巻き付けて誰にも分らないように隠してある内緒の財布には1ドル紙幣がたくさん入っていた。それを取り出し、ルーブルに両替するのだ。「今は何ドルが何ルーブルに両替出来るのかな?」電光掲示板では無く、四角いプラスティックの白いボードに数字を銀行員の手で並べ替える簡素な物であった。「銀行ならもうちょっと金をかけろよ!」と言いたいところだが、それよりも両替をするために為替の表示板をジーッと見つめた。

 ショージの他にもアメリカ人のツアー客みたいな人たちも数人並んでいた。ショージはドルを持って来ていて良かったと改めて思った。何故ならばここロシアでは限られた国の金しか両替出来ないのだ。例えばソビエトの時代では日本の金は両替など出来ないし、スウェーデンの金も駄目である。イタリアも駄目なのだ。アメリカのドルとスイス、イギリス、ドイツなどの主要国以外は駄目なのである。

今でこそ日本の金もイギリスのポンドやドイツのマルク…今や、ユーロになったが、大丈夫になったのはソビエトが崩壊してからだ。そう言った訳でショージがうろうろと策略を見つけながら彷徨っているこの時代では、ツーリストに優しくない銀行体制であった。

さて、ショージは数字にかけては何よりも強いと自分で自負している。暗算に関して言えば「神童」とまで呼ばれた事など無いものの、誰よりも軽い脳をフル回転させてドルとルーブルの両替を必死に計算した。およそ30分以上も掛かって、ある事にどうしても合点が行かなかった。

 「ん?1ドルがこのルーブルになるんでしょ?そしたら僕の稼いだルーブルは何ドルになるの??えーと、えーと…」ようやく大体の数字が頭の中に揃って来て、その不思議が解けて来た…と、その瞬間!


ショック!

 ショージの財布の中の市場で稼いだルーブルを全て取り出し、数えて見てから、また為替レートの数字を何度もチェックした。「こ、これって本当か…嘘だろ!?」ルーブルをドルに換算すると、丁度、ショージが売りさばいた商品を買った時の値段にピッタリだったのだ。「って言う事は、も、もしや僕は…げ~っ!100円で買った物を100円で売っていたと言う事と同じじゃん!んぎゃ~!じゃ、じゃあ、あんな寒い所でわざわざ商売なんかしなくたって、持っていたお金をそのまま、この銀行で両替していたら済んでいたっていう事じゃんか…ぎょぇ~!?タハハハ…」と声にならない言葉が口から出ながら「ンガガガ…」白目を剥き出して後ろに卒倒しそうになった。慣れない事をするものじゃないって言う事を勉強出来たわけか。ショージはベニスの商人よりも数段商売に長けているつもりだったのだが。「あんたバッカじゃない?」と言う話だった。

 もう済んだ話だから仕方がないが一気に気が萎えた。「ま、良いとしておくべきだ!貴重な体験が出来たんだから…一生涯、忘れる事の無い思い出を作ったんだし、ソ連の人々が何を欲しているのかも勉強出来たんだから…」と自分で自分を慰めてみても直ぐその後に、こんな勉強なんか金輪際するつもりはない!と自分に腹が立った。肩の力が抜けて尻にまで下がるほどショッキングな出来事であった。

 「それより、早くお金を両替しないと!早くしないとゴールデンフォックスが売れちゃうかもしれないぞ…いやいや、あんなに高価な物が売れるはずはないけれど、いずれにしても時間が勿体ないか。」ショージはロシア人なら数か月もかかって稼がなければならないたくさんのルーブルを持って、あの「ヨーダ」に似た妖怪こと、度迫力おばちゃんが待つ公園に走って帰った。マイナス40度に近い極寒のため、「歌でも歌って士気を鼓舞しなければ!カー、リンカ、カリーンカ、カリーンカマヤ…シャプーカ、シャプーカ、シャプーカマヤ~!おばちゃ~ん、あんたの好きな大量のルーブルを手に入れたぜ~っ!」


キリル文字

ショージはようやく念願のシャプカを手に入れる事が出来た。「何と言う温かさだろう…」外気温を全く感じなくなった。そして頭に手をやればその極上の毛の肌触りはしっとりとしている。なるほどこの様な極限的に寒いこの国には無くてはならない帽子なのだ。

 初めてモスクワに到着した際、空港で見かけた長身のイケメン男の頭の巨大なシャンピニオンのような異常な帽子姿にビックリしたが、実は冗談で被っていた訳ではなかったのだ。ショージも今ではこの温かさを知って、この地にいる限り手放そうなどと思わなかった。プロスペクト・ミーラ公園の市場に向かう前に、ボリショイ劇場の正面玄関に立ち寄り、今夜も何かバレエを公演するのかチケット売り場に行き確かめた。するとラッキーな事に「バリェット…」と見出しがプラスティックのボードに掲げてある。

 ショージはロシア語のキリル文字があまり読めなくて、難儀しながらどうにか読んでみた。「ギジャル…ジジャル…?ジ…」当たり前であった。そんなバレエは「ジゼル」しかない。そしてバレエ「ジゼル」全幕も拝見し、モスクワの夜を満喫した。だが、肝心要のショージの夢はまだ叶っていない。何としてでもボリショイバレエのレッスンがしたいのである。


1987年12月25日 可能性

 次の日になって再び朝早くからボリショイ劇場へと向かった。ここがショージならではの行動だ。普通の人であれば何か理由があるからその行きたい場所に向かうのであろう。それはショージも一緒で、ボリショイ劇場内に潜り込もうと向かった。しかしその目的は爺さんたち4人によって阻まれてしまい、終には担がれて関係者入口の外に粗大ゴミの様にポイッだった。

 彼らにしてみればショージも粗大ゴミもあまり変わらないかもしれないが。ショージだったら粗大ゴミの中から、使える物を発見するのは得意中の得意だ。普通の人ならここらで諦めるであろう。しかし、ショージは「帝王の門」から女性のトップダンサーであるリュドミラ・セメニャーカによって、まんまと劇場内へと入る事が出来た。またセメニャーカに入れて貰えれば良いのだが、どう考えてもそれは無理だろう。「どうにかまた入り込めないだろうか…?だが入ったところでどうするのか?」勿論、ボリショイ劇場のダンサーたちと一緒にレッスンをしたいのである。「しかし、どうやって…」結局、ここが最難関だ。爺ぃたちがいる限り、侵入は不可能である。ショージは必死で考えた。そして無理と分っていながら再びボリショイ劇場に行くしかないと決めた。

 爺ぃたち4人と再びドンガラガッチャンの騒動は起こしたくはないのだが、行かなきゃ可能性はゼロなのだ。ショージの思っているポイントとは、行けばもしかして何かのチャンスに巡り合える可能性がある訳だが、行かなきゃ可能性はゼロと言う事である。「じゃ、どっちを選ぶ?」と選択を選ばなければならない場合、ショージはまず行動に出る。普通の人なら劇場に入れるチャンスを作るために予め下準備をするだろう。しかしこの男は計画性0だ。

 ショージはこのモスクワに地震や災害のように突然とやって来た。下準備など全くしていない。そしてショージは既に再び関係者入口の前に到着した。二重の門を潜ると大騒動になる。そこで暫しの間、ダンサーたちが入るのを見届けようと関係者入口の傍で待ち構えた。この時点でもマイナス40度近い極限状態の寒さだった。

 ショージが立てた秘策は「ここでダンサーたちと一瞬で友達になるぞ!」であり、腹を括っていたが鼻水が顎まで垂れてツララになりかけている。


友だち作り

例えば何処の国であろうが誰であろうが、劇場の門前でダンサーたちと一瞬で友達になれる人はいるだろうか?仮にここがスイスやイギリス、またはフィンランドだとしたらまだ可能性は少しだけでもあるかもしれないが、ここはソビエト連邦のど真ん中のモスクワだ。共産圏の人々には笑顔など無いのだ。そして強烈に寒く、知らない人間なんかと一瞬でも時間を潰す人はいないだろう。

 共産圏では自分が暮らすのに必死で、他人の事なんかに構っている余裕は無いに違いない。「さてどうしたものか…仮に知らない人間が僕に話しかけ来たら僕は直ぐに友だちになれるだろうか…訳の分からない外国人で見かけが貧相で実に怪しい風体にしか見えないだろうな。しかも話す言葉が「あ~、う~…」の連発でまるで大平元総理大臣みたいじゃないか…う~寒気がして来た!さ、本気で考えなきゃ…どうやって話し掛けようか…。」

 ショージ空想の中でどのようにダンサーたちに声を掛けたら良いのかシミュレーションしてみた。「ハーイ!How are you!元気かーい?僕は君と友だちになろうと思ってここにこうしているんだよ!君はどう思う?さ、友達になろうよ!」

「これじゃ精神科に行った方が友だちではなくて、仲間がたくさん出来るに違いないか。こんな訳も解からない小さな変人を相手に止まってくれる人はいないかもな。あっ!来た来た、あれは女性バレリーナだな…それにしても随分と大きな女性ダンサーだな、ちょっと最初は男性のダンサーに話しかけるとしよう。」

 女性ダンサーがショージの前を通り過ぎる時、ショージの身長を遥かに超えているのを茫然としながら上目づかいで見送った。「今日はアンドリスは来ないのかな?彼が来れば話しが一番早いのに。おっ、あれもダンサーだな、よしっ、男だぞ!あの人…ん?ダンサーか?背中が丸くなっているけど、足が外股だし…兎に角、話し掛けて一刻も早くチャンスを作らなきゃ…!」


世界バレエコンクール金メダリスト

 向こうからやって来た男性ダンサーが関係者入口に近づいてくるにつれて、その容貌がはっきりして来た。この極限の寒さの中だというのに帽子もシャプカも被っていない。そしてその男は若くはなかった。40歳くらいか。頭の髪は前頭葉に辛うじて少し生えてはいるが、後頭部の髪が肩まで長く「落ち武者」のばさら髪みたいだ。しかもギトギトの油の様な物でべったりとしている。

 男がショージの直ぐ傍まで来た時にその顔はまるで鬼の様に怖い顔で死神の様な冷酷さをショージは感じ取り、話しかけるどころか顔を見るのも怖くなった。ショージが顔を向こうに背けようとした刹那、彼にギラっとした目で瞬間見られた時には背骨がゾワ~ッとし、悪魔にでも見られた様な怖さを全身で感じた。男が離れて行く時にショージはその後ろ姿を横目で見ながら「あー、話しかけなくて良かった…ふー」と溜息が出た。

後になって知った事なのだが、彼こそ世界的に有名なダンサーで名前をユーリー・ウラディーミロフと言う。モスクワ国際バレエコンクールで金賞に輝いた驚きのバレエダンサーだ。彼の神々しいまでの上半身と誰もやれそうにない神業的な空中での斜めの回転、更にはピルエット(こまのように回転する技術)からいきなり、パンシェ(片足を背中の後ろに高々と上げて止まれる技術)して回ってしまう突拍子もないテクニックだ。

 そしてクラッシックバレエダンサーと思えないような醜い足先をしている。(世界的なダンサーに対して失礼しました)しかし、彼の出場したモスクワ国際バレエコンクールの決選における審査員たちも「む~…これは困った事になったぞ!あいつはボリショイバレエの代表でこのコンクールに出て来たものの、何と野獣の様な足先…これじゃバレエダンサーとは言いづらいが…。しかし、ずば抜けたテクニックに唸るほどの強烈な個性!あいつに付ける点数はゼロか100点しかない…む~、これは困った…」と審査員全員が評議に掛けたと言う。そして彼はとうとう1位に当たる金賞に輝いたのだ。そんなユーリー・ウラディーミロフにショージはプレゼントしたいものがあった。「今回は持って来て無いからあげる事が出来ないけれど、シャンプーとリンス…これがあなたには絶対に必要かもしれない。」


ダンサーとしての誇示

 ダンサーに話しかければ、何らかの切掛けでボリショイ劇場の中に入れて貰えるのではないかという甘い期待を抱きながら門の前に立っていたが、ダンサーたちがオーケストラの連中と混ざって入ってしまったり、人相が怖かったり、そうこうしている内にどんどんダンサーが中に消えて行ってしまった。

 ショージは焦るばかりで前を通りすがるダンサーたちに話し出す切掛けが掴めなかった。と、ようやく若い男性ダンサーが向こうから来たので、ショージは急にバッグからバレエシューズを取り出して向こうからやって来る男性ダンサーに見えるようにしながら、足を開いて2番のプリエをしながら股関節が詰まっている時にするような仕草をした。明らかに「私はバレエダンサーなのだ!」と言う事を誇示するために他ならない。

 しかし、限界温度のマイナス40度の中で股関節を鳴らそうとした時に本当に股関節が「バキッ!」と音がして眼の玉が飛び出しそうになった。「ぎょえ~、痛~っ!」ショージのような見知らぬ男にいきなり声を掛けられれば相手も怪しむだろうが、バレエシューズを片手に2つとも持って二番でプリエしたら、ショージもそのような人に声を仮に掛けられたとしても安心して「あ、君もダンサーなのか…いやー、仲間じゃないか!」と思ってもらえるかもしれないからだった。

 恐らくそれも一人合点であろう。「あれ?」遠目で見ていると向こうから若そうな男ダンサーが…と思っていると近づいて来た男はおっさんだった。でももう怯んでいる場合ではない。

 「アー、ドウブレイ ウートラ!(お早う!)今日は何のリハーサルがあるのかな…レッスンもあるんでしょう?」と言いながら、これ見よがしにショージの汚いバレエシューズ見せつけるように、アキレス腱なども伸ばすような仕草までしながら聞いてみた。これを普通の人が見たら、「ちょっと、ちょっと何してんですか?もっと普通に動かないで喋れないんですか?」と言いたくなるだろうが、ダンサー同士なら分って貰えるのではないか…と自問自答していると、そのおっさんダンサーは反応した!人間は最後の最後まで結果は分からないのだから諦めてはいけないという事なのである。


小道具を手に持って

バッグがあるのだからバレエシューズをわざわざ手に持つのもどう見てもおかしい。しかし2秒であの人をこっちのペースに巻き込むのだから、小道具は絶対必要不可欠とショージは寸劇に出たのだ。そしてショージの期待通りに男は応えたのだ。「あー、今日は直ぐに舞台でリハーサルだ。明日がバレエ『アニョータ』のプルミエール(初日公演)だからな!今からドレス・リハーサルをやって今晩にはゼネラル・リハーサルだ、んじゃな!」と言って立ち去ろうとした。「はは~ん、やはり僕のバレエシューズを見て仲間と思ってくれたんだな!遠目で僕のプリエをきっと見ていたんだろうな…でも行かれちゃうと困る」 ショージは男を呼び止めた。「あ、ちょっと!あ、アニョータって、モダン?それともクラッシックなの?」すると男はまた立ち止まって「アニョータを知らないのか?ウラディーミル・ワシリエフの振付だ…クラッシックと言えばクラッシックだし、モダンかと言えばモダンだ…そんな事は自分で見て判断すればいいだろ…んじゃな」そう言うと、4人の爺ぃたちの座っている筈の関係者入口の中に消えて行ってしまった。

 「アニョータ…?ドレス・リハーサルだって?み、見たい、う~絶対に見たい!こうなったら怒られてもいいから関係者入口に入って見よう!そしてショージは再び二重の門を開き、中に入って行くと直ぐに爺ぃ4人の内の1人と目が合ってしまった。

 「お、お前、今度は何の用で入って来たんだーっ!」爺ぃは、いきなり喧嘩腰だ。ショージも咄嗟に言い返した。「えー?何って、今日はバレエ・アニョータのドレス・リハーサル(衣装を装着してのリハーサル)なんだし、今夜はゼネラル・リハーサル(メーク、衣装全てを着けての本番さながらのリハーサル)じゃないか!」と如何にも知っていたかのように答えた。「どうだ爺ぃ、こっちが知っているって思わなかっただろう、えー?どうだ、すんげーか…?お前ら爺ぃ4人はどうせ寄ってたかって井戸端会議ってもんだろうが!こっちの知恵袋はあんたらとは、ちと大きさが違うんでね!」


ドレスリハーサル

 「だ、だから何なのだ!?お前が何で関係があるんだ!お前はこの劇場のダンサーでも無いのに、一体何しに来た~っ!」「おいおいおい爺さんよ、そんなに怒らなくたっていいじゃん全く。」齢を取ると人間は怒りっぽくなるのだろうか?「関係あるさ!僕はバレエダンサーだからな!それでドレス・リハーサルは何時に終わるんだい?」すると頭部の横のこめかみに血管を浮かばせて爺ぃはワナワナと震えながら「時間をお前に教えてどうなる?お前には関係が無いっ!」

 ショージは落ち着き払って爺ぃの目を見た。「あのね、僕はここで会わなきゃいけない人がいるんだよ…」すると言葉も終わらない内に「またか!言っただろ~が!マエストロ・グリゴ―ローヴィチはここからは出入りをしないって!向こうに廻れって言っただろうがっ!こいつは~っ」ショージは首を横に振り「違うよ違うよ!昨日ちゃんと向こう側に廻ったよ!今日はミスター・ウラディーミル・ワシリエフ(ボリショイの最高トップダンサー)に用があるから、ここで待たなきゃいけないんだって!」すると「な、何~っ!誰だ?誰だ~っ?ウラディーミル・ワシ…あん!?」

それが一体どれだけ大切で重要な人なのか瞬時に爺ぃは思い出したようで「ん…終わるのは2時過ぎだっ!でもここで待つな、邪魔だからな!出なおして来いっ!邪魔だ邪魔だっ!」ショージもここは潔く「あっそう…じゃ、2時前にはまた来るわな。今、2時過ぎって言ったんだよな?」もうそれには爺ぃは答えなかった。あっち向いてホイッ!である。

関係者入口であっても中に入っていれば本当に温かい。ここに留まっていたいし、劇場内部に入ってワシリエフ氏の新作を見たいのだが、あまり事を大きな問題にまで発展させるとその内、警察沙汰になっても大変である事からショージは言う事だけを言ったら外に出た。「うう~寒過ぎ、何処に行こうか?」行く宛てはなかった。目線を宙に向け、ショージがもし本当にワシリエフ氏に会えたとしたら何を言いたいのかを考えた。


人間の脳

 時間をようやく潰し、またもや関係者入口へと近づいて行った。ショージはこう!と決めたら蛇の様にしつこい。もう入る前にどういう風になるのか目に見えて分っていたが、血の雨が降ろうとショージは行かなければならない。雨にも負けず風にも負けず…である。そしてショージがボリショイ劇場の二重の門の関係者入口に来ると、「お?」まだ時間も早めだと言うのに、何故かオーケストラの奏者が少しずつ向こうから出て来た。「ん?もしかしたら早めに終わったのかな?」

 爺さんはショージを見るなり、決まり悪そうに「チッ!」と舌打ちしたが、ショージは爺さんにさっき釘を刺しておいたから悪態はつかなかった。そして1人、2人…とオーケストラの奏者たちが門から消えて行く時、向こうから一人の黒い眼鏡を掛けたやはり老年の紳士が歩いてこちらの方に向かって来るのが見えた。10メートルくらい近づいて来た時にショージはその老年の80歳は超えているだろう紳士に目線が集中した。「もしかしたらバレエ関係者か…」もう既に犬の直感とでもいうのであろうか、ショージはその人の姿を見た瞬間から他の者が全く見えなくなった。

 人間は信じられない脳の素晴らしさを持っており、ここ一番と言う大事な時には全ての物がスローになり、最後の瞬間はまるで時空が全て止まったかのようになる。


謎の紳士

 ショージは関係者入口に向かって3メートルほどの近さまでやって来た老紳士を見て確信した。バレエをしているかどうかは歩き姿だけで判断が付くのだ。「この人はバレエダンサーだった人に間違いない!」ショージの方から近づいて行った。

 その瞬間、4人の内の2人の爺ぃが飛び上るようにしながら「あっ!?こ、この馬鹿が何を晒すっ!こいつ!」そう言いながらショージの後ろ首と両腕、ジャケットの背後を鷲掴みにしたのだ。ショージは絶対に動きたくなかった。兎に角、知っている限りのロシア語を使ってその老紳士に「イズビニーチェ!パマギーチェパジャールスタ!!ヤ、トージェバリェット アルチースト!ヤ ハチュー ウチッツァ バリェット、ズジェーシ ヴ ラシヤ!パジャールイスタ!「すみません!どうぞ助けて下さい!私もバレエアーティストの一人です!私はこのロシアでバレエを勉強したいのです!どうぞ話を聞いてください、お願いです!」と声を出したのだ。いわゆる直訴であった。

 ショージは爺ぃたちの揺ぎ無い攻撃に会いながらも、兎に角、必死で声の続く限りその紳士の目を見ながら何度も懇願した。ところが、爺ぃたちの力は半端じゃない。ショージはそのままの態勢で引きずられた。身体中の服が脱げそうになって滅茶苦茶であった。

 ショージのたった一回のチャンスなのだ。全身全霊ただただ命掛けての懇願だった。そして「もう駄目か…」と思った時、その老紳士が爺ぃたちに向かって物静かに手を上げた。「良い良い…ちょっと手を離してあげなさい…」老紳士が静かに手を上げると、目を吊り上げて怒り顔になっている爺ぃ2人は「えっ!?」と驚きながらパッと手を離したものだから、ショージはそのままドッカーンと床に反動で転がってしまった。

 「こ、この爺ぃ~!手を離すんだったら、離し方があるだろ!」と言ってやりたいところだが、この状況下ではそれどころではない。関係者入口は大騒動に発展してしまい、床の上に転げてしまったショージが態勢を整えようとした時には、入口付近は黒山の人だかりになっていた。皆、オーケストラの奏者たちやらダンサーたちが「な、何が起こっているの!?」と不審な目で見つめた。

 しかし今のショージにはこの大事な一瞬を怯むわけには行かなかった。ショージの目の前に立っている黒ぶちの分厚い眼鏡の老紳士、この老紳士の前頭葉はとても発達している上、その丸く頑丈そうで実がたっぷり入ってそうな頭部が実に独特で、一見怖そうなのだがその静かな動作や目で、その人柄が表れていた。が、この時のショージはそれどころではない。

 老紳士は「ちょっとこちらに…」とショージに言って、黒山になっている人々に通路を与えて皆を行かせた。ショージの顔をじっと静かに見ながら「私に用なのかね?」と静かな声で話し掛け、「良いかい、ゆっくりと喋りなさい…ロシア語出来るかね?」

 ショージは「トーリカ チュチュ…」(少しだけですが…)と答えて、老紳士があまりにじっと見るので涙が零れて出て来た。「あの…バレエの関係者ですか?」老紳士は「そうだが…」「ああやっぱり!良かった!僕はロシアでバレエの勉強がしたいのです…ですが、僕は日本人なので私個人ではこの国に来るのが難しいのです。あの…僕を助けて下さい、お願いです…」泣きながら懇願するショージを静かに見ながら、老紳士はショージを大きな瞳で瞬きもせず、じっと見つめた。


老紳士の手作り

老紳士が静かに「君は今、日本人だと言ったんだね?む~…ちょっと何処にも行かずにそこで待っていなさい…あ、君たち、」爺さんたちにショージをその場で待たせるように…と言い残すと、来た廊下をまた静かにスタスタと後戻りし、廊下の彼方に行ってしまわれた。「え、どうしよう?何処に行ってしまわれたのだろう?」

暫くすると、老紳士は大きな本を両腕に抱えて戻って来た。そして「そうか、こんな時に日本人に会えるなんてこれも何かの縁だろう…丁度良かった。これを見てくれ給え。そして日本人の目で見てこれが正しいかどうかを答えて欲しいのだ!」

 ショージは「は?」とその大きな本を老紳士から受け渡され、その本の表紙をめくり、ゆっくりとページも捲っていくと、そこにはロシア語のキリル文字がビッチリと書かれてあり、訳の分からない記号やら絵が描かれてある。ショージはどんどんページを捲って行くが、あまりの膨大な筆跡と、本の重さに腕が疲れて来た。

そしてようやくその本が日本の「四柱推命」の事について書かれてある事に気が付いた時、老紳士の顔を「えっ!?」と見ると子供の様にはしゃいだ顔つきになっており、「どうだ?これでいいのか?私は長年掛けて日本の占いを自分なりに解釈して、この本を丁度書き終わったところなのだ。だが、問題は私の理解が正しいのかどうなのか、そこが知りたかったのだ。それでどうなのだ、合っているのか?存分に意見を聞かせて欲しいのだ」

 ショージは目を点にしてキョトンと見ながら、何から答えていいのかちっとも分からなかった。ショージは「四柱推命」なんか、これっぽっちも知らないのだ。存分に聞かせてくれって言われても「あ、あの~、これって占いですよね?何じゃこりゃ?一体全体どうなってんのこれ!?」


今度は歌舞伎?

 「すみませんが確かに私は日本人なのですが、こういう占いについてはとんと知識もないし、はっきり言って見た事も無いのです。だからこれが正しいとかどうかと聞かれても全然答えられません。本当にすみません」するとそれまで活き活きとして、まるで嬉しさ一杯の子供の様な顔つきが愕然と変わり、「な、何!?知らない、見た事がない?お、お~…」顔が見る見る曇って行った。

 その表情がそれほど一変してしまうとはなんと可哀そうな老紳士。「あれ…僕の事は?あ、あの~、僕はどうしたら良いのですかね?」老紳士は呪文のようにブツブツ…と宙を見ながら何か言っていたが、本をバタンと閉じて、「そうか…残念だ。が、仕方ないか…。私は歌舞伎の事も興味があるのだが、そっちの方の話でもしようかの…ん?」「か、歌舞伎??た、たは…たはは…」ショージに構わず話を始めた。

 「ここボリショイのバレエでも歌舞伎の技法を取り入れたりもしているのだ…例えば、歌舞伎の中に見得を切る…という表現法があるだろ、ここでもその言葉通りにミエという言葉で踊りの節目にポーズを作るのだ…聞いているのかね君は人の話を?」

ショージは口をあんぐりと開きながら、「は、はい…、聞いております…」老紳士は続けた。「顎の上げ方も角度が大事だし、目線も大事なのだ…ま、いいか。それで私に何の用だと言ったかね?」「げ、ぎょえ~!もう忘れてしまったのですか!?」ショージの方こそ何でここにいるのか分からなくなりそうになった。

 「僕はこのボリショイ劇場でバレエ団のダンサーたちと一緒にレッスンしたいのですが、何とか許可は得られませんか?」すると老紳士はあっさり「それは無理だ。レッスンは団員しかする事が出来ない」ショージはその返答に項垂れた。が、直ぐに「分かりました。レッスンの事は諦めます。が、僕はどうしてもロシアでバレエの勉強がしたいのです!けれども僕は日本人なのでロシアで勉学するための学生ビザをソ連の大使館に申請しても却下されてしまうのです。僕はどのようにしたらこのロシアで勉強する事が出来るのでしょう?」

 老紳士を上目づかいで見ながら、その答えが頂けるか先生を見たが、「あっ!」と思い出して、ショージの踊っている写真2枚をバッグから取り出して先生に見せた。一つはアントルラッセでジャンプ(空中で足を180度開く技術)しているもので、もう一つはピケアラベスク(片足を身体の真後ろに上げてバランスを取るポーズ)で静止している写真だ。それを老紳士に手渡した。老紳士は黒い眼鏡を片手で押えながらその写真じっと見つめた。


写真を見た感想…

 「これ、君?ふ~ん…手の位置が良くないね…」そうボソッと呟くと、「ふ~っ…じゃ、ここでは通る人の邪魔になるからこっちに来なさい…」通路から離れたスペースで老紳士は止まった。「ここなら通行人の邪魔にならない…」ショージはこの老紳士がバレエ団、またはバレエ学校できっと先生をしているのだろうと思った。先生は眼鏡を片手で上に上げると、着ていたジャケットを脱いで置いた。

 普段着のまま、靴を履いたまま先生が突然バレエの動きの説明を始めたのだ。「え、ここで?このままの恰好で!?」「じゃあ、始めるとしよう…プリエ(両足の膝を曲げて踊りの練習に必ずする屈伸運動)はこうで、ポールドブラ(腕の動かし方)はここ…注意点は顔の向き…つまり鼻先の方向だ。指先を追いかけるように…分かるかね?」

 ショージは意外に長い先生の手先や動きに見入りながら「あ、あ、はい…」そして「次に、タンドュ(足のつま先を床の上に這わせて延ばす運動)はこうで、この動きにも注意点はこうだ。足をこんな風にしては駄目だよ、分かるかね?」「あ、はい…」ジュッテ(つま先を床から離して、勢い良く前に出す運動)やロンデ・ジャン・パールテール(足先を床の上から離さず、半円を描く様な運動)、フォンデュ(両膝を曲げてから片足を上に上げる運動)やフラッペ(片足を曲げて前、横、後ろに勢い良く蹴り出す運動)、ロンデ・ジャン・アンレール(片足を宙に浮かせて回す運動)とアダージオ。(ゆっくりな音楽に乗せて片足を動かす運動)

 この問答はおよそ、30分以上は続いた。先生は必ず、注意点を言うのだが、ショージは先生からの「分かるかね?」の質問に対して日本語の返事のように「あ、はい…」を繰り返したのだ。先生はじっとショージの顔を見て言った。


先生に質問

「君には質問は無いのかね?」先生は静かな声で聞いた。先生が何故、そんな質問するのかショージには理解出来無いまま、「え、質問ですか?いえいえ、先生にそんな…無いです」先生は「あ、そう…じゃ、続けよう!グランバットマン(片足を大きく前、横、後ろに振り上げる運動)と言うのは足を振り上げるのも大事だが、下ろす方が難しい…ただ重力で下ろすだけでは駄目だよ。分かるかね?ラ~ス、ドゥバー、トリー…このようにね…」

 ショージは先生の言いたい事はそう言う事なんだなと思いながら「あ、はい…」とさっきから同じ返事を繰り返した。「じゃ、行ってみよう…どうぞ!」先生はショージを見て言った。ショージは先生の言う「じゃ、行ってみよう…」に頭を斜めに傾けながら反応しなかった。それどころか逆に先生に質問した。

 「え、何処に?」先生はカッと目を見開いて、「何処に?何を言っているんだ君は!始めから終りに決まっているじゃないか!はい、始めなさい!」そして先生はショージを見つめた。「げ~っ!先生、始めから終わりって、もしかしたら先生が見せたプリエからグランバットマンまでの全部をですか!?そんな事急に言われても覚えてないっすよ~!」

 今度は先生の方がギョッとした顔で、「覚えてないだって!?だって君は質問がないって言っていたじゃないか!私が一つずつ見せて分かるかねと聞いた時にも全てにおいて、「はい」と答えたじゃないか!覚えてないって…え~っ!?」2人で驚き合いだ。ショージは直ぐに謝りながら、「あ、あの~、一つずつでもいいですか?あの、その後に次のを教えてもらってもいいですかね?」

 先生は呆れた顔して「ふ~、何故、君は分りましたと言ったのか?君と同じような年代のモスクワの男たちも全く一緒だ!何故あいつらは、分かってもいないのに分りましたと、返事するのか!実に嘆かわしい事だ。私に言わせれば馬鹿だ!」先生の嘆きにショージも同情した。「そうですか…モスクワの生徒はそんなに馬鹿なんですか…」先生がクルッと口を開いてショージを返り見た。「こ、この…!」

 「あの先生…日本では相槌(あいづち)と言うのがありまして、目上の方から話された時には必ず、はいと答えなければならない習慣があるのです。先生が見せる前に、全てを覚えなさいよ!それを最後に全部始めから終りまでするから…と言ってくださっていたら、空返事はしなかった…とは思うのですが、いずれにしても始めから終りまでの全部を覚える事は難しいと思います」

 すると先生は手で顔を覆い、「オー、ノ~ッ!」と言ったマイムを見せた。「モスクワのダンサーたちって、始めから終りまでこんなに長い順番を全部覚える事が出来んの!?そんな習慣があるのだろうか?少なくとも僕にはそんな習慣が無いし、今まで何処のバレエ学校でもバレエ団でも始めから終りまで一気になんて…」

ショージはプリエを始めた。「確か、こんな風だったかな…?」そうやって一つずつを先生に教え直してもらった。先生が「君に一つ言っておくが君が本当に勉強をしたいのなら、このモスクワに来るよりもレニングラードに行きなさい…」

 先生が何故、ここモスクワではなくレニングラードに…と言ったのかは分からなかった。

クラッシックの技法を学ぶのなら、モスクワよりもレニングラードの方が上なのか?それともこんな馬鹿にモスクワに来られたんじゃかなわないと思ったからか…。ショージはロシアに来られるのならどっちでも良いと思っている。

 その時に金髪の髪をした初老の男と、頭の髪は少し薄くはなっているが体躯が大きくがっしりとしたやはり初老の男が入口から入って来た。この人たちが誰なのかが直ぐに分かった。ボリショイの神々と言っても過言ではない。最初の金髪の男性は世界中で名を轟かせているウラディーミル・ワシリエフだ。そして2番目はこのボリショイバレエ団の双璧であるミカエル・ラブロフスキーだったのだ。どちらもバレエ団の完全なるトップダンサーである。


ボリショイの神々…

 老紳士の先生はワシリエフとラブロフスキーにボソボソ…と立ち話をし始めた。先生はショージの方に向き直り「私なんかより、彼に推薦状を書いてもらった方が大使館になら利くだろう…」そこに止まってショージを見てくれているワシリエフ氏を見ながら「今、彼に話をしておいたから後は彼と話しなさい。私はこれで行くから…あ、そうそう、君も日本人ならあの占いを勉強した方が良い。実に興味深いものだからね。じゃあ、これで…」そしてジャケットを着ると行ってしまわれた。

 「占いだって!?」ショージはブルッと震えると「勉強したいのはバレエなのに…」と先生の後ろ姿に頭を下げた。ワシリエフ氏はショージを見ながら言った。「今、先生から話は聞いたけど、君はロシアで勉強がしたいのだね?君の名前はなんて言うのかい?」世界のスーパースターに自分の名前を聞いて頂けるとは!ワシリエフ氏の声は柔らかいながらもアクセントがはっきりしていて、誠実そうで優しさに溢れる人柄が瞬時に分かった。

 「ぼ、僕はショージ…ショージ・ハンザワです…あ、あの~、ワシリエフさんですよね?」金髪というよりも金その物と言った方が的を射るような彼の髪が非常に印象的だ。彼はショージを真っ直ぐに見ながら、縦に頷いた。

 ショージはソ連に来る前から憧れのワシリエフ氏はきっと大きなロシア人で190センチくらいのダンサーなのだろうな…と想像していた。憧れのスーパーダンサーがショージの手を握ってくれた時は感動だったが、と同時に驚愕でもあった。何故ならワシリエフ氏はショージの顎(あご)ほどくらいの身長だったからある。

 「僕がロシア大使館に行っても、そう簡単には滞在許可証がおりないのです。そこで、大使館宛てに僕への推薦状を書いて頂けたら、もしかして…いや、必ずビザが下りると思うのです。どうか推薦状を書いて貰えないでしょうか?」


2人の共通語

「君は日本から来たのかい?何処のバレエ学校から来たのだ?」ワシリエフ氏は静かであったが、トーンが低くても滑舌がはっきりしており言葉がとても聞き取り易かった。「いえ…あの、実を言うと僕はスウェーデンに住んでおりまして、バレエ団に所属しております。イギリスで学び、イタリアのバレエ団などでも働いておりました。」するとワシリエフ氏は「おやっ?」と言うような顔をして「君はイタリアのバレエ団に働いていたのかい?ならば、イタリア語も話せるのかい?」

 ショージはイタリア語で「スィー、セニョール!イオ パーラ イタリアーノ!ノン ベーネ、ベーネ…ペロー、ペンソケ アバスタンツァ ノルマーレ…」(はい、私はイタリア語を話します。それほど上手と言う訳ではありませんが、まあ、普通ぐらいでしょうか…)

 するとワシリエフ氏の顔が一気にパッと笑顔になり、突然イタリア語でテンポ良く話出した。「なーんだ、そうか!じゃあ、イタリア語で話そうじゃないか!私もイタリアへは年間に何回も行くのだよ。ミラノにも行くし、ローマにも行く。ついこの間もナポリに行って来たところさ!イタリアにはどのくらい住んでいた?」

 ショージはワシリエフ氏が、あまりに流暢なイタリア語なので驚いた。そして少ししか知らないロシア語で話すよりも、イタリア語を通じて話す事で自分の言いたい事も、もっとはっきりと伝えられる事、そして更にはこの知らない極寒の国の中で、ショージが慣れ親しんだ暖かい国のイタリア語で話せるという事で憧れていたワシリエフ氏に親近感が湧いた。

 「僕は2年ほどイタリアに住んでいました。街はレッジオエミリアと言う、本当に小さな街ですが…」するとワシリエフ氏は「えっ?レッジオエミリアだって!?なんと懐かしい!私の友人があそこの街に住んでいるのだよ!君が知っているかどうかは分らんが、古い友人だ。非常に素晴らしいダンサーでもあった…ん~思い出すな…えーと、彼の名前はね…」ショージは犬のような直感でワシリエフ氏の声に両耳が鋭く反応した。


イタリアの友人

 「そう、彼の名前はステファネスク…マリネル・ステファネスクって言うんだ…友だちと言っても彼はロシア人ではなく、ルーマニア人だがね…」ショージはそれを聞いた瞬間、口から心臓が飛び出しそうになった。声には出さなかったが「な、なんだって…ぎょえ~!?あの鬼の事ですか~!?」

 ワシリエフ氏の古い友人…それは紛れも無く、ショージを恐怖のどん底に陥れた、イタリア時代のバレエ団の芸術監督に他ならない。そう言えば確かにマリネルは言っていた。「私はボリショイバレエのプリンシパルをしていた時期があったさ…」と。本当に偉いダンサーだったのであろうが、ショージにしてみれば鬼以外の何者でもない。今からイタリアのバレエ団での最後の問答をここに再現してみよう。

 「ショージ!お前がこのバレエ団を辞めたいだって?ふざけるな~っ!絶対にそんな事はさせん!お前を何処にも行かせはしないぞ!いいか?この俺は世界中の何処にでも友だちがおるのだ!お前が行くところならば、一本の電話を入れれば済む事だ!そしてお前はここにいるしかなくなるだろう…言ってみろ、ここを捨てて一体何処に行きたいと言うのだ?」


世界中に友だち?

まさか、ウラディーミル・ワシリエフ氏の口から、この人の名前が出てくるとは夢にも思わなかった。やはりあの時にマリネルが言っていた「世界中の友だちに電話して…」あれは嘘じゃなかったのだ。背中に冷や汗がドッと流れ出た。

 「ああ…あの時、狂人になっておいて良かった…」ワシリエフ氏の「君はマリネル・ステファネスクって言うダンサーを知っているかい?」の問いには頭を横に振った。すると「そうか…あ、先生が言っていた、大使館宛ての推薦状ね、ちょっとその前に聞いておきたい事があるんだが…君はさっき私にスウェーデンのバレエ団で働いていると言ったね?そして君はロシアに来てバレエの勉強がしたいと言った。それはバレエ団に入りたいのかな?それとも学校に入りたいのかな?」

 ショージは直ぐに「バレエ団に入れるのは多分無理です。僕はロシアの滞在許可証を持っておりませんし、今、こうしてここにいられるのはスウェーデンからのツアー客と一緒にグループとして一週間、滞在出来るだけなのです。バレエ団で働くには労働許可証が必要になると思いますが滞在許可証も取得出来ない私に労働許可証の取得は無理です。ですから、学校に入る事が出来れば嬉しいのですが…もし、推薦状が頂ければ学校に入るための学生ビザは下りると思うのです。」

 するとワシリエフ氏はショージから視線を逸らさずに「ショージ、バレエ学校というのはバレエ団に入るために学ぶ所だ。だが、君は既にスウェーデンのバレエ団で働いているのだろう?なのに学校に入る必要はないじゃないか。スウェーデンのバレエ団で働けるなんて、この国のダンサーたちがどれほど夢見る事か!」  

 ショージははっきりとワシリエフ氏の言葉に答えた。「確かに僕は働いておりますが、まだまだ分からない事がたくさんあるのです。ですが、以前にこの国に来た時、僕はダンサーたちを見て感動したのです。この国のダンサーたちは素晴らしい!この国の学校で学べば僕もあのような素晴らしいダンサーになれるのではないかと。だからどうしてもこの国の学校で学びたいのです!」

 ワシリエフ氏は瞬きもせずにじっとショージを見つめた。そしてショージはさっき老紳士の先生に見せた2枚の写真をワシリエフ氏にも見せた。じっと写真を見た後に「そうか…んー、実は明日、私の振付をした大事な初公演が控えているから、今日って訳には行かないのだが、君はまだこのモスクワにいられるのかい?」

 ショージはほっとしながら、「スィー、セニョール、ワシリエフ!(はい、ミスターワシリエフ!)まだ数日は大丈夫です。あの、初公演ってアニョータですよね?」またワシリエフ氏がにっこりと微笑んだ。


掴んだチャンス

「じゃ、ショージ、明日の舞台の後に…そうだな、んー、そこの関係者入口で待っていてもらおうかな…」ショージは「えーっ!そこですか!?」「それがどうかしたかな?」「あ、いや、何でもないのですが、あ、分かりました。では本当にお忙しいところを僕の為に済みません…」ペコリと頭を下げた。ワシリエフ氏と握手を交わした。「グラッツィエ!セニョール・ワシリエフ!スパシーバ ボリショイ!」(ありがとうございます)そう挨拶したのだ。「良かった…粘った甲斐があった…」

今の自分にチャンスが到来し、そのチャンスをどうにかショージなりに掴んだのだ。あの謎の老紳士の先生には、帰りがけのところを大変に申し訳無かったし、ワシリエフ氏の忙しいところを邪魔してしまったが、ショージはこれ以上に胸の内がすっきりした試しがないほど、晴れやかな気分であった。


残念無念!

 ショージは門衛の4人の爺様たちにきつく睨まれるかな…と、思いながら前を通ると、意外にもそっぽを向いて何も言わないしショージを見もしなかった。ショージは小声で「ドスビダニエ…」(さようなら)と言うと、門の外に出た。「そうだっ!正面玄関で明日の初公演のアニョータのチケットを買おう!」と行ってみると凄い列だ。ロシアでは並ぶのは当たり前(勿論、日本でもそうだが)で、せめてもの救いは玄関の中は非常に温かい事だ。

 普段からショージはあまり長い列に並ぶ事はない。と言うのは、他所のバレエ団の公演を見る時は大抵、チケットを予めそのバレエ団のメンバーかスタッフに取ってもらうため、並ぶ必要がないし自分で買う時もこんなに延々と続く列には並んだ事がないからだ。しかしこの時だけは不運であった。チケットはショージの数十人前で完売してしまったのだ。「あ~、残念!でも、バレエが見る事が出来ないにしても劇場には来なくては!ワシリエフさんとの約束もある事だし…」

 本番当日になり、来られなかった客がいるかもしれないから早めにボリショイ劇場の前に来たのだが、日本や他の西側の国とは違って、ダフ屋(チケットにプレミアプライス…つまり付加価値を付けて、正規の値段よりも高く売る人)はおらず、倍の値段だろうが買えるものなら欲しいと思っていたが、これまた残念にも買えずじまい。

 「ん~、どうしようか…?」どうしようもこうしようも、バレエ「アニョータ」が終わるまではここにいなければならないのだから、待つしかない。しかし、マイナス38度だし「こんな外で2時間以上も待てるか?関係者入口にはもう行けないかな…いや、行ってみよう!」そして劇場の正面玄関から外の凍りつく雪をガチガチと踏み歩きながら再び関係者入口に入って行くと、爺さんたちは苦虫を噛み潰したような顔でショージを見た。「チッ!」


人間の壁…!?

関係者入口はとても温かく、いつまでもそこで、ワシリエフ氏を待っていたいのだが、どうしても馴染めないのがショージをチラチラと見ている。4人の妖精たち…幽霊たち?いや、まだ生きているか!しかもあと50年は死にそうにない、元気な爺ぃたちだ。「これじゃ、とても居づらい。」常人よりも図々しい性格のショージだが、ここは一度退散しなければ。外に出ると極寒の世界は人間の自由を阻む事を身体中に感じながら、「ク,ク~ッ、寒過ぎだ!」もう直ぐに開演時間の7時になるが、一体、このバレエ「アニョータ」は何時に終わるのやら。どこかで時間を潰したいものだがここは普通の場所とは違い、共産圏の真っただ中だ。夜になっても開いている場所は高級レストランくらいなものであった。

 ジーンズなんか履いているのが大間違いで、普通のズック靴なんか履いているのは馬鹿そのものだ。マイナス38度の温度だって風が吹けばマイナス42,3度までは平気で下がるのである。「ああ、ちょっときつ過ぎる…死ぬかもしれない…」

 そして自分の靴と雪を見ながら、「もっとモスクワの天気や外気温を調べて来れば良かった…」と、反省しながらボリショイ劇場の正面の観客が出入りする門の辺りの景色に目をやると、「おやっ、何じゃありゃ!?向こうに柵が出来ているぞ…こんな柵はさっきまで無かったぞ…ん?さ、柵じゃない…人間だ!人間の壁が…人間の壁が出来たんだ!」

 軍服に身を包んだ全ての人がマシンガンを両手に抱え、肩と肩がくっ付くほどの近さでボリショイ劇場から50メートル離れた場所に人間柵を作り、ズラ~ッと巨大なボリショイ劇場を中心とした半径50メートルほどの円で一周取り囲んでいるのだ!膨大な数の人たちは皆、ショージに背を向けて立っている。

 その理由はこのボリショイ劇場の中に観客として入っている政府高官や各国の大使、著名人や商社の最高責任者たちをテロリストから守るためである。「そ、そうか…今日は初公演だから、とっても大事な人たちで劇場が満員になっているのだった!」軍人たちの数は2~3千人は軽くいる。外からの侵入者を完全にシャットアウトするために。


1987年12月26日 雲上の人々

 初公演の初日、プルミエールと呼ばれるその日は、ボリショイだけに限らず、世界中の劇場に共通して言えるのは、フランス語で言うところの「ソシエテ」つまり財界の大金持ちや、政治家、医者、大使館関係、弁護士などの公人、著名人いわゆるショージなどの庶民から見れば「雲上の人々」が集まる日でもある。特にこのボリショイ劇場は世界最高のレベルを持った芸術家の殿堂だけに、数千人の「雲上の人々」を守るために軍人までが動員されているのだからぶったまげであった。

さて、ボリショイ劇場と言う建物と、門の外に取り残された男、それを数千人の軍人たちによってぐるりと包囲されていた。ショージは軽い脳みそを振りよく考えた。もし、その包囲を「ちょっと失礼します…」と出てしまったら最後、その包囲の中にはもう戻れないに違いない。恐らくは軍人の司令官が「誰もその包囲の中には入れてはいかん!アリ一匹さえも入れるな~っ!」と命令を出しているのであろうから、出る事は出来ても入って来ることは出来ないのだ。と言う事は…?出ちゃ駄目なのである。

 ショージは軍人の造る壮大な円の中側で待つ事にしたのだが、何と言ってもマイナス40度!あまりに寒く、門から出た瞬間に冗談では無く睫毛が凍りついた。口から吐く吐息がまるで忍者が撒く煙幕のようになった。もっとも煙幕などと言っても今の時代で知っている人は少ないとは思うが。

 ショージは、微かな暖を摂るためにポケットからマルボロのタバコを取り出したが、生憎ライターのガスが切れていた。そこで軍人に近づき、「イズビニーチェ、ダイチェ ミニャ―、スピーチカ…?パジャールイタ」(済みませんが、マッチを頂けますか?お願いします)すると軍人はショージの声の方に振り向き、マシンガンを肩からブラリンと垂れ下げて、脇に抱え込み直してから自分のポケットの中を探した。

 流石に軍人だけあって、マシンガンを奪われないように注意しているのは迫力ものだ。彼はポケットの中を必死で探しているというのに、ショージは追い打ちをかけてもう一度聞き直した。「アー、ウーティビア スピーチカ?」(えー、マッチは持ってんですかね?)


ソ連の徴兵制度

 その軍人は若そうで20歳~23歳くらいであろう。ソ連では可哀そうな事に徴兵制度というのがあり、病気やゲイじゃない限り男なら必ずこの徴兵に応じなければならない。日本も第二次世界大戦ではこの徴兵制があったらしい。 

 「マッチは?持ってんの?持って無い?」と若い軍人に責め立てる様に聞きながら、軍人は「あったっ!」と慌てた顔をして、ショージにマッチ箱を手渡した。ところが、そんなただのマッチ箱を軍人は目を離さずにじっと見ているのは用が終われば返して貰いたいからだ。「ハハハ!返すから心配しなくても大丈夫!」

 しかし、軍人が見ていたのはマッチ箱ではなかった。ショージの出したマルボロの赤いタバコの箱に見入っていたのだ。ショージがタバコに火を付け、ふ~と口から大きな白い煙を出した時に、ショージが「スパシーバ!」(ありがとう)とマッチ箱を返しても軍人はショージのタバコを見続けた。

 そして軍人が今度はショージに「アー、ダイチェ ミニャー、コリーチ、モーシュナ?」(あー、そのタバコを僕にもくれないかな?)ショージは「カニヤーシュナ!」(勿論!)と言って一本差し出すと、「アー、イズビミニャー、イシチョ…ドゥバ コリーチ…」(あー、悪いんだけど、もう2本のタバコを…)ショージは「えっ!?」と聞き返したが、「そうか、マルボロが珍しんだな…おっ!いい考えが浮かんだぞ!」

 ショージは軍人の手をじっと見て、「その手袋、ちょっと貸して貰えるなら…」と交渉した。「少年よ、大志を抱け!のクラーク博士、生きるというのはこう言う事を言うんですか?」クラーク博士ものけぞっている事であろうか…。


温かい手袋

軍人は自分の手袋をすっと取り外し、ショージに手渡した。軍人に躊躇(ちゅうちょ)はなかった。ショージは「えっ、いいの!?」と思ったが、それほどにマルボロが欲しいのだろう。国から手渡される給金なんかでは到底、タバコも買えないのだ。まして外国製のタバコなんか軍人たちには買えないし、滅多に見る事もないのだろう。

 それにしても軍人が着けていた手袋の大きい事!ショージはマルボロのタバコを箱ごとあげてしまった。そしてその手袋をはめると、何と温かい事か。大きな手袋の中側は黒い本当の野獣の毛が付いていた。「すんげー!」流石に軍人、いざとなれば夜も寝ずに戦う準備をしなければならないのだ。そんな極寒の中でも手が動くように本当の分厚い毛が軍人の手を守っていた。軍人が今の今まで着けていたから、その温もりが伝わって来た。男同士の肌の温もりでも寒さに比べりゃ全然嫌な事はない。そして軍人は大喜びした。

 軍人が隊列で取り囲む円から劇場の門に戻ったショージはバッグの中から、もう一つのマルボロを取り出し、急いで封を切って、吸っている煙草の火が消えない内にもう一本の煙草を取り出そうと思ったら、今度は違う軍人が人間バリケードの隊列から抜け出て来てショージの所まで来た。「あー、私にもタバコをくれませんか?あなたは寒いのでしょう?これを貸してあげますから…」軍人は自分の着ている軍のジャケットを脱ぎ、凍り付きそうなショージの身体にジャケットを羽織らせた。

このジャケットの中側にも同じように野獣の毛が付いているが、「何の毛だろう?熊かな?」しかし軍人はソ連に数万人、いや、数十万人もいるのだろうが、そんな膨大な数の毛皮を作れる生き物って何なのか?犬か?その毛を黒の染料で染めたのか?いや、犬って事はないだろう。猫…?「ぎょえー、気持ち悪~!」どうでも良さそうな事にとても疑問を抱くショージだった。軍人にショージはマルボロの中から、5,6本のタバコをあげた。勿論、軍人が喜ぶのは当たり前の事だが、と次の瞬間!


軍人整列…!

 ショージが軍人のジャケットの袖に腕を通し、あまりの温かさに感動して、「これなら2時間でも余裕で待てるじゃないか…」と後ろを振り向いたら、2人目の軍人の後ろには5,6人の軍人がそれぞれの手に色んな物を持って、きちんと並んでいるではないか!「は、はあ!?」皆、もちろんタバコが目当てなのだ。

 一番目の軍人がマルボロを他の軍人たちにひけらかしたに違いない。「嘘でしょ!?冗談じゃないよ、そんなにマルボロは持って無いのに!」軍人は「君が寒がっていると聞いたから、靴を貸してあげようかと思ってね…」他の軍人は軍のシャプカを持っていた。「ちょっと、ちょっとー!僕だってゴールデン・フォックスの美しいシャプカを持っているんですけど?」「いや、これの方が温かいんだぞ!君の被っているそれは昼にでも被ればいいんだ!な、夜なんだからこっちを被ってみろ!」

 ショージは軍人たちに言った。「あのー、もうタバコが無いんです!僕はこの姿で十分ですから、す、すみません!」軍人たちはブツブツと言っていたが、本当にマルボロの威力たるやすさまじい!手袋にジャケット…これでカラシニコフのマシンガンでも抱えていれば、ショージはソビエト連邦の軍人の仲間入りだ。

暗い闇夜の中でボリショイ劇場の玄関の明かりが照り、雪がどんどん降っている。その雪が上からではなく、横から吹き付ける時は一気に温度が10度下がるだろう。それでも分厚いジャケットと手袋がショージを守ってくれるので大丈夫だ。

 2時間が過ぎて、ショージは軍人たちに手袋とジャケットを返してから再び関係者入口に来ると、どうやらバレエ「アニョータ」は終わった模様だ。そこで待っていると続々と関係者やダンサーたちが帰って行くが、この中にはアンドリス・リエパはいなかった。


うつろな瞳

 関係者入口では、待てど暮らせどワシリエフ氏は出て来ない。「どうしたのかな…?プルミエール(初公演初日)だから、VIPのお客さんとパーティーでも劇場内で繰り広げているのかな…」すると、向こうから小柄な女性がフラフラと歩いて来た。それは紛れも無く、ワシリエフ氏の奥様で世界的にも超有名なバレリーナのエカテリーナ・マクシモワ女史であった。

 ショージはこちらに近づいてくるマクシモワ女史に聞いてみる事にした。「あの~」するとマクシモワ婦人は非常に疲れている様子で、ショージを見るなり「あん?何か用なの?」マクシモワ婦人は既に泥酔の様子で、ウォッカの臭いもプンプンだったが「あ、私は日本人のダンサーで旦那さんのワシリエフさんとここで待ち合わせを…」

 すると言葉も終わらない内に「あー、あんたなのね…もう、聞いているから知っているわ。でも、こんな所で待っていても今日、あんたはあの人に会う事は出来ないわよ…」ショージはたまげてしまい、「うぇ~!?ど、どうしてなんですかね?!」

 マクシモワさんはフラフラと体を揺らしながら「どうしてって、今日はプルミエールだったのはあんたも知っているでしょ?色んな人と会わなきゃならないからよ!日を改めた方がいいわ…あ、そうだわ、あんたこれからあたしと一緒に私の家に行きましょ…さ、行くわよ!」ショージはぶったまげながら、「は、はあ!?家って、マクシモワさんと一緒に家に行ったら、旦那さんに会えるからですか?」もうマクシモワさんの眼は虚ろになっていた。

 「さっき言ったでしょ…今日は会えないって…」「じゃ、じゃあ、家に行って何するんですか!?」「あたしと一緒に飲むのよ…!あんた飲める?」ショージは言葉を失いながら「そ、そんな事を出来る訳が無いじゃないですか~!」ショージはバッグを持ち上げると頭をペコッと下げ、「し、失礼します…ドスビダニエ…」(さようなら)マクシモワさんは「フン…!」と言って歩いて行くのを後ろに見ながら、「はあ…」と溜息を出して、ホテル・コスモに向かって帰る事にした。

 「マクシモワさんの家に行って飲む…?そんな事など、天下のワシリエフさんの大事な奥さま…これまた世界のマクシモワさんと出来る訳がないじゃない…明日ならきっと旦那さんのワシリエフさんに会えるんだから…」極寒の吹雪が容赦なく身体中に吹きつけた。


平和的な関係

翌朝、ショージが性懲りも無く劇場の関係者入口に来ると、もう爺ぃ4人は何も言わないし、ショージも潜り込もうとはしなかった。彼らとも平和的な関係を保ち、入り口でワシリエフ氏を待つ事が出来た。そしてある程度時間が経った時に、メルセデスに乗って現れた金髪の男性、世紀のスーパースターダンサーのウラディーミル・ワシリエフ氏!

 「やあ、ショージ、昨晩は悪かったな!忘れた訳ではないのだよ…どうしても行かなければならない用事が出来てしまってね…」ショージはワシリエフ氏の顔を見た瞬間に嬉しくなり、緊張も解けて「いえいえ、僕の方こそお忙しい時にとんでもない事をお願いしてしまい、申し訳なく思っております…」頭をペコッと下げると「ちょっとそこで待っていてくれ給え、今すぐに君の為の手紙を持って来るから…」そしてワシリエフ氏は劇場内へと消えて行った。


1987年12月27日 感謝を忘れない

 暫くするとワシリエフ氏が再び現れて、「さ、これを君に渡そう!いいかい、君が本当に願えば、必ず君の夢も叶うに違いないから頑張りなさい!じゃ、私は忙しいから行くぞ…」ショージの胸がこれほど一杯になった時は未だかつてなかった。異国人のショージのような者に、ボリショイの神様が同じダンサーとして、そして同じ人間として人の温かみを教えてくれたのだ。

 ショージは深々と頭を下げ、「スパシーバ、スパシーバ ボリショイ!」(ありがとうございます)ワシリエフ氏の笑顔がいつまでも目に焼き付いた。ピタッピタッと歩いて行く美しい後姿に見惚れた。ショージは封筒を見るとその表には堂々と「ウラディーミル・ワシリエフから、ショージ・ハンザワへ」と書かれてあり、中を開いて見れば素晴らしく美しいキリル文字の流れる様な文体で文字が綴られてあった。やはり、これもショージには読めなかった。

 丁度その後に、もう1人の神であるミカエル・ラブロフスキー氏も現れ「おー、お早う!誰かを待っているのかい?」ショージは再び頭を下げると「ワシリエフさんからこれをもらうために待っていたのです。」持っていた推薦状を見せると「うん、これは素晴らしい推薦状だな…よし、僕もここにこうして名前を書いてあげよう!ロシアに来れるといいな!」

 ラブロフスキー氏は持っていたペンで紙に自分のサインを書き込んだ。ラブロフスキー氏は颯爽としていて、すっとショージに手を出し、握手をすると「じゃあ!」また劇場内にやはり入って行った。紙に目をやれば「ウラディーミル・ワシリエフ、ミカエル・ラブロフスキー」のロシアの偉人たち両名の連署の名で締め括られた、大使館に宛てた推薦状だ。ショージの両目から涙が滂沱(ぼうだ)の様に溢れ出た。

 「来て良かった…ああ…来た甲斐があったんだ…!」マイナス38度以下の極寒の見知らぬ街で寒さに震えながら本当の温かさを知る事が出来た。廊下の向こうに消えて行った神々。もう居なくなってしまった2人に向かって何度も頭を下げて涙が頬を伝った。また、ここには現れなかったが、謎の老紳士の先生に感謝を忘れる事は一生ないだろう。

 ショージは頂いた大事な封筒を仕舞うためにバッグを床に降ろし屈んだ。ふと廊下の反対側を見ると、そこにはさっきの偉大な神々とは次元が違う4人の神々が苦瓜か渋柿でも思いっきり噛み潰したような顔つきで、綺麗に並んで座って全員がそっぽを見ている。ショージはバッグに封筒を仕舞うと立ち上がり、静かに「ドスビダニエ…」(さようなら)と言うと、4人がショージなんかとは目も合わせもしないまま、まるで四つ子のように揃って言った。「ドスビダニエ~ッ!」(さようなら!)

 ショージは思わず笑いが込み上げた。「ハハハ!そんなところで声を合わせなくてもいいのに…」そしてショージはまたスウェーデンへと帰って行った。ショージには一生涯忘れる事の出来ないモスクワから。「ヤ リューブル…ヤ リューブル ラシヤ…!」(私の愛するロシア…)

 それから数十年が経ち、ショージは大事に仕舞っていたボリショイの神から頂いたこの原文を初めてロシア語翻訳家に翻訳してもらった。それはショージが想像していたものを遥かに超えた、感謝し切れないほどの綴りであった。


親愛なる 半澤正司様

あなたのクラッシックバレエに対する未来に向けての根強い向上心と、また、芸術に

おける進歩を期待させるような肉体的条件を考慮し、我々はクラッシックレパートリー

の役と踊りに関し、こちらで出来る全てのサポートを約束します。

幸あれ!


87.12.26 ウラディーミル ワシリーエフ

87.12.27 ミカエル ラブロフスキー

                       ロシア語翻訳 山川詩保子


 どんな人間でも夢を持ち、その夢に…そして僅かであってもその可能性に挑戦する権利がある。どんな苦境があろうとも、どんなに大きな壁が立ちはだかろうとも決して怯まずにそれらを乗り越えて、空に高く舞い上がる雲を目指すが如く自分の足で駆け上がって行くのだ。人は夢があるからこそ人生は楽しいのである。ショージは小さな希望を胸に遠くを見つめた。迷い悩みそして少しずつの強さを掴んで行く。果てなき夢への挑戦は明日の風に乗せ、まだまだそれからも続いた。

                完

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ブルーカーテンの向こう側(男バレエダンサーの珍道中) @hanzawa319

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る