Smoke "in" the water

@HmsR

Smoke "in" the water

 水槽の金魚はもういない。

 八幡やはた十一じゅういちは水だけの水槽を気にとめながら、目の前の男に向き直る。秋月あきづき射哉いりや。目つきが鋭く肉食動物の如き歯並びを持つ彼は心なしかやつれ、悪人面に磨きがかかっていた。そんな彼をさらに近寄り難くしているのは右目の眼帯。事故だか何だかで怪我をしたらしい。故に八幡は秋月の家まで見舞いに来ていたのだ。


「また喧嘩ですか」

「もう社会人だぜ、そんなガキっぽいことはしねぇよ」


 面倒くさそうに答える秋月、恐らく自分以外にもそう聞かれてきたのだろう。彼は昔からそういう人間である。そんな秋月は手土産代わりの煙草1カートンを渡すと目を丸くし、箱と私の顔を見比べた。


「君がどんな酷い有様になっているかわくわくしていましたが、大したことはありませんねぇ」

「やっぱお前嫌い」


 こんなことする奴とは思ってなかった、ありがとう。本音に感謝はかき消され、諦めたような顔で彼は煙草に火をつける。私に余計なことを言われ、呆れて、煙草を吸う。お決まりの流れだった。

 その後も見舞いとは言えないいつもの調子で、会社の上司がどうとかあそこのラーメン屋が安くて美味いとかいう世間話を延々と続ける。

 そうしている間に夜も更け、そろそろ帰ろうと思いかけた時ある異変に気づいた。


「彼女の私物がありませんね」

「……あいつ『百日はっか』だった」


 とん、と煙草の灰が落とされる。無表情の秋月はそれだけ言って口を閉ざした。

 目鼻立ちの端正さは言わずもがな、長い睫毛から覗く瞳はサファイアの如き群青色。長い銀髪はわずかな光も逃さず反射し、自らの輝きに変えてしまう。すらりと伸びた手足に豊満な胸、その肌は雪のように白くしっとりした色気を匂わせていて。どこか儚さを纏う美女、水巻みずまきいざなは秋月の彼女だった。あれほどの女が何故チンピラみたいな男に、と常々思っていたが百日であるなら納得できる。百日は自分に足りないものを異性に強く求める傾向があるからだ。彼女に足りないものと言えば、大方男らしさだの喧嘩っ早さだのそんな所だろう。


「ははぁ、我慢できずに寝てしまったのですか」


 沈黙。否定とも肯定とも取れるそれはしばらく続く。そんな様子にわずかな罪悪感が生じ、彼女が百日と知らなかった彼にそんな言葉は酷かったかな、と思い始めた。まあ謝らないよりは、と口を開きかけた瞬間秋月が呟く。


「キスしただけだ」




 死者結合体『百日』。深刻な少子高齢化に悩む政府が打ち出した労働人口増加プランだ。国立細胞科学研究所に所属する朱雀すざく鬼門おにかど博士によって培養されたIRC細胞を用いて死体の損傷の少ない部分を繋ぎ合わせ、働ける若者を造ってしまおうという試みである。そのためニートや若い病人は優先的に「ドナー」とされ、提供という名の殺処分を待つ身となった。彼の発明は死んだ細胞を蘇らせるだけではなく、若返らせることもできるが良くて五年程度しか戻らない。すぐに働ける百日を造るには働かない、もしくはやむを得ず働けない若者を使った方がいいのだ。

 かくして百日は順調に量産され社会に問題無く適応していったが、ただ一つ名前の元となる致命的な欠点があった。それは完成してから百日の間に性交渉を行うと水になってしまうという点だ。発情することで女性ホルモンや男性ホルモンの巡りがなんとか、という水素水の如き説がまかり通りもしているが原因は不明である。




「射哉、今日何食べたい?」


 夏も終わろうかという時期、涼しくなってきた部屋ではいつものやり取り。冷蔵庫の食材を確認しながら誘が聞く。金魚を眺めていたオレはちょっと考えてから答えた。


「こってりしたやつ」

「じゃあビーフシチュー作るね」


 おー、と気怠げな返事を返しながら金魚に餌をやっていないことに気づいた。調味料のような容器を取って、水面に餌を振り落とす。すぐに寄ってくる金魚。ぱくぱくとしきりに口を動かす食欲旺盛な様に満足したオレは、立ち上がって台所に向かった。


「手伝うか?」


 後ろから抱きつかれた誘はあ、と小さく驚きの声を上げる。それから水を止めこちらを振り向いた。抗議と動揺の念が入り混じった目に射抜かれる。


「ちょっと……もう」


 しかしまんざらでもなさそうで、オレの腕にすっぽり収まったまま抵抗しない。透き通るような肌にほんの少し赤が射す。誘ができるだけ長くこの体勢でいたいのは見てとれた。オレも同じ心境だったが、これ以上このままでいると二人の取り決めを破ってしまいそうなので彼女を開放する。


「なんだよちょっとは抵抗しろよ」

「そう言って本気で拒絶されたらへこむ癖に」

「今のお前がオレにそんなことできるわけ無ぇだろ」


 悪戯っぽく切り返すと無言でどつかれる。それからは何事もなかったように、いつも通り二人で料理を作り始めた。




 秋月と水巻のそもそもの出会いは八幡が原因だった。「一夏の恋」とやらが普通の恋愛とどう違うのか、という八幡の好奇心によって運命は引き合わされたと言えよう。己の自己中心的な興味の為に彼は秋月を使って「一夏の恋」の経過観察を企てた。こうして、初夏の街に繰り出し秋月に適当な女をナンパさせるという作戦が実行されたのである。

 梅雨も明けたばかりの街角で女性を物色する男二人。その様子はかなり不審で、やっとターゲットを定めた時も不審だった。


「今です秋月君、あのナウでヤングなナイスバディに突撃して下さい!」

「古いわ‼ ってかハードル高ぇってもうちょっと無難な」


 二人のやり取りにターゲットが振り返る。しまった、と固まる男達。秋月に至っては彼女の美貌にも体を強張らせているようだった。その隙をついて彼の背を押しターゲットの前に立たせる八幡。


「だっ、あ、その、」

「……何か?」


 チャンスの到来だったが急すぎる。しどろもどろする秋月、厳しい目を向ける女。しかしその女も、腹をくくった秋月の目を見て顔を一変させた。

 ――結果的に八幡の計画は斜め上に飛んだ。恋は芽生えたっちゃ芽生えたが、とても一夏で終わるような軽々しい関係にはならなかったのだ。よく運命の相手に出会った時は電流のようなものが走るというが、二人にもそれがあったのだろう。そのまま彼らはとんとん拍子に交際から同棲までこぎつけ、プラトニックな関係を保ったまま夏を過ごした。




「お前が奥さんなら多分文句無ぇわ」


 ぽつりと本音が出る、晩飯を食い終わった後のことだった。誘は動揺したのかフォークを取り落とす。しまった時期尚早だったかな、と自らの発言を早くも後悔した。


「……本気でそう思ってるの」


 顔を向けた彼女の表情にどきりとする。何かに満ち溢れてはいるが、得体の知れない目。今にもその「何か」を露わにしそうな誘が恐ろしく不気味だった。


「だって性格いいし顔もいいし家事もできるしよ、もう完璧じゃねぇか」


 何とかいつものオレを取り繕い、妻にしてもいい理由を語る。心の底からそう思っていた。付け加えるなら趣味嗜好も合うし、距離もちょうどいい。出会い方すら運命的だった。代わりなんていない。そう断言してもいいぐらい誘はオレにとって完璧な存在なのだ。しかし依然として彼女の表情は変わらないまま。困惑したオレは話を逸らそうとする。


「いや、付き合ってまだ二ヵ月だからな? これから互いの嫌な部分も見えて……」

「本当に、一生一緒にいてもいいと思ってくれる?」


 オレの望む方向とは違う答えが返ってきた。今度こそ狼狽えていると誘が席を立ち迫ってくる。いつもの大人しい彼女とは違う、もう逃げられない。そのまま勢いにつられて立ち上がってしまうオレ。


「ねえ」

「お、思ってるよ……結婚、してもいいし」

「じゃあ今すぐ一緒になろう?」


 ずい、と誘がオレの胸に手を添え顔を近づけた。どうしたんだこれは、彼女の心境に何が起こっている。冗談とは思えない様子に混乱と焦燥しか生まれない。この女が自分からこういうことを言ってくる時点でおかしいのだ。第一あの取り決めは誘が言い始めたことなのに。


「おい落ち着けよ、結婚後じゃねぇとそういうのしたくねぇっつったのはお前だろ」

「大丈夫、大丈夫だから」


 何が、と問いかけたが目が必死すぎて口答えすら戸惑う。潤んだ瞳はどうしようもなく無力で、淫靡で、悲愴感に満ちていて。あまりに扇情的なそれに唾すら飲み込む。


「結婚なんて生易しいものじゃない、身も心もずっと一緒なの、私分かったの」

「……オレにどうしてほしいんだよ」

「キスして」


 唐突な要求に閉口する。多分、結婚なんて云々は言葉の綾なのだろう。そして、オレと結婚してもいいということなのだろう。予期せぬ事態に陥ってしまったがこんなプロポーズもありかもしれない。オレはちょっと考えてから、誘の両肩を抱きキスをした。


「あ」


 ぱしゃん、と誘の質量が消え煙のように水になる。べちゃりと彼女を僅かに吸った衣服が水たまりに落ち、オレの足に水滴が跳ねた。しばし呆然とし、やがて頭が妙な冷静さに取り巻かれる。

 ――ああ、あいつ百日だったのか。舌の上に残った誘を飲み下しながら水たまりに手をつく。だったら何でオレにキスしてとせがんだのだろう、百日経ったと勘違いしていたのか。そもそもキスが性交渉の内に入るとは思えないが。そんなことを考えている内にいつもの自分が戻ってきて、オレは泣いた。




「いまいち水巻さんの考えが理解できませんねぇ」


 水巻誘が水になるまでの一部始終を聞いた私は、率直な感想を述べる。下手に慰めると却って逆効果だからだ。


「お前百日だったろうが、そこらへん分かんねぇのかよ」

「人間になってしまうと百日だった時の感覚は一切無くなりますので」


 それを聞くとどこか意味深な表情を浮かべる秋月。言おうか言うまいか、という迷いが見てとれた。やがて決心したのか、ゆっくりと席を立つ。


「……もったいねぇからさ、誘を金魚の水に混ぜたんだよ」


 何もいない水槽に手をかけ語り始める。水がなんとなく青白い、という感覚を覚えた。透明なはずの水にそんな感想を抱くのはおかしなことだが。


「そしたら金魚が減ってくんだよな、最初は何とも思わなかったぜ」


 メダカなんか自分の子供食っちまうし、と付け加え薄く笑う。観賞魚が共食いをするのはよくあることらしい。


「けど最後の一匹すら消えた時……誘が金魚食ってんじゃねぇかと思った」


 飛躍しているが、辻褄はつけやすい理論。もしかしたら現実逃避の類かもしれない。が、今私が彼にしてやれるのはその考えを否定せず、ただ納得したふりをするくらいだ。大体本当に金魚が消えたのか。そこから既に彼の妄想という可能性すら考えられたが、現に金魚はいないので真偽は分からない。

 そもそも百日が溶けた後の水なんて誰も気にとめたことが無かった。普通に掃除されて終わり。雑巾の染みとなった百日は水道水と混じり、絞られ、流されるだけだ。あるいは雨に打たれて排水溝か。


「だから寂しくねぇよ、形はどうあれ一緒だしな」


 お前の望んだ一夏の恋なんかじゃない、と呟く秋月。気休めでしかなかった。かといって現実を突きつける気にはならない。それはとても残酷なことで、時に任せればいつか解決する問題でもあるから。やはり何も言わない方が彼の為になるか、と考えていると意外な言葉をかけられる。


「今更だけどありがとな、オレ達を引き合わせてくれて」


 そのことについて礼を言われるのは初めてだった。それも、かつてない満面の笑みで。その表情を見た所、彼も彼なりに受け止めようとしているのだろう。その内いつもの秋月に戻るに違いない。


「それで君が幸せになれたら幸いです、では怪我も問題無いようなので帰りますね」

「おう」




 右目は誘にくれてやった。本当は怪我なんかしてない、もう無いんだから。八幡が帰って一人残されたオレは、にたぁと口角を吊り上げた。誘が生きてて金魚を食べている。オレの仮説が正しいかどうか試してみると、あいつは右目を金魚なんかよりずっと美味そうに食いやがった。それからぺろりと舌なめずり、艶っぽい表情でオレを物欲しげに見つめるのだ。それはそれで悪い気分ではなかった。あんなにプラトニックな関係を求めていた女も一皮剥けばこうなるらしい。そしてこの反応で分かった、誘は生きる為に金魚を食べていたのではなくオレを誘う為に食べてみせていたのだと。


「お前の言葉の意味、やっと分かったよ」


 結婚なんて生易しいものじゃない、身も心もずっと一緒。初めて出会った時に走った稲妻は嘘ではなかった。オレ達は運命で結ばれていて、もう少しで互いの本懐を遂げられるのだ。

 最近体の中から食われているのを感じる。あの時飲んだ誘だ。あと何週間だろうか、オレが動ける限界まで食い尽くされたら。水槽の中を浴槽にぶちまけて。


「一生一緒だな」


 青白い煙のような誘が、水槽の中で微笑んだ。

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