第4話第4章「闇に光る一つの瞳」&エピローグ

「…ただいま」

 ドアをゆっくりと開けていつものようにそう声をかけた。しかしやはり返ってくるのは静寂だった。それはそうだろう。この家にはもう、要の帰りを待ってくれている者はいないのだから。

 その事実に寂しさを覚えるも要はそのまま部屋の奥へと向かっていく。

「あら?要君、お帰りなさい」

「え?吉乃、さん?どうしてここに?」

 誰もいないと思っていた妹の部屋、そこからひょっこり顔を出したのは看護婦姿の女性、吉乃さんだった。

「咲夜さんから連絡がきたの…空ちゃん…亡くなっちゃったって…だからお葬式の用意をしようってね。そういうことで部屋に入らせてもらったんだけど…ダメだったかな?」

「いや、いいですけど…社長、そういうのは一言何か連絡入れろよ…」

「ははは、あの子は昔っから抜けてるところがあるからねぇ」

「昔から?吉乃さんって社長とどういう関係が?」

「あぁ、咲夜さんの家と私の家はちょっと遠いけど親戚関係でね。昔からよく会っていたんだよ。昔はお姉ちゃんお姉ちゃんってずっと後ろをついてきてかわいかったなぁ」

「へぇ…そうだったんですか」

 あまり社長も自分のことを語ってくれる人じゃなかったのでまた一つあの人の秘密を知れてラッキーだと要は思った。

 要は昨日のうちに社長にすべてを話していた。空が死んだことも、自分の記憶を偽っていたことも、そして空をお墓に入れてあげることもだ。そのせいか社長はさっそく行動に移してくれたようだ。本当に社長にはお世話になりっぱなしだなと彼は内心で苦笑した。

「要君…ごめんなさい…病院側を代表して謝罪させて…」

 急に吉乃さんが頭を下げる。突然のことに要もどうしていいのかあたふたするしかなかった。

「私たちに治療薬が作れるほどの力があったなら…こんなことにもならなかったのに…」

「…あの、顔を上げてもらえませんか?たぶんそれは誰のせいでもないですよ…病院の先生たちが一生懸命薬の開発をしてくれてたのも知ってますし…それで怒るなんて俺にはできませんよ」

「…要君…ありがとう…」

 吉乃さんは本当に申し訳なさそうに頭を下げていた。しかしそれを見ても要はどうすることもできなかった。

(一番悪いのは…あの隻眼の悪魔だ…あいつだけは…絶対に俺が…)

 妹のことを間接的にだが殺した隻眼だけは許せなかった。彼の心の中に残る怒りの炎がバチバチと燃え上がった。

「あ、そうだ。空ちゃん、いったん病院で引き取らせてもらってるからね。それで…少しだけ検査させてもらうけど、いいかな?」

「検査、ですか?」

「そう。あ、検査って言っても解剖とかしないから安心して?ちょっとだけ空ちゃんの細胞を採取するのと後はCTにかけるぐらいだからさ。もしかしたら何かわかるかもしれないし。空ちゃんと同じ症状の患者さんがもし次に現れたら…こんな悲劇繰り返さなくなるようにするから…だから、お願い…」

「わかりました、いいですよ…空の死を、無駄にしないでください…」

「うん…」

 そのあとは吉乃さんと一緒に空の遺品を集めた。簡素な部屋だったけれど探ってみるといろいろと彼女のものがあふれ出してきた。それと同時に妹との楽しかった思い出も蘇ってきて涙腺が緩みそうになるのを、彼はどうにか堪えた。

「あ、そういえば咲夜さんが今日の4時過ぎごろに事務所に来てって言ってたよ。友達も連れて来てって言ってたっけ」

「友達?…時雨のことかな」

 たぶん空のことで何か話があるのだろうな。時雨のことも昨日社長に話したし、そのせいだろう。

「わかりました…ってもう3時過ぎじゃないですか…言うの遅いですよ…」

「ごめんごめん。私忘れっぽくてね」

「それじゃ俺行ってきますね、鍵は…」

「あぁ、咲夜さんから合鍵もらってるから大丈夫、戸締りもちゃんとしておくからさ」

 後のことは吉乃さんに任せて要はまず時雨の家へと向かった。


「ここが…時雨の家か…案外でかいな…」

 時雨の家がどこにあるのかわからなかったので彼女に連絡を入れてここまでナビしてもらった。そして着いたのがこの豪邸の前である。真っ白な壁の西洋風の作りの家、庭も広くまさにお嬢様が住んでいそうな家だった。

「ようこそ先輩!ささ、上がって上がって」

「え?いや、上がってる暇は…」

「いいからいいから!ここまで来て疲れたでしょ?ちょっとだけおやつタイムにしようよ」

 彼女の有無を言わさぬ姿勢に負け要は家にお邪魔することに。

「お邪魔しま~す…」

 中もきれいでやはり豪邸なイメージだ。シャンデリアなんて飾ってある家なんて見たこともない。しかし彼女の家はただ豪華というだけではなかった。そこかしこに家族の生活感があふれて温かい感じだ。それは要の懐かしい記憶を刺激した。家族がバラバラになる前の楽しかった時の記憶を。

「先輩、ちょっと待っててね。すぐに用意するから」

「あぁ…そういえば、ご両親は?」

「ん?お母さんたち?今出かけてるよ。多分買い物なんじゃないかな?」

 リビングに通されるがそこで一人取り残された要はすることもなく、何気なく部屋の中を物色し始めた。

 リビングはごくありふれた家庭的なものだった。食事を囲んでいるであろうダイニングテーブル、大きめなテレビ、本棚やタンス、さらには観葉植物などといったごく一般的な家にあるようなものであふれていた。さすがに数万円を超える壺やら数百万の絵画など飾っていないことに要はほっと胸をなでおろした。金持ちである社長の家にはそういうものがごろごろと転がっていて落ち着かなかった経験がこの簡素な部屋での安堵を要にもたらさせていた。

(家族写真、かぁ…写真なんてほとんど撮ったことなかったな…)

 ダイニングテーブルに飾ってある家族写真を見て要は少し寂しい気分になった。写真の中の家族はとても楽しそうでみな笑顔がはじけている。自分にはこんな楽しい時間がなかったことが悲しく思え、それと同時に時雨に嫉妬も抱いた。

 もし自身にもこのような楽しい過去があれば、なんて想像してしまう。もしも父親が悪魔だとばれずに過ごした世界、そこではきっと要も妹の空も、あの日蔑んだ目線を見せた母親だってきっと笑顔なはずだ。きっと今のこの要自身もいないはずだ。そう、この冷たく壊れてしまった今の要自身が。

 だがどれだけ妄想したところで彼の過去は変わらない。今は今であり今の収束が現在の彼を、彼を取り巻く環境を形作っているのだ。もしもの自分を肯定して縋りつくのは今の要という人間を形作ってくれた優しい人たちに失礼というものだ。彼を拾ってくれた社長、懸命に妹の面倒を見てくれた吉乃さん、それに彼自身を暗闇から引き上げてくれた時雨の存在を、彼は否定したくはなかった。

 要はそんなことを考えながら時雨の過去の写真をもっと詳しく見ようとそれを手に取った。

 写真の中の体操服姿の幼い時雨はカメラに向かって満面の笑みでピースをしている。きっと小学校の運動会のことだろうな。今と同じかわいらしい顔でくりっとした目が印象的だ。しかも当時からそこそこに胸が育っていたらしく、なんだかいけないものを見てしまった感じだ。時雨の過去を想像してにやにやとしていたのがだ、その隣の母親の姿を見た時、要は絶句して思わず持っていた写真を落としてしまった。

「な、なんで…なんでなんだよ…なんで…母さんが…ここに…」

 その写真に写っていたのは要の母親だった。要すら忘れてしまった笑顔の表情をした母親がそこに写っていた。見間違いや他人の空似という可能性があるかもと思いもう一度詳しく写真を見たがやはりどう見ても要の母親その人だった。

「それに…こいつは…!」

 母親とは反対方向に写っていた男、それは時雨の父親であり、要の忌むべき人間だった。

「父さんを…殺したやつだ…!」

 そこにいたのは眼鏡越しに微笑を浮かべている隻眼の男、啓二だった。その男はどうやっても忘れることができない、要の人生を崩壊させた存在だった。父親を殺し、母親を狂わせ、そして要たち兄妹の人生さえ狂わせたすべての元凶が、今この写真の中に永遠の時として刻み込まれていた。

「こんなところにいたのかよ…クソ野郎ども…!」

 要はその写真をぐしゃりと握りつぶした。本当ならびりびりに破り去ってしまいたかったがすんでのところで止めた。だんだんと要の中に怒りが湧き上がってくる。

 自分を、空を捨てた最悪の人間たちが、自分たちが苦しんでいる間にこうやって笑顔を浮かべていたことが許せなかった。楽しそうに、何事もなく生きているのがたまらなく許せなくて、悔しかった。怒りの炎が燃え上がり要の理性をどんどんと蝕んでいく。

(こいつらも…俺の敵だ…!空の…敵(かたき)だ…)

 そして怒りと同時に、寂しさにも似たよくわからない感情が浮かんできた。時雨が、彼らの子供だったという事実だ。自分を助けてくれた時雨が、彼の運命をどん底に突き落とした人間の子供だったなんて最高の皮肉じゃないか。まさにお笑いだ。

「ただいま、時雨。あら?お客さんかしら?」

「もしかすると彼氏かもしれないな、ははは」

「―っ!」

 家の扉が開き、懐かしい声が聞こえてくる。その声を聞いただけで要の脳内は割れそうなほどにギリギリと痛んだ。そしてそれと同時に抑えきれない殺意があふれていた。抑えきれない殺意はやがて明確な衝動へと変わる、殺してやりたい、そんな真っ黒な衝動へと。

 要はポケットを確認する。そこにはいつ悪魔と対峙してもいいように護身用のナイフがある。そいつのグリップを確認してポケットの中でぎゅっと握りしめた。ありったけの殺意を込めて―


 殺意と憎悪の心を原動力に要は廊下を走った。爆発的に自身の体の身体能力が上がっているのが分かる。足の速さはもう大抵の奴はかなわないだろうとさえ思う。まさに風と一体化した感じだ。その全力を以って要は玄関にいるであろう復讐すべき相手の懐へと突っ込んでいった。

「うおらぁぁぁぁぁぁ!」

 玄関で二人の姿を目視した。写真越しに見た姿とほとんど同じ姿でそいつらはいた。楽しそうにしていた顔が要の姿を見るなり一瞬にしてひきつった。相手はまだ戸惑っている、その隙にと要は男の懐へと飛び込んだ。その男、啓二の腹に思いっきりナイフを突き立てた。要はこの男の腹に思いきりナイフを突き刺し柔らかい肉をえぐり取り内臓をぼたぼたと汚らしく地にまき散らさんとする気迫だ。

「…ほぅ…お前は…あの時のガキか」

「貴様ぁ…!啓二ぃ!」

「おいおい、年上にはさん付けしろと習わなかったか?…とすまんな、お前は孤児だからろくに学校にも行けなかったんだよな?ははは」

「てめぇ…!殺してやる…!」

 明らかにナイフを刺せる距離にまで要は詰め寄っていた。しかし啓二はすんでのところで要の腕を握りナイフの到来を防いだのだ。そして啓二は彼を値踏みするように見たのち笑い声をあげた。その笑いは下卑たもので要の心に一気に不快感が広がっていった。

「くくく…あの時のガキが復讐しに来るとはなぁ…これは面白い展開だ…俺も予想していなかったぜ」

「いやぁ!悪魔!啓二さん…助けて…!」

「まぁ落ち着けよ、響子」

 要の母親だった女、響子は彼を見るなり悲鳴じみた声をあげまるで汚物でも見るような冷たい目を、さらにはおびえたような目で彼のことを見た。昔母親だった存在だったからこそ要にはその視線が痛かった。昔の優しかった母親の視線などもうそこには微塵も存在していなかった。

「ど、どうしたのお父さんお母さん!それに…先輩!?何してるの!?」

 この騒動を聞きつけてだろうか、奥から時雨が出てきて慌てた顔で要と啓二を交互に見た。

「時雨、母さんを頼む。ちょっと取り乱してな。奥の部屋で休ませてやってくれ。俺はちょっとこいつと話さなくちゃいけないんでな」

「う、うん…分かった…」

「さて…少し話をしようか。俺はお前のことに興味がわいてきた」

 そう言って啓二はリビングへと要を誘った。要は黙ってそれについていく。彼にも、啓二には聞きたいことがたくさんあったからだ。


「おい…話をする前に一つ質問させてくれないか?」

「ほう…なんだい、半悪魔の要君?」

 いちいち言動が癪に障ると要は内心で思い舌打ちをする。けれど怒りに任せてはいけないと頭を振って話を進めることに。

「時雨は…お前たちの娘なのか?」

「くく…お前…バカか?頭の中詰まってないんじゃないのか?」

「はぁ?てめぇ…そんなこと言ってないで早く答えろよ」

 明らかな挑発的な言葉に要はぎりりと奥歯をかんだ。この男は人をイラつかせる天才かなにかなのかと彼は警戒の姿勢を見せた。油断すれば相手のペースにのまれてしまう、それだけは避けなければいけないことだった。

「まずお前の年齢と時雨の年齢を考えてみろよ。1つしか変わらないだろ?で、お前の妹との年齢差を考えればどのタイミングであいつは俺との子を孕むんだ?そんな簡単な計算もできないのかよ」

「…ちっ」

 いらだちと同時に安堵の息が漏れるのが分かった。時雨がこのクズどもの子供じゃないということがわかるだけでも十分に心には安息が広がった。

「あいつは捨て子だ。だから親が誰かなんてわからないぞ」

「捨て子だと?」

「あぁ、俺の研究のために使わせてもらったんだが…どうやらあいつには適合能力がなかったらしい。だからゴミとして処分しようとしたんだが…それをお前が邪魔をしたんだ」

 ふと脳裏に時雨との出会いの日を思い出す。あの時要が倒したはぐれ悪魔、あれはこいつが手向けたものだと瞬時に理解できた。そしてそれは彼女の処刑用の悪魔で、彼は時雨の文字通りの命の恩人になったというわけだ。

「それはそうと…お前の妹は元気か?」

 啓二はふと要にそんなことを尋ねた。何気ない態度で聞いたその言葉も、要の心を動揺させるには十分すぎる言葉だった。ドクンと心臓がはねて背中に嫌な汗が走った。

「…ってははは!元気なわけないよなぁ?あいつは今もぐっすりか?それとももうくたばっちまったか?」

 要はその言葉に違和感を覚えた。なぜこいつが、空がずっと眠っていると分かったのか。まるでそれを知っているような口ぶりだ。要と啓二が再開したのは今日が初めてだ、ならなぜそれ以前の空のことを知っているのか。

 ―隻眼の悪魔―

 ドクンとさっきとは違うベクトルで心臓の鼓動が跳ね上がった。目の前の男は、隻眼。そして少し前の言葉から類推するに悪魔を使役することも可能と考えられる。そうするともう答えは一つしかなかった。

「お前が…空に薬を渡したっていう…隻眼か!」

 一瞬の沈黙がその場を支配した。重苦しい沈黙ののち、啓二はさぞ愉快そうに口を開いた。

「あはははは!そうだよ!俺が…お前がずっと探していた隻眼の悪魔だ」

「てめぇ…殺す!」

 花丸印をつけられて返された答案に彼は明らかな殺意を覚えた。それは常人が一生のうちに感じるそれの何十倍にも匹敵するほどの大きさだろう。

「まぁ待てよ。冥途の土産にお前にすべての答えを教えてやる。欲しいだろ、なぜおまえたちが捨てられたかという真相が」

「なに…?」

 しかし要はその言葉にあらがうことができなかった。今すぐにでもこいつの首を掻っ切りたいと思うのと同時に、真相も知りたいと思ってしまう。なぜこいつは父親を殺して、母親と付き合ったのか、それに時雨にしたという研究も気になる。要は相手に話を進めるように促した。


 それは10年前のことだった。要の父親、遼平(りょうへい)は悪魔と人間の共存の方法を探っていた。自分には2人の子供がいる。その子が悪魔との間にできた子だということは妻の響子は知らない。もし自分が悪魔ということが、子供たちが半悪魔とばれれば世間から迫害されるのは確かだ。そして妻にもその被害は及んでしまう。彼はどうしてもそれを止めたかった。

 なら初めから響子と結婚するなど、ましてや子供を授かるなんてことをしなければいいという意見があると思うが、彼はそれができなかった。本気で彼は人間を愛してしまったからだ。愛というのは不思議なもので、それを感じている瞬間だけは彼は人間になれた気がしていた。そして気が付けば子供が2人もいるという現在に至ってしまったわけだ。

 この子供たちを守るために、彼は必死に悪魔との共存の道を探った。各地の上級悪魔たちと出会いそのことについて話し合った日もあった。けれど彼に味方してくれる者など誰一人いなかった。そして彼は異端として悪魔の世界から追われた。

 だけれど彼はあきらめなかった、人間との共存の道を。そのあきらめない姿勢が報われたのかだんだんと彼に同調する悪魔が増えていった。けれどそれを快く思わない者もいた。その一人が、啓二だった。

 彼は人間をもてあそび、観察し楽しむという何ともな趣味を持っていた。しかしそれは彼がインキュバスだからだ。インキュバス、簡単に言えばサキュバスの男版だ。人間の女性を惑わして生きていくという性質の悪魔。その名の通り彼は数多の女性を惑わせてその人生を狂わせた。だんだんとそれだけでは飽き足らずに彼はその女の周りの人間の人生も狂わせることを趣味としていった。そしてその興味が次に示した対象、それが響子だった。

 悪魔を夫とし、半悪魔の子供が二人、これほど恰好の的は他にはなかった。しかも彼の夫は共存論を唱える遼平だ。彼にとっても目障りな存在だ。だから彼はさっそく彼女と接触を試みた、彼女とそれを取り巻くすべてをぐちゃぐちゃにするべく。

 まず手始めに夫が悪魔だと教えてその証拠を見せるといって遼平の吸血シーンに立ち会わせた。もちろん子供たちも一緒にだ。悪魔は人間の血を定期的に吸わねば生きていけない、それはいくら共存論を唱える遼平にも適用されるもので、彼はつけられているとも知らずに人間から血を採取した。しかもその人間は運の悪いことに、少女だった。抵抗する力もない少女から血液をもらっているのを見た響子は、彼に対して嫌悪感を覚え、さらには恐怖心を植え付けられた。自分も隙があればああやって血を吸い取ることができるのだという恐怖が。

「殺して…!お願い…!あの悪魔を…殺してぇ!」

 それを見た響子は発狂したようにそう叫んだ。その声に驚いた遼平は逃げようとしたが無残にも啓二は惨殺した。あっけなく遼平は死んだ。そう、あまりにも呆気なくだ。物語にしようもないほどに簡単に、死んだのだ。しかしその死に様は啓二にとっては胸糞の悪いものだった。最後までごめんなさいと子供たちに、響子に謝りながら死んでいったのだ。その時啓二は思った、こいつが大事にしていた子供たちにはもっと苦しんでもらおうと。

 殺してしまえば苦しめることはできない、だから彼は子供たちを孤児院に預けることを響子に提案した。彼女は悪魔を近くに置かなくてもいいならと喜んで賛成していた。あの時の心底嬉しそうで安心した顔を啓二は生涯忘れることができず、思い出すだけで背筋にゾクゾクとした快感が走った。

「お願い…啓二さん…私を…悪い悪魔から守ってほしいの…」

 その言葉を受けて啓二はほくそ笑んだ。もちろんと表面上ではさわやかな笑みを浮かべながら。そして二人は結婚した。彼は時雨のことを連れ子だという設定にしたが彼女は悪魔の子じゃなければなんでもいいということで目をつむってくれた。


 それから時は流れて5年前だ、啓二は孤児院で火事が起こったというニュースを見てピンときた。あのどちらかが悪魔の力に目覚めたのだと感じたのだ。早速彼は孤児院に偵察に行った。そしてそこで少女が能力を発したのだと知ると接触を試みた。

 彼女が一人の時を狙って薬を渡した。彼は悪魔の間で広がっている学問、錬金薬学に精通していたので毒薬を作るなんてお手の物だった。それを少女に渡して後は経過を見守るだけだった。いつか爆発してそれを飲む日が来るのを。

 彼の予想通り、いや、予想よりかなり早く少女は薬を飲み覚めない眠りに落ちた。その後の少年の狂ったように死に急いだ様もたまらなく彼にとっては快感となった。


 時雨がだんだんと成長していく過程で、彼は時雨に薬を飲ませていった。それは人工的に半悪魔を作るという恐ろしいものだった。悪魔の力を持つ人間が生まれれば今まで人間に殺されるだけだった悪魔も報復できる、悪魔と人間の全面戦争の駒が増えるのだ。それ故彼はひたすらに研究をした、時雨を実験用モルモットとして。しかしいくら研究を重ねても彼女に悪魔の力は目覚めることがなかった。自分の研究がうまくいかずにだんだんとイラついた彼は、ついに時雨を処分するように決めた。自分の思い通りにならない人形は、無残に殺されてしまえばいいと思い、下級悪魔を使役して時雨を殺そうとした。けれどその策も知っての通り要に阻止されてしまったが…


「…そういうわけでお前は邪魔なんだよ…だから…死んでろ」

 話が終わるとすぐに啓二は要に襲い掛かった。どこから取り出したのか真っ黒な古い時代に使われていたような細身の槍を構えて要に突進してくる。要はすんでのところでそれを躱したがすぐにしまったと思った。

 槍の攻撃はおとりだったのだ。要が横に避けたのと同時に、避けた先に啓二の蹴りが決まった。ひょろりとした足にもかかわらずその力はすさまじいもので並の人間なら骨が折れてしまっていただろう。だが要も特別性だ、ダメージもそこそこに防御できる。要はその勢いを利用して後ろに下がり戦闘態勢をとった。

 彼は舌打ちを一つした。あの時話を聞かずに首元を掻っ切っておけばよかったと後悔が走ったがそれはもう遅い。今考えるべきは奴を倒すことだ。復讐の相手を、殺す。数分前の要ならそう思っていたが今の要は違った。

愛する人を殺されないために、こいつを殺す。

こいつが生きていればまた失敗作と呼んだ時雨のことを殺すかもしれない。いや、こいつのことだ、今度はどんなに無残なやり方で殺すかは知れない。要の愛する人を、この世に一人の彼の生きる支えを、またも失うわけにはいかなかった。

「俺は…ここで死ぬわけにはいかない!空のためにも…時雨のためにもだ!」

 要は懐に隠し持っていた護身用の拳銃を取り出した。いつも使っているバスタードライブでもジェットドライブでもないただの短銃だ。武器のほとんどは事務所に置いてきている。だからこいつで戦うしかなかった。もう片方の手にナイフを握りしめて姿勢を低く構えた。いつでも飛び込める体勢だ。気が逆立っているこの状況でも確実に基本の戦闘態勢を取れるあたりやはり要はくぐった修羅場の数が違っていた。

「少し俺も本気を出すかな…半悪魔を殺すのは手こずるからな」

 そういうと啓二は真っ黒なオーラを解放した。それは要が悪魔の力を使うときに似ていた。そのオーラが彼の体を覆い尽くす。そして次に姿を見せた時には完全に悪魔の姿と化していた。

 体に刻まれた真っ黒な模様、赤く光る瞳、口の端から見える尖った牙、そして何よりも頭から角が生えていた。見るものを慄かせ、そして嫌悪させる、これが啓二の悪魔としての姿だった。

「ちょっと二人とも何やってるの!?…え…?おとう…さん…?」

 ドタバタを聞きつけてか時雨がこちらにやってきた。が、彼女は父親の変わり果てた姿を見てその場に突っ立ってしまった。その姿はまさに要が父親が悪魔だと知った時と同じ姿だった。

「嘘…お父さん…何その恰好…もしかして…お父さんは…悪魔、なの…?」

「あぁ…そうさ、俺は…悪魔だ…」

「先輩みたいに半分だけ悪魔、とかじゃなくて…?」

「あぁ、こいつみたいな出来損ないじゃなく…本物だ。俺は純血なんだよ。正真正銘、完全な、悪魔だ」

 忌々しげにはかれたその言葉を否定するように時雨は頭を振った。けれど目の前の父親の姿がその言葉が嘘偽りないことを表していた。彼女はあまりの衝撃に動けなくなってしまっている。それは格好の的であり、啓二はその隙を見逃すはずがなかった。

「させるかよ!」

 要は全身の力を足に込めて爆発的な勢いで地面を蹴った。ものすごい勢いで走り時雨の前に立ち塞がり啓二の攻撃から彼女を守る。

 しかしナイフだけだとあまりにも頼りない。要は意識を集中させて悪魔の力を発動させた。真っ赤な鎌を具現化させて啓二の胸元に振り下ろす。しかしそれは華麗に避けられてしまい切っ先は虚しく空を掻いた。

「時雨!お前は隠れてろ!こいつの相手は俺がするから!」

「先輩…お父さんを…殺しちゃうの?」

 その言葉に要は胸が痛んだ。たとえ悪魔だとしても時雨には父親だ、殺されるのは抵抗があるのだろう。だけれどこいつを野放しにしておけば彼女が殺されてしまうかもしれないんだ。

「なぁ時雨…こいつは俺の家族をめちゃくちゃにした…空も、殺した…そしてお前も、殺されかけた。覚えてるだろ?俺と初めて会った日だ。あの悪魔はこいつが差し向けた奴なんだ…そして、こいつはお前の身体を使って実験しようとした…人工的に悪魔の力を発現させるための…」

「嘘…」

 時雨は信じられないといった風に目を見開いた。けれどどれもこれも啓二の口から聞いた本当の言葉、今更弁明はできない。

「あ、悪魔…!あぁ…私は…悪魔の子を育ててたんだわ…」

「え…?おかあ…さん?」

 後ろから聞こえた女性の声に振り向けばそこには怯えた顔の母親がいた。震える指先で時雨のことを指差しひたすらに悪魔と罵っていた。それはやはり要たちを捨てた時と同じ表情で、何年たっても変わらない母親の最低で最悪な姿だった。

「お母さん!私は悪魔なんかじゃ…!」

「あぁそうさ、こいつは悪魔だ!俺の薬のせいでこいつの体は若干だが悪魔に近づいている!」

「ひぃ!やっぱり…悪魔だったんだわ…」

 顔いっぱいにおびえの表情を作り母親は外へと飛び出して行ってしまった。発狂したような叫びがだんだんと遠のいていくのが分かった。それと同時に時雨が力なく笑う。今まで育ててくれた母親にも父親にも裏切られたのだ、心が崩れてしまったのだろう。それは要自身にも経験があることでその痛みはしっかりと要の胸にも刻み込まれた。そして怒涛の怒りとともに彼の心に、時雨の心に染みこんでいく。

「先輩…お願い…お父さんを…ううん…この悪魔を殺して…」

「時雨…分かった…俺が…殺してやるからな…」

 力ない、それでいて確実に怒りを孕んだ時雨のお願いの声に、要は応えた。愛しい時雨の心をぐちゃぐちゃに踏みにじったこの最悪の悪魔を、要は許すわけにはいかなかった。


 要は思いっきり鎌を振り下ろす。しかしその攻撃は虚しく空を切り裂いただけだった。一方啓二の攻撃のほとんどは要の体へと吸い込まれるようにヒットしていく。槍での突き、蹴り、さらには肘など体のあらゆるところを武器にして要に攻撃していく。フェイントも混ぜた彼の性格がにじみ出たいやらしい戦闘方法に要は完全に翻弄されていた。

「おいおい…悪魔の力を使ってもこれか?退屈しのぎにもならねぇぜ」

「うるせぇ!」

 鎌を振り下ろしたのちに銃撃を喰らわせる。だがそれも槍を回転させて防御された。こうなれば戦える術を持ち合わせていなかった。しかも室内という狭い場所で戦うのも慣れていないせいもあり要は完全に相手のペースに陥ってしまっていた。


 戦闘中にもかかわらず軽快な音楽が要のポケットから奏でられた。急な着信に要は驚くが、着信音を聴きにやりと笑った。その音楽は、社長からの着信を表すものだった。もし社長にこの戦いのことを言えばきっと戦闘準備をしてくれるはずだ。しかし自分ではどうやっても出ることができない。どうしようかと考えていた要だがふと後ろで隠れている時雨の存在に気付いた。

「時雨!電話に出てくれ!社長からだ!今の戦闘のことを伝えてくれよ」

 要は後方にスマホを投げる。時雨は危なっかしい手つきだったがそれを受け取り電話に出た。よし、と要はうなずきポケットに入れていたインカムの予備を耳につけた。社長は彼がそうしたことに気付いたかのようなベストタイミングでインカムに語りかけてきた。

「要君!大丈夫なの!?時雨ちゃんから話は聞いたけど…」

「なんとか、ね…でも…ちょっとピンチかも…」

 戦闘しながらも要は社長に現状を伝えていく。何とか伝えるもその間に要は相当なダメージを負ってしまった。

「要君…そんな装備で大丈夫か?」

 インカム越しのその言葉に、要はニヤリと不敵に笑い答えた。

「一番いいのを頼む」

「えへへ、了解!…今から届けるから待ってて…あとインカムはつけっぱなしにしておいて。早苗!サポートお願い!…まずは外に出てちょうだい。それでそこから少し行った先に廃墟があるの。昔パチンコ屋さんだったんだけど潰れちゃっていまは空き家ね、あそこなら戦いやすいと思うの…」

「あぁ、わかった…何とか誘導してみる…」

「要君…妹の敵をとるのです」

 こんな時までネタを挟んでくる社長だったが、彼には逆にそれがありがたかった。これは社長なりに彼を落ち着かせようとしているのだと分かったからだ。

(まずは外に出ないといけないな…玄関から、というわけにもいかないよな…)

 ここから玄関までは廊下を経由しないといけない。しかもそれにはこの部屋の出口へと向かわなければいけない。出口の前に立ちふさがれればこの作戦はおしまいだ。

 どうすればと要は周りを見る。戦いながらも出口を探すべく観察を続けた。

 そして見つけた、最高の出口が。

「ごめん時雨!また今度弁償するから!」

 一度大振りに鎌を横に薙いで啓二を遠ざける。その隙に後方に飛んで、ベランダに出るガラス戸を思い切り力を込めて割った。パリン!と響く音と共に最高の即席出口の完成だ。

「時雨!来い!」

「う、うん…先輩!」

 そして時雨を抱えてそこから飛び出した。去り際部屋の中にスタングレネード、いわゆる閃光弾を放り込み相手の目をくらましておいた。ほんの少しの時間稼ぎになるように。

「ほんとごめん…ガラス、弁償するから…」

「いいよ、気にしないで。だってあれしか方法がなかったんでしょ?」

「あぁ…」

「それよりもさ先輩…この格好…どうにかならない?…恥ずかしいんだけど」

 急いでいて気づかなかったが要は時雨をお姫様抱っこして逃げていたのだ。それはまるで花嫁を奪って駆け落ちするという古いドラマのワンシーンのようにも見えてしまう。

「あ…ご、ごめん!」

 要は慌てて時雨をおろす。ほっと息をついた彼女だが、その顔はどこか残念そうだった。


「おいおい、人の家のガラスを割るなんて暴挙に出やがって…」

 時雨を連れて逃げるが敵はやはり悪魔だ、身体能力が強化されているせいですぐに追いつかれてしまった。目くらましのアドバンテージなどやはり子供だましだったようだ。時雨にそのまま逃げるように促して要は戦闘態勢に入った。

 人通りが少ない道だとはいえここで銃を使うのは危険だ。それに周りは住宅街で爆薬も使えないとなると頼れるのはこの鎌一つになってしまう。ぎゅっと鎌を強く握りしめて切りかかるがそれでもやはり攻撃は届かない。しかし外に出たことで要の攻撃は大胆になっていた。遮るものもないこの場所だと鎌も振りやすかったのだ。

 槍と鎌がぶつかり合ってキンと乾いた音を響かせる。火花を散らして切っ先が対峙する。じりじりとぶつかり合う殺意、一瞬でも気を抜いたほうがその殺意に飲み込まれてしまうギリギリの間合いに、二人はいた。

「要君!もう少しで到着だから!頑張って耐え抜いて!」

「はい…!」

 インカムの声に力強く答える要。しかし要にとってはもう時間も無くなっていた。それは、だんだんと空に黒が滲んできていたからだ。オレンジの空を侵食するように黒が広がっていき、頭上にはもうにやりと口角をあげた月が光っていた。夜になれば悪魔は活性化する。そうなれば要に勝機など訪れるわけがなかった。確かに要も半分は悪魔だ、夜の活性化も扱えるが相手は本物の純血悪魔だ、あちらの方が力をより引き出せるのは明確だ。

 だから要は必死に抵抗して少しでもダメージを与えていこうとする。しかしその努力をあざ笑うように啓二は攻撃を華麗に避けていく。

 もうだめかと諦めかけたが、その思いは後方から聞こえた声にかき消された。

「先輩!頑張って!」

「…時雨?お前、逃げてなかったのか!?」

「先輩が戦ってるのに逃げるなんてできるわけないじゃん!」

「くそ…あのバカ!」

 悪態をつく要だが、その表情はどこか嬉しそうだった。彼女に応援されただけで何でもできるような気がする。不可能なことなんてないんだと思わせてくれるから不思議だ。やはりこれが、恋の力、というものだろうか。

 と、後方から聞こえてきたのは時雨の声だけではなかった。唸るようなバイクのエンジン音がだんだんと近づいてきたのだ。それは一直線にこちらに向かってきていて、耳をつんざくような爆音に聞こえたのと同時に、真っ黒の車体が姿を現した。

 そのバイクは法定速度など守っている様子もなくものすごい速度でこちらに向かってきている。そしてそのバイクが飛び上がった。ぎゅんっと飛び上がったバイクはなおも恐ろしいスピードで突き進んでいく。そしてその先にいたのは、啓二だった。

 あまりのことにあっけにとられていた彼の顔面にバイクの前輪がめり込んだ。ぎゅるぎゅるとうなる前輪が彼の顔面を巻き上げていきそれに耐えきれなくなった体が後方へと吹き飛んだ。獲物を吹き飛ばした漆黒の鉄馬は嬉しそうに地面に降りる。バイクは地面に着くなりききぃっと悲鳴のようなブレーキ音を響かせて止まった。

「おいおい…やりすぎだって、社長…」

 さすがにここまでされれば敵である啓二にも同情がわいてしまう。バイクから下りた社長はメットを脱ぎ去りふぅと息をついた。その手にはバッグが握られている。

「はい、要君。これ、頼まれてたやつね」

「ありがとうございます、社長」

 社長が持ってきた荷物を受け取ろうとした要の顔に何かがかかった。生暖かくてぬめっとしたなにかは顔だけじゃなく要の服にまでかかった。赤だった。きれいな赤色、それが要の服に飛び散っていたのだ。それは何度となく要が見たことのある赤だった。

「え…?しゃ、社長…?」

「…かはっ!」

 その赤は社長の腹部から噴き出したものだった。それだけでは物足りず彼女は口からも赤をこぼした。何が起きたのかを理解するには数秒の間が必要だった。要が理解するまでの数秒の間に社長はばたりと地面に崩れ落ちた。彼に、すべての武器を託して。

 社長の腹部にはぽっかりと穴が開いていた。それは啓二が持っていた槍と同じサイズだった。彼はキッと敵をにらんだ。啓二はニヤリとして笑っている。角がへし折れて顔にひどい傷を負ってなお、不敵に微笑んでいた。その槍の切っ先にはべったりと真っ赤な命がこべりついていた。バイクで引かれてもなお動ける体力が残っていたとは、要は驚愕を受けるが今は社長の方が先決だ、彼女の方へ視線を戻す。

「社長!社長!」

 要は地面に這いつくばって必死に腹部の止血をしようと試みる。だが彼女の傷は重傷でどうしようもなく命の赤が漏れ出していた。

「行くんだ…要君…私のことはいい…あいつを…倒せ…私の屍を…超えて…」

 彼女はそう言って意識を失ってしまった。要はギリリと奥歯を噛む。口の中に鉄の味がじんわりと広がったが気にすることはなかった。なにせ社長はこれ以上の量の鉄の味を味わっているのだから。

「このアマ…!俺の顔に傷を負わせるなんてな…だがざまぁねぇな、簡単にくたばっちまうんだからよぉ!」

「…許せない…てめぇだけは絶対に…俺が殺す!」

 社長が最後に託してくれたロングコートを着て彼は力強く宣言した。ロングコートの懐には確かな銃の重みがあった。いつもの安心できる重みだ。そしてこの重みは社長が繋いでくれた、彼女の命の重みだ。これを無駄になんて要にはできるわけがなかった。

「社長…すみませんが…これ、借りていきます!時雨、後ろに乗れ!」

 要は倒れたバイクを起こすとそれにまたがった。エンジンをふかすとまだ生きているようでブンと唸り声を上げた。

「時雨…飛ばすからしっかりつかまってろよ!」

「うん!…けど先輩…バイク運転できるの?」

「社長に教えてもらったから大丈夫だ!…無免許だけど」

「やだやだ!下ろしてぇ!まだ死にたくないよぉ!」

「静かにしろ!じゃないと舌噛んで死ぬぞ!」

「うぅ…先輩…なるべく慎重にね…」

「あぁ、善処するさ…」

 背中にギュッと時雨が掴まったのが分かった。普段の要なら背中に感じるむにゅりとしたおっぱいの感触に頬を赤らめていただろうが今はそんなことを考える暇もなかった。今要が感じているのは背中に愛する人がいるという安心感と、必ず彼女を守る決意の心だけだった。

「行くぞ…フルスロットルだ!」


 普通の人間はバイクに追いつくことができない、それは常識だ。幼稚園児でも知っている。けれど悪魔に人間の常識は通用しない。啓二は全速力を出してバイクに必死に食らいついて来ていた。そして隙あらば槍で時雨もろとも要を串刺しにするつもりだ。ひゅんと風を切り裂く速さで槍が突き出されるが彼はバイクを器用に操ってそれを避けていく。まるで無免許とは思えない大胆かつ正確な動きでバイクを動かす要。

「要さん…聞こえますか?」

「あぁ、聞こえるが…その声、早苗か?」

「はい…」

 普段聞きなれていない早苗の可愛らしい声が耳元から聞こえた。

「どうした?お前がしゃべるなんて珍しい」

「非常事態ですから…咲夜さんが倒れた以上僕がサポートしなくちゃいけないんです。あ、安心してください。咲夜さんは無事です、さっき救急車で病院に運ばれましたが息はしていたそうです」

「そうか…」

 とりあえず一安心してほっと息をついた。

「安心しましたか要さん?」

「あぁ、そうだな」

 まるで心を見透かしたかのような早苗の声に要は笑って答えた。

「そうですか。ならよかったです。何か不安があるまま戦っても最高のコンディションは出せませんからね」

「ありがとな、早苗」

 要は早苗に感謝の意を示した。不器用だがこれが早苗なりの励ましの仕方なのだろう。

「それでですね要さん、ポケットに銃が入れてあります、それを時雨さんに渡してもらえますか」

「渡すって言っても手が使えないしな…時雨、コートのポケットに銃が入れてあるらしいからそれをとってくれるか?」

「え!?ぽ、ポケット…?もしかして手を突っ込むの?」

「あぁ、それしかないだろ…?」

「うぅ…ちょっと恥ずかしいなぁ…」

 何を恥ずかしがるのかよくわからない要は頭にクエスチョンマークを浮かべていた。どうやら男と女には恥ずかしさの基準が違うらしいと変に納得することに。

 時雨がポケットをまさぐり取り出したのは小さな拳銃だった。さっき要が護身用に使っていたものよりさらに小さい。ピストルといったほうがしっくりくるサイズだった。見たところ重さもあまりなさそうである。

「先輩…私銃使ったことないんだけど…」

 時雨がそう言ったタイミングでインカムから早苗の解説が聞こえた。

「それは初心者でも扱いやすいように改良したものです。反動も少ないですし、それに照準を合わせやすいようにポインターも装備しました。後安全装置も外しておいたのですぐに撃てますよ?」

 もしポケットで誤爆したらどうするんだと文句を言いそうになるのを必死に我慢する。これも早苗なりのサポートなのだ。それを否定するなんてことは要にはできなかった。

「替えの弾丸も要さんのポケットにありますから遠慮なく撃ってください」

「時雨、そいつで俺のサポートを頼めるか?」

「うん、もちろん!」

 時雨は振り落とされないように片方の腕に力を込めながらも照準を定めていく。赤外線ポインター付きなので簡単に照準を定めることができた。相手の足を狙って時雨は引き金を引く。パン!と小気味いい音をたてて銃弾は撃ち出される。が、それは時雨の狙った場所には当たらずありもしない方向へと飛んで行った。

「せんぱぁい…これ当たんないよぉ…」

「バイクの揺れと銃の反動で照準がぶれてるんだろう。ぎゅっと握って絶対に動かすな。反動は初心者がどうにかできるものじゃないからな、少し下を狙ってみろ」

「下?うん、わかった」

 時雨は要の言うとおりにして照準を定めて引き金を引いた。パン!と小さな銃から放たれるには大きすぎる音が響いて鉛の弾が銃口から歓喜の狂気を帯びて飛ばされた。今度は時雨の思った通りの場所に撃ち込むことができた。が、撃てたのと当てたのとは別だ。それはキレイに避けられて着弾することなく彼方に飛んで行ってしまった。

「むぅ…避けられちゃった…」

「時雨!休むな、もっと撃ち続けろ!」

「う、うん!」

 パンパンと背に銃声を感じながら要はバイクを走らせた。時雨のサポートのおかげもあり敵の攻撃も収まって運転に集中することができた。要はその集中でフルスピードを出す。バイクがエンジンを唸らせてその車体を全力で転がす、要の意思に従って。時雨のサポートに全速力のスピード、そのおかげで目的の廃墟までノーダメージで到着することができたのだ。


 一足遅れで啓二は廃墟に到着した。顔からはまだとめどなく血が流れ落ち視界を鈍らせていた。だがそれもあと少しの辛抱だ。夜になれば力が活性化し傷の修復ぐらいわけないのだ。彼は辺りを見回して要たちの姿を探るがどこにも見当たらない。入口の扉付近に乗り捨てたバイクが置いてあった。

「そこか…!」

 啓二は扉を開ける。それと同時に足元に何かがころころと転がったのが分かった。

 しまった、そう思ったのとそれが爆発を起こすのは同時だった。

「時雨!撃ち込みまくれ!」

「うん…!」

 それは要が仕掛けたブービートラップだった。扉を開ければ手榴弾が落ちてくるというもので映画などではよく足止めで使われている罠だ。要たちを殺そうと躍起になっていたあいつにはどうやら手榴弾に注意する暇もなく爆発を食らったようだ。その隙を逃さずに彼らは鉛弾をありったけぶち込んでいった。要は小さなサイズのサブマシンガンを、時雨はあのピストルから、因縁の相手をハチの巣にするためにぶち込んでいく。

 廃墟内に乾いた殺意を孕んだ音が響き渡る。数多の弾丸の嵐が彼を襲うも、その最後はかちりといった小さな音で終わることになった。

「弾切れか…」

 要は銃を懐に戻して別のものを取り出した。手にしっかりと馴染むほどよい重さのそれは相棒のバスタードライブだ。黒い銃身が仄暗い空に昇る月光を受けてギラリと眼光を放った。それを構えながらゆっくりと近づいていく。

 啓二の姿は爆発のもやに沈み見えない。しかしあれだけの銃撃を受けたのだ。ただでは済まないだろう。そう思っていた要だがその予想はすぐに裏切られることとなった。

 薄い灰色のもやを切り裂くようにして啓二が要のもとへと走ってきた。その手には先ほどの槍とは違い大きな西洋風の剣が握られていた。

 危ない、彼はそう直感し牽制するように銃を撃つ。しかし近距離の戦いを重視しさらには連射性能も劣るバスタードライブでは敵の足を止めることはできなかった。要の銃撃をすり抜けて啓二は横薙ぎに剣を振るった。避けようとするがこの間合いでは間に合わなかった。要の胸元に横薙ぎの一閃が走り皮膚だけでなく肉まで抉り取った。痛みを感じる前に血がまるで噴水のように噴出した。

「うわぁぁぁぁぁ!」

 要は叫ぶ。遅れてやってきた痛みに顔をしかめて悲鳴じみた絶叫をあげた。しかしその絶叫も切り裂いてしまうほどに啓二の追撃が彼の体を襲った。腕に、胴体に、足に、無数の剣戟が入る。そして極めつけには腹を蹴られて後方へと吹き飛ばされてしまった。何もない廃墟で要を受け止めるものはなく、彼は後方の壁に背中を思いきり打ち付けて倒れた。

「ぐふっ…!」

 口の中いっぱいに鉄の味を感じてそれを吐き出す。真っ赤な液体が地面にぶちまかれた。

「結局夜になっちまったじゃねぇか…だが…ここからは俺のオンステージだ。もっと楽しませてくれよ?」

 廃墟の崩れかけの屋上から覗く空を見る。そこには月が薄ら笑いを浮かべて浮かんでいた。忌々しげな視線を要は月と啓二と交互に向けた。

「くっ…俺も…まだ負けない…かはっ…!」

 彼は立ち上がろうと必死にもがくが体がそれを許さなかった。ぼろぼろになった体はもう彼に立ち上がる力を与えることはなかった。それでもどうにか立ち上がろうと鎌を出現させてそれを杖代わりに立ち上がる。やっとのことで立ち上がったが傷口からぶしゅりと命が噴き出る。

「はぁはぁ…」

 足元にできた大量の血だまり、その大きさと比例して彼の視界はゆらゆらと歪んでいった。

(おい…あとちょっとだからさ…持ってくれよ、俺の体…)

「ほう…全身ぼろぼろのクセに立ち上がるとは…なかなかに見上げた根性だ。けれどそれが無意味だって教えてやるよ!」

 にやりと笑った啓二の顔には先ほどの傷はもう残っていなかった。ダン!と地面を蹴り上げてこちらへと猛スピードで突進してくる。剣は要を突き刺そうとぎらぎらとした切っ先をこちらに向けていた。どうにかして避けないと、彼はそう思ったがもう体は言うことを聞いてくれなかった。必死に足を動かそうとするがガクガクと震えるそれはもはや自分のものではないように感じた。

 やられる、そう感じた瞬間反射的に目を閉じた。しかしそれと同時にパン!と小気味よい音がその場を支配した。

「先輩に…これ以上近づかないで」

「時雨?」

 見ると目の前には時雨が立っていた。その手に握られていたのはピストルで、先端から灰色の煙を上げていた。

「貴様…!」

 放たれた銃弾が向かった先、そこは啓二の心臓部分だった。胸元に小さな、それでいて致命傷的な穴が開いていたのだ。そこからぶしゅぶしゅとまるで壊れた蛇口のように赤が飛び散っていた。

「これで終わりよ、お父さん…ううん…最低最悪の悪魔!」

「…まだだ…まだ、終わるわけにはいかないんだよ!俺はもっともっとたくさんの人間の人生を壊したい…もっと絶望に歪んだ顔が見たいんだよぉ!」

「ほんと…最低な悪魔…」


 憐れむようなその言葉とともに、最低最悪の悪魔の眉間に小さな穴が開いた。眉間を貫かれた悪魔はそのまま地面に崩れ落ちる、はずだった。普通の悪魔ならばそれで死ぬだろうが、今要たちが相手にしているのは上級悪魔だ。普通の常識が通用する相手ではないのだ。

「くくく…これで終わったつもりだろうが…残念だったな…」

 啓二はバッと腕を上げて天を仰いだ。はるか上空に存在する月を祝福するかのように。

「俺はインキュバスだぜ?夜はどの悪魔よりも得意だ…そして、月の光が出ている夜はもっとな」

 ぽっかりと空いた眉間の穴、そこからひりだすように銃弾が出てきてポロリと地面に落ちた。カラカラと音をたてて血塗れた銃弾は虚しく地を転がった。

「嘘…」

「残念だったが、ゲームオーバーだ」

 彼の剣が振り下ろされた。赤が、空を汚していく。真っ赤な液体が、黒のカンバスにぶちまかれていく。皮肉にもその光景はあまりにも美しいと、時雨は感じた。

「先輩!」

「逃げろ…時雨…」

 剣で切られたのは要だった。振り下ろされた剣は確かに時雨を切り裂くつもりだった。だがその一瞬、要は彼女を突き飛ばした、自身の死力を振り絞って。

 止めどない赤が飛び散り要は今度こそ完全に地に落ちた。意識がもうろうとなりだんだんと体が寒くなってくる。死が迫ってきている、目に見えない死という恐ろしい魔の手が、だんだんと要を絡めとろうと迫ってきている。しかし彼は恐怖を感じていなかった。彼が感じていたのは、安らぎと安堵だ。

(ごめんな、空…兄ちゃん、敵討ちできなかった…けど、もういいよな…俺がどう頑張っても太刀打ちできなかったんだ…最後にあいつを助けられただけ…ましなんじゃないか…?)

 だんだんと薄れていく意識の中、最後に彼女のほうを向いた。要が人生の中で初めて恋をした女の子の顔を、最後に見ておきたかった。

「先輩!ヤダ…!死んじゃヤダよ…!お願い…!」

 彼女は子供のように泣いていた。目を真っ赤に染めてぼろぼろと泣いていた。

(最後なんだ…泣かないでくれよ…)

 要は彼女の涙をぬぐおうと手を伸ばす。が、体に力が入らず指一本でさえ動かすことができなかった。

(あぁ…俺は彼女の涙をぬぐう資格すらないのか…けど…最後に泣き顔を見るってのも…悪くない、かもな…)

「し…ぐ、れ…」

「せ、先輩!?ダメ…しゃべらないで…!」

 要は残った力を振り絞って必死に口を動かして喉を震わせる。彼には言っておかなければいけないことがあった。どうしても心残りだった言葉が。

「あり…が…と、う…だい…好き…だ、った…」

「先輩…私も…先輩のこと、大好き…!」

「!?」

 薄れかけの意識の中でもはっきりと感じられる柔らかい感触。唇に感じる甘さとふにりとした柔らかさ、それが時雨の唇だということはもう完全に思考を手放した脳にも理解することができた。

「先輩…好き…大好き…」

「ははは…さすが人間だ、死ぬ前に何をするかわかんねぇぜ!」

 啓二の下卑た声がするがそれは彼女とのキスのために完全にシャットアウトされていた。甘く、ふんわりとしていて、それでいて熱烈な、キスを交わす。心臓は死にかけだというのにどくどくと興奮したように高鳴り脳内にはとろけたような甘さがジワリと広がっていく。


「はぁはぁ…先輩…先輩…ちゅっ…好き…好き…」

 時雨とのキスを交わした途端、彼の体の奥底に何かがドクンと目覚めた。恋心か、なんて馬鹿なことを考えていた要だが瞬時にそれが違うものだということが理解できた。体の奥底に目覚めたそれはどくどくと脈打ち彼の体に活力を与えた。体の底から生命のエネルギーが泉のように湧き上がってきているのが分かる。

 薄れかけていた意識がだんだんとはっきりしてくる。体の痛みも、思考の倦怠感も、鈍っていた神経も、すべてがはっきりと、まるで目覚めの良い朝のような気分で蘇ってきた。

 復活した視力で時雨のほうを向いた。頬をピンクに染めて、うっとりと瞳を閉じキスに夢中になっているが、その顔にかかっている髪の毛が、白く光り輝いていた。

「時雨!?その髪の毛は!?」

「んむっ!?え…!?せ、先輩!?死んでなかったの!?」

 キスの最中に声を上げたからか彼女は驚いて勢いよく後ずさった。その顔は真っ赤に染まり恥ずかしさに瞳も潤んでいた。

「え!?う、嘘!?先輩さっきのあれで死んだんじゃ…」

「人を勝手に殺すな…確かに死にかけてたけど…」

「やだ…私ってば超恥ずかしい…要先輩がもう死んじゃうから最後にって思ってキスしたのに…それで生き返っちゃうなんて…もしかして先輩ってお姫様?」

「それ性別変わってるし…ってそんなことよりもだよ!その髪どうしたんだ!?」

「髪…?…え!?私の髪の毛真っ白になってる!?え!?一気におばあちゃんになっちゃったの!?玉手箱なんて開けてないよ!」

 時雨も言われてから気づいたようで髪の毛を見て絶句していた。

「おい…今何をした!」

「もしかすると…時雨の悪魔の力が目覚めたのか?」

 確か啓二の話によれば時雨は悪魔の力を目覚めさせる実験をさせられていたらしい。だからその成果が今たまたま発動した、というわけか。このピンチの時に発動させるなんてまさに奇跡的タイミングだ。マンガやラノベみたいな展開に思わず要は吹き出しそうになってしまった。

「先輩もその傷…だんだん治ってきてるよ?」

「まさかお前の力は…治癒能力か!?」

「治癒能力、いいや、少し違うな…」

 驚いた風に尋ねる啓二に要はニヤリとして答えた。

「時雨の力…それは、強化(リインフォース)だ」

「リインフォースだと…!?」

「今俺の体にはすごい力が流れてる…俺の弱っていた生命力をそのまま強化したから治癒能力にも似た力が発現した…」

 体の奥底に感じたあの力が、今燃料をくべたエンジンのように胸底でぐつぐつと煮えたぎっているのが分かる。その熱さが全身にまで伝わりすべての感覚を強めているようだった。

「いくら強化されたところで俺にはかなわない!今ここで死ね!」

「それはどうかな?」

 要は振り下ろされた剣を華麗に避ける。それどころか避けるのと同時に鎌で腕を跳ね飛ばしていた。

 今要の全身には凄まじいほどの力が流れている。その力は要の神経すべてを刺激し加速的なまでに感覚を敏感にさせていた。今要の目に映っているもの、それはすべてスローモーションのように感じ、そのスロー映像の中、自分だけが高速で移動しているような錯覚に陥っていた。

「何…早い…!」

 切り落とされた腕をもろともせずに啓二が突っ込んでくる。だがそれも要には完全に見切っていた。迫ってくる敵の体に無数の斬撃を加えて要はニヤリと笑った。

「チェック、メイトだ」

 突進してくる啓二を避け、背後に回り込み首元に刃を突き立てた。これで完全にチェックメイト。奴の体はもうボロボロで全身から血が噴き出して足元に大きな血だまりを作っている。その大きな水たまりに月明かりの光が反射して赤くてキラキラした光が魅惑的に発せられていた。

「さぁ…これで、とどめだ」

「なぁ…停戦協定を結ばないか?俺はお前や時雨にしてきたことを謝る…だから殺すのだけは…」

「許しを請うなら地獄で閻魔様に言いな」

 結局奴は最後まで完全に悪魔だった。自分のしてきたことを悔いることもなく、ただただ自分の保身に走るだけのクズに、彼は冷ややかな刃をくれてやった。

 夜空に、真っ赤な星が飛び散りキラキラとした輝きを放ちながら、地に堕ちた―




―エピローグ「金色の目の半悪魔と白髪の偽悪魔」―


「空…兄ちゃん、やったよ…敵は、討ったからさ…安心して眠ってくれよ…兄ちゃんはもうお前がいなくても大丈夫だからさ…お前と同じぐらい大事な人ができたから。だから、俺のことは気にしないで…お休み…」

 緩やかな春の終わりを告げる風が吹き抜け彼の髪の毛を撫でた。その風に乗せられてお線香のどこかほっとするにおいが鼻をついた。辺り一帯の原っぱに上空に広がる雲一つない青空、その中央に位置する何者にも邪魔されることのない静寂を保った場所、共同墓地に彼は来ていた。真新しい墓石の前に座り彼は手を合わせていた。もうこの世にいない妹のことを思って。

「よし…それじゃそろそろ帰ろうか時雨」

「え?もういいの?私のことは気にしないでもうちょっといればいいのに」

「いや、いい。俺もそろそろ妹離れしなくちゃいけないしな。さすがにこの年でシスコン引きずってるっていうのはどうかと思うしね」

 要はハハハと薄い笑いを浮かべた。その顔はどこか憑き物が落ちたように妙にさっぱりとしていた。

 もう一度温かな風が吹き抜けた。要の背中から吹き抜けたその風は、天国の空が頑張れと言って背を押すようだと感じた―


「それにしても綺麗なところだねぇ」

「あぁ、社長には感謝しなくちゃな」

 町はずれの高原地帯、そこの墓地を買ってくれたのは社長だった。ちなみに社長はまだ生きている。腹を貫かれた重傷だったが奇跡的に助かったのだ。治療の手伝いをしていた吉乃さん曰く生きているのが本当におかしい、この人には常識が通用しない、などと言って苦笑いを浮かべていた。今は病院のベッドの上でラノベでも読んでいることだろう。

 あの事件から3日が経過したが要の日常はこれと言って変わることはなかった。学校へ行き、友人たちとバカ話をし、放課後は悪魔祓いとしての仕事をこなす。少し変わったといえば社長の代わりに当分は早苗が作戦指揮をとってくれているということだ。あの可愛らしい声を聴くだけで要の耳はとろけそうなほどに癒されていた。

「復讐の悪魔も倒したんですし悪魔祓いなんてきつい仕事辞めたらどうですか?」

 なんていうことを時雨に言われたが彼は自信をもってこう答えた。

「俺さ、もう空とか、時雨みたいに悪魔に人生狂わされた人をもう出したくないって思うんだ。それを防ぐためにはきつくても悪魔を倒していくしかないんだよ。それに悪魔を倒していけば薬だって開発できるかもしれない。あの時は間に合わなかったけど、次に間に合う人がいればって思うんだ」

 自身の後悔と、周りの人間の絶望と後悔の連鎖を断ち切るために、彼は悪魔を倒す道を選んだ。

 一方で時雨の日常は様変わりしてしまっていた。あの後家に帰った彼女を待ち受けていたのは自殺しようとしていた母親だった。お風呂場で手首を掻き切っていたらしい。すぐに救急車を手配して何とか一命をとりとめた母親だったがその精神は明らかに参っていた。それはそうだろう、悪魔と結婚してその子供を2人も生み、さらに再婚相手も悪魔で、その娘は悪魔の実験台とされていて…彼女は悪魔に関わりすぎたのだ。

「悪魔!近寄らないで…!私をお母さんなんて呼ばないで!さっさと消えてよぉ!」

 これは母親の見舞いに行った時雨が初めに言われた言葉だ。その言葉と、要も知っているあの冷酷な瞳に傷を負った時雨は、行く当てなどなくなってしまった。父親は悪魔で、母親には見放され、どうしようもなくなってしまった彼女を拾ったのは社長だった。

「私のところでスタッフとして働いてちょうだい!要君のサポートやらお茶くみとかやってもらえればいいからさ。…で、髪の毛が白くなるんだって!?見せて見せて!私白髪の女の子大好きなの!見せてくれないなら雇うの止めるから」

 そんな脅しにも似た言動のおかげで彼女は今事務所で早苗と一緒に生活できている。

「ほんとだね…私もいっぱいありがとうって言わないと…」

 そう言った彼女はどこか寂しそうな笑みを浮かべた。あの日から彼女はたまにこうして寂しそうな笑顔を浮かべることが多くなった。きっと心に負った傷のせいだろう。どこか儚くて、そして妹が眠りに落ちる前の日の夜に見せた表情と酷似していて、それを見るだけで彼の心もまたキュッと締め付けられるように感じた。

「時雨…そんな顔、しないでくれよ…」

 ギュッと時雨を抱きしめる要。突然抱き着かれたことにより時雨は顔を真っ赤にし、あたふたするが、それを受け入れたように気持ちよさそうな顔を浮かべて彼に抱き着き返した。

「頼むから…その顔はやめてくれ…その寂しそうな顔、つらいんだよ…俺がお前の寂しさを全部取り去ってやるから…だから笑ってくれよ…前みたいに、可愛らしくさ…」

「先輩…それって告白のつもり?」

「はぁ!?」

 彼は至って真剣だったのだが返ってきたのは馬鹿らしいそんな言葉だった。しかし思い返してみれば告白にも取れなくもない言葉だ。

「告白じゃ…ないの?先輩は…私のこと、好きじゃないの?」

「うっ…」

 上目遣いの視線で見られるのはどうにも弱いみたいだ。彼の心はバクバクと高鳴り破裂寸前だ。

「私は先輩のこと大好きだよ…あ、そうだ!先輩!あの日のキス!あれが私のファーストキスだったんだから!…あれ、そういえば私、その前に先輩にキスしちゃったんだっけ…」

「え…?」

「ほら、先輩の家にお泊りしたあの日、私あの時寝てる先輩にキスしちゃったんだ…」

「はぁ!?」

 自身も知らないことを言われ要は驚きに目を見開く。まさか眠っている間にキスをされているとは、それで目覚めない要は童話のお姫様としては失格の部類に入るわけだ。それにヒロインに眠りのキスを奪われる王子さまってのもなかなかにないわけで…

「俺、知らない間にキスされてたとは…いやぁ…世の中、何が起こるわかりませんね」

「何へんなこと言ってるのよ…とにかく、あの時はほんと出来心っていうかなんというか…とにかくちゃんと責任とって私をお嫁さんにしなさい!」

「いや、それってお前からしてきたんじゃないのかよ…」

「は、恥ずかしいからそんなこと言わないでくださいよ!」

(お嫁さん、か…)

「お嫁さんはちょっと気が早いかもしれないけどさ…付き合うことならできるっていうか、なんて言うかだな…その…俺の…恋人に、なってください…」

 ついに要はその言葉を口に出した。ずっと胸の奥に隠してきたドキドキとバクバクの正体を、やっと彼女に口にすることができた。言ってしまった後に恥ずかしさと後悔と、恐怖が込み上げてきた。断られたらどうしよう、そのあとこいつとどう接すればいいのだろう、そんな後ろ向きな考えばかりが浮かんでしまう。

「あの…先輩…その…」

 けれど彼女の次の言葉は、彼のその思考を完全に打ち壊すものだった。

「いい、ですよ…というか…私からもお願いします…先輩の…彼女にしてください…」

 そして沈黙が走った。お互いが恥ずかしさで顔が溶けてしまいそうなほど真っ赤に染まり口もきけなくなってしまっていたのだ。

 けれど心の中ではうれしさが爆ぜまわり、それがさらに心臓の鼓動を高くした。嬉しさ、喜び、それがごちゃ混ぜになり心の内側でパーティーをしているような盛り上がりだ。

「ひゃんっ…!せ、先輩…痛いですぅ…」

「夢じゃ…ないな」

 要は唐突に彼女の頬をつねった。むにゅりとして柔らかなほっぺがもちもちっと伸びていく。

「なんで私で確かめるんですか…自分でしてくださいよ…」

「あはは、ごめんごめん」

「もぅ…先輩ってば…」

 二人顔を見合わせて思わず笑ってしまった。互いの顔が、まるでリンゴみたいに真っ赤に染まっていたから。

「先輩…私、先輩と会えて、彼女になれてよかったです…これからも、私のこと、守ってくださいね」

「あぁ…時雨こそ、俺のこと支えてくれよ…俺、一人には弱いからさ」

 そしてお互いはどちらからともなくキスをする。この世界で一番甘く、幸せな一時を噛みしめるように。世界を恨んだ半端モノの悪魔と、世界に裏切られた偽りの悪魔は、自らの幸せを喜んだ、この青空のように澄んだ心で―


「二人とも、お楽しみのところ悪いですが…悪魔が出ました」

「!?」

 二人は突然耳から聞こえた冷たくも可愛らしい声にびくりと肩を震わせてお互い驚くほどの速さで離れた。唇に残った柔らかな感触を確かめながらも要は耳に意識を集中させた。

「今回のは大物ですよ。要さん、時雨さん、討伐お願いできますか?」

「あぁ、行くぞ、時雨。今回もサポートよろしくな」

「うん!…あ、そうだ…早苗ちゃん…なんで私たちがお楽しみってわかったの?」

 時雨の問いかけに以外にも耳から聞こえてきたのは素っ頓狂な声だった。

「え?本当にお楽しみだったんですか?…少しカマをかけてみただけなんですが…」

「まじかよ…」

 あまりにも予想外の答えに要は思わず吹き出してしまった。それにつられて時雨も笑う。満面の笑みで、幸せそうに彼女は笑った。

「さて、行こうか」

「そうだね、先輩!…あ、彼女になったんだから要君って言った方がいいのかな?」

「…いや、いつも通りで頼む…恥ずかしい…」

 頬に感じる恥ずかしさ、それは幸せの証だ。要はどうしようもない暗闇から救い上げてくれた恩人の手を取る。彼女も自身の命の恩人の手を握り返した。

 こうして彼らは共に寄り添いながら生きる。悪魔と人間の垣根などを超えた、恋心を胸の奥に秘めて、ずっとずっと、永遠に―

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俺の半分は悪魔でできている 木根間鉄男 @light4365

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