第3話第3章「瞳に映る虚構」

「せ~んぱい!お話ししましょうよ~」

「うげ…また来た…」

 翌日、要のもとに時雨が襲撃してきた。まぁそれは彼にとっては別に嫌がることでもなかったのだが、しかしそれが毎時間、いや、朝登校した瞬間からずっとだと話は別だ。朝、要が校門をくぐるのを待ちわびていたかのように時雨は襲撃してきた。そしてその後も休み時間ごとに教室にやってきては大声で要を呼ぶ。そのせいか教室では少し変な噂も流れ始めていた。

「おいおい…あの凍夜にまさか彼女が?」

「嘘…あの凍夜君だよ?もしかして脅されてるんじゃないの?」

「しかしあの子ちっちゃいな…もしかして凍夜はロリコンなのか?」

「いや、確かに身長はちっさいがおっぱいはうちのクラスの女子なんて目じゃねぇぞ…あいつはアンバランス体形が好きだったんだよ」

「凍夜君って変態だったんだ…」

 などなど挙げていけばきりがない。陰でこそこそと変態と呼ばれるというのはこんなにも不愉快なものなんだと彼は改めて思った。

 しかしそんな彼の思いなど時雨が汲み取れるわけもなく、こうやって毎時間ごとに遊びに来ているのだ。

「あの…俺、トイレに行きたいんだけど…」

「え~?トイレなんて別に後でもいいでしょ?授業中にこっそり抜け出していけばいいじゃないですか!それよりも私とおしゃべりしましょうよ~」

 現在3時間目終わりの休み時間、要的にはそろそろ尿意を感じているころだ。しかしトイレに行くには教室の扉の前に立ちふさがっている時雨をどうにかしないといけない。

「すまん…ちょっとそんな余裕もない…早くしないと…漏れるんだけど…」

「あ、大丈夫です!私、先輩がおもらししても嫌いになんてなりませんから!」

「いや、お前が気にしなくても周りは気にするし俺も気にするから…だから早く…」

「だめです!今しかない時間を楽しみましょうよ!」

 どれだけ行っても時雨はトイレに行かせてはくれないようだった。そうこうしているうちに休み時間も残り3分というところまで来ていた。それに要の膀胱もそろそろ爆発寸前だった。

(こうなれば最終手段しかないか…)

 さすがにこれ以上のタイムロスはまずいので要は最後の手を打つことにした。

 ふぅ、と息を吐き少し姿勢を下げる。足に力を集中させて、そして思いっきり地面を蹴った。開かれた扉と時雨の間にある小さな隙間、横向きに飛び込むようにそこに思いっきり体をねじ込んだ。横っ飛びの最中に体をねじる、それは一般人には難しい技でも悪魔祓いとして数多の戦場を潜り抜けた要にとっては朝飯前だった。

「え!?嘘…!?」

 時雨の驚いた声が耳に届く。しかしその声は遥か後方だ。教室の扉から脱出した要はすぐさま体の中のエンジンを吹かせて全力疾走を試みていたのだ。

「あ!待ってよせんぱーい!」

 遠く聞こえる後輩の声を無視しながら要は全力で走る。今彼は風と一体となっていた。まさに陸上部顔負けの脚力で廊下を全力疾走する。トイレのために―


「要ちゃんどうしたの?すっごく疲れ切った顔してるけど…」

「いや…さすがにあれだけ付きまとわれたら疲れるって…」

 あれから少し時間が進み昼休み、教室内ではお昼を楽しむ生徒がいっぱいだ。皆騒がしく食事を楽しんでいる一方要はぐでっと机に突っ伏していた。

「あはは、お疲れさま。スナックパン、食べる?甘いもの食べたら疲れも吹き飛ぶかも」

「ありがと…」

 笹野から差し出されたスナックパンを机に突っ伏したままもぐもぐと口の中に放り込んでいく要、その姿はどこかバカっぽいものに見えた。

「それにしてもあの後輩ちゃん…まだ来てないみたいだね。あの感じだとお昼ご飯を一緒に食べようとか言ってくると思うんだけど…もしかして断ったとか?」

「いや、俺は何も言ってないよ…」

(そういえば…確かに遅いな…もうお昼が始まって10分ぐらい経つのに…ってあれ?なんで俺、こんなに寂しいって思ってるんだ?)

 要はふと自分の中に寂しさが溢れていることに気付いた。それは昨日時雨と別れた後に襲い掛かってきたものと似ていた。少し会わないだけでこんなにも寂しくて、心配になるなんて、要はぐちゃぐちゃになった心を冷静に分析しようとするがやはり答えなんて見つからなかった。

 結局お昼休みの間時雨は要の前に姿を現さなかった…。


「一緒にご飯食べよ鈴ちゃん!」

「いいけど…あんたあの先輩は?あたしじゃなくて先輩と食べてきなよ」

 お昼休み、私は大親友の加々美鈴(かがみすず)とお昼を食べようと思ったのだが、彼女は少し心配した顔つきで私のほうを見ていた。どうやら私が休み時間ごとにずっと先輩のもとを訪れていたのはばれていたみたいだし、それにお昼休みに先輩を尋ねないことを疑問に思っているらしかった。

「う~ん…行きたいのはやまやまだけど…先輩にも一緒にご飯を食べるお友達がいると思うし…私が邪魔しちゃ悪いかなって…」

「あんた休み時間ごとにさんざん先輩追い回しておいてよく言うよね…」

 鈴は焼きそばパンにかぶりつきながら呆れたようにそう言った。

「そういえば鈴ちゃんってずっと焼きそばパン食べてるよね、好きなの?」

「う~ん…ほら、焼きそばパンってさ、不良の主食じゃん?漫画とかでもさ、焼きそばパン買ってこいや!ってよく言うじゃん。なら不良のあたしもたくさん焼きそばパン食べなくちゃいけないかなって」

「エセ不良のくせに無理しちゃって…」

 鈴はこの言動からわかるように自称不良だ、髪も金色に染めて制服も思いっきり着崩して、でもどこか不良になりきれていない残念な女の子だ。授業は全然さぼらないし学校も休まず毎日来る、放課後なんて塾に通ってるぐらいだ、もちろん学校の成績も上位に入っている。それに何よりもこうして普通の女の子の私ととても仲良くしてくれていることから彼女が不良じゃないことが明らかにわかった。しかしなぜこうまで不良にこだわるのかは親友の私でも全く分からないが…。

「ってそんなことよりあんたのことだよ!そんな遠慮なんてしてちゃ先輩に思い伝わんないよ?」

「そう…なのかな…って…え!?す、鈴ちゃん…!?お、思いが伝わらないって…ど、どういうことなのかな!?」

「え?あれ?あんたあの先輩に惚れたんじゃないの?」

 鈴にはそのような話していない。なにせ昨日の今日なのだ、朝からずっと先輩を追い回していた私は昼休みになるまで鈴とも話せてなかったし。思いっきり気が動転して目が回る、顔も茹だったように熱くなってきた。

「あはは、時雨ってばわかりやすい!ちょっとカマかけてみただけなのに…まさかほんとに好きになってたとはねぇ…」

 鈴はにんまりと口角を釣り上げてにやにやと笑っている。どうやら私は鈴に遊ばれていたようだ…。

「…うん…好きになっちゃったの…一目惚れってやつかな…」

 だから私は嘘偽りなく鈴にすべてを話した。先輩に助けてもらったことも、先輩と話すたびにどんどん好きなっていくことも、この溢れんばかりの胸のドキドキも、すべて話した。彼女に話していくうちに自分の心がなんだか軽くなっていくのと同時に、これが恋なんだ、と冷静に事を分析している自分がいることに気付いた。やはり思いを口に出すと楽になれる、というのは本当だったらしい。しかしこの告白じみたことを先輩に言えたら、私はどれだけ楽になれるのか…。

「ふんふん…これは典型的な恋ですな。よし!この恋愛マスターのあたしが助けてあげましょう!」

「え?鈴ちゃんって恋愛マスターだったの?」

「そうだよ。なんたって不良だからね!男をとっかえひっかえしてるっての」

「まさか鈴ちゃん…そんなふしだらな子に育って…お母さん悲しい…」

「勝手に母親面するな!それにとっかえひっかえは冗談だって!…まぁ確かに男の子と付き合ったことはあるけど…」

 交際経験があるならこんなに心強い助けはなかった。私は早速恋愛の極意を鈴に、いや、恋愛マスター(笑)に教わることにした。

「おい、今心の中で恋愛マスター(笑)って思っただろ?教えてやんないぞ?」

「そ、そんなこと…オモッテナイヨ」

「はぁ…まあいいや。それでな…男を落とすにはまずはだな…」

 少しためを入れた鈴の言葉の続きをゆっくりと待つ。自然とごくりとつばを飲み込んでしまうのが自分でもわかった。

「色仕掛けだ」

「え!?」

 しかし予想していたのとは90度ほどぶっ飛んだ内容に私は声が裏返って叫んでしまいそうになるのを必死に抑え込んだ。まさか恋に一番大事なのが色仕掛けだったなんて…。経験がある彼女が言っているのだ、それは間違いないだろう。

「男、いや、思春期の男の子っていうのはな、エッチなのが大好きなんだ…だからまずは自分がどれだけエッチな女の子なのかっていうのをアピールするんだ」

「え!?でもエッチな女の子って…恥ずかしいよぉ…それに先輩に引かれたりしないかな?」

「大丈夫、さりげないエッチなアピールをするんだ…自分がそれに気づいてないって風にな」

「例えば?」

「そうだなぁ…わざと何か落としてそれを拾おうとしてあんたのそのおっきなおっぱいにできた谷間を見せつける、とか。わざとすっころんでパンツを見せる、とか。あとはフランクフルトとかバナナとか棒状のものをうっとりした顔で舐(ねぶ)るようにして食べたりとか…アイスも効果的だね、ミルク味のをわざと溶かして口回りとか胸元に垂らすっていうのもいいね」

「ふえぇぇぇ…そんなの恥ずかしすぎてできないよぉ…」

 さすがに自分のそんな姿を想像して顔がさっきとは別のベクトルで熱くなるのが分かった。まさにちょっとエッチな漫画に出てくるようなヒロインそのものである。べたというかなんというか…。

「で、たぶん普通の男の子ならそんな姿を見たらムラムラって来ると思うの。だから自分の家に連れていくか、相手の家にお邪魔して…」

「そ、それで…?」

 数呼吸空けて鈴はやがて重々しく口を開いた。

「…既成事実をヤっちゃうのよ」

「ヤ、ヤった!さすが鈴ちゃん!私にできないことを平然と言ってのける!そこにしびれる憧れるぅ!」

 さすがに既成事実まで行くと何とも言えなくなってしまう。確かにそれなら先輩を落とすのは簡単だと思うが、それは肉体関係の上に成り立った恋愛みたいで嫌な気分だ。私は純粋な、そう、少女漫画みたいな甘酸っぱい恋愛にあこがれているのだ。しかし夢ばかり見ていられないのも確かだ、最終手段は色仕掛けしかないのかもしれない…。

「というのは冗談さ。さすがに本気にしてはいないよね?」

 ごめんなさい鈴ちゃん、ちょっと本気にしてた節はありました…。

「もういいよ…鈴ちゃんはやっぱり恋愛マスター(笑)だったんだ…」

「ちょ!?う、嘘だからさ!さっきのは全部嘘!小粋なジョークだよ!だからそんな冷ややかな目で私を見ないで!」

 鈴はふぅと一つ大きく息をつくと今度はいたってまじめな風に口を開いた。

「先輩と好きなことを共有するっていうのはどうかな?」

「好きなこと?」

「そう、相手も自分も好きなことなら話も弾むし楽しめるでしょ?無理に相手の趣味に合わせたものだとやっぱりどっちも楽しめないからね。だから共通の趣味なりそういうもので誘えばいいんじゃないかな?」

「共通の、趣味かぁ…あ、そういえば先輩ピューパ好きだったな」

 昨日こっそり一緒に聞いたピューパの曲が頭の中で勝手にリプレイされた。

「あぁ、時雨が好きって言ってたインディーズバンド?なら一緒にライブ観に行ってきなよ。地元のライブハウスによく出演してるんでしょ?なんだったら私のネットワークを使って一番近い日のチケット入手してあげよっか?」

「ありがと鈴ちゃん…でもライブって男子禁制だから…」

 確かにピューパのライブにいっしょに行けたら趣味の共有にもなるしデートということにもなる。ライブの後にいつもの喫茶店で感想を言い合ったりしてまた行きたいねって笑いあってさ、学校でもピューパの話をして、慣れてきたらそれ以外の趣味も聞いて一緒に楽しんで…それで好感度を上げて…最後には…。けれどそれも叶わぬ願い、ライブに行けないという前提が邪魔をしていた。

(はぁ…もしも先輩が自由に女の子になれる体質だったらなぁ…)

 そんな漫画みたいな設定をぼやぁっと思い浮かべた瞬間だった。私の頭の上に雷が落ちた。それは全身を駆け巡り一つの冴えた答えをはじき出した。

「ねぇ鈴ちゃん、やっぱりライブのチケットもらってきてくれない?お礼は何でもするからさ」

「ん?いいけど…あんたさっきライブは男子禁制って…」

「いいの!いい考えが思いついたから!」

「そう?なら報酬はあんたの恋の成功ね!絶対だよ!もし払えなかったら…あんたが好きだって先輩のところに殴り込みに行くからさ」

 そう言って鈴は早速行動に移してくれた。そしてその日の放課後にはもう今週末のライブチケットが2枚、私の手元に渡ってきていた。

 こんなにも心強い親友をくれたことに神様に感謝しつつ、その親友の努力を、応援を無駄にしないようにと、私は気を引き締めた―


 放課後を告げる鐘が鳴り皆一様に開放気分を味わっている中、要だけはなぜかあまり開放的な気分だと感じられなかった。それは時雨が昼休み以降姿を見せていないことにあった。午前中は嫌というほどに付きまとっていた彼女だったがお昼からめっきり姿を見せなくなった。まさか体調を崩して早退したのだろうかという不安が要の中によぎり授業どころではなかったのだ。

 しかしこのような気分になるとは彼はつい昨日まではそのようなこと考えもしなかった。自分の中にこれほどまでに固執する人物が現れるなど、思いもよらなかったからだ。その理由を考えてみてもやはりどうにも答えは見つからない。空に似ているから、という節も考えてみたがただ似た人物にこれほどまでに執着を抱くなんてありえないということでそれは却下された。

 結局彼はモヤモヤを引きずったまま放課後まで過ごしたのだが、そのモヤモヤを消し去る声がようやく耳に届いた。

「あの…先輩!」

「ん?…どうした時雨?」

 下駄箱で靴を履き替えようとしたところ時雨の声が聞こえてきたのだ。彼女の声は午前中と同じでいたって元気だ。これなら体調を崩して保健室という線も潰れた。そのおかげか要はほっと安堵の息をついた。それと同時に胸の奥に感じていた寂しさもすぅとまるで風が吹いて飛ばされたように消え去ってしまった。

「先輩…あの…その…ちょっとお願いがありまして…」

「ん、あぁ」

「え~と…それはですね…えと…なんといいますか…そのぉ…」

「なんだよじれったい。早く言えっての」

 もう一度会えて嬉しかったがいざ会ってみるとやっぱり少し鬱陶しく感じてしまうわけでして、しかもこのどもりようだ、要は思わず語気を荒げてしまった。

「あ、すいません先輩…ふぅ…それじゃ…言いますね…」

 要の言葉にびくりと肩を震わせた時雨だがそれで意を決したのかキッとした表情で要をにらんだ。その瞳には闘志にも似た覚悟の色が見て取れた。

「今週末…デートしてください!」

「あぁ、デートな…え!?で、デートってあの…!?え!?」

 何を言い出すかと身構えていた要だが予想の斜め上の回答をされたことにより思いっきりテンパってしまう。思考回路が一瞬でショート寸前までに追い込まれたみたいだ。何かのジョークかと思ったが要を見つめる彼女の力強い瞳がそれが本当だということを物語っていた。それに顔も真っ赤で生まれたての小鹿みたいに足も震えている、彼女にしてみてもこの告白は必死だったようだ。

「あの…デート…嫌、ですか?」

 普段ならこんな話バカみたいなことを言うなと済ましてしまうところだが、相手は時雨だ。なぜか彼女のその誘いを断ることができず、いや、期待してしまっていた。彼女とのデートを、なぜか期待して、胸が高鳴り、そしてドキドキが抑えられなくなっていた。

 今も要の心臓ははち切れんばかりに昂っている。そしてそれはきっと時雨も同じだろう。いや、彼女のほうがもっとドキドキしているのかもしれない。その証拠に時雨は今にも泣きだしてしまいそうな表情だ。

「ううん…嫌、じゃない。だけどほら、俺たちって付き合ってもないしさ…デート、っていうのは大袈裟なんじゃないかな?ほら、普通に遊びに行きませんかっていう誘い方が正しいというかなんというか…」

「あ!そ、そうですよね!た、確かに…」

 そのあと二人の間に沈黙が走った。周りの騒音も感じることができないぐらいの沈黙、まさに彼らだけが時間を止められてしまったんじゃないかと思われるほどの痛いほどの空白の時間が続いた。

「あ!そ、そうだ!そのですね…遊びに行くことについてなんですけど…少し先輩にお願いがありまして…」

「お、おう!な、なんだ?俺にできることなら何でも言ってくれ!叶えられる範囲なら何でもするさ!」

 どれだけの時間がたったのか、時間にしてみればほんの数秒だったかもしれないし数分だったかもしれない、わけのわからないほどの空白の時間の中、思い出したように言った時雨の言葉に要は応えた。しかしその次の言葉に要は絶句した。

「先輩…**してください!」

「え…?」

 頭を鈍器で殴られたような衝撃が要を襲った。あまりにも突飛で現実感がなく、それでいてバカげているお願いごとに要は目を白黒させるしかなかった。

「今叶えられる範囲なら何でもするって言いましたよね!?なら…**してください!」

(あ…やっぱり何でもするっていう言葉は禁句だ…無駄に使うのはやめたほうがいいかも…)

 後悔の気持ちと、未知の体験への不安と、そしてほんの少しの期待が要を襲った。それと同時に要は内心でこう思った、もしもタイムマシンがあれば数分前の俺に伝えるんだって、何でもするは本当に使っちゃだめだって…。


「うわぁ…さすが先輩!私が見込んだだけありました!」

「は、ははは…ありがとう…」

「もう…もっといい顔してください!似合わないですよ!」

 後悔の海におぼれた要を時雨は有無を言わさずに昨日のショッピングモールまで引きずっていった。そしてあれやこれやとされていくうちに今に至る。

「ははは…本当に信じられないよ…これが、俺なんてさ…」

 試着室の大きな鏡に映された自分の姿を見て要は力ない笑みを漏らした。きれいな黒髪、少し大人びた感じの上着、そして上着の大人っぽさとはあいまって少し子供らしい、しかしそれでいてどこか色気が漂うフリフリのついた黒のロングスカート、鏡面に映っていたのはそんな装備を身にまとった紛れもない美少女だった。

 ほのかに施された顔の化粧、すらりと伸びた足にまとわれた黒のニーソックス、もともとの顔立ちのせいか少し妖艶に感じることのできる表情、まさにモデルのような美しさと若気の至りの可愛らしさを兼ね備えたハイブリッド美少女がそこにいた。

「やっぱり先輩って…女の子の格好が似合いますね!いやぁ…思い切って女装してくださいって言ったかいがありました!」

 まさに今この時が、超絶美少女要ちゃんの誕生の瞬間だった。

(しかし…本当にこれが…俺か?まったくもって別人だよ…)

 鏡に映った変わり果てた自分の姿を見てため息をつく。あまりの変容に信じられないという気持ちと、新しい自分の可能性に胸が昂るのが分かった。

 試しにくるりと一回転してみる。ふわりと翻ったスカートがすぅすぅとして気持ち悪いと感じるが、それすらも直(じき)に悪くないと感じてきてしまっていた。この姿を見ているだけでどんどんと第2の自分の姿がしっくりとあてはまっていく。

(これは…なかなかにハマるな…もしかすると早苗もこの感覚が好きで女の子の格好をしているのかも…)

 要は調子に乗って様々なポーズをとっていく。ちらりと見た女性ファッション誌の表紙を飾っていた女の人のようなポーズや、ラノベや漫画の表紙にあったようなポーズ、さらには詰め物で作った偽物のおっぱいを腕でキュッと引き寄せるセクシーポーズのようなものもやってのけた。

「先輩…案外ノリノリなんだ…」

「はっ!ち、違う違う!」

 とっさに否定したがじっとりとした時雨の瞳が要の正常な心を傷つけた。

「…でさ、なんで俺女装したんだ?」

 そのジト目を振り払うべく要は無理に話題を振る。

「う~ん…単に私の興味本位っていうのもあるかもだけど…でも本命はこれ!」

 時雨はショルダーバックをごそごそと漁り一枚の紙を取り出した。黒のその紙を受け取って要はしげしげとそれを眺める。そしてその内容を理解するのと同時にまるで幼い子供のように目をキラキラと輝かせた。

「これピューパのライブチケット!」

 そのチケットは要の大好きなロックバンド、ピューパのものだった。過去に社長が勧めてくれてから大ファンになったバンドだ。

「しかもこれ今週の日曜日…もしかして遊びに行くっていうのは…」

「そう、ライブに行くためだよ」

「やった!俺ピューパ大好きなんだ!もしかして時雨も好きだったりするのか?」

「うん!」

「うわぁ…嬉しいなぁ…ピューパってさ、ファンのほとんどが女の子だから話せる人がいなくてさ…」

 仙波も笹野もあまりロックが好きじゃないというので勧めるのに失敗、数少ないそこそこに話せる男連中もダメ、勧めてくれた社長ですらあまりコアな話はできないという結果で終わったのだ。だけどこうしてちゃんとしたファンと出会えるのはまさに奇跡だった。

 しかしそこでふと疑問が浮かんだ。なぜ女装してまで要を誘ったのかだ。もともと男子禁制のライブなのだ、女友達と行けばいいものをと考えてしまった。これはまるで要がピューパが好きだと知っていたような、それで誘ったみたいなものだった。

「そういえばさ、俺、お前にピューパが好きって言ったっけ?言ってない…よな?」

「その…ごめんね、昨日バスの中で先輩が聞いてるのを盗み聴きしちゃったんだ…」

 怒られるかもしれないと思ったのか、時雨は心底申し訳なさそうに謝った。けれどそれぐらいで怒る要ではなかった。むしろ聞いたからこそ自分はこんなにもレアなライブに行けることになったのだと喜んでいるくらいだ。

「別に怒らないよ。ありがとな、時雨…俺、すっげぇ嬉しい…週末楽しみにしてるからな」

「うん!あ、それと先輩。週末までに完全に女の子の格好を極めてきてね?今日は私がメイクも服も用意したけど当日は自分でするんだよ?それと”俺”は禁止!」

「…マジですか…俺…あ、いや、私…自信ないなぁ…」

「なら今からみっちり教え込んであげる!」

 その後の時雨の努力のおかげか、元から要に女装の才があったのか、週末には完全に要は女の子要ちゃんとして街に繰り出していた―


 革製ブーツの靴底がカツカツと地面にこぎみよい音を一定間隔で響かせながら美少女は歩いている。美少女は堂々とした足取りで道の真ん中をまるでブロードウェイを歩く女優のように悠々と歩く。妖艶なメイクが施された悪魔的な表情、それと相まってかまだ子供らしさをたたえているオーラ、それはまさに真っ赤なリンゴの木に一つだけ未完熟な青いリンゴが付いているような、そんな歪さを醸し出していたが、その青さこそ彼女の魅力を引き出すには十分すぎた。その証拠に彼女の脇を通り過ぎる人は皆、そう、男女も問わずに彼女の魅力に憑りつかれてしまったかのようにとろんとした瞳で魅入っていたのだ。彼女が長い髪をふわりとかきなでる。その瞬間ふんわりとした甘い匂いが周囲一帯に広がるようだった。

 まさに絶世の美少女、見るものすべてを魅了してしまうような魔女、女の嫉妬の的。彼女を表すにはそんな言葉がお似合いだ。街往く人々もみな同じように思っているだろう。けれど、彼らでさえ気づいていない重大な秘密を彼女は持っていた。

 それは、実は彼女は、彼だということだ。


「うぅ…先輩まだかなぁ…やっぱりまだ少し早かったかなぁ…」

時雨は時計を見て時刻を確認する。針は要との集合時間の10分前を指していた。楽しみな感情が溢れかえって予定より早く来てしまったのが失敗だったか。さっきからずっとバス停の前でそわそわと要の登場を待っている。

「おはよう」

 ふと時雨の背後から声がかかった。少し低音じみているがイケメンな女の人の声だった。声の主に心当たりがなかったので不審に思いながら彼女は振り返る。そして彼女は息をのんだ。そこにいたのは絶世の美女だった。こんな平凡な自分なんかがあっていいのかと思えるほどの雲の上の存在みたいだった。

「お、おはよう…ございます…」

「あら?どうしたのそんなにかしこまって?あ、もしかして遅れちゃったのを怒ってるのかしら?ごめんなさいね、お化粧に思ったより時間がかかっちゃいまして…」

「えと…あの…その…人違い、では?」

 姿もそうだがしゃべり方もなかなかにお上品な感じの女性だ。そんな人時雨の知り合いにすらいなかった。

「もう…時雨さん…ジョークが過ぎますよ?もしかして私のことを忘れちゃいました?要ですよ、凍夜要」

「あぁ…先輩…なるほどなるほど…ってえぇ!?」

 あまりにも様変わりしていた要の姿に時雨は叫び声にも似た声をあげてしまう。驚きすぎて目が飛び出してしまいそうになっていた。

「え…?せ、先輩…?ほんとに?先輩のお姉さんが私をだましてる、とかじゃないの?」

「そんなわけないじゃない。私は正真正銘要よ」

 まだ信じられていない時雨はしげしげとその人の全身を眺める。身長も体格も要と同じ、軽くメイクはしているが確かにどこか要の面影があるのが見て取れた。

(まさか先輩がこれだけ美人になれるなんて…これってもうモデル級だよね…?)

「そんなにじろじろと見られては少し恥ずかしいですよ…」

「あ、ご、ごめんなさい…って…それにしても先輩…そのしゃべり方なんですか?キモいですよ?」

 要とわかり安心したからか彼女はずっと気になっていたことを口に出した。見た目も女の子ならば中身も完全に女の子になってしまっていた大好きな先輩の姿に困惑が抑えられなかった。

「こらこら時雨さん!女の子がキモい、なんて汚い言葉を使ってはいけませんよ!女の子ならもっと可愛らしい言葉を使わないと」

「いや、女の子じゃない先輩からそんなことを言われても…もしかして、からかってます?」

 一瞬要の表情が緩んだ。まさかまた何か変なことを言われるのかと身構えたが、その要の表情には見覚えがあった。それは男の要のものだった。

「まぁからかい半分本気半分ってとこかな…」

「え?半分本気だったんですか…」

 声のトーンも元の要のものに戻っていることに時雨はほっと胸をなでおろした。さすがに今日一日ずっと女声の要と付き合っていくのは少々、いや、結構骨が折れるような気がしたからだ。

「あの…先輩…少し聞きたいんですけど…あの日から今日までで何があったんですか…?」

「ほんとに…聞きたいか?」

「…はい…」

 声のトーンをさらに一つ下げた要、時雨もその意味を察したのかごくりとつばを飲み込んだ。

「それはお前と別れてから後のことだ…」


 あの後一度事務所に寄り社長にメイクの仕方を教えてもらおうとした要だったがそれが運の尽きだった。まずはネットで調べるなりなんなりすればよかったのだが、身近な女性に聞くのが一番早いと思ってしまった要の選択ミスだった。

「え!?要君女装するの!?…ふ~ん…なら最高の出来に仕上げてあげる!」

「ちょっと待って!なんで服を脱がすんですか!?…ってその手に持ってるそれは!?なんかめっちゃ震えてますよ!?」

「大丈夫大丈夫…痛くなんてしないからねぇ…」

「ら、らめぇぇぇぇぇ!」

 手始めに社長はまず要の身体からムダ毛を一本残らず処理してしまった。まさにそれはコミケで女の子のキャラのコスプレをするおじさんの足みたいになってしまっていて、きっと同級生の男子が見れば笑う、いや、ドン引きされるぐらいに綺麗な足になってしまった。足だけでなく腕、ヒゲ、その他諸々も恥ずかしい思いをしながらも丁寧に処理された。

「さ、次は女の子のしゃべり方をマスターするよ!アニメを見て女の子のしゃべり方をまねするのよ!」

 次に行ったしゃべり方訓練はまさに地獄だった。アニメを見てそこに出てきた女の子のセリフを一字一句、さらに声の抑揚までもまねさせられた。はじめは楽しみながらやってきていたのだがだんだんと社長の求めるクオリティは上がっていき、挙句の果ては同じセリフを2時間以上しゃべらされたという地獄に落とされた。

「今度はこれよ。ギャルゲの文章を読み取って女の子がその時どういう動作をしているのかを見極めてまねするのよ!」

 仕草兼ポージング練習もひたすら続いた。気づけば無意識に女の子のような仕草、例えばラーメンを食べるときに髪を耳にひっかけたりだとかをするようになってしまったのだから恐ろしい。

「最後は全身女の子の格好で街を歩くのよ!恥じらいなく堂々と歩けるようになってこそ一人前の男の娘になれるんだから!」

 ラストミッションも困難を極めるもので…。悪魔討伐の時と同じようにインカムをつけられて社長の指示を聞かなければいけなかった。その指示には要が男だとばれるのではないかと冷や汗ものな内容も含まれていた。そのおかげか歩き方も、声も、女の子に似たものを手に入れることができた。

「おめでとう要君!これで君も立派な男の娘よ!明日のデート、楽しんでらっしゃい」

 最後には涙を流した社長と熱い抱擁を交わすという謎の青春寸劇のおまけ付きだ。

「それにしても要君には習得に時間がかかったわね…早苗は1日もかからずにマスターしたっていうのに…」

 その言葉とリンクするように、早苗はお気に入りのソファに寝ころびながらもぐっと親指を突き立てたこぶしを上に突き上げていた…。


「…という経緯がありまして…」

 話の途中でバスが到着したのでそれに乗りながらも話を続けて現在、ちょうどライブハウスにつくには半分という距離だった。

「うぅ…先輩…ごめんね…私がもう少しお化粧について教えていれば…」

「謝らないでくれ…なんか虚しくなるから…」

 周りの女性客はほとんどがライブ行きなのか次第にワクワクしているのが見て取れた。しかし要と時雨の雰囲気はまさにお通夜状態だった―


 ライブハウスに着く頃にはもう要たちのテンションも回復していた。回復どころか限界を突き破って興奮マックス状態だ。脳内からドーパミンがドバドバと溢れてくるのが確かにわかった気がした。

「まだかなまだかなぁ…」

「もうすぐじゃないか?ほら、もう回りぎゅうぎゅうだし…それにしても…緊張するなぁ…」

「うん…私もすっごく緊張する…ライブなんて初めてだもん…」

「いや、俺の場合初ライブっていうよりは女装がばれないかっていう緊張」

「先輩…それシャレになってないよ…笑えないって…」

 と、つまらない会話を交わしているとふっとライブハウス内の電灯が落ちた。それがスイッチとなったのか周りで騒いでいたファンたちが一気に黙り込みステージに熱い視線を注いでいく。

 静まり返ったライブハウス内に要の鼓動だけがやけに大きく聞こえた。隣で時雨が唾を飲む音さえも容易に聞き取れるほどの静寂を突き破ったのは女性の声だった。

 力強くもそれでいて繊細な、ほぼ毎日耳にしている声、ボーカルのユノの声だ。

「さぁみんな…今日も張り切っていくよ!」

 彼女の声が響いたと同時にその声を覆い隠してしまいそうなほど激しい、悲鳴にも似た歓声が響いた。その歓声は凄まじいものでライブハウス内、いや、要の体内の臓器すら揺さぶるほどだった。それと同時に要の心も昂る。バクバクと心臓が嫌なほどに高鳴り瞳は大きく見開かれこの興奮の一ページをすべて見逃すまいとしているようだった。

「まずは1曲目…名前の知らないこの気持ち!」

(この曲は…知らないな…俺が今聞いてるのって2年ほど前のアルバムだもんな…その間に新曲ぐらい出るよな)

 ぼぉっとそんなことを考えている要の瞳を唐突な白が襲った。ステージライトが一気に点灯したのだ。その眩げな光に目を細めた一瞬だった。ステージ上にメンバーの姿がうかがえ知れた。

 中央に立っている真っ黒なゴスロリに血のような赤の装飾が施された服を着ているのがボーカルのユノだ。その隣に立っていたユノとは対照的な真っ白なゴスロリ衣装を着ていたのがきっと椎名だろう。その奥に陣取っている目が隠れてしまっているほどの長髪をしたのがきっとソウだろう。その証拠に手には漆黒の左利き用のベースが握られていた。そして一番奥にいたのがクロだ。クロという名前のくせに髪の毛は真っ白に染めているし着ているジャケットも真っ白だった。

 全員がまだ20代前半くらいの青々しさを残した容姿をしていた。やはり才能に年齢は関係ないのかもしれない。

「1,2…1234!」

 ドラムのバチの音に合わせてリズムをとったのち曲が始まった。バリバリとギターがかき鳴らされBPMの高い変幻自在のリズムがドラムからはじき出される。そのリズムに合わせてユノが曲の開始までテンポをとる。観客は皆一様に盛り上がっているか何かを期待しているようだった。それはきっとユノの歌声だろう。その魔性を秘めたような歌声を、楽しみにしているのだ。

「♪おかしいんだボクの心バクバクが止まらないんだ。キミを見てるとぎゅっと締め付けられてしまうのさ。あぁ、ボクは病気なのだろうか♪」

 ユノが歌った。ただそれだけのことなのに要の目頭はジーンと熱くなった。隣にいる時雨はというときゃーなどと黄色い悲鳴を上げながら曲に合わせて飛び上がったりしていた。

「♪ボクの気持ちは何なんだい?誰かボクの心を覗いてみてくれよ。きっと何もかもがぐちゃぐちゃになっているんだ、まるでパズルのピースみたいにね。そんなことになるのはなんでだろう?この気持ち、教えてほしいよ!♪」

 可愛らしい歌詞とは裏腹に力強い声と激しいロックサウンドが耳をつんざく。普通ならミスマッチだと思うがこのギャップのある感じが彼女たちの曲の魅力を引き出していた。しかもユノはただ力強い声というだけではなく感傷にあふれた声も使い分けることができる。弱々しくも力強い、まさに歌詞の主人公の気持ちをそのまま体現したような歌い方をしてこちらまで世界観に飲み込まれるようだった。

「♪ズタズタの心、切ないよ!ドキドキしてたまらないんだ!ボクの気持ちの名前を教えてよ。誰に聞けばわかるのかな?モーツァルト?アリストテレス?それともシェイクスピア?ううん、きっとこの気持ちを教えてくれるのはキミだけ。キミに聞いたら笑って言うんだ、それはコイだって♪」

 曲を聞いていくうちに要の中にある感情が生まれた、それはこの歌詞への共感だった。まるで自分のことを歌っているような、そんな錯覚に陥ってしまう。隣の時雨を無意識にちらりと見た。満面の笑みを浮かべて曲を楽しんでいる。その無邪気な横顔にどきりとして、胸がバクバクと高鳴るのが分かった。それに顔にも汗が滲んできた。それはきっとライブの熱に当てられたから、という理由では済まされないだろう。

(まさか…これは…恋?いや、まさか…ただ妹に似てるだけ…え?でも似てるだけでこんな気持ちになるのか…?)


 なんだかモヤモヤした気持ちを考えているうちに曲は終わってしまった。それと同時に観客のボルテージも下がる。まるでユノが観客のテンションを操るスイッチでも持っている風にも感じられた。

「さぁ…レディースアンドジェントルマン!今日は思いっきり楽しんでいってね!…ってジェントルマンはこの会場にはいないか、ははは!」

 ファンの反応から見るにこれはどうやらお決まりの挨拶らしい。しかしそのお決まりにも心臓が一瞬ドクリと跳ねて冷や汗が少し流れたものが一人、この場にいるのだがそれは最後まで誰にも知られることはなかった。

「今日もあんまり時間もないことだし…最初っから飛ばしていくよぉ!ついてこれない奴は振り飛ばしていくからなぁ!」


 初めのその言葉通りライブは終始クライマックスだった。ライブの終わりにはもうくたくたでふらふらとした足取りでライブハウスを出た。しかし彼らは疲れているにもかかわらずなぜかすっきりとした顔立ちだった。それはきっとマラソンを走り切った後の疲労感の中に見える達成感のようなものに似ていた。

 体に疲労は残るが口はそうでもなかった。さっきのライブの感想をとめどなく言い合っているうちにバスが到着した。もう空は夕暮れ、今から帰っていると夜になってしまうだろう。

「う~ん…!やっぱりライブって痺れるねぇ…!先輩!また行きましょうよ!」

「いいけど…俺、また女装するのか…」

 膝の上に乗せたバッグを乾いた瞳で見つめる要。ライブが終わった後適当な店に入りトイレで着替えたのだ。できればこの中に入っている要ちゃんの残骸は二度と使いたくないなと思っていた要だがライブにも行きたいという対立した意識が混在していることもわかった。

 だんだんと空に黒が染み出してきた。その時にはもうお互い話し尽くしてしまったのか無言だった。

「あ、あのさ…先輩…」

「ん?なんだ?」

 と、ふと時雨が要のことを呼んだ。その声はどこか恥ずかしそうに上ずっていたが彼はそんなこと気にも留めていなかった。

「な、なんだか…暑くない、かな?」

「暑い、か?そういえばお前ちょっと厚着だな。そのせいじゃないか?」

「そう…なのかな?」

 時雨はそうぎこちなくそう言ったのち、自分の胸元を開いてパタパタとそこに風を送り込み始めた。真っ赤になったその顔は恥ずかしさか、はたまた夕暮れのせいなのか、要には判断が付かなかった。いや、判断できない思考だった。なにせ時雨が胸元を開くだけでその大きなおっぱいがぷるりと揺れて激しく自己主張をする。まさにそれは男にとっては目の毒であり眼福であり、要はそこから目が離せなくなってしまった。

「ふぅ…涼しいなぁ…」

 時雨のその言葉がわざとらしいことに要は気づかない。要は男の本性丸出しで彼女の身長に似つかない大きなおっぱいを眺めていた。

 ぷるりとした質感、上下するたびにたぽたぽと揺れている、色は白くまるでおもちみたいだ。それに…汗が丘を下り胸の谷間へと吸い込まれていくさまがやけにエロく感じる。ただの汗のはずなのに、その雫は乾いた砂漠に降り注いだ雨粒のように貴重なもののように感じた。

(やべぇ…これ…えろすぎ…見ちゃダメってわかってるのに…勝手に目が…ってうお!?あれは…ブラジャー…!)

 ちらちらと見える水色のブラがまた扇情的で要の頭は鈍器で殴られたようにくらくらとしてきた。それと同時に頭の中がピンクの煩悩に染まっていく。

「先輩…もしよかったら…先輩のおうち、行きたいなぁ…」

 極めつけは家に行きたいとのこと。これはもちろんそういう意味として受け取ってもいいのだろう、このコンボを食らって断ることができる男などいないはずだが、要は違った。

 家に行きたいという言葉を聞いてふと正気に戻ったのだ。その言葉だけで体から欲望が抜けさりクールダウンしていく不思議な感じだ。

「ごめん…家は、ダメなんだ」

「ちぇっ…ケチ…」

「お前、さっきのわざとだろ?俺を誘惑して…」

「うっ…ばれたか…あ、でも別に家に行きたいって言っても変な意味じゃないからね?ただ純粋におうちが気になるっていうか…それでも、ダメ?」

「あぁ、それでもだめだ」

 家に来れば目覚めない妹がいる。さすがに時雨にはそんな妹の姿を見せたくはなかった。それに、なぜか要の奥底の本能が時雨の来訪を拒んでいた。


「それじゃ時雨、また明日な」

 待ち合わせに使ったショッピングモール前の終点のバス停で降りてそのまま別れた。午前中あれだけ堂々と道を歩いていた要も今ではもうヘロヘロになり重苦しい足取りで家路を急いだ。

 夜の闇の中、ふと彼は自分を見ている視線を感じた。しかし今の要はもうお疲れだ、それにかまっている余裕もなく、それになぜ自分を見ている必要があるのかと思い結局無視を決め込み家までたどり着いた。

「ただいま」

 帰宅の言葉をかけるがやはり帰ってくるのは静寂のみだ。要はふぅと息をついて奥の部屋へ。そして今日の出来事をいまだ目覚めぬ妹に語って聞かせた。ライブのドキドキ、女装をして街を歩く緊張、そして時雨に感じた不思議な思いも、聞き上手な妹にすべてぶちまけた。

「もし今度空が目覚めたら一緒にライブ行こうな…」

 要は色白の可愛らしい空の頬を愛おしそうに撫でながら話に没頭する。夢中になっていた彼は、来客の存在にも気づくことがなかった…。


「え…?せ、せん…ぱい…?」

 ふと後ろからかかった声にびくりと肩を震わせて振り返る要。要の瞳はキッと鋭く光りまるで悪魔と戦う時に見せるようなものだった。声の主が時雨だとわかっても、要はその目をやめることができなかった。いや、さらに目を細めて睨みをきかせる。まさに子供を守ろうとする獣のように。

「お前…いつから…」

「いつって…つい3分ぐらい前…インターホン鳴らしても気づいてないみたいだったから…」

「だから…勝手に入ってきたのか?…そもそもなんで俺の家に…帰ったんじゃなかったのか?」

「…先輩のおうちがどんなのか、ほんとに気になって…それに先輩をびっくりさせたくって…」

 彼女は瞳いっぱいに涙をためてうつむいている。しかしその姿勢はただ要に怒られてびくびくしているのではなかった。要のほうを、いや、要の奥にあるモノに目を向けたくないとでもいう風だった。

 一方要はというとすでに激怒寸前だった。勝手に部屋に入られたから、という理由で怒るには不自然すぎるほどだ。それはまさに、必死に隠していた何かが見つかった時のような、そんな雰囲気に似ているなと時雨は内心でそう思った。

「ご、ごめんなさい先輩…私…ほんの遊び心だったのに…」

「ごめんなさいじゃねぇだろ!」

 要は語気を荒げて立ち上がった。そして時雨のほうへとずんずんと歩いていく。その歩きざまは殺気を放っており捕まれば殺されると時雨の本能はそう察していた。時雨はそれをかわそうと後ろにじりじりと下がる。けれど狭い部屋の中だ、すぐに壁際に追い詰められてしまう。まさに彼女が悪魔に襲われた時と酷似している光景だ。

 時雨は涙を流して懇願の瞳を要に向ける。しかし要の濁った虚ろな瞳には時雨の存在など映っていなかった。そこに映っていたのは、敵としての存在、殺すべき女の子の姿だった。

「先輩…やめて…!」

「自分からのこのこやってきておいてやめても何もねぇだろ…」

「ひっ…!」

 要の腕が、開かれた掌が時雨の首元に伸びる。悪魔の命を無数に刈り取ってきた血に染まった手が、彼女の命も奪い去ろうと近づいてくる。時雨の身体はがたがたと無意識に震えカチカチと奥歯が鳴る。死を前にした瞬間が、こんなに恐ろしいものだと、彼女は初めて知った。こんなに震えて息も荒くなっているけれど、彼女には一つ聞いておかなければならないことがあった。それは、彼がずっと隠してきた、いや、無意識に書き換えてきたことだった。

「先輩…最後に一つ聞かせて…なんでそれを愛おしそうに可愛がってるの…?」

 時雨の震える指先が、空が寝込んでいるベッドを指していた。何をいまさらと要ははぁと息をついた。ずっと眠っている妹に声をかけて何が悪いのか、要がそう口にしようとした瞬間、彼女が先に口を開いてこういった。

「その子…もう…し…死んでる、のに…」

「おい…ふざけるなよ…空が、死んでるだと…?もっとよく見ろよ!ほら!死んでねぇだろ!?」

 要は時雨の頭をつかむと無理やり空の方向へ向けた。もっとよく見てもらおうと要は力任せに時雨を引っ張って空のほぼ目前まで顔を向けた。時雨は空の顔を見るなり顔を真っ青に染めて口に手を当てた。瞳いっぱいに涙をためて塞いだ口から嗚咽が漏れていた。

「なぁ!ちゃんと見ろよ!死んでないだろ!?おい!」

 さらに語気を荒めて叫ぶように要はそう言った。けれど時雨は頑なに首を横に振った。

「ううん…死んでるよ…この子…もう、息もしていない…」

「てめぇ…!本当にぶっ殺すぞ!」

「先輩!目を覚まして!ちゃんと見て…この子は、空ちゃんは…もう…」

 さっきまで泣き叫んでいたのとは違い今度は力強い瞳で要を見返した時雨。要はありえないといった風に首を横に振るしかできなかった。さっきと力関係は逆転した。今度は、時雨が彼を責める番だった。

「なら何で先輩は私を家に入れたくなかったの?なんで家に入っただけでこんなに怒るの?それは隠し事があったからじゃないの?」

「あぁ…お前に空のこんな姿を見せたくなかったし、それに見せて同情されるのも嫌だったからな」

「ふ~ん…実は死んでいた空ちゃんを見られるのが嫌だったから、っていうのじゃないんだ?」

「だから違うって言ってるだろ!空は死んでない!」

「なら…なんで先輩はこの部屋を見ただけで私を殺そうとしたんですか?普通部屋を見られた、ううん、眠っている空ちゃんを見られただけで私を殺そうとしますか?ううん、しませんよね普通なら」

「そ、それは…」

 要は返答に詰まった。確かになぜ自分は時雨を殺そうとまでしてしまったのだろうと今になって不思議に思った。あの時の自分は何か別のものに取りつかれていたような、熱に浮かされていたような、よくわからないごちゃごちゃに飲み込まれて意識が薄くなってしまっていたと要は自己分析する。しかしその自己分析も結局有力な殺意の証拠になることはなく彼の頭の中で霧散した。

「それは、先輩が死んでしまっている空ちゃんを見られることを無意識に拒んだから。違いますか?先輩は、無意識に記憶を操作して空ちゃんがまだ生きていると思い込んでいるんです!」

「嘘だ…そんなの…嘘だ…俺は…信じないぞ…そ、そうか…お前は時雨の姿を模した悪魔だ…悪魔だからそんなことが言えるんだ…ははは、なんだ、全部悪魔の嘘か。そんな嘘を吐く悪魔は…俺が殺さないと」


 パシン

!

 狭い部屋の中、頬をたたく音が異常に大きく響いた。闇に照らされた要の頬に、真っ赤な跡が残っていた。彼はいったい自分が何をされたか一瞬理解できずに目を白黒させた。けれど時雨にビンタされたのだと理解した瞬間、彼女の悲痛に満ちた叫びのような鳴き声が彼を襲った。

「先輩!目を覚ましてください!なんで…なんでそんなこと言うんですか…!私が悪魔なんてことを…先輩…現実を、ちゃんと見てください…じゃないと…空ちゃんが可愛そうです…きっと空ちゃんも、お兄ちゃんのそんな姿なんて、見たくありません…」

 空のことを引き合いに出されてしまうと要も従うしかなかった。空が死んだなんて、信じないと思いながらも心の中ではドクンドクンと嫌に心臓が高鳴っているのが分かった。

 要は重たい足を一歩、また一歩と空のもとへと向けた。ぎゅっと目を瞑りふぅ、と大きく息をついた。そして、覚悟を決めたかのようにカッと目を見開き妹の姿を見た。

「え…?これは…?」

 そこにいたのは紛れもなく妹だった、いや、妹の成れの果て、といったほうがいいか。先ほどまで見ていた妹の姿とは全く違っていた。色白に見えていた頬は血が通わずに青みが差した白に染まり、息をしていると思っていた柔らかな唇は紫に染まり水気を失っていた、身体は腐敗こそしていないがとにかく白く染まっていた。そして何より目を引いたのが彼女の髪の毛だった。それは生前見せた綺麗な炎の赤とは対照的に、灰になってしまったかのように白く染まっていた。

 彼女の身体はただひたすらに白く白く、真っ白に染まってしまっていた。身体だけではなく、中身まで、魂も真っ白になり、見えなくなってしまっていた。

「まさか…ほんとに…」

 見た目だけでは信じられずに彼女の身体に触れてみる。氷のように冷たく、脈も通っていない彼女の体に要はバッとすぐに手を放した。それは、完全なる空の死を意味していた。

「うわぁぁぁぁぁぁ!」

 要が空の死を認識した瞬間、今まで封印してきた、いや、改変されたすべての記憶が彼の脳内に浮かび上がった。全部、全部、全部、彼は思い出した。

 妹の、死の瞬間さえも―

 すべてが彼の頭の中に流れ込んできた。偽りの記憶がまるで皮を剥くようにべりべりとはがれていき露呈した部分に痛々しく本当の記憶が刺さる。絶望の事実が頭を駆け巡り知らず知らずのうちに彼は叫んでいた。それは獣の咆哮のようだった。

「あぁ…うわぁぁぁぁ!空…空ぁ…!」

 夜の闇の中に悲痛な叫び声が虚しく響いた。要はその場に崩れ落ち膝をついた。ぼろぼろと溢れてくる涙が床に落ちて小さな水たまりを作っていく。

「先輩…ごめんなさい…それと…頑張ったね、先輩…」

 時雨がギュッと崩れ落ちた要を抱きかかえる。ぎゅっと、ぎゅっと、ただ強く、優しく、お互いの肌の温度を感じてしまえるほど近く抱きしめた。それは母親が泣いている子供をあやすような、そんな温かみがあった。

「うわぁぁぁぁぁぁぁ!」

 要は優しい彼女の胸の中で、泣いた。彼女の温かさが、要のすべてを包み込む。妹の死を知った悲しみも恐怖も、そしてそれを今までずっと偽ってきた要自身の弱さも、すべてをやんわりと受け入れた。

「泣いていいんだよ、先輩…いっぱいいっぱい、泣いてよ…つらかったよね…怖かったよね…先輩…今までためてきた思いを…全部私にぶつけて…」

 まるで子供に戻ったみたいに要は泣き喚いた。彼女は、要が泣き止むまでずっと抱きしめて頭を撫でてくれていた。


「…ごめん、時雨…カッコ悪いとこ、見せちゃったかな…」

「いいよ…私全然気にしてないから…むしろあんなに強くて優しい先輩の弱々しい姿が見れてうれしいっていうかなんて言うか…」

 ようやく泣き止んだ要はポンポンと時雨の頭を撫でた。昔空にやっていたみたいに優しくて温かな、なでなでだった。時雨は気持ちよさそうに目を細めてそれを受け止めた。その頬はほのかにピンクに染まっていたが、夜の闇のせいで要にはわかることがなかった。

「あのさ、時雨…俺の話、聞いてくれないか…」

「え?先輩の…?でも、いいの?辛くない?」

「辛いのは確かだけどさ…誰かに話したいんだ…そうすれば何か吹っ切れるような気がするから…」

「…うん、わかった…」

 要は一瞬目を閉じて精神を落ち着かせてから、ポツリポツリと過去のことを話していった。


 それは1年前のある日のことだった。その日は別段何もない平穏な日だった。ただ、外では今年初めての雪が降っていた。

「うぅ…寒いなぁ…こんな日は早く帰ってあったかいコーヒーが飲みたい…」

 彼はいつものように学校に行き、授業を受けて、親友の仙波たちとバカ騒ぎをして帰ってくる。悪魔が出没したという情報もなくその日はまっすぐに家に帰った。

「ただいま」

 かじかむ手を擦りながら彼は静寂に満ち溢れている家へと帰ってきた。もちろんお帰りの声なんてかかるわけがなかった。要はさっそくヤカンに水を張りそれを沸かす。沸くのを待つ間いつものように妹への報告タイムだ。

 冷ややかな空気が満ち溢れた室内をパタパタと足音を響かせながら妹が眠っている部屋へ急ぐ。そしてその扉に手をかけた瞬間、彼の心には何か嫌なものが走った。開けてはいけない何かが、そこにはあったのだ。けれどその時の彼はそんなことを考えるのは後回しだと言わんばかりに勢いよく扉を開いた。

 扉を開くと暖かな空気が流れ込んできた。寝ている妹は体温調節が難しいために暖房は欠かせないのだ。外との寒暖の差で血行が良くなり頬が少しかゆくなってくるのにも構わずに彼は部屋の奥へと入る。目的の、彼の妹のもとへ。

「え…?おい…なんだよ…これ…」

 彼はベッドに近づき、そのまま凍り付いたように動かなくなってしまった。視線はベッドの上に横たわったものに釘付けになり、口はプルプルと震え何か言葉を絞り出そうとしていたが、結局それは声にはならなかった。

 要はその場に崩れ落ちた。遠くでヤカンがぴゅーぴゅーと沸騰していることを知らせるために叫んでいるが、今の要にはそれが遠い世界のものに感じた。

「空…おい…起きろよ…空…」

 彼はゆっくりとベッドに近づき妹の体に触れた。しかし暖房がかかっている部屋にずっといたにもかかわらず妹の体は氷のように冷たかった。その冷たさに驚き思わず手を放してしまった。

「なぁ…おい…空…兄ちゃんだぞ…そんな悪ふざけしないで…起きてくれよ…」

 彼は必死に妹を呼んだ。けれど妹はいつもと同じでそれに応えずにずっと眠っている。いや、もう、目が開けられないのだ。

「空…俺を…一人にしないでくれよ…!俺は、俺はこれから何のために生きればいいんだよ!」

 彼のそんな叫び声はビュー!というヤカンの叫び声に打ち消された。それと同時に彼はハッと現実に帰ってくる。

「…そうだ…火を…止めなくちゃ…」

 虚ろな瞳を浮かべて、よろよろとした足取りで彼は台所へ向かう。台所ではヤカンから溢れた水がバチバチと火を荒ぶらせているところだった。真っ赤な炎が怒り狂ったようにのたうち回っている。

 その炎はまるで悪魔の力を使った時の空の髪の色のように真っ赤で、狂おしいほどに、美しかった。あの炎の中に行けば、楽になれるのだろうか、彼はふとそんなことを思い歩を進めた。

「空…兄ちゃんも…すぐにそっちに逝くからな…」

 炎が手招いているように見える。彼はまるで童話の笛吹に連れられていく子供たちのように虚ろな視線で、しかしどこか嬉しそうに炎の中へ突き進んでいった。バチバチと炎が上がっている。凶悪で、狂乱で、美しく、姦惑的な炎の手が、彼に触れようとした瞬間だった。

「お兄ちゃん!だめぇ!」

「そ、空!?」

 ふと、妹の叫び声が聞こえた。その瞬間彼は暗示が解けたようにふと目の色を取り戻した。まさか空が生き返ったかと思ったがあの状態で生き返るなど不可能だと彼は頭を振った。きっと空耳だろうと思い彼はまた炎に一歩足を近づける。

 その瞬間だった。目の前の炎が渦を巻いて空に飛翔した。蛇がのたうち回る様を思い起こさせるその動きで炎は空中での渦巻き、そして要の脇を通り過ぎていく。その行き先は、空の部屋だった。

 彼は急いでそれについていく。その炎は空の部屋へと入っていき、そして彼女に飲み込まれた。ベッドの上に横たわった小さな体に、どんどんと炎が飲み込まれているのだ。オレンジの炎は見る見るうちに彼女の体内へと収められて、そしてその存在をこの世から消してしまった。

 残った彼女の遺体は、燃え尽きたように髪の毛が真っ白に染まっていた―

 

 結局その現象の正体もわからぬままに彼は家を飛び出した。

「はぁはぁ…」

 どこに行く当てもない、ただ、雪の降る街をひたすらに走った。走っている中、思い出すのは妹のことだけだった。

 ずっと自分の支えになってくれた妹に、彼は恩返しの一つもできやしなかった。その後悔の思いと、もう二度とありがとうと言えないのかという絶望が心を飲み込んでいき、真っ黒に染め上げていく。

 そこから先は何がどうなったのか思い出せなかった。記憶がそこだけブラックアウトしてしまっていたからだ。けれどそのあとに何があったのかは明確に覚えていた。

 血に染まった自らの手、あたりには数多の悪魔の死骸、その中央で涙を流しながら笑う彼、しんしんと降り落ちる真白の雪が彼の心をさらに凍てつかせた。

 その瞬間に、彼の心はぼろぼろに崩れ落ちた。正常な心のピースは行方不明になり、その無くなった隙間を埋めるように黒いピースが心を構築していった。その黒い心は、復讐、だった。今までも復讐心はあった、それで悪魔と彼は戦ってきたのだから。

 けれどいま彼に目覚めたものはさらに黒い、復讐の心だった。復讐の炎は赤を通り越して、どす黒い黒に染まっていた。怒り、悲しみ、情けなさ、後悔、すべてが黒に染まり、彼の心を埋めていった。

 またそこで記憶は途切れてしまった。次に目覚めたのは彼の家だった。どうやって家に帰ってきたのかも覚えていないし彼の手にべったりとこべりついた血をどうやって処理したのかも覚えていない。自分が長い夢を見ていた風にさえ思ってしまう。

「空…おはよう…今日も、寒いな…」

 彼はベッドの脇に座ったまま眠ってしまっていたのだ。ぷにっとした妹の頬をつんつんとつつき、ついでに綺麗な彼女の黒髪を撫でた。けれど反応がないのはいつものことだった。

「空、今日も兄ちゃん頑張って悪魔をいっぱい倒してお前を助けてやるからな」

 彼は立ち上がりふと鏡を見て思った。

「なんで俺…泣いてたんだ?嫌な夢を見た気がするが…気のせいか?」

 そして彼はまた日常に戻っていった。妹の死などなかった、平穏な日常へと―


「…そして俺の記憶は書き換わった。妹が死んだ記憶から、まだ生きている記憶へと…はは、おかしいよな…空に助けられておいて…それすら忘れて都合のいい夢を見てるなんてさ…」

 すべて語り終えて彼は力なく笑った。どこか憑き物が落ちたようにすっとした部分も見て取れた。少しは回復した要の姿を見て時雨はほっと胸をなでおろした。

「妹のためとか言ってさ、自分の復讐のために悪魔を殺してまわって…挙句の果てにはこいつまで使って空を苦しめてたんだ…」

 要はベッド脇の机に置いていた薬箱から一つのビンを取り出した。そこには液体がたっぷりと入れられていた。ラベルは貼られておらず時雨にとっては何が入っているのか分からなかった。

「先輩、それは?」

「なんていえばいいのかな…防腐剤、っていう言い方もおかしいし、ホルマリンでもないんだけどさ…まぁそれに似たものだって思ってくれてればいいよ。俺のオリジナルさ」

「これを空ちゃんの身体に塗って死体の腐敗を防いでいたの?」

「あぁ。その時の俺はこいつの正体を知っていながらも記憶では空の身体に栄養を送る薬だと言い張ってずっと塗っていたんだ。内蔵の防腐を抑えるために飲ませていたのもある…」

 要はまたも力なく笑うと、ふと何を思ったのかそのビンを壁に放り投げた。ぱりんと音をたててビンが割れて中身の液体が床にぶちまかれた。

「こいつはもういらない…空の体を、もう開放してやりたい…」

「…ならさ、お墓、作ってあげよ?お墓でゆっくり眠ってもらうの…そのほうが空ちゃんも喜ぶんじゃないかな?それに…先輩ももうつらいでしょ?改めてもう死んじゃってる空ちゃんを見るのは…」

「そう、だな…」

 要としては苦渋の選択だった。しかし、過去と、偽りの記憶と決別するにはこの方法しかないと分かったのか潔く別れを選んだ。

「時雨…ごめん…ちょっとお風呂入ってくる…一人に、させてほしいんだ…」

 と、要はそう言って時雨が引き止める間もなくお風呂場へと向かってしまった。時雨が見た彼の背中はとても小さく悲哀に満ち溢れていてどこか不安定なようにも思えた。少しでも刺激を与えれば飛んで行ってしまうのではないかというほどに…。


「ふぅ…さっぱりするなぁ…」

 要はシャワーで思いっきり顔を流した。さっきまでわんわんと泣き喚いて涙と鼻水でべとべとだった顔を洗い心なしか気分まですっきりしたように思える。そしてだんだんと冷静になっていくうちに自分がしたことの恥ずかしさを再認識した。彼は、時雨の胸の中で子供みたいに泣き喚いていたのだ。それが恐ろしく恥ずかしいもので、その恥ずかしさと記憶を洗い落とすように頭からシャワーをかぶった。

「はぁ…空…ごめんな…」

 一人になると空のことが心を占めてしまう。空への感謝も、助けられなかった後悔も、すべて過去の思い出とともによみがえっては石鹸でできた泡のようにパチンと消えていく。それと同時にもし時雨がいなかったら自分はどうなっていたのかを想像する。あのまま甘い幻想の中を生きて、死んでしまった空の身体を自分自身のためにいじくりまわして、そして最後には空の死さえ気づかぬままに自分が死んでしまう…。そう考えると彼の背筋にゾクゾクとした寒気が走った。

「ほんと…時雨には感謝しなくちゃな…」

 彼女には感謝しても足りないだろうなと要は苦笑いを浮かべた。彼女への感謝を感じると同時に、愛おしさも膨れ上がってくるのが確かに分かった。それは明らかな好意を通り越した何かへと姿を変えていく。この気持ちの正体を、要はだんだんと確証に移していた。

(俺は…時雨のことが…)

「せんぱーい!死んでませんか~?一緒にお風呂入りましょう!」

 唐突にシリアスムードを打ち破ってきたバカな後輩(バスタオル一枚のみ着用)に彼は驚きびくりと肩を震わせてフリーズしてしまう。突然の訪問に驚いたがそれ以上に気を引いたのが彼女の肢体だ。絹のようにすべすべとしていて真っ白な、それでいて少しピンクがさした健康的な肌にたっぽりとした二つの果実、服の上からであまり確認できなかったが健康そうに引き締まった太ももが見えてしまうその恰好では当然年ごろの男子である要が意識しないわけでもなく…。

「や、ヤダ先輩…それ…」

「え…?…あ」

 真っ赤な顔をした時雨が要の股間部分を指さした。そこには唐突の訪問で隠す間もなかった要の大事なモノがぶらりんとこんにちはしていた。時雨は恥ずかしそうに手で目を覆っているが指の隙間からばっちしと目視してしまっている。指の隙間から覗く頬がピンク色に染まり瞳は興味深そうに見開かれていた。

「せ、先輩!早くそのちっちゃなものしまってください!」

「ぐはぁ!」

 その言葉は要のHPを0にするには十分な破壊力を持ち合わせていたようだ。彼は隠すのも忘れてそのまま死んだような顔でうつむいてしまった。

「し、時雨さん…男にとってちっちゃいっていうのは…禁句ですよ…」

「あ、ご、ごめんなさい…あの…その…エッチな画像とかだともっとおっきかったから…って先輩何言わしてるんですか!」

「あーあー!俺は何も聞いてない!聞いてないぞー!」

「…ってそんなことより早くそれしまってくださいよぉ!」

 ほんの数分前のシリアスなムードは完全に打ち砕かれお風呂場には二人の楽しそうな声が木霊していた。


「…で、なんでお前、勝手に風呂なんて入ってきたんだよ…」

 無事に腰にタオルを巻いた要は時雨にそう尋ねた。

「う~ん…だって先輩すっごく寂しそうで悲しそうだったもん…それに…下手したら自分から死にに行っちゃいそうだったし…ほら、お風呂って言えばリストカットの定番じゃない?」

「だからって普通風呂に乱入してくるか?」

「先輩にもしものことが起こってからじゃ取り返しがつかないかもって思ったから…私…先輩にいなくなってもらっちゃ困るんです…私も先輩と同じで、好きな人に依存して生きてるんです…」

 彼女の大きな瞳が涙で潤んでいるのが風呂場の鏡越しに見て取れた。

(こいつなりに、俺を心配してくれてたんだよな…)

 要の心にじんわりと温かいものが染み渡っていくのが分かった。

「ありがとな、時雨…」

「え?先輩…怒らないの?」

「だって俺を心配してくれたんだろ。だったらありがとうって言わないとな。でも次はもっと方法を考えてくれよ?じゃないとさっきみたいな大事件が起こるから…」

「はーい…あ、先輩!背中、洗ってあげますよ!」

 と、さっきまでのしおらしい感じとは打って変わってテンション高めの時雨がそう申し出た。その瞳はキラキラと輝いておりやる気満々といったところだった。要はどうしようかと迷ったが結局彼女にお願いすることにした。任せてください!といったのと同時に要の背中に何か柔らかいものが当たった。

 それはまさにつきたてのお餅だった。柔らかくて吸い付いてくるようで、それでいて温かい。しかしそれがお餅ではないことはもちろんわかっていた。

「し、時雨!?」

 思わず声が裏返ってしまうのも構わず要は時雨を止めようとした。しかし…

「ひゃんっ!?だ、だめです先輩!動かないで…動いたら擦れちゃいます…それに、振り返ったらどうなるか、わかりますよね…?」

「あぁ…そうだな…」

 要の予想だと後ろを向けば明らかに何も纏っていない生まれたままの姿の時雨がそこにいる。要の背に自分のおっぱいを押し付けているのだ、きっと何も纏っていないだろう、それに彼女の言動から全裸だということは考えなくてもわかることだった。

 何も纏うものがない生まれたままの時雨の胸が、要の体に押し当てられている。その柔らかなおっぱいはこの世の何物にも同じ柔らかさのものはないような気がした。もにゅもにゅ、もにゅり、おっぱいが上下に移動すると同時に何かつんとしたものがアクセントとして背中をひっかく。要はおっぱいスポンジの気持ちよさに溺れると同時にいかがわしいお店に来ているのではないかという錯覚を覚えた。

「えへへ…先輩…気持ちいいですか?」

「あぁ…けど…なんで…?」

「だって男の人ってこういうのが好きなんでしょ?こういうのをしたら喜んでくれるってマンガに書いてあったから…」

「お前…さっき俺が方法を考えろって言ったばかりだぞ…てかお前そんなマンガ読んでるのかよ…」

「た、ただの少年マンガ!エッチなマンガじゃないから!」

「誰もエッチなマンガとは言ってねぇよ…」

 自身を喜ばせようとしてしてくれているのは嬉しいがやはり方法がおかしい。こんなことをされれば喜ぶどころか逆にむらむらとして辛くなってしまうではないか。その証拠に要の内側にはどうしようもない欲望がだんだんと募りそれがある一点に注がれ始めているのだから。それはへたをすると股間に立派なテントを張ってしまうほどに要を欲望という名の荒波へと放り投げていた。

「ごめんなさい…でも…先輩今とっても幸せでしょ?顔に書いてあるよ?めっちゃにやけてる」

「嘘…?」

 自分自身で触ってみたがよくわからない、鏡に映っている表情も見るがどこもにやけている風には見えなかった。

「えへへ…先輩引っかかった!やっぱり嬉しいんだ。いいよ、もっとしてあげるから」

 やられたと悔しがる暇もなく背中に理性を削るもにゅりとしてやわらかなもの強くが押し付けられた。それは背中の上でぎゅっとつぶれて変幻自在に形を変える。それにおっぱいだけではなく彼女の手のひらも背中を這った。まるで彼の骨格の形を確かめるかのように彼女の手が妖艶に動く。ねっとりとした手のひらがやけに暖かい。

「先輩の背中っておっきいね…すっごく頼もしい感じ…おんぶされたいなぁ…」

「おいおい…この年でおんぶかよ…」

「女の子はいつだって男の子におんぶされたいものなんです!」

「そうなのか?」

 他愛もない会話を続けているが二人とも心臓は恥ずかしさと緊張でバクバクだった。体もだんだんと熱くなってきて頭もくらくらしてくる。しかしどちらもそのことが言えずに泥沼の状態へと化していた。

「えへへぇ…せんぱぁい…あれれぇ…?先輩が二人みえるぉ…」

「それは…奇遇だな…俺もお前が…二人に…見える…」

「アハハぁ…先輩と一緒嬉しいなぁ…」

「…これ、やばいな…」

 限界寸前の要の脳は死力を振り絞り自分の状況がどれだけ危険かを判断する。さすがに今のこの状況じゃ二人とも茹でダコになって死んでしまう。命の危機に瀕したとなれば話は別だ、彼は時雨の裸が見えてしまうにもかかわらずその場を動き風呂場のドアを開いた。

 外界の涼しい空気が一気に流れ込んできてヒートアップした二人を冷静にさせていく。と、同時に二人は自分たちがどれだけ恥ずかしいことをしていたのかを悟り爆発しそうなほど顔を真っ赤に染めた。

「あ、あの…先輩…ごめんなさい…」

「いや、俺のほうこそ…なんか流されて…ごめん…」

 お風呂の熱の怖さを改めて思い知った瞬間であった―


「先輩、ほんとにいいの?ベッド借りちゃってさ…」

「あぁ、いいぞ」

 風呂あがり、さすがにこんな夜更けに女の子を一人で家に帰すわけにもいかず、要は時雨を家に泊めることにした。夜の街は魔物が活性化して大変だ、それは悪魔祓いの要自身よく知っていることであり非力な時雨は悪魔どもの格好の的になりそうだったから。お風呂のあの事件があり恥ずかしいと思う要だが人命がかかわってくるとなると別だ、彼は自身の部屋のベッドで時雨に寝るように勧める。

「でも先輩…ソファで寝たら風邪ひいちゃうよ?毛布一枚でしょ?今は春だけどまだちょっと寒さが残ってるんだしさ…」

「いや、それを言うならお前もだろ。それにお前はお客様だぞ?お客に風邪をひかせるっていうのもさ、なんか心苦しいし…」

「う~ん…でもぉ…」

 どうやら時雨は要がソファで眠ることに納得できないようだ。それは要も同じことでここで怒涛の譲り合いが始まる、かと思われたのだが…

「わかった先輩!それじゃ一緒に寝よう!うん!同じベッドで寝たらちゃんと二人とも寝れるし、それにあったかいでしょ!」

 眠気を孕んだ要の脳はその提案を思わず了承してしまった。過去にずっと妹と一緒の布団で眠っていた要だ、その当時の感覚と同じだろうとタカをくくっていたのが彼の一番の間違いだった。

(なにこれ…すげぇドキドキする!)

 良くも悪くも彼はもう子供ではなかった。身体だけではなく心もしっかりと大人に向けて成長していた。半分大人な心は当時感じることがなかった女性への意識を存分に彼の心の奥底からわきあがらせる。

(すげぇいい匂い!なにこれ…これが…女の子…!)

 要の鼻孔をくすぐるのは隣で眠っている少女のシャンプーのようなすっきりとした甘い香り。要も使っているシャンプーだというのに隣の少女から漂うその香りはまるで別物のように感じられた。それはきっと女の子本来の香りも混ざっているせいだ。女の子本来のどうしようもなく甘くて男の劣情を誘う淫靡なる香りが、要の男としての本能をくすぐっているのだ。

 要は自身の胸が知らずに高ぶるのを感じた。自身の鼓動がやけに大きく、そして早く響きまるで自分のものではない錯覚すら持った。顔はお風呂の時とは比にはならないほど熱く赤く染まり脳みそがぐつぐつと煮えたぎるようだった。さらにはこの静寂の夜の闇が隣の彼女の呼吸を際立たせているのだ。すぅはぁと規則正しい呼吸、人間の命ある証拠のその行為ですらこの暗闇の中彼の心を劣情に誘うには十分すぎる刺激を持っていた。

 彼は心の中で素数を数え必死に身体が眠りに落ちることを待つ。でないと自身の本能がどんな行為に及んでしまうのかわかったものじゃないから。彼自身が時雨のことを傷つけてしまうかもしれないから。彼は心の中本能に抗うように潔白を求めた。隣で眠る艶やかな少女のことを極力頭の隅に追いやるように踏ん張り、自身の潔白を証明しようとした。

 けれどやはりどうあがいてもそれは難しかった。その原因は本能からくるものだけなのだろうか。彼は自身に問いただす。このどうしようもなく心から溢れてくるドキドキは彼女の色香にあてられただけなのだろうか、と。もしかすると別の何かが要因で自身の心が乱れてしまっているのではないか、と。

 けれどどれだけ考えても彼には答えを出すことができなかった。彼は自身の鼓動の高ぶりを考察するうちにいつの間にか眠ってしまっていたようだ。気づけば彼の瞳には眩しい朝日とともに愛しい少女の笑顔が映りこんでいた。

 どうしてか目覚めの彼の唇に何か甘いものが残っている気がした。


 やばい、私今、先輩と同じベッドで寝てる…!

 こうなったのは自分の責任だ、自身のふざけ半分で言った言葉がこのどうしようもないドキドキな空間を作り出してしまったのだ。今私の隣には大好きな先輩がいる。それだけでドキドキが止まらなくなり胸の中に幸せという気持ちが湧き上がってきてしまう。

 夜の闇の中でもはっきりとわかる先輩の大きな背中、私はその背中をじっと見つめた。大きくてがっしりとして、男の子らしいしっかりとした背中、けれどいまその背中が少し小さく見えた。それは私の錯覚ではないだろう。きっと先輩が感じている悲しさのせいだ。

 それもしょうがない、だって先輩にとって最愛の妹が死んだという事実が突きつけられてしまったのだから、私のせいで…

 私が見てしまったから、先輩の心の支えだった妹がもうこの世にいないと知ってしまった…

 だからこの小さくなった背中は私のせい。先輩が感じた悲しみもすべて私のせい、だから私が何とかしなくちゃいけないんだ。

 私は先輩の背中に手を添える。けれど先輩は気づいていない、もう眠ってしまったのだろう。口からも心地よさそうな規則正しい寝息が聞こえることからそれが分かった。

「先輩…ごめんなさい…」

 先輩の背中をなぞる、暖かくてがっしりとしていて、どこか少し哀愁に冷たくなった優しい背中。もしも、もしも叶うなら私がこの背中を守ってあげたい。亡くなった妹の代わりに、私が先輩の心の支えになりたい。家族のつながりにはやはり勝てないのかもしれない、けれど私は先輩にとってのナンバーワンになりたいのだ。だって私は先輩のことが大好きなのだから。独占したくなってしまうのは恋心としては当たり前のことだろう。

 きっとあの時私が先輩に現実を突きつけてしまったのは恋心から来た嫉妬からだろう。私以外の女の子にあんなにやさしそうに、それでいて愛おしそうに接していた先輩に、そんな先輩の優しさを受けていた空ちゃんに嫉妬してしまったのだろう。私にも見せたことのないあんな不思議な顔をして、先輩は…

「ほんとごめんなさい…先輩…」

 私はこの言葉を最後にそんな考えを頭から捨て去った。こんなことを考えても虚しくなるだけだ。私の醜い嫉妬も今だけは心の奥底にしまっておくことにした。

「空…」

 だってそんな言葉を聞いてしまったから。寝言だとはっきりとわかる、けれどそれでも涙交じりに湿った愛しい妹の名を呼ぶ先輩の声。私の耳にもはっきりと聞こえた先輩の中で一番の女の子の声…

「先輩…ねぇ先輩…先輩には私がいるんだよ…」

 私は自然と涙がこぼれるのを抑えられなかった。どうしてだろう、その理由はわからない。きっと未来の自分に問いかけてもわからないというだろう。私はそんなよくわからない涙に身を任せて先輩の背にギュッと抱き着いた。まるで母親が子を慰めるようにするように、優しく、それでいて力強く先輩に抱き着いた。

「いつかちゃんと、私のことを見て…先輩…」

 私は、やっぱり卑怯な女の子なのかな?それでもいい、私は先輩のことが好きだから。この好きの気持ちを偽ることはできないから、たとえ先輩にどんな過去があろうとも。私の好きという気持ちは変わらない、私の心は絶対に先輩から離れない。いや、先輩の過去を知ってしまったからこそ私の心はなおも先輩から離れないと決めたのだ。先輩には私がついている、いつか胸を張って先輩に言える日が来ることを願って、私は目をつぶった。

 次に目を覚ましたら先輩には笑顔を向けよう、だから今だけは泣いてもいいよね。

 今だけは弱さを見せてもいいよね、ねぇ、先輩…

「好きだよ…先輩…」

 眠気に揺蕩う意識の中、私は最後にこうつぶやいた。やっぱり卑怯だな、私。眠っている先輩にしかこんなことを言えないなんて…

 けど、この気持ちは私にもどうしようもできないんだよ…

 私の好きの気持ちは、どうしようもできないの…

 明日はちゃんと笑顔になるから、明日はちゃんと普通の私になるから、だから今だけは、幸せな私にして…

 私は眠っている先輩の顔を覗き込み、そして自身の唇を、重ねてしまった。

 罪深いキス、ほんの一瞬の唇の触れ合い、ほんのそれだけの行為で私の好きという気持ちは爆発しそうなほどに膨らんだ。好き、好き、好き―

 ただ好きという純粋な気持ちを私は、眠っている先輩にぶつけた。眠っているというのをいいことに、私はキスをした。たまらなかった、先輩のことが愛おしくなりすぎて止まらなかったから。

「~~~~~!」

 そしてキスをして、私はふと冷静に戻る。冷静な私の顔は真っ赤に染まり熱が漏れそうなほどに熱くなる。よくわからない言葉を口から漏らして私は布団にくるまった。そしてただ眠気が襲ってくるのを待つ。眠ってしまえばこの恥ずかしい気持ちもリセットされると信じて。

 眠りにつくまでの間、私は思った。

 この布団、先輩の匂いが染みこんでる…さっきのキスと、同じ匂いだ…

 先輩の独特のいい匂いに優しく包まれるようにして私は眠りに落ちた。

 目を覚ました私はただ先輩に笑顔を向ける、あのキスのことを黙ったまま、いや、なかったことにして、ただ先輩の愛しい後輩としての自分を見せることしかできなかった。

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