プロローグ

プロローグ

 一面真っ白な世界が僕を出迎えた。

 ぼやけた視界が徐々に鮮明になっていく。

 白いもの、それは天井だった。

 ここはどこだろう。

 それが最初に浮かんだ。

 薬品の匂いがした。

 様々な検査等で慣れ親しんでしまった匂いだった。

 次に春先には似つかわしい温かみを感じた。

 どこか建物の中だろうか。

 視線を動かす。

 僕の体には柔らかな布団が乗せられていた。周りには小さな棚があり、その上には小さなテレビが乗せられていた。割りと広めな部屋だった。純白の天井に対して、床は木目調だった。薄茶色の床は、純白だけでは表現できない安らぎがあった。少し離れた場所には、丸型のテーブルがあった。椅子はその周囲に二つ置いてあった。

 体を起こす。

 僕が眠っていた場所はベッドだった。左腕に違和感を覚え、布団の中から引っ張り出す。その腕の内側にある血管に針が刺され、テープで固定されていた。針の尻からチューブが伸びており、その先は何やら液体の入った袋に繋がれていた。

 いわゆる点滴だった。

 ここは病院なんだろう。それも個室という待遇だ。あの後、ここに運ばれたのだろう。あの後の記憶はぼんやりとしていて、どのように運ばれたのか記憶になかった。思い出そうとすると必死に止血をしてくれた記憶だけがリフレインされる。ただ止血をしてくれたその人の顔に霞がかかり、誰だったのか分からない。

 もう一度、部屋を見回す。この個室には僕以外いなかった。

 窓から外を見ながら考える。

 ――どうすればいいんだろう。

 ナースコールでもして意識を取り戻したことを伝えればいいのだろうか。それとも誰かに個人的に連絡して意識を取り戻したことを伝えればいいのだろうか。

 ――分からない。

 せめて人並みに人生経験が豊富だったら分かるのだろうか。

 窓から外を眺める。そこからは海が見えた。船が行き来する港があるのだろうか、貨物が置いてあった。僕らがいた倉庫群と近いのかとも思ったが、窓から眺める限り似たような建物は見当たらなかった。

 不意に音がした。振り返ると、スライド式の扉が開いていた。そこには銃で撃たれ搬送されたはずの岩崎さんがいた。

「お、目覚めたか」

 呑気な声で個室に入ってくる。

 背もたれのない丸いパイプ椅子に腰掛け、その調子で続ける。

「調子はどうだ? もう大丈夫そうか?」

「あ、はい。大丈夫だと思います」

 僕なんかより拳銃で撃たれた岩崎さんの方が心配だ。

「岩崎さんは拳銃で撃たれたんですよね? もう動きまわって大丈夫なんですか?」

 岩崎さんは気まずそうに頭を掻き、「これだぞ?」と人差し指を自身の唇に添える。

「実は抜け出してる」

 そう囁いた。

「はい?」

 この人は一体どうして僕のとこに来たんだろうか。おそらく僕より絶対に安静していなきゃいけないのではなかろうか。

「ああ、体のことは気にしなくていいぞ。絶対安静とか言われてるけどもう元気だからな」

 そう言って岩崎さんは腕を回して元気を見せつけた。

「でも撃たれたんですよね?」

「ああ、防弾チョッキ着てたからほとんどは防げた。ただ最初の一発だけ防弾チョッキの隙間を掻い潜って脇辺りに貫通したぐらいだ」

「やっぱり帰った方がよくないですか?」

 むしろ帰って欲しい。そんな重傷者に看病されるのは大きく気が引ける。

 僕の心配を他所に岩崎さんは腕を組み、足を広げ、帰らないアピールをする。それを子供の駄々っ子のようだと思ったけれど、わざわざ怪我を押して僕のところに来たというのはそれなりの理由があるのだろう。

「分かりました。用事はなんですか?」

 観念してそう告げると、岩崎さんは悪い顔をしてもう一度「これだからな」と人差し指を自身の唇に添える。

「分かりましたから、どうぞ」

 手の平を天井に向けて、早く話すように促す。

「俺にあの子を紹介しろ」

「誰?」

 岩崎さんは「あの子だよ、いつも見舞いに来てる子」と続ける。それから「あの子が彼女ならそう言ってもらって構わない。人のものを奪う気はない。ただ――フリーならば俺に紹介してくれ。できれば仲人してくれ」と加えた。

 あの子と言われてもそれらしい心当たりがさっぱり思い浮かばなかった。僕の家族の誰かかと考えてはみたものの、僕のことを伝えたとしても親は元から来れないものとして、姉は笑い飛ばして見舞いになどくる性分ではないだろう。ではいったい誰なのだろうか。

「僕には彼女も狙ってる女の子もいないよ。だからその子が誰なのか僕には分からないかな。特徴とかない?」

「ほら、あの瞳の大きさが特徴的なあの子だよ」

 まだ思い出せなかった。真琴は元々面識があるから違うはずだ。あの一触即発を見せつけておいて紹介しろなんて言うはずがない。むしろ逆転を調べて教えろと脅される方が確率が高いだろう。

「こないだは長い髪を後ろでまとめてたかな」

 大きな瞳、後ろでまとめた長い髪。

「――美雲?」

 僕の言葉が出た直後、再びスライド式の扉が開いた。

 白と黒の太いボーダー柄のセーターに淡い桃色のロングスカートを纏った大きな瞳でロングスカートの女性がそこにいた。その女性の両手には大きな手提げ袋が下げられていた。その出で立ちを見間違えることはない。美雲だった。

「あ、目覚めたんですね」

 その手提げ袋は重いのだろうか、彼女の歩みは重心が手提げ袋へと移っていてふらついていた。その様子は見ていて危なっかしかった。

 岩崎さんはスッと立ち上がり、駆け寄る。手提げ袋を受け取る。受け取る際に一度断られたみたいだが、親切を押し売り受け取っていた。

 おそらく岩崎さんの言う『あの子』とは美雲のことだろう。岩崎さんが述べていた特徴も合うし、何よりいいトコを見せようと躍起になっているのが伺える。その躍起っぷりは見ていて微笑ましいものだった。真琴がいれば腹を抱えて、指差して笑っただろう。似合わないことをするなと。積年を恨みを込めて、それはもう喧嘩を売るように。

「なんだ権力の犬っころは発情期か?」と僕の予想よりも酷いことを誰かが言い放った。

 美雲の後ろにいる声の主は真琴がだった。黒のライダースジャケットにスキニージーンズ。それに赤いシャツという装いだった。左手には缶が二本握り締められていた。閉じる扉を半分ほどで押し止めていた。目元は鋭く、口元は三日月状に歪んでいる。純粋な悪意に満ちた顔だった。その不純物が一切混じらない顔つきは、その小さな体躯には余る感情が溢れ出たもののようだった。

 岩崎さんの纏う空気が変わる。だが、それを表にすることはなかった。

「なんのことなのか分からないな」

 悪意ある表情は霧散した。つまらなそうにベッドの脇まで近づく。缶を差し出してきた。二本はそれぞれ違う銘柄だった。一本は一般的な缶コーヒー、もう片方は巷で評判らしい赤がイメージカラーの炭酸飲料だった。一度バイト先で仕入れた時に飲んでみたが、その美味しさは僕の舌が貧相なのか薬品の味しかしなかったためどうにも受付なかった。

「私のおごりだ。好きな方選べ」

「それじゃコーヒー貰うよ」

 即決でコーヒーを受け取る。

「ありがとう」

「いや、こんなことでよかったらいくらでもするぞ」

 患者だからだろうか、なかなか殊勝なことだった。だが、そういうことではなかった。岩崎さんが俺にも「何か買ってきてくれないか」と三雲の前だからか柔らかい口調で真琴を小間使いにしようとしたところ「自分が預かり知らぬ所で撃たれた野郎のことなんか知るか」と一刀両断されていた。美雲が空気を読んで「私が行きましょか?」と提案したところ、「大丈夫大丈夫」と二人がかりで慌てて止められていた。

 それから真琴から事後報告を受けた。

 都内各地で起きた拉致監禁事件は柊二が主犯として起こしたものとされた。それに協力した三島重工の社長はあの倉庫の騒動の後、ほどなくして逮捕された。取り調べには素直に応じているとのこと。その中で超能力と技術の発展でどこにでも逃げられる時代で、どこにも逃げなかったのは捕まえられる覚悟があったからだと取り調べで自供したらしい。また彼個人が柊二に協力した動機は、十年前に子供が超能力者に殺されたことへの復讐ということが確定した。ただし、スポンサーということで装備や移動手段、潜伏先の提供はしたが彼らがすることには一切を関知していなかったということらしい。

 対して柊二は黙秘を続けているとのことだ。室長はこの事件の裏には大きな組織があると踏んでいるらしい。恐らく、そうでもしなければ柊二と三島重工の社長には繋がりなど生まれるはずもないからだという考えがあるのだろう。ただし、三島重工の社長との繋がりを持つ程の人物ならば下手に手も出せないとのことだ。大人しく取り調べに応じている三島重工の社長もこの話題になると口を閉ざすらしい。もちろん心理干渉系の超能力者がその能力を試してみたが、ある一定まで潜ると原因不明の靄が心中を覆い尽くしているため取り調べにならないみたいだ。まるでその先の情報を隠すためのように能力がそれ以上踏み込めないとのこと。

 また、拉致被害者らを一箇所に集めたのは後にネット上にその光景を流し話題にするためと警察の上は考えているらしい。これに関しても柊二は黙秘している。

 そして、あの妙な痛みはある兵器のものらしい。ただし、これに関しては軍事機密が関わってくるため一切の情報がシャットダウンされてしまっているとのこと。

 これは僕の独断と偏見による推測だが、あの場に被害者らを集めたのは人体実験も兼ねたデモンストレーションだと考えている。だが、この推測は穴だらけだ。柊二が口にしていたようにあの兵器は対超能力者兵器なのだろう。デモ隊にも少なからず超能力者はいたのだろうが、むざむざ捕まっているのだから僕のように非戦闘のものか力の弱い人のはずだ。そのことをリーダーの柊二が知らないはずはない。デモンストレーションにしたって無力化した超能力者を相手にしても面白みはない。僕らが救出に来るからこそデモンストレーションになる。だが、その理論でいくと、柊二はもっと迎え撃てる体勢を整えていてもおかしくはない。

 だからこそ室長は後ろに大きな組織があると考えているのだろう。柊二は末端で、最低限の情報しか与えられていないはずだ。ただし、その最低限度の情報も読み取れない。恐らく僕らの感覚をシャットアウトする技術があるのだろう。そんな技術聞いたことないが。

「どうした具合悪いのか?」

 真琴が声をかけてきた。

 難しい顔でもしてたんだろう。僕は顔に出やすいみたいだから。

 もうこのことを考えるのは止めよう。今考えたってどうにかなるわけじゃない。

「なんでもないよ、まこ――」

 真琴と言いかける。先輩と言った方が良かったのだった。どうも寝すぎたせいか記憶がぼやけている。

「――先輩」

 真琴が罰が悪そうに視線を落とす。

「先輩なんて呼ばないでくれ。私にはその資格はない」

「資格?」

「お前が刺されたのは私の責任だ」

「いいよ、気にしなくても」

 僕が勝手にやったことだ。責任の所在は僕にある。

「そういうわけにもいかない」

 義理堅い人だな。僕が十七の頃じゃここまで義理堅くはなかっただろう。むしろ、人間不信期のバイオグラフが最高潮の時だった。

 ふわりとそこにはなかった白衣が揺れた。机の周りでタタンと二人組が床に着地する。

「いやー室長、これは責任取るべきですよね」と千秋さんが口元を綺麗に伸ばした五本指で隠しながら提案する。室長もそれは裏のない悪意たっぷりの笑顔で同調する。

「ええ、勿論です。これで責任取らなければ女が廃るというものですよ」

 煽るな。ほれみたことか真琴が何か覚悟を決めた目になった。

 それ以前に二人して狭い病室にテレポートで突然現れるな。心臓に悪い。

「私にできることがあったらなんでも言ってくれ。なんでもする」

 千秋さんが真琴の後ろに回り込み、耳元に口を近づける。

「どうせなら嫁にしてくださいって言えばいいのに」

 これ以上、煽るな。炊きつけるな。

 だんだんと真琴の目が据わってきているではないか。

 真琴がおずおずと口を開きかける。だが、ポッと違う声が耳に飛び込んでくる。

「その理論やと、ウチもお嫁に貰われなアカンな。アッキー、ウチのことも貰ってくれへんか?」

 右斜め上から投げられたボールは誰もその方向に注意を向けていなかったらしく誰のミットにも収まらず地面と接した。その中でも一段と信じられない顔をしていたのは、もちろん岩崎さんだ。今にも泣きそうな情けない顔だった。紹介しろと尋ねてきてこの仕打ちを受けたのだから、気持ちは痛いほど分かる。

「どうして、美雲が嫁に貰われるの?」

 美雲に尋ねた。

「ウチ、アッキーに助けられたからやけど?」

 あたかも当然のような返答。

 第二課の人が助けたと否定しようとしたところ千秋さんが割り込んでくる。

「そう。第二課期待のホープ、八月一日秋穂が君のことを助けてくれたんだよ!」

 すかさず室長が援護射撃をくりだす。

「さあ、真琴くん。彼女は言いました。あなたにその度胸はありますか?」

 目覚めた側からどうしてこんな頭を動かす羽目になるのだろう。

「真琴、僕は別に気にしてないから。それに傷つくことには慣れてるから」

「いや、だが、このまま何もしないのは気が引ける。なにより女が廃る」

 どうしたもんか。何を言っても二人が煽りそうなのが問題だが、このまま何も言わないのも進展しない。

「……じゃあさ、僕が退院するまで美雲らと遊びに行くの待っててよ」

 真琴の目が丸くなる。

「そんなんでいいのか?」

「いいよ、それで」

「でも先輩とはもう言うな。これは私なりのけじめだ」

「――なあ、それせっかくだから俺も行っていいか?」

 岩崎さんが僕に目配せする。まだ諦めるつもりはないという意思表示だろうが、この手のことに関わってこなかったため多少がっつきすぎ感が否めない。

 真琴の顔つきが改めて険しいものになる。先輩と呼ぶなと言われて早々に先輩権限を使われそうな予感がする。

 あえて真琴に目を合わせないで

「ええ、どうぞ。美雲もそれでいい?」

「ウチはかまへんで。まこっちゃんもそれでええか?」

 わざわざ無視した方向にボールが投げられた。痛いほどの視線で貫かれても投げなかったというのに。

「私は反対だ」

 岩崎さんは立ち上がり、勝ち誇った顔で真琴の方を叩く。

「多数決だ。お前以外は賛成みたいだぞ」

 二人はそのまま言い争いに発展し、看護婦に摘み出されていった。

 ポッカリと静かになった病室で室長が窓から外を眺める。

「いやあ、若いっていいですね」

 その隣で千秋さんが「私たちはもうそういうはっちゃけられる年じゃないですからねえ」と老成じみた口調で呟いた。

 散々煽っていた二人が言うことではないだろう。そう言ってやりたかったが飲み込んだ。わざわざ燃料を投下することはない。

「今日は僕のお見舞いに来てくださってありがとうございます」とさっさと帰れと暗に込めて頭を下げる。

 室長は白衣を翻らせ、振り返る。

「来るのは当然ですよ。付きあわせたのだから。もっとも目覚めているとは予想外でしたが」

 室長が握り拳をつくり、心底悔しそうな顔をする。

「目覚めなければ真琴くんに目覚めのキスをしろとけしかけられたんですが……」

「いいおもちゃですね」

「ええ、久しぶりに手に入ったいいおもちゃです」

 肯定してしまったことに今更驚きを感じることはない。ただ、千秋さんが美雲をおもちゃにできそうかどうか品定めしているように見えるのは気のせいだと思いたい。室長はというと僕が目覚めてしまっていたので、どのように遊ぶかよからぬ考えをしているようだった。

「失礼ですね。コミュニケーションを取ろうという思いがあってのことですよ」

 そう言って室長は僕の肩に手を置いた。この人は本当に何者なのだろう。

「まあ、冗談はさておき本題に移りましょう」

 パンと手を叩いて、室長は笑顔で三雲の前に立つ。

「榊美雲さん、人員が足りないので第二課で働いてみませんか?」

「え、ウチ?」

 こっちもまたずいぶん斜めにボールを放おったもんだ。美雲も投げるのは得意でも受け止めるのは苦手とみた。

「ええ、少し特殊な職場なので信用できる人しか雇えないんです」

「ウチなんかでええんですか?」

「はい、お噂はかねがね聞いています。今は無職ということも。アテがまだないということも」

 美雲は少し驚いたように、苦笑を混ぜつつ答える。

「ウチなんかでえかったら、ぜひ働かせてください」

「ありがとうございます。是非歓迎しますよ」

 その返事を聞くと室長は、これからのことを詳しく説明するためと千秋さんに美雲を部屋の外に連れ出してもらっていた。

 室長と二人きりになり、なにかとうるさかった室内が静まり返る。廊下から手押し車の音が聞こえたり、改めて薬品の匂いを意識してここが病院であることを思い出した。そこになぜか白衣をまとって佇む室長の姿は、お医者さんのようだった。無言が長くまるで最後通告されてしまうような緊張感が僕に伝わる。

 室長の顔に張り付いていた笑顔が剥がれた。

 ただそれだけのこと。

 笑顔が消えて、ただ真面目な顔になっただけ。

 別段恐ろしい顔つきになったでも、冷たい視線で貫かれたわけでもない。

 ただそれだけのこと。

 なのに血の気が引いていった。

 自分の胸の音が聞こえる。鼓動の感覚がほとんど感じられなかった。

 室長が立ち上がる。

 心臓が跳ね上がった。

 見開いてしまった瞳を、飛び退いてしまった体を、慌てて元に戻して平静を装う。跳ねた心臓はさながら衝突球のように跳ね続けた。

「すみません。少々驚かせてしまったようですね」

 室長の口調はゆっくりで、とても優しかった。けれど表情は崩れなかった。

 警鐘のごとく鳴り止まない鼓動を胸に手を当てて無理矢理落ち着かせる。

 少しして多少鼓動の感覚が静まり、顔を上げる。それを待っていたのか、室長が話し始める。

「今回の事件、どう思いますか?」

 どう思うか尋ねられても「大変でした」と答えるしかない。しかし、そういうことを尋ねているのではないだろう。

「えと、辻褄は合ってるんですけど、ボタンの掛け違いが思いのほか様になってるって感じがしますね」

 僕は単純に、感じたことを述べた。

 室長は僕の手の中に包まれていた缶コーヒーをヒョイッと取り上げる。

「飲まないのなら貰いますよ」

 封を切り、缶コーヒーを流し込む。

「及第点ですね。真琴から聞いていると思いますが、バックがついているという私の想像についてはどう思いますか?」

「えと、たしかにそういう人がいないと三島重工の社長とは知り合えないとは思います。あの銃のバイヤーはそのバックの一員だと思います」

 間違ったことは言っていない自信はある。けれど、僕なんかの考えを述べてしまったことに対して全く自信がない。

「ええ、その通りです。ちゃんと考えてくれているとお話が早くて助かります」

 そこでようやく室長に笑顔が帰ってきた。

 僕は「いえいえ」と食い気味に謙虚の姿勢をしてみせた。

「退院後は本件について一任できそうですね」

 どうやら、その笑顔は僕に仕事を押し付けるため帰ってきたみたいだ。その押し付け方も投げつけるという暴挙だ。というよりも新人には荷が重過ぎる案件を押し付けるな。どう仕事を進めていけばいいのかもわかっていないのだぞ。

「――分かりました。やりますよ」

 考えていても仕方がない。仕事にありつけただけでもよしとしよう。つい昨日までは無職でこれからの方針もなにも決まっていなかったのだから、方針が決まっただけでも一歩進めた。少なくとも嵐の中で航海を始めるなんて真似はしなくて済んだ。まあ、航海を初めてすぐに大嵐が来そうな気がしてならないけれど。

「以外ですね。反論なり愚痴の一つでもこぼすかと思いましたが」

 室長はつまらなそうに首をひねる。

「諦めましたよ。それにお腹を刺された後ならなんでもできるような気がします」

 死にかけた――とは言い過ぎかもしれないけれど、不思議とさっぱりしていた。全能感はないが、これぐらいじゃ死ねないと分かったら多少は気楽に生きれる気がした。

 室長は立ち上がり、踵を返す。ふわりと白衣が揺れた。

「いい心がけです。もっとも任せきりになんてしませんし、楽しくやりましょう。真琴なり美雲くんなり、好みの子を言ってくれれば一緒に働ける程度には口利きしますよ」

 いたずらっぽく笑う室長と入れ替わりで真琴と美雲、それに岩崎さんが戻ってくる。

 室長が缶コーヒーを持っていたことに気づいたのか、美雲がもう一つの選択肢だった炭酸飲料を「飲みかけですけど飲みます?」と手渡してきた。間接キスに免疫がない僕は戸惑う。岩崎さんは羨ましそうに、または恨めしそうに僕を見てきた。真琴は一気飲みをしろと煽る。美雲は謙虚な姿勢で断る僕にどこぞの大阪のおばさんよろしく「気にせんでええから」と無理矢理持たされた。

 そんなうるさい光景は、いつも遠巻きに見ているだけのものだった。羨ましそうに眺めるだけのものだった。想像の中でその光景の一人と僕を置き換えたりもしていた。僕には不釣り合いだと思い込んでいたそんな光景の中に僕はいる。

 僕でもここにいて構わない。

 自然に接してくれることが嬉しかった。超能力者というフィルターを通さないで『八月一日秋穂』という個人を見てくれることが嬉しかった。美雲が気にも留めないで飲み物を差し出してくれることが嬉しかった。真琴が一気飲みしろと囃し立てることが嬉しかった。岩崎さんが恨めしそうな目で見てくることさえも嬉しかった。

 いつ流れるか分からないエンドロールを待つためだけに無為に日々を過ごす日々は終わった。

 手渡された炭酸飲料を一気に飲み干す。

 周囲が「おお」という声が漏れる。薬のような苦味と刺激が口の中で飽和し、吹き出しそうになるのを必死で堪える。堪えきり、飲み干した缶を高く掲げる。拍手が起こった。

 やってできないことはない。

 どんなに先が見えなくても、困難な先が見えてしまってもやってできないことはない。

 素直にそう思えることができた。

 そんな西日の温かい四月のことだった。

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人の心が読めたなら? 宮比岩斗 @miyabi_iwato

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