2
「ドアはね、ゆっくりとなじませるように開けるんだよ」
少女は僕の問いには答えずに、そう言った。「自分の時間にゆっくりとなじませてあげるの」
「馴染ませる?」声に出して僕は自身が混乱している事実を再認識した。まともに思考できない。
「何でもそう。慣れてないのね。私たちとのあいだをうめてあげるの。あ、時間のことね」
「時間のこと」と繰り返す。なんのことなのかしらん。
「そう。私もゆっくりと分かっていったの。それとおんなじね。ねえ、お兄さんはずうっとここにいるの?」
ここに……ここは僕の家だ。しかし、そうではない。
「君はなんなんだ」
「私のことが気になるの? それもゆっくりと分かっていくべきなのになあ。それよりそのドア、開けてどうするつもりだったの? 中になにか大切なものがあるの? それって、意味ある?」
「ここは僕の家なんだ。中に大したものはないけれど、とりあえず僕は落ち着きたい。意味なんてない。なあ、答えてくれないか。君は一体何なんだ」
少女は僕を、僕の奥にあるもっと深い意識を覗き込むようにしてじっと見つめた。
「私、
奇妙な少女。僕は気が付くとこの紗夕と名乗る少女の言葉に従っていた。ドアノブを手で包み込むようにしてゆっくりと回す。ドアノブは抵抗なくゆっくりと回る。ドアをゆっくりと手前に引く。
「そうそう、もっと体をドアに沿わせるようにするの」
僅かに抵抗を感じたドアにしっかりと体を当て、静かに引き寄せるようにする。ドアは抵抗を止め静かに僕の動きに従う。
「いいじゃん、上手いよお兄さん。もう離しても大丈夫じゃないかな」
言われるがままに僕は手を放す。ドアが動きを止める。
「ねえ、私入ってもいい?」
気付けば少女は部屋の中を覗いている。僕は焦って少女を制する。「だめだ! 人の部屋を勝手に覗くんじゃない」語気が荒くなった。部屋の中は確かひどく散らかっていたし、あまり人には、特に女性には見られたくない。相手が気にするんじゃない、僕自身が気になるのだ。気持ちの問題だ。
少女は少し驚いたような顔をして、「ごめんなさい、そんなつもりじゃあ……」と言うと少し後ろへ下がった。僕は睨みをきかせながらドアを回り込むように部屋の中に入るとまたゆっくりとドアを閉め始めた。――一旦落ち着こう。動きを止めた街のことも、奇妙な紗夕と名乗る少女のことも忘れて、落ち着こうじゃないか。
「待って! 私を一人にしないで! 私ずうっと一人だったんだよ。お兄さんもそうでしょう? ねえ、お願い……」
ドアが半分ほど閉まりかけた時、少女が悲痛な声を上げた。ドアの隙間から覗いた顔は口を一の字に結び、綺麗な目尻にじわりと涙を滲ませている。「やっと……同じ時間を共有する人に巡り合えたって言うのに……」
僕は心底困ってしまった。目の前の事態に困惑することは僕から根本的な混乱を少しばかり遠ざける。一人。少女はそう言った。僕は一人だった。そう、確かに僕は今まで一人だった。親しい友人も、恋人もなく、春休みに入ってから一人で過ごしてきた。しかし、少女の言う一人は別な意味を持つのではないだろうか。もっと圧倒的な孤独。この動きを止めた街に一人。
「街は
「さっき……さっきじゃない。私、そんなに長い時間をさっきだなんて言えないもの。私、ずうっとここにいるんだよ。ずうっと一人だった。お兄さんは違うの?」
「……それじゃあ、これは一体何が起きているのか、君は知っているの?」質問には答えずに僕は聞いた。
「お兄さんは知らないの? お兄さん、誰?」
慎重に探りあうのが馬鹿みたいだ。僕も少女も質問に答えないんじゃあしょうがない。歩み寄りが必要だ。
「僕は
「まだ、時が止まってから一秒だって経っていやしないよ……でももっとずっと前から私は一人なの。何度も眠ったし、ご飯だって何度も食べてる。もう数えきれないくらい! だから、そんなに最近のことじゃないんだよう」
「時が止まった。それは確かなこと?」
「確かなこと。私知ってるんだよ。
時が止まった。僕はどうしてだろう、時が止まったこの街でなお動き続けているのだ。そうしてハイノメ。ハイノメとは何のことだ。それにしても、寒い。今まで忘れていた寒さが突然僕の体を襲う。「寒いな」それは小さな声になって僕の口からこぼれた。
少女は少し顔を上げ柔らかい表情になって言う。「私あったかいところ知ってるよ。連れて行ってあげるよ」
僕も少し顔を緩める。「そりゃあ、ありがたい。もう少し部屋がまともなら僕の家でもよかったんだけれどね」
「ダメだよ。暖房あったまんないし、電気だってつけられないよ」
少女はそういうとドアの隙間から姿を消した。僕はもう一度ドアをゆっくりと押し開け体を外へ抜いてしまうと今度はドアを元通りに閉めて施錠した。アパートの下で赤いダッフルコートはぴょんぴょんと飛び跳ねながら主張した。「こっち、早くおいでよ!」
少女は駅の方へと向かった。「私、久しぶりに人と歩いてる! ええと……」言い淀む。「呉啓太」と僕が言ってやると手を打って大袈裟に喜ぶ。「そう、啓太さん! 私は紗夕、
少女は駅前のファストフード店の前まで来ると裏に回って従業員用の入り口をゆっくりと押し開けた。先刻僕が自分の家でやったのと同じ要領でゆっくりと。
「表はね、自動ドアだからこれが出来ないの」
「空いてる席に座って。ね、ここちょっと賑やかみたいでしょ」店内に入ると少女はそういって店の奥へと入って行く。僕は適当な席を見つけるとゆったりと腰かけた。落ち着かない。店内はまばらに人がいた。無論皆一様にかたまったまま動かない。油断し切った表情はどれも不気味で活気がなかった。暫くして少女が戻ってくるとその両手に二つのカップを抱えていた。
「啓太さんは、珈琲何もいれない?」と聞かれて、ああ、と答える。「そっか、良かった。お砂糖、なかなか溶けないからね」
珈琲の入ったカップを受け取ると容器の蓋を外す。中身の黒い液体はもったりとした動きで波打っている。時間の齟齬、と僕は思った。
「君に、ええと紗夕さんに聞きたいことはいろいろある。僕らは今同じ時間を共有してるね? しかし、周りは違う。時間がはったり止まってしまった。僕たちは一体どうしてこんなことになってしまったんだろう」
少女はゆっくりとカップを傾け、あちっ、と言ってから僕を見る。遅れて湯気がその視界を遮る。「私、本当に人と話すのが久しぶりなの。だからすごくうれしいんだ、啓太さん」それから少し微笑んで続ける。「殆どは灰ノ目から聞いた話になっちゃうけれど、私、思いつく限り話してみるね」
ハイノメ。気になるが、僕は黙って頷いた。少女はもう一口珈琲を飲んで――あちっ、をもう一度やってからゆっくりと口を開いた。
「人はね、みんな別々の時間を持って生きているの。それは物理的な側面から観測不能な精神的な意味においてね。今この瞬間、私の感じる一秒と啓太さんの感じる一秒じゃあどうしてもその感覚が変わっちゃうの。もしかしたら私にとってはその一秒は取るに足らない一瞬かもしれないし、啓太さんにとっては緊張の張りつめた長い長い一瞬だったかもしれない。それって何となく分かるような気がしない?」僕は慎重に頷いた。
「私、この時間がやってくる前は、高校の一年生だったんだ。高校に上がると、急に勉強が無機質になるじゃない。私、そんなに勉強のできない方じゃなかったから授業中だって先生の言ってることはおおよそ理解できるし、それまで通りやったって何にも問題なかったの。それでもね、昔のロボットみたいに机の前にちゃんと座ってもう分かりきった板書を一生懸命に取らなくちゃいけなかった。ねえ知ってる? 今のロボットはそんな形式的なお勉強なんてしないんだよ、勝手に色んなことをどんどん学んでいくの。私だってそう。もっとうまく作られているんだから、もっとうまく学べるはずじゃない。
そうするとね、授業はひどく退屈なの。一時間はどんどん伸びてゆくし。それは私自身の時間を必要以上に消耗させたように感じたものよ。事実、私の精神的な時間はより多く消耗されてしまっていたんだから。私にはゆったりとした時間が流れていたんだ。でもね、それ自体は全く問題のないことなの。自己完結的な時間の収縮は齟齬を生まない。そう灰ノ目は言っていたんだ。だって、他の人だって確かにその退屈を味わっていたはずだもんね。
そんな私はある時から時間の飛び、を感じ始めたの。そう、タイムリープみたいに。あるいはうたた寝みたいに。電車に乗っていると一瞬で少し先の景色まで飛ばされてしまうの。板書を取っていると知らずのうちに項目が移っているの。それでね、私眠っちゃったんじゃないかっていつも思うんだけれど、周りに聞いたって誰も知らない。寝ていたようには思えないって言われるんだよ」
「時間の飛び」と僕は言った。「僕もその時間の飛びを常々感じていた」それにしても、この少女の言葉は妙に入り組んで分かりにくい。少し力を入れて聞き入る。
「そっか、やっぱり啓太さんも私とおんなじね。灰ノ目も正しかった。私はあまりに何もしなかったの。ちょっぴりさぼり過ぎちゃったんだ。それでね、みんなの時間の流れに置いていかれちゃったんだ。私の感覚だと置いていかれちゃった人は年を取らなそうなのにおかしいな、置いていかれちゃった私たちの方が周りよりずっと年を取っちゃった。それについて灰ノ目はこう言ったのよ。同じ一時間に君は例えば正当に三時間分の空虚な時間を過ごしているし、同じ一時間にある人は正当に30分の空虚な時間を過ごしている。それはどちらもその人自身の自己完結的な時間に他ならないけれど、その相互関係は齟齬を生みだす。相対的な時間の差異はどこかで正されなくてはいけない。
灰ノ目はこうも言ったんだ。同じ一時間を体感的に30分で過ごしたにかかわらずきちんと正当に一時間分の成果を得る人間もいる。これは最終的に自己完結的な時間に破綻をもたらして自滅してしまうこともあるけれど、大抵は相対的な時間に対して整合性を保とうとするものだって。そういう人は大抵別なところできちんと自己完結的な時間を清算して、長生きするものなんだって。もちろん中には自滅しちゃう人もいるんだろうけれどもね」
「それじゃあ、」僕は紗夕の話がいったん途切れた境目に口をはさんだ。「僕らは世間との相対的な時間のずれをなくすために時々記憶を飛ばして時間をおっつかせていたっていうことなのか」
「そうだと、思う……でも灰ノ目は言ったの。時間を浪費している人はまだいいんだって。問題があるとすれば、時間をきちんと受け取らず、必要以上に若いままの連中なんだって。つまり、そういう人たちが本来持つべき時間の密度をうんと薄めてしまったの。それで私たちはそのツケを払わされているって。灰ノ目はそう言ったの」
紗夕はそこで言葉を止めてしまった。ぼくは重たい珈琲をゆっくりと啜る。相変わらず馬鹿みたいに熱い。で? と僕は言葉を促した。「僕たちはなぜこんな状況に置かれているんだろう?」すると紗夕ははっとしたようにごめんなさい、と呟いた。
「その話をするには今までの話が必要不可欠だったんだ。だけどね、今私たちが置かれた状況について説明するにはもう一つの流れが必要になってしまうの」
僕はただ頷いた。
「人の持つ時間は不均一、でしょう? それはもちろん物理的な意味においても精神的な意味においても。でもね、この物理的な意味における時間の齟齬はあくまで現象であって私たちの精神的な意味における時間の齟齬には干渉し得ないわけ。つまりね、木から落ちることによって食べるときに熟すはずだった林檎が完全に熟しきらなかったって、それはきちんと熟しきらないという結果として現れてくれるじゃない。
それに対して、精神的な意味における時間の齟齬は明白な結果が表れない。すべては私たちの精神的な世界にのみ影響を与えるのよ。これってすごく怖いことなの。だって、もし私が事故にあう直前に走馬燈を見て一生分の時間を使い果たしてしまおうとしたら、体感的にもその内容的にもあってはならないほど私の時間を進めてしまうじゃない。その間あなたはほとんど時間が進まない。この溝はどうやっても埋まらない。結論、事故現場には大抵清算しきれなかった時間が大量に残されることになるわけだけれど、その殆どを周りの人と精神的な時間の差異を埋めるのに使われてしまう。それじゃあ、その周りにいた人たちは、少しずつ時間を受け取ってしまうことにならない? 果たしてそうなってしまうの。
それじゃあ……その精神的な意味における時間の齟齬が、もしも同時多発的に起きたとしたら?」
僕はあっと言った。「つまり世界全体の時間が一気に進んじゃう……」
「そうなの。結果、私たちは一気に前進することになる。でもね、もともと時間に取り残された人たちはその前進にも付いて行けないことがある。その時間の密度が異様に濃いエリアに本当に取り残されてしまう。それは穴のようなものだって灰ノ目は言っていた。私たちはその穴にはまり込んでしまったというわけらしいんだ」
紗夕はここで珈琲をゆったりと啜って三度目の――あちっをやった。それから、僕も彼女も黙り込んでしまった。
「君はこの……時間にやってきて長いと言ったよね。どのくらいになるんだい?」
「……一秒だって進んでいないの。私たちには時間を測る尺度がないもの。ねえ、ずうっと夕闇にいると本当につらいんだよ。そりゃあもう本当につらいんだ。啓太さんにももうすぐ分かるよきっと」
「君の体感的にどれくらいいたんだ? 無意味なことは承知だよ、でも……」
「一生分は、いた気分。でも、せいぜい半年とかじゃあないかしら。もう眠りについた回数も食事をとった回数も覚えてないもの」
僕はこれからのことを思った。この状況は時間が解決してくれるんだろうか? 紗夕というこの少女はこの時間に閉じ込められてもうずいぶん経つことは明らかだろう。しかし、僕がこの時間にこうしてやってきた。それはつまり僅かに世界全体の時間が進みつつあるということを示してはいないだろうか。紗夕にとって先刻まで私はそこいらにいる不気味なマネキンの一人だったのだ。
暫くの沈黙の後、僕は先ほどの会話中にて気になったある一つの事象を思い出した。僕は問う。
「ところで、君のさっきから言うハイノメっていったい誰のことなんだ?」
そして時は流れ出す 鍛冶奎吉 @yukinoko
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