そして時は流れ出す

鍛冶奎吉

一、灰色の瞳

 それまで時折感じることのあった違和感は徐々に、明確に、意思をもって僕の前に姿を現すようになった。それは何かのようなものだった。或はCDののようなものでもあった。つまりその違和感それ自体が存在するというよりも、その前後の辻褄がどこか合っていないような感覚をそれとなく覚えることにより、そのズレの中心にある虚無を違和感として感じ取っているといった妙な感覚だった。

 時間が正常に動いていない。それが、僕の抱く感想だった。時間は正確に一秒々々刻まれるべきなのだ。僕らの生活はこの時間が正確に一秒々々刻まれているという前提の下で成り立っている。勿論のこと、時間に絶対的な進み方のないことは重々承知しているつもりだ。椅子に座って呆けている人よりも、飛行機に乗っている人の方がほんの僅かに時間の進みが遅いのだろう。知識として知っている。しかし、それは日常的には気にする必要のない話であって、実際的にその僅かな誤差を僕らは認識し得ない。僕らがその誤差を認識出来るような速度で瞬時に移動するという事態はほぼ確実に起こり得ないのだから。

 そうであれば、あの現象はどう説明しよう。やはり時間が正常に動いていないのだ。


 *


 その日の始まりは至って平均的だった。二月中旬。関東のアパートは恐ろしく冷え込む。安っぽいシングル・ベッドの上で羽毛布団に包まりながら腕だけを伸ばして枕元の小さなカラーボックス上に置かれたスマートフォンで今は何時だろう、と時刻を確認する。11時43分。正午より17分手前だ。ああ、また狂いだしたな、お前の生活リズムよ。自分自身にそう言い聞かせながらもう一度目をつむる。

 大学は二月の二週目から春の長期休暇に入った。大学の休暇は人生のようだ、と僕は思った。何事もなさぬにはあまりにも長いが、 何事かをなすにはあまりにも短い。中島敦。まさに大学の長期休暇における二ヶ月弱という期間は、どうにも中途半端に思われてならない。結論、僕はこの休暇の予定を殆ど持たないままに突入し、見事に一週間で昼夜を逆転させつつある。もう一週間もたてば完全に日の出ている時間を睡眠に使い果たしてしまうに違いない。しかし、それでいて世の中の大学生はバイトだ旅行だ留学だと短い休暇に忙しなく予定を埋めて規則正しく生活しているのだから大したものだ。

 一時間は経ったろうか。いい加減布団の中で丸くなっているのにも嫌気がさして、僕は寒い部屋の中を縮こまりながら流しまで移動した。給湯器のスイッチを入れるとお湯が出るまで水を流したままにする。それから、うう、寒い。と身震いする。さて、今日はどうしたものだろう。

 どうしたものだろう、と考えることはちょっとした日課になっていた。答えはだいたい決まっている。図書館へ出かけるのだ。何故というとこれももうすでに日課になっているからだ。わざわざ、今日はどうしたものだろう、と考えるまでもなくおおよそ気分さえ乗れば図書館へ行く。徒歩圏内に図書館は複数あった。一番近い所だと10分も歩いた所に古びたのが一つあるが、大抵は駅向こうにある公共施設内の小さな図書館へ出かけた。そして今日も駅向こうの図書館へ出かけることになるだろう。

 僕は、長期休暇の予定に限らず大抵の予定は決めなかった。予定、は僕の成すべきことに制限をかけたうえで大抵失敗に終わらせてしまう。これはとても個人的な経験から導き出した法則だ。だから、予定は極力立てない。特に一人で行動する時には。

 給湯器からお湯が出始めると真っ白な湯気が立つ。僕はそれを大切に両手で掬おうと手を伸ばす。――あちっ。給湯器を見るとお湯は45℃になるよう設定されていた。ようやく僕は本格的に目を覚ます。13時04分のことだった。


 清々しい、冬の昼下がり。マフラーは心地の良い冷たい風に吹かれ、その風はふんわりと次の季節の予兆を運ぶ。大抵の季節は真っ先に風に乗ってやってくる。風に乗ってやってくる季節はいつも早とちりで、少し先の季節を運んできたかと思えばまた風景相応の季節まで逆戻りしたりする。だから、その早とちりな季節は僕を少し感傷的にする。それにしても、良い日和だ。

 駅向こうへ行くのにJRの改札前を通る。改札前にカフェがある。わざわざ駅向こうの図書館へ行く理由の一つがこれだった。道筋にいくつもの飲食店がある。僕は比較的空いているカフェに寄って珈琲とサンドウィッチを食べる。サンドウィッチに挟まれたレタスの音が僕を少し元気にした。

 生活の欠落、と僕は思った。もう半年近くは自炊らしい自炊をしていない。部屋は最低限生活できる程度にしか片付かない。生活は予定の中にある。僕が予定を捨てれば必然的に生活の一部を捨てることになる。僕に縋りついてくる生活を何とか振り切りたい一心で僕は部屋を捨て外へ出かける。そうして見知らぬ人の中に紛れ自身が風景の一部となることで僕は生から僅かに解放されたように軽い心持になる。その逃避が僕を更に生活から遠ざける。生活の欠落。

 ゆったりと時間をかけて珈琲を飲み干すと、店員は僕を追い立てるように空になったコーヒーカップを下げる。そうやって僕は喫茶店を後にする。

 時間は無情な進み方をするものだ、と僕は思った。僕の根底を流れる時間はその外側を流れる時間とは少なからずの齟齬があり、僕は時折その差を埋め合わせなくちゃあならない。或はその埋め合わせをするときに、僕は僕の時間を少しばかり投げ捨ててその先の時間へと飛ばなくてはならないのかもしれない。違和感。これが僕の結論付けた違和感の正体だ。僕にとって時間は無情な進み方をする。


 図書館に着くと時は正常に流れ出す。公共施設の折り重なったビルディングにある図書館は狭く、大した本は置かれていなかった。それにもかかわらず、僕はその置かれた本の一割すら読んだことがなかった。それは一瞬奇妙なことのようにも感じるが、事実は読めるわけがない。特に読書家でもない人間が、長い時間の蓄積みた様なたくさんの本を読み尽してしまって良い訳がないのだ。それだからここに来ると一冊、必ず本を読む。長い時間を割いて書かれた様々の本を僕は数時間で読んでゆく。僅かな罪悪感と、心地よさ。それは僕の中に流れるゆったりとした時の流れを矯正してくれるように感じた。ねじまき、だ。発条ぜんまい仕掛けのオルゴールのようなものだ。本が僕の緩んだ発条ぜんまいをキリリと巻き上げると、僕の時間は周りのテンポに合わせて進みだす。

 気難しい哲学書から、啓発的な児童書。地域資料から、古典文学。まるで統一なしに本という本の中からその日に読むべき対象を選び出して読んだ。そうして、僕は少しずつ周りの時の流れに追い付こうとした。

 その日は二つ、気になるタイトルを見い出した。一冊は良く名の知れた飛行士のエッセイ。概要は常識として知っていたが、その気難しい文章が障壁となり手が出なかった。もう一冊は名もない小説家の処女作。時間という文字をタイトルに見たからだ。うん、と迷った果てに僕はエッセイを手に取った。「人間の土地」。

 実のところこの本を手に取るのは人生で二度目だった。その昔、サン=テグジュペリの星の王子さまを読んだ時、多くの子供がそうであるようにぼくもその話の持つ不思議な魅力の正体を突き止めたいと思った。そこで手にしたのがこの人間の土地だったのだ。しかし、やはり多くの子供がそうであるようにこの本を最後まで読み切ることが出来なかった。単に文章が難しいという以上にこの本は子供を寄せ付けない気質を持っている。それはおそらく、誇り、情熱、人類の探求心といった、美しくも一定以上は規制されがちな本質が荒々しく表れていることに起因している。直感的な子供には時間が足りないのだ。そうして、欲求の欠落した今の僕にも凡そ同じことが言えた。つまり、欲求による進歩を伴わぬ時間は実際的な時間としてカウントするに不十分であるのだ。何度も何度も強い眠気が襲って来た。

 気付けば夕方、時刻は18時56分を指し示している。閉館まで一時間強。僕は大きな欠伸をして本を棚に戻し、図書館を後にする。

 外はしっかりと暗い。駅の方へゆったりとした速度で歩きながら思う。――きっと僕の時間の進みかたは人よりも遅い。それだからちょっとした長期休暇をもらったところで何も出来ないし、時々発散ぜんまいを巻かないと生きていけない。と。

 駅前の歩道橋の手摺に肘をついて、流れて行く光の筋をじっと見つめる。――無茶苦茶言い訳じみてる。僕の時間の進みかたが非凡なのだろうか?


 その時、僕はあの違和感を感じた。一瞬音が消え別な音が始まる。一瞬風景が消え別な風景が再構築される。あの感覚。ここ一月は週に二、三のペースで訪れる、時間的な幅を持たぬ虚無。音飛び。瞬間的に、僕は重力を失ったような恐怖を覚え直後身構える。しかし、今日は何かがおかしい。その恐怖の感覚は一瞬を過ぎた後に引くことがなかった。それだけではない。違和感の直後に戻ってくる音の破片が聞こえない。違和感の直後に再構築される風景は……おかしい、直前の風景からの連続性を僕は認識している。それでいて直後からのその変容を鱗片すら見ることが出来ない。


 世界が、止まっている。


 背筋が凍りついたような恐怖が僕を襲う。戦慄する。僕の身の回りの何もかもが動きを止めてしまった。一瞬気のせいかと思い、辺りを見回した。一つ々々の目に飛び込んでくる事象たちを言語化して確認してゆく。青信号で発進した車はその交差点の中央で停止している。道行くビジネスマンの外套は冷たい夜風にその裾を翻したまま静止している。空を渡る雲は瞬間的に形作られる立体的な架空の造形物を保存している。電灯から飛び立つカラスは力強く羽ばたいた姿勢のまま浮遊している。そうして僕は……僕だけがこの世界で時間を得て思考している。僕だけが?

 「何、これ」と無意識に呟いた。その言葉は僕の口を離れると静かに無の空間の中に吸い込まれていった。僕は極度に体を強張らせて歩道橋の手摺に掴まった。――ああ、僕はもしかすると死んでしまったんだろうか? 唐突に稀な発作でも起こして、死んでしまったんだろうか? 時間が止まったように錯覚しているのは死んでしまった僕の意識がそれ以降の時間的変化を認識できないためなんだろうか?――一寸ちょっと妙かもしれないけれど、咄嗟に僕はそう結論付けた。その恐怖は死という体験の副産物であり、時間が止まったように感じたのは僕の意識が途絶えたからだと。

 僕はこの音も動きもない世界で5分もじっと体を硬くしていただろうか、徐々に高まって行く緊張に呼吸は浅く早くなり、喘ぐ様なその呼吸の音だけが体内から直接聞こえる。呼吸――ああ、呼吸の音が聞こえる。その認識は極度の緊張を僅かばかり和らげると、僕に体を動かす自由を与えた。――まるで、生きているみたいだ! もう一度ゆっくりと辺りを見渡し、自身から一番近い所で固まっている買い物帰りらしき中年の女性の元へそろりそろりと静かに歩み寄った。

 女性は北欧らしいデザインのトートバッグにぎっしりと日用品を詰め込み、疲れた表情をしていた。丁度その時風が吹いていたのか、少し顔を顰め、髪はなびいていた。

「あの、失礼します。一寸いいですか?」

 恐る々々女性に声をかける。僕の声は雪の降る夜にすべての音が闇の中へ吸い込まれて行ってしまうのと同じように無音の中へと引きずり込まれていった。

「すみません……すみません! どなたか!」

 少し声を張り上げて、女性より遠く、不特定多数の固まって動かない人々の中へ呼びかけた。しかし、その声もまた無音の中へ吸い込まれて行ってしまった。――きいん。と耳鳴りがする。

 僕は本当に死んでしまったんだろうか? 自身に問いかける。「僕は本当に死んでしまったのかな?」実際に声に出してみる。声は無音に紛れる。――わからない。でも、死んだようには実感されない。少なくとも、主観的には僕は死んでなんかいない。それでは一体何が起きたんだろう。「何が起きたんだろう」

 女性の傍を離れる。帰路につくビジネスマン風の若い男性の横を過ぎ、小さな子供を連れたおばあさんの横を過ぎ、歩道橋の上を駅の改札に向かって歩いた。人々は皆思い々々の表情をして、何らかの動作の途中経過を示したまま固まっていた。JRの改札の前まで来ると僕はそれとなしに電光掲示板に目をやった。時刻は17時07分。京浜東北線の上り線の運転見合わせと下り線の遅延を除いて他の路線は概ね正常に動いていたようだ。――そうだ、時刻! はっとしてジーンズのポケットに入れたスマートフォンを取り出し、画面を付ける。17時07分。どんな結果を予想していたというのではないが、何故かその結果に釈然としないものを感じる。世界が動きを止めてから、恐らく時間は進んでいない。もし仮に僕自身が死んでしまったのだとしたら、それより後の時間を僕が知ることはない。しかし、もしも僕の時間だけが動いているのだとしたら? 或は時計ごとに差異があるのではないだろうかと思ったのだ。結論差異はなかった。よくよく考えてみれば、この時計だって僕の外側にあるのだ。僕は試しに時計と睨めっこをしながらしばらく時間をおいてみた。一、二、三……たっぷりと百まで数え上げても時刻が変わることはなかった。

 時計から顔を上げると僕の動悸はまた激しくなりだした。緊張と恐怖がぶり返す。こんな状況はいつまで続くのかしらん。気が付くと歩き出していた。駅を抜けすぐに線路沿いの狭い路地を足早に歩く。見慣れた景色の異様な状況。走っている途中で宙に浮いたまま固まった犬や風にはためいたまま凍り付いてしまった交通整理の旗。そんな奇々怪々を横目に僕は無心にそして足早に歩いた。とうとう、自身のアパートの前にたどり着いてしまうと僕は一旦深呼吸をして一段ずつその足音を確かめるようにして階段を上り、二階の自室の鍵を開けた。

 ――あれ? 鍵は妙に抵抗した。まず奥までささるのにたっぷりと時間を要し、その後鍵を回すのにまた随分な時間と力を要した。苦労して鍵を抜くと、今度はドアノブが異様に重たい。

「それ、焦っちゃだめだよ」

 僕は飛び上がった。字面通り飛び上がった。その声は背後から唐突に湧いて出たのだ。

「小父さん、動けるんだね」

 振り向くと、十四、五に見える少女が階段を三段ほど降りた位置からじっと僕の方を見つめていた。セミロングの真っ黒な髪、あどけなく柔らかな顔立ち、真っ赤なダッフルコートを着て少し濃い色のチノ・パンツを穿き、吸い込まれそうな恐ろしい瞳で僕の方を見つめている。その瞳は灰色をしていた。

「あー、小父さんてよりはお兄さんて感じだ」

 相手が自分より幼い子供だとわかると少し決まりが悪くなった。大袈裟に驚いたことが恥ずかしく思われたのだ。しかし、気味が悪い。この子供は一体なんだ。僕は喉の奥から声を絞り出すようにして聞いた。

 「君は、誰だ?」と。

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