第2話 早春

 最上階にエレベータが到着したので、和久が『開』ボタンを押してくれて促してくれるので、明日香はエレベータから出て、少し驚いた。

10階の高さから来る景色の良さと肌に当たる風、地上の風との違いをすぐに感じることができた。おもわず深呼吸をしていた。廊下のコンクリート手すりは彼女の肩のあたりまで高くなっており、下駄を履いたまま少し無理のある背伸びをして何とか地面を見ようとする。和久はそんな彼女の後ろ姿、特に背伸びするには不安定な下駄のつま先で立っている姿が、不安定さから来る震えでかくかくしているのを眺めて、唇に握りこぶしを当ててくすくす笑いを堪え損なっていた。

明日香は、そんなくすくす笑いを耳にして顔を真赤にして背伸びをやめてしまった。振り返って言い訳をする。「そんなにおかしいですか?だってこのへんで高いビルなんてあんまりないから。学校の校舎だって4階までだし。」

まるでアミューズメントパークに来てはしゃいでいる子供みたいに見られたと思ったのだろう。歳相応におしとやかにしておれば、少年剣士役に抜擢されることも無かったろうにと気にしている明日香であった。

再び景色を眺めやる。あそこのあたりが家で、あっち側が学校でと自分のライフエリアを指差して紹介していく。コンクリート手すりが結構高くて、かろうじて見える範囲を何とか見ようとして先ほどと同じように下駄で無理のある背伸びをしている。ひょこひょこと体を上下させる姿がかわいらしく思う和久である。

彼は彼女の胸に腕を回し込んで、ちょうど赤ん坊を高い高いするかのようにマンションの手すりのすこし上を覗けるように持ち上げた。

バンジージャンプのジャンプ台の際から下を覗き込むような気分になり彼女は胸に腕を回されるような行為を異性として意識するべきことを一瞬忘れてしまっていた。

『絶景かな、絶景かな!』というセリフを吐く最近見た復刻版映画の大泥棒ではないのだが、(明日香の観たのは、石川なにがしという”なんでも切れる匕首あいくち”を持っている大泥棒の話で、彼女の母曰く、『何かいろいろ設定が混ざってるわね』とのこと)息を飲むほどのスリルを味わえる目線のために彼女はつい『ひあ~』と変な叫び声を上げてしまっていた。

ここは10階だが、地上を歩いている方々が『飛び降りか!若い身空を!』とこちらをまじまじと見上げている。歩いているほぼ全員が立ち止まってことの成り行きを確認しようとしている。ある者は、差すような視線を、ある者は憐れむような視線を明日香に送ってくる。そんな視線を一身に受けて彼女はじたばたし始めた。

下駄はからんという音を発して廊下に転げ落ちた。彼女の胸のある部分がきゅんきゅんするような気恥しい快感が押し寄せてき始めていた。そんな感覚に彼女は思わず息を飲んだ。

「和久さん、下ろして」と懇願、哀願口調で明日香がしゃべったので彼は自分のした行為に気付いて「悪い」と慌てて彼女の足が廊下に転んでいる下駄に着くように下ろそうとした。

しかし、彼女を持ち上げた拍子に足から脱げ落ちた下駄の向きは方々に向いており、彼女は自身のつま先でちょいちょいと履けるように向きを変えれ必要があった。まだ胸で抱きかかえられている状態なので、動くたびに明日香は『ぅんぅん』と聞く者によっては快感の声を上げているようにも聞こえただろう。

それほど艶っぽく、鼻から抜けるような声でもあり、子犬が親犬に甘えるような声とも言えた。

彼女の頬は上気したように桜のようなピンク色に染まっていく。

彼から見るとうなじまでピンク色に染まっており微かな石鹸の香りが春のすこし早い若草の香りがする風とともに彼の鼻をくすぐるようだった。

からんころんと廊下に転がっている下駄の向きをつま先でちょんちょんと変える音が静かな廊下に響き渡る。

『ぅん?ぅん?』と艶のある声が、まるで『どうして下駄がうまくいい感じの向きにならないの?』と言っているようにも聞こえる。明日香は抱きしめられている状況に戸惑って中々うまく、つま先だけでは下駄の向きを変えられないでいた。

和久はしばらくこのままで居たいななどと思いつつ、なし崩し的にこのようなおいしい状況になっているのもどうかとへんなストイックさを発揮させてしまいそうになっている。エレベータホールからほど遠くない角部屋であるシェアルームの玄関まで明日香をそのまま抱きしめていくことにした。

急に自分のしていた下駄の向き調整作戦の努力を中断させられたのが意外であったので、小声で『ぁ!』と声を上げた。『もうすこしだったのに』というニュアンスが含まれている声だった。

その声を出した時に和久はびくっとして、彼女の胸に回した腕をさらにぎゅっと締め上げることになってしまい、また『んん』という声を上げさせる結果になった。

そんな状況なので2人して顔を桜色に染め上げる形になっている。

エレベータホールの隣の住人が明日香の艶っぽい声を聞いて、何事かと扉をすこし開けて覗き見ていたので、なおさら彼女を赤面させている。和久は隣の住人が顔を出したが彼女を落とさないように抱きしめているので、それに気付かずに通り過ぎた。彼女の足は廊下から数センチ浮いており、ただ彼の歩みに合わせてぷらぷらと揺れ動くに任せていた。モデルとして来たので足袋であろうと汚したくないので、すこし膝を曲げる形で廊下にすらないようにしている。

『重くないかな?』などと小柄で華奢なくせにそんなことを気にしていた。

和久のシェアルームには玄関口に高さ45センチくらいのかなり高いガーデンベンチを置いている。大人でも足が画家として筆を入れている最中に、客の対応などはできそうにない。そういう時は、座って待ってもらうことにしている。モデルもそのつもりで来てもらっているし、もし何時間も出てこないようなら、帰るなり近くの喫茶店なりで時間をつぶしてもらうことにしているのだ。最上階ではあるが、廊下はテラス形式になっており、雨避けがあるし、調光窓もあるので、案外暖かい。ここで本を読みながら待っているモデルも過去にいたくらいである。うとうとと居眠りをしてしまい、画家の方もキャンバスに向かって夢中になり、気付いたら夜でしたということもあった。もっともそれは和久のルームシェア相手の話であり、今は外国で個展を開くべく出張中であるので、彼が自由に使える状態である。

そのベンチへ明日香を連れていき、「足を上げてベンチに立てる?」と彼女の耳元で囁いた。つい息をふっと吐きながら耳元に囁いたために耳をくすぐってしまったのか彼女は「ひゃい」と『はい』がチーズフォンデュのチーズみたいにとろけた感じで返事をして、ベンチに立たせてもらった。

ベンチの上ですこしずつ直立していったので、お尻が和久の顔にくっつくようになった。彼は思わず『やわらけ~』と声に出す衝動に駆られて、それを抑えなければいけないほどだった。着やせするタイプの彼女だが、胸はあまりないが、お尻は色っぽい。幼馴染の千夏をはじめとする同じクラスの女子はセクハラまがいにお尻を撫でまわすことが多く、結構敏感になってしまっている。

和久が明日香の肩の位置から背中、腰そしてお尻の位置に顔を移動させつつ、顔で彼女が後ろに倒れないように支えつつ、彼女のベンチでのバランスを整えたのではあるが、彼女からしたら、体がベンチ上でふらふらしてしまうことによって自分からお尻を彼の顔にくっ付けていったような気がしてしまい、ひどく恥ずかしくなった。あわせの胸元は、先ほど景色を見るために高い高い状態で腕を胸に回されて抱きしめられていたので、かなり乱れている。

お尻がこれ以上彼の顔の前に晒したくないために、彼女はベンチの上でくるりと一回転して向きを変えた。と、その途端、やはりバランスを崩しそうになり、彼の頭をぎゅっと自分の方に押し付けてしまった。

恥の上塗りならぬ、恥ずかしさの上塗りである。もう2人して顔は桜色を通り越して、牡丹の真紅色となっている。明日香は明日香でもう涙目になっていた。胸元は着崩れているし、お尻に顔を付けられるは、自分からぎゅっとしがみついていくやらなんやらで。和久は自分より大人のくせに同じように顔を真っ赤にして口元はなんだか緩んでいるように彼女には見えた。初日から散々である。

とりあえず着崩れている胸元に一方の手を、なぜかもう一方の手を顔を付けられたお尻を隠すようにした。もう彼と対面しているのでお尻は見えないはずなのだが、自分でも訳が分からなくなっていた。胸元に置いた手で心臓の鼓動を抑えるかのように、聞こえないようにするかのごとく、彼女は落ち着こうとして深い息を吐いた。何度か吐いては吸って、吸っては吐いてを繰り返してやっと落ち着きを取り戻した。眼を閉じてそうしていたので、彼が何を見ているかは彼女にはわからなかった。彼は、彼女の閉じられた目のまつげの長さがふぁさふぁさしているのを見ていた。目を開けた明日香と目が合ってしまい、ひどく焦ってあたふたとしてしまった。

「下駄・・・持ってきて。」と言われて(もうすでに”持ってきてください”というお願い口調でも無い)、気まずい雰囲気から抜け出せるきっかけを作ってくれた彼女に感謝した。こういう場合、年上の彼が気の利いたことを言うべきなのにだらしがないとしかいいようがない。ちゃらちゃらしたところが無い和久であるので、ルームシェアしている友人からは、『朴念仁ぼくねんじんが!芸術家なんぞは、色恋は程よく経験しておかないと後々苦労するぞ。』などとよく言われる。まあ、色っぽい絵などを描くときはそう言った熱情みたいなものをキープしながら描くという友人には友人なりのスタイルがあるらしいのだ。

 彼は、下駄が脱げたエレベータホール前の手すりまで速足で歩いて行った。途中、まだ隣の住人が一部始終を覗いていたらしく、その顔には『何かのプレイか?』という興味津々の色が浮かんでいた。和久は苦笑いしてお騒がせしてます的に頭をすこし下げておいた。下駄を拾い上げると、扉が閉じられる音がしたので、もう興味を失ったのであろう。

 明日香は、和久がすこし離れたので大急ぎで胸元の着崩れを直すために、袴の横から手を入れて長着のほんえり(胸元のクロスしているように見えるところの下あたり)をきゅっと絞めて、肌が露出しないように整えた。同時に背中とお尻のごわごわしている状態も直しておいた。せっかくばっちり決めてきたのに、まるでお代官遊び(例の町娘とお代官のあれ)のように着崩れてしまった。『よいではないか、よいではないか。あれ~』という声が彼女の中でこだましていた。

 彼がベンチまで帰ってきて、下駄を下にそろえて置いてくれた。彼はきちんと”取ってこい”ができた犬のような気分にちらとなりながら、男装(男着なので)のお姫様のために使える侍従のような気分にもなっていた。

明日香は、またベンチの上でふらつくのは御免だったので、手を差し出して、彼の手を借りようと促した。彼も手を貸してということだなと思い、本当に侍従のような気分になりつつ、彼女の手を握って支えてやった。手は柔らかく、温かく、すべすべしており、乾燥防止のハンドクリームのバラの匂いが再び彼の鼻をくすぐる感じがした。まるで頭がぼうっとする芳香である。よくこんないろいろな香りをさせるなと、先ほどのうなじの石鹸の香りといい、手のバラの香りといい、彼はほわんとしてしまっている。が、ふたたびふらつかせるともう2度とここに来てもらえなくなるのではないかと思えたので、首を振って何とか意識を正常にしたのだった。

明日香は、その様子を首をかしげながら見下ろしている。何かいけないことでもしたのだろうかとも思ってそうな顔である。彼の手をきゅっと握って大丈夫なことを確認するかのように足をつま先から下駄の上に下ろしていく。右、左と無事に下駄の上に着き、鼻緒に足袋の親指と人差し指を通して、やっと歩けるようになったので、ほっと一安心した彼女であった。そんな状態になったにもかかわらず、2人は両手をつないだまま5秒ほど見つめ合ってしまっていた。

明日香は先ほど彼が首を盛んに振って何を頭の中から払拭しようとしたのか気になったので、まじまじと彼の目を見つめている。

和久は「悪い」と言いながら、彼女の手を放してしまった。彼の友人が居たら、『馬鹿野郎!そのまま繋いで部屋まで案内するんだよ!もったいない!』とでも小声で罵倒するだろう。彼女は「はい」と言ってから「ありがとう」と付け加えた。思えば景色がよく見えるように抱っこ?のような、高い高いのようなことをしてくれたのだ。その後のハプニングは想定外のことであろうし、文句を言う筋のことではないと彼女は思い、下駄を持ってきてくれた礼も兼ねてそう言った。

彼は「あ、うん」と言って顔をまた赤くした。胸のところで抱き締めて体中にすりすりしたようなものである。ご褒美といってもいいくらいのやりようであったので、明日香から礼を言われると、なんだか申し訳ないような気分になっていた。

今日は初めて彼女をモデルとして呼ぶ日であり、頼れる年上を演じようと心に狂っている和久であった。

 彼女は、そんな和久の心の中まではわからないでいたが、ここに突っ立っていても仕方ないと思い、彼のジャケットの袖をつまんでくいくいと引っ張って、「お部屋へ案内してくださいっ。」と促した。まるで子供がデパートで迷子に成って、服の色が同じ女性をついつい『お母さんっ』と呼んで付いていこうとする時に袖をつまむようなしぐさであったので、彼はその自分の思い出の中の自分に重ね合わせて、なんだか救われたような気分になってしまった。

彼は彼女に頷いて、彼女の着物の袴の腰当こしあて(腰の部分の板)に手を添えて、玄関の鍵を開けて部屋の中に導いた。

 エントランスを通ると、扉がありそれを開けるとリビング兼ダイニングになっていた。おそらく一番広い部屋なのだろう。それともあるべき家具類がソファーと卓しかなかったので広く感じたのか。部屋の造りからしたら、質素といってもいいくらいがらんとしていた。和久は明日香の腰に手を当てながら、「ここがアトリエだよ。」と説明してくれた。どうりで!という納得顔でこくこくうなずきつつ促されるまま、中に足を踏み入れた。陽光が窓から入り込み外の早春の肌寒さが嘘のようにぽかぽかしている。その暖かさもあってか明日香は肩から力を抜いて一息ふっと吐き出した。シェアルームと聞いていたので、シェアメイトが待ち構えているのかとすこしだけ緊張していたのだが、杞憂に終わりそうである。まるで和久の父母に会うかの如く緊張していたので、彼女は自身に『何考えてるんだ?恋人じゃあるまいし。』と自問自答した。

テラス側の窓に近づくと二重窓になっていることに気付いた。いまどきこの保温と外気遮断ができる構造を採用している建物はあまりない。。”前世紀の建築の粋を集めた”とか何とかいう触れ込み、宣伝文句は伊達ではないような気がする。

「テラスに出てみるかい?と言っても、履物がないな。どこいったんだろう?」と彼はひとりごちた。自分の家にもかかわらず、テラスに出るための履物が失せていることを疑問に思うというのはすこし変ではある。明日香の笑いのツボを刺激しかけた。裸足でテラスを歩き回るという趣味があるのかもしれないし、もしかしたら、窓のサッシぎりぎりを歩いて蜘蛛男みたいにロッククライミングをしてくれるかもしれないとも想像してしまった。

「外はさっき見せてもらったから。」と言うので彼は「とりあえずソファーに腰かけてて。いろいろ準備するから。あ、え~と飲み物か何かいる?」と何から手をつけるべきかおろおろし始めた和久に、「お構いなく」と言う明日香に「悪い悪い」と言いながら、アトリエから出ていき、画材を取ってくる彼の後姿を見送った。

彼女は、もう一度アトリエの中を見て回り、その後対面キッチンに入ってみた。

洗っていない食器などもなく、ゴミも散乱していないので、案外綺麗好きなのかもと安心した。まあ今時男であろうと女であろうと掃除洗濯、料理などできて当たり前の時代である。明日香の今は亡き祖父は主夫であり、祖母は議員をしていた。

幼い彼女にとって料理洗濯が当たり前のようにできる男は、見慣れている存在とも言えた。もっとも祖父は主夫兼自宅で着物の古着屋を営んでもいたので、なんでもできる人であった。なんでもできなければ生きていけない時代を生きてきた祖父母であるとも言える。

冷蔵庫を開ける勇気はさすがに持ち合わせていなかった。まるで食べ物を物色しているように見られたくない。ただ、きちんと食べているのかは気になった。冷蔵庫に何一つ入っていないなら、外食ばかりだろうし、栄養が偏っているのではないかと心配になる。『お母さんや奥さんでも、恋人でもないのに何考えてるんだろう、私は。』と目頭を押さえて頭を振る。『モデル、モデル』と気を取り直してアトリエに戻り、袴にしわが付かないようにソファーに腰かけて彼が戻ってくるのを静かに待つことにした。剣道場と同じように正座して待ってもよかったのだが、画家としてどのような構図を描きたいのかまだ説明をさせていないかったので、できる限り服装に乱れがないようにしておきたかったので、ソファーに腰かけたのだが、そんなことを考えつつも、先ほどの廊下での胸元の乱れ方を思い出して、赤面する明日香であった。胸元をもう一度確認して、再度乱れがないことを確認した。

男物の着付けも女物の着付けも母に仕込まれているので、大丈夫、大丈夫と自身に言い聞かせている。何か間違いがあれば、それが絵になってしまう。自分の時間は構わないが、他人の時間を無駄にするのだけは嫌だった。出かけるときに母に見てもらえばよかったのにと後悔が沸き上がってきた。

そうこうしているうちに、和久がイーゼルとキャンバスを持ってきた。珍しいことに木製であったので、彼女は目を見張った。キャンバスには布が張られている。

今時は、デジタルキャンバス全盛である。明日香の通う学校の授業でもサヴナック社製のデジタルキャンバス(デジタル筆圧キャンバス)が導入されている。

昔は、A4サイズのタブレットがたくさん流通していた。それは初期の初期にリンゴのマークのメーカーがそれで一世風靡したためなのだが、美術業界は、キャンバス大のものを求めていた。

そこでサヴナックという会社が美術業界用に作成したデジタルパネルが業界でのスタンダードになり、多くの名画が描かれるようになった。学校などにも納品されて生徒は、そのデジタルキャンバスに各々絵を描いてメモリ保存するという使いまわしが行われた。一昔前は自分用のスケッチブックなりなんなりを購入してそれを使っていたのだが、1クラス30人にも満たない少子化のこの日本(特別行政地区)では、学校の備品として90台あれば、3学年同時に授業があったとしても、足りるほどであった。

筆圧に反応して質感はぐにゃとした感じなので子供にはグミキャンディを触った感触であると好評である。

「デジタルじゃないんですね!?」と彼女は、イーゼルに布と木枠であつらえられたキャンバスを載せている彼に尋ねた。

「うん、僕はこれが一番好きだから。デジタルとかだと何度も何度もUndoができて便利だけど、なぜか描いている気がしなくてね。費用も掛かるけれど、これが一番自分には合っている。ワンチャンスってわけでもないけど、やり直しがきかない、やり直しがききにくいっていう緊張感がたまらないんだ。」

そう言う彼の言葉を聞き、さきほどの心配が胸に突き刺さってくるような気がした明日香ではあったが、とりあえず落ち着くことにした。母の仕込みを信じるのだ!と心に言い聞かせていた。

追加でモデル用?の椅子を持ってきて、テラス側の窓から入ってくる陽光が当たるところに置いた。陽光を利用してモデルに光が当たるように置いたのだろう。イーゼルはその逆の位置に設置した。その後、まだ何か部屋に戻ってごそごそと持ってくる音が聞こえた。とりあえず手伝おうにもこのシェアハウスの構造自体が分からないので、何ともしがたい。案内くらいしてくれてもよいと思うのだが、和久はそういったことに気が回らないタイプらしい。結構しっかりしてそうで、あれやこれやと気が散ってしまう人だと彼女は認識を改めることにした。

彼が部屋に入ってくる姿に思わずぎょっとした明日香だが、歯をむき出しにして口に脇差を咥えて、片手には本差、もう一方には、画材箱らしき自身の仕事道具類を抱えていた。言ってくれれば手伝うのにと思い、慌てて口に咥えている脇差を両手をかざして拝領するかのようにすると、彼は口をあんがと開けて彼女の手に落とし込んだ。結構重さがあるのによくもまあこんな物を咥えて来れたものだと半ば関心している彼女に対して、彼は礼を言って、本差をモデル用の椅子に置き、画材箱を自分のイーゼルの脇に置いて、大きなため息を吐いた。

そうして明日香の方を向いてにっと笑って、「歯が欠けるか、顎が外れるかとおもったよ。」と顎をさすった。彼女が『ははっ~~~』と両手に拝領したかのような脇差には、彼の歯形が少しと涎のような液がうっすらとついていたので、彼女は自分の懐に入れてあった懐紙でそれをそっと拭った。

脇差の鞘から抜き身を出した彼女は模造刀であることを確認するために、一応親指をすっと刃身に沿わせた。案の定切れはしなかったので、すこし安心した。何かの拍子にけがをするのはさすがに勘弁してもらいたい。以前賜ったあだ名に何が追加されるのか気が気ではない。まさか”刃傷沙汰の明日香”は御免こうむりたい。道場にまで通えなくなるとかなり悲しい。

「あ、大丈夫だよ。模造刀だから、それもこれも。」と彼は言って、本差も持ち上げて彼女に差し出した。ふたたび拝領刀を頂戴するように両手で受け取り、鞘から少し刃身を出して先ほどと同じように確認した。

流石に剣道場で真剣を使用するようなことはないにしても、師匠からは真剣の扱いを学ばせてもらっている。もっとも師匠の真剣を取り扱う様子を見て学ぶという形である。

和久はそんな彼女の仕草におもわずぞくっとした。まるで本当に剣士が試し切りする前に刃身を確認するような映画の一場面を想像してしまったからである。

まつげがばさばさと長い目をぱちりと開けながら鯉口を切る様子がたまらなくて背筋がぞくぞくとしてくる。

彼の視線をあまり気にせずに彼女は「うん」とひとりごちて納得したように刃身を鞘に静かに納めたのだった。あまりぱちりぱちりと収めるとどこかしらを痛めてしまうので、時代劇のようにはするなと師匠に云われたことがあるので、そろりという感じで鞘に収める。

『何に納得したのかな』と彼は腑に落ちない感じはしたが、彼女にとっては変なあだ名をつけられる心配がないことへの納得であった。

鞘の色は本差、脇差ともに朱鞘であったので、彼女としては『腕に自慢のある剣士』か『単に喧嘩ぱやい剣士』か『喧嘩上等の剣士』かと思われた。

絵を描くためにわざわざ朱塗りの鞘のものを用意したのかと聞いてみたくなったが、大人の事情などが絡むと嫌なので、ここは大人の振りをして、聞かないことにした明日香である。

とりあえず絵を描くための道具類は揃ったようなので、これから書き始めるんだろうなと彼女は思ったが、ひとまずこのシェアハウスがどのような構造になっているのかわからないと不安でしょうがない。ここに入る時にも、シェアメイトと顔合わせするのではないかと緊張したほどである。まさか父母と逢うような気持ちになっていたとも言えないが、とりあえずこれからどんなことが起きるのか分からないままモデルをはじめるのは少し嫌だったので、ここのことを教えてもらうことにした。

 和久は、確かにと頷き、まず自分の部屋から案内することにした。

まずエントランスに戻って、廊下を奥に進むとシェアメイトの部屋があり、そこを通り過ぎる手前にトイレやバスルームがある。シェアメイト用のそれらは彼の部屋の中に備え付けられているので、主に和久用だとのことだった。

廊下の角を曲がって一番奥が、先ほどがさごそと音がしていた彼の部屋とのことで、中に案内してもらった。中はこじんまりとして比較的綺麗で、キャンバスが載っている別のイーゼルらしきものには、布が掛けられていた。あまり日に当てたくないのか、部屋に来る客人に絵を見られてくないのかは分からなかった。

クローゼットの扉が開け放ちになっており、その中は引き出し付きの家具があり、画材類がそれぞれわかりやすいように名札が付けられて入れられている。

クローゼットが2つあるのだが、2つともにそういった画材類の入れ物と化しているので、服はどこに置いているのかと疑問に思った。

部屋の臭い自体が、すこし油っぽい匂いと薬品臭さが交じり合った感じであった。

油絵用の絵の具、アクリル絵の具などの匂いなのだろうなとは思ったが、明日香は学校ではデジタルキャンバスしか使用したことがないので、なんとも言えない匂いだった。気分が悪くなるような匂いではないので、不思議な匂いを嗅いでこれはなんだ、あれはなんだと匂いで判別できればいいなくらいは思った。

和久はそんなくんくんと匂いを嗅いでいる彼女の様子を見過ごさずに、「独特の絵の具の匂いがするでしょう?僕はこの匂いもたまらなく好きでね。『ああ絵をかいてるんだなあ』って感じるんだよ。デジタルではこうは行かないからね。」と匂いの弁解と絵の具への愛着を表明している。

「あ、そうそうここまで来るまでにやけに遠回りしたけれど、近道があってね。」とテラス側の窓をガラリと開けると、何を思ったか、サッシの溝に足を掛けて、先ほど明日香が蜘蛛男と評した形で足と腕を伸ばしながら、「こうやって隣の窓を開けるとさっき居たアトリエに渡れるんだよ。」と実演し始めた。

隣のアトリエの窓がガラリと開く音がして、彼の手が届いたことが分かったので、

彼女は急遽、アトリエに取って返して、渡るさまを眺めようと思って身を翻して廊下をぱたぱたとスリッパの音をさせて駆けていった。和久は一瞬引かれたかとショックを受けそうになったが、キッチン側の扉からショートカットしてきた明日香の音を聞いたので、アトリエの窓へ乗り移ることにした。

彼女は、先ほどの想像をまさか実演してもらえるとは思っても見なかったので、アトリエの窓が開いているところ、その近くにはちょうどソファーがおいてあるのだが、そのソファーに載って彼の足と手が徐々にこちらがわにじわじわじわじわと移動してくるのを今か今かと眺めやるのだった。

足がもぞもぞとサッシの溝をじりじり滑ってくるのが面白くて、ついついソファーに寝そべって(着物を着ていることはすでに放念していた)指先でつんつんと突付いて妨害した。和久は足がこそばゆくなったので、「ちょっ、こら!」と妨害に抗議の声を上げた。いまでは足の指の付け根あたりを彼女の指がさわさわと這いずっている。つーつーと添わせる度に、びくびくと足全体が震えるのが面白くてついついやってしまう。「あははははは、こら!やめ!」とくすぐったさに耐えられなくなったのか嬌声を上げ始めたので、流石にやり過ぎた感があったので、彼女はくすぐり攻撃をやめることにした。その代わり、ソファーから降りて窓の際でじっと座って待っているとどうなるのかと思って、ソファーから降りてお迎えするような形(いわゆる、ひざまずいてすわる、跪座の形)で座った。母が見たら、『袴がシワまみれ』と苦情を言いそうな状態であったが、もうそのような危惧は明日香の頭にはありはしなかった。いたずらごころ満載の心地である。上目遣いで”お帰りなさい座り”して窓際で和久がこちらに渡ってくるのをじっと待ち構える。

サッシの溝を一生懸命ににじり渡ってきた努力に対しても、足場を確保してやっと

手をこちらの窓枠に伸ばしてきた指の震え方、プルプル具合の健気さをお出迎えという形で三つ指ついて礼を尽くしたくなったのだ。

じっとこちら側に耳の端、耳の付け根、そして綱渡り状態できたために上気してピンク色に染めているほっぺたが現れるのを期待の眼差しで見つめていたところへ

目がこちら側にやっと出てきた。

明日香の方からは、彼の顔が見えたので、目を合わせてやろうと、目線を彼の目に遭うようにしたら、案の定彼の目と合ってしまった。彼はそのまま硬直したかのようになり、次の瞬間、『あっ』と言って、後ろに倒れ込む形になってしまった。

和久からして見れば、先ほどまで明日香の小さくて細い指で弄ばれていたのが急に止まって、一瞬飽きられたのか、帰ってしまったのかと思えるほどに静かになっていたので、この綱渡りを放棄して、玄関まで走って追いかけようかと思ったくらいであった。

しかし、とりあえずはこの綱渡りという何もそこまで真剣にならなくてもいい行為を指でいたずらのするという妨害ではあったにしても、相手にしてくれた彼女を信じてアトリエを覗けるまで綱渡ってきたのだ。

そこへ、黙って上目遣いで彼女は三つ指突いて、お帰り(お渡り?)をお待ちしておりました状態なのである。

目と目が合った瞬間、指と足の力が急速に抜けたのも無理はあるまい。

明日香からみた彼の様子は、登山で自己を犠牲にしてロープにかかる体重を軽減する男が、谷底に落ちていく時に、スローモーションで落ちていくかのごとく、テラスに倒れていくような感じであった。

さすがに運動神経が良い明日香であるから、そのようにできたのだと思われた。

和久は、『まさか自分の下敷きになってまで頭を打つのを庇ってくれるとは』

と後年述懐しているほどであった。

徐々に倒れていくのを見ていた明日香だが、テラスに倒れていく危なさに気付いて、とっさに彼の頭を庇うようにスライディングしていた。胸とお腹に彼の頭を抱えるかの形で明日香は倒れて彼は尻を打撲したが頭を打たずに済んだ。「ごめんなさい、ごめんなさい」と彼の頭を抱えながら何度も謝る明日香に、和久は庇ってもらった際にどこか打っていないかと心配になり2人してテラスの地べたに座り込んでどこか骨でも折れてないかとお互いに身体を擦っていた。涙目の彼女と心配頻りの和久は、お互いの身体が大事無いことを確認できてほっと一安心して、お互いに謝り合いをした。『いや自分がわるい、私がわるい』との応酬に、気付いて何故かお互い吹き出してしまった。

「怪我なくてよかった」と和久は、明日香の肩に額を乗せて心底ほっとしたようだった。「大丈夫です。」とその肩に乗る彼の耳元にそう囁いた。

彼はそう囁かれて息を吐かれたのですこしびくっとして年上のくせに甘えているような体勢になっているのを気恥ずかしくなり、そろりと彼女の肩から額を離して、何とか立ち上がろうとした。尻をしこたま打っていたので、腰までやられてないか心配だったが、腰に手を当ててぐっぐっと捻ってみても痛みがないので、テラスにべったと座り込んでいる彼女に手を伸ばして立たせた。彼女の手は温かく、ぎゅっと和久の手を握り返してくれたのが、ひどく嬉しかった。

とりあえずテラスの上に、下履きもなく直に立っている。もうすでに足の裏(彼女は足袋、彼は靴下)はテラスの汚れが乗り移っているだろうと思われたので、特に急いで部屋に入ろうとはしなかった。

次の瞬間、明日香は「あっ」と声を上げて、お尻を両手で抑え込んだ。和久は『やはりどこか打ちどころが悪かったのか』と思い、彼女の腰に両手を当てて、お尻を覗きこむようにした。彼女も自分のお尻を自らの手で擦って確認を取っている。

先ほど逆スライディングとも呼ぶべきことをやってのけたので、案の定、テラスに袴が擦っている。何かざらざらしている肌触りを感じて、彼女は手触りだけでなくお尻を見るために上半身を捻っている。焦げ茶の袴がすこし変色しているのが、なんとなくわかる程度ではあるが、脱いで確認してみる必要がある。

和久は、彼女の腰に手を当てて、前からお尻を覗き込む形でその擦った後の白くなった変色領域を確認した。

「ああ、すこし擦り切れている感じがする。さっき僕の下敷き、あ、いや頭を守ってくれた時にできたんだね。すまない。」とすまなさそうな顔で、いまだに腰に手を当てたまま、下から彼女を見上げる。

流石に初日で?こうも触られまくっているのもどうかと思って、彼女は顔を真っ赤にして部屋に上がることを促した。

その様子に、ようやく自分が女の子の腰に手を当てて、まるで懇願するような姿勢で座っていることのおかしさに気付き、彼も顔を同じような色に染めた。

明日香は、テラスから部屋に上がる際に、足袋を脱ぎ、汚れが落ちることを願いながらパンパンと左右の足袋を打ち合った。和久は靴下を脱ぎ捨ててテラスから部屋に上がる。

もう半ば袴の擦りは分かりきっているので、かえって見るのが怖い。手触り、上体を捻ったうえでの確認なので、直視していないという変な意味ので救いはあるのだが、母に何て言い訳をしようと頭の片隅に母の顔が去来する。

結局見ないわけにもいかないので、明日香は袴の紐を解きにかかった。しゅるしゅるという衣擦れの音を立てながら、前の紐を外すと、後ろ、つまりお尻の方の布が落ちる。後ろで蝶結びにしている紐を解くと簡単に袴はすとんと足元にずり落ちていった。和久は目の前で女の子が服を脱ぎ始めている姿に唖然として口をぽかんと開けていた。彼女は目を瞑りながら紐を解いていったので、そんな彼の哀れな?姿には気付かずにそのまま脱いでいく。ちょうど袴が足元に落ちたので、目を開けて

見ると目の前に、彼の視線を感じたので、首をかしげた。袴を脱いだだけであり、長着を脱いだわけでもないので、特に恥ずかしさはない。ちょうど昔のお父さんが家に帰ってきて、帯を締めた姿着である。よく言えば浴衣の豪勢なやつを着ている状態とも言えるので、肌が露出するわけでもないのに、和久は布の衣擦れの音に何か色っぽさを感じてしまったようだ。このまま脱ぎ続けるのではないかという期待みたいなものもあったのかもしれない。

そんな男の欲望には、気付かずに明日香は脱ぎ落ちた袴が足元で輪っかのようになっているので、ぴょこんと飛び退いて、足を崩して部屋に座り込んだ。太ももに袴のお尻部分を載せて外からの陽光を使って仔細に擦りの状態を確認し始めた。

和久もそれに気付き、横にあぐらをかいて座り込んだ。まるで悪さをした旦那がご機嫌を伺うかのように横目で奥さんを見ているような風景であった。

明日香は、擦りに手を沿わせていたが、急にテラスにまでかけていき、先ほどの開けっ放しにしてある窓で、その擦り跡を手でぱたぱたとはたいている。すこし埃っぽい汚れがテラスに吹く風に乗って、空気中を舞っていく。彼も気になって彼女のそばに行って、「どう?」と尋ねた。

明日香は「みごとに擦ってます。」と意気消沈もせずに、にこと微笑んだ。

「まあ、座ってモデルをする分には影響ないですよ。お尻を描くことはないですよね?」と確認がてら聞いてくる。もちろんお尻を特に描くようなマニアックな画家ではないので、こくこくと2度頷いた。

「うちは呉服屋ですから、よく似た布の1枚や2枚はあるはずだから、なんとかなると思います。袴って何枚かの布が組合わさってできてますんで、擦った部分だけを替えてしまうこともできます。母には渋い顔をされるかもしれませんが。」と舌をぺろと出して破顔した。そんなに範囲が広くなかったのも幸いしているのだと言う。

彼が弁償うんぬんを言い始めたので、自分もいたずらが過ぎたのでと拒絶して取り付く島のない彼女であった。

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凛とした桜 愛衣(あいい) @AIE

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