凛とした桜

愛衣(あいい)

第1話 出会い

 「ねえ、明日香。わらひ今日暇死ひましっぽい。」と千夏は、飴が先に付いた棒を咥えながら声を掛けてきた。トリドリキャンディという新製品で、棒についているボタンを押すと飴の色が変わり味がそのたびに変わっていくキャンディだ。1本500円もするが保ちもいいので、千夏の最近のになっている。

 髪にソバージュを掛けて若干茶髪な千夏は、明日香のクラスメートである。

黒髪ストレートの明日香と対象的ではあるのだが、茶髪ぽいのは地毛であり、小学校時代からの腐れ縁である明日香には、ごくごく普通の装いである。

「ん~、今日はメ~ンだから」と明日香は剣道の面を打つふりをしながら言う。傍から聞いたら、外国人が「Hey、Men!Yoo、Men!」みたいに言っているような「メ~ン」なので、どこに行くのかさっぱり分からない。

 千夏は明らかに自分に待ち受けているのが暇で死んでしまう状態であることに気付き、若干ふてくされた。「2丁目のカフェ、メニュー一新して、カボチャのムースがいけてるって」とクラスのSNSで回っている最新情報を上げて誘ってくる。

 昨日の夜、女子SNSに『ホロ』と呼ばれる立体照射ホログラフィーを投稿した者がおり、皆で一斉に悲鳴を上げたのである。『こんな夜中にそんな甘い物UPするな~』だの『今食べられないし、代わりにチョコ買いにコンビニ行く~』だのダイエット中の若い身空にとっては、拷問のような映像であった。これに最近はやりのニオウミヤという匂いを画像で送れるツールを使えば、もう泣きそうになるであろう。『いま食べたい、すぐ食べたい、どうしても食べたい』となり、その店ので無くても何か代替できるお菓子、ケーキが近くのコンビニにあるはずとなるのだ。クラスの一部の女子は、昨晩それで急きょ1部屋に集まってスィーツ会を開催したとのこと。そのため今日は顔がむくれている者もいる。

 明日香は昨夜のスィーツ『ホロ』に悶絶していた1人だったが、さすがに家族に内緒でコンビニに走るわけにもいかず、ベッドで布団をかぶって寝てしまった。できる限り、甘い物ではなく、塩辛い物を想像して布団の中で眼を瞑っていたのだが、そうこうするうちに、なぜか塩辛を食べたくなり、熱いご飯の上にのせてはふはふすると極上のうまさなので、そんな想像をするうちにお腹がすいてしまったのである。どっちが食べたいんだろうと思いはしたが、そんなこんなで眠りに落ちてしまっていた。

 千夏の言葉にぴくと反応する明日香だが、今日は剣道場の師範から合わせたい人物がいるとのことで、顔を見せなければならない。千夏の声を聞きながら、ふらふらとした迷いのある足取りで、手を上げてぷらぷらしつつ、別れの挨拶をする。最新スィーツに名残惜しとは思うが、師範には頭が上がらない。

 中学2年生の時に、クラスでいじめが発生してついついやってはいけないことをして、PTAだのに囲い込まれていた自身と親を救い出してくれたのがその師範であったからだ。いじめの首謀者の青あざだらけのズタボロさ加減に教師やその親は、明日香に殺意と恐怖を覚えたほどであり、私立中学にして退学処分を言い渡されるところを、自主退学に格下げしてもらえたのは、師範のおかげであるといえる。

そのゆえあって、自宅の校区である公立中学への編入が叶い、千夏ら幼馴染との再会も果たせたのだ。まあいじめの首謀者を青あざだらけにするために、音楽の時間に使用する縦笛を竹刀代わりに使った。縦笛は柔らかいケースに入れてあったし手加減もしたという思いはあったのだが、確かに身体中青あざだらけの相手を見るとやった者が悪いに決まっているという流れになるのは当然であった。そういう訳で『笛使いアルトリコーダーの明日香』という意味不明なあだ名を付けられてしまったのだが、その経緯は学校を跨いだSNSで広まってしまったために、編入した公立中学においても、通り名になってしまっている。編入当初は、廊下を歩くと道ができる、ひそひそ話は聞こえる、などあり、明日香は気にも留めなかったが、千夏がいてくれて孤独に苛まれずに助かったという感じである。

 また、音楽の時間に使用する縦笛は明日香のみ教師が保管して授業前に渡されるという形で、凶器扱いになっている。それに加えて棒状のものをその手に握らせるなという不文律まで教師の間にあり、掃除の時は、箒やモップは持たせてもらえず、雑巾がけOnly要員として扱われているほどである。千夏らは面白がって『テロリスト』とたまに茶化す。

学校ではクラブにも所属せずにいる。剣道部もどうかと思われたが、さずがに問題を起こした身の上で入部届を書けるほどの度胸は無かった。剣道場においても大会に出るでもなしに、後輩たちを相手に打ち合いをしている。大会にも出ないのは、意味不明なあだ名が付くきっかけとなったことが関連する。曲がりなりにも棒状のもので怪我をさせたことになるので、大会で名が出るのもどうかという話である。師範とも話し合い処分格下げ条件の1つとなったのである。

 そんな明日香であるが、剣道が嫌いになったりはせずに、今にいたるも継続して剣道場に顔を見せている。打たれると部位によってはじんとするが、それが自分への戒めのような気がしてすかっとする。竹刀同士がぶつかる音も好きで、ぱしぱしと自分の上げる音、周りが上げる音が面の向こうから聞こえるのが、心地よい。

 道場の同い年の男からは、女と見られていないのでこちらも何一つ容赦なく打ち込めるので、願ったりかなったりである。しかし、明日香の方が成長が早いので、その背が同い年の彼らよりも高くて、彼らに面を入れると後頭部に当たりひどく痛がる。ゆえに年上の、しかも自分より背の高い男子と打ち合うことが自然多くなっている。早く成長してくれないと、打ち合う相手が不足するのではないかと少し心配している。

 学校から自宅へ帰ると、自宅の呉服屋には母親が来客のために商談中であったので、勝手口から鍵を開けて入る。子供の頃からの癖で、なかなか店の入り口から「ただいま」と帰るのは気が引けた。

昔から贔屓してくれているお客様に会うと大抵、『まあ大きくなって』と昔話からの会話になるのは目に見えている。そんなむず痒い思いをするのはだいぶ前から避ける術を覚えている。

勝手口から入ろうとすると、隣のおばちゃんに見つかってしまい、田舎からの届け物などをおすそ分けとしていただくことになった。

 やっと自分の部屋に上がり、学校に着ていった服、公立ではあるが制服がなく私服である、を脱ぎ、剣道着に着替える。ストレートの黒髪を、ポニテにして防具一式を背負い剣道場に向かう。

この時間ならまだ他の者は誰も来ていない時間なので、床の拭き掃除やストレッチ、精神統一などに静かに費やせるともう頭の中で予定を組んでいる。

 自宅から剣道場までは500メートルもなく、10分とかからず到着した。案の定、誰もまだ来ていないので、師範がいつも隠している鍵の在処から道場の鍵を取り出してがちゃと扉を開けた。

明かりを付けなくとも外はまだ明るいので、昔ながらの木造の道場の格子から光が差し込んでくる。

しんとした雰囲気と空気をすうと吸い込んで明日香は、すこし眼を瞑って佇んでいた。しばらくそんなようにしてから、いつものように裏の井戸から水をくみ上げて、雑巾を濡らして、まず水拭き、次に乾拭きと床を綺麗にしていく。昔からある剣道場なので、現代的な設備と言えば、照明器具くらいで、ガラスの窓もなく、扉も木製であり、たまに時代劇の撮影のために借りたいという制作会社があるくらいである。道場全体の作りも古く、大工職人たちがたまに見学にやってくるほどである。

そんな歴史文化遺産的な道場なので、まあ街の名士も一目置いており、道場主兼師範は結構顔がきくのだ。名は湯江ゆえと言い、明日香は湯江師範せんせいと呼んでいる。

師範は警察学校の教授としても呼ばれており、明日香もよくわからないのだが『名誉師範』とかになっているそうだ。

 体を温めるための準備運動も終わり、ストレッチも十分にしたところで 明日香は、剣道の防具などを防具袋から取り出し、用意する。頭には手ぬぐいを巻いて、正座して腿の上に両手を軽く握り置く。姿勢を正して、眼を瞑って瞑想をし始めた。まだ春には早い時期なので、すと肌寒い風が、格子から抜けて明日香の身体を冷す。頬を撫でていく感じをむしろ心地よく感じながら、微動だにせず静かな息を吸って吐いてする。息が白く、すと口から出ていく。

 道場のそんな雰囲気と一体化したような気がしたので、明日香は防具を付けずに、竹刀を振る素振りから始めた。ゆっくりと振り下ろされる竹刀の動き、そしてそれを繰り返す。

明日香は特に正面素振りが一番好きだった。面の位置で竹刀を止める動作が何か一つ一つを確認するような動作のような気がして気に入っている。早素振りに入り、肌寒いにも関わらず徐々に汗をかくくらいの温かさになっていた。

 ふうと息を吐いた。からりと音がして木戸が開いた。そこには見知らぬ男が立っている。くせ毛を少し伸ばした感じでよく言えば、青年実業家、悪く言えば大昔の私立探偵のようなヘアスタイルである。「久しぶり。」と言う声を上げて、道場の中に進んでくる。まるで明日香が居ないかのように師範がいつも座っている場所に進んでいく。いくら夕暮れ時であり、格子からの光しかないとはいえ、これでは明日香を無視しているのと何ら変わらない。ちょと明日香にとっては失礼になるのではないかと自分でも眼を細めつつ、その男の行動を眺めやる。じとと見られていることにも何も感じぬような男にむかとして明日香は竹刀を構えて打ち込みはしないが、するするといつもよりも静かなすり足で男に横合いから近づいていった。

自分が格子と格子の間に立っているので、陰の中にいるため男から見えないのかとも思ったが、また道場の建物に対して言ったのであろう『久しぶり』との言葉にこの道場の関係者かとも思ったが、つい不審者扱いのような態度をとってしまったのである。いや、関係者であれば人の気配くらいには気付くはず、何か得体の知れなさを感じたのも事実である。

 だんだん近づいて行く竹刀にも気付かずに、男は歩み続け、明日香の竹刀の先が男の顎をくいと押し上げる形になった。

 途端に男は急速に後ずさり、いや後退をした。たたんたんというある一定のリズムを刻んでいるような感じの後退であった。相手の攻撃を後退してよける時の動作に似ていた。

 明日香は『あ、やば、ほんとに関係者だ。』と自分は打たれても居ないのに痛そうな顔をした。

ちょと気まずい沈黙が道場に落ちる。沈黙を破るために、竹刀を下ろして左手に持ち、男の方を向いて少し頭を下げた。「不審者かと思い・・・・」とお茶を濁すようにして言うと、男は手の甲で顎の先をちょと拭う振りをした。真剣でもないので、切れているわけではないのだが、吃驚したという振りを示したいのだろう。

 「こちらこそ唐突に押し入って申し訳ない。」と柔らかそうな声で返してきた。

 「今日、こちらで人を紹介してもらう約束で参りました。」そう告げてきたので、明日香は『師範が会わせたい人物とは、この男性なのかな』と思った。

てっきり何か同年齢で試合でもしたがっている人がいるのかと思っていたので、こんなに歳が離れている男とは思いもよらなかったのだ。

そして男はさらに口を開いて「絵のモデルを探している。」と言った。

そして明日香に微笑んで続けた。「イメージにぴったりだ。」


 明日香は、『いまどき』と言われそうだが、着物を着ていた。

春の日差しが程よく照り、心地いいすがすがしさを道行く人に与えていた。

公園の桜もまだ咲くにはすこし早い。

そんな中、公園の通路を1人歩く着物姿を通り過ぎる人は、ある者は好奇の眼で、ある者は興味本位で、ある者はどこのお金持ち?という疑問で、ある者は着付けがきちんとなされていることに関心をしているのであった。

 明日香は、あわせの下に、袴を着ていた。あわせの色合いは、少し濃紺色であり、袴の色は茶色である。高くない下駄をからころと音を鳴らしながら、公園を近道として利用する。公園で遊んでいる子供たちはいまどきテレビの中でしか見ないその姿に、口をあんぐりと開けて見ているか、『サムライだ!サムライった!』と時代劇の中で見たままの姿がいきなりこの現代に出現したので、ゴジラか何かの怪獣と同一視しているような感じで、見送るのであった。

 まだまだ着物に慣れない様子で、少し右下、あるいは左下に目線を反らせて、気恥ずかしいそうにしている。およそ250年くらい前には、皆似たようなこの姿をしていたのに、今では特別天然記念物か、あるいは七五三、果てはお坊さんかと思われるほどの扱いである。

確かに袴はひとつ間違うと、スカートと言えなくもない。今着ているのは行灯袴あんどんばかまと言われる左右の分かれ目がない、ちょうど本当に女の子のスカートのような形の袴なのだ。

あわせは足元まであるちょうど浴衣の分厚いものと思ってほしいが、その腰の所に紐で縛って吊ってるというのが、袴の仕組みである。

 風がよく吹く日などは、足元がすーすーしてくる。歩いていても何かなにも穿いていないのではないかと錯覚してしまいかねない。ついつい自分がちゃんと穿いているのかと下駄を履いている足を上げて(足の裏を見る感じに足を上げて)ちゃんと後ろから見て丸見えになっていないか、めくれ上がっていないかを確認してしまうのである。たくしあがっていないかどうかが心配なのだ。

まあ、イギリスかスコットランドかは忘れてしまったが、本当にスカートを穿いてバグパイプを鳴らして行進している方々もおられるので、スカートそのままよりはまだしもと思って恥ずかしさを誤魔化している。

 着物を着るのが嫌いではないので、気恥ずかしいから着ないという選択肢は、明日香には無かった。昨今コスプレという異世界の住人の服やそれこそ武士の姿などを大手を振って着ている人達が居るのだが、では、街中で着れますか?と問うと、おそらく『浮いてしまうじゃない?』と暗に拒絶されるのが関の山であろう。特別な場所、例えば同人誌即売会やコスプレパーティでは堂々と着ている人が、いざ『この姿で家まで帰宅しましょう。』と言われると、ご遠慮したくなるのは、どういったことなのでしょうかと1日くらい問い詰めたくなってしまうのだ。

 さてそんなこんなで公園を近道にして、からころと進むと大きなマンション、10階建てくらいの建物の横に出ることができる。その子は、そのマンションの敷地内へ通ずる入口を通り、歩道が整備されている脇道を行く。その隣は車道になっており、入口は自動で上下する鎖が張ってあり、登録車のみが近づくと反応して開閉してくれる。軽いスループ状になっている歩道を、下駄をからころと鳴らしながら、登っていく。スループ自体は、石ころが敷き詰められた上に、コンクリートで固められ、おしゃれな感じにされている。その石ころの凸凹さ加減のために、下駄が取られそうになり、横手にあるステンレス製の手すりに寄りかかることが多い。『まるで傍から見たら、足の悪い子が手すりを掴みながら行く』ように見えるが、特に足が悪いわけでもなく、足場が悪いからだ。

 『もうすこし。』とスループを登り切るのがあとちょっとと見て、ふと息を吐く。昨今お年寄りでも着物を着る習慣が廃れているので、新築のマンションもそんな下駄履きの人に対する気遣いもありはしない。あと3メートルというところで、右の肘を掴まれた。

右手には、身長の高い男性が立っており、労わるような眼でその子を見下ろしている。

 「和久さん。」と明日香は、その人物に気付き、支えてくれたことを感謝するような眼で見上げるのだった。「悪いね、こんなスループで。明日香あすか君」と和久と呼ばれた30歳にはなっていないであろう男性は、まるで自分が設計したかのように、このスロープの作りを申し訳なさそうにしていた。「大丈夫です。下駄には向かない地面なので、転ばないようにしただけで。」と和久の方を向いて明日香は答えた。明日香の髪は長い方である。その髪を少年剣士よろしく総髪ポニーテールのようにしているのだから、道すがら『サムライだ!』と言われるのも無理はない。

柄物がらものを着ていないので、少年剣士と思われても、仕方ないのである。

この姿も目の前のこの長身の男性の要望を叶えるためのものであるし、明日香にとっても仕事の内なので特にこの男性の目の前で『この姿は恥ずかしい』とかいう感情は湧き上がってこない。

むしろ別の感情を抱くことはあった。

 和久に右腕を取ってもらって、明日香はその右手で彼の袖をちょこと掴んだ。スループから子供が2人ほど下ってきて、明日香の隣を通り過ぎようとするので、明日香は和久の方に寄りかかる形になった。道を開けてやらなければ子供たちは明日香に追突する勢いであったので、下駄をからこと鳴らして和久に寄りかかった。和久は彼で明日香の背中をこちらに寄せて守る形になる。

子供が通りすがりに「こんにちは」と元気に挨拶をする。『ごめん』の意味もやや含まれているのかなと明日香は思い、通り過ぎた瞬間、和久にくっつくのを止め、何事も無かったかのように、隣に並ぶのだった。

 和久は『あぶなかった』という感じで微笑みかけ、また再び明日香の右腕を先ほどとは違いそと添えるような感じで支えるのだった。

明日香はそんなやさしさに視線を外しながら、再び右手でつと彼の袖をつかむのだった。

 スループを登り切ったので、自然とほぼ同時に手を放した2人であった。

スループの上は玄関ロビーに入るための認証装置があり、和久は自分の暗号カードを差し込んで暗証番号を入力する。明日香はそんな番号を見ないように後ろを向いている。玄関ロビーのガラス張りにそんな配慮をしている明日香の後ろ姿を見てくすと笑いを漏らす彼の様子を背中に聞きながら、先ほど登って来たスループを眺める。『ピー』という音とともに、ガラスの自動ドアが開き、和久に背中を押されて、促される。玄関ホールは大理石が敷き詰められており、明日香の下駄の音がからころからころと高く響き渡る。来客ロビーの横を通って、エレベータホールに向かう。すれ違うマンションの住人がどんな組み合わせなのかと不思議に思っているけれども同じマンション住人という世間体があるために、にこと微笑んで通り過ぎていく。和久も明日香も会釈をして軽く挨拶を返す。

先ほどの住人がおりて来たエレベータがちょうど1階で止まっていたので、和久が扉が閉じないようにエスコートして明日香が乗り込む。

最上階である10階のボタンを押して、『閉』のボタンを押すとスーと扉が閉じていき、重力に異常を感じたような感覚に襲われつつ、エレベータが目的の階まで上っていく。

エレベータ内での会話はなく、明日香は2、3、4、5・・と移り変わっていく階数を眺めていた。

和久も無言で目的階まで上るのを待っている。彼の服は、春らしい服装であったが、まだ肌寒さもあるので、春用ジャケットを着込んでいた。全体的に、明るい感じの色合いでコーディネートしていて

どこかの青年実業家にでも見えるのではないかとも思える。


 あの日、和久と初めて会った日、彼は「幕末の少年剣士を描きたい。そのためのモデルを探している。」と明日香と後からやって来た湯江ゆえ師範せんせいに言ったのだった。和久は師範と共通の友人を介して連絡を取り合ったらしく、和久の具体的な要望は初めて聞いたようだった。

幕末の少年剣士と聞き、明日香は固まってしまった。今、復古主義なのかどうなのか分からないが、スペースオペラにまで幕末やら新選組やら武士が登場する始末。なんにでもとりあえずサムライだの武士だの剣士だのを登場させれば受ける時代らしく、先ほどの子供でも、道行く明日香を『サムライだ!』と指摘するほどである。

それに加えて『少年ね。まじ?』と思ったのは事実であった。『確かに学校でも私服だしズボン穿いているとたまにまあ間違えられることもあるけどね。髪をアップにしていると前から見たら男にね。出るとこ出てないし。』

そんな『少年剣士』発言を聞いてか、打ち合い中の同年代の男子たちが、稽古中にも関わらず、寒い外に走り出して遠くのほうでかすかに吹き出す笑い声が聞こえたような聞こえないような。『あいつらこんどめんばっかり狙って悶絶させてやる。年上の先輩たちの打ち込みのために構えている竹刀の先がぷるぷる震えているのが見える。いつもはそんな声を張り上げないくせに雑念を払うかのように奇声を挙げているのはなぜなんですかね?』

そんな罵詈雑言を心の中で同門の方々に飛ばしている明日香だが、例のあだ名を頂戴した事件当初、年上の先輩たちは、稽古後の片付けの中、なぜか明日香の頭をぐしぐしと触りに来たものだ。

『独りで解決しようとする奴があるか。』『俺ら大人にもうちょっと相談せえ。』みたいな困ったような苦笑いを浮かべていた。そんな先輩たちなので、明日香も憎まれ口を叩きやすい。ある意味可愛がられていたとも言えよう。

『ええ、ええ、わたしゃこの遠いところ?から来たおっさんに男の子に間違えられてますとも。手ぬぐいで髪を隠してるもんね、はいはい。』

そんな悶々とした明日香の思いは置いておいて、師範はどうだというような目線を送ってくるし、この際ずばりと性別が違うことを言ってしまおうかとも思ったが、明日香という名前自体、親が女でも男でも生まれたら付けるつもりで考えた名前なので、見分けは付かないよねと心の中で頭を抱えていた。言っていいのか悪いのか。師範も師範で決定的な一言『この子は女の子だが、いいのか?』くらい伝えて欲しいと明日香は思っている。

和久はそんな明日香の沈黙を別の意味に勘違いしたのか、「バイト代は弾みます。」と言った。明日香の目の前にスィーツが大量に皿の上にのせられた気がした。次の瞬間、二つ返事でOKしていた。今はジェンダーフリーの時代。性別がどう?という時代ではない。

ぐっとこぶしを心の中で握っていた明日香であった。 

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