「引越し」「微炭酸」「正統派」
矢口晃
第1話
父の転勤の都合で、僕はこの三月から今の町に引っ越してきた。
四月からは、県立の高校に通う予定だ。
慣れ親しんだ町を離れるのは、これが初めてではない。せっかく仲良くなった友達と離れてしまうのは寂しいけれど、数年に一回、こうして生活がリセットされるのも悪くはないなと感じている。
世界で一人ぼっちの感じのする、この感傷的な気分に浸るのが、案外嫌いではないのかもしれない。
高校入学を数日後に控えた僕は、まだ馴染みのない古ぼけた町の一角にある、小さな個人商店に入った。
都会で見かけるコンビニとは違い、品ぞろえは主に生活に役立つ商品に偏っている。何種類もの飲み物を冷やす大きな冷蔵庫はない代わりに、店の隅には、脚立やヘルメット、軍手などが置かれている。
初めて入って来たのに、なんだか懐かしい感じのする商店だった。
店は、白い髭を首が隠れるほど長く伸ばした、頭髪の少ないおじいさんが一人で見ていた。レジの隅には埃だらけのアナログなラジオが、ガーガー砂嵐を巻き起こしながら音を流していた。
店の中は薄暗い。それもそのはずだ。店内を照らしているのは、天井一面の照明などではなく、畳の部屋に吊ってあるような、二重輪っかの蛍光灯が、ただ一つきりだ。いくらなんでも、それだけでは不十分だ。
何を買いにこの店に入ったのか、不思議と僕はわからなくなっていた。狭く薄暗い店の中をぐるぐると三回ほどめぐって、ようやく、これだったかなと思う商品を探し出した。
レジに持っていくと、意外なことをおじいさんに聞かれた。
「年齢確認のできるものを、持っているかね」
見た目は八十歳くらいかと思っていたおじいさんの口調は、思いのほかなめらかで、声も澄んでいた。なんというか、お腹から声が出ている感じだ。
「いえ。持っていません」
僕は答えた。僕の欲しいものは年齢確認をしなくてはならないようなものではなかったし、そんなものが必要だとも思っていなかったから、持ってこなかった。
おじいさんはそれを聞くと、「ふーん」というような目つきで僕のことを少し下から覗き込むように見つめた。僕は思わず、半歩後ずさりした。
おじいさんは、口角にうっすらと笑みを浮かべながら、
「見たところ、年齢は十五、六といったところじゃね」
と言った。
「そうです」
僕は答えた。
おじいさんは、レジの上に投げ出してあった読みかけのスポーツ新聞を取り上げ、それを四角く畳んで、レジの後ろにある棚の上に放り上げた。新聞が着地した時の風で、棚の上の埃が舞った。
おじいさんは今度は口いっぱいに笑みを広げた。唇の間から、黄色い前歯が四本、気味悪く覗かせて。
「じゃとすると、お前さんには、これはちと、早すぎるな」
なんだか子供扱いされたようで、少しむっとなった僕は、とっさに言い返した。
「そんなことありません」
僕の言葉を聞くと、おじいさんは座っていた椅子の背もたれにぐっと体重を預けてのけぞるようにしながら、
「くっ、くっ、くっ」
と可笑しそうに笑った。完全に馬鹿にされていると思った僕は、いよいよカチンときて、さっき後方に引いた足を、今度はおじいさんの方へ半歩踏み出した。
「笑わないで下さい」
僕は必死だった。おそらく、顔も赤くなっていただろう。
おじいさんは笑いの波が静まると、おもむろに僕の額のあたりに視線を戻した。
そして、まるで先生が教え子を諭す時のような含蓄のある口調で、僕に言った。
「お前さん、初恋もまだなんだろう?」
僕はどきっとなった。おじいさんの言う通りだったからだ。
何も答えられずにいる僕をその場に残し、おじいさんは椅子から立ち上がると、腰から上を少し前に倒しながら、レジとは反対側の、店の奥の方へ歩いて行った。僕はその後姿を、立ち尽くしたまま見守っていた。腰は少し曲がっているとはいえ、おじいさんの足取りはしっかりしているし、よろめく素振りもない。それどころか、座っていた時とは別人のように、体が大きく、がっちりとした体形であったことに驚いた。
店の奥から戻って来たおじいさんは、再びレジの内側に入ると、さっきの椅子に深く腰を掛けた。そして、左手に持っていた缶ジュースなようなものを、レジのテーブルの上に置いた。
「お前さん、これにしておきなさい」
おじいさんの持ってきたジュースのようなものは、埃まみれで、缶の印字も薄れていた。きっと、仕入れてから何年も間放置され、誰にも買われなかったのだろう。
「いやです、こんなもの」
僕は断った。断らないと、負けだという気がした。
でもおじいさんも、負けていなかった。
「お前さんには、そっちのは早すぎる。最初は、こんなところじゃよ」
あくまで自分の持ってきた商品を勧めて、譲らないつもりらしい。
おじいさんの発する言葉から、僕はその意志を感じ取った。
しばらく無言で考えた末に、
「おじいさんも、最初はこれでしたか」
と、僕はおじいさんの勧める商品を手に取りながら、尋ねた。もはや僕の負けは確定していただろう。
おじいさんは今度は大笑いはせず、どこか遠くの方を見るような視線をしながら、
「そうじゃよ。お前の、お父さんだってな」
と答えた。そして、
「お前さんの欲しいそっちの商品は、そうじゃなあ、あと五、六年経ってから、また買いに来るといい」
と続けた。
「最初からそっちは、あまりにも危険すぎる。大丈夫。今度お前さんがそれを買いに来るまでは、誰にも売らずにとっておくから」
僕はもう、人生の大先輩であるこのおじいさんの言う通りにするしかなかった。自分で選んできた商品は棚に戻し、おじいさんの勧める商品を買うことにした。
店を出てから数歩走るように歩き、僕はレジ袋の中から買ったばかりの商品を取り出した。そして、薄れて読みづらくなっている印字に、じっと目を凝らした。
缶には、こう印字されていた。
「微炭酸。正統派、初恋の味」
きっと、おじいさんの言う通りなんだ。あまり大人ぶって、初恋に刺激や理想を求めすぎるのは、危険なのかもしれない。
おじいさんは、僕に教えてくれたのだ。理想の恋愛に巡り合うまでに、小さな失恋を何度も経験しなさい。そうして僕が強くなった時に、僕の理想の恋愛を、僕に売ってあげようと。
家へ帰る僕の足取りは、軽やかだった。
これからの高校生活。この町でも、なんだかいいことがありそうだ。
「引越し」「微炭酸」「正統派」 矢口晃 @yaguti
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