『けものフレンズ イヴ』をよむ
はしがき
「読みたいの?」
――『けものフレンズ イヴ』p.22
よんだだろうか。
『けものフレンズ イヴ』。
私は。よんでいない。
なにしろそんなものは存在しない。
タイトルをみて。両作を知っている者ならすぐにわかるだろう。
『けものフレンズ イヴ』は『けものフレンズ』と『ファンタジスタドール イヴ』を合体させた二次創作である。けれどもそんな二次創作は存在しない。作者は。作者もいない。存在しない小説に作者が存在するわけがない。
二次創作はときとして(またはいつでも)批評である。『けものフレンズ イヴ』も例外ではない。といって。それは『けものフレンズ イヴ』の資質によるものではない。ということを急いで付け加える必要があろう。
そもそも野﨑まどによる小説『ファンタジスタドール イヴ』が二次創作であり批評であった。
もちろん『ファンタジスタドール イヴ』に付された谷口悟朗氏による解説では「本書『ファンタジスタドール イヴ』(以下『イヴ』)は、アニメーションに付随した物ではなく、本体のプロジェクトから派生した物として企画されました。」と断られている。『ファンタジスタドール イヴ』がアニメ『ファンタジスタドール』の二次創作であるといえば、それは正確な物言いではない。しかし「本体のプロジェクトから派生した物」という意味での「二次創作」であればそれほど無理はないように思われるし、そうでなくても『ファンタジスタドール イヴ』にはべつの「一次創作」がある。
『人間失格』である。
『ファンタジスタドール イヴ』はアニメ『ファンタジスタドール』前日譚を、『人間失格』の筋書きの上で展開させた二次創作である。そしてそのことによって奇妙な批評性を獲得している稀有な作品でもある。そして。
『けものフレンズ イヴ』はアニメ『けものフレンズ』の前日譚を、『ファンタジスタドール イヴ』の筋書きの上で展開させた二次創作である。つまりその批評性は『けものフレンズ イヴ』の手柄というよりはむしろ『ファンタジスタドール イヴ』の手柄なのである。
では。この存在しない二次創作を批評すれば。『けものフレンズ』『ファンタジスタドール イヴ』という2作を同時に批評することにもなるのではないか。
やってみよう。
第一の謎
それは、手であった。
――『けものフレンズ イヴ』p.11
どうして「手」なのだろうか。
『けものフレンズ イヴ』の大部分は『ファンタジスタドール イヴ』の文章の置換で構成されている。『けものフレンズ イヴ』「だいいちのけもの」(第一章にあたる)の一文目にあたるこの文もまた『ファンタジスタドール イヴ』「第一の力」の一文目「それは、乳房であった。(『ファンタジスタドール イヴ』p.11)」の「乳房」を「手」に置換したものにほかならない。
どうして「手」なのか。そのことを理解するためにはまず『けものフレンズ』『ファンタジスタドール イヴ』がともに他者の物語であり。両作がともに二種類の他者を軸に物語を編んでいることを理解しなければならない。
どういうことか。
『ファンタジスタドール イヴ』はわかりやすい。この小説の軸はあきらかに「女性という他者」である。
もうひとつの他者はひろい意味での「もの」である。「私」は少年期に犯した過ちから逃れるようにサイエンスに没頭し、やがて質量傾斜理論という(架空の)理論によって人間を、いや
『ファンタジスタドール イヴ』の批評性は、女性という近くて遠い他者を「もの」(物質、物理、科学、二次元、体)から見出すことによって理想を実現するというオタクたちの逆説を『人間失格』を通して見出しているという点にある。そこではふたつの他者が合体することによってその他者性に微妙な変更が加えられている。
『けものフレンズ』はどうか。まず思いつくのは「けもの」つまり動物であろう。『けものフレンズ』は擬人化した動物つまり動物とヒトの合体(フレンズ、こども)をつくることで動物という他者とヒト(私)のあいだを架橋し、「憐れみ」の範囲を拡張する。ということは前回論じた。
ここで注意しなければならないのは『ファンタジスタドール イヴ』『けものフレンズ』がともに「もの」「けもの」という通常劣位におかれるものに光をあてている点である。精神や心に対して「もの」物質的な身体は伝統的に劣位におかれてきた。「けもの」つまり動物もまた人間に対して劣位におかれてきた。逆説が逆説であるためにはこの劣位の項が必ず必要なのである。
では『けものフレンズ』における劣位ではないほうの項はなにか。『ファンタジスタドール イヴ』と同じく「女性」だろうか。たしかに『けものフレンズ』におけるフレンズたちはみな「女性」というか少女であると思われる。そこには明らかに前述のオタクたちの欲望が影響している。しかし『ファンタジスタドール イヴ』ほど性的な描写のない、脱性化されたフレンズたち(およびその関係)はむしろ「ともだち」といったほうがちかい。つまりフレンズである。
『ファンタジスタドール イヴ』は「女性」という他者を「もの」によって実現する逆説を描いている。
『けものフレンズ』は「ともだち」という他者を「けもの」によって実現する逆説を描いている。(ことを『けものフレンズ イヴ』は『ファンタジスタドール イヴ』の構造を借りつつあきらかにする。)
ならば「女性」の身体的象徴として「乳房」があった位置に。「ともだち」の身体的特徴としての「手」がくるのは必然であろう。だからこそ。
それは、手であった。
第二の謎
「君は吉良上介だね?」
「そういう君は
――『けものフレンズ イヴ』p.74
なんだろうか。この名は。
『けものフレンズ イヴ』の主人公
『ファンタジスタドール イヴ』の主人公
こうした文脈を考えるならば『けものフレンズ イヴ』の主人公 吉良上介の名は
しかしさきに引用した会話文はすこし異様である。この会話は『ファンタジスタドール イヴ』における「私」と「遠智要」の出会いの場面(「大兄太子君。君は、僕らの業界じゃあ有名人だ」「君は」「
そのこたえは。わかる人にはかんたんにわかるはずだ。
この会話は『ジョジョの奇妙な冒険』第一部のジョナサン・ジョースターとディオ・ブランドーの出会いの場面(「君はディオ・ブランド―だね?」「そういう君はジョナサン・ジョースター」)を写しとっている。
さらにそうなると
このように『けものフレンズ イヴ』には『けものフレンズ』『ファンタジスタドール イヴ』だけではない。ほかにもさまざまな二次創作が氾濫している。そしてそのことは。元を辿れば『ファンタジスタドール イヴ』が『ファンタジスタドール』『人間失格』以外の元ネタ(中大兄皇子。遠智娘。中臣鎌足。)をもっていることの反映であるといえる。
ところでしかし。ファンタジスタドールたちを生み出す大兄太子と遠智要の由来である中大兄皇子と遠智娘が鵜野讃良を生む。というきれいな構造に比して。吉良上野介と浅野内匠頭という『忠臣蔵』のいわば敵同士という関係は奇妙である。さらに出会いの場面の由来となったジョナサン・ジョースターとディオ・ブランドー。吉良上介の名前の由来となった東方仗助と吉良吉影も敵対している。この奇妙なねじれはなにか。
注目すべきは「私」=吉良上介において。東方仗助と吉良吉影の名が合体していることであろう。このことからただちに連想されるのは『ジョジョの奇妙な冒険』第八部であり連載中の『ジョジョリオン』。本作は東方仗助と吉良吉影の登場する第四部のパラレルワールド的世界観を有しており。主人公
それだけではない。ジョジョ第一部の主人公とラスボス。ジョナサン・ジョースターとディオ・ブランドーもまた融合している。ある経緯から生首だけの存在となったディオ・ブランドーは第一部の終盤。ジョナサン・ジョースターの身体を乗っ取り。首から上はディオ。首から下はジョナサン。という存在となっている。
敵対する者同士の合体。それは『ジョジョの奇妙な冒険』において繰り返し描かれるモチーフである。そしてそのことが『ジョジョの奇妙な冒険』に登場するキャラクターに(味方だけではなく敵にも)独特の親しみを与えるとともに。単純な勧善懲悪ではない「人間賛歌」というテーマの重層性に寄与しているといえる。
そしてこのことは『けものフレンズ』とも通ずる。原初。捕食者/被捕食者であったヒトとけもの(またはけもの同士)は。擬人化というヒトとけものの合体(フレンズ)によって「ともだち」になることができる。それは「かりごっこ」からの「たべないよ!」というかばんとサーバルの出会いの場面に象徴される。本作のテーマといえるのではないだろうか。
こうしてみたとき。吉良上野介と浅野内匠頭というとりあわせの見方も変わってくる。彼らの刃傷沙汰は結果的に『忠臣蔵』という物語を生みだした。物語はいわばふたりのこども=フレンズである。そしてこの物語=フレンズを引用した『けものフレンズ イヴ』において、ふたりの敵対的関係はむしろ「ともだち」として回収される。ここには『けものフレンズ』のテーマが写しとられるとともに。二次創作という形態がもつ本質的な調停能力の発揮が見てとれる。この能力についてはのちにさらに詳しく追ってみることにしよう。
ところで敵対的関係(刃傷沙汰)の「ともだち」への昇華は『ファンタジスタドール イヴ』でも描かれている。「私」は遠智要の企てを止める過程で左腕を失う。そして「私」はそのことを許し。遠智とともに
『けものフレンズ イヴ』では「私」は浅野匠の企てを止めるために右腕を失い。許し。浅野匠とともに
第三の謎
こうして私は、人と離別した。
――『けものフレンズ イヴ』p.134
だが。『ファンタジスタドール イヴ』と同じく。理想を追うということはきれいなだけではない。むしろ理想的でないものへの残酷さを伴う。
『けものフレンズ イヴ』の終盤。「私」は失った右腕にけものの。動物の。サーバルの腕を移植する。
そしてその「私」のまえに、「私」を裏切り、謝りたいという大依桜が姿を現す。「私」はその手を握る。大依桜は逆らわないが、隣にいた男が「おい、なにをするんだ」と強く手を払いのける。「私」は手のひらをじっと見つめ。大依の横を通り過ぎる。浅野がいう。
「帰りたまえ。彼が、彼の右腕で握る手が、こんな陳腐でありふれた、そこいら辺の、誰にでも手に入る手でいいはずがない」
振り返らず、浅野に、行こう、と告げた。
――『けものフレンズ イヴ』p.134
以上が『けものフレンズ イヴ』において「私」がヒトを絶滅させなければならなかった。その理由である。(「こうして私は、人と離別した。」)
アニメ『けものフレンズ』はヒトが絶滅したとされる(残存している可能性も残されている)ポストアポカリプスの物語である。とうぜんその前日譚である『けものフレンズ イヴ』には、フレンズを生み出す「サンドスター」の誕生秘話とともに、ヒトの絶滅という大きな謎の説明も求められる。そしてふたつは同一であることが『けものフレンズ イヴ』においてあきらかになる。
生物学の研究者である「私」と精神分析家である浅野匠は世界=内=存在としてのヒトの在り方を根拠づける「視点」の抽出に成功し、これを「サンドスター」と名付けた。そしてサンドスターを無機物に触れさせると生まれる「セルリアン」のサンドスターに誘引され吸収する性質を利用し、巨大なセルリアンを生成。世界中の人間からサンドスターを回収した。
彼らがやろうとしたのはサンドスターをいちど純粋の状態にもどし、再度けものたちに分配することである。
彼らは人間に絶望していた。人間は裏切る。人間はのけものを生み出す。人間では理想的な友達になりえない。だから彼らは人と離別した。
ここに『けものフレンズ イヴ』の限界、あるいは欠損があることはあきらかである。「けものはいても のけものはいない」世界を生み出すために人と離別し、のけものに(絶滅)する必要があった。それは『けものフレンズ』のテーマに対する裏切りといってさえ過言ではない。
しかし。ここにこそ二次創作の本領がある。
どういうことか。
『ファンタジスタドール イヴ』に反して『けものフレンズ イヴ』では「私」が失った右腕をそのままにはしなかった。そのことに注目すべきである。彼は失った腕のかわりにサーバルの腕を移植した。欠損をべつのもので代替した。彼はそのぶんだけフレンズに近付いたといっていい。
『ファンタジスタドール イヴ』は「女性」という他者を「もの」によって実現する逆説を描いていたのだった。
『けものフレンズ』は「ともだち」という他者を「けもの」によって実現する逆説を描き。『けものフレンズ イヴ』はそのさまをさらに描いたのだった。
「女性」も「ともだち」も。それを劣位の「もの」や「けもの」で代補しなければならないのはそれが欠落していたからだ。もたざる者であるからこそ「生身」や「人間」ではなく「もの」や「けもの」で代補しなければならない。しかしその果てに光を見たのが『ファンタジスタドール イヴ』であり『けものフレンズ』であった。
そして『けものフレンズ イヴ』のあきらかな欠損――人をのけものにしなければならない――は。あらかじめ補填が約束されている。そう。『けものフレンズ』によって。
『けものフレンズ』ではヒトのフレンズであるかばんとフレンズたちの交流が描かれる。吉良上介=「私」が絶望したヒトも、
このような一次創作と二次創作の在り方は、二次創作の欠損によってこそ可能になる。ただしそこでは欠損を欠損のまま絶対化するのではなく。欠損を(たとえ劣位のものをつかってでも)代補し、理想へと向かう意志が必要となる。
あとがき
「たつき監督たちは、最先端技術を集めてくれる。それに、CGだって作ってくれる」
「うん」
「吉崎観音は、美しいキャラデザを作ってくれる」
「うん」
「田辺茂範は、場所を作ってくれる」
「うん」
「声優たちは、声を作ってくれる」
「うん」
「僕は、心を作ろう」
「うん」
「君は、体を作れ」
私は、うん、と頷いた。
「人間を、作るんだな」
「いいや、違うよ、吉良君。そこだけは間違っちゃあいけない。いいかい、吉良君。僕達は人間を作るんじゃない。ともだちを作るんだ」
――『けものフレンズ イヴ』p.130,131
二次創作=こども=フレンズは二者以上のいわば親の「いずれにもすこしずつ似ている」家族的類似性によって、親同士を架橋する。前回私はそのことを論じた。
逆にいえばそれは「すこしずつしか似ていない」のであって。決して「完全なコピー」でも「純粋な複製」でもない。必ず不純物が混じっている。
こうした不純物は否定的に受け止められがちだ。とりわけ二次創作における類似性の欠損、再現度の低さは忌避される傾向にある。漫画やアニメの実写化への批判的な風潮をみればそれは明らかであろう。
しかしこども=フレンズという視点を得たいま。そのような欠損は必然的で必要なものであったことがわかる。AさんとBさんのこどもの鼻がAさんに似た鼻であるためには、それはBさんに似ていない鼻である必要がある。こどもの眉がBさんに似ているためには、それはAさんに似ていない眉である必要がある。あるものへの類似性は、べつのあるものへの類似性の欠損を論理的に必要とする。
では類似性の欠損とはなんであるか。それは他者の混入である。べつの他者に似ているからこそ、あるものに似ていない必要がある。
フレンズは擬人化された動物である。それはヒトの要素をもつぶんだけ動物に似ていない。動物の要素をもつぶんだけヒトに似ていない。しかしこの「似ていなさ」は決してネガティブなだけのものではないことは『けものフレンズ』をみたひとにはあきらかなはずだ。それは似ていない=他者が混入していることによって、まったく異なる他者同士を架橋する可能性を秘めている。(たとえば『けものフレンズ』において「けものはいても のけものはいない」の反例と考えられなくもないセルリアンの扱いにしても。無機物であるはずのボスとのコミュニケーションから。その解決の可能性がほのめかされている。と考えることも可能なはずだ)
二次創作とはそのようなものである。そのような調停能力を本質的にもっている。
欠損に対する(ときには劣位のものによる)代補の肯定。
これが家族的類似性の倫理的側面である。と。私は考えている。
そして。『けものフレンズ』は。『ファンタジスタドール イヴ』は。そして『けものフレンズ イヴ』は。
そのような欠損と。それに対する代補への愛にあふれている。
『けものフレンズ イヴ』は存在しないけど。
批評空論 名倉編 @iueo
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