逆流批評宣言 - 君の名は。けものフレンズ。ゲンロン0 -
『ゲンロン0』をよんだ。さて。批評を書かないと。
そんなふうに思った人は僕だけではないと思う。
優れた批評や哲学書をよめば、批評が書きたくなるものだ。それはたんにすごいものを目の当たりにしたときに真似をしたくなる。というのとはすこしちがう。
卑近な例えをするなら、それはゲームで新たなアイテムを手に入れた瞬間に似ている。アイテムだと誤解があるかもしれない。それはドラクエなら「金のカギ」だったり「船」だったりする。FFなら「飛空挺」だったりする。ポケモンなら「いあいぎり」。ゼルダの伝説なら「フックショット」だろうか。とにかく。そういったアイテムは手に入れた瞬間から世界が広がる。できることが広がる。それまでできなかったこと、入れなかった場所に入れるようになる。なら。使いたくなるのはあたりまえのことだ。
なにに使おう? いや。そもそも僕はなにを手に入れたのだったか。
率直にいって、僕は『ゲンロン0』を読んだことでいろんなものについて語れるようになった気がしている。「観光客」「二次創作」「家族」「不気味なもの」「こども」。こうした鍵概念はそれそのもの(たとえば「観光客」そのもの)だけでなく、まったく別の事柄にあてはめて使えるよう、適度に抽象化されている。と思う。
ならば問題になるのは。やはり「なにに使うか?」だろうか。
是非とも対象にしておきたい作品がある。
『君の名は。』だ。
その理由は、僕がこの作品を好きだから。ではない。かといって嫌いなわけでもない。批判したいわけでもない。
それでもこの作品が重要なのは、まず第一に当然ながら『ゲンロン0』の著者である東浩紀氏が直接「『ゲンロン0』は『君の名は。』を意識して書いた」(記憶が定かでないので言い回しが正確でないかもしれませんが)と明言していたことがあげられる。けれどもそれだけではない。僕は『ゲンロン0』によって『君の名は。』が読み解けるだけでなく、『君の名は。』によって『ゲンロン0』が読み解けると思う。だから『君の名は。』は外すことができない。
どういうことか。
まず東氏が『君の名は。』をどう評価しているかを見てみる。
以下に東氏のツイートを引用する。
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ひと月ほど考え続けた結果、ぼくは、「君の名は。」はたいへんな傑作であり、ぼくがいままで擁護してきた価値観を見事に体現した作品でもあるが、いまのぼくとしては絶対肯定できない作品だという結論に達した。言い換えれば、この作品に行き着いたセカイ系の想像力を肯定できないという結論に達した。
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このように東氏の『君の名は。』に対する評価は複雑だ。(しかもこの評価も現在は変わっているかもしれない)
ところで「この作品に行き着いたセカイ系の想像力」とはどのようなものだろう。
ここに関係すると僕が思うツイートをもうひとつ引用する。
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ひとつ繰り返しておきたいのは、あの作品は運命の相手と結ばれる作品では【なく】、なぜ人々が運命の相手がいると思い込んでしまうのか、その理由こそが語られた作品だということです。この読みの背景には「ゲーム的リアリズム」があるのですが・・でもこれもツイッターでは説明不可能ですね(笑)
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これはまったく僕の恣意的な読みであるけれど、つまりこういうことではないか。
「セカイ系の想像力」は「この作品(=『君の名は。』)」において「なぜ人々が運命の相手がいると思い込んでしまうのか、その理由」に行き着いた。そしてこれを東氏は肯定できない。
加えてこういうことにもなる。
『君の名は。』のヒーローとヒロイン。瀧と三葉は運命の相手では【ない】。しかし作品内のあるギミックによって互いを運命の相手だと「思い込んで」いる。
本来ならここでそのギミック=「なぜ人々が運命の相手がいると思い込んでしまうのか、その理由」についての詳細な分析に入るべきだろう。だけどここですこしショートカットをしておきたい。つまりこの話が『ゲンロン0』とどのように繋がるかについて。
僕がこの「運命の相手」と関係すると考えるのは『ゲンロン0』の第7章 ドストエフスキーの最後の主体 だ。そこでは苦しむ子供の否定神学的な絶対化に対する郵便的な誤配による乗り越えが描かれている。と僕は思っている。絶対化とはなにか。運命だ。つまり僕は『ゲンロン0』の第7章は「なぜ人々が運命の相手がいると思い込んでしまうのか、その理由」を乗り越えたところになにかを見出している、と考えている。そこに繋ぎたい。
では『君の名は。』の分析に戻ろう。
なぜ瀧と三葉は互いに互いを運命の相手だと「思い込んで」いるのだろうか。
これに関しては、すばらしい解釈をすでに知ってしまっているため、自分の手柄にすることはできない。素直に引用しよう。以下は仲山ひふみ氏のツイートの引用。
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何か忘れている、欠けている、穴があるという感覚からこそ、ありえたかもしれない無数の現実への想像力が立ち上がってくる。そこでの忘却=欠如=穴は、リアルな(=現実界の)レベルでは物質的な偶発事が積み重なった結果でしかない。これをなんとか必然的なものにしようとして「恋愛脳」が駆動する。
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まあ、実際には偶然しかないところにこそ必然が見出されねばならないという不可能な要求にこそ恋愛を可能たらしめる基本的なダイナミズムが潜んでいるのであり、『君の名は。』はそういう恋愛のファンダメンタルな真理/心理に忠実に作られた作品なのだということ以上に、言うことはない気がします。
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『君の名は。』は忘却の物語だ。なぜ『君の名は。』と問わなければ/問われなければならないのか。それは忘れているからだ。
瀧は三葉を、糸守町を救った(三葉自身も三葉と糸守町を救った)。しかしそのことによって糸森町の隕石落下跡まで行った瀧の動機は宙に浮いてしまう。よくあるタイムパラドクスだ。『君の名は。』ではここに明確な説明は加えられない。かわりに瀧は三葉との入れ替わりを、そして三葉のことも忘却する。
さて。瀧は三葉のことを忘れた。「そこでの忘却=欠如=穴」を「なんとか必然的なものにしようとして「恋愛脳」が駆動する」。これが漠然とした、だれかを探している感覚となって瀧のうちに残る。三葉も同様だろう。忘却しているからこそ「忘れているはずのなにか」への確信が強化され、それを探す理由がないからこそ「忘れているはずの理由」が想定される。これが「運命の相手」のメカニズムだ。
こうした論理はあまりにもあからさまに否定神学的だ。そこでは理由がないことこそが理由となり、必然性がないことこそが必然性=運命となる。であれば、東氏が「肯定できないという結論に達した」のも当然ではないか。こうした否定神学こそ東氏が『存在論的、郵便的』から『ゲンロン0』まで。一貫して批判してきた対象なのだから。
『ゲンロン0』の第7章では苦しむ子供の否定神学的な絶対化に対する郵便的な誤配による乗り越えが描かれている。と僕は思っている。と僕は書いた。
この考えが正しいとすれば、『ゲンロン0』には『君の名は。』の否定神学的な「運命の相手」生成メカニズムを乗り越える手段が内包されているはずだ。そしてそれはある。
どんなものか。ここでは『ゲンロン0』を読まれていることを前提に話をすすめたい。(でなければいますぐに買って読むべきだ。以降ネタバレがあるので注意。)すでに『ゲンロン0』を読まれているなら、ジューチカに対するペレズヴォン、といえば十分だろう。「ジューチカとペレズヴォンの寓話は、まさにその「この」性そのものが解体され解消される瞬間を描いたものだと考えられる。(『ゲンロン0』p.296)」のだった。失踪によって絶対化されたジューチカの苦しみは、ペレズヴォンというあたらしい犬(イリューシャはジューチカだと確信するが、真相はわからない)の登場によってその絶対性(「この」性)を解体され解消される。
ペレズヴォンはジューチカなのかもしれない。ジューチカではないかもしれない。ただ。すくなくとも「似てはいる」のではないだろうか。ここではあきらかに「家族的類似性」が効いてくる。しかし「家族的類似性」についてはのちの議論に譲ろう。
とにかくそこでは絶対的かつ唯一だったはずの「この」犬がほかの犬で置き換えられうる。その可能性こそが示されている。
『ゲンロン0』のこの部分を読んでいるとき。正直にいって涙がこぼれた。もちろん『カラマーゾフの兄弟』のその部分を読んだ際の感動がよみがえったというのもある。しかし。あのシーンにこのような解釈が吹き込まれたこと。同じく印象的だったイワンの問題に対するこたえが作品内にこのような形で埋め込まれていると考えることが可能となったことに衝撃と感動を覚えた。
それと同時に危うさも感じた。倫理的な危うさ。失われたものを絶対化するのはある意味では人間の自然な心性だ。ペレズヴォンによって示される代替可能性は、この失われたものに対する「かけがえのなさ」「代替不可能性」を壊してしまう。それは倫理的に問題があるかもしれない。と一抹の不安を覚えた。しかし考えるうち、むしろ逆なのだとだんだんわかってくる。
『ゲンロン0』の最終章(第7章)に刻印されたこのような論理。「否定神学的な絶対化に対する郵便的な誤配による乗り越え」を組み入れた物語を考えてみよう。
まず一例は言うまでもなく『カラマーゾフの兄弟』のジューチカとペレズヴォンのエピソードであり、存在しない『カラマーゾフの兄弟』の続編だ。
しかしここでは『君の名は。』に近いところから考えてみよう。『君の名は。』を作った新海誠監督の過去作『秒速5センチメートル』。この作品でもやはり「運命の相手」は絶対化され、そのことによって物語の妙味を生み出している。だとすれば。
あえてこの「運命の相手」を解体してみよう。どうなるか。
『秒速5センチメートル』は遠野貴樹とその初恋の相手 篠原明里を中心とした物語。貴樹は明里と別離してからも彼女のことが忘れられず、貴樹に好意を向けるほかの女性との関係はうまくいかない。主題歌である山崎まさよし『One more time, One more chance』と共鳴しつつ丹念にテーマを描く本作は傑作といえるだろう。
貴樹は(意識しているかはともかく)明里こそが自分の運命の相手だと思っている。それはそういっていいと思う。そしてそのような考え・感覚を抱くようになったのは明里以外の女性に対して「これではない」「あれでもない」と否定的な体験を繰り返してきたからだ。否定神学的に上昇を続ける貴樹のなかの明里像は、踏切をはさんだ再会、そして消失により頂点に達する。「運命の相手」の条件は「手に入らないこと」だった。
あけすけにいってしまえば。貴樹は明里を探してるのではない。むしろ明里がいないことを確認するためにこそ探すふりをしている。「むかいのホーム」「路地裏の窓」「こんなところにいるはずもない」場所を探してはそこに彼女がいないことを確認し、ある意味では、安心する。
このあまりにも強固な「運命の相手」の論理を乗り越えて『秒速5センチメートル』を改変するとしたら。どのような選択肢がありうるだろうか。たとえばこうだ。
明里と踏み切りですれちがい、失う。それからしばらくして貴樹はひとりの女性と出会う。彼女はまったく貴樹のタイプではないし、明里ともほど遠い。しかしふとあるとき。貴樹は彼女のなかに明里とすこし似た部分を発見する。なんでもいい。目の形でも。話し方でも。仕草でも。なにかが似ている。その些細なひっかかりがしだいに貴樹のなかで大きくなり。いつのまにか。貴樹のなかで明里が占めていた位置に彼女がでんと座っている。貴樹ははじめ、その気持ちを否定し、あるいは自分の感情の軽薄さを自嘲する。が。やがて受け入れる。ハッピーエンド。
このような改変は『秒速5センチメートル』に固有の価値・美しさを毀損してしまっているかもしれない。いや。しているかもしれない。じゃない。確実にしている。
だけど。実際はこんなものではないだろうか。それはたしかにひとりの女性を、たとえ手に入らなくとも一生想い続ける一途さは理想的に美しい。のかもしれない。だけどそんなふうに美しく理想的なばかりではいられないのが人間というもの。理想的な人間につねになりそこなう動物。人間が避けがたく抱える動物性を、無条件に肯定するのでもなくアイロニカルにその固有の機能(=希望)を見出してきたのが東浩紀という哲学者・批評家ではなかったか。
そしてジューチカとペレズヴォンのエピソードに対するあの解釈で、それは炸裂していた。
こうしてみたとき『君の名は。』においてもやはり「運命の相手」=三葉は否定神学的に絶対化されている。それは前述の忘却=喪失による論理でもそうだし、アルバイト先の先輩 奥寺ミキとの「これではない」体験もそうした機能を見出せる。
とすればやはり。『君の名は。』は『ゲンロン0』において提示された(と僕が勝手に思っている)郵便的な論理を通して評価はできないのだろうか。あるいは。改変するしかないのだろうか。
ここはひとつ。改変ではなく解変(解釈変更)のみで乗り越えてみたい。
『君の名は。』は前述の通りタイムパラドクスを抱えている。ここでタイムパラドクスを解消する説明としてよくあるパターンのひとつ「世界線の分岐」を用いてみる。タイムパラドクスが発生する原因は瀧と三葉の時を超えた入れ替わりにある。この入れ替わりに際して世界線が分岐するとすれば、とりわけ、瀧と三葉が糸守町を救った行動が世界線を分岐させたとすれば。いろいろ瑕疵はあるかもしれないが、おおまかにはタイムパラドクスは解消される。
ところでこのとき三葉と再会し「君の名は。」と訊ねた瀧は三葉と糸守町を救った瀧ではない。糸守町が救われた世界で、おそらく三葉と入れ替わることもなく過ごしてきた瀧。つまり三葉は「君の名は。」と訊ねる相手を間違えている。この瀧はあの瀧ではない。一方で瀧も、平行世界からの記憶の流入か、あるいは過去に電車のなかで組紐を渡してきた少女の記憶か、それらがきっかけとなって「だれかを探している」感覚をひきずっている。しかし三葉が入れ替わったのも、三葉が組紐を渡したかったのもべつの瀧だ。理由の不在から「忘れたはず理由」を探す瀧には、忘却したのではなく本当に理由がない。三葉も。瀧も。運命の相手ではない。運命の相手を間違えている。しかしここでは「運命の相手」を絶対化し強化するはずだった否定神学的な論理が、むしろふたりの「間違い」を駆動している。三葉は似ているがべつの瀧を「運命の相手」ととりちがえ、瀧はその誤解に気付かないまま存在しない理由=「運命の相手」の根拠を存在すると誤解する。ふたりはいずれ、気付くかもしれない。これは間違いであり、目の前にいるのは「運命の相手」などではないのだと。そのとき。それでもいま自分は目の前にいる相手のことこそが好きなのだと「間違い」を肯定する気になったなら。
あるひとつの誤配が成就したといえるのではないだろうか。
こうした解釈にはいろいろと強引なところがある。そのわりに、たとえ誤解であれ誤配であれ、結局相手は三葉であり瀧である窮屈さは否めない。言い方を変えれば、誤配の可能性の範囲が狭い。真に郵便的とは言えないかもしれない。ただ。ともかく。セカイ系の想像力が行き着く先が必ずしも否定神学的な「運命の相手」の絶対化だけではないのだと。ひとまず思っておきたい
ここでさらに付け加えるなら。『九十九十九』にすこしだけ触れておきたい。
『ゲーム的リアリズムの誕生』においてゲーム的リアリズムの一例として紹介されたこの作品は「否定神学的な「運命の相手」の絶対化」という枠には絶対に収まらない。
なぜなら話は簡単。ヒロインが複数いるからだ。しかもどのヒロインをとっても、特定の「運命の相手」を絶対化するための当て馬・噛ませ犬として描かれてはいない。『秒速5センチメートル』も『ラ・ラ・ランド』も到達しなかった「運命の相手と結ばれる」(運命の相手の条件が「手に入らないこと」であるうちは、それはほとんど語義矛盾だ)のさらにそのさき。「運命の相手はべつの人でもありうる」(そこでは「運命の相手」の絶対性がほとんど解体・解消されている)に到達している。この例を見ても、セカイ系やゲーム的リアリズムといった想像力の未来はそう暗くないと思う。
「運命の相手」の絶対化とその郵便的な誤配による乗り越えにおいて鍵となるのは「類似性」「似ていること」だということはこれまでで明に暗に示してきた。
そこでさらに理解を(じつは誤解かもしれないが)深めるため「家族的類似性」を追ってみよう。
そしてここでもある作品を足がかりにしたい。
『けものフレンズ』だ。
まず「家族的類似性」とはなにか。
もとはウィトゲンシュタインの概念だ。家族は、ある一要素において構成員全員が似通っているということはほぼない。わたしと父は髪質が似ており。わたしと母は目元が似ており。母と姉は性格が似ており。祖父と父は食べ物の好みが似ており。というように。それぞれがそれぞれに異なる部分において互いに似通いあっている。そのような「家族的類似性」をウィトゲンシュタインは彼のゲームや言語ゲームの説明にあてた。
『ゲンロン0』第2部 家族の哲学 では、この「家族的類似性」という概念を家族の哲学を立ち上げる一つの根拠として導入し、さらに「憐れみ」という概念と組み合わせることで発展されている。
ここではまず。この家族的類似性の時間性に着目したい。つまり。家族的類似性はいつ、どのように生まれるのか。言い換えれば。家族が家族となる瞬間はどこだろうか。
それはこどもが生まれる瞬間だ。
たとえば僕がAさんという女性のことを好きになり、幸運にもAさんもまた僕のことを好いてくれたとする。ふたりは恋人になったとする。このとき僕とAさんはどこかが似ている必要はまったくない。恋人とはいえ生き物としてはまったく他人だ。それは結婚という制度を経たとしても当然同様だろう。そこにこどもが生まれる。
こどもは僕と眉が似ている。こどもはAさんと鼻の形が似ている。僕とAさんは異なる眉、異なる鼻をもっているが、こどもを通して似通いの連鎖の関係を得る。それこそが家族的類似性だ。家族的類似性はたまたまそうなるのではない。理由なくそうなるのではない。ヒトが生殖を行い、生物としての父親と母親のそれぞれの特徴の一部を受け継ぐ以上、こどもが生まれた瞬間、必然的にそうなる。きわめて当然の帰結だ。
そして恋愛とは異なる家族的な感覚なるものがもしあるとすれば、それは元々あったのではない。こどもという「どちらにもすこしずつ似ている」不気味なものを通して遡行的に見出される。
ここで急いで注意しておきたいのは「こども」が具体的なそれである必要性はまったく無いことだ。『ゲンロン0』では私的な情愛や憐れみをきっかけとした養子縁組による家族の拡張についても強調されているし、さらにペットが家族に含まれうるという種を超えた拡張性についてもかなり強調されている。家族的類似性を生む契機となる「こども」は生物学的なこどもである必要はないし、人間である必要もなく、生物である必要さえないだろう。
矛盾していると思われるかもしれない。たしかにさきほどの僕とAさんの家族的類似性生成に関する説明は、ヒトの生物学的な生殖と遺伝のシステムにかなり依存したものとなっている。しかしこれはあくまで象徴的な一場面として捉えてもらいたい。このようなシステムは生殖に頼らずとも可能だ。
それを説明しよう。『けものフレンズ』を通して。
『けものフレンズ』における「こども」とはなんだろう。
むろん。それはフレンズだ。
『けものフレンズ』では数多くの擬人化した動物たち、通称「フレンズ」が登場する。彼女たちは(といってひとまずいいと思う)それぞれ題材となった動物の特徴を視覚的にも能力的にもいろいろな部分で受け継いでいる。同時に擬人化されているのだから、人間と似通う特徴も備えている。つまり。フレンズとはそれぞれの題材となった動物の特徴とヒトの特徴を
たとえば僕ことヒトと、野生動物サーバルは似通っているとこはあまりないかもしれない。しかしフレンズ・サーバルという「こども」を間に挟むことで、ヒトに似ているサーバル(フレンズ)に似たサーバル(野生動物)というように、家族的類似性の範囲に収めることができるようになる。
このようなこどもの生成による家族的類似性を通した家族の範囲の拡張を「憐れみ」の範囲の拡張に転用することができれば。そこには倫理的可能性がさまざまに満ちている。まったく似ていないもの同士の間に両者にすこしずつ似ているものを置くだけで両者を繋いでしまえる。そのような暴力的なまでの拡張可能性こそ「家族的類似性」の本領なのだから。
じっさい『けものフレンズ』周辺でもそのような現象は見られる。『けものフレンズ』のファンたちはアニメを消費するだけでなく、現実の動物園を訪れたりする。それはフレンズたちがヒトと動物のあいだを架橋したからだろう。加えて、さいきんツイッターなどで野生動物の動画を見かけることがより多くなった。このとき一部の動画は、あきらかにフレンズ達の仕草やふるまいを参照項として活用し、独特の感慨を見る者に与える。
むろん。こうした事象は『けものフレンズ』に限ったことではない。
まず擬人化一般にいえることだ。通常『けものフレンズ』ではサーバル(フレンズ)なら「サーバルのフレンズ」といったふうに呼ぶが、ここでは(両者に似ているという含意を明らかにするために)「ヒトとサーバルのフレンズ」というふうに呼びたい。これに倣うなら艦娘はヒトと艦艇のフレンズ。刀剣男子はヒトと名刀のフレンズ。と呼ぶことができる。そして『刀剣乱舞』が聖地巡礼などの形でファンと現実の名刀たちとのあいだを架橋していることは周知の通りだ。
さらにまた『ゲンロン0』に引き返せば、これは擬人化をさらに超えて二次創作という範囲にまで話を拡張できる。さらに観光にも。
二次創作は、そのことばが示すように原作に従属したコピーと認識されることが少なくない。むろんそういう側面もある。けれど二次創作を「二次創作者と原作のフレンズ」「二次創作者と原作のこども」と呼んでみたとき。抹消されていたもう一方の項。すなわちヒトの項が可視化される。それはさらに言い換えれば「読者と原作のフレンズ」「受け手と作品のこども」となる。この、原作にブレンズした「書き換える側」=観光客に光を当てることこそ「観光客の哲学」のひとつの活用法なのではないかと思う。
批評もそうだろう。批評もまた。作品や批評対象と受け手との間のこども。フレンズだ。
こども=フレンズは生物学的なこどもである必要はまったくない。それはキャラクターでありうる。二次創作でありうる。観光でありうる。批評でありうる。ありとあらゆるところにじつは僕たちの要素=ヒトの項は散らばっている。それらを見つけ、さらにそのこども=フレンズが架橋する彼岸に目をやれば。家族的類似性のネットワークは無限に広がりうる。
こうしたこども=フレンズをつくる作業は、対象のある側面を抽出する作業でありつつ、同時に捨てる作業でもある。家族的類似性を裏面からみれば、僕とこどもは鼻の形は似ておらず、Aさんとこどもは眉は似ていない。もしすべてが似ているなら家族的類似性ではない。ただの類似性というか一致であり、コピーだ。
こうして必然的に生まれる欠落を「あれがない」「これがない」と否定神学的に絶対化することは。まぁ。簡単だ。しかしそうした絶対化はほとんど拒絶に似ている。なぜならそこでは対象は「欠落していること」「手に入れられないこと」によって絶対化されているのであり、「いないことを確認するために探す」ようなものだからだ。
そうではなく。欠落を。手落ちを。ひきうけるところから創造ははじまる。ひきうけてはじめてこどもは、フレンズはつくることができる。それはたとえば。喪った恋人のかわりにだれかべつの人を愛することを受け入れるような。ある意味で理想的でない。どこかうしろめたさを含みうるものだ。そこに純粋な「人間」の姿はないかもしれない。ふまじめな「動物」がまじっているかもしれない。けれども結局。そこしかないんじゃないかな。
完全に動物化するのでもなく。かといって完全に人間化するのでもなく。そのはざまをよたよたとあるく。まぁさしあたってフレンズ化と呼んでおこうか。そういった姿勢を。ひとまず。目指してみるのもありなんじゃないかと思う。
さて。どうにも。むしろ中心はつねに『ゲンロン0』にあった気がする。
『ゲンロン0』を使ってみる。批評をしてみる。などといいつつ。この文章の大半はむしろ『ゲンロン0』を読み解きたいという欲望に駆動され、作品には(相対的に)あまり踏み込んでいないように思える。
ただ。おかげで。自分のなかで『ゲンロン0』についてけっこう整理されてきた気がするし。(むろん。やはり誤解なのかもしれないが。)各作品についてもまえよりは理解が幾分深まった気がする。
うん。こういうのもありなんじゃないかなと思う。
批評や哲学に感染して、その批評的方法や哲学をつかってある作品を読み解く。のでは【なく】。むしろ作品をつかって批評的方法や哲学を読み解く。批評の逆流。
逆流批評。
と。批評再生塾2期最終課題に倣って「逆流批評宣言」をして。
閉じる。
付論
ここからは、これまでの話と、僕が「ゲンロン 大森望 SF創作講座」(http://school.genron.co.jp/works/sf/2016/)で提出した梗概・実作を絡めた話を書こうと思う。
ようするに。宣伝だ。
というより自分の作品について批評じみたことを書くのはやはりこっ恥ずかしいので「宣伝だ」という体でやりたい。ということだ。
なぜそんなものを書く必要があるのか。
ひとつはほんとうに宣伝だ。自分が書いたもの。もっと読まれてほしい。SF創作講座もおわり、ネットで公開されているとはいえ、僕の書いた梗概や実作が読まれる機会ももうあまりないだろう。なんだか。もったいない。この一年。結構がんばったつもりだ。もうちょっと読まれてもいいんじゃないの。そう思った。(そもそもこの文章がどのくらい読まれるかがあやしく。宣伝能力には甚だ疑問はあるのだが……)
ふたつめに実際にある程度のつながりがある。ということがある。これまでにこの文章に書いたことのなかには『ゲンロン0』を読む前に考えていたことも混ざっている。そのうちいくらかは梗概や実作を書くときに作品に反映させた(つもりの)ものだ。
みっつめ。自分の作品の自分の知らない側面を掘り出してみたい。作品の作者がその作品に込めた意図を説明する。それは手段であって目的じゃない。ここでやりたいのはむしろ僕が書いてるときに考えていなかった(にもかかわらずあとから読むとそのようにしか読めない)ようななにかを掘り出すことだ。そのための準備段階として「作品の作者がその作品に込めた意図を説明する」が必要になる。ようはストレッチだ。
では。はじめる。
まず全体の話から。
最終課題で出した実作『TZFKS』(http://school.genron.co.jp/works/sf/2016/students/mtsz/1016/)はそれまでの作品をすべて包み込む要素を些細ながら持っている。鍵となるのは
SF創作講座に提出された名倉編の梗概や実作は
いちばん読んでもらいたいのはやはり最終課題で提出した『TZFKS』だ。
いちばん力を入れた。僕の本領である言葉遊びのスキルも詰め込んだ。思い入れも、正直にいってかなりある。
そして『ゲンロン0』やこれまでの話と繋げて語りやすいのもこの作品だろう。というのも『TZFKS』は『存在論的、郵便的』を何度も読み返しながら書いた。ほかにいくつもネタ元のある作品ではあるが、そのなかでも存在感は大きかった。
『TZFKS』には「運命の相手」に対する問題も、家族も、こどもも、含まれている。多少微妙なところはあるかもしれないが。とにかく。含んではいる。
まず「運命の相手」問題について。
しかし「運命の相手」問題ならさきに『u/dys topia』(http://school.genron.co.jp/works/sf/2016/students/mtsz/637/)をとりあげたほうがよさそうだ。梗概が選出され実作としてはその回の銀賞をとった本作は今回議論した問題をある程度意識的に取り入れた作品でもあった
『u/dys topia』を提出した第5回の梗概提出締切は8/11。実作提出締切は9/8。
じつはさきに引用した東浩紀氏のツイートのうち2つめ(運命の相手に関するもの)はこの間につぶやかれたもの。つまり僕はあのツイートを見ながら本作の実作を書いていたことになる。(僕が『君の名は。』を見たのは自分のツイートによると9/15)
結構締切に近いのでどの程度実作に影響を与えたかは定かでないが、ものすごく印象にのこったことは覚えている。
『u/dys topia』には「運命の相手」と想定できそうなキャラクターが登場する。主人公シンノスケの初恋の相手であり連続大量殺人の末に失踪したアリス先生。彼女が自覚的なディストピア La-Place の大統領夫人として姿を現すところから物語は急展開を迎える
アリス先生はトラウマとなり、失踪=喪失したことでシンノスケのなかで絶対化されている。そのことは梗概の段階で明確に書かれている。そして梗概ではこの否定神学的な絶対化はある程度解体されながらも、ほぼ保持されている。
実作には梗概に登場しなかったキャラクターが登場する。(ここからはネタバレ注意。一応。)ニアだ。彼女はアリスが大統領夫人として姿を現すまえのシンノスケの恋人であり、アリスの件をきっかけにシンノスケと別れることになる。この段階ではニアは、アリスの否定神学的な絶対化を助ける「これではない」噛ませ犬・当て馬に過ぎない。
しかしこれを書いているとき、違和感を覚えたことを覚えている。これでいいのだろうか。たしかにセオリーとしてはアリスを唯一絶対のヒロインとして立ち上げたほうが物語が盛り上がる気がする。しかし「書く者」の倫理として。それでいいのか?
ただ単に捨てられるためにだけ存在するキャラクターとしてニアを描くことに抵抗を覚えた僕は、ニアを物語の黒幕に据えることにした。黒幕萌えである僕にとって、それはニアをこの物語の真のヒロインにすることとほぼイコールになる。
つまり。『u/dys topia』では「運命の相手」ではない女性を真のヒロインとすることに決めた。
はっきりとは覚えていないが、この決断に前述のツイートは影響を与えたと思う。
そしてこの決断は『u/dys topia』にとってよいものだったと思う。ニアを黒幕とするために終盤のどんでん返しをいくつか追加する必要に迫られた。結果的に作品はエンタメ的にもけっこう自信のあるものになった。そしてやはり倫理的にもあのときの判断は正しかったと思う。
『君の名は。』を見たあと。こうした問題意識を受け継ぎ、しかしべつの形で再度挑戦したのが『TZFKS』。いや。まずは『
『
同時並行して書いていた両作は、すくなくとも「運命の相手」問題に関しては2作1セットでテーマ化するつもりだった。一応。梗概だけでも成立はする。
前述のように『
『TZFKS』の
もし『
なかなか悪趣味だが。これが僕の企んだことだった。
こんどは「運命の相手」が代替できることを問うのではない。自分が相手にとっての「運命の相手」でない可能性を提示することが狙い(のひとつ)だった。
そのうえで。どのような決断が可能か。ということを描きたかった。
さらに『TZFKS』は家族、こどもの問題にもわずかではあるが触れている。
アニメ版『School Days』を元ネタのひとつとする本作では
いや。まさか。たんにこどもがでてくるから「こどもの問題にも触れている」と言いたいのではない。
この作品で描いたのは(すくなくともテーマのひとつは)自分のこどもの腹のなかから生まれる=こどもであるような、こどもの循環構造だ。
この構造はべつの形でも現れている。(以降ネタバレがどんどん濃くなるので注意。できれば実作を読んでから読んで頂けるとありがたいです)
その手段は「書くこと」によってだ。
つまりある意味で
しかし「散version」では逆に
まだある。
「TZFKS」終盤の記述によれば、
まだある。
このように『TZFKS』では様々なかたちで互いに相手のこどもであるような関係を構築している。
「子として死ぬだけではなく、親としても生きろ(『ゲンロン0』p.300)」『ゲンロン0』の最後のページで示されるこの本のメッセージを再現した社会がありうるとすれば。それは。互いに互いのこどもであり。互いに互いの親である。そんな関係をはりめぐらせた社会。なのかもしれない。
ほかの作品にも軽く触れておこう。
じつは「家族的類似性」ということば。僕は「『これがSFだ!』という短編を書きなさい」という第1回課題に対する実作『SFの術』(http://school.genron.co.jp/works/sf/2016/students/mtsz/165/)のなか。「SFってなんだと思う?」という議論のなかで登場させている。すこし引用する。
「ゆるやかに、なんとなく、似た者同士が集められて、例えば「これらはSFだ」とSFファンならなんとなくわかるような形で合意が形成されていく。それは雑誌という形で集められたあとに事後的に生まれる合意なのかもしれない。それとも、家族的類似性とでも言えばいいかしら?」
「家族的類似性?」
「家族の似かたに決まった定義なんて無いでしょう? わたしの鼻はお父さんに似てるけど、目はお母さんに似ていて、お姉ちゃんとわたしは口元が似てるとか、性格はおばあちゃん似だとか、そういう風にぜんぜんバラバラな部分でそれぞれ似ていて、ゆるやかに繋がってる、なんとなく顔や性格を見て「家族だな」ってわかるみたいに」
という具合だ。
梗概で豪語していた「「ウィトゲンシュタインのパラドクス」をつかって書く」という目標は残念ながらあまり達成されてない気がする本作だが、とりあえずこの部分については。へへん。という感じである。
『真心眼シャッフル』(http://school.genron.co.jp/works/sf/2016/students/mtsz/421/)は大森望先生にも高く評価して頂いた自信ある一作だ。この作品は『君の名は。』放映以前に「入れ替わり」テーマでSFを書いたという点は強調しておきたい。そして本作の入れ替わり(作中では「シャッフル」)はふたりに限定されない、ほとんど全世界的なもの(実質的には範囲はほぼ日本に限られるが)なので、必然的にヒロインもヒーローもさまざまなひとに「なる」ことになる。ここから「運命の相手」の絶対性のはぐらかしを読み取ることも不可能ではないと思う。あと一応。主人公がシャッフルする人物のなかに小学生の四葉がでてくる。元ネタは『よつばと!』なので偶然だが。なかなか面白い偶然だと思う。
『田中シンギュラリティ』(http://school.genron.co.jp/works/sf/2016/students/mtsz/491/)はなによりタイトルが気に入っている。メイヤスーとタキオンを絡めて能力バトルSF風にしたところも気に入っている。またヒロイン田中彼方の人物造形も結構気に入っていて『TZFKS』にひそかに(名前だけ)登場させている。
メイヤスーを元ネタにしたものでは『神の手の形』(http://school.genron.co.jp/works/sf/2016/students/mtsz/771/)もある。この作品は主人公・
『裸の女王様』(http://school.genron.co.jp/works/sf/2016/students/mtsz/568/)は基本的に童貞達が女王様のはだかを見るために奮闘するバカ話だが、『ゲンロン0』の文脈に載せるなら見るべきは「二次創作」としての側面だろう。『裸の王様』が元ネタであることはタイトルからわかるだろうが、ほかにも『猿の惑星』「失楽園」そして『名探偵コナン』を元ネタにしている二次創作の塊である。こうした過剰な二次創作の取り込み=《物語遊び》は『TZFKS』において臨界点を迎える。『TZFKS』は『ジョジョと奇妙な冒険』と『School Days』のフレンズであり。『存在論的、郵便的』と『あなたは今、この文章を読んでいる。』のフレンズでもある。さらに散文と韻文のフレンズであり。西尾維新と舞城王太郎の、などなど、無限にいえる。
『あんたの人生の物語』(http://school.genron.co.jp/works/sf/2016/students/mtsz/837/)は梗概しか書けなかった。というか。選出されれば実作を書く。という趣旨の話であり。選出されなかったので書かなかった。といったほうが一応正確だろう。元ネタはもちろん『あなたの人生の物語』だが。パラフィクションをいちおう目指して書いたような気がする。読む前と読んだ後でタイトルを読む際のイントネーションが変わる。ということも企てていたが成功したかは定かでない。
『Cut over as Hobby』もまた梗概しか書けなかったが、それは正確な表現ではない。この梗概をもとに、さらにべつの物語でサンドしてつくったのが『TZFKS』だ。だから実作を書いたと言えなくもないと思う。この頃は粒子の粒子性と波動性をことばのシニフィアンとシニフィエの側面に重ね合わせ。さらにシニフィアンなきシニフィエ=超越的シニフィエや、シニフィエなきシニフィアン=超越論的シニフィアンを粒子性なき波動や波動性なき粒子の問題として不確定性原理と重ね合わせようと目論んでいたが。いろいろ考えた末。整合性がとれなさそうだったのでやめた。超越論的シニフィアンを言葉遊びの効力の説明で用いるなど。残滓は残っている。
さて。これで僕がSF創作講座で書いた小説はすべて紹介し終えた。我ながらいろいろ書いたなあ。と思う。
そして案外。いまから見てみると。『ゲンロン0』と(多少強引ではあるが)関連性を見出せそうな作品は多い。もともと東浩紀氏の哲学や批評にヤラレてるからというのもあるが。『ゲンロン0』の提供する話題の広さ、問題意識の広さ、応用可能性の広さもやはりあるんだと思う。
ここまで読んで頂いたかた(いるんだろうか……?)長らくお付き合い頂きありがとうございました。
ぜんたいに。なかなかブキミな文書になったんではないかと思う。けれど。どうだろう。
というわけで。おわります。
※1 僕はセカイ系を擁護したいのではない。むしろセカイ系的な想像力に対抗するものを書きたいと思いながら書くことが多い。と思う。かといって対抗する相手をたんに見くびるのではなんにもならない。だから僕は基本的にセカイ系の未来についても悲観しないつもりでいる。
※2 ただしセカイ系の想像力が否定神学と結びつきやすいことは偶然ではないことは強調しておく必要がある。
セカイ系の定義や説明として用いられることの多い東浩紀氏による説明を引いてみよう。
「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと」
そもそもなぜ「きみとぼく」の問題を「世界の危機」や「この世の終わり」と直結できるのか。それはそれぞれの作品がそれぞれに工夫した設定によって。としか言いようがないが。多くの場合。その設定はヒロインの側に託される。
ぼくと同じ個人(オブジェクトレベル)でありながら、世界の危機に直結できる(メタレベル)設定をもつきみ=ヒロイン。『存在論的、郵便的』に沿っていうならそのようなヒロインはゲーデル的脱構築または論理的脱構築における「不可能なもの」に該当することになる。そしてそのような脱構築は必然的にひとつの「不可能なもの」を絶対化する否定神学を呼び寄せるのだった。つまりセカイ系の構造そのものがほとんど否定神学と直結してしまっていることになる。
否定神学の問題点は、おおまかに、簡単にいうと「不可能なもの」をひとつであること、時間性が無視されている(ことによって共時的な構造が安定化して見出されてしまう)ことだった。と思う。とすると対策としては「不可能なもの」=「運命の相手」を複数化すること。そしてその時間性(つまり時間に応じた「運命の相手」の変化)を取り込むことだと考えられる。だからこそ「運命の相手」の代替可能性が問題となるのだ。
※3 『u/dys topia』の梗概はSF創作講座の講義や選出された梗概や実作の一部をまとめた『SFの書き方』にも収録されている。ありがたいことである。豪華な講師陣の講義がまとまった形で読めるとても有用な本なので。おすすめである。
※4 余談だが『u/dys topia』では洋上国家La-Placeの街中で道行く人とともに歌いながら歩く場面が登場する。(文にして一行しかないが)
La-Placeという名前といい。のちに言及するヒロイン ニアといい。『ラ・ラ・ランド』(『La La Land』)とすこし似ている。すこし。
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