『FAKE』――見る者を見ることと信じる者を信じること

 名倉編  :『FAKE』見てきた




















《【三三三三】さんがログインしました》


 三三三三 :マジで?

 名倉編  :マジで

 三三三三 :よかった?

 名倉編  :よかった

 三三三三 :で、結局佐村河内はFAKEやったん? 事件の真相は?

 名倉編  :そういう映画ではない

 三三三三 :ほんならどういう映画やったん

 名倉編  :……まぁどういう映画というか……どう言えばいいのか……

 三三三三 :なんやハッキリせえへんな

 名倉編  :「誰にも言わないでください、衝撃のラスト12分間」

 名倉編  :というコピーの映画なので

 三三三三 :核心に触れられへんと

 名倉編  :まぁラストに触れずに語ることもできるだろうが、まぁ……

 三三三三 :やっぱハッキリせえへんな

 三三三三 :まぁその気持ちわからんでもないけどな

 三三三三 :おれも見たし

 名倉編  :え

 名倉編  :見たのかよ

 三三三三 :見た見た

 名倉編  :どうだった?

 三三三三 :わからん

 三三三三 :わからんっちゅーか、いま考えてることはあるけど、

 三三三三 :それも結局ひとつのストーリーやん?

 三三三三 :みたいな

 名倉編  :まぁ、そうなる……

 名倉編  :私も、映画を見た直後は批評とは言わないまでも

 名倉編  :なにか書くつもりだったのだが、

 名倉編  :しかし考えてみて思いつくのは

 名倉編  :既存の「わかりやすいストーリー」の代替物ばかり……

 名倉編  :一方で、そうやってなにも言えなくなるのが

 名倉編  :この映画の真の狙いという感じはしないし……

 三三三三 :パンフレットでは

 三三三三 :「様々な解釈と視点があるからこそ」「豊かで素晴らしい」

 三三三三 :とあるしな

 名倉編  :かといって、特定のストーリーに「あえて」コミットしてみる

 名倉編  :というのも、違うのではないかな? と

 名倉編  :そうやって周囲の人との間で「多様な解釈と視点」の幅を確保

 名倉編  :してみても、それって争いが生まれるだけじゃ? とも思うし

 名倉編  :結局ひとりの人間の見方は偏ったままだなと、

 名倉編  :どうしたものかなと

 三三三三 :荻上さんに聞いてみるか

 名倉編  :荻上さん?

 三三三三 :うん、例の批評再生塾第一期の道場破り(?)的なものとか

 三三三三 :ちょっとだけやってた人

 荻上三朗 :まぁ道場破りと言えるほどのものではなく

 荻上三朗 :単なる野次馬だったんですけどね

 三三三三 :おったんかい

 荻上三朗 :いました

 三三三三 :で?

 荻上三朗 :話はわかりました。そういうことなら

 荻上三朗 :「対話の批評」の真似事でもしてみては?

 三三三三 :対話の批評?

 荻上三朗 :第一期第15回の課題です

 荻上三朗 :自分としても思い出深いというか、そういう課題ですし

 荻上三朗 :なによりあなたたちは同一人物でしょう?

 名倉編  :え

 三三三三 :そこ言うんかい

 荻上三朗 :言います

 荻上三朗 :そこがいいんです

 荻上三朗 :つまり、安易な二極化も、過剰な多極化による沈黙もしたくない

 荻上三朗 :かといって多極のうちひとつに「あえて」コミットもどうも違う

 荻上三朗 :というのであれば、

 荻上三朗 :一人の人間の中で「多様な解釈と視点」を確保すればいい

 荻上三朗 :そのために必要なのは自己自身の分裂

 荻上三朗 :言い換えれば、複数の党派性を一人のうちに持つこと、つまり

 荻上三朗 :同一人物のペンネームであるあなたとあなたの対話です

 三三三三 :でもそれって巫山戯てるようにしか見えへんのちゃう?

 名倉編  :そこは私も危惧しますね。ことは慎重を要します

 名倉編  :ポリティカリー・コレクトネス的に。またそうでなくても

 名倉編  :私たちは『FAKE』で当事者たちの「悲しみ」を確かに見て

 名倉編  :そこに感じ入ったわけですから、茶化すような真似はしたくない

 荻上三朗 :それは同感ですが、そういう見方自体『FAKE』が可能にしたと

 荻上三朗 :思うし、そうやって結局「なにも言えなくなる」のもまた

 荻上三朗 :好ましくないのでは?

 荻上三朗 :結局、どうにか頑張ってみるしかないと思いますよ





 荻上三朗 :以上のような経緯から、『FAKE』について思ったこと、考えたことを名倉編、三三三三、荻上三朗の三名の対話を通してそれぞれふり返ってみます。ここでいくつか前提が。

 まず当初はわかりやすさのために「~だ、である」(名倉)、関西弁(三三)、敬語(荻上)と口調を分けるつもりでしたが、ふざけているように見える可能性があるため口調は統一します。また、それでもやはりふざけているように見えてしまう可能性はあるため、不適切だと指摘があればすぐに公開をやめます。また、ふざけているように見えてしまうかもしれませんが、わたしは真面目に語ってみるつもりです。あと、以降では映画のネタバレを含みます。「ラスト12分間」の展開については触れないつもりですが、ご注意を。

 荻上   :では、はじめましょうか。まずは概略を名倉さんのほうからどうぞ。

 名倉編  :『FAKE』は「ゴーストライター騒動」で話題となった佐村河内守さんを追ったドキュメンタリー映画です。「誰にも言わないでください、衝撃のラスト12分間」というコピー通り、衝撃の、そしてなんとも言えないラスト、またときどき挟まる佐村河内さんの飼い猫を収めたカットや、どこか可笑しいシーンなど見どころがいくつかあり、話題の映画です。

 まず簡単に言って、この映画は最近ますます顕在化してきた社会の「正義/悪」「真実/嘘」「真相/捏造」といった安易な二極化傾向に対する警鐘として見ることが可能でしょう。「ゴーストライター騒動」自体、「真相」として喧伝され報道され、佐村河内さんへのバッシングへと繋がったわけですが、それらが依拠していたものはほんとうに「真相」だったのか? 純粋な「真相」「真実」などほんとうにありうるのか? といった疑問が映画を見ながらポンポン浮かぶ一方、かといって佐村河内さんの主張も信用できるのかどうかわからない、という宙ぶらりんな状態を観客は体験します。やはりそこがこのドキュメンタリーの肝なのでしょう。

 三三三三 :そうだね。監督の森達也さんは『それでもドキュメンタリーは嘘をつく』という本を出されているらしく、ドキュメンタリーのプロパガンダ性、避けようのない演出の恣意性、といったものに非常に自覚的な方なんだと思う。つまり「真相」はいつも発信者の演出とか撮り方とか編集の仕方などよって恣意的に歪められている、という意識があるわけだね。ただしそういった意識をみんなが普段から持つというのは結構困難なんだよ。報道であれドキュメンタリーであれ、プロパガンダに乗った方が楽だし、そういう風に作られてる場合がほとんどだろうからね。なによりこの映画のもたらすような「宙ぶらりん」な状態は、とても居心地が悪いものだ。「だけど実はこうなんじゃないか」とどうしても考えてしまう。耐えられないんだな、誰が正義で誰が悪で、なにが真相でなにが嘘なのか確定してない状況というのが。あ、ここで注意が必要なのは、通常のマスコミ批判とかと、この「宙ぶらりん」な状態に耐えることは全然違うってことだ。報道やドキュメンタリーの持つプロパガンダ性にむしろ批判的に応じることは現代ではよくあることだけど、そこで「この報道は嘘だ」とか決めつけてしまう態度は結局不安定な宙ぶらりんさに耐えきれなくて、べつの着地点を見つけたにすぎないんだよね。それがいいかわるいかはともかくとして。

 名倉   :そこが重要な点だね。思うに、この映画はとてもニーチェ的というか、超人的なんだ。なにが真相かわからない、宙ぶらりんな状態に居続けることはとても難しい。心の弱い人間はすぐになにかべつの「真相」にとびついてしまう。そこをグッと耐える。こうしたことができる人間というのは、とても超人的だ。

 三三   :ただ、そうした見方に問題がないわけではないとおれは思う。まず、「真相などない(わからない)」「宙ぶらりんに耐え続ける」というステートもまた「とびついてしまいがちな「真相」」のレパートリーとも言えてしまうんじゃないか。それに、そうした態度は結局「無行動」「無批判」しか生まないんじゃないか。宇野常寛の批判した「ひきこもり的」な態度と同じなんだよね。「なにかを主張しようとすれば必然的に誰かを傷付けたり傷付けられたりする」「だからなにもしない」。「宙ぶらりんに耐え続ける」限り、なにかを批判することは原理的に不可能なんじゃないかな。

 荻上   :個人的にはそれでいいと思ってる。僕は断然「語りえないことについては黙さなければならない」派だ。「宙ぶらりん」はなんとなくそう言ってれば賢そうに見えるしメタ的に優位に立てる便利な地点、ではなく、単なる事実だ。僕たちは「「真相」を知らないことにした方が倫理的に行動できる」のではなく「実際に「真相」を知らない」んだ。その状態でどちらの陣営であれ批判する方がどうかしていると思うよ。

 名倉   :ん? それはどうなのかな。その「どうかしている」「批判」をやってる陣営はあるんじゃない? だとしたらそのこと自体を批判するのは可能なのでは。

 荻上   :まぁそれはそうだね。同意。ただし、それもやっぱり神視点でしかないんじゃないかな。その「どうかしている」「批判」さえもまた、なにかやむにやまれぬ事情があって、なのかもしれない。あるいは、かなり素朴で疑いようのない方法で「真相」を知ってる人がいてもおかしくはない。知ってるということを他者に証明はできなくてもね。

 三三   :「知らない」ことに対してどう接するべきなのか? というのが鍵になりそうだな

 荻上   :要するに信と不信の問題だね。映画の中でも「信じるか信じないか」ということは何度か言及され、中心的なテーマの一つだと言えると思うけど、そのような問題が出てくる条件としてまず「知らない」ことが必要になってくる。ここで予め言っておくけど、僕はこの映画には「とんでもない失言」があったと断言する。それが僕にとってこの映画で一番重要なシーンだ。

 名倉   :そのシーンとは?

 荻上   :監督が佐村河内さんに「自分を信用しているか」と訊ね、佐村河内さんは「こんなに自分のことを信じてくれた人はいない、同じように自分も信じる」という風に応えたと思う。そこで監督は「でも、信じたふりをしたのかもしれない」と言う。撮影のために佐村河内さんを信じた「ふり」をしたのかもしれないと。佐村河内さんはすこし悲しそうな顔をして(と僕は感じた)「そのときは自分の責任です」と言った。僕はこれはとんでもない失言だと思う。ある種偽悪的にね。理由はあとで話す。

 三三   :ふむ、自信のある観点なのかな。ともかく、「信じる」ことをめぐる問題は重要なのは確かだろうし、これまでに出た論点も整理できると思う。つまり、「真相」不在の宙ぶらりんの状態とは「なにも信じられない」状態であり、こうした状態を肯定できるのが超人であり「なにもしない」ひきこもり、できない人はいずれかの決断主義に着地し、そして誰かを批判する。というところかな。



物語を求めてしまうこと


 名倉   :すこし足早に通り過ぎてしまった部分を振り返ってみよう。人は「なにも信じられない」「宙ぶらりん」な状態に耐えられない。これは言い換えれば、人はいつでも「物語」を捏造してしまう、という事でもある。

 犯罪をして捕まった人がいれば「元から悪い人だったからそうなった」としたり、天災を「神の仕業だ」としてみたり、古来から人は小さいものから大きいものまでいろんな物語を作ってきた。それは原因や因果関係がわかれば安心できるからだと思う。

 だけど厳密には因果関係は証明できない。よって物語は必ず飛躍を含む。

 例えば「ゴーストライター騒動」でも佐村河内さんがあのようなことをした理由などについていろんな物語が作られた。わかりやすい物語がより受け入れられるため、佐村河内さんを一方的な「悪」とするものが多かったと思う。そして人々はその物語を信じ、遠慮なく佐村河内さんを叩いた。

 こういう安易な二極化への恐れというか悲しみみたいなものがこの映画を通して表現されてるんだと思うけど、一方で、だからと言って例えば劇中で手ひどい裏切りを佐村河内さんに対して行ったフジテレビを「悪」として批判したり、新垣さんを批判したりするのも、それもまた別のわかりやすい「物語」を作ってるに過ぎない。

 さっき「~みたいなものがこの映画を通して表現されてるんだと思うけど」と言ったけど、これも結局は物語化だよね。

 三三   :ああ、それ言おうと思った

 名倉   :いちおう自覚はしてる。かくの如く、人は気がつけば物語化を行ってしまうし、というより物語化せずに思考すること自体が不可能なのかもしれない。すくなくとも物語化を全面的に禁止するのは現実的じゃないだろう。

 荻上   :だからこそ、複数の物語の並立が必要になる。

 名倉   :そういうことです。物語の絶滅じゃなくて物語の林立、それがさしあたって「わかりやすい物語」の寡占による集団化のおそろしさへの対抗手段になる。

 三三   :その意味でいうと『FAKE』において佐村河内さん側の「悲しみの物語」のみならず、奥さんとの「愛の物語」が立ち上がったのは素晴らしいと思うな。佐村河内さんを擁護する側の中でもこうした物語を提示できた人はいないんじゃないかしら。ドキュメンタリーにしかできないことを見事にやった、という感じだよね。で、そういう風に複数の物語が立ち上がってくると見え方も変わってくるし、安易に批判とかもできなくなる。

 名倉   :話は逸れるけど、物語という意味で面白いなと思ったシーンが森監督が佐村河内さんに「煙草やめます、この映画を撮り終わるまで」と言うところの猫の表情。煙草は、何度か佐村河内さんと森さんが休憩にベランダで吸ったりして、ふたりがリラックスして向き合える場を作るものとして重要だったわけだけど、これを断つというのは突き放すというか、とても重要な意味があるんだ。(これも物語化だね。)そのシーンで猫が映って「マジで?」みたいな表情してるんだよね、これはなにか大変なことが起きてるぞ、というような。それもまた物語化なわけだけど、私にはこれは意外だった。それまで猫は物語とは無縁に生きてる感じで、猫は物語の外部にあり、だからこそ(自分達が無限に責められる)物語に染まる社会に疲れた佐村河内夫妻にとっての救いになるのかな、と思ってたので、意外だったんだな。

 荻上   :あそこは会場で笑いが起こってたな。あのシーンに限らず、この映画ってちょっとなんか可笑しいシーンがあって、会場で笑いが起きるんだよね。あの感じは個人的に良かった。

 三三   :あ、そこちょっと思ったことがあるんすよね。



視点を撮る


 三三   :ときどき会場で笑いが起きるのもあって、おれの場合、映画の画面を見るというより、客席も含めた劇場を見る、という感じだったんだよね。

 それってつまり、映画を「撮られたものとして見る」ということだと思うんだよ。「それでもドキュメンタリーは嘘をつく」ならば、それってとても必要なことだよね。得てして映像というのは見る者を同期させるというか、「いま、見ているもの」としてあたかも「透明な視線」のように扱わせてしまうところがあるけど、そうすることによって「撮られたもの」「嘘をつくもの」であることを隠蔽してしまうんだよね。

 荻上   :それはかなりクリティカルな視点だね。「正義/悪」「真実/嘘」「真相/捏造」の安易な二極化は、まずそうした「公正さの捏造」とか隠蔽みたいなところから始まる。たとえばニュースとして報じられたことはすぐに「事実」として受け止めてしまう、科学的な用語や数字を多用されると本当っぽく思えてくる、みたいなね。

 三三   :そう。それを再度「撮られたものですよ」と教える意図がいくつかのシーンにあるんじゃないかと思ったね。例えばフジテレビの人が佐村河内さんに出演依頼に来るシーンなんかがあるわけだけど、そうした「依頼」のような裏側を見せることで、そのあとの番組放映シーンの見え方もまた変わってくるんだよね。司会のおぎやはぎの背後にあのプロデューサかな?とかの人の顔が浮かんでくる。ああ、これは作られ、撮られたものなんだなって。結局佐村河内さんは出演を断るんだけど、番組には代わりに新垣さんが出てきて、ものすごいバラエティ的なことをさせられてる、その様子をテレビで佐村河内さんが複雑な表情で見てるんだよね。

 名倉   :あのシーンは、うん……なんというか、うん、非常にくるものがあった。

 三三   :おれ、あの番組リアルタイムで見たかどうか忘れたけど、見たかもしれない。で、見てたとしたら絶対笑ったんだよね。すごい面白がって爆笑したと思う。でも、フジテレビの人が依頼に来たとき佐村河内さんに「絶対に笑いものにしません」と約束してたこととか知って、佐村河内さんが見てるのを見ながら見ると、やっぱ全然違って見えるというか――異化されるんだよね。

 荻上   :それも「別の物語」の効果だね。

 三三   :そう。異なる物語は異なる視点を作るんだよ。なにげなく見てたものとか笑ってたものが全然違う見え方をしてくるようになる。

 名倉   :同じような異化は、劇中のバラエティだけじゃなくてこの映画自体にも起こってる、というか意図的に起こされてると思うな。

 三三   :というと?

 名倉   :みんなも映画を見てから、この映画に対する評判とか考察とか批判とかいろいろ調べたと思うけど、いろいろ出てくるんだよね、不自然な、というか、隠してるんじゃないの? ここ、というようなとこが。で、そういうものを見ると、すっかり感動してしまったあの映画のあのシーンとかもやっぱり違って見えてくる。ああ、あの映画も「撮られたもの」なんだなって、やっぱり「なにかを隠してる」ものだし「嘘をつく」んだなって。そういう、視点を多重化させるようなとこが映画自体にも作用してると思う。

 荻上   :で、この対談もまた予め同一人物同士だと明かされることで「作られたもの」であることをあからさまに、視点を多重化させるわけですね。

 名倉   :そこまでできてるかは不明だけどね。



信じる とは?


 荻上   :物語が複数化され、視点が多重化されたあとでは、なにかをベタに「信じる」ことが容易でなくなる。こうして「宙ぶらりん」が実現されるわけだけど、そのあとの態度を各人に問うのがこの映画なんじゃないかと思ってる。

 三三   :もちろんそれもひとつの解釈、ひとつの視点、ひとつの物語に過ぎないわけだけどね。

 荻上   :もちろん。ただし少なくともこう解釈「することによって」、重要な問いを「出す」ことはできる、というのは言えると思う。それはすでにこの映画が「本当はなにを意味していたか?」に依存しない。この映画をある意味では「利用して」なにができるか、だ。

 名倉   :まぁ批評というのは大抵そういうものなのかもしれない。

 三三   :ここでようやくさっき言ってた失言の話が出てくるのかな?

 荻上   :うん。佐村河内さんは森監督を信じ、そしてもし森監督が佐村河内さんを騙してた場合は「そのときは自分の責任です」と言った。これがとんでもない失言だってことは、わかるよね?

 三三   :うん。かつて信じられ、そして(どの程度かはさておき)騙していたのは佐村河内さんだったわけだからね。佐村河内さんの発言を一般化すれば「信じて騙されたら、信じた側の責任」ということになるわけだけど、これをそのまま「ゴーストライター騒動」に当てはめれば、騙された責任は一般視聴者のほうにあった(つまり佐村河内さんに責任はない)ってことになるもんね。こりゃ問題だ。

 名倉   :一方で、「騙される方が悪い」というような言説は多少偽悪的にであれ、当時叩いてた側のネットにも普通に流れてるものであるところは、なかなか皮肉ではある。

 荻上   :かつて騙していた佐村河内さん。(映画の中で)いま騙しているかもしれない森監督。ほかにも騙している「かもしれない」人は何人かいる。ここで整合性をもって「信じる」とはなにか? その責任の所在を定義することは可能だろうか?

 名倉   :論理的にはいかようにも可能だろう。けど、そこに倫理的判断が加わるとなると途端に難しくなるね。

 荻上   :森監督自身が「騙しているかもしれない」側に立つことで、ある意味では佐村河内さんと疑似的な共犯関係を結んでると言えるのかもしれない。むしろ共犯関係の可能性と言えばいいかな。

 三三   :そしてこの映画自体にもまた罠が幾重にも仕掛けられている。この映画自体がおれたち見る者を騙しているのかもしれないし、また、普段誰かを騙しながら生きながらそこから目を逸らすおれたちの姿を映し出してるのかもしれない。この映画を見たあと、誰かに「どうだった?」と聞かれて、おれたちはどう答えるだろうか? どう応えられるだろうか? ここにはいやでも「ゴーストライター騒動」当時の自分の態度が意識されるし、またそれを取り上げたバラエティを見るときの自分の態度が意識されるし、なにより「誰にも言わないでください、衝撃のラスト12分間」というコピーが意識されることになる。

 名倉   :つまりそのコピーによって、視聴者もまた疑似的な共犯関係を結ばされることになると。

 三三   :穿ちすぎかもしれないけどね。

 荻上   :重要なのはそういった解釈が「ほんとう」かどうかでなく、そういう可能性がありつつ、可能性の位置に留まってることなんじゃないかな。

 名倉   :たしかに、可能性の位置に留まっているからこそ「信じる/信じない」という選択が可能になるわけだからね。

 三三   :その意味では、見る者を「宙ぶらりん」の位置に一度でも立たせることは、自分が「信じさせられた」のではなく「信じた」=信じないことも可能だった、という過去を再び現前させる効果があると言えるのかもしれない。

 名倉   :そのとき、責任の所在はどこにあるのか?

 荻上   :悪いのは騙した映画か、森監督か、それとも、信じた自分か? ということだね。




 名倉   :最後に、この映画に「宙ぶらりん」を与えられて、その後どのような態度を取るつもりなのか、それぞれの立場を聞いてみましょうか。まずは荻上さんから。

 荻上   :僕は態度としては映画を観る前から変わらないな。なにもしない。実際に誰が悪いのか、誰がなにをしたのかすら明らかじゃないこの状況で、誰かを傷付けうる言動をあえて選択するというのは僕から言わせればどうかしている。無論、そういうどうかしてる言動を選択する人はいくらでもいるし、仮にそこになにか如何ともしがたい事情がある可能性あったとしても、それが明らかでない限り批判はしたいと思うよ。批判に対する批判。そのスタンスはずっと変わらない。

 三三   :おれも誰かを傷付ける可能性がある言動は無理だな、少なくとも自分の行動としては選択できない。そもそも、なんのために批判するのかって話だよね。佐村河内は騙してた、悪い奴だ、だから傷付けるべきだ、って話ならまったく乗れない。どう考えてもヤバい思想だよそれは。本当にどうかしている。ただ、ほかになにか役にたつのだとすれば……いや、微妙だな、なんの役に立つとも思えない。再発防止とかは明らかに眉唾だし、そもそもそういうのは私刑じゃなくてちゃんとした法的な審議に委ねるべきだと思う。

 名倉   :なんだか、本来の目的は「一人の人間の中に多様な解釈と視点を確保する」だったのに、どれも似たり寄ったりな立場になりそうだな……。

 三三   :そういう自分は?

 名倉   :私もたいして変わらない。せめて言い方を変えるなら、ローティ的な態度と言えばいいかな。この映画はたしかに「宙ぶらりん」の決定不可能な地平にわたしたちを立たせる。もはやどんな積極的な行動も不可能なくらいにあらゆる選択肢・物語が相対化され、なにもベタに信じることはできない。そうした相対化は、自分の中でいくらだってすればいい。だけど現実の行動としては、やっぱり重要なのは、誰が傷付いて、誰が傷付かないか、じゃないか? 自分の思索の中でなにをいくら相対化しても、現実での行動を考える上では「残酷さこそ私たちがなしうる最悪のこと」だと考えるべきなんだと思う。そうすれば、しぜんと行動も決まってくるんじゃ――とは言ってはいけないな、しぜんな行動なんて無い、すべての行動は自分で選び取ったものだってことを忘れちゃいけないし、だから自分の行動の責任を他人に押し付けるわけにもいかない。そしてそれはそれとして、「残酷さこそ私たちがなしうる最悪のこと」である限り人を騙してもいけない。というところじゃないかな。ううん……どうだろう。

 荻上   :なんというか、非常に批評しにくい映画だね。これが批評になってるかはともかくとして、あたかも批評する者が絶えず映画に批評されてるかのような、そういう居心地の悪さを鑑賞後にまでひきずらせる、そんな映画だと思うよ。


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