『ズートピア』をあてはめられるものと、あてはめられないもの
遅ればせながら『ズートピア』を見てきた。
絶賛する声や、あるいは疑問視、違和感の表明などいくつかの感想をすでに見た状態で見に行ったのだが、私の率直な感想としては、楽しんだ。とてもよくできた映画だと思う。
と同時に既にみた疑問視や違和感の声にも頷くものは多い。とはいえ、基本的にはすでに出来上がった創作物に対してはポジティヴな評価を与えたい。これはこの作品に限らず私がなるべくならあらゆる創作物に対して貫きたいと思う姿勢だ。
とはいえそんなこととは関係なく、むしろ今回はこの作品『ズートピア』を道具として、ものさしとして使ってみたい。それ自体がものさしとして役に立つか否かという観点で。(以下、ネタバレがあるのでご注意を)
まずはこの作品に対してもっとも言われているであろう「人種差別」について考えてみよう。
多く言われているように「ズートピア」はアメリカを象徴していると見立てると非常にわかりやすい。「人種のサラダボウル」と形容されることのあるアメリカと、さまざまな動物たちのユートピア「ズートピア」は、自由や平等が理念とされながら、実際には社会の様々な場面で差別が残存していることも含めてとても近い。
物語としての『ズートピア』は大きく前半と後半に分けることができる。前半は主人公のジュディが田舎のバニーバロウからズートピアへと夢を抱きながらやってきて、「ウサギは小さくて弱い」という差別的な視線と戦いつつ肉食動物たちの失踪事件を追うパート、後半は失踪が野性化によるものだと判明することで肉食動物への恐怖が社会に蔓延し、図らずも差別的状況の引き金になってしまったことをジュディが苦悩し、克服し、最終的に事件を解決するパート、と分けることができるだろう。ここで前半と後半の明確な違いは「差別」に対する主人公ジュディの立ち位置だ。前半では差別の被害者であり、差別に対して抗する位置にある。後半は逆に差別の加害者という位置がすくなくとも「草食動物」全体に与えられていると言っていいだろう。
差別の被害者と加害者の両側面を見せ、かつその両方を主人公に体験させることで「誰でも差別の被害者にも加害者にもなりうる」ことを説得的に示す点が、まずこの作品の優れた点と言えるだろうが、ここで「人種差別」にあてはめることができるのは後半のパートだけだということに注目しよう。
前半の差別とは要するに能力における、もっと言えば体格における差別だ。ジュディは「ウサギは小さくて弱い」という偏見からひとり失踪事件の捜査メンバから外されて駐禁取り締まりを言い渡されるが、仮にジュディがウサギといいつつ筋骨隆々の巨大ウサギだったとすれば、周囲もそのような態度はとれなかっただろう。むろん、これは相対的な問題に過ぎない。『ズートピア』の世界では各動物の標準的な体型を大きく超えることはできないのかもしれないし(だとすればそれはそれでテーマ的に問題だという声もあろうが)、いずれにせよ特定の体系を手に入れるために必要とされる努力の量は種族ごとに異なる。そのような違いを「人種」の違いへとパラフレーズすることは部分的には可能だろう。
だがそのような視点は後半部分の差別へと目を転じるや否や、かなり難しくなる。後半の差別は「肉食動物」への差別であり、事実に基づかない極めて人工的な(そして社会的な)差別だ。主人公の相棒ニックは子供の頃、肉食動物だということで草食動物の子供たちから「口輪」をされるいじめを受けたトラウマを持つ。同様にジュディが失踪事件が肉食動物の野性化によるものだと公表することで、あたかも肉食動物たちのみがいつ野性化するかわからないかのような「恐怖」の目で見られる。
実際には野性化は肉食動物自身の資質によるものではなく、外部的要因(「夜の遠吠え」)によるものだということが判明する。また「夜の遠吠え」の影響で草食動物もまた野性化・凶暴化することが明らかにされる。つまり前半の差別は(実際には実現不可能かもしれないが)ある事実を突き付けること(例えば筋骨隆々になること)で覆せるが、後半の差別は肉食動物たち自身の努力だけでは覆せないのだ。後半の差別を覆すには物語のように野性化の真の原因を突き止めるか、さもなくば草食動物も野性化する実例を見せなければならない。この違いは後半の差別が「事実に基づかない」差別であることに起因する。
口輪をされたニックは、「夜の遠吠え」の影響でもない限り草食動物に襲いかかることは無い。ほかの肉食動物もそうだろう。あるとすれば草食動物と(あるいは現実世界の人間と)同様の社会的な諍いにおけるありふれた暴力だ。にもかかわらずそのことを証明することは極度に難しい。つまり「肉食動物は自然に凶暴化しない」ことの証明というのは、悪魔の証明に等しい。
人種差別における「いわれのない差別」の多くは後半の差別に似ている。それはいまここにある現実ではなく「もしかしたらそうなるかもしれない」仮想を対象とするために、ひどく覆しにくい。いろいろ意見もあろうが、個人的には後半の差別のほうがより深刻に映った。
例えば黒人差別を『ズートピア』を通して考えるとき、前半の価値基準で言えば黒色人種はおおまかに「屈強」という偏見を抱かれがちなのだから被害者側にはうまく該当しない。逆に後半の差別はその深刻さも含めて合致するように思われる。
では別の差別についても考えてみよう。
ひとつ、とても気になるのは物語の要所要所で登場するガゼルだ。彼女(?)についての面白い読解がネットで話題になっている。『ズートピア』の登場人物のガゼルには立派な角があるが、これはつまりガゼルがオスだということではないか? というものだ。ただし、現実世界のガゼルのメスに角があるかないかは種類によって異なり、彼女の身体の縞模様から推察される種類ではオスとメスの両方に角があるそうだ。とはいえ、わざとそのような「推測」を生むモチーフを選んだ可能性もあるし、一つの読解としての魅力は確かにある。
仮にガゼルがオスだったとすれば『ズートピア』はLGBTに対する差別の問題も射程に含んでいることになる。とはいえガゼル自身が差別的な視線に晒される描写は(すくなくとも私には)見られなかった。LGBTに対する差別がすでに解消されているかのような描写の仕方は、すくなくとも「ズートピア」をアメリカ(あるいは現実のどこか)のメタファーとして読むときには問題となろう。
またそれとは関係なくLGBTに対する差別についてのものさしとして『ズートピア』を利用できるか考えるとすると、例えばホモフォビアの問題は後半の差別に近い。そのような問題は事実に基づかない偏見を糧とすることが多いため、覆すのが非常に難しい。
次に男女間の差別について考えてみよう。
まず女性差別、とりわけ職業選択における女性差別については、前半パートがほとんどそのまま描写していると言っていいだろう。これまで後半の差別の深刻さのみ強調してきたが、この観点で見るとき前半の差別もまた現実世界に色濃く残り、決して軽視できない。(というよりむろん、ある差別とある差別の深刻さの比較など、するべきではない)
例えばまさに警察官や、あるいは自衛隊員や消防員など女性の比率が低い職業は多くあるだろうし、看護師や保育士など逆もあろう。ただし大学教員の割合や、普通の会社員の給与格差など、体格などの男女差に結びつかない側面での問題もある。これらはむしろ後半の差別に近そうだ。
そしてまた『ズートピア』において重要なのは、本編における男女比率だろう。主要キャラクターのうち明らかにメスとして描かれているキャラクターは主人公のジュディ、ジュディの母、警察学校の教官、ベルウェザー副市長、ミスター・ビッグの娘、そしてガゼルと少ない。少ない、と感じるのはもしかすると私だけかもしれないが、「明らかにメスとして描かれているのは」という点が重要だ。というのは、これはむしろ私自身の差別的意識の表れなのかもしれないが、特にメス(というか女性)として描かれない限り、オス(というか男性)に見えてしまうのだ。これは人間でない動物という、性別がわかりにくい、ある意味では無性的なキャラクターを通して描く『ズートピア』固有の問題だと言え、その価値を見定めるときに重要な一点だと思う。前述のガゼルに関する読解も、この点と結びついていると言えなくもない。
個人的に面白いと思ったのは、数少ない(と私が感じた)女性キャラクターの中に物語最大の黒幕であるベルウェザー副市長が入っていること、そして彼女が私には超過激派のフェミニストのメタファーに見えてしまったことだ。そう見えてしまったこと自体に私自身の問題があると言わざるを得ないが、この観点で見たとき『ズートピア』の前半と後半の見え方が変わってくる。
前半は女性差別を描いていると言えよう、そしてこのとき差別に立ち向かうジュディに対してベルウェザーは好意的かつ協力的だ。そして後半の差別は広く「フォビア」の問題と言える。ここで草食動物=女性と見るならば、後半の差別は男性に対する女性の恐怖から生まれていると言える。ベルウェザーはさしずめこの恐怖を意図的に煽る扇動者だ。これはこれまで(私の知る限り)あまり扱ってこられなかった題材だ。このような男性差別さえも扱っているのだとすれば、『ズートピア』の射程の広さと強力さは「子供向けにしては」どころの話ではない。
だが、この読解は圧倒的に間違っている。というより重大な欠陥がある。
『ズートピア』は男性の女性に対する視線とそれに対する女性側の恐怖、すなわち「まなざし」の問題についてのものさしとして利用できるか。答えは「ノー」だ。
『ズートピア』には差別や映画としてのアクションにおける暴力は描かれても、「欲望」に基づいた暴力はほとんど描かれない。これはディズニーゆえの特質とも、あるいは限界とも言えるだろう。まぁ言い方を変えればディズニーにそんなことを求めること自体、見当違いということでもある。
「ズートピア」の肉食動物は草食動物を捕食しない、食欲がわく描写もない。仮に先程の「まなざし」の問題にひき寄せれば、肉食動物たちはすでにある意味で「去勢」されたあとなのだ。では現実はどうか? 現実に男性は「去勢」されているとは言い難い。「ズートピア」の中とは違い、現実の男性は女性を欲望の「まなざし」で見ているし、だからこそ問題が起きている。この「欲望」の決定的な欠如により、『ズートピア』を「まなざし」の問題のものさしとして利用することはできない。そのことを『ズートピア』の欠陥とは言いたくないし、やはりそれはお門違いの要求というものだろう。私ならむしろ、『ズートピア』はそのようにして、ある意味では否定的に(「扱えない」ことにより)、「まなざし」の問題の特殊さを抉り出しているのだと言いたい。
だが、待ってほしい。男女差別や「まなざし」に関する考察をそこでやめてしまうには、あまりに魅力的なモチーフが残っている。ニックの「口輪」だ。
ニックは確かに「欲望」を持たない。ジュディを食べようとすることはない。しかし「口輪」だけを見れば、「去勢」のメタファーとして充分に機能するように見える。問題は、いや、『ズートピア』後半の問題は、言い換えれば「去勢されているのにそのことを疑われ、去勢されていることを証明できない」ことによる差別の生成だと言える。このこと自体はとても重要な問題だ。
ここで「去勢」という表現は明らかに不適切なので、あくまで議論の道筋としてたまたま出てきた(そして不要になった)言葉として忘れて頂きたい。ともかく、ここでは「アセクシュアル」の問題が扱える。
アセクシュアルに対する差別や、とりわけ無意識の暴力は、「証明できないことによる」ものであることが多い。つまり後半の差別と同形なのだ。
ここで奇しくも同じディズニーによる『アナと雪の女王』のエルサについて「女性の恋人を」という運動があったことが思い出される。あの運動が生じ、そして批判されることになったのは、エルサがアセクシュアルか、それともレズビアンなのか「証明できない」ことに起因している。とりわけエルサがアセクシュアルだったなら、レズビアンでないことを一体どのように積極的に証明できるだろうか? 本人による申告によるほかないと思われるし、仮に申告があったとしても食い下がることは可能だろう。そして現実のアセクシュアルが直面し、苦しめられるのはこのような「食い下がり」にほかならない。
「エルサに女性の恋人を」運動に対するディズニー側の解答がひそかに『ズートピア』には隠されていたのだ! ……とするのはいろんな側面から見てあまりにリアリティがないが、いち視聴者が自分で自分の中の問題として決着を付けるためには「あり」な選択肢の一つなのではないかと思われる。
さて、締めよう。
これまでいくつかの差別問題を例に出し、『ズートピア』をものさしとして扱えるかどうか見てきたが、こうした思考を通してわかったのは差別問題の多様さだ。
「差別」と一口に言っても、その内実はあまりに多岐にわたり、決していっしょくたに扱えない。そしてそのことに『ズートピア』はある程度自覚的であるように私には見える。だからこそひとりのウサギの女性が被害者にも、あるいは加害者にもなりうるのだ。
差別の問題に、安住の地は無いと言いたい。
「こうしておけば正しい」なんてものはない。「こうすれば誰も傷付けない」なんてものもない。絶対的な加害者も、ましてや絶対的な被害者もありえない。そのことは『ズートピア』における「ポリティカリーコレクトネス」な表現への挑戦(むろん、両面の意味での「挑戦」)を見てもわかる。この映画は誰も傷付けない極めて平和的なものか? 絶対に「ノー」だろう。
『ズートピア』も、ジュディも、エンディングに至っても決して「完璧」ではない。そのことは『ズートピア』に向けられる批判を見てもわかる。ただその「批判」こそ注意してほしい。それは「差別撤廃への漸近的な試み」であっても、「絶対的な正義」であってはならない。ある差別の解決が別の差別を生んだり、別の誰かを傷付けうる以上、「目指すべき究極に平等な一点」など存在しない。
いま自分が「被害者だ」と思ってる人も、もしかしたら別の側面では加害者かもしれない。その意識は常に重要だ。かといって、そのことは加害者が開き直る口実にしてはならない。どうしても傷付け合うからこそ、せめて互いの傷付きを最小化する努力が必要だ。
このような観点に立つとき、たしかに「ディストピア」に関する考察は有用ではあるけれど、それよりももっと「ユートピア」を考える必要があると思う。「ディストピア」を通した批判では決して得られないポジティブな、そして必要不可欠な効力が「ユートピア」に関する考察にはあると思うのだ。
なにより「ユートピア」について考えることが、その肯定を通しても批判を通しても、様々な考察に繋がりうることを『ズートピア』は示したとおもう。
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