アインシュタインとディアナ・アグロン、またはなぜ女性は女神になれるのか? そして男性蔑視について

 正直なところ、これをどんな顔をして書けばいいのかわからない。

 でも、ともかく書いてみよう。

 しかし、思う。私が女性だったなら。そうすれば苦もなく書けたのではないか。これはそういう話だ。



 最近「ポリティカル・コレクトネス」のことがずっと気になっているのは、いま書いている小説『異セカイ系』の第2章のテーマをそれにしようと思ってるからなのか、いや、おそらく因果が逆で、いまそのことに興味を持っているからこそ、そういうものを書こうと思うんだろう。

 どこから話を始めようか。いま私の頭の中にはさまざまな話題がトビウオのように飛び交っていて、つかみ損ねている。時間的な一本道にのせると途端にダメになってしまうような気がする。だから半分意図的に、半分どうしようもなく、話があっちへこっちへ錯綜すると思うので覚悟して欲しい。



 ではなにから始めようか。『アインシュタインよりディアナ・アグロン』にしよう。本当はもうちょっと違う切り口になるはずだったこの文章が、変形を余儀なくされたのも、この曲が話題になったからだ。

 秋元康作詞によるHKT48の新曲であるこの曲は、歌詞の内容が「女性蔑視」的であり、しかもタイトルにも出てきている「ディアナ・アグロン」を通して海外ドラマ『glee』に言及しているにもかかわらず、その言及の内容が実際の『glee』と大きく乖離している、という2点から主に批判されているようだ。

 まず後者について考えてみよう。この曲には「女の子は可愛ささえあればおバカでいい」というような意味の歌詞が何度か登場し、タイトルはどうもアインシュタイン=頭脳、ディアナ・アグロン=可愛さ、という対比らしい。そこで「ディアナ・アグロン(および彼女演じるクィン)は可愛さ(美しさ)と頭脳を兼ね備えた人物であり、「可愛ければおバカでいい」の例として挙げるのは不適当」とされるわけだ。この批判に関しては、ネット上で見た歌詞を見る限り、概ねいいと思うが、判断は微妙だ。というのは楽曲の歌詞とは概してそうだが、文章が単語や文節に分断され、それぞれの論理的なつながりが曖昧なため、解釈の幅が大きい。厳密には「そのようにも読める」といったところだろう。(別の解釈として、「可愛いけどおバカ」なのはディアナ・アグロン(あるいはクィン)本人ではなく、彼女のことが大好きな「語り手」(歌い手?)である、という解釈がありうる。この解釈はネットで見た歌詞を見る限り十分に可能だと思うが、とはいえ、わざわざ『glee』を出す必要があったのか? という部分についてはやはり疑問が残る※1

 おおまかに言えば、例えばある漫画作品を実写化したときに多くあるような、「原作のイメージの棄損」に対する反発に近い感情が批判を駆動しているのだと思う。(この、実写化による「原作イメージ棄損」の問題については別に思うところがあるので、いつか書くかもしれない)

 さて、では次に前者について考えてみよう。この曲の歌詞は「女性蔑視」的なのか? これもやはり解釈に大きく左右されるが、まず簡単には「そうだ」と言っていいだろう。ちょっとあまりにも前時代的過ぎるこの歌詞を擁護する気持ちには、個人的な感情としてもなれない。

 ただ一方で、ほぼ自動的に歌詞を深読みしてしまう自分もいる。この曲とそれに対する批判などを調べるうち「秋元康に思想はない、虚無だ」というような意見を見た。まさにそうなんだろうと思う。しかしこの歌詞の内容を秋元康が「考えていない」ならば、考えたのは一体誰なのか? 彼がCDを売るために一時的に内面化した「ファン」や「世の中」ではないか。そしてそこにはある「病理」が隠れていると思う。

 その「病理」を前提にすれば、次のようになる。この曲は「女性蔑視」的ではなく「男性蔑視」的なのであり、かつ、「女性差別」的なのだと。

 これは「崇拝」という差別であり、病理である。


 

 差別が崇拝を生むというのはいまさらな話だ。

 すぐに思い浮かぶのは浅田彰『構造と力』に登場する円錐の図形。原始的にはそれぞれ水平で平らな相互関係を結んでいた共同体は、単一のスケープゴート0を「全員一致で一人を殺す」ことによって水平の相互関係の垂直下方へ排出する。ここですべての構成員にとって平等で絶対的な距離を持つ0は、それゆえに、「全面的に通用する普遍的媒介」となり、「相互性の平面を貫いて地底から天上へ上昇」し、「最も高貴なる全能の《主》」となる。

 別の例でいえば京極夏彦『鉄鼠の檻』に出てくる鉄鼠の話を思い出す。高僧・頼豪が怒りのあまり僧衣を纏った鼠の怪異へと変じたエピソードは、頼豪属する寺門派と抗争を繰り返していた山門派の「不当な罪悪感」により看過され、ばかりか過剰に着色された。これはたぶん文化人類学における「ハウ」とか「マナ」に通じる話だと思うが、要するに、多大な贈与を受けたり、逆に加害を行った記憶は「うしろめたさ」「罪悪感」となり、心の中で次第に力を持つようになる。その結果として「むしろ自分が被害者なのだ」ということを捏造するために、過剰に対象を持ち上げ、崇拝する、というようなことは様々な場面において見受けられる。日本三大悪妖怪のひとつに数えられる崇徳上皇のように、「怨み」を抱いた怨霊の祟りを恐れて神として祀る例は少なくない。

 アイドルは、様々なルールに抑えつけられている。明らかに宣言されたものもあれば、暗黙のものもある。そして様々な視線に晒される。アイドルに限らず芸能人たちが纏うある種の「過剰さ」は、こうした視線の――つまり客体化の――結果なのだと思う。神は、すべての人間にとって「他者」であり、すべての人間にとって「客体」であるようなものだと言えるだろう。女性が男性アイドルに、男性が女性アイドルに惹かれることが多いのも、単に性欲や恋愛の問題だけでなく、異性こそが「他者」であり、その謎、その不可解こそがある種の超越性や神性を担保しているのではないだろうか。

 そして特に依然として男性型の社会である現在の社会では、専ら「他者」とは女性のことであり、だからこそ女性アイドルは「女神」となることができる。



 私はアイドルも哲学も、その他さまざまなことについて素人だ。とりわけ女性についてはよく知らない。だからこれまでの話も、これからの話も、話半分に読んで欲しい。


 

 アイドルと同じことが二次元についても言える。ということは、すでにアイドルを題材としたアニメが多数あることからも明らかと言えるだろう。二次元のキャラクターが超越性を持ちうるのは、現実の女性よりもさらに「他者」だから、とも言えるかもしれない。

 ところで、ここで気になるのは伊勢志摩の海女さんをモチーフとした萌えキャラクター「碧志摩 メグ」のポスターをめぐる騒動だ。ポスターに対する批判として「海女を侮辱している」というようなものがあったが、これは裏を返せば、一介の美少女キャラクターを通して「海女一般」やその身体のイメージにまでアクセス可能だということだ。同じようなことは例えば「おっぱい募金」に対する批判にもあった。ある特定の女性や女性キャラクターの表現は、「女性一般」へのアクセスを通して女性全体への暴力として働きうる、というタイプの言説はわりにあるように思う。

 ここには大きな問題がある。というのは女性の職業選択の自由に関わるからだ。ある女性がピンク産業に従事しようというとき、それが自身のみならず他の女性にまで及ぶ暴力性を孕みうるならば、彼女の職業選択はもはや彼女一人の責任の範疇を超えてしまうことになる。つまりは、ある女性差別の撤廃を目指した活動が結果として別の女性を抑圧する事態を招きかねない、というジレンマを生み出す。「性的暴力を描写した作品の販売禁止」を掲げた国連女子差別撤廃委員会に対し女性団体から反対意見が出た件など、こうしたジレンマの実例はすでに存在していると思われる。

 むろん「だから女性差別の撤廃は慎重に進めなければならない」と「だけ」言うならば、これは結果として問題解決の遅延しか生みそうにない。真に問題なのはジレンマそのものでなく、ジレンマが生まれるような構造ではないだろうか。そしてその構造を崩すことにまず着手するべきであるように思える。



 ある女性に対するイメージが女性全体、女性一般のイメージへと繋がるのは、女性が「他者」であり、「客体」であり、「見られる側」だとされているからだ。このことは決して必然的な帰結ではなく、現状社会が男性主体で動いてしまっているという偶然的な条件に支えられた偶然的な帰結であるように思う。つまり、だとすれば解消は可能なはずだ。

 例えば、よく知らないけれど、ある種の女性誌ではイケメン男性のヌードが特集されたり、それが表紙になることがあるらしい。それを私が見たとしても、そのイケメン男性の身体と自分の身体を繋げて考えることはまずないだろう。どこまでいっても他人事だ。そしてそれは、彼――イケメン男性――の方が「有徴」だからだろう。対して私は別段変わったところのない「無徴」。だからこそ彼と私は「違う」ことがわかる。そして男性主体の社会では、同様に女性全体が「有徴」となる。例えばトイレを示す標識では、「男性」が特に装飾のない人間の姿で示され、「女性」はスカートなどの「女性らしい」象徴を付与される。これは結局、男性が「主体」で女性が「客体」となってしまっている現在の女性差別的な状況の反映にほかならないだろう。

 「まなざし村」などで有名になった「まなざし」という言葉は多くの場合、「まなざされる」側が女性であることを暗に前提している。そして多分、その前提は多くのケースでは間違っていない。

 男性主体の社会では女性全体が「有徴」となり、「女性一般」にアクセス可能なアイコンが多数産出される。だからこそ、ある女性に対するイメージが女性全体のイメージへと拡大解釈されうる。この拡大解釈は男性のみならず女性にも可能(どころか、やりたくなくてもやってしまうこともある)ことから、男性主体の社会の価値観は女性にも一部内面化されてしまっていると見ていいと思う。すこしだけ『アインシュタインよりディアナ・アグロン』の話に戻れば、歌詞には「可愛くなきゃ」「愛されなきゃ」という客体的な、「見られる」側の欲望に埋め尽くされている。このことからタイトルを「見ることより見られること」と読み替えても大きく外してはいないかもしれない。(そしてそこまで深読みすれば、ディアナ・アグロン演じるクィンの「賢さ」もまた「見られること」を意識した結果の「賢さ」として解釈可能なのかもしれないが、なにぶん『glee』を見ていないのでなんとも言えない)



 ここですこし話を脇道に逸らしてみようと思う。

 未だ社会が男性主体の論理で動いてしまっていることはわかった。であればもし、その社会自体が閉塞感なり無力感なりを感じていたとしたら、それは「男性の無力」として我々の意識に顕現するように思われる。そして実際、そのような意識には多数心当たりがあるし、その反転にもやはり心当たりがある。つまり、「男性が無力」であり男性が不可能性を担うのだとすれば、あふれ出た可能性はどこに注がれるのか。当然「他者」である女性だ。

 『アナと雪の女王』『マッドマックス 怒りのデス・ロード』など女性が活躍する最近の創作物は枚挙にいとまがないが、これらは別段それほど新しい現象だとは思わない。というのは『灼眼のシャナ』や『涼宮ハルヒの憂鬱』など、女性キャラクターが「力」や「戦闘力」を持ち、男性キャラクター、とりわけ主人公は専ら「無力」の位置に徹するという構図は、いわゆる「セカイ系」の頃から想像力の中にあったからだ。

 つまり、女性が実際に力を持ったり、あるいは主体側に回ることとは別に、単に男性側が無力感を感じるということのみを原因として、その不可能性を可能とする超越性が女性側になかば押しつけられる、というようなことが起こりうる。

 そしてこのような見地に立って見たとき、『アインシュタインよりディアナ・アグロン』の見方は大きく変わってくることになる。



 もし仮に「アインシュタインよりディアナ・アグロン」ということが本気で言われているとしたら?

 もちろん秋元康はなにも本気で言ったりはしないだろう。だが彼の口(あるいは筆先)を借りたファンや世の中が本気で、皮肉でもなんでもなく「アインシュタインよりディアナ・アグロン」と思い、あるいは思いたがっているとすれば、どうだろうか?

 アインシュタインが象徴する頭脳、とりわけ科学は、男性的な原理で働いていると言われる。そして現代が「男性的な原理の不可能性」をまざまざと味わっている最中だとすれば。この不可能性を重しとして、シーソーの片側のように持ち上げられるのは、女性的な――したがって「見られる」ことを欲望する――ディアナ・アグロン的な「美しさ」ということになる※2

 こうなってくるとディアナ・アグロンやクィンが「賢くもある」ことに意味はない。というのは既に「美しく」それゆえ超越性を与えられた彼女らが「賢かった」ところで、その超越性は棄損されないからだ。(ここで「賢さ」がむしろマイナスに表現されていることに注意してほしい。ディアナ・アグロンやクィンの賢さが歌詞の中で言及されなかったことは、前言とは多少矛盾するが、彼女らの超越性を傷付けないためにこそ行われた操作であるのかもしれない)

 果たして現代において「賢さよりも可愛さが大事」だなんて本気で思えるものだろうか? 不可能だ。それは女性においても不可能だろう。だからこその今回の反発だと思う。しかし紛れもなく「不可能」であるからこそ、にもかかわらず賢くなるという現実的な(しかし同時に閉塞感漂う)価値観のオルタナティブとして可愛い「などという」価値観を真っ向から信じられる(像を提供する)彼女らは輝かしいのだ。

 彼女ら女神としてのアイドルの輝きは、ちっとも現実的じゃない不可能性をするっと言ってしまうことによって実現する、その奇跡にこそある。



 しかし当然ながら、女性は女神ではない。ただの人間だ。

 しかもその神性は、男性が無力であることの反転として、なかば押しつけられたものに過ぎない。当然その過剰な超越性を背負いきれなくなる者は出てくるだろう。

 例えば矢口真里やベッキーは、その一例だと思う。

 彼女らは女神でも完璧な人間でもない。私やあなたと同じ、ただの人間だ。

 その(かつての)輝きは、偽物でしかないし、偽物であるがゆえの輝きだった。

 「崇拝」はもはや対象への蔑視ではないにしても(それどころか、自己=男性への蔑視の反転だとしても)、同時に差別の結果だ。

 アイドルを差別にしないために、第一に解決すべき問題は「女性が有徴であること」だろう※3この問題を解決しない限り、たとえ女神となる代償に傷付くことを主体的に女性が選んでも、彼女以外の女性まで巻き添えを食らうことになってしまう。そして第二に解決すべきは、彼女らの輝きが偽物であることを知ったうえで「あえて」崇拝することだろう。これは具体的には、恋愛スキャンダルなどに騒がない、ということだ。彼女らは人間なんだから、そういうことはままあるし、個人的には特に悪でもないと思う。そして第三に解決すべきは、いい加減男性蔑視をやめること、だろう。少なくとも男性の不可能性を女性の可能性に置き換える操作は、いいこともあるのかもしれないが、リスクもまた大きい。しかもそのリスクは往々にして全員が背負うのではなく、偶然選ばれる特定の女性にすべて背負わされる。この構図はやはり好ましくない。

 以降ではそれぞれの問題の解決に有効かもしれない思いつきを挙げてみる。



・男性も「客体」「見られる側」にしてしまうこと

 ここで有効なのは、やはりBLではないだろうか。実は『アインシュタインよりディアナ・アグロン』が話題になる前は、「女性は元から「他者」であるため単一で女神になれるが、男性は複数人集まってようやく男神になれる」というようなことを書く予定だった。これはBLならずとも、男性アイドルに広く言えるような気がする。もっとも、女性アイドルも最近はグループがほとんどだし、いろいろと反例もあるような気はするが。

 ともかく、BLを通して男性をも「見られる側」にしてしまうのはわりに有効な気がする。



・「八百万の神」としてのアイドル

 なにも超越性を持つ者だけが神というわけでもない、という考え方もある。特にアイドルの数の増加に伴い、その資質や、アイドルになる条件も多様化し、ある側面ではハードルも低くなってきているのではないか。この状況をさらにラディカルに加速させ、すべての女性が(そしてすべての男性が?)瞬間瞬間に「アイドル」であることが可能であるような状況を作り出すことができれば、特定の誰かにリスクを集中的に負わせるいまの状況を変えられるかもしれない。また、自ら「アイドル」になってみることで、相手の気持ちがわかる、ということもあるだろう。



・象徴的男性の擁立

 現状、「この男性を汚せば、すべての男性が「自分も汚された」と思う」ような男性はいない。このような強力な象徴的男性をぶち上げれば、男性もすこしは女性の気持ちがわかるかもしれない。しかしそのような男性はいかにして可能だろうか……。



・共感性の強化

 結局のところ問題は共感性だ。共感がうまく機能しないからこそ「他者」となり、「客体」としてしか解釈できなくなる。

 たとえば男性が女性に共感できるようになるような契機として「女装」が考えられる。すこし安直ではあるが、ある程度効果は期待できそうだ。

 また、そこまでしなくても例えば「女性主人公の創作物を受容する」でもいいかもしれない。ただしその主人公が、男性の不可能性の裏面としての可能性・超越性を殊更に強調するものだと逆効果になる気がする。適度なダメさ、不可能性を持ったキャラにこそ人は共感するものだ。



 さて、いろいろ考えてみたがどうだろう。

 正直なところ、全体を通して、どのくらい有効な議論ができたのか、定かでないというのが実感だ。

 というよりやはり、書きにくい。

 なにしろ自分は女性ではなく、であってみれば、こんなことを書きつつも日常の中では女性差別の加害者として振る舞ってしまっているのかもしれない。誰かを傷付けているかもしれない。これまでの自分の言動や、これからの言動のなかに、ここに書いたことと矛盾したものがあるかもしれない。ないとは言い切れない。それに、ここに書いた事柄でさえ、無意識に女性差別的な内容を含んでしまっているかもしれない。ましてや、問題は女性差別だけでもない。男性蔑視的な視線は、もはや自分の中では否みようがない。

 書いている最中、いまも、うしろめたさがある。ほとんど正体不明の。それでいて明らかな。この文章は誰かを不快にさせたり、怒りを買うのではないか。そんな気がずっとしている。

 どんな顔をしてこれを出せばいいのかわからないが、かといって黙っているわけにもいかず、おずおずと、この文章をいま、公開してみる。














※1 それからさらに余計な話として、美しさと頭脳を兼ね備えた人物だからディアナ・アグロンを出すのが不適当ならば、アインシュタインだって「可愛い」のではなかろうか?


※2 ここには明らかな問題がある。というのは科学や論理が「男性的な原理」で働き、美しさや見られることが「女性的」であるとすること自体がやはり差別的だからだ。当然ながら私はこのことを肯定するつもりはなく、ただ「好ましくないが現にある現状」として認識している。


※3 余談だが、SF創作講座の第一回課題のボツ案として『梗概集:梗概無用』に掲載した『jog-less 梗概』の執筆に当たっては、まさにこのような意識を取り入れた。男性と女性をともに「無徴」あるいは「有徴」とするためには、第三者を(しかも傷付かない第三者を)用意するしかない。そこでAIをその位置に据えることを思い付いた。その意味でこの作品も(といっても梗概だが)、私のポリティカル・コレクトネスへの関心の支配下にあると言える。

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