これから忘れられる場所で、彼らはすでに忘れられていた

@okaeri_yokoso

これから忘れられる場所で、彼らはすでに忘れられていた

小学3年生だった。

春に父が、赤い外装の「ウォークマン」を買ってくれた。乾電池で動くポータブルカセットテーププレイヤーのそれに、父が録音してくれたC−C−Bや、中村雅俊、松任谷由実、長渕剛、ビートルズのテープを入れて繰り返し聴いていた。父が選んで与える音楽にはなんの一貫性もないが、それでも順番に繰り返し聴いていた。イヤホンの片耳は私の耳に、もう片耳は隣の家の1つ年下の女の子の耳に(須田幸子ちゃん、もし読んでたら連絡ください)。6畳の部屋でふたりでじっと向かい合って父の選んだ歌謡曲を聴いていた。だから、30年経った今もこれらの歌を私は完璧に歌える。

その年のこどもたちの話題のひとつは「つくば万博」だった。私は、万博を見に行くことができなかったが、その代わりに5万円や10万円の額面がついた記念硬貨を母が買ってきた。路線バスの運転手をしていた父は、会社のゲーム会の景品でもらったという、「EXPO’85」と記されたコップやタオルを持ち帰ってきた。

この頃は毎月のように家の中のモノが新しくなった。学習机は貰った古めかしい机を買い換えたし、団地時代から使っていた家具調のテレビも買い換えた。

毎週土曜日の夜は、駅のそばに出来たばかりのステーキハウス「いわたき」で家族で食事をするようになった。「ピザ」の出前を生まれて初めて取ったのもこの頃だ。

家にお金が急に回ってきているような、そんな実感があった。


三郷には駅前に「ニチイ」というさほど大きくもないが一通りのものが揃うショッピングセンターがあって、服はそこで母に買ってもらっていた。服が買える場所は市内では「ニチイ」ぐらいしかなかったので、同じクラスの子達が着ている服のテイストが皆似ていた。


クラスの中にはまだいじめもなかったし、給食は美味しかった。カレーとわかめご飯の日などはじゃんけんでおかわりの権利を争ったものだ。勉強もまださほど難しくなかった。

友達に対して複雑なものを抱えずに済んでいた私は、ひとりでいることが全く苦にならなかった。だから、学校帰りの道は、途中からいつもひとりを楽しんだ。友達と別れて遠回りをして帰る通学路は、新築住宅を建てるために田んぼを潰して盛り土をした空き地だらけで、見渡す限り自分以外誰もいなかった。

帰宅したら母が庭に面した4畳間でニッポン放送を聞きながら内職をしているはずだ。大好きな干し芋と、チチヤスのヨーグルトが冷蔵庫に入っているはず。歩くたびにスニーカーのソールがペタペタ、ランドセルの中の筆箱がコトコトと控えめに鳴る以外、何も聞こえない。しんとした空気は澄んでいて、さんさんとした太陽に照らされた服からは、日光の熱に当てられたあののどかなにおいが漂ってきた。時間が止まっているような感覚に、学校の行き帰りのあいだには何度も陥った。


私達は東京のことを「都会」と呼んでいた。

なかでも、3年生になって最初の連休に、私が小学校5年生の姉とふたりで武蔵野線から埼京線に乗り継ぎをして、池袋に住むいとこの家族のところに遊びに出かけたことはクラスの皆が知っていた。

子供だけで、武蔵浦和駅で埼京線に間違えずに乗り換えるのはかなりの注意力と勇気が要ったので、学校ではそこを強調して話した。

「映里ちゃんは都会に行ったんだってよ!」

この頃、埼玉がタモリによって「ダサイタマ」と呼ばれ、その呼称がひろまり始めていたのだが、そのことにコンプレックスを抱くほど東京を意識するような年齢でもなかった。


東京は「都会」、三郷は三郷。東京と三郷の相関性について思いを致すことはまだなかった。

映画館も、デパートも、大学も、ボウリング場もない、三郷という小さな町に、小学3年生の私たちは充足していた。

その年の2学期になると社会科の副教材で「わたしたちの埼玉県」みたいなタイトルがついた冊子を配られた。

郷土についてもう少し深い学習をするために与えられた教材だった。


私が入学した、「三郷市立前間小学校」は、1年生のときは2クラスしかないこじんまりとした新設校だった。1クラスの人数も20人程度だったと思う。

それが、どんどん増えて、6年生の時は4クラスになった。卒業間近になる頃は、文部省(当時)の決めた上限ギリギリの45人ぐらいが教室につめ込まれていた。校舎も増築された。

つまり、私達の学年では、最初の40人以外の140人の児童は、全員転校生、つまりよそ者なのだ。

私とて、父母は埼玉出身ではなく、秋田出身であり、満州生まれ宮城育ちだったりなので、入学時からの前間小学校のメンバーではあるが、埼玉人として親から受け継いでいるものは何もなかった。


他所から転入してきた子どもたちが大半だったから、埼玉に関する知識がほとんど無い子が多かった。副教材の「わたしたちの埼玉県」が配られたのは、ベッドタウンとして爆発的に人口が増えている埼玉県について、自分たちの住む町はどんなところなのかを勉強しよう、ということが狙いだったのかもしれない。

ところが、教材を開いてみても、この「わたしたちの埼玉県」には、三郷市が出てこないのだ。

埼玉の中でも、大宮、浦和、秩父、春日部、川越、蕨、川口、など有名な町とその街場の産業や観光スポットなどは出てくるのだが、三郷は素通りであった。

となり町の、吉川、八潮についても言及がない。

三郷には、東洋一の巨大団地(当時)である「みさと団地」、また首都高速のインターチェンジ、江戸川、などがあるが、それは教科書の副教材にのせるほどの「ネタ」ではなかったようだ。

それでも先生は、その副教材「わたしたちの埼玉県」をもとに授業を進めた。三郷が一切出てこない、「わたしたちの埼玉県」。一度も行ったことがない、川越や浦和、越谷や蕨について学ぶことは、テレビや漫画に出てきた「都会」について知ることとさほど変わりはなかった。どこか当事者意識の薄いまま、「わたしたちの埼玉県」について学び、学習到達度を筆記テストによって測られた結果、私は、郷土・埼玉についての知識を小学3年生なりに得たと判断されたようだった。


その数年後、私の家族は離散し、三郷を離れた。そして、三郷のことを私はしばらく忘れて暮らした。

その三郷を懐かしく思い返すようになったのは、2011年3月からの東日本大震災の取材をしたことがきっかけだ。

私が主な取材の拠点にしたのは、福島県双葉郡楢葉町であり、原発災害がきっかけで今では全国にも割合その名前が知られる町になったが、すぐ近くの大都市であるいわき市の人達に聞いても、「楢葉には行ったことがない」と言う人が結構多い。

もちろん、私はこの町の存在を震災が起こるまで全く知らなかった。

少なくとも江戸時代終わりごろからは先祖代々楢葉に住んでいるという、松本喜一さん(楢葉町山田浜・昭和24年生まれ)に「楢葉の名物とか出身の有名人っていますか?」と聞くと「うーん、第二原発とサッカーのJビレッジはあるけど……ほかにはねえなあ。天神岬はこの辺では有名だけど、いわきの人になるともう知らないだろうしな。有名人……、うーん、なんか、野草料理の本だかを書いて有名な料理研究家がいた気がするけど……忘れた」という答えが帰ってきた。日を変えて何度かおなじ質問をしたら、しまいには「楢葉の有名人? オレだオレ!」と言った。

その後、私は双葉郡の郷土史を2年かけてかなり綿密に調べることになるのだが、結論から言うと、楢葉町は、日本史上というか、福島県史上においても重要な場所だったことは有史以来一度もない。

高校教師が分担して書いたという『福島県の歴史散歩』(山川出版社)というガイドブックがあり、1970年代ごろから版を変えるごとに記述も改まっているのだが、各版を取り寄せてみても、双葉郡に関する記述はほんの数ページであり、例えば1977年版には楢葉町に関する記述はゼロである。

ああ、ここは三郷に似てるんだな、と私はその時なんとなくこの町の在りようを理解した。

私は双葉郡に自分の育った三郷をどこかで重ねてみていたような気がする。

歴史から素通りされた町。

話題にのぼらない町。

土地の人間でさえ思い入れのない町。

そういう町に、突然原発が来たのだ。



富岡町は、楢葉の北隣りにあり、商店が多く存在していたので、楢葉の人間は皆すこしいいものを買おうという日には富岡に出かけた。富岡町は夜の森の桜が有名だが、私はこのはっきり言って東日本でもっとも素晴らしい桜並木の存在を、震災がなければ知ることはなかっただろうと思う。

富岡も、楢葉に負けず劣らず、中央の歴史には書かれない「空白の町」なのだが、細かく地図を見ていくと、この町には「日本で一番小さな灯台」があるらしいと知った。それを知ったのは2011年秋のことだ。

「小良ケ浜灯台」という。

この灯台は、第一原発と、第二原発のちょうど中間に位置していて、地図の感じからすると、断崖絶壁の入り組んだ海岸がちょうど乳首のように出っ張っている場所に建っている。

地図を見ていての推測でしかなかったが、多分、2つの原発を同じ場所から同時に見ることができる唯一の場所に思えた。

その秋に私は富岡町の北隣にある大熊町の住民・吉田邦吉さんと知り合った。

彼は警戒区域(当時)の通行証を取ることができる双葉郡の住民なので、私は彼に何度か同行して、双葉郡の様子を見せてもらっていた。

「こんな事故が起きて大変なときに、ヘンな頼みで悪いのだけど、小良ヶ浜灯台を見たいので、案内してもらえない?」と頼んだ。すると彼は「小良ケ浜の灯台……、行ったことないです」と言った。

ちなみに言うと彼、吉田くんは震災後作家になった。双葉郡の語り部として取材をして書いている。知り合った時にはすでにかなりの歴ヲタであり、なかでも戊辰戦争に関する知識は20代(当時)の若者としては突出したものがあった。また学習塾を経営して子どもたちにも教えていたので、双葉郡のことは彼自身が子供に対して社会科の授業などをする立場であり、普通の双葉郡の人間よりは細かく知っていたはずだ。その彼でも、小良ケ浜灯台の場所がわからないという。

2011年の11月、雨の日、私は吉田くんの運転する車で小良ヶ浜を目指した。すぐ近くまでは来ているはずなのだが、灯台に入るための東に折れる道が見つからない。携帯の電波は圏外、道は陥没して脱輪の危険がある。しかも雨である。ここで遭難すると吉田くんに迷惑がかかるので、私は小良ケ浜灯台を諦めて、引き返した。


灯台にたどり着くことができたのは、翌2012年の5月のことだった。灯台に至る道は廃道のようになっていて、かなり注意深く見なければ見落として当然のような佇まいだった。しかもある地点からは車から降りて徒歩で進まなければならない。

生え放題の背の高い草をかき分けて進む。10分近く歩いても、たどり着かないので、不安を覚えた。ふと、目を落とすと、牛が死んで白骨化していた。


灯台の立つ場所からは、たしかに、第一原発と、第二原発を肉眼で確認することができた。

だがここで私が、心を奪われたのはこの灯台ではなかった。

灯台の裏手にひっそり佇んでいたちいさな「鎮魂碑」を私は見つけたのだ。

雑草に埋もれたこの鎮魂碑に近づいて、説明書きを読んだ。

太平洋戦争のさなかである昭和18年(1943年)、玉砕したアッツ島から一機の飛行機が横浜の海軍航空隊の基地に帰還する途中、濃霧によって視界を失い、この海岸の絶壁に激突した。乗組員15人全員が死亡した。

石碑には乗組員の名前が併記されていた。

死んだのは富岡町とは縁もゆかりもない人たちだが、遺族と富岡町の人たちの心尽くしにより、鎮魂碑は1993年にこの地に建立された。

除幕式の日のことを、県紙の「民報」「民友」の2紙で小さく報じられているのを後日私は見つけた。だが、鎮魂碑のことが公に記録されたのはそれっきりだろうと思う。

関係者しか知らない「鎮魂碑」。だがここでは戦争という災禍に巻き込まれた15人が命を落としている。これは事実なのだ。


石は紙よりも強固なメディアだ。日焼けや酸化などの劣化に強く、火にも水にも強い。だから、石に文字を刻むということは、紙に文字を刻むよりも「残したい」という強力な気持ちがあるのだろう。ここで死んだ15人をできるだけ長く記憶してほしいから、こういうふうに石に刻んだのだろう。しかし、その石の存在そのものが忘れられてしまったら、刻まれた文字に思いを致す人がいなくなってしまったらどうだろう。

この、もう立ち入ることが許されない「警戒区域(当時/現・帰還困難区域)」には、忘れられた15人がいまだに取り残されているのだ。


今日、新御茶ノ水駅近くで用事を済ませて、神田川べりにある定食屋で食事を摂った。

定食屋の窓からは聖橋が見える。

聖橋のアーチを見た時にふと記憶が25年前にフラッシュバックした。小学6年生の冬、私は父の車で「都会」に来ていた。中学受験を目前に控えた、進学塾の模擬テストのためだ。

車を停めた場所から受験会場に向かう途中、私たちはふたりで聖橋の上を歩いた。耳にはやはりウォークマンをしていて、それは父から買ってもらった2台めだった。オートリバース機能と録音機能が付いている豪華版で、色は黒だ。

この頃にはビートルズのジョン・レノンが殺されてもうこの世にはいないことを私は知っていた。そして、父が家にほとんど帰ってこなくなっていたことを私は気にしていた。

そして三郷は、この時期に知名度が一瞬全国区になった。『コンクリート殺人事件』と呼ばれている少年犯罪の犠牲になり、1ヶ月以上にも及ぶ監禁リンチの果てに殺された被害者の女の子が生前暮らしていたことで、連日報道されたからだ。死んだ高校3年生の女の子の住まいは、同じ三郷でも私が住む場所とは離れていたが、それでも男たちに拉致された日のことなどがうわさで流れてきた。そして、となり町の吉川高校では校舎のトイレで刺殺事件が起こった。

中学二年生になっていた姉と同じ学年だった向かいの家の女の子は、ヤンキーの先輩に八潮に拉致されてリンチされたことがきっかけで、誰にも告げずに引っ越していなくなった。

なにか、幸せな時代が終わろうとしているということを私はうっすら感じ取っていた。

「あ、電池がきれた」

と、小学校6年生の私は言った。

「パパ、電池ある?」

「駅のキオスクで買おう。映里、ちょっと電池貸してみな」

と父は言って、私に使いきった電池をウォークマンから出させた。

電池を受け取った父は私を抱き上げて、聖橋の欄干から、神田川の川面が見えるようにしてくれた。

父は電池をひとつ、橋の上から神田川に落とした。

単3の乾電池は、緑色をした神田川の水面に音もなく吸い込まれていった。

「映里もやるか?」

と聞かれたので私はうなずいた。

私は、乾電池をひとつ、またひとつ、橋から落としていった。

今日、聖橋を見ながら定食を食べている私は、あのころに毎日会っていた友達の消息を誰ひとりとして知らない。

母は死に、父は新しい家庭を持ち、私は三郷を離れ、「都会」のまんなかでひとりで暮らしている。

あの日の橋の上の私たちを記憶している人は誰もいない。

電池は川底に沈んだままだろうか?

100年後、今この定食屋にいる人の存在は全員、子孫からも忘れられているだろう。だからきっと、変わらないのはこの川だけだな、なんて思いながら、ひとりの昼食を済ませた。

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