五日目

 ぼくは今、人生においてもっとも貴重な体験をしている。落ち着いてみたら、そう思えるようになった。

 昨日、泊まった部屋とは大違いに、ここには窓というものがない。きっと、これなら女盗賊も入って来られないだろう。

 天井も床も壁も、ごつごつした石を積み上げて作ってある。入り口は、鉄の扉だ。

 部屋はごく狭く、小さな木の台しかない。気のせいでなければ、たぶん、これが寝台だ。

 鉄の扉が格子状なおかげで、どこかにある灯りが少しだけ漏れてくる。

 知識の谷だからなのか、何なのか、頼んでみたら紙と筆記具が支給された。だから、忘れないうちに、今日の出来事を記しておこうと思う。


 少なくとも、部屋でぼんやりしているよりは、その辺りを歩き回っていた方が、ティナに捕まる確率が低いだろうとぼくは判断した。窓が直った後、昨晩、ひどい目に遭う前に考えていたとおり、市場へ出かけることにしたのだ。

 念のため、耳まで隠れる帽子を被り、襟巻きで口を覆った。寒いからじゃない。ティナの言ったことが本当なら、あまり顔をさらして歩くのは賢明ではない。もっとも、直接、顔を知っているのは親類だけで、ぼくの顔はいたって平凡、目立つ要素はどこにもないからーーまあ、念のためだ。

 宿の者に場所を聞いて、外へ出る。町を散策するのにダヴィウォアは邪魔な気がしたので、久しぶりに歩くことにした。

 彼らの話によれば、ここは宿屋の集まる地区の端にあるという。ぼくが通ってきた騒がしい道に比べると静かで立地がいいのだそうだ。あの道を南下した先が、市場になっているとのことだった。

 昨夕も通ったはずなのだが、記憶にない。ひたすらに人がひしめき合い、騒いでいた印象しかないからだ。

 朝の町も、十二分に騒がしかった。夜とは違い、慌ただしさが際だつ。人は声高に何かを主張し、店の前につけられた荷車からは、次々に荷が降ろされていた。ぼくがいとこの横暴につきあっている間も、彼らは働いていたはずだ。それなのに、またこうして朝が来て、新しい一日を始めるのだ。

 我が国にも、小さいながら旅人を迎える宿町があって、幾度か家族につれられて足を運んだことがある。二番目の兄がそのそばで働いているからだ。

 朝早く目が覚めて、こうして働く人々の姿を眺めていたのを思い出す。彼らはいつも勤勉で、努力を怠らない。

 夜中に人の寝室に乱入する輩とは、天と地の差だ。まあ、建物の四階に忍び込めるというのも、すごいことかもしれないが。しかし、どうやって入ってきたのだろう。少なくとも、ぼくが知っているティナは空を飛ぶ乗り物は持っていなかったと思う。

 まあ、夜の名残か、道ばたの椅子で寝こけている旅人もいた。彼の前には、空になった瓶が転がっている。こんなところで寝ていて、物を盗まれたりはしないのだろうか。

 そう思ってみていたら、近くの店から出てきた男が旅人に近付いて、肩を揺すり始めた。呆れたように起きるよう言っているのが聞こえる。

 ぼくは、ほほえましく思いながら、その横を通り過ぎようとしていた。

 どさり、と音がして、ぼくは足を止めた。

 ほかにもそれを見ていた人がいたのだろう、一拍おいて、甲高い悲鳴が響いた。

 旅人を揺すっていた男は、呆然として自らの手と足下を見比べている。

 朝の喧噪は一気に様相を変えた。

 これも、今だから言えるのかもしれないが、ぼくはなぜか、至って冷静にそれを見ていた。もちろん、人が死ぬところなんて見たことはない。逆に、そのせいでどう反応していいのか分からなかったのかもしれない。

 ただ、大変だなあ、と思っていたのだ。

 何より、彼らには決まった生活がある。こういう場合、彼らの仕事はどうなってしまうのだろう。それにーー旅に出るというのは、何とも奇妙な体験だ。いとこは窓から乱入するし、道ばたで人は死んでいるし。

 実際、こんなにいろいろと書くことがあるとは思わなかった。思えばまだ、少しも旅らしい場面が出てこない。移動はたいてい急いでいたし、今、これから町を見て回るところだったのだ。

 どうしようか、とぼくは思案した。

 そうする間に、人垣は膨れていく。

 倒れた旅人はもちろん、ぴくりとも動かなかった。口のはしに、涎のようなものがこびりついている。今にして見れば、指の先は赤紫とも赤黒いとも言えない、奇妙な色に変わっていた。

 人垣の向こうからさらに騒々しい足音が聞こえた。そちらを向いて、ぼくは不思議なことに気が付いた。

 人垣は、ぼくと、旅人と、揺すっていた男の周りにできている。なんだかおかしいぞ、と気が付いたときには、人垣が割れて、偉そうな服を着た幾人もの男が小走りに到着したところだった。

「こちらです」

「見りゃわかる」

 先頭の男は、振り返って後ろにいたもっと偉そうな男と入れ替わった。

「ふうん。お前が見つけたのか」

 もっと偉そうな男は、揺すっていた男に言った。かしこまって、揺すっていた男がはい、と答える。

「こいつが、いつまでたっても寝てるって、皆が言うんで、いい加減、起こしてやろうと思いまして・・・・・・」

 揺すったときの感触を思い出したのか、彼はびくりと手のひらを握った。いや、まさか、と言いながら、額を拭う。

「し・・・・・・し、し、死んで・・・・・・る、なん、て・・・・・・」

 声を震わせる彼に、もっと偉そうな男は、何がどうなのか、頷いた。

「お前のところの客か」

「い、いえ・・・・・・いや、分かりませんよ、この町の客だって、そんなもんでしょうよ」

 もっと偉そうな男が尋ねている間に、彼に従ってきた男たちは、倒れている男や、机やその上の瓶やなんかをじろじろと眺め回し始めた。あれこれ触ってはお互いに話し合い、頷きあっている。一人、そんな彼らの横で、せっせと帳面に何かを書きとっている者もいた。

「この酒は、どこの店で出したものだ」

 震えていた男は肩をすくめて、近くにいた人々を振り返った。皆、同じように困った表情を浮かべている。

「どこって・・・・・・それだって同じですよ、どこの店でだって出してますから・・・・・・」

 そうか、ともっと偉そうな男は別段どうということもなさげに頷いた。そんなことはとっくに分かっていたのに、とりあえず聞いてみた、という感じだった。

「ところで」

 と、彼が突然、こちらを向いた。

「お前は何者だ」

 ぼくは面食らった。ただの旅人である。そう答えようとして、大変、まずいことに気が付いた。迂闊だった。なぜぼくは、ぼんやりと、この現場に突っ立っていたのだろう!

 ぼくはヴィアパーンのことを正確には知らない。いとこがいて隣国なのにおかしいじゃないかと、いい加減思っているかもしれないが、所詮、そんな程度なのだ。何しろ、ぼくの方からヴィアパーンに来るのはこれが初めてだ。

 だけれどもーーぼくの嫌な予感が当たっているとすれば、この者たちは、騎士と呼ばれる階級にあたるはずだ。この偉そうな服が物語っている。馬に乗って登場したわけではないが、彼らがいつでも騎乗しているわけではないことはぼくだって知っている。

 おそらく、都の治安を預かってる部隊といったところではないだろうか。

 考えてもみてほしい。

 いや、考えてほしかったのは、ちょっと前のぼくだ!

 何者かって?

 あんたの国に手配書が回っている哀れな旅人だよ!

 ぼくは回れ右をして、逃げようかと思った。だって、捕まったら最後だ。しかし、悲しいことに、ぼくは走るという行為にいささか通常の人間よりも不安を抱えている。もうお察しのこととは思うが。

「答えられないのか」

 ぼやぼやと考えるのがぼくの悪い癖で、もちろんこの間に、騎士の偉い男は、ぼくの目の前に立っていた。数歩の距離なんだから、まあ、当たり前だ。

 いやその、とぼくはもごもご言って、初めて男の顔を見上げた。騎士なだけあって、ぼくよりも頭一つ分は高い。

 そして首をあげたままーーぽかんと口を開けてしまった。

「リュカ・・・・・・? 何してるの・・・・・・?」

 これが、とてつもなく愚か者のぼくの最大の失言だったのだが、相手は輪をかけて愚かでいてくれた。

「慣れなれしい口を利くな。わたしはお前のような怪しい人物とは知り合いではない。答える気がないのなら、連行する」

 全く場違いに、ぼくは、「いや、君の妹が昨日大変に怪しい格好でぼくの窓から飛び込んできましたよ」と教えてあげそうになった。

 そして、ようやくーーぼくは気が付いた。ティナに見つからないように装ったこの帽子と襟巻きのせいだ! だから、リュカは、ぼくだって分からないんだ!

 しかし、ぼくだって分かってしまったら、どうしたらいいんだ!

 そうこうする間に、ぼくは反論の余地なく、男たちにがっしりと両腕を捕まれた。一つ言わせてもらえるなら、そんなにがっしり持たなくっても、ぼくは逃げたりしない。いや、逃げられないからご心配なく。


 こうして、ぼくはこの薄ら寒い部屋にいるというわけだ。身元を証明するものを全く持っていなかったことと、ぼくの取り調べをリュカが直接行わなかったことで、事態はややこしくなった。

 ぼくが何者か分からず、こうしてとらえておくことになったのだ。どうやら、皆はリュカの判断に逆らうことができないらしい。まあ、そうだろうな。

 とりあえず、ぼくは何の関係もない旅人で、現場に居合わせただけだと主張した。にもかかわらず、自分が何者かは言えないのだから、始末が悪い。

 不本意ではあるが、これも一つの経験と思って、こうしてここにいる。結果的に、別の意味で捕まって敵の手中にいることは否めない。


 とはいえーーなんだってリュカは騎士なんてやっているんだろう。あの兄妹、どうしちゃったんだ。兄が騎士で妹が盗賊なんて、笑えないじゃないか。捕まえちゃったらどうするんだ。国家の恥だぞ。

 それにしても、ここは寒い。

 上着も帽子も襟巻きもはぎ取られてしまったし、木の台には布団なんて乗っていない。だけど、がんばるしかない。

 少なくとも、リュカがやってくるまで、身元はばれないはずだ。いくらヴィアパーンの都の騎士だとしても、分からないだろう。

 ぼくの持ち得る力でここを逃げることができるとすれば、リュカに正当にぼくであると堂々と告げて、出してもらうことだけだ。

 ただし、その場合、ぼくは家に連れ戻されてしまう危険性がある。しかし、その辺はうまく切り抜けられるだろう。だって、リュカの妹であるところのティナは、盗賊をやっているのだから。さすがの兄も、世間にそんなことを露呈させたくはないだろう。

 そうであってほしい。


 何か、向こうの方で物音がする。誰かが入ってきたようだ。無事にぼくの旅が続けられることを祈って、今日はここまでにする。

 いや、すでに全く無事とは言い難いとしても。

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ダヴィウォア紀行 @fw_no104

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