第20話 引越し
その日、ノラは大荷物を抱えて一ヶ月過ごしたホテルから、上町の大通りを一本外れた路地にあるアパートの一室に引っ越した。
王都の屋敷を出るとき、荷物の選別をして大正解だった。おかげで引越しが楽々に終わり、少し速めに昼食を取ろうかと考えた。
午後からは領主モーリスの元を訪れる予定になっている。
せめて机の上に無造作に積んである本だけは片付けてしまおうと手を付けると、手紙が一枚床に舞った。
その手紙にはアカデミーの紋章が刻まれ、つい先日までノラが纏っていた黒いローブにも同じものが刻まれていた。
その手紙には「卒業試験不合格」とデカデカと書かれていた。
あのニーリルグールの次の日、ノラはアカデミーに向けて速達で報告書を送った。ノラの手紙だけでは信用に足らないかもしれないとモーリスも忙しい中一筆したためてくれたのだ。
しかし、アカデミーからの返事はこれ。
ノラは今年もアカデミーを卒業できなかったのだ。
と、言うのもノラがあのときくじでひいた課題は「魔獣ノーグルの討伐」であり、ノラが実際になしたのは「魔獣ノーグルの浄化」だった。だからアカデミーは試験の合格を認めなかった、というわけである。
つまり、アカデミーの試験に合格するには精霊であった魔獣を殺さなければならなかったようだ。世界の摂理の一部である精霊を殺すなんてとても人間にできることではない。だからノラは結局卒業できなかったのである。
アカデミーの横暴な理論に呆れはしたものの、卒業できないことへの絶望は全くなかった。
と、いうのも、結局ノラは魔術師になれたのだ。
魔術師になるには二つ方法がある。王立魔術師養成アカデミーを卒業するか、どこかの貴族に魔術師として雇って貰うか、だ。
ノラは後者の方法を経た。
と、言うのもノラが報告書をアカデミーに送るとき、モーリスが一筆したためた。そのためにアカデミーの不合格通知がそちらにも届いたのだ。モーリスはノラにこれからどうするのかと尋ねると、ノラはそのとき初めて自分の家の事情を話したのだ。
アカデミーを卒業できないとなった今、実家にも帰れない。
それを聞いたモーリスがなら、コーラスメラで魔術師をすればいいと言ってくれたのだ。
ノラは今や見習い魔術師ではない。精霊と名を交わし、偉大な魔法の祖と肩を並べる存在なのだ。そんなのをおいそれと王都に帰すわけにはいかないと思ったのだろう。
ノラも精霊と名を交わしたとはアカデミーには告げていない。さすがに信じてもらえないと思ったからだ。いや、そもそも魔獣が精霊だったということも本当は信じてもらえていないのかもしれない。
精霊とはそれぐらい人と関わることのない存在なのだから。
別に信じてもらえなくても構わなかった。ノラにとってアカデミーはもうどうでもいい場所だったからだ。
「ノラ、いるかい?」
アパートの戸口にミザリーが顔を出した。
あれからすっかり仲良くなり、一緒にお茶をすることも良くある。
「いるよ。どうしたの?」
「ああ。一緒にお昼をどうかと思ってね。まだだろ?」
「これから行こうと思っていたの」
「なら丁度良かったって訳だ」
ノラは部屋の隅に引っ掛けておいた黒いローブを羽織る。
そのローブは魔術師を示す黒いローブであったが、丈は以前よりずっと短く、腰までしかない。王都では裾が長くても問題はなかったが、コーラスメラでは自分の足で動くことも多いので、裾が邪魔になってしまうのだ。だからあえて短くして貰った。
そして、自分の所属を示す紋章はコーラスメラ領主家の紋となっている。
そしてこの紋には二つの意味があった。
一つはコーラスメラ領主家の魔術師であることと。
そしてもう一つは、領主家の縁者であることを示していた。
ノラはアカデミーを卒業できなかったので、魔術師の名門ダノッサ家を勘当されてしまった。だからもう、ダノッサを名乗れない。
だからモーリスはならばうちの縁者となればいいと新たな姓を与えてくれたのだ。
本当にモーリスには頭が上がらない。
彼も精霊持ちをなんとしても手放したくないのだろうけれど。
「どこに行く?」
コーラスメラにはいくつもの食堂がある。最近の楽しみはその食堂を回ることだった。意外にここの料理はノラの舌に合っていたのだ。
「レダ飯店はどうだい?」
「いいわね。行こう」
二人は連れ立って部屋を後にした。
これからノラはやることがたくさんあった。
もうじき種まきの季節となる。種がまかれた畑に精霊がかつて行っていた実りの風を吹かせるのだ。それもコーラスメラの畑全てに。そして、他には魔獣によって亡くなってしまった人への追悼も行わなければならない。これは精霊アルファーンもやりたがっていた。
精霊にとって人間はあまりに脆く、拙く、小さな存在であるが、だからこそアルファーンは人を愛し、その死に心を痛めたのだ。
ノーグル村にももう一度足を運び、再びソルロの花を摘んでこないといけない。各家の戸口に飾ったり、花が枯れたら種ができる。採取して、他のところにも花を植えようと考えていた。
ああそうだ。後はモーリスから月一でセイトリームを狩ることを命じられていたのだ。
もしかしたら美味セイトリームのためにノラを手に入れようとしたのではないかと疑っていた。別に鳥一羽で身元を保証してくれるなら安いものだけれど。
ノラは抜けるように青い空を見上げ、柔らかな温かい風を頬に受ける。風は城壁の向こうで咲き誇る花々の香りを届けた。
「風が気持ちいいねぇ」
ミザリーが気持ちよさげに体を伸ばした。
「そうね。これから忙しくなるわ」
「そうだよ、頑張りなよ。魔術師さん」
ミザリーはニヤリと笑う。
ノラも笑顔を返し、頷いた。
魔獣と見習い魔術師 アイボリー @ivory0126
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