第19話 対話
ノラは水の中に倒れこんだはずだ。
それは間違いないはずなのに、自分はなぜか何もない空間に一人たたずんでいた。辺りは白が一色。壁も天井も何もなく、ただノラはたたずんでいた。
一瞬死んでしまったのかと思ったが、それだけはないとすぐに根拠のない自信が考えを振り払う。
『感謝をしよう、元素を手繰る者よ』
ノラの目の前に一人の精悍な顔つきの青年が現れた。
琥珀色の肌を惜しみなくさらけ出し、全身が立派に引き締まっている。体中いたるところを霞で覆っているが、衣服を纏っている様子はない。それでも、彼に対する不快感や恥じらいを感じなかった。
彼が人の形をしているが、人間ではないと本能的に察知していたのだ。
ノラはその人をどこかで見かけたことがあった。
記憶をさらってみると、思い出す。巫女の社にあった壁画だ。
『精霊様、ですね?』
その人、精霊はいかにも、と頷いた。
ノラは意識せず古代語を話していた。読み書きに辞書は必要で、自在に話すのはとても無理な話であったはずだが、今この瞬間、確かに古代語で話している。しかし、言葉に困っていない。
不思議だったが、ノラはすんなりと受け入れられた。
『我を狂わせていた穢れは払われ、我は清められた。そうして我はようやく我を取り戻すことができたのだ』
彼の言葉は、ノラの仮説と合致する。
自分が導き出した考えが合っていた事にノラは嬉しかった。
『あのままでは我はさらに恐ろしいものへと堕ちていたことだろう』
精霊は死なない。いや、生死を越えた存在で、世界の摂理の一部。それが狂ったままだったなんて恐ろしい。彼は魔獣どころか、手に負えない災厄と化していたことだろう。
『私は大したことはしていません。コーラスメラの人々があなたを救おうと必死になったからです』
『だが、あなたの存在は大きい。我にはもう、我の言葉を分かるものが少ない』
古代語のことだろう。
今では魔術師ぐらいしか習わないし、魔術師の中でも必要性がなくなってきた。
『我は人間が好きだ』
精霊が零した。
『地を耕し、水をまき、風と歌い、火と踊る。そんな彼らが我は好きだ。彼らは命があり、すぐに入れ替わってしまう存在だが、彼らは決して消え去らない。彼らがいるからこそ、地上は元素のめぐりを失わないのだろう』
精霊から見た、人間のことなのだろう。
精霊は元素の統括者。普通なら人間と関わることのない存在だった。しかし、彼は心から人間を愛し、実りの風を吹かせてきたのだろう。
元素を統括する存在にとって、作物の実りを良くするぐらいなんて事のないことだ。
『あなたに何度礼を言っても足りない。だから、あなたと我は名を交わし、それを礼としたい。どうだろうか』
ノラは思ってもいない申し出に言葉を失った。
『嫌だったか』
ノラは強風に奔走される風見鶏のように首を振った。
『そんでもない。身に余る光栄に言葉を失っていたのです』
名を交わす。
それは魔法的に見ると、使い魔の契約に匹敵する。たいてい魔術師の使い魔なんていうと、猫とかカラスとかカエルとかそんなのだ。しかし精霊を使い魔なんてすごい話だ。
実際になかったわけではない。
過去にこうして精霊と名を交わした者がいた。その人は魔法の生みの親であり、いまや魔法の神として崇められている人だった。
まさか自分が。
ノラはこれが夢なんじゃないかと信じられなかった。
ふと、ノラは一つの不安が過ぎる。
『待ってください。私と名を交わす、すなわちお互いに支配し合うということでしょう。そうなると私から発せられる穢れはどうなりますか。あなたは無事ではいられないのではないですか?』
『心配は要らない。名を交わし、あなたは我の力を得る。そして我もあなたの力を得る。すなわち、穢れに対する耐性を得るのだ』
『なるほど』
人間が自らが発した穢れに影響されないのは耐性があるからか。魔獣に発せられた穢れはその耐性を越えるものだったと考えれば納得だ。
『名を交わすとは、お互いに守りあうのだ』
どこか嬉しげに精霊は言った。
本当に彼は、心から人間を愛しているようだった。
『分かりました。やりましょう』
精霊は右手を差し出す。ノラも同じように右手を差し出し、握手を交わす。
二人は手だけではなく、心も繋がった。
二つの声が重なった。
『今ここに名を交わそう。ノラの運命の終わり、その時まで。ノラとアルファーンは共にあろう』
瞬間、精霊アルファーンはノラの中に解けてゆく。
ノラは目の前にアルファーンの姿が見えなくなったが、アルファーンの気配を確かに感じられた。
ノラはゆっくりと目を閉じ、まるで始めから分かっていたかのようにこの白い空間を閉じた。
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