9 その後の看護学生

 何と言っても〈おとうさん〉の再度の基礎実習を話さねばならない。〈おとうさん〉の指導教官は、またまたヨッシーこと吉増ヨシエ先生であった。何か起きなければと私たちは心配した。吉増先生はこの実習で必ずいじめるターゲットを一人決める。何しろ「落とす」「落とさない」の生与の権限を持つ。〈ヨッシー〉は何時も実習で一人、いじめのターゲットを見つけて楽しむ悪い癖がある。若い子たちは最後に〈真珠の涙〉を流し、許されるが、〈おとうさん〉には生憎〈真珠の涙〉はないのだ。メガネをかけて、唇は薄く、陰湿に笑う。あと二年で退職だと言うのに困ったものである。


 基礎実習を落ちた〈おとうさん〉は透析現場で看護助手として、針が付いたダイアライザーから針を抜き、洗浄する仕事をして次を待った。あわてんぼうの〈おとうさん〉、血液の傷はB型肝炎のリスクがあって、そんな仕事して大丈夫かと私は心配した。

 基礎実習で落とされると、翌年の基礎実習を待つしかない。おとうさんは1年待って、再度、基礎実習に挑戦したが、またまたヨッシーがつく不運であった。


 玉子から全員集合がかかった。1年遅れてのおとうさんの実習評価が悪いという噂が入ったのだ。ヨッシーに睨まれているのだ。皆で応援をしようという事になり、注意を与えたが「いやー、今度は指導看護師さんも良い人で、順調にいっている」とのんきな返事だった。三年生だった私たちは必死で応援したが、学年が違うと、庇うにも限界があった。何より、その要領の悪さったら聞いていて、「あんたは何年社会人をやってたの!」と、同情を通りこして腹が立った。

 受け持ち患者さんをめぐって、担当教官ヨッシーと指導看護師の見立てが違った。〈おとうさん〉は指導看護師の見立てを了とした。「バカ、バカ、バカの3乗!」指導看護師が正しかっても、点数、評価は誰が付けるの?!もー、知らない。

 まだ1年〈おとうさん〉粘る積もりだったが、お笑い芸人知事の時代、大阪府の財政難とかで、府立の学校は廃校になってしまって、〈おとうさん〉は卒業できず、看護師になれなかった。それでも、通信教育で社会福祉士の国家資格を取って、デイサービスの生活相談員を五年やって、定年退職でやめたというから立派だと私は思う。


***


 玉子は玉のような女の子を一人産んで、国立病院の婦長になった。めちゃめちゃ早い昇進だ。玉子とは今も親友の関係だ。

 肉体派大谷は、精神科の看護師になった。前回は患者さんに殴られたといって、目にくまを作って来ていた。テニスで知り合った女性と結婚した。私に招待状はなかった。大谷に個人的恨みがあると書いたが、それはこんなことだった。


 私にあんな〈ひどい〉ことさえしなかったら好きになったのに…。

「ナミさん、食事に二人でいかんか?」何時にない真剣な口調。たいてい行くときは皆が一緒だった。これは「お誘いデートだ」と思った。勿論、私はオッケー。何時もの居酒屋風ではない、フレンチ風レストラン。

私は少し酔いが回っていい気分。川沿いにあるホテル街のネオンも見えてきた。地下鉄の駅近くに来たら、大谷は突然私の手を両手で握って、「ナミさん、今夜はありがとう!」と云って、スタスタと駅に向かって歩いて行った。それを言うために私を誘ったの?30女をつかまえて失礼というもの。「意気地なし、ひどい奴、死ね大谷!」と思った。


 オザッキーは病棟勤務五年の後、講習を終え看護学校の先生になった。どうも実習で〈おとうさん〉に注射を打たれたのが悪かったのか、注射恐怖症になったみたいだ。看護学校なら注射は打たなくてよい。若い子相手に、「みなさん、グループ学習しましょうね」なんて言っちゃって…。あいつは代わり身が早い。

 高島花子は大学を出ていたので、獣医学部に編入して獣医師になって今アフリカにいる。先日絵はがきが来ていた。「今、最高に幸せだ。アフリカが私にこんなに合っているなんて。オザッキーに習ったスワヒリ語、習ってよかった。彼のスワヒリ語は上等よ。〈おとうさん〉は元気してる?」花子が注射器を持って追っかけたら、虎やライオンだって逃げ回るだろう。その姿を想像しただけで笑えてしまう。


 スワヒリ語ではこんな話がある。お弁当を終えたわずかな時間、花子は、オザッキーにスワヒリ語を習い、花子はオザッキーに英語を教えた。その内、止めるだろーと思っていたがズート続いた。それを見ていて玉ちゃんが、「二人はいい関係になるかも?」。「何でぇー?」私。「だって、オザッキーと花子、あれは男と女ではなく、女と男よ、ひょっとしたら…」。何だか、世の中、男女の境界線がややこしくなってきたみたい。でも、二人の関係は玉ちゃんの期待のようにはいかなんだみたい…だった。


***

 私はなんとかやっている。お給料も増えたし、母には優しく出来ている。病院でも徐々に私の実力は皆が知るところとなって、次は私が次長だろう。何より、好きな仕事をやっている充実感が幸せだ。ナイチンゲールは30才で生涯独身を決断した。「もはや子供っぽいことは終り・・主よ、あなた様の意思のみを考えさせて下さい」に、気持は近づいている。

 

 病院の昼食は食堂があって、それなりにおいしく、安い。でも、慌ただしくかきこんで終り。あんな楽しいお弁当の時間はなかった。大谷は大の虎キチで、〈おとうさん〉はキチまでいかないが、長年のファンで詳しく、二人の話が楽しそうなので、野球に興味のあまりなかったオザッキーや花子が加わるようになって、皆で甲子園に行ったっけ。

 やっぱり、多少はルールを知ってないと面白くない。両サイドの大谷と玉ちゃんが解説してくれたが、「なんで、一塁ばかりに走るの?たまに三塁に走ればセーフになるのに?」なんか云ったら、勝手に見てという感じでほっとかれた。でも外野の芝生が綺麗で、ビールが美味かった。


 花子がセンターを守っている新庄のフアンになってしまって、「新庄さ~ん、素敵!こっち向いてぇー!」のやじの連発。またその声がよく通ること。新庄がセンターフライを取って、そのボールを花子に返した。大谷がナイスキャッチして花子に渡した。その日、新庄のサヨナラホームランで勝った。みんな抱き合って、飛び上がって喜んでいた。私は「安くて、幸せになれる場所があるのや」と思った。

 それから、私は甲子園に行ったことはなかったが、玉ちゃんを除いて4人はしばしば行ったようである。あるとき家でテレビをつけると、外野スタンドで胸も露にビスチェスタイルで応援している、いやあれは踊り狂っているといったほうがいい、花子が長く映し出されていた。

 玉ちゃんのシモネタで私は耳年増になり、〈おとうさん〉と政治の貧困を語り、皆と恋愛談義もした。もう、あんな楽しいお弁当は食べられない。今度の会合「ご注文は?」と訊かれたら、「いいです。私たちお弁当を持ってきてますから…」にしようかな?


***

 55才で看護学校に入学した〈おとうさん〉に北富雄さんがかけた言葉は「君ぃー、思い切ったね!」であった。北さんは〈おとうさん〉を認めていた。「あの歳で挑戦か?偉いね」であった。難儀やとは言わなかった。

 

 北さんがアパレルに勤めていたと聞いて、「僕の父は田舎で自転車屋をやっていましたが、大阪に出てきて婦人服のブティックをやりました」と話し、〈おとうさん〉の〈お父さん〉の話になり、北さんは「君のオヤジは中々面白い人やね。ぜひ、小説に書きたまえ。この本の親父より面白い」と枕元の本を指さした。当時話題になっていた『少年H』という本であった。

〈おとうさん〉が「僕はそんな文才ないです」と言ったら、「僕が読んであげるから、書けたら持って来なさい」と、家の住所を書かれたという。〈おとうさん〉はズートそのことが気になっていて、退職して時間ができたので、〈おとうさん〉の〈お父さん〉を主人公にした『父の戦後』なる文を書き、投稿したらそれが本になり、何とか雑誌の〈遅れてきた新人賞〉を取って小説家デビユーを果たしたのだ。

 その中でちょこっと看護学校体験を触れて、私のことをなんと書いた。浜野屋ナミと名前は変えてあるが、「世話女房気取りのお節介焼きのナミ」だったり、「ドジで、忘れ物多いが頑張り屋のナミ」だったり…。これから出版されても私は読まない。

 

 私だって偉そうに言えない。癌の手術前に落ち込んでいる患者さん、病院に来る人は身体だけでない、社会的な事情を抱えている人も多い。特に中年以降の男性は…。

 そんな時に、胃の全摘手術をして看護学校に迷い込んで来た、変な中年〈おとうさん〉学生の話をする。少しオーバーにドジ、ヘマな実習ぶりを話すと、皆、腹を抱えて笑う。それでも看護学校を無事卒業(にするしかない)した話をすると、一様に暗い顔が明るく変わる。中には枕元に『看護専門學校受験案内』なる本を置いている人もあった。女の薗が中年男性の薗に変わっても私は知らない。


 一つ忘れていた。私が卒業の時、〈おとうさん〉が食事に誘ってくれた。フレンチレストランにね。「まさか…」大谷のことが頭によぎった。

 食事が終わって、百貨店のバッグ売り場でプレゼントするという。「そんな、高価な…いいんですかぁ~」と、〈おとうさん〉が薦めてくれた隣にあった1万円も高いバッグを買ってもらった。買ってもらってから、又「本当にいいんですかぁ~?」と訊いた。

「学内実習で先生に叱られて、しょんぼりしてたときに、玉ちゃんがナミのロッカーを開けて見せてくれた。タオル、寝巻き、石鹸、爪きり・・みんな二つ綺麗に揃えて入っていた。僕は泣いたよ」と、〈おとうさん〉は言ってくれた。父が生きていて、卒業プレゼントされたような気持ちがした。バッグ、〈おとうさん〉大事に使ってますよ。


 浜野屋ナミと書かれたけれど、マー、いいや。〈おとうさん〉にやっと訪れた春だもの、みんなで祝おう。28日まであと4日だ。今日は本当に冷える。明日は雪のトナカイさんになるのだろうか。母が待っている、早く帰ろう。

                        

   

          了


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看護学生探偵は白い制服 北風 嵐 @masaru2355

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