『使徒、紅蓮の解錠者』

『使徒、紅蓮の解錠者』

『使徒、紅蓮の解錠者』






【3 / 18 (Sat) 23:48 】



 紀元前より遥か昔から、この地は人々からで呼ばれていた。信仰に厚き者からも、そうでない者からも、そう呼ばれてきたのである――『神に約束された地イェルサレム』――と。

 そこは、中東地方はイスラエル国――地中海東沿岸部に存在する、世界最古の都市。

 現代における世界三大宗教のひとつ、「クルス教」発祥の地。そして、同じく「ユダヤ教」「イシュラーン教」からも聖地であると認定されるこの地では、歴史上、彼ら信仰を異にする勢力間で幾度も激しい奪還戦が繰り広げられてきた――――そう、かの「十字軍遠征」の舞台にもなった、いにしえの聖戦あとである。

 時は現在いま、クルス教徒にとっては絶対的聖域と言っても過言ではないこのイェルサレムの地を前に、る『結社』から、一人の〝使徒〟が遣わされていた――。


 国際的テロ教団――《十字背負う者達の結社》。

 特戦級異能司祭集団『十二使徒』所属、列聖第二位――ヘテル。


 この結社内における実動戦闘部隊である『十二使徒』とは、幼い頃より異常の環境に身を置き、鍛え抜かれた特務工作員十二名と、永久欠番位たる〝欠員使徒〟一名からなる、計十三名。真に異能たる戦闘司祭の集団である。

 彼ら『十二使徒』のうちでも、イェルサレムに派遣されたこの男――ヘテルは、かつて《十字背負う者達の結社》と敵対し、抗争の末に滅ぼされた魔術結社『薔薇十字団ローゼンクロイツ』幹部の嫡子であったという、異色の経歴を持つ。にも拘わらず、列聖第二位に席される高位の使徒として、教団上層部はおろか他の〝使徒〟や信徒からも奇異の目を向けられる存在でもあった。

 教団の本拠地アジトが置かれているのは、クルス教総本山とでもいうべき、『法皇庁』所在のヴァティカヌス市国。そのヴァティカヌスより二千km以上も離れたこのイェルサレムにまで、ヘテルはわざわざやって来た。無論、来訪の目的は聖地巡礼などのためではない。

 すべては、教団上層部のにより下された聖務――有り体に言ってしまえば、彼が工作員として課せられた神敵抹殺ミッション・コンプリートのため。

 夜。市街地より遠く離れた砂漠地帯で、彼はときを待っていた。砂丘を覆う闇も一等深まり、時刻はいよいよ、日付も変わろうという領域へ足を踏み入れている。

 周囲には一切の灯かりすらも無い、新月の常闇。砂の丘を白く照らすはずの月は無く、星の瞬きのみが遠大に広がる、夜の真髄。

 視線の先。砂漠特有の昏く冷えきった閑寂かんじゃくの下、「そこ」だけがまばゆく照らし出されていた。

 使徒ヘテルの目的地――国防陸軍が演習中であるという特設兵舎。

 けわしく展開された陣営が、要所要所のライトに照射され、それはまるで一夜城のように鮮烈に、けれども蜃気楼のたぐいとは間違えようもない強さと現実感を持って、闇夜の砂上に厳めしい姿を浮かび上がらせていた。

 広々とした運動場程度の面積はあろうかという陣営内では、テントの群れが有刺鉄線と土塁にぐるりと囲まれ、装甲車や自走砲が待機する傍ら、歩哨兵が班を組んで見張りと警邏を行っている。兵士たちの隙の無い所作はまさに精鋭そのものといった具合で、彼らの装備、そして警戒態勢にしても、ただの訓練中と称するにはいささか大袈裟なほど、厳重かつ慎重なものだった。

 異国の使徒は、その物々しい警備を見て、ほくそ笑んだ。

「やはり……ようで、間違いは無いらしいですね」

 獲物ターゲットの潜む敵牙城を前に、ヘテルは己の武器――鞘に収まったままの片手半剣バスタード・ソードを手に取った。握りはやや長め、両手で振るにも片手で振るにも適している。

「さて……」

 今回の暗殺対象は、ここで秘密裡に会合を行っている、政府要人と陸軍幹部。名目上は「幕舎テントを設置しての野営も含めた軍事演習」ということになっているが、実際は彼らが密談を行うためのお膳立てであり、会合のための隠れ蓑フェイクである。都市から遠く離れた砂漠地帯のど真ん中に駐屯している、精鋭陸軍の一個中隊。それは電子的な情報網からも、生身の人間の監視網からも孤立した、完全なる陸の孤島スタンド・アローンだ。「情報の漏洩」と「敵対勢力の襲撃」、その両方を防ぐという意味合いでは、、ほぼ完璧な布陣だったと言えただろう。

 そう、敵がたった一人の狂信者であり、己の全信仰と全生命ぜんそんざいを懸けて聖務を全うしようとしている場合を除いては――――。


 結社において、『使徒』とは即ち『死徒』。

 彼らは、組織に身を置いた、そのときから。

 信徒にして逆賊であり――、

 聖者にして悪鬼であり――、

 救済者にして迫害者であり――、

 そして、殉教者にして死刑執行者である。

 人外の域と言っていい戦闘能力を有するに至るまで、常時死と隣り合わせの修錬で鍛え上げられてきた〝使徒〟の目には、この堅塁盤石けんるいばんじゃくにして難攻不落のシチュエーションでさえ、ただ暗殺を成し遂げるための絶好のチャンスにしか映らない。


 ――そこから彼がたった一人行った遊撃戦術ゲリラ・タクティクスは、まさしく破滅の徒の所業と呼ぶに相応しいものだった。





【3 / 18 (Sat) 23:52 】


 ――兵舎の警備にあたっていた見廻りの兵士が、ほんの数十分前にも確認したはずの巡回路で突然、でも踏み抜いたかのように、片足を吹き飛ばされた。

 その『起爆』を合図にしたかのように、複数の警備箇所と弾薬庫が一斉に、同時爆破された。

 演習――、などではない。兵士たちがそう気付き、即応するまでのあいだは非常に早かった。

 だが、彼らのうちほとんどが、その襲撃は「複数人、少なくとも二十名には迫る小隊規模の敵勢力による、敷地内侵攻のための発破工作」であると誤認させられていた。

 そのせいで、気が付くことができなかった。混乱に乗じて、すでに自陣内への侵入を成功させていた、ただ一人の下手人の存在に。

 二百名からいる陸戦兵が皆、侵入してくるであろう敵勢力を迎え討つべく、一点の例外も無く定められた制式武装を手に展開する。その近代兵器の大群を前に、ただ一人の司祭は、ただ一本のつるぎを手に、悠然と歩み出た。柔和な、笑みを湛えていた。


「灰は灰に。塵は塵に。――さあ皆さん。在るべき姿に、かえりましょうね」


 幼児を諭す教育者のような、優しく、穏やかな声で。使徒ヘテルは、兵士たちに殺戮の開幕を告げた。



***



 兵舎はすでに幾多もの爆炎に包まれており、戦う者たちの怒号と、負傷者たちの悲鳴が飛び交う、まるで戦乱のさなかであるかのよう。

 そんな極限状態の中でも、煌びやかな司祭服を纏ったヘテルだけがひどく場違いで、軍人たちの合理的な脳をかき乱した。美しい司祭は、輝かしいアッシュブロンドの髪を戦火の風になびかせ、まるで長閑のどかな草原で花でも摘んでいるかのような優雅さで、群がる兵の命を刈り取ってゆく。辺りを舞う火の粉に照らされ、彼のいささか端正過ぎる顔立ちには、血糊ちのりと一緒に柔らかくとろけそうな笑みがこびり付いて、離れなかった。混沌ケイオス。その表情が闘争の喜びなのか、慈愛のほころびなのか、もしくは純然たる狂気の産物なのか――おそらくは何人たりとも、判別することあたわぬのだろう。

 爆音、銃声、絶叫――それらの騒音を、まるでクラシックでも愉しむかのように、ヘテルは悠然と歩み、進む。彼の口から自然とついて出てきたのは、ラテン語歌詞。聖譚曲オラトリオ――『蛮族の王ホロフェルネスを討伐した勝利のユディータ』。

 クルス教旧約聖典にも記された、美しきユダヤ人女性、ユディト。大軍に包囲された町を救うため、自らを餌に敵陣深くに潜りこみ、将を誘惑して見事その首を討ち取った。まこと信仰厚き彼女の勇敢さを謳った宗教曲である。


「“Nil arma(武器も), nil bella(戦も)”――」

 〝武器も戦争も、憎悪の炎も、兵の士気挫ければ、一体何の役に立つというのか――〟

 〝だが、希望を胸に戦えば、希望こそ戦場での勇気を培うだろう――〟


 ハミングの調べに合わせ、ヘテルの手に持った剱は楽団奏者の指揮棒が如く、ときに優美に、ときに情熱的に振るわれる。指揮者マエストロの一振りごとに、兵士エキストラたちは一人、また一人と倒れてゆく――。

 戦場はもはや、彼の一人舞台だった。


「――“Veni(来て、), veni(来て、), me sequere fida Abra amata(こちらへ。私の愛しい、勇ましいアブラ)”」


 軽やかに口からこぼれる賛歌の調べは、砲火のと斬撃の断末魔にかき消される。

 司祭としての煌びやかな召し物も、今やすすと灰にけがれている。

 ルネサンス期の彫り物のような美貌も、今やおぞましい返り血に染まっている。

 だが、そのすらりと長い腕で振るう流麗の剣技だけは、今も一切のえを失わない。

 前進しながら左右交互の二連袈裟、二時方向へ銃弾くぐり避けながらの抜き胴、十時方向へすべるように身を起こしながらの斬り上げ。四人。一人につき一太刀で始末する。

 カチン――――。

 ひとたびの、納刀。

 すると同時に、ヘテルの背後で

 背に爆風受け、加速。片手抜刀の構えから、銃弾をはじきつつの入り身。五人からなる敵兵士の固まりが、目視でようやくヘテルに追い付いた頃すでに、彼は兵士たちの真っただ中へと滑り込んでいた。

 臨戦態勢だったはずの精鋭たちが皆、瞬きもせぬに斬撃の餌食えじきに。

 刀身を視認することさえ許さず、ただほとばしる血によってくうえがかれる、その絶技。きわめて直角的な軌道を持つ、ヘテル独特の剣閃――とうに振り終えたつるぎの軌跡のみが唯一、尾を引く血によってその通り道に残される。

 次々と噴血し地に伏す兵士たち。彼ら皆、一人としての例外もなく、動脈箇所に走る正確な一閃によって切り裂かれ、絶命せしめられていた。

 アサルトライフルの掃射すら完全に置き去る機動と、超絶の剣技――あとに続くはずだった兵士たちは瞬時に、絶望にも似た戦力差を覚える。

 ――自動小銃 IMIガリル。

 ――UZIウージーサブマシンガン。

 ――ジェリコ941 ベビーイーグルハンドガン。

 信頼のおける、制式武装の数々。それでも、と。

 しかし、敵の脅威を理解した頃には、もう遅い。

 国防陸軍の精鋭たちも、まさか、多勢にして、単なる一個人を相手に、「重機関銃の掃射」や「爆発物によるエリア単位の制圧」などといった手段を講じざる得ないような状況は、想定すらしていなかったはずだ。さらに言えば、それらの手段に用いられるべき兵器が位置する「固定銃座」や「武器庫」などは、状況開始と同時、真っ先にヘテルの〈爆破〉により破壊されていた。兵士たちが使徒に対抗し得るはずだった手段は、はじめから封殺されていたのだ。

 仕方なく、ヘテルを取り囲むように分隊クラスの戦力が逐次投入されていくが、結果は、文字通りの〝瞬殺〟――理不尽なほど、迅速な殺戮である。疾風怒濤の死のみが、刃をぎらつかせながら、そこに飛び込んでくる兵士たちを待ち受けていた。

 しかし。それでも。どれだけ圧倒的な武技で雑兵ぞうひょうたちを下そうとも、ヘテルが驕ることは決してなかった。

 それどころか彼は、無慈悲に兵士たちの命を摘み取りながらも、最後まで軍人たろうとする彼らの練度と覚悟に、感嘆の意を覚えないではいられないのだった。

「さすが……ッ!! 誇り高きヤコブイスラエルの子孫の名に恥じぬ武勇、素晴らしいッ!」

 惜しみない賛辞を贈ろう――この者たちの強さと、その気高さに。

 司祭はより一層、全身全霊の剣舞を以てして兵たちを屠ることこそが、彼らへの敬意であり礼儀であると、理解した。


AMENエイメン...」

AMENエイメンッ......!!」

A...MENエィ……メンッッ――――!!!」


 ――命をぐ一撃は、祈りと共に。

 斬り伏せ、斬り伏せ、どんどん斬り伏せる。

 ひとたびヘテルの剱が翻るごとに、兵士が二人、三人と、命を散らす。砂漠の砂に、血の雨が染み込む。

 倒れく兵士たちが使徒の太刀筋を察することすらできなかったのと同様、あとに控える兵士たちにとっても、目の前で起こっている惨劇を理解することは不可能だった。

 刺突つきで喉を潰し、――――まさか襲撃者がただ一人のみで、

 引き抜きざま、手首の返しで逆手持ちへ――――しかも、帯剣した時代錯誤の

 握り替えたつるぎが背後の敵を貫き、――――クルス教司祭であるなどと、

 姿勢低く引き抜いて逆手での回転斬り二連へ繋げ――――そのような馬鹿げた事、

 両の足首から下を刎ね飛ばされた一名が転がり、――――兵士たちにとって、

 下腹切り裂かれた一名が内臓こぼくずおれる――――夢にも思わぬ事態だっただろう

 下方からの突き上げでもう一名、おとがいから――――まるで、唐突に、

 頭頂部まで刃が突き抜けたかと思うと――――悪い冗談でもかまされたかのような

 背後に回り、握った柄に力を込め、――――間の抜けた表情のまま、

 てこの原理で頸椎をねじ切り確実なるとどめを――――皆、使徒との出合い頭、

 そこから転舞で抜き放った次の太刀が――――次々と斬り殺されていく、そして

 逃走試みる最後の一人の首を落とすと――――物言わぬ死体となった兵士たちは

 司祭の納刀を合図に――――傷口から不自然な煙を立ち昇らせ、


 ――――並み居る敵を全て斬り伏せ、残心をとるヘテルの背後で。

 ひときわ大きな〈爆発〉が起こり、死祭服のシルエットを、オレンジ色の爆炎が、明るく縁取った。





 一人殺すたびに、その使徒の眼からは歓喜の涙が流れた。

 一人殺すたびに、その使徒の口からは悲痛な嗚咽が漏れた。

 身に纏う、煌びやかな金糸に縁取られた純白の司祭服。信仰者の証であるべきころもも今や、大量の返り血でけがされている。

 左手では祈るように十字架を握りながら、右手で振るうのは残忍な鉄のやいばである。

 支離滅裂――まさに教団の歪んだ教えを体現したかのような存在だったが、その歪みをまかり通すに足るだけの強さをもまた、彼は


 やがて、立ち塞がる者もいなくなり、その司祭は辿り着く。暗殺の対象ターゲットが会合をしている幕舎まで。

 入り口をくぐると、普段は将校たちが軍議に使っているのであろう、長いテーブルがあった。その一番向こうに、高級そうな革張りの椅子が向かい合って置かれ、ヘテルの標的たちは逃げもせず堂々と腰を下ろしていた。

「――ああ。どこのネズミが紛れ込んだのかと思えば、まさかあのイカれた宗教テロリストどもの差し金だったとはね……。道理で、その無茶無謀にも納得がいく。ユダヤ教関係の有力者に繋がりの深い私を狙ったのだとすれば、おそらくはこの地でクルス教と競合している信仰勢力の地盤を削ぐため、でもあるのだろう?」

 ――向かって右側の椅子。高級なスーツを着こなす、ユダヤ系の政府要人。その男は琥珀酒とロックアイスの入ったグラスをゆっくり回しながら、ねっとりと使徒をめ付ける。どこかキツネじみた狡猾さのうちにも、智慧と思慮深さを隠し持ったような顔つきを、怪訝そうに歪ませながら。

「……賊が。たった一人で乗り込んでくるとは見上げた根性だが、我ら国防軍を――精鋭陸軍を侮辱したこと、とくと後悔させてやろう」

 ――そして向かいの上座側に座るのは、軍服をまとう、屈強な体付きの陸軍幹部。大きな手でテーブル上のシガーケースから葉巻を取り出すと、その端をシガーカッターで切り落とし、反対側をゆっくりと口に咥える。火を点けながら、彼は威厳に満ちた、ごつごつといわおのように固そうな顔面を使徒へと向けた。歴戦の闘犬めいて刻まれた傷としわの奥から、鋭い眼光が放たれた。

 両者とも、突如自分たちのテリトリーに闖入してきた異彩の暗殺者に対して、なんら気後れをしていない。

 そんな堂堂たる彼らを見て、ヘテルはまるで、これから殺さなければならないこの二人が、愛おしくて愛おしくてたまらない――とでも言いたいかのように、うっとりとした表情になった。

 暗殺対象である二人も、そこではじめて、一抹の違和感を抱く。

 芸術品のように完成された美貌を返り血にまみれさせながら、慈愛の眼差しを向けてくるその司祭が、ひどく「人間離れ」して見えた。

 彼らがその司祭のことを『理解』できなかったのは、ある種、当然のことだった。


 その司祭にとっておそらく、敵と斬り結ぶということは、すなわち友と抱擁を交わすことと、同義なのだ。

 その司祭――使徒ヘテルは、まるで隣人を愛するように、敵を愛することができた。


 そのとき、暗がりから、音もなく歩み出る者が、もう二名――。彼らは。気が付くと、それぞれ、只者ではない雰囲気の護衛が一人ずつ、政府要人と陸軍幹部の脇に控えていた。

「おや、このわたくしとしたことが。気配を感じませんでしたね。相当の使い手と見ますが――」

 ヘテルは別段驚いた様子もなく、むしろ嬉しそうな顔をして、参入者二名を歓迎した。政府要人と陸軍幹部もヘテルの言葉には応えず、ただニヤリと口角を吊り上げただけだ。両名とも、自分たちの手駒に、絶対の自信を持っているらしい――。

 あるじたちの合図を待つことなく、それぞれの護衛が、すっと前に出る。彼らは各々の主人を守るべく、ヘテルに対して長テーブルを縦に挟むような形で、充分な距離を保ちつつ相対した。

 両者とも真一文字に堅く口を閉ざしている。寡黙な二人組であった――。

 一人は、ほぼ全身黒ずくめの異様なスーツ姿に、黒い山高帽ボーラー・ハット、ツル無しの丸いサングラス。中背で引き締まった体つきの、不気味な男。

 それに対しもう一人は、軍服の上にゆったりとした民族衣装を身に纏った、褐色の大男。服の上からでも筋骨隆々な体つきが分かるほどだ。

 彼らのよそおいを、ヘテルはさらに注意深く観察する。

 黒ずくめの男――政府要人のほうに付く護衛は、前を開けた黒いスーツの下に白いシャツ、そして黒手袋。帽子からのぞく長髪は、両側のもみあげが三つ編みのように編み込まれている。ひげも伸ばし整えてはいるが、肌の張りを見ればまだそれほどに歳をとっていないことが充分に分かる。手には小さな書物を、首からは六芒星――「ダビデの星」のペンダントが下げられていた。

「ふむぅ……」

 ヘテルは黒ずくめのラビから視線を移し、もう一方、褐色の大男――陸軍幹部の護衛にも目をやった。

 大男は、髭の生えた精悍なアラブ系の顔立ちで、その岩山のように鍛え上げられた躰と身の置き方からも、長く戦いに生きてきた精鋭の戦士であろうことが見てとれる。軍用の迷彩服の上から「ディジターシュ」と呼ばれる民族衣装を羽織り、頭には「カフィーヤ」という布をターバンのように巻いている。腰帯にはエキゾチックな短剣が差され、そしてサーベルのような長い曲刀を佩いていた。

「いやはや、これはこれは両名とも――」

 ヘテルは興味深げに唸った。その理由の一つとしてまず、黒ずくめの護衛の独特な出で立ちが、ユダヤ教の尊師ラビ――特に「超正統派ハレーディーム」などと呼ばれる者たちの装いに酷似していたからだ。

 もともとユダヤ教は、クルス教の母体――いや、父体というべきか――になった宗教でもある。クルス教とは旧約聖典の内容を共有し、信仰する唯一神も同一である。

 ゆえに、この戦場いくさばで数奇に巡り合わせたのも互いが信奉する神のご意志なのだろうかと、ヘテルは運命を感じずにはいられなかった。

 また、本来ならば教義上、兵役を拒否し国防軍との係わりを持ちたがらない「超正統派」の者が、この場にいる――――政府要人の狙いはおそらく、両者の間を取り成し、お互いが強固な勢力を形成すること。そうすることで、宗教人たちと根深い繋がりを持つ自らの地盤をも強化することに繋がるのだろう。と、推理する。ユダヤの金利業者かねかしとも金満なコネクションを持つ彼の財政的サポートは、軍内でより地位と力を欲する将官にとっては大変魅力的に違いない。実際、こうして邪魔さえ入らなければ、彼らの取引はすんなりとまとまっていたのだろう。

 さらにヘテルは、巨体を持つ褐色の戦士についても――その特徴と武装から、この男がイスラエル南部部族の出身なのではないか――と当たりを付けていた。だとすれば彼はおそらくユダヤではなくイシュラーンの教えに基づいた教徒であるはずで、それらの部族が住まう一帯は地理的にも情勢的にも、内戦、テロ、異民族の侵略……と、はるか昔から紛争の絶えなかった地帯でもある。おおかた、そういった地で育ち戦闘に特化した少数民族を、軍が召し抱え、傭兵のように使っているのだろう。

 とにかく、国防軍と、イシュラーン、そしてユダヤの徒――。軍事的に、さらに宗教的にも《十字背負う者達の結社》と敵対する勢力どうしが、結束を固め、互いに足りない「政治力」と「軍事力」まで補い合ってしまう可能性。教団結社として、それだけは何としても避けねばならない最重要案件だった。

「(……しかし、どちらがたも、というわけではないようですねぇ)」

 二者護衛の佇まいに一切の隙は無く、異能の戦闘司祭として育て上げられたヘテルから見ても、充分に尋常ならざる雰囲気を醸し出していた。

「(迂闊に、近付くべきではない――)」

 まずは小手調べ――ヘテルは、腰の鞘に収まっているつるぎを抜くことはせず、祭服の袖口から素早く拳銃を取り出した。

 ジェリコ941――『ベビーイーグル』。イスラエル軍制式拳銃。殺戮の道中、兵士の装備から鹵獲ろかくしておいた戦利品だ。

 構え、連射。片手撃ちにもかかわらず、正確な射撃。

 それに対してしかし、二人の護衛は一切の回避行動もとろうとはしなかった。

 ヘテルの発砲に対して、褐色の大男が抜剣して身構える。

「むゥンッ!!」

 一喝。

 すると――周囲の空気を震わすような不協和音が鳴り響き、二人のほうへ真っ直ぐ飛んでいたはずの弾丸が、標的より数メートルも手前で勝手に進行方向を逸らされ、狙ってもいない場所へと弾かれてしまった。

 異変はそれだけでなく、ヘテルの体調にまで影響を及ぼす。

「っ……ぅ!」

 突如、強烈な耳鳴りと微かな眩暈めまいがヘテルを襲う。それに伴い、テーブルの上に置かれていたグラスにも、「ビシッ!」と大きなひび割れが入った。

 ――驚きはしたものの、ヘテルにとって〝理外〟の出来事ではなかった。

「(何かしら『異能』によるもの……と見て間違いはなさそうですね)」

 彼はつとめて冷静に、相手の起こした現象を理解しようと試みた。

「(今のは超音波……? いえ、それだけでは弾道を逸らした説明がつかない……)」

 しかし、テーブルの上のグラスが破壊されたのは、オペラ歌手の発する声の震えでガラス窓などが割れてしまう共振現象とも似ている――。

「(考えられるのは……『振動』そのものですか。あの不快音は、空気を振動させて超局所的な高周波を発生させることによって生じた付属的なもの。おそらく彼の能力は、自ら引き起こした振動を伝って、物体を共鳴状態にさせること。それによって弾丸自体に強烈な振動を加え、弾道の向きにブレを生じさせた――)」

 ヘテルの推察通り、大男の能力は〈振動波〉の発生と増幅、そして集束。任意の範囲に、結界のように振動の波を展開し、それを伝播できる。今やってみせたような間接的な防御機能だけでなく、高周波としてぶつけた相手の状態ステータスを崩すことや攪乱にも使用できるようだ。

 なかなか応用の利きそうな能力だ――などと感心していると、今度は黒ずくめのラビが飛び出し、テーブルの上へ躍り出た。そのまま天板の上を駆け抜け、ヘテルの状態異常バッド・ステータスが抜けきらないうちに接近を試みる。ヘテルはすぐさまそちらへ拳銃の照準を合わせ、三発の銃弾で迎撃した。

『――■■■』

 黒ずくめのラビは右手を前にかざし、何事かを二、三言短く呟きながら、三発の銃弾それぞれを手の平で受け止めるよう動かした。その手に触れた途端、弾丸が光を帯び、フッと虚空に掻き消えた。

 その後ラビはすぐ手に持っていた書物を開き、白紙のページを、さきほど弾丸を掻き消した右手の指で、すっとなぞるような動きをした。すると、そこに先ほどまでは記されていなかったはずの神秘的な光の文字列が浮かび上がる。

 ヘテルは、自身の宗派とも非常に係わりの深いを、目敏く見逃さなかった。

「(あの書物、おそらく『聖典』でないことは確かだろうと思っていましたが――)」

 ユダヤ教聖典には、あとからクルス教によって新しく編纂された『新約聖典』部分を除く、いわゆる『旧約聖典』のみが収録されており、基本的にはクルス教の旧約部とも同じ内容を有する。だが、クルス教聖典が一般的な「綴じられた書物」の形をとるのとは違い、ユダヤ教のそれは『タナハ』と呼ばれ、古式ゆかしい「巻物」の形で継承されるのが基本である。

 なれば、戦役を忌避する「超正統派ハレーディーム」の装いをしたこの男が、他でもない戦いの場でたずさえ、そしてポピュラーな革装丁本ハードカバー・ブックの形態を有しているこのアイテムが、おそらく信仰儀式のための代物ではないだろうことも、ヘテルは予め予測していた。

「(そして、あの文字――)」

 ラビが白紙のページに浮かび上がらせた神秘文字。ヘテルにも見覚えのあったその文字は、古の聖典などに使われていたとされる、「古典ヘブライ語」だ。言語学上、「聖書ヘブライ語」や「古ヘブライ文字」などとも呼ばれる。


「(きわめ付けは、先ほどの――これは、もしかすると……)」


「■■■――」

 ラビは、白紙のページに現れた文字列を、もう一度逆の方向から指でなぞり、再び、先ほどのような詠唱を。

 今度は耳を凝らして集中するヘテルだが、その詠唱を構成しているのは、まったく未知の言語――第二次世界統一原語ネオ・バビロニッシュが普及する以前の七か国語に加え、クルス教および他宗教における五宗派の宗教言語と二種の古代語に堪能なヘテルでさえ聞き取れない、不可思議な文言であった。しかしなぜか、それは彼にとって、響きでもあった。

 このことで、ヘテルの頭の中に浮かんでいた点と点は、すべてが繋がり、「理解」へと至る。

 一連の動作・詠唱とともに、ラビが書物の紙面をヘテルのほうへ向けた。すると、光る文字の羅列が消えると同時に、紙面から三発の銃弾が飛び出した。

 まさに超常現象、驚くべきこと――――であったが

「(――やはり、思った通りッ!)」

 我が意を得たり! とヘテル、抜く手も見せないほどの速さで抜刀を。その瞬間剣閃三交差して走ったかと思うと、飛来する弾丸は斬り払われ、叩き落とされていた。

 『異能』に対するヘテルの即座な対応にも、ラビは驚きはしなかった。あの《結社》が送り込んできた手先だ――に慣れていて当然と踏んでいた。思考も躰も、次の行動へと移すことに、両者、よどみは無い。ヘテルの防御の隙を狙い、肉迫する。接近と同時に彼は書物の別のページを、熟練のマジシャンがトランプを繰るような手つきで素早くめくり当てている。

『■■――■』

 そこに記されていた文字列を指でなぞると、開かれたページの平面上から、奇術のごとく、鋭い両刃の〝長剣〟が出現。ラビはそれの柄を握り込んで、ズズ……と本から取り出した。

 両者間の距離はすでに、互いの切っ先が敵方てきがたの喉元へ届くであろう間合いにまで迫っている。ラビを迎え撃つために、ヘテルもテーブルの上に跳び乗った。右手につるぎ、左手に拳銃を構えたヘテル。彼は、ラビの使う『異能』の一連の流れをしかと観察し、そして確信していた。


「その詠唱……そして、書物に浮かび上がった文字――『』で間違い無いですねッ!?」


 ユダヤ教が生み出したという神秘思想――数秘術『カバラ』。その『カバラ』に伝わる術式のひとつに『ノタリコン』という暗号法が存在する。

 主にそれは、文章中に点在している「頭文字」を取り出し組み合わせ、それらの言葉や名前の持つ「意味」と「力」、「本質」をまったく損なわないままに新しい言葉を創り出す、ある意味での『省略法』のようなものといわれる。例えば、「Adonai Melef Nemanアドナイ・メレフ・ネーマン(主よ、信仰あふれる王よ)」――これらの頭文字を略したものが「AMENエイメン」と発声され、今でも広く祈りの言葉として使われているように。

 ユダヤ教と密接なこの『ノタリコン』が、黒ずくめのラビが用いる『異能』でも能力発動の際、重要なトリガーとなっていた。彼は触れた物体や現象を読み解き、それらの情報を『ノタリコン』として詠唱することによって、本来三次元的な「物体」や「現象」を、二次元的な「文字情報」へと、を〈ことができる。

 万物の本質を見抜き、『省略法』にして読み上げる――術者本人以外から見れば、ややこしく回りくどい能力の発動条件にしか見えぬかもしれないこの行為。逆である。発現した『異能』が、彼自身の宗教的探究と信仰修行の果てに体得した物であるがゆえ、それが厳然たるカバラの神秘に基づいて行わなければならないという、一種の精神的制約――だが、同時にその制約下で「本質に到達した」「真理に触れている」と盲信する宗教的全能感こそが、彼の信仰を異能力にまで高め上げた最たる要因にも成り得ていた――。

「(これほどの力を得るに至るまで、よほどの歳月、そしてたゆまぬ修道を費やしたことでしょう……)」

 ヘテルは甚く感服した。その純粋な「尊敬」からきたる彼の好奇心こそが、相手の異能に関する分析を、より入念かつ細やかなものにする。

 ラビの異能が発動する際、おそらく物質や現象を構成する膨大な情報も、『ノタリコン』として大幅に省略される。「文字情報」へと「変換」された対象は、ヘブライ語の文字列となって、紙面や壁面などといった、平面上にしるうつすことが可能――それらをストックし持ち運ぶためのモノが、あの手にたずさえた書物。あれは「フォルダ」のようなもので、書物それ自体に特別な力や意味があるわけでは無い。ラビは「フォルダ」に収納された「情報」の「変換」を解除することで、いつでも元の形として自由に取り出すことができる。謂わば、パーソナルコンピュータ内で容量の多いデータを「可逆圧縮」して保存しておくようなものだ。

 つまり、先ほどラビは、まずヘテルの〝銃撃〟を、実弾の持つ運動エネルギーごと『ノタリコン』で書物のページに〈圧縮保存〉し、すぐまたそれを〈解凍〉して、フォルダ外へと展開。ヘテルに向けてそのまま〝撃ち返した〟というわけだ。

 ――もし、クルス教と連なる文化や宗教、果ては密教などにまでも造詣の深いヘテルでなければ、この『異能』の仕組みを瞬時に看破することはできなかっただろう。

「(先ほどまでを見るに、現象・具象に対する〈文字変換〉を行う必須条件は『対象に触れる』ことと、そのデータを『実際に省略詠唱』すること。〈解除〉に関しては、『変換された文字を逆からなぞる』ことと、さらに『逆詠唱』――といったところでしょうか。他にどのようなモノが『ノタリコン』として〈保存〉されているのか未知数ですが、護衛対象も近くにいる現在、おそらく広範囲に殺生力を発揮するようなものは〈再展開〉させないはず。幸い、相手の両手は剣と書物で塞がっていますし、〈省略〉も〈解除〉も行えないであろう今がチャンスといったところでしょうか――)っと……!!」

 ガギンッ!!

 ラビが振るった長剣を、ヘテルのつるぎが下から打ち返す。そのまま流れるような追撃を互いに二合ほど打ち合ったところで、ヘテルは剣戟の死角から銃撃を加えようとした――が。

 剣戟の間に詰め寄ってきていた褐色の大男が、ヘテルのサイドに廻り、両手持ちの曲刀を、死角となるテーブルの下から振り上げた。

「オォンッ!!」

 男の使っている、三日月のように美しくしなる曲刀は「シャムシール」という、中東地方特有の伝統的な刀剣類である。中世、年中を通しての暑さのため板金鎧が発達しなかった中東地方では、剣士たちにとって、幾重いくえに纏った服の布ごと人体を切り裂く、「鋭い切れ味」こそが重要視されてきた。シャムシールの湾曲した刀身はこれまさしく、布を裂き、その下の人肉を〝撫で斬り〟することに特化している。それゆえの弊害デメリットか、鋭利に裂き斬ることには長けた反面、薄刃うすばかつ細身であるため強度は心許ない――そのはずだった。

「おっ……とぉ!?」

 しかし、大男が振るい上げたシャムシールは、たった一太刀で、堅く分厚い木製のテーブルと、そしてさらに、ヘテルの持っていた拳銃の合金製の銃身までも、まるでバターのごとく易々と切断してしまった。ヘテルが一瞬素早く身をっていなければ、彼の頭部も今ごろ「人中鼻の下」から入った刃によって斜めに切り落とされていただろう。

 両断され崩れ落ちるテーブルから、ラビとヘテルが跳び退く。ヘテルは側宙で、ラビがその上を追い越すように、さらに高く。

 ラビはヘテルの上空から、前方宙返りしながらの縦回転による斬り落としを見舞う。大きな回転と遠心力を利用しているにもかかわらず、肋骨の隙間を狙い、ヘテルの胴を二つに分かつための、精密な斬撃。喰らえば即、死。それに対し、ヘテルの側宙から繰り出されるのは、大きな上弦の半月を画くような、斬り上げ。交差する二つの刃が、空中でかち合った。

 散華する火花と、衝撃。

 両者ともに弾かれ、膂力と反発を受け流す形できりもみ回転しながら落下する。大男もそれに続き、腰を入れ全力で打ち放つような右斬り払いで、着地寸前の獲物を狙う。絶妙のタイミングだったが、ヘテルは滞空状態、回転と落下運動のままに、すれすれで、このシャムシールを躱してみせた。

 一瞬の攻防に、死線をくぐること三度みたび――。ヘテルは己の背骨を伝って全身がぞくぞくと身震いするのを感じた。

 ――空中における超人的反応から、猫科動物のように低くしなやかな着地へと移行。その寸毫すんごうの合間にも、ヘテルは自身の握る拳銃の断面と、その銃身を切り落としたばかりの大男の曲刀とを、交互に凝視していた。

 銃身の切れ口は赤くけたように発熱しており、大男の振るったシャムシールは、刀身を震わすように不気味な高周波音を発している。

 成程、そういうことですか――。すでに着地からの体勢を立て直し終えていたヘテルが、声には出さず、納得の表情を浮かべた。

 この護衛の大男はつまり、〈振動〉の『異能』をシャムシールの刃へと一点集中的に伝達させ、刀身を〈超振動状態〉にしているのだ。彼の能力は、おそらく発生範囲と威力が反比例し、展開の範囲をせばめるほど、〈振動〉は速く強力になるのではないかと、ヘテルは推察する。この異常な切れ味も、その特性を利用した超高速の振動刃により、摩削と高熱で物体を切断している――つまりは「高周波ブレード」と同じ原理だった。

 ヘテルが牽制で、手に残っていた銃把と銃身の切れ端を投げつけると、敵はそれもシャムシールで、こともなげに斬り落とす。硬い銃身に、するり、と通る刃――やはり、タルトケーキでも切り分けるかのように、綺麗な真っ二つだった。

「ふぅむ」

 アレを受けるのは、非常に良くない――。

 この男の振るう斬撃は実質、受け太刀不可能。すべて回避しなければならない――と、ヘテルは肝に銘じる。

 連続して、大きく袈裟に斬り下ろされたシャムシール。ヘテルが横にずれて躱すと、背後に高く積み上がっていた弾薬箱の一区画ごと、テントの厚い壁幕へきまくが易々と切り裂かれた。大男は踏み込みから反対の足へと繋げた前蹴りを豪快に押し込み、崩れかけていた弾薬箱の山ごと、ヘテルをテントの外へ蹴り出した。左胸部を激しく蹴り付けられ、ヘテルは喀血しながら、ひらけた砂地に転がり出る。

「(上手い。護衛対象から戦いの場を離された――)ガハッ……!!」

 手をつき、起き上がる。大男も、大きく切れ目の入った幕舎を素手で軽々引き裂いて、外へ躍り出た。――追撃。月の無い夜空をバックに、大男の頭上でシャムシールは痩せ細った銀月のようにひるがえり、薄刃はくじんきらめきを放つ。

 大胆に、躰ごと相手に切り込むような、横薙ぎの屈め斬り。

 超振動にいななく新月の刃は、斬撃そのものの速度もあって目視不可能。ヘテルはそれを刀身の発する共鳴音から察知し、頭を下げて躱す。

 凄まじき剛剣――勢い余った剣風が、周囲の砂塵を半円状にえぐり飛ばした。

 そこへ、あとを追って幕舎から飛び出したラビが、大男の背を踏み台に、高く跳躍。五メートルも上空より、真下へ向け、槍投げのように長剣を投擲。一直線に飛来する長剣を、ヘテルは頭上にかざした己のつるぎで打ち返した。


 ――――ギキイィィィイン…………ッ!!!!

 

 行き場を失った長剣が、空中でくるくると回る。ラビはその剣先が敵の方に向いた一瞬を見極め、斜め上から打ち降ろすような跳び蹴りを、柄尻に当てる。同時に自分の背後に書物を回し、ページをなぞりながら、短く何事かをそらんじた。

 〈変換解除〉――それに伴う、「現象」の再構築。書面から解放された『ノタリコン文字』は、背後に設営されていたテントの屋根を吹き飛ばすほどの〝突風〟として巻き起こり、その反作用を背に受ける形で、ラビの落下は急激に加速した。加速を伴った飛び蹴りに押し出される長剣が、ヘテルを串刺しにすべく迫る。

 ラビの大技を、さっと身を引いて躱そうとするヘテル。

 しかし、大男との連携が、それをさせなかった。もう一人の敵はすでに、地に手をつき、〈高周波振動〉の能力を発動し終えていた。

 大男の手から発生した振動波が伝わり、ヘテルの足元の砂地は、蟻地獄アリジゴクのように陥没していく。

「――これは、まさか!!」

 砂地はヘテルを中心に、半径3メートルほどの範囲でずぶずぶと沈み込んでいく。乾いた大量の砂粒が、まるで泥のように一気に流体へと変容してゆく様を見て、彼は驚愕した。

 振動による流砂現象――「クイックサンド」だ。

 この地盤沈下現象は『液状化現象』などとも言い、砂泥地などで地面に振動が加わることで、砂中に含まれる空気や水分がより分けられ、土砂が下方下方へと沈殿することによって起こるとされる。

 護衛の大男は、この地での利に長けた、砂漠の民である。故に、その知恵と土地勘は、フィールドが砂漠ホームグラウンドであることで遺憾なく発揮される。彼はこの地帯の付近に地下水脈が流れていることも、そういった場所の砂層が流砂を引き起こすのに適した水分を含有していることも、あらかじめ知識として有していたのだろう。そして、先の激しい戦闘中にもさりげなく砂上に手を触れ、〈振動〉の異能をソナーのように地中に伝わらせることで『反響定位エコロケーション』のごとく利用し、地下に空洞部を有している場所ポイントを探し当てていた。あとはそこへ獲物を誘い込み、自らの能力で局所的にさらなる強い〈振動〉を与えてやれば、小規模ながらも流砂と同じ現象を引き起こせる――というわけだ。

 ヘテルの両脚はあっという間に、膝の下あたりまで砂に沈んで身動きが取れなくなる。バランスを崩し、杖をつくようにつるぎで躰を支えようとするが、刃は砂地を深く突き刺すのみで、まるで杖の用を為さない。

 ――しかし、彼は慌てていなかった。

「ふッ!」

 砂中から勢いよく剱を抜き放つと、舞い上がった砂埃と、ばっと大きく翻した司祭服で、己の身をくらました。

 地上の大男と、空中のラビが、敵司祭の姿を一瞬見失った――そのとき、流砂と化していたヘテルの足場付近で、火薬の爆ぜるような炸裂音が響き渡った。

 爆風で、巻き上げられる砂。その威力により、ヘテルの躰も一緒に吹き飛ばされ、バンカーからはじき出されたゴルフボールのように流砂地獄から脱出する。

 結果、ラビの落下蹴りから放たれた剣技は宙を舞う砂塵しか切り裂くことができず、ヘテルの躰を捉えることはなかった。


 ――何が起きたのか。


 ラビも大男も、当然のように疑問を抱く。

 先ほどの爆発は、一体。兵舎から奪っておいた手榴弾でも隠し持っていたのか? 仮にそうだとして、あの状況から起爆ピンを抜き、(爆風と破片によるダメージを減少させるためにも)砂中深くにうずめたうえで、爆発の衝撃に備えておく猶予など、到底無かったはずだ。

 ――ズガッ!!

 ラビの剣は地面に深々と突き刺さる。爆風を利用した跳躍回避で、上空からの〝串刺し刑〟だけは免れていたヘテル。しかし、長剣はヘテルが纏う司祭服の長いすそを、執念深く切っ先で捕えていた。地に突き刺さった長剣が、その場にヘテルを縫い付ける。動きを、封じられた。

 一か八かの脱出に賭けたヘテルのダメージも、決して軽いものではなかった。爆風を受けた右半身には広く血が滲み、右足は靴も跡形無く、煌びやかだった祭服もぼろぼろに、ところどころが破けている。

 ラビは地面に突き立てられた長剣の柄尻の上に、片足立ちで降着。バランスを崩すこともなく、そのまま鋭い廻し蹴りを見舞う。軌道としてはミドルだが、足場となった長剣の高さでハイキックに等しい。

 ヘテルは地面に縫い止められていた祭服の裾を、己のつるぎで切り払い、移動回避しようするが間に合わず、ラビの黒い革靴に頬を蹴り抜かれる。

 さらに大男が踏み込み、シャムシールの湾曲した刀身からせり上がる切っ先を、ヘテルのチェストめがけて突き出した。

 超振動状態のブレードを、つるぎで受けることはできない。ぎりぎりのスウェーバックで回避。ヘテルは大男の後ろに回る形で背中への体当たりを喰らわせ、彼との距離を大きく突き放した。

 それと同時に、長剣の上から飛び降りたラビが、深い着地の姿勢から一気にふところにもぐり込んでくる。下方から、その手に持った書物の背表紙――レンガ本と言ってもいいほどの硬質なハードカバーの装面と質量が、アッパー掌底のようなモーションでヘテルの顎へと叩きつけられた。

 下顎への強打は、一瞬、脳震盪のうしんとうのようなダメージとしてヘテルの意識を奪いかける。衝撃を逃すため、自ら後ろに飛んでいたことで、失神は免れた。どっと砂漠に倒れ込んだところで、馬乗りになったラビの反対側の手――掴み掛かるたなごころが、がしりと、ヘテルの喉首のどくびを捕まえた。

「(しまっ――――)」

 ――このラビの手に触れられるということは、『ノタリコン』による省略発動を許すということ――。

 ラビはすでに、詠唱らしきものを始めている。人間一人の存在すべてを文字情報に〈省略〉するのは、『ノタリコン』による短縮がなされるとはいえ、どれほどの時間が掛かるのかは未知数。個人の持つ記憶や人格といったものも、読み取ろうとする内容に影響があったりするのだろうか? だが、そうであってもおそらく、それほど長い時間は掛かるまい。せいぜい、数瞬か、数秒か――。

 しかし、異教の司祭は、己の死刑宣告にも等しいその詠唱を聴かされながらも、決して、絶望などしていなかった。


『ムドゥ・ク……』


 ヘテルの発した、呻き声にも近い謎の言葉に、ラビは驚くほど過敏に、反応した。この司祭、今、確かに――。


 ムドゥ(万象の書記官に)・ク(告げる)――――ラビには、そう言ったように聞こえた。


 そう、『ノタリコン』で、自分に伝わるように、のだ。

 ラビの行うノタリコン変換には、多大な集中力を要する。その際、彼の思考も全てノタリコン法にのっとって置換され高速化が行われているとともに、以外の雑念や雑音は完全にシャットアウトされる。

 しかしそれゆえに、、たとえそれが雑音であっても、思考が、乱されてしまう――。


『――ムドゥク(万象の書記官である貴方へ、告げる)』

『――ヴム(言葉こそ)』

『――ィフュムア(私を現世へと繋ぎ止める)』

『――ルィ(鎖であり、錨)』


 ヘテルの連ねる言葉自体に何か特別な力が宿るわけでも、相手の異能そのものに干渉しているわけでもない。彼のノタリコンは、ラビのそれに比べて、おそらく拙く、遅い。だが――


『――イトルァーフ(貴方に私を省略することは、できない)』


 ――自らの権能への、はっきりとした否定。永い信仰と戦いの人生の中で、。ただそれだけで、充分だった。

 ラビの混乱と精神的ダメージは深い。彼の胸中には今、驚愕と、そして恐怖にも似た感情が渦巻いていた。ひと口に『ノタリコン』と言っても、カバラの流派や使い手ごとに、定められた文法や略し方のクセは様々である。それを、この男は――たった数分の闘いの中で、己の編み出した『ノタリコン』を解析し、使ってみせたというのだろうか……?

「……くっ!」ラビの思考と集中は、そこで完全に途切れた。

 千載一遇。ヘテルはお互いの腕どうしを乱暴にぶつけ合うよう弾きとばし、敵を押し上げるように蹴り上げ、マウントでの拘束から逃れることに成功する。

 ラビも即座に持ち直して追撃を加えようとするが、やはり動揺を隠しきれておらず、その初動からして明らかに精彩を欠いていた。

 そこへ、再びの加勢で乱入する、褐色の大男。

「……ぐぉオオオオォッ!!」

 共闘者に対し、鼓舞するような雄叫びをあげる。その声に、ラビが少しばかり落ち着きを取り戻したよう、ヘテルには感じられた。

 曲剣の乱舞と、ラビの体術。その連携を前に、なんとか致命的一撃だけは凌ごうと攻撃を避け続けるヘテル。とても即席のコンビネーションとは思えない二人の波状攻撃に追い詰められ、一手、二手と、次第に遅れが生じていく。ついに大男の浅黒い大きな手が、そのごつごつとした太い指でヘテルの顔面をわしづかみにした。高周波を帯びた刀身にばかり注意を向けていたため、意表を衝かれてしまった形である。

「……かァッ!!」

 大男の一喝と共に、彼の手から異能が発せられ、ヘテルの頭蓋、そして脳へと伝播する。超高周波数の〈振動波〉が、じかに叩き込まれた。

「(不味ッ――――い……)」


 ヴンンン゛ッッッ――――。


 意識を失いかけるヘテル。とどめとばかりに、シャムシールの斬撃。

 よもやここまでかと、己のつるぎで咄嗟に防御姿勢をとってしまったヘテルは、しかし――。


 ――――ガィィインッッ!!!


 相手の鋭い斬撃が、防衛のため振るった己の剱に弾かれたのを見て、はっとした。

「(防……げた……?)」

 ……? 考える。それはもしや、相手がたった今、手から振動波を出していたせいだろうか――。ヘテルは、考える。

 考える。思考。並行。戦闘。続行。考える。考えねば――――


Gloriaグローリア・ Patriパトリ・ etエト・ Filio,フィリオ、 etエト・ Spirituiスピリトゥイ・ Sancサンク... ...(……この方の能力、どうやら高周波の散開と密集は同時に行うことは出来ないようですね。そして、すぐさま刃に振動を纏わせられなかったのも、高周波を範囲的に展開するのに比べて、一か所に集めるのには、それなりの時間と集中が必要なため、ではないでしょうか――)... ... icutィクト・ eratエラト・ in principioインプリンチピオ, ... ...」


 こういったとき――特に絶体絶命の事態であるほど――ヘテルは、頭の中では高速に戦況分析を行いながらも、その口からは自然と、言い慣れた祈りの言葉を連ねて刻んでいくクセがある。

 祈りの内容は、「頌栄しょうえい」や「栄唱えいしょう」と呼ばれる讃詞祈祷で、クルス教においては普遍的かつ日常的に唱えられるものだ。ヘテルにとってこれらを唱えることは、もちろん信仰的に精神を支える役割も持つと同時に、スポーツなどでプロのトップアスリートなどが行う「ルーチン」や「エフィカシー」といった一種の自己暗示、集中法にも近い意味合いを持っていた。アスリートたちが本番に臨む際、普段から身に染み込んだ「習慣」を繰り返すことによりリラックス効果やパフォーマンスの向上を得ているのと同じく、ヘテルが常日頃そうしているようにしゅを想うことにより、彼の精神はどんなに熾烈を極める戦闘下においても、まるで瞑想中のような平穏と安寧を得ることができた。加えて、狂信的なプラシーボ効果が無意識下における潜在能力の引き出しまでをも促していく――――。


「... ... tェト・ nunc,ヌン、 etエト・ semper,センペル、 etエト ... ... 」


 長きにわたって《教団》で受けてきた、拷問にも近い厳しい戦闘訓練の数々。それらはひたすら「祈り」を唱えながら、何度も何度も徹底的に繰り返された反復学習――。つまりは戦闘中、彼が呟くように唱える詠唱から、それに呼応するかのごとく、訓練時の記憶と同時に、躰に刻み込まれてきた動きまでをも呼び起こす。

 その状態にまで〝トランス〟したヘテルの躰は、敵の動きに対してほとんど反射的に技を繰り出せるにまで至っていた。まるで機械に組み込まれたプログラムのように、想定訓練で教え込まれたあらゆる戦況に対し、師から叩き込まれたあらゆる技術が、半自動的に対応してゆく。迎撃、防御、回避。それらの選択と実行は、刹那的、かつほぼ無意識のうちに成されるのである。

 ――結果として、今のヘテルは他人から見ればまるで、神の声を聴き、天啓を得たかのごとき洞察と集中力で敵の攻撃を捌くことすら可能にしていた。

 この境地にまで至ることができたのは、《教団》の擁する『十二使徒』の中でも、ヘテルただ一人――。


「 ... ... nィン・ saeculaセクラ・ saeculorum.セクロールム。 Amenエイメン ... ... 」


 ――そうして戦況に身を委ねている間にも、揺さぶられた脳は回復し、ぼやけていた意識も、次第にはっきりとした輪郭を取り戻していく。戦いは「躰」に任せながらも、「頭」の中では、より鮮明に、戦闘と並行した高度な思考展開が可能となる。混乱状態はリセットされ、戦闘プランの再構築が行われる。

 ヘテルはようやく取り戻したクリアな視界で改めて、二人の敵を視た。

 如何いかなものでも自由自在に出し入れするノタリコン遣いのラビ――保有している武器や現象によって、選択可能な戦術は千差万別。そしてもし、その手に触れられてしまったら。先ほどは何とか脱出できたが、再び同じ手が通じるとは限らない。接触は依然、非常に危険であることに変わりない。

 剣士であり、どんな物でも斬り裂くことができる高周波使いの大男――高速振動を纏った斬撃は実質防御不能であり、その剣術の腕も卓越している。加えて〈振動〉という能力そのものに対する理解も深く、三半規管や脳機能へのダメージ、さらには地形効果に影響を及ぼす搦め手まで使ってくる。

 ヘテルは、二人がいかに手強い相手かということを再認識した。短期決戦でなければ、己に勝ち目はないだろう、と。

 ――しかし。

「アハハハハ、素晴らしい、素晴らしい……ッ!!」

 そんなことはどうでもいい――とでも言わんばかりに、彼の顔は多幸感と恍惚の奔流に活き活きとしていた。

「(……知りたい)」

 ヘテルは思う。考える。どうすれば、相手に殺されないのか。どうすれば相手を殺すことができるのか。今、目の前の者はどんな風に自分を攻略しようと考えているのか。逆に、今この者の、されて一番嫌がることは何なのか。

「(知りたい――――)」

 お互いの血さえも混じり合うくらい深く切り結び、繋がりたい。その瞬間、闘う者たちは相手のことしか見ず、相手のことしか考えない。

「(知りたい……ッ!)」

 内面と内面、全頭脳。全身、肉と肉。それらを総動員した、真の触れ合い。コミュニケーション。互いが互いのことを、これほどまで真剣に考え合うことのできる儀式が、いったい他にありえるだろうか――? と。

「(もっと!もっと知りたい……ッッ!!)アァ……ッ」

 分泌される脳内麻薬。絶頂に近い恍惚感と戦気に、脳神経回路シナプスたかぶる。だが、そんな快楽の奔流に呑み込まれそうな中にあっても、ヘテルの思考は決して暗殺者としての智慧を喪ってはいなかった。

 護衛の二人は気付いていない――敵が少しずつ、自分たちのあるじがいる幕舎テントへと後退しながら防御に徹していることを。追い立てられるように再び幕内に転がり込んだヘテルは、二人の敵と剣舞に応じながら、自分の足下へと一瞬、確認の視線を落としていた。激しい攻防の中で、自然と闘いの場を「定位置」へと誘導していたのだ。

 彼の視線の先にあった物は、地面に転がっていた三つの弾丸。その弾丸は、戦闘の手始め、ラビが異能によって撃ち返してきたのを、ヘテルがつるぎで斬り落としたもの。柔らかい鉛の弾頭は、鋼剣によって刻まれた深い亀裂によって、いびつにひしゃげている。

 それを、気付かれないようにこっそりと、剣舞に紛れた自然な動きで、己から遠ざけるよう、相手に向かって蹴ってよこす。砂上を転がり、弾丸はヘテルの思惑通り、相手の足もとへ。ちょうど、近くには先ほど大男の斬撃でぶちまけられた弾薬箱の中身が散乱しているのも、カモフラージュとして功を成した。

 細工は流流、仕上げをとくと御覧じろ――。

「さて。そろそろ、幕ですね――」

 そう言って後ろへ飛び退くと、舞うように振るっていた己の剱を、


 ――カチン。


 次の瞬間には、ベルトに掛かっていた鞘へと納めてしまった。

 突然の戦闘放棄ともとれる、その納刀――――敵対していた二人は不審に思うも、むしろチャンスであると判断。ここで攻撃をやめる理由にはならない。

 しかし。鞘と刀身が完全に合致し、金物どうしが「ガチャッ」と金型にまる音を立てた次の瞬間。地面に転がっていた三つの銃弾が、


 ――――ズガァァァアアンッ!!!!


 

 ラビの足下で、銃弾が〈爆発〉した。

 それらの弾は、兵士達から奪ったジェリコ941に装填されていた、ごくごく普通の9mmパラベラム弾のはずだった。超小型の爆弾でもなければ、ましてや火薬の込められた特殊な炸薬弾頭でも決してなかった。薬莢から発射されたあとの弾丸は、ただの鉛の塊で、そこに「爆発エクスプロージョン」といったような化学反応を起こす要素など、一切含まれていない。それが、なぜか今このタイミングで、一斉の〈起爆〉――。

 黒ずくめのラビには何が起こったのか、理解できなかった。ヘテルが殺し合いの最中に見せた納刀の隙――その隙を衝いて、目前の勝利に手を伸ばそうとした刹那、小爆撃によって右足首の肉を削がれ、腓骨ひこつ踵骨しょうこつを粉砕骨折、親指から数えて三本の足趾そくしも失うはめになった。

「……ッ!!」ラビはバランスを崩し、その場に片膝をついた。

 広範囲に炸裂した弾丸の破片は、褐色の大男も巻き込んでいたが、大男はこれを、咄嗟に周囲へと展開させた高周波で、弾き逸らしていた。

 ――しかしそれすらも、ヘテルの狙いのひとつであった。

 先の状況下で、空間的に高周波を展開させようとした場合、大男はシャムシールの刃に一点集束させている強力な〈振動〉を解いて、それを自らの周囲に散開させなければならない。このとき、シャムシールはもう「高周波ブレード」ではなく、「ただの薄刃うすばの曲刀」に成り下がる。

 その一瞬のチャンスを、ヘテルは力強い転舞とともに斬り込んだ。相手に背を向ける回転と、ひるがえる祭服の死角に隠されたその剣技は、鞘から刃を抜き放つ動作が直接、攻撃へと繋がる――東洋で云う『居合イアイ』のような一撃だ。

 ヘテルと大男とではリーチに差がありすぎて、大男の躰にまで斬撃は届かない。それで構わなかった。ヘテルが狙ったのは大男ではなく、

 真一文字の横薙ぎが、シャムシールの横腹をしたたかに打つ。そして、このつるぎの持つを利用するため、柄を握る手に180度、ひねりを加える。

 パキンッ――――。

 大男の持つシャムシールが真ん中から二つに折れたのを見届けて、ヘテルはバックステップで距離をとった。

「グ……ッ!」

 大男が唸った。短刀ほどの長さも失ってしまったシャムシールの残片を構え直す。

 彼は隣で片足をほぼ失っている黒ずくめのラビが息荒くうずくまっているのをちらりと見、すぐにヘテルへと視線を戻した。「この相方は、もう戦力としては期待できないかもしれない」と、即座に判断を下したようだ。そして、「もしかして、自分たちは想像以上に危機的状況なのかもしれない」――とも。

 無論、ラビの精神こころも、まだ折れてはいない。彼は書面にストックされたノタリコン記号から、奇抜な形状をした短機関銃を現出させた。第二次大戦前に独逸ドイツで開発された、銃身から横に向けてマガジンが突き出しているタイプのデザインは、およそ骨董品のような代物と言って差し支えない。おそらく当時レジスタンスとして活動していたユダヤ系戦闘組織が旧独帝軍から入手した盗品・鹵獲品の類だろう。

 敵意と銃口を向け続けられてなお、使徒は、そんな敵対者たちを慈しむかのように、柔和な笑みを向ける。

「ふふふ、素晴らしい時間でしたね。愉しかった。貴方たちに会えたこと、深く神に感謝致します……」

 そう言って、ヘテルは己のつるぎを、ゆったりと前に構えた――。

 そこに至ってようやく、ラビと大男の二人組は、ヘテルの持つそのつるぎの形状を、。今までは戦闘中、至近距離かつ高速で振るわれていたため、その姿形をはっきりと、落ち着いて見定めることができなかったのだ。

 否、敢えて、ヘテルがその刀身を視認させないように取り回していた――というべきか。

 ――それは、刀剣として、とても奇妙な形をした武器だった。

 長さこそは常識的な片手半剣の大きさで、西洋の刀剣類によく見る諸刃の直剣とも見えるが、細身のわりに刃は肉厚で重厚感がある。しかし、持ち手を守る鍔は無く、代わりにこしらえられた円盤状の装飾から一体化して刃が伸びている。そのすすけた真鍮色しんちゅういろの刀身は、ぼろぼろに刃毀はこぼれしている――いや、刃毀れしているかのように――見えた。

 刃の欠けのように刻み込まれたそれら凹凸のみぞは、明らかに、人為的に付けられたものだった。

 武器としては違和感を覚える奇妙なデザインではあるが、十人が見れば十人が、その形から「ある見慣れた道具」を連想するだろう――。


「《教団》所蔵、聖遺武具が一つ――『天鍵てんけん』」


 ――そう、その剱は、謂うなれば『かぎ』のような形状をしていたのである。

 ヘテルはこの鍵状の溝をソードブレイカーのように利用して、先ほどは大男のシャムシールを叩き折ったようだ。

 敵の視線が己の剱に集まっているのに気付き、微笑んだ。

「……この剣。これは神の御子より預けられし、天国への鍵――。『天鍵』とは文字通り、貴方がたの魂を『天国』へ導くための『鍵』なのですよ」

 天鍵の使徒、ヘテル。彼は、『天国の鍵』を持つ者――。

 その鍵は〝開錠〟するもの。こじ開け、ほころばせるもの。それは物質、生命を問わず。万物を現世から解き放ち、神の元へと散華さんげさせる。はじけた爆炎は、まるで死者へと手向けた薔薇が、その赤い花弁を散らすかのように。

「……美しい、でしょう? 我らが教団、鍛冶師トバルカイン氏の特別製、でしてね」

 そして、スリングで肩からたすき掛けにされていた『天鍵』の鞘を取り外し、その手に取った。風変りな刀身を受け入れるためだろうか、鞘の入り口付近は円筒形で、差し込むための鯉口はまるで「鍵穴」のような構造をしている。

「――勝負、ありました」

 使徒は自らの勝利を宣言し、『天鍵』を「鍵穴」に押し込んだ。


 ガチャリ――。


 その大仰な動作に、大男は、嫌な予感にとらわれた。

 ――次の瞬間。

 直感した不安の正体を見破る暇もなく、大男の握っていたシャムシールが、炎熱とともに、爆散した。

 爆炎と、刃の破片が凄まじい勢いで飛び散り、それらが、大男とラビに致命傷を与える。

 特に、右足を失って屈んでいたラビは、頭部付近で爆熱を浴びたため、その死にざまは酷かった。顔面はぐちゃぐちゃに原型を留めず、被っていた帽子と、こぼれ出た目玉は遠くに吹き飛ばされ、ヘテルの足下まで転がった。

 使徒は自分のつま先に被さってきた帽子を拾い上げ、優しく埃を払うと、ラビの死体まで歩み寄る。まさか死んだふりをしている可能性はないだろうが、念のため、鞘に納められていた『天鍵』を再び抜刀しておく。

 ラビはやはり、即死だったようだ。ヘテルは屈み込み、見るも無惨となった敵の死に顔に、そっと帽子をかぶせてやり、静かに十字を切った。

 その横に倒れている褐色の大男はまだ、かろうじて息をしていた。重度の火傷と擦過傷、刃の破片が躰中に突き刺さり、瀕死の状態ではあったが。瞬時の判断で発生させた高周波で爆風をいくらか相殺し、一撃で命まで持っていかれることだけは防いだのだろう。戦士の判断――見事としか言いようがないが、そこまでだった。

 司祭は今際いまわきわの戦士を抱き起こし、その頬に敬愛の口づけを。

 大男は腰帯こしおびから短剣を抜いて最後の抵抗を見せようとしていたが、その手はヘテルの手によって、そっと優しく――しかし、一切の反撃をも封じる力強さで――握り止められている。


「私は、今日のことを決して忘れません……貴方たちはまこと、主の前に力ある狩猟者ニムロデのごとく、素晴らしい戦士でした。ですから、勇敢なる者たちよ。どうか恐怖おそれずに。神の愛は普遍です、それはあまねく死にさえも。さあ、今はただ、目を閉じ、ゆだね……そして、安らかに……――――――」


 慈母が泣く子を寝かしつけるかのような穏やかさで。

 手厚く、ゆっくりと。

『天鍵』の刃を心臓に、差し込み、ひねり、


 ――命がひとつ、奪われた。


「――――エィメン。」


 政府要人と陸軍幹部の二人は、その様子をただ呆然と見ていることしか出来なかった。他でもないこの場に同席を許したほど腹心の護衛である異能者たちが、よもやたった一人のテロリストにおくれをとるとは、思ってもいなかったのだろう。

「貴方がたも、よくぞ逃げずに、最後まで見届けて下さいました……」

 そう言って、暗殺対象のほうを振り返ったヘテルの顔は、死闘の直後とは思えぬほど穏やかだったが、彼の紺碧こんぺきの瞳を収めた双眸からは、滂沱ぼうだの涙があふれ、美しい雫となって、つらつらと頬からあごを伝っていた。

 それはやはり、歓喜と悲哀――――両方の涙だった。

 使徒ヘテルは、たった今、罪びとたちが許され、神の御許に旅立たれたのが、心の底から喜ばしくてしかたがなかった。また、それと同時に、使徒ヘテルは、たった今、この世界から愛すべき隣人が二人も喪われてしまったことの悲しみに、心の底から打ちひしがれてもいた。

 この、理解し難き矛盾を内包しながらも、美しく神々しい殺人者に、二人の暗殺対象はすっかり目を奪われしまった。不思議と、「ああ――この真聖の狂人からは、決して逃れられぬのだな」と覚悟を決め、――そしてなぜだろうか、幾分か穏やかな気分にさえなった気がしたのだった。

 ヘテルが歩み寄ってくる。確実に『死』が近付いて来ているにもかかわらず、何故だろうか、恐怖は微塵も感じなかった。

「――愚問。最も信頼に足る部下が、命を賭して闘っていたのだ。上官である私がそれを差し置き逃げるなど、どうしてそんな事が出来ようか」

 どっしりとした落ち着きを取り戻し、陸軍幹部が言った。

「――あー……、そうだな。命は別に惜しくないよ。ただひとつだけ断っておく。今我々が失われてしまったら、内紛に蝕まれるこの国の政治経済の立て直しと、民族的な世界進出に大きな遅れが生じることになる。周辺諸国一帯においても軍事的、宗教的、両方面から紛争を抑えられる者がいなくなり、増え続ける死者の歯止めも利かなくなる――それでも、いいんだな?」

 ほんの少しの諦観を、軽い溜め息の内に滲ませながら、政府高官が言った。

「無駄だ。心残りだ、と言って見逃してくれるような手合いでもあるまい」陸軍幹部は残り少なくなった葉巻を、ガラスの灰皿に押し付けてもみ消す。

「だろうな。まあ、最期の瞬間はせいぜい苦しまないようにしてくれよ」政府高官は首元のネクタイを緩ませながら、この後自分に訪れるだろう運命を受け入れた。


 ――ヘテルは、この二人を「美しい」と思った。


「はい――それはもちろんっ」

 彼は弾むような声で、そう答えた。

 菩薩のような笑みを湛えたまま、剣を払う。


 そのひと薙ぎは、星の流れるようにはやく、それでいて、羽毛が頬を撫でるかのように、優しい。



 痛みさえ感じる間もなく――――二つ。首が、ごろんと地面に転がり落ちた。





【3 / 19 (Sun) 07:27】


 ――翌朝。

 あれから、広域にわたる軍の警戒範囲脱出の際にもさらに大勢の兵士を斬り殺さざるを得なかったヘテルは、昨晩よりも一層泣き腫らした顔で、砂漠地帯を歩き続けていた。

 どこまでも続く青い晴天と、砂の海の地平線。

 わざわざこんな場所を通っているのは、もちろん人目を避けるためだ。それも、足跡から追跡されることを避けるために、なるべく険しい岩場を選んで歩くようにしている。

 迷彩代わりに黄土色のすり切れたローブを被り、すっかり砂漠の風景に溶け込んで、ずだ袋に水や食料を入れて肩から下げている様は、まるで、まつろわぬ流浪の民のようだった。

 かつては神との約定を違え、楽園を追放されることとなった古の放浪者も、このような孤独な旅をしたのだろうか――――などと、ヘテルは神代に思いを馳せる。

「さて、そろそろ休憩にでもしましょうかね……」

 座るのにちょうど良い具合の岩を見つけ、腰を下ろそうとした。

 水を飲もうと荷物を降ろしたそのとき、容赦ない日照りが降り注ぐ中で、突如、地に落ちた影が。それはヘテルの真上を高速で横切って、一瞬、陽の光を遮った。

 ふと甲高い猛禽類の鳴き声がして、ヘテルは上空を見上げる。天には雲ひとつなく、そこに一羽の鷹が、ヘテルの遥か頭上で旋回しながら、呼び掛けるように鳴き続けていた。

「あれは……」

 この辺りに棲息している猛禽ではない。そして何より、見覚えのある鷹だ。

 ヘテルが口笛を吹き、腕を止まり木のように差し出すと、案の定、その鷹は舞い降りてきた。ばさ、と立派な翼をはためかせ、鷹はヘテルの腕にとまった。

 足に、筒のようなものが括り付けてある。間違いない。《十字背負う者達の結社》が連絡用に使っている「伝書係」だ。インターネットや電波通信、郵便などでのやり取りと違い、これなら傍受や情報漏洩の心配もない。その代わり、よほど重要な情報か、かなりの緊急事態でもない限り使われることのない手段でもある。

 ずだ袋から取り出した肉の切れ端と水を与え、書簡を外してやると、その鷹はヘテルに数度頬ずりをしてから、空高く飛び立っていった。

「珍しいですね……よほど有事の時以外、鷹文たかぶみは使わないはずですが……」

 それほどまでに不測の事態なのか、もしくは火急の任務でも記されているのかと、ヘテルは書簡を開いてみた。


『教団本部壊滅、帰投は不要ゆえ、ヒノモトへ向かって同志と合流するべし』


 走り書きで、ただそれだけだった。


「おやおやぁ?」

 その見慣れた筆跡は、おそらく『聖務管理官』である使徒アンドレによるもの。さらに、本部には『顧問代理』(元・顧問補佐)である使徒士門シモンも常駐しており、あの二人が揃って何者かに討ち取られるとは、考えにくいが――。

 とんでもないことになっているようだ――と、ヘテルは天を仰ぐ。

 帰る場所を失くした鷹はすでに高く高く、もう見えないほど遠くまで――――。



「やれやれ……極東の地『日ノ本』ですか――今回も大変な旅路になりそうですね」





( 『使徒、紅蓮の解錠者』―完― )

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『The Original Sin』 ―特警・異能犯罪捜査目録― 草履 偏平 @Paramecium

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