「ループ」
「ループ」
鏡を通り抜けたこと自体が信じられず、裕介はこのまま下に落ちるのではないかと恐怖を感じ両足を踏ん張った。でも、しっかりと地面に立っていた。しかもここは渚公園の高台だ! その時、はっと我に返り後ろを振り返ると、四角に切り取られた異空間らしきものを通して、先ほどまでいたリビングが見える。しかし、不安定な映像のようにゆらゆらと揺れ、時々砂嵐のようなノイズが発生している。目の前には母がベンチに座り、この事象に驚いた様子もなく、落ち着いて裕介を見つめている。それに気づいた裕介は、
「母さん、家に戻ろう、さあ、早く! 早く!」
と手を差し出すが、
「裕介、もう大丈夫よ。アリスがシンドバッドを呼んだわ」
「えっ?」
白うさぎのアリスがここにいるのかとあたりをきょろきょろと見渡すが誰もいなかった。そうこうしているうちに、雄介の背後から何かが崩壊するような不気味な音が聞こえてきた。後ろを見るとリビングが大きく歪んでいる。もう時間がない! 早く戻らねばと母の手を掴み、引っ張り上げて、ベンチから立ち上がらせようとしたその瞬間だった。大きな衝撃音と共に異空間が目の前で弾けた。今まであったリビングが消失して、その先にある公園に向かう下り階段の入り口が見えるだけだった。帰ることもままならず茫然自失となった雄介を見ながら母は立ち上がり、静かな口調で語り始めた。
「もう、何も心配はないわ。ダイが待っているのよ。また、みんな一緒になるの」
「母さん、何を言っているんだ・・・。ダイはもう死んでしまったじゃないか」
「違うの、アリスからシンドバッドの話を聴いたわ。お父さんがシンドバッドに願いをかけたことも・・・。シンドバッドが私たち一家をダイが眠っているところへ導いてくれるのよ」
「シンドバッドが?」
「そう、アリスがシンドバッドに引き合わせてくれるのよ」
母はアリスと体験した不思議な出来事を裕介に訥々と語り始めた。とても信じられない話だった。最後に話し終わると、母は渚公園に隣接している砂浜をそっと指差した。砂浜よりその先の沖合には2本マストの帆船が停泊していた。さらにこの砂浜には帆船から降ろされたと思われる乗船用の古いボートが見え、その周囲では数人の屈強な乗組員らしき者が海に浸かりながら懸命にボートを砂浜に引き上げようとしていた。しかし、その中にはシンドバッドらしき男は見当たらなかった。
裕介は母の信じがたい話に何て答えれば良いのか途方にくれたが、今、父がいないことは紛れも無い事実だとばかりに、
「でも、父さんは一年前に失踪して居場所がわからないよ」
「もう、すぐそばにいるわよ、今日はその一年前なんだから」
「待って、今日は今日だよ。昔になんか戻らないよ」
「アリスが懐中時計で時間を巻き戻したわ」
裕介はこの不毛な話に終止符を打とうと、ズボンのポケットから携帯を取り出し、画面に今日のカレンダーを表示して母に見せた。
「ほら、母さん、今日の日付だよ」
これを見た裕介は思わず叫んでしまった。
「あっ! そんなバカな!」
裕介の目が大きく見開かれ、携帯で表示されている年号をじっと見つめている。
母は、裕介を諭すように告げた。
「アリスの懐中時計は夢を共感できるのよ。家族の記憶の痕跡が伝承されると、それが夢となり、その証として傷が時計に刻まれるの。アリスはその夢に承認のキスをしたのよ。もう既に、夢の特異点となる時間のループが始まっているわ」
何とカレンダーの日付が一年前を示している! 手の震えが止まらず携帯をぎゅっと握りなおした。母が囁くように、
「アリスはお父さんを迎えに渚公園の入り口に向かったわ」
「じゃ、今、父さんは生きているんだね?」
母は黙って頷いた。裕介は居ても立ってもいられなく、
「俺が迎えに行く! 母さんはここで待っていて!」
命令口調で言うや否や裕介は高台の階段を駆け下りた。階段を駆け下りるとなだらかな登り道が続き、登り切ったところで、その下にある公園の入り口が見えてくるはずだ。裕介は、はやる心を抑えて走り続けた。でも、シンドバッドは一体どこにいるのだろう? その肝心要のシンドバッドがこの世に出現する様子が全く感じられないぞ? と疑問が駆け巡り、頭を冷やそうと歩きだした。道を登り切ると、遠くその先にある渚公園の入り口に男女が向き合っている姿が見えた。一人は間違いなく父だ! もう一人は白いワンピース姿の若い女性だ。緊張で鳥肌が立つと同時に、突然裕介の薄いワイシャツ越しに熱く焼けた刻印が背中へ押し付けられた。
「熱い!」
それは焼けた刻印ではなく、今まで雲で覆われていた太陽が、突然顔を出したのだ。夏の強烈な日射しを後ろから容赦なく浴びた瞬間、裕介は全てを悟った! そうだ・・・、そうだ・・・、
「俺が…俺が、シンドバッドだったんだ!」
と、思わず叫んだ。今、全ての謎が熱い太陽の刻印で焼かれ、氷解した。アリスが夢の特異点へ家族を導いてくれたのだ。家族共通の夢は再びダイと楽しい日々を共に過ごすことだけだった。ダイをゴムボートに乗せた思い出の浜辺から、今度は帆船に両親を乗船させて出発するのだ! それが出来るのは自分しかいない。なぜなら、その旅立ちの記憶を持っているのは俺だけだ。
「ダイ、ありがとう! またみんな一緒だ。ダイのもとにみんな連れていくよ。」
裕介の空虚な心は、家族の絆によって充たされつつあった。この言葉を心に刻みつつ、裕介は歩調を一層緩めた。父に向かって手を高く掲げ、今、迎えに行くよと、大きく静かに振った。これに応えるかのように、アリスは振り返り、裕介に微笑んだ。強烈な日差しはアリスの姿を透かし、地面に投影された彼女の黒い影は背中から何かが大きく左右に振れ、真の姿を地面に映していた。それは彼女の天使の翼の羽ばたきであり、シンドバッドへの旅立ちの合図であった。海岸の浜辺から大きく鋭い音で口笛が長く鳴り響いた。乗組員から、乗船の準備が完了したとの知らせだ。
「さあ、ダイ、行くぞ! 冒険の始まりだ!」
完
シンドバッドに願いを
発行 2023年9月23日
著者 monolog (モノログ)
翻訳協力 ○○○○○○
表紙イラスト ○○○○○○
バージョン 20231022
本書のコピー、スキャン、デジタル化などによる無断複製並びに無断複製の譲渡および配信は著作権法上での例外を除き禁止されています。また、本書を代行業者などの第三者に依頼し電子データ化する行為は個人利用であっても認めません。
シンドバッドに願いを monolog @monolog
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