1年目 「白うさぎ降臨」
1年目 「白うさぎ降臨」
裕介の長い出張がようやく終わった。建築工事での毎日の現場立ち会いが続いた結果、裕介の顔や腕はすっかり日焼けしてしまっていた。学生時代に好きなラグビーで体を鍛えていたが、さすがに今回の長期プロジェクトは疲労困憊となった。お腹が空いたと思う余裕もなく、深夜の夜道の中、疲れた足を引きずりながらようやく家に辿り着き、裕介は玄関を開けた。
「母さん、ただいま」
と、声をかけた。
「・・・」
母の純子はいつもなら、出張帰りの裕介を寝ないで待っていてくれる。しかし、今日は「お帰り」といつもの母の声がない。ダイニングには祐介の好物の枝豆や鳥の唐揚げが用意されていた。これだけでなく裕介が大好きな杏仁豆腐のデザートもある。いつもよりも豪華で品数が多いぞ・・・不思議だな・・・何かのお祝いかな? その時だった、
「ワォン!」
大きな野太い犬の吠え声が奥のリビングから聞こえた。亡くなったダイの吠え声と同じだ。体は小さいのにどこからそんな大型犬のような低音を響き渡らすのかと言うダイ特有の声だ。祐介は走馬灯のようにダイとの懐かしい記憶がよぎった。ダイニングで食事をしている時、ダイはソファーの上で目をつぶって寝ている。でも、食事が終わると、いつの間にかダイは祐介の足下に座って待っていた。大きな目で祐介を見上げて、
「早く、早く、ぼくのおやつをください」
と訴えていた。食べ終わった祐介がおやつを持ってソファに座ると、ダイも慌てて後を追いかけ、しっぽを振りながらソファに飛び乗ってきたもんだ。一人っ子の祐介にとってダイは愛すべき弟だった。
吠え声があったリビングに向かう途中、なぜか急に、裕介が幼い頃の夏休みの思い出が甦った。渚公園に隣接する海岸の砂浜から、小さなゴムボートにダイを乗せて波に負けないように思いっきりボートを引っ張り、
「さあ、ダイ行くぞ! 冒険の始まりだ!」
「ワォン! ワォン!」
嬉しそうに何度も大きな吠え声でダイは応えた。先ほど聞こえた吠え声と全く同じ調子の声だ。当時の裕介には、この吠え声が自分に対して
「親分! さあ行きましょうぜ!」
と元気一杯に聞こえた。こいつは俺の最高の相棒だった! 祐介は吠え声に引き寄せられ、まさかと思いながらリビングのドアを勢いよく開けて声をかけた。
「母さん犬を飼ったんだね!」
しかし、リビングには誰もいなかった。えっ! と驚き、二階も含めたすべての部屋、風呂場などを急いで捜し回ったが、どこにも母はいないとようやく気づいた。慌ててまたリビングに戻ると、テーブルには剥がされたような細長い紙と、キャップを取ったままの父のお気に入りの万年筆が置かれていた。これはただの紙ではない、本の背表紙だ。引きちぎられている。それには「鏡の国のアリス」と読めた。
そっと背表紙を手に取ると、裏には薄い紙が貼り付いていて「この本を読んだ人の夢がかないますように 続きは1117」と書かれているのが読み取れた。テーブルには開かれたノートPCがある。犬の吠え声はこのPCからだろうと思い・・・裕介は椅子に座り、PCを引き寄せると下に本が置かれていることに気づいた。その瞬間、PC画面から海面のうねりらしきものが映り一枚の写真が波間を漂っている。よく見るとそれはベンチで座っているダイとその横に立った両親がこちらを向いて笑っている写真だ。ゆらゆらと写真は奥へ奥へと波に流され遂に見えなくなり、突然PCがブラックアウトした。これは何だ? この不可解な状況は・・・
不思議な思いで裕介はPCの下にあった本を手に取り驚いた。先ほど見つけた背表紙はこの本から剥がされたものだ。表紙には背表紙と同じく「鏡の国のアリス」と印刷されている。本の中身は空白のようだ。ぱらぱらページをめくっていると、手が止まった。PCで映っていた同じ写真が貼られ、さらに手書きの文字がある。ページの下にははっきりと「1117」と大きく万年筆で書かれている。1117?・・・確か、ダイが亡くなったのは11月17日だ。数字が同じだ。写真の下には母の丁寧な字で一行のメッセージが書き込まれている。
「白いアリスを追って」
インクの文字が濡れて滲んでいる。母の涙だ! 何があったのだ? と裕介は顔を顰めた。もう一度本に視線を移すと、写真から何かが消えていることに気づいた。渚公園の高台のベンチに座っているダイだけだ。その横にいた両親が写っていない! 先ほどPCの画面に写っていた父母が写真から消えている・・・。裕介は凍りついたままもう一度、テーブル上の本の表紙に目を落とした。
「鏡の国のアリス」
昔、よく読んだ『不思議の国のアリス』では、アリスは大急ぎで走る白うさぎを追って穴に落ちたが、『鏡の国のアリス』ではアリス自身が鏡を通り抜けて向こうの部屋に移ったんだな・・・。もしかして、母が書いた「白いアリスを追って」の意味は、アリスが白うさぎで・・・、鏡の国で白うさぎとなったアリスを追いかける?
その瞬間、裕介は、はっと気づき椅子に座ったまま慌てて後ろを振り返った。その真後ろには壁に大きな等身大の鏡があった。何と、鏡にはこの部屋が映っていない! 裕介も映っていない! 写真と同じ渚公園の高台のベンチに座っている母が鏡を通してはっきりと見えた。裕介は思わず椅子から飛び上がり、鏡に近づき、鏡面にそっと右手で触れた。指が鏡面を突き抜けていく。慌てて指を離すと同時に、自分のズボンのポケットに手を伸ばし、携帯があることを確認した。万一の際には連絡が取れる。裕介は意を決して、鏡に体当たりしたのだった。その瞬間、自分が鏡を通り抜けていることに気づいた。
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