1年目 "We are made of starstuff"

1年目 "We are made of starstuff"


 純子はその予想外の言葉に不意をつかれ動揺した。女性はさらに言葉を続け、


「その背表紙は『船乗りシンドバッドの物語』ですね」

「なぜ、それを?」

「300円で売りました」


 純子は慌ててバッグの中に手を入れ、その本からむしり取られた背表紙を差し出した。


「これでしょうか?」


 女性はその切れ端を右手に取り、目を閉じた。そして目を開けると、左手でポケットから古く傷だらけの懐中時計を取り出し手の平に置いた。時計の針をじっと見つめたまま、


「もう、あなたが捜している人の願いは叶います」

「えっ、願いって何ですか?」

「亡くなった犬ともう一度逢うことでした」

「・・・」


 動揺している純子は必死になって自分を落ち着かせようとした。全く訳の分からない話だが、彼女はなぜかダイのことを知っている。からかっているようには見えなかった。ここは女性の話に合わせようと、必死に冷静さを取り繕い、


「死んだ犬と逢えるのでしょうか?」


 彼女は懐中時計についた傷を見つめながら口に近づけ、唇でそっとキスをするとポケットに収めた。


「300円をお支払いいただき、本を渡したらすぐに行かれてしまいました。声をかけたのですが・・・」

「声?」

「お伝えできませんでした」

「え、何を?」

「もともとは、生まれる前からみんな一緒だったのです。悲しまなくても大丈夫ですよと……終わりのないループのもと、再生となる一点の場所にいつかは戻りますからと」


 純子は直感で、この話の中に弘が失踪した秘密があると確信した。


「で、でも、どうやって?」

「この宇宙は、何もないたった一点のビッグバンからの創生です。このビッグバンからチリとガスが放出され、周りにあったガスが集まり星が出来ました。さらに、私たちのDNAを構成する元素も、この星々が最後に崩壊した際に作られたものです。私たちは星屑の材料で出来ているのです。でも、もとをたどればビッグバンの瞬間、みんな同じ一点に存在し、同体でした」

「私も、夫も、愛犬のダイも、もとは同じで、別れたということですか?」

「そうですね、もとは一緒です・・・別れても、永遠の繰り返しでまた集い創世されます。私たちは、もとは宇宙の一部なのです。COSMOS・・・、そうコスモスですから」

「でも夫は、別れても、ダイに逢おうと願ったんですよね?」


 純子は同意を求めるかのように問いただした。


「もうじき逢えます」


 この言葉を聞くと間髪を入れずに、


「私も逢いたいです!」


 と語気を強めた。その言葉を聞いた女性の目が一瞬潤んだように見えた。


「それはあなたの願いですか?」

「はい、夫と同じ願いを・・・」

「その願いは、あなたにとって最も価値のあるものですか?」

「はい・・・」

「願いは様々ですが、人生で最も価値あるものは富でも名声でもなく、それは記憶です。でもこれは生きている間だけの価値でなく、この先は夢として残ります」

「えっ、消失しないのですか?」

「消失しても、記憶の痕跡が人から人へ伝承されると、夢となり受け継ぎます。この夢を受け継いだのはあなたの夫です。すべての物語は最初の一点から始まっているのですから。あなたの記憶も既に伝承されています。これで終わる訳ではありませんし、あなたは独りぼっちでもありませんよ」


 この話を聞きながら顔面蒼白の純子は震える手でバッグの中から財布を取り出し、300円を黙って女性に差し出した。


「それは長い旅になります。いつしか記憶の色は白と黒となり全てが包含されます。覚悟はありますか?」


 純子は小さくうなずいた。女性は300円を受け取ると、


「では、この背表紙を直しますね」


 女性は首からボードを下ろし、しゃがみこんだ。足元にある大きな黒い鞄の中に手をごそごそといれ、背表紙がない本を取り出した。器用な手つきで糊を薄くのばし、先ほど純子から受け取った背表紙を本に貼り合わせている。そっと立ち上がると女性は両手で本を上下に挟むようにして純子へ差し出した。


 純子は受け取った本の表紙を見ると、目を大きく見開き、驚いた様子だった。慌てて本を横にして背表紙も確認した。女性は促すかのように静かに話した。


「まだ第8の航海の準備中です。船は間もなく港に立ち寄ります。もうすでに私の時計には夢の傷が一つ加わりました。この本をお持ち帰りください」


 純子は間違いなく自分の身に何かが起こり得ると予感したが、もう後戻りはできない。この女性の言葉通り、何も聞かず家に帰ろう。一人息子の裕介が帰る前に自分がやるべきことを、今、はっきりと純子は悟った。

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