第7話

 娘が、いや従業員のその娘が急ぎ足で私を呼びに来た。電話がかかっているというのである。部屋にあるのは、ホーンで上との連絡用である。本当に時代を超越した設備なのである。伝言ならホーンでもいいのにという顔をすると、従業員の娘はホーンを指さした。私が寝ぼけて蹴飛ばしたのか、ホーンは外れていた。

 慌てて、娘と一緒に上に上がった。階段は、段数はそこそこだが、急勾配できつい。よくも毎日、お膳を持って上がり降りすることだと思った。


 電話は妻からであった。妻の実家の方の甥っ子二人が春休みで泊まりに来ていて、丁度、私の叔母も私を訪ねて来ていたので、子供、息子と娘、計六人で白浜サファリパークに行くことになったから、そちらで一泊出来るようにしてくれということであった。妻は要件だけを一方的に言うと、すぐに電話を切ってしまった。

 ここの人には申し訳ないが、こんな殺風景なところを見せられないし、第一それだけの人数が泊まれる部屋があるようにも思われない。下の部屋に空きはあるのだが、四畳半である。二名に別れて泊まるしかない。悪いが、いよいよこれは向かいだなぁー、と思って、六名が来ることを女将に喋った。


「下に泊めるわけにもいきませんね。上に座敷がありますから、そこに泊まって貰いましょう。食事もそこでして貰いましょう。奥様も一緒、ええその座敷には小部屋もついていますから」と言って、子供の食べ物の好き嫌いを訊いて来た。そして娘従業員に「しま子、段取りはあなたに任したわよ」と命じた。これでは、向かいに移りますとは言えない。

 娘はメモに志摩子と書いて寄こした。「皆さんおいでで、今夜は寂しくありませんね」と、意味ありげに笑って、その座敷を見せてくれた。作りは古いが下とは違ってちゃんとした座敷であった。

 何より眺望が違う。下の部屋では向いの二階が邪魔をしてこのような眺めではない。一段上がるだけでこれだけ違うのかと、向いの屋根を見下ろした。これなら、なんとかなるだろうと思った。


 腰が悪くなければ、ここを切り上げ、サファリで一緒になって、白浜でも泊まっていいのだが、妻は考える暇もなく電話を切った。要件だけ言うとささっと切る悪い癖である。夕方5時頃、一行六人はガヤガヤとやって来た。

私の泊まっている部屋を妻は覗いて、「こんな部屋で寝てるのん?もっとええ旅館かと思ってた」と、女将が居るのに遠慮のない感想を述べた。

「皆様の部屋は別に上の棟に取っていますから」と、女将は別に気にした様子も見せずに、皆を案内した。

「うあわー、いい見晴らし!ええやん、ここ」。何とも思ったことを思ったように言って憎まれない、妻は幸せな人なのだ。

 その日の夕食は海の幸の豪華なものであった。子供たちも喜んでお旺盛な食欲を見せた。妻と叔母という飲み相手、話し相手も出来て、私は上機嫌に酔った。妻も、叔母もここのお湯はいいと、寝る前にもう一度入ろうと話し合っていた。叔母は神戸に住み、幼い頃私をよく可愛がってくれた人である。


 娘の志摩子さんが、「お布団どうします?」と訊いてきた。小部屋が隣にあるのではと見たが、襖一つである。気を利かしたのであろう。私は、下に二つ敷いて貰うように言った。志摩子さんは分かりましたとばかりに頷いた。

 風呂から上がってきた妻が、「偉いわね、本当に湯治してるんだ。でも、向かいぐらいには泊まればいいのに」と言った。

 十日もだから、それなりに楽しんでいるのだろうと、思っていたようである。健気に湯治に専念している私をいじらしく思ったのか、「触ってここ、スベスベよ」と、妻は私の手を浴衣の合わせ衿に導いた。


 あくる日、朝早く起きて二人で、裏山に登った。なだらかな坂道ではかけっこもした。走ってもピリッともしなかった。あと二日残っているのだが、みなと一緒に帰ることにした。


 翌々年、さほどの腰痛ではなかったが、疲れが溜まるときつくなるので、用心ということで、椿温泉に出向いた。女将に「志摩子さんは?」と訊くと、勝浦の漁師と結婚してやめたと言う。私は七日の予約をしていたのだが、三日で切り上げて帰った。


         了


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椿温泉にて 北風 嵐 @masaru2355

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