第6話
布団に入っても、白い肌と緋色の牡丹が浮かんできて寝付けなかった。向かいの旅館も今日は静かで、灯を落としていた。この時間で、酒を持って来いとも言えず、私は悶々と眠れぬ夜を明かした。
あくる日、私は夜明けとともに飛び起きて、裏山に登った。三月半ば過ぎと言っても小高い丘の上は風も冷たかった。海から朝日が昇り始め、海は一瞬黄金色に色を変えた。夕べのことが、夢を見ていて、嘘のように感じられた。明日から帰るまで、この丘登りでなまっている足を鍛えようと思った。
頂で半時間休憩したとして1時間半、丁度いい運動量に思われた。帰っての朝食は、鯵の干物に味付け海苔と卵一個、味噌汁が付くだけの簡素なものだが、運動のせいか、来て一番美味しく感じられた。
その朝食を持ってきたのは、いつもの娘ではなく、女将だった。その女将に「風呂の故障は治りましたか?」と、訊いてしまったのだ。女将は怪訝な顔つきだったが、今日修繕にやって来ると、無愛想に答えた。
昼は娘が持ってきた。「昨夜はどうも」とも言えず、もごもごとしていたら、テレビの方を見て、「あら、この番組見てられるんですか?私も好きです」と言った。それで、私も救われた気持ちになって、出ている男優が好きなんです、と答えて「どちらが好きですか?」と訊いた。娘はどちらも好きですと、答えたので私は嬉しくなってしまって、彼らは将来有望ですよ、的なことを言った。
「あの、男前さんでない方(小林薫)、死んだ彼に似ているんです」と言って、娘はお膳を置いて部屋を出て行った。カタコトと変則な階段を上る音がした。
もう少し、会話が転がるのを期待した私の心は、スカされて、急に空腹を覚え、昼のかつ丼を口に頬張り、テレビを見遣った。夕食を持ってきたら、思い切って訊いて見ようと思った。
今日は、向かいの旅館は団体客が何組もあるようで、夕方から人の出入りも激しいようである。車で来た芸者の数も普段ではなかった。もう私は、向かいに泊まる気持ちは失せていた。娘が夕膳を持ってきたので、そのことをまず訊いてみた。なんでも、白浜で大きな会合があって、ホテルがいっぱいでこちらに回されて来たのだということであった。こういうことはたまにあることらしい。ここはその恩恵には関係なく、超然としている。
「ここの娘さんですか?」と訊くと「いいえ、従業員です」と答えて、お膳をテーブルの上に置いた。私は向かいの椅子に座るように手で言って、「ちょっと、時間いいですか?」と訊いてみた。娘は嫌がる様子もなく向かいに座って、いつもはしない、お茶を湯呑に注いでくれた。
「ありがとう、こんなとこで、寂しくはないですか」と、気になっていたことを、私は訊いた。
「ええ、最初はそうでしたが慣れました。白浜に買い物に行っても、落ち着かず、すぐに帰りたくなります」と言って、昨夜の風呂の続きを話し出した。
娘はその事故を大阪で起こし、不便になった足では勤め先でも仕事にならず、死んだ彼氏のこともあって、実家に帰ってきたのだと云う。彼氏とは結婚してもいいと思っていた。実家は尾鷲にあって、みかん農家をやっている。田舎が嫌いで高校を出たらすぐ、大阪の電気部品会社に女工として勤め、彼氏はそこの先輩で、彼氏は暴走族に属していて、自分もバイクに興味を持つようになったと云う。
兄二人に、娘一人の家族で、実家は兄夫婦が跡を継いでいるのだが、父親が脳溢血で倒れてからは、娘がもっぱら父親を世話することになった。
季節ごとに、十日ほどこの温泉に来るのを父親は何よりの楽しみにしていた。そんなことでここの女将とは親しくなった。三年前に父親が亡くなり、家にも居りづらさを感じるようになって、ここで働かして貰っていると、語った。
その晩は、娘の裸像がチラついたが、すぐに追いやることが出来て、気がつけば朝であった。
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