終幕:永久に

「……セト、どうしたの? むずかしい顔をして」


 ふいに聞こえたのは、穏やかな声。セトが物思いから意識を戻せば、一人の少女が――ユリアが、セトの顔を不思議そうに覗きこんでいる。


 そこに、不安の色はない。切なげなまなざしも、悲しみに揺らぐ瞳も、存在しない。


 それはきっと、彼女が彼女の望みを叶えたがゆえなのだろう。そう思いながら、セトは薄く笑った。


「いえ、少し――そう、少しだけ、昔のことを思い出していました」


 すると、ユリアはやはりきょとりとした顔で首をかしげる。


「昔のこと?」

「そうです。ボクがキミの夢みた世界に押し入り、キミという存在を欠落させていたときのことです――ユリア・アカシック・セブンフィールズ」


 そう言って、セトは天を仰ぐ。けれど、仰いだ天に空はない。水の中から外を眺めたときのような、ぼやけて歪んだ色彩が見えるだけだ。


 けれど、かまわず天を仰ぎ続けるセトを見つめ、ユリアと名づけられた世界の意思は微笑する。


「後悔してるの? わたしの、アカシックの傍にいるって決めたこと」

「いいえ」セトは即答した。「ただ、ボクは愚かだったと思っているだけです」


 愚かだった。本当に、愚かだった。ただの好奇心だけで他者の世界に踏み入ろうとしたことも、その手でリ・コーダーという存在を完全に抹消しようとしたことも。なぜなら、それは結果として、この何よりも愛しい少女を苦しめる要因となっていたのだから。


 しかして、ユリアは笑う。セトに砕かれた世界の壁のかけらは笑う。「そんなこと言ったら、わたしも同じだよ」と。


「ずっと、わたしだけのしあわせな夢物語を思い描いて、閉じこもって。そうすることでしか、しあわせなんて手に入らないと思ってたわたしのほうが、よっぽど馬鹿だよ」


 天を仰ぐセトに反して地を見つめ、ユリアは続けた。


「世界が変わってしまうことを恐れて、自分以外のすべてを認めようとしなかったんだから」


 ユリアが、その場にしゃがみこむ気配がする。


「だけど、わたしがカケラになって、自分の夢みた世界に落ちて、すべて忘れてしまっていたとき、手を差し伸べてくれたのはセト、他でもないあなただった」


 セトは天を仰ぐのをやめ、ユリアを見た。依然として地を見つめるユリアの視線の先。遙か遠い彼方には広大な大地が、彼女の世界が広がっている。遠くを見つめるユリアの瞳が、ふっと笑みをかたどった。


「ふふ、セトはいつも悲しい顔をしてたね」

「当然です。ボクには罪の意識しかなかった」


 かつての自分の苦悩を笑われたような気がして、セトは眉根を寄せる。それに気づいているのかいないのか、ユリアは微笑んだまま言った。


「そう、そうだった。始まりは、あなたの笑った顔が見たいだけだった」


 そう言うユリアの表情は、ひどく懐かしそうだった。彼女が願ったのは、ただひとつだけ。セトの悲しみを晴らしたいと、笑った顔が見たいと。


「わたしは、セトとの出会いを否定したくなかった。セトと出会ったことで起きた変化も、失いたくなかった」

「……それは、リ・コーダーという存在も含めてですか」


 リ・コーダー。それは、世界の事象を書き換える力を持った存在。ユリアの箱庭へ踏み入り、彼女の予定調和を崩そうとする存在。ユリアにとっては邪魔な存在ではないのか。セトがユリアの横顔を見つめて問うと、ユリアはしゃがみこんだままセトを見あげた。


「リ・コーダーは、わたしとあなたが出会った証だよ。世界が、わたしが変われたきっかけ。すべての希望――少なくとも、わたしはそう思ってる」


 そして、ユリアは言うのだ。だからわたしたちは今ここにいるんでしょう、と。


 その言葉を、セトは何度聞いただろう。その言葉を聞く度、セトは何度救われただろう。リ・コーダーという存在をアカシック・レコードに記し直すために、永遠に終わらない営みを記し直すために――そのためだけに、セトとユリアは今ここにいる。人という存在を捨て、神とも世界とも呼べる概念になって、ただ二人だけでアカシック・レコードを書き直し続ける。それが、脈々と受け継がれていく希望となることを願って。


「セト、ほら見てよ。また新しい“わたしたちの子ども”がうまれるよ」


 ユリアが指さした遙か遠い世界。セトは眼下に広がるそれを一度だけ見渡し、やがて、口もとに笑みを浮かべた。


「どこですか?」


 と、セトがしゃがみこめば、ユリアがその肩に頭を寄せて、ある一点を指さす。セトはユリアが与えてくれる心地よい重みと距離に胸の内が穏やかになるのを感じながら、新たに生まれてくるリ・コーダーへ、心からの祝福と感謝をアカシック・レコードに記した。

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Akashic Re:Code 由良辺みこと @Yurabe_Mikoto

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