第十幕:涙ひとつ
まぶたの裏で、黄昏の砂が舞う。セトの知るはずのない「セト」の記憶が、ひとつ、またひとつと、よみがえる。走馬燈のように駆け巡る記憶の全てが“在るべき場所”へと収まったとき、セトは改めてひとつの存在となった。
目を開ければ、いつかも見た白の世界に、求めてやまなかった少女の姿が見える。
「ユリア」と、そう名前を呼べば、閉ざされていた少女の碧い瞳が開かれる。
「セト」と、少女の声が名前を呼んだ。
「いつまで、こんなところにいるつもりですか」
ぐるりを見渡しながら、セトは言う。「キミがいつまでも帰ってこないので、ボクは餓死寸前です」
けれど、ユリアは何も言わない。そして、それをいいことにセトは続ける。
「あの歯車を抹消した今、ボクの存在を維持するはずのものは何もない。水を飲まなければならないし、物も食べなくてはならないし、睡眠も取らなくてはいけなくなりました。もちろん、自身をリ・コードする必要もあります」
けれど、と。セトは言う。
「今のボクは、水も、食物も、喉を通りません。眠ることも、できません。自身をリ・コードするだけの正気さえ、残っているかどうか怪しい。今にも気が狂いそうなんです。わかりますか、ユリア。キミがいないせいです」
責めるような言葉とは裏腹に、セトの顔には微笑みが浮かぶ。「もう待つのは飽きました。だから、迎えに来たんです」
言葉とともに、セトはユリアへと手を差し伸べた。帰りましょう、と。
とたん、ユリアの顔が歪む。今にも泣きだしそうな顔をして、ユリアはかぶりを振った。
「ごめんね、セト。わたしはもう、かえれないの」
「なぜですか」
セトは問う。それに対して、ユリアはうつむいて顔を逸らした。
「今のセトなら、わかるでしょう? わたしは、この世界の一部なの。この箱庭のような世界を夢みた――アカシックという存在の意思そのものなの」
そして、ユリアはとつとつと語りだす。それは、アカシックの記憶に触れたことで思い出したという彼女自身のことだった。
「ここは、この世界は、わたしが望んだ予定調和の箱庭だった。悲しみも苦しみもない、わたしだけの夢の世界」
当然、その予定調和の世界に、異なる次元で生きてきたセトという存在はない。だのに、セトは現れてしまった。外界とを隔てていたアカシックという意思の壁を突き破って。
「破られた壁は、すぐに修復された。だけど、その衝撃で飛び散ったカケラは箱庭の中に落ちてしまったの」
そして、そのカケラこそが、ユリアだった。
「アカシックの一部でしかなかったわたしには、記憶や身体という概念はなかった。だから、箱庭の中へ落ちたとき、わたしは直前に触れたセトのカタチを真似したの」
思い起こされるのは、生前のセトの後ろをついて回っていた子どもの存在。ユミルとユリア、ふたつの名前を与えた子ども。思えば、たしかにあの子どもはセトと同じアルビノだった。
それならば、今のユリアの姿はなんなのか。あえて問わずとも、セトにはわかった。
「では、今のその姿はキミの“母親”であったマリアスの姿を真似たものなんですね」
ユリアは、黙ってうなずいた。
「セトが死んでしまっても、人の姿を借りただけのわたしは死ぬことがなかった」
それどころか、これまでセトを見本にして人の姿を保っていたユリアは、老いることも成長することもできなくなってしまった。アカシックの一部でありながら自身の予定調和から外れてしまった彼女は、やがてリ・コーダーとしての能力を身につけ、彼女自身をますます“人”という存在から遠ざけた。ユリアは人の目を避けるようになり、やがて森の奥深くをさまようようになった。
「そのときに出会ったのが、わたしの“お母さん”だった」
ユリアはマリアスの姿を真似ることで、再び“人”としての生を始め直そうとしたのだ。そのとき、リ・コーダーとしての才にあふれていたマリアスは、その正体をも悟ってしまったのだろう。当時、まだ名前を持っていなかったマリアスは、ユリアを自身のガーディアンだと言い張って名前を手に入れると、それまで自身が使っていた名前を彼女に与えた。
あるいは、マリアスがユリアに多くの知識を与えなかったのは、ユリアが他者との会話から情報を得て、真実にたどり着くことを恐れたためだったのかもしれない。最初は、その存在がアカシックとして目覚めることによって、自身や周囲のリ・コーダーに悪影響を与えるのではと考えた可能性は十分にある。しかし、セトと対峙したときのマリアスは、たしかに“母親”の顔をしていたように思う。おそらくは、長い年月を過ごす内に、情が移ってしまったのだろう。
だからこそ、マリアスは彼女を手放そうとしなかった。だからこそ、マリアスはセトを、本来の在るべき姿であるアカシックへと還そうとする存在を、刺し違えてでも葬り去りたかった。
今なら、セトにもマリアスの気持ちが少しだけわかる。なぜなら、ユリアはもはや在るべき姿へと還ってしまったのだから。
「セトの苦しみをなくすには――ううん、わたしの願いを叶えるには、こうするしかなかったの」
微笑むユリアの周囲を、黄昏の粒子が舞い踊る。その光景が、あまりにも絵になりすぎていて、これこそが在るべき姿なのだとセトは痛感させられる。
「わたしはここで、アカシック・レコードを書き直し続ける。あるがままの真実だけを、記し続ける。だからお願い、セト。あなたは帰って。そうして、しあわせになって」
それは間違いなく、ユリアの願いだった。だけれど、それが彼女の全ての願いではない。それゆえに、彼女は笑うのだ。碧い瞳に涙を溜めて、それでも精一杯に微笑もうとする。なんといじらしいのだろうか。そんな少女が、セトはどうしようもないほどに――
セトは差し伸べていた手をおろした。そのようすを見届け、ユリアのまぶたが再び閉ざされる。
「それじゃあ、今からセトを帰すから。わたしの言葉が導くほうへ」
そう告げたユリアの周りに、黄昏の粒子が集い始める。アカシック・コードが、ユリアの紡ぐ言葉が、道を指し示す。セトは目を伏せ、足を踏み出した。そして、
「嫌です」
はっきりとした声音で、そう言った。
「ボクは帰りません。言ったはずです、ボクはキミを迎えに来たのだと」
たちまち、ユリアは苦しげな表情になって、セトを見る。セトを見つめるその目は、もう何も言わないでほしいと、そう語っているようだった。
しかして、あくまでセトはセトだった。ユリアの無言の訴えなど、気にも留めずにしゃべり続ける。
「キミに帰る気がないというのなら、ボクはキミの気が変わるまで、ここで待ち続けます」
つかつかとユリアへと歩み寄り、セトは言う。そうして、自身よりも一回り二回りも小さいその身体を抱きすくめた。「もう、ひとりにしないでください」
ユリアの碧い瞳が大きく揺らぐ。まばゆい光の中で、頬を光るものが伝った。
「ユリアが泣いているのに、ボクがしあわせになどなれるはずはないでしょう」
きつく、きつくユリアを抱きしめる。そんなセトに抱かれたまま、ユリアはしばし動かなかった。けれど、ついにはこらえきれなくなったかのように、セトの身体にしがみつく。声をあげて泣きだしたユリアの背をやさしく撫でながら、セトの頬にもまた一筋の涙が流れた。
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