第九幕:セト

「貴方の正体と、その目的に気づいてしまった以上、貴方を生かしてはおけないわ」


 セトの周囲に氷の刃を具現化させながら、マリアスは言った。


「貴方は世界の歪みの原点。私たちリ・コーダーの始祖ともいうべき存在。そして、歪みを正すためにあの子を消し去ろうとしている」


 マリアスの顔は、いつか見た般若の面のように歪み、無数に浮く刃の切っ先は全てセトへと向けられている。彼女の言葉に嘘偽りがないと理解する一方で、セトは電子端末を片手に涼しげな顔をしていた。


「なるほど。母親という生きものは子を守るためならば鬼にもなるというのは、本当のようですね」


 殺すと宣言されたことなど、気にも留めずにセトは言う。傍から見たのなら、それは挑発とも取れるような言動であったのだろうけれど、マリアスはかろうじて、まだ冷静さを保っているようだった。セトに対して「そうよ」と答え、言葉を続ける。


「例え血が繋がっていなくとも――同じ“人”という生きものですらなかったとしても――あの子は、私の最愛の娘よ。貴方に奪わせはしないわ」


 しかし、あくまでセトの態度は変わらなかった。


「ユリアは、死にはしません。在るべき場所へ、還るだけです」

「御託はよして!」


 マリアスの中で、張り詰めていた糸が切れる。それを合図に、セトのぐるりを取り囲んでいた氷の刃が動いた。一斉に放たれた凶器が、セトを襲う。逃げ場などは、どこにもない。けれども、そんなことなど、セトにとっては関係のないことだった。


 端末のキーを叩くと同時、セトを中心に黄昏に輝く文字と風とが吹き荒れる。刹那、陽炎を帯びて揺らめく紅蓮が、氷の刃に牙を剥いた。瞬く間に、辺りは白い靄に包まれる。強烈な熱風と靄に煽られ、マリアスが咳きこんだ。


「その程度の力で、ボクを殺せると思いましたか」


 ごうごうと、音をたてて燃えさかる業火。主の身を守るようにして渦を巻く、その中心に佇み、セトはマリアスを見つめていた。


 セトを串刺しにするべく放たれた氷の刃は、しかして、その役目を果たすことができなかった。一瞬にして生みだされた業火によって、全てが溶け、蒸発した。それどころか、セトの生みだした炎は、その熱で以てして、マリアスを攻める。自然発火していく森の草花を見たマリアスは、再び周囲に氷の刃を出現させた。もはや、守りに徹することを余儀なくされたマリアスに、次の攻撃の一手はない。状況は、圧倒的なまでに、セトが有利だった。


 氷の冷気に当てられたマリアスの唇は青ざめ、吐く息は白く煙る。けれど、炎の渦中にいるセトはその熱に焼かれることもなく、ただじっとマリアスを見据えていた。


「マリアス、アナタは優秀なリ・コーダーです」と、セトは言った。「ですが、ボクとアナタでは圧倒的なキャパシティの差がある。自身の身を保護する余裕もないのが、その最たる証拠です」


 マリアスは、何も言わなかった。噛み合わない歯を食いしばり、ただひたすらにセトを睨めつける。


 このまま膠着状態が続いたのなら、間違いなくマリアスは凍死する。そのことをセトは理解していたし、おそらくはマリアス自身も察していただろう。それでも、マリアスは退こうとはしなかった。そして、セトもまた己の目的を諦めるつもりはなかった。


 時間だけが過ぎ、マリアスの身体は衰弱していく――そのとき、ふいに声がした。


「セトー、どこー?」


 あどけない少女の声。その声に最も反応したのは、他ならぬセトだった。


「ユリア、こっちへ来ては――」


 いけない。そう続くはずだったセトの言葉は、腹部を襲った衝撃と、口からあふれ出した血液によって発せられることはなかった。出現させた氷を盾へと変えて、セトに接近したマリアスの手の中。そこには、彼女がリ・コードによって生みだした鈍色のナイフがあった。


「……マリ、アス……!」


 苦痛に顔を歪めながら、セトは血を吐いてうめく。そんなセトの姿を見つめ、マリアスは業火の中で微笑した。


「母親という生きものは、子どものためなら、なんだってできるのよ。キャパシティを、オーバーして……あの子をひとり残すことになっても――あの子に未来があるのなら、私はしあわせだわ」

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