第八幕:黄昏色
カーテンの隙間から、微かな西日が部屋へと差しこんでいる。物音ひとつしない昏い部屋の中、セトは膝を抱えるようにしてうずくまっていた。固く握りしめていた手を開けば、無機質な歯車がそこにある。
「全ては終わった」
遺された歪みの根源を見つめて、セトはひとり呟く。「ボクの目的も、役目も、これで全て――」
かつて己が犯した罪、望まずともつくりだしてしまった世界の歪み、それら全てを消し去ることこそがセトの目的だった。そして、その実現のためだけに、セトは歪みの原因を探し続けてきた。
この家にあったノートパソコンを利用し、自身が使うための電子端末をつくりだし、それを悟られないよう端末の外見を本そのものにした。できあがった端末は肌身離さず持ち歩き、人の目を盗んではアカシック・レコードの中に潜む違和を探した。この世界全てを構築する言語の中から、見つけださなくてはならない致命的なバグ。目的の達成には相当の時間がかかるだろうと、セトはそう踏んでいた。けれど、それはセトが拍子抜けするほどに、あっさりと見つかった。ましてや、それは、すでにセトの手中にあった。
「ようやく、ボクは終わることができる」
手の上の小さな歯車を虚ろに見つめ、セトは呟いた。あとは、この歯車とセト自身の存在を抹消してしまえば、この世界の歪みは全てなくなる。セトが切望していた終焉が訪れる。
そうなれば、もう何に苦しむこともない。肩の荷も降りる。セトは、全てを終わらせる鍵を手に入れた。その、はずなのに、
「なぜ」
セトの口をついて出るのは、疑問の言葉。
「なぜ、ボクは」
こんなどうしようもないほどの喪失感に襲われている?
自問し、セトは再びきつく歯車を握りしめる。今や誰もいないこの場所で、答えなど返ってはこない。だけれど、誰に教えられずとも、セトは答えを知っていた。足もとに視線を落とせば、当に干からびた熱冷ましの薬草が目に入る。そうして、セトは思った。いつまで、自分はこの自問自答を繰り返すのだろうと。あの日、一人の少女が消滅してから、どれだけ、この自問自答を繰り返したのだろうかと。
部屋の姿見に映るセトの姿は、自分でも惨めに思えるほど変わり果てていた。髪は乱れ、頬は痩せこけ、目の下には濃い隈が浮かんでいる。惨めに見えるからと、自身の猫背を嫌っていたセトだったけれど、今の自分にはあまりにもそれが似合いすぎているような気がして、ただ自嘲することしかできなかった。
――熱冷ましの薬草を採りに行ってくるから。
あの日、そう言っていた少女の姿がよみがえる。
この薬草を摘んだとき、あの少女は何も知らなかった。床に伏していたセトを思って、これを摘んだ。直後に、セトから自身の存在を否定されることになるなんて、きっと思いもしなかった。ましてや、その後に自身の存在が消滅することなど。
ただ、彼女はセトを思っていた。セトのためだけを思って、尽くしてくれた。自らの存在が消滅するそのときまで、それは変わらなかった。
「どうして……」
乾ききった唇から、かすれた声がこぼれ落ちる。「ユリア」
震える声でその名を呼んでも、応えてくれる声はない。どうしたのと、心配そうに覗きこんでくる碧い瞳は、もうない。そのことを実感する度に、セトの脳裏には消えゆく少女の姿がよみがえる。その姿を幻視する度に、セトは自らの頭を抱えて爪を立てる。激情に任せて何度も頭をかきむしった指の爪には、赤黒く変色した血液がこびりついていた。
「全ては終わった」
と、セトは再び繰り返す。「ボクの願いも、祈りも、これで全て――」
セトの手の中で、炎が燃えあがった。歯車が、紅蓮の炎に包まれる。
あの日から、リ・コーダーを失ったガーディアンの存在を維持し続けてきた歯車。最愛の少女が遺していった歯車。それが塵一つ残さず消える瞬間を見届けた後、セトはその目を閉ざした。
※
「セト!」
あどけない少女の声をともなった軽い衝撃。気がつくと、セトの膝から腹にかけて幼い少女が乗しかかっている。飛びつかれたのだと気づくのに、時間は必要なかった。一体どこから入りこみ、そして、どうやって自分の名前を知ったのか。それらを問おうとしたセトは、けれども、自身にしがみついている少女の顔を見て目をみはる。セトが知るよりもずっと幼い姿をした金髪の少女は、その碧い瞳を宝石のように煌めかせて笑った。
「わたし、ユリア! これからよろしくね」
目頭が熱を持つ。どうしてだなどと、考える余裕すらなかった。セトは感情のままに、幼い少女を抱きしめる。否、正確には抱きしめようとした。だけれど、その身体はセトが触れようとしたところから黄昏色の砂となって空気に溶けてゆく。触れることすら叶わない少女の残骸を追って、手を伸ばす。刹那、黄昏色に煌めく風が、セトの傍らを通り抜けた。
「やだ! そんな名前、わたし、ほしくない!」
先ほどの少女――ユリアの、だだをこねる声。夢なのか、幻なのか、先刻までは誰もいなかったはずの家の中に、母娘と思しき姿があった。
「我がままを言わないでちょうだい。ずっと昔から、この名前は貴女のものと決まっていたのよ」
嫌だと、かぶりを振り続けるユリアを諭すように、母親と思しき金髪の女性が言う。されど、ユリアは頑なに与えられた名を拒否し続ける。一体どんな名を与えられたというのだろうか。終いには、ぼろぼろと涙を流し始めるその姿を見つめ、セトは困惑する。やがて、ユリアと向かい合っていた女性が困ったような笑みを浮かべて、セトを振り返った。
「ごめんなさい、貴方も突然のことで困惑していることでしょうに。私はマリアス。この子、ユリアの母親です」
マリアスと名乗った女性の瞳はユリアと同じように碧く、そこにはたしかにセトの姿が映し出されている。だのに、その姿もまた風に吹かれては煌めく砂となって消える。
そのとき、セトは気づいた。母娘の幻影が立っていた場所――そこに、黒い小さな手帳が落ちている。背筋を、奇妙な汗が伝った。セトが記憶している限りでは、そんな手帳はこの家に存在していなかった。少なくとも、セトがガーディアンとして召喚されるまでは。
震える手で、セトは自身の懐をまさぐる。そうして、皺だらけになった黒い小さな手帳を取り出した。記されているのは、セトが並行世界の存在を実証するために行った様々な実験と、その結果。そういえばこの手帳に記された情報を手にしようと躍起になっていた組織もいたのだったかと、今さらになって思い出す。けれど、今となってはそんなことはどうでもいいことだった。
セトは立ちあがり、落ちていた小さな手帳を拾いあげる。やはりというべきなのか、ひどく見覚えのある手帳だった。開くと手帳のページはごっそりと破り捨てられており、残されていたのは四分の一にも満たない僅かなページのみ。とはいえ、セトが頭の中で構築した推論を裏づけるには、その僅かなページだけで十分だった。
「リ・コーダー。アカシック・レコードを読み解き、改竄する力を持った存在。アカシックという世界の意思に否定された在ってはならない存在」
見慣れた筆跡で綴られた言葉を、セトは自身の口でなぞっていく。
「そして、リ・コーダーが自身を守るために考えだしたガーディアン召喚のシステム。アカシック・レコードによって望まぬ死を迎えた対象を死ぬ直前の状態でリ・コードし、対象の願いを叶えるという見返りを提示した上で、リ・コーダーの身を守らせる。これは実に合理的なシステムではあるが、今回の事例に関しては不可解な点がある。だが、少女が嘘を吐いているようには見えない。ならば、母親か。いずれにせよ、注意すべきだろう」
セトは手帳のページをめくった。
「少女ユリアに、ひどく懐かれている。懐かしい名前だが、ただの偶然だろうか」
再び、ページをめくる。
「奇妙だ。ユリアは父親という言葉を知らなかった。母親であるマリアスからはユリアが物心つく前に命を落としたと聞かされたが、死因は不明」
知らず、セトの眉間には皺が寄っていた。三度、ページをめくる。
「やはり奇妙だ。ユリアは物を知らなさ過ぎる。マリアスが教えなかったというのならば、それは必要のないことだったとでもいうのだろうか。人間としての一般常識に欠けすぎている。これでは会話をするのも不便だ。世間一般的な単語だけでも教えていこうと思う――」
ページをめくる度に見えてくるのは、ユリアやマリアスといった人物たちの奇怪な点ばかりだった。中でも特に妙だったのは、マリアスという存在。彼女は名前を持っているというのにガーディアンと契約している様子はなく、名前を与えたはずのユリアを依然として「ユリア」と呼び続けていたようだった。これに疑問を抱いた手帳の主は、マリアスがユリアに与えた名前を尋ねたようだが、これに対してマリアスは「何も答えなかった」と、ここには記されている。いつしか、部屋の中にはページをめくる音だけが響くようになっていた。
手帳の主は、ユリアに与えられた名前に何か秘密があると踏んだようだった。「彼」はマリアスから聞きだすことを諦め、ユリア自身から聞きだすことに専念し始める。ユリアは、よほど与えられた名前が嫌いだったのだろう。これに関してだけは、数ヶ月に渡って沈黙を貫いた。だが、とうとう「彼」はユリアに与えられた名を聞きだすことに成功する。
「――ユリア・アカシック・セブンフィールズ」
手帳に記されたその名前を口にして、セトは悟った。ユリアがその名を嫌った理由、マリアスが不用意にその名でユリアを呼ばなかった理由。そして、そこから導き出されていく真実。やがて、手帳のページには、本来の持ち主である「セト」の推論が綴られていくようになった。
「すべての始まりは、かねてより論じられてきた平行世界という存在を立証するための装置をつくったことだった。私は自らを被験者として選び、平行世界を訪れようとした。すべては、ただの好奇心。存在を立証するためだけの実験。
世界は、それを拒んだ。ガラスのような脆い壁で、私という異なる次元を受け入れまいとした。それはおそらく世界の意思が、アカシックという存在が、自身の夢みる世界を守るための抵抗だったのに違いない。だのに私は止まらず、それどころか力尽くで砕き、穴を開けた。アカシックというものに大きな損失を与えておきながら、悠々とその世界に降り立ったのだ。
その瞬間から、アカシックは均衡を失った。そうして、リ・コーダーという存在が生まれ、私もまた、リ・コーダーとなった。
アカシックは手負いの獣となった。自身を守るために、驚異と成り得るものを徹底的に排除しようとした。結果として、リ・コーダーとなった者は等しく世界に認識されない存在となり、人としての死を迎えることはおろか、人として生きることも許されなくなった」
生きているだけで、他者との関わりを持つだけで、リ・コーダーは正常な人間を自身と同じ「在ってはならないもの」へと変えてしまう。それは一体どれだけ悲しく残酷なさだめだろう。愛しいと、触れたいと思えばこそ、余計に触れてはいけない。支えたいと、手を差し伸べたいと思えばこそ、余計に手を伸ばしてはいけない。
「ユリア・アカシック・セブンフィールズが、アカシックという存在の一部であるのならば、アカシックの記憶にしか存在しない私をキャパシティ・オーバーすることなくリ・コードできたことも納得がいく。だが、彼女がなぜ私をガーディアンに選んだのか、そこだけが理解できない。ひとつの可能性として挙げられるのは――」
手記は、そこで途絶えていた。そして、そのページのすみに残された赤黒い染み。これが何を意味しているのか、察しがつかないセトではなかった。手帳から顔をあげ、セトは天井を仰ぐ。
「ユリア。キミは、二度もボクをアカシックの記憶から見つけだし、ガーディアンとして選んでくれていたのか」
うめくように、セトは呟いた。胸にあふれてくる感情を、言葉にすることができない。呼び起こされる記憶の中、彼の少女の一挙一動に隠されていた想いが見えてくる。どれだけ、彼女は耐えていたのだろうか。同じでありながら異なる「セト」という存在と接する中で、どれだけの苦しみを抱いていたのだろうか。あの笑顔の裏で、どれだけの涙を流していたのだろうか。
セトは、ゆるりとまぶたを閉じた。そうかそうだったのかと、口の中で繰り返す。だとするなら、だとするのならば、
「まだ、終わってはいない」
アカシックの記憶にアクセスし、セトの目の前から姿を消したユリア。けれど、仮にユリアがアカシックの一部であるのならば、まだ取り戻す術はある。希望は、潰えてはいない。
セトは手帳を握りしめ、再びページに目を落とした。赤黒い染みを挑むように見つめ、指先で触れる。本来ならば、セトは電子端末を介することでしかアカシック・レコードを読み解くことができない。けれどもこのとき、セトの指先からは黄昏色の煌めきが立ち昇っていた。黄昏の粒子がアカシック・コードを形成し、無数の記号の帯へと変わっていく。
「キミは、ボクを二度も見つけだしてくれたんです。次は、ボクがさがしにいきますよ」
黄昏の中で微笑み、セトの意識は広大な記憶の海へと沈んだ。
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