そのエンジェルには理由(わけ)がある

Amori 森(しん)

そのエンジェルには理由《わけ》がある

目    次




1  セントラルパーク      

2  サイン(予兆)

3  バトル

4  エンジェル

5  ヴィレッジ

6  シュトゥットガルトの狼

7  スター 小宮山

8  フェラーリ

9  バード

10  クリニック

11  セッション

12  ジャッキー

13  ジャズ・リジェンド フレディ

14  ヨーロッパツアー

15  バーンアウト

16  メジャー契約 

17  ナンシー

18  ターニング ポイント(転機)

19  サムシング・ニュー(挑戦)

20  エンジェルの呪い

21  ディパーチャ(旅立ち)

  




第1章  セントラルパーク 



 まもなく還暦を迎えようとするプロのテナーサックス奏者、田尾哲にとっては5年ぶりのニューヨーク旅行だった。

 5月初めのマンハッタン・セントラルパークは何ひとつ変わっていないように思えた。大都市ニューヨークにあって、ここだけは時間がゆったりと、どこの誰にも邪魔されずに流れているかのようだった。

 

 何度このパークに立ったことだろうか。このセントラルパークは、田尾の大のお気に入りだった。何度来ても、都心の喧騒とパークの静寂には、非対称にもかかわらず言葉にできない調和があった。雑多という表現がふさわしい中心部からこの静寂の地に足を運ぶと、誰しも、ニューヨークの空がこんなにも大きく広がっていることを実感するだろう。


(まったく異次元の空間だな)

 

 田尾にとっては、このセントラルパークにはひとしおの思い入れがあった。

 大学時代は、ジャズに没頭した。

ジャズ研究会、いわゆるジャズ研に入り、朝から晩までわき目も振らずテナーサックスの練習に明け暮れていた当時の田尾にとって、ニューヨーク、特にビーバップジャズ発祥の地であったここマンハッタンには、盲目的なあこがれを抱いていた。

 それはあたかも、聖地エルサレムへの巡礼の旅を渇望するユダヤの民の深層心理にも似ていて、決して消し去ることができないほどの、強い憧憬であった。

 アメリカの音楽界で、「名声の殿堂」入りを果たし亡くなった巨人にレイチャールズがいる。彼の数々のヒット曲の中でも、特に日本人に馴染みが深い曲といえば、何といっても「ジョージア オン マイ マインド」に異論を挟むものはいないだろう。 

 田尾にとっては、まさにこのニューヨークこそが、オン・マイ・ マインドであり、いつかは巡礼しなければならない聖地であったのだ。


 もともと田尾は、音楽大学出身者以外のプロのサックス奏者が辿る普通のコース、つまり中学、高校とブランバンド部に入りそこで誰もが認める才能を発揮するという経験を、もちあわせてはいなかった。

 5歳頃から小学生の高学年まで、ピアノ教師の母、直美から厳しいレッスンを受けた田尾は、地方大会で上位入賞を何回も果たしたが、それとて関係者の耳目を集めるほどの傑出した天才児と噂されるほどではなかった。

 それよりも少年時代の田尾は、親の目を盗んで、その当時の男の子が誰でもそうであったように、スーパースターの長島や王に憧れ、彼らのバッティングフォームをそっくり真似しながら、毎日夕暮れまで草野球に夢中になっていた、ごくごく普通の少年であった。

 

 中学生になった田尾は、一転、バスケットボールに熱中した。

 何よりも、そのボールゲームのテンポの速さが気に入ったのである。コート内には絶えず敵味方10人のプレイヤーが動き回り、休むことがない。オフェンスとディフェンスが絶えず入れ変わり、常に流動的で戦略性が高いそのゲームに夢中になった。

 進学校で有名な地元の高校に入学しても、中学校時代と同様キャプテンとしてバスケット部を引っ張っていった。県の代表として、インターハイに出場することができたが、実力の差は一目瞭然で、あえなく一回戦で敗退した。

 これを機にバスケットボールからきっぱりと足を洗い、東京の有名私立大学に何とか滑り込んだ田尾は、漠然とスポーツ以外の何か新しいことに一歩を踏み出したいと思った。

 入学1週間後、学生自治会主催の歓迎ダンスパーティに誘われた田尾は、ステージの上でジャズを演奏するビッグバンドにいっぺんに心を奪われた。

 

 (格好いいな。俺も楽器を吹きたい)

 

 その日のうちにジャズ研究会、いわゆるジャズ研に入部した田尾は、先輩から希望する楽器を聞かれて、迷わずサックスと答えた。当時ジャズ研には、古い半壊れのテナーサックスしかなかったので、その楽器が自動的に自分の愛器となった。

 田尾が入った当時のジャズ研は、数々のコンテストを制覇し、全国的にもハイレベルな演奏技術を持つことでその名をとどろかせていた。

 管楽器を希望して入部するような連中は、たいてい親に買ってもらったぴかぴかのヤマハかセルマーを持っていた。当時セルマーの値段は、大卒初任給の数倍もする高額な楽器としても有名で、学校の教諭で裕福でもなかった田尾の父親には、そんな高額の楽器を自分の息子に買い与える余裕は全くなかった。

 サックスセクションのリーダーから基本的な奏法だけを習った田尾は、たちまちその楽器の面白さに夢中になった。音が出るだけで感動した青春の想い出は、田尾の現在のプロのサックス奏者としての原点だった。

 もともと子供の頃から何かに熱中したときには、親がびっくりするほどの集中力を見せた田尾にとっては、子供がお気に入りのオモチャを抱いて寝るように、下宿に帰るときでさえ、肌身離さずケースを持ち歩いたほど、そのテナーサックスという楽器にのめりこんだ。毎朝10時には決まってジャズ研の練習室に入り、昼食をはさんだ夕方まで一心不乱に練習する田尾を、周りの部員は驚きの眼で見ていた。

 もっとも、夕方に練習を打ち切ったのは家庭教師のアルバイトがあったからで、それがなければ時間はもっと遅くなっていたことだろう。

 

 猛練習の甲斐あって、2年生になる頃には、田尾の名は都内の学生バンドの仲間内ではかなり知れ渡るようになっていた。

 ジャズ研の活動だけでは物足りず、田尾は、当時都内で開店していたジャズ・ライブスポットの昼の部のセッションに、楽器一本だけを手に抱え、頻繁に出入りするようになった。

 3年生になる頃には、プロのバンドから仕事のトラ(代役)を頼まれるほどの腕前になった田尾は、都内のスタジオでの仕事にも呼ばれたりして、ちょっとした小遣いまで稼ぐようになった。

 誰もが、田尾はジャズ研卒業後はプロの道に進むものだと思っていたし、本人も周りの連中同様そのつもりだったが、4年生になってその道が閉ざされる不幸が起きた。学校の教師をしていた父親が、定年間際に肺がんで亡くなったのだ。

収入が不安定な音楽業界に自分の息子が進むことを心配した母親は、帰省のたびにそんな得体の知れない仕事よりも、堅気のサラリーマンになって欲しいと懇願した。

 母親のたっての願いを無視することができなかった田尾は、仕方なく後ろ髪を引っ張られる思いを抱きながらも大手の広告代理店に入社した。

 しかし、田尾のジャズへの思いは社会人になった後も断ちがたく、今こうしてプロのサックス奏者としてニューヨークの地に立っていたのだ。


 田尾は、毎朝の日課となっているジョギングを始めるために、ミッドタウン・ウエストのパークに近いホテルを出て、セントラルパーク・サウス通りに面した、コロンバスサークルと呼ばれる公園前の広場に立った。


 (久しぶりにパークを走ってみるか)

 

 田尾は、ルーティンどおりストレッチングを始め、まだ眠っている身体に覚醒のシグナルを送った。

 トレッキング用に買ったリストウォッチの針は、ちょうど7時を指していた。前日に降ったかなりの雨のせいか、朝の冷気が肌を刺すように痛かったが、逆に田尾の眠気を消し去るほどに心地よかった。パークのゲートに覆い被さるように茂った大樹々の緑は、出発前の日本ほどには濃くはなかったが、時々、枝の隙間から零れ落ちる柔和な光は、本格的な春の到来を感じさせた。

 

 スタート地点から少しばかり走ると、「ザ・ポンド」と呼ばれる池に突き当たる。その名の通り池のことを意味しており、鴨や白鳥などが、公園を散歩するまばらな人たちの目を和ませていた。

 ここから望むプラザホテルの光景は、ジャズの帝王・マイルスデービスが1958年にレコーディングした「Jazz at the Plaza」のジャケットにも使用されたほどで、ジャズファンには馴染みが深い。

 途中、ジョギングやウォーキング、そして犬を連れたリタイア組みと何回も公園内ですれ違った。ハッピーリタイアメント以外の連中は、まるで求道者のようにストイックな表情を見せながら、自分に課したフィジカルメニューを消化するかのように、ただひたすら走っていた。


 (相変わらず、表情に余裕がない)


 大学時代に付き合いのあったアメリカの友人に、なぜお前の国のビジネスパーソンたちは、フィットネスにあんなにも熱心なのかと訊いたことがあった。

 その友人は、こんな風に答えた。

 「アメリカのビジネスシーンでは、ファームの管理職や、トップを目指す連中は、たいてい体重(ウェイト)と禁煙(ノースモーキング)に敏感で、会社からきちんとコントロールされているか、いつもチェックされているからさ」

 

 そういえば田尾は以前、開幕前の春季キャンプに参加するメジャーリーガーたちの契約には、取り決めた体重をオーバーした場合には、ペナルティが課せられるという話を聞いたことがあった。


 「でも、メジャーリーガーたちと、トップを目指すビジネスパーソンたちとは状況が違うだろう」と、田尾が訊き返すと


 「同じだね。つまりどんな世界でも、常に自分をコントロールできない者は、会社、すなわち組織もコントロールできないという風に評価されるということなんだ」と、その友人は、さも自分が将来の有望なビジネスパーソンの成功への道がひらかれているかの如く、得意げに話した。

 

 さらにこうも付け加えた。

 「もうひとつの理由はマネー。つまりアメリカでは、健康を害した場合のコストがべらぼうに跳ね上がることを、身を持って知っているからなんだ。日本みたいに国民皆保険制度という、アメリカ人には信じられないセーフティネットは、僕の国にはないんだ。我々は皆、健康そのものが自分のかけがいのない財産、すなわちトレジャーだと考えているのさ。事実、救急車で病院に担ぎこまれる患者に対して、病院のスタッフがまず最初にチェックすることはただひとつ。それは、その患者が自分の身を守るほどの十分な健康保険に入っているかどうかを確認することだ。アメリカじゃ世界の最先端医療が受けられるが、それはつまり金しだいっていうことなんだ」


 田尾は、この友人の解説が断片ではあるが、アメリカという世界でもっとも富んだ、最強の連邦国家の本質をものの見事に言い当てていると思った。

つまり17世紀ごろから海を渡ってきた人々、つまりヨーロッパ、ラテンアメリカそしてアジアからの貧しい移住者たちを指すのだが、の体内には、自己責任というDNAが今も体の隅々まで浸透しているのではないかと。

 パーク内の、フィットネスに没頭している連中の表情を注意深く観察すると、笑みを浮かべている者など誰ひとりいなかった。たいていはアイポッドのイヤフォンを耳に突っ込み、自分のルーティン・コースをただひたすらにトレースしているのだ 

 それにしても広い。

 田尾は、ジョギングをしながら、改めてマンハッタンのど真ん中にレイアウトされたこのセントラルパークの広大さに圧倒された。何しろこのパークは、長さ四キロメートル、幅0.8キロメートルで面積がなんと336ヘクタールもある巨大な空間なのだ。

 

 公園内にはいたるところに「ループ」と呼ぶ道(パークドライブ)が蜘蛛の巣の如く張り巡らされており、常連のジョガーたちは、お気に入りのコースをトレースすることができるのだ。

ただし通勤前に全てのループを完走することは、まず不可能だ。

パーク内には深夜でも外灯がついているが、自分の身の安全を考えるならなるべく足を踏み入れない方が良い、と件のアメリカの友人からの、親切なアドバイスを受けたことがあった。

 田尾は最初、このセントラルパークが単にただっ広く緑が多いだけの、フラットで地形の変化がない公園だと思っていた。しかし実際に走ってみると、微妙に高低差をつけ地形にも変化をもたせていることに気づかされた。

 さらに、テニスコートや野球場といった定番の施設のほかに、なんとスコットランドの古城をモデルとしたカッスルもあることにも驚いた。とにかく、百五十年以上の歴史をもつこのセントラルパークは、マンハッタンのみならず、アメリカ市民や世界から押し寄せるツーリストたちのオアシスなのだと、田尾はいまさらながら感嘆した。



第2章   サ イ ン (予 兆)



 午前中いっぱいを費やした、パーク内のジョギングとウォーキングを交互に終えた田尾は、ホテルに戻り熱いシャワーを浴びた。

 

 「さて飯を喰ったあとは、48丁目に繰り出すとしようか」と、自ら気合を入れるようにつぶやいた。

 

 今回のニューヨークツアーの目的のひとつは、商売道具であるテナーサックスのヴィンテージマウスピースとビッグバンドの楽譜を物色すること、そしてこれがメインなのだが、マンハッタンで繰り広げられている活きの良いジャズメンたちを徹底的に聴きまくることだった。

 なかでも、ビックバンド譜はニューヨークでしか手に入らないものが多く、ここマンハッタン48丁目の七番街と八番街には大小の数多くのミュージックショップがひしめいており、田尾にとっては、まさにレアもののアイテムを探すサンクチュアリーなのだ。

 これらのショップがこの通り沿いに集中しているのは、有名なブロードウェー劇場が近くにあって、そこで働くプロのミュージシャンたちが気軽に立ち寄ることができるからだというのを、田尾はだいぶ以前に、ミュージシャン仲間から聞いたことがあった。


 (今夜のジャズクラブめぐりまで、時間はたっぷりある。狙って

いる獲物を見つけるまでは徹底的に粘るぞ)


 気分はすでに買物ツアーの参加者のように弾んでいた。特に今回、田尾がどうしても手に入れたいものがあった。

 それは1950年に録音されたマイルス・デービスとギル・エバンスがコラボレートしたコロンビア時代の作品、つまり「クールの誕生」や、「キリマンジェロの娘」「スケッチオブスペイン」「マイルスアヘッド」などをいうのだが、それらに使用されたギル・エバンス編曲のビッグバンド譜を探し出すことだった。

ネット時代の今日では、いつでも専門サイトで海外のスコアを注文できるようにはなったが、それでも田尾が探し求めている楽譜はいわゆるレアもので、これまで幾ら検索してもサイトの販売リストにでてくることはなかった。

中古でも構わないからなんとしても探し出したい。そのためならある程度の出費は覚悟の上だった。


 田尾は、まずニューヨークの楽器店の中では大手に属する「サムアッシュ」のドアを開けた。もともとこの店はギターの品揃えが豊富なことで有名だが、楽譜の類もある程度そろっているとの評判だった。

 しかし店内は、御茶ノ水にある楽器点とあまり大差ない品揃えで、のっけから田尾は意気消沈した。よく見ると、ヴィンテージサックスの在庫は、むしろ日本の方が豊富で充実しているように思えた。楽譜コーナーで物色しても、目当てのものはまったくなかった。たいていは、日本にいて、サイトで買えるものばかりだった。

 「サムアッシュ」を出てから近くの数軒の楽器店を覗いてもまったく成果はなかった。そして、最後に最近ニューヨークで一番の品揃えと評判の管楽器専門店に、あまり期待もせずに入った田尾は、その店のヴィンテージサックスの在庫にまず驚いた。

 近寄ってよく見ると、どのサックスにも高額なプライスタグがつけられていて、たいていは日本と同じかそれ以上だった。


 「このプライスなら日本に帰ってから買ったほうがよさそうだ。日本のミュージシャンなら、誰もがそう考えるだろうな」

 田尾は、店内にいる気難しそうな、マネージャーと思しき男に言った。

 

 田尾が話しかけたその男は、上目遣いに目線を切りながら、

 「知ってのとおり、マークシックスに代表されるヴィンテージサックスのプライスがここ10年の間に倍近く跳ね上がったのは、あんたら日本人のせいだ。今じゃシリアルナンバーが13万番台から16万番台のアメセルは、絶対に5万ドル以下じゃ買えない。俺んとこの店にも毎週日本人のバイヤーが買い漁って、品不足になるくらいだ。日本人とか中国人ははこう言っちゃ何だが、どんな程度の悪いヴィンテージでも根こそぎかっ攫っていくんだ。おかげで新品のセルマーよりも高いプライスをつけることになる。まったく信じられないぜ」と、忌々しそうに言った。


 「ちょっと、吹いてみてもいいかな」

田尾は、ショーケースの中で一番程度のよさそうなアメセルのテナーを指差した。

 普段使っているマウスピースとリードは、既にセットして自分のポケットに入れてあり、いつでも取り出せるようになっていた。

 その店員は店内カウンター横の試奏室を指さし、十分間だけという条件でそのサックスをショーケースから取り出した。


 (それにしても愛想の悪い奴だな)

 

 手際よくそのサックスを組み立てた田尾は、吹いてみて驚いた。

 楽器のバランスが最悪で、タンポンの皮もカビだらけだった。さらにひどいことには、管体のボトム、いわゆるU字管には大きなへこみ傷があった。

実際に音を出してみても、予想通りまともに楽器が鳴ってくれない。高音域つまりフラジオを出そうと、指使いをいろいろ替えてみてもまっとうな音が出ない。

プロの経験が長い田尾の腕をもってしても、どうしようもないほどの酷い楽器なのだ。


 「こんな代物を7万ドルで売り出そうなんて、まったくボッタクリもいいとこだ。日本じゃいいとこオーバーホール込みで30から40万円くらいだな」

と、試奏室でひとり毒舌を吐き値踏みした。


 「ちょっと、コンディションが悪いみたいだな」

 田尾は、その店員に努めて穏やかに話しかけた。

 

 しかしその店員は、田尾がそのサックスの値引かせるための口実に、楽器のコンディションの悪さをあげつらったのだと受け止めた。

 彼の顔には、明らかに不満そうな表情が顔面いっぱいにあふれていた。


 「嫌なら他の店に当たってくれてもいいんだぜ。買い手はいくらでもいるんだ。特に最近は日本人よりも中国や韓国、台湾の連中が気前良くポンポン買っていくんだ。俺たちにとっちゃ、彼らはエンジェルみたいなもんだ」


 そう言うなり、その定員は田尾の手からセルマーマークシックスのヴィンテージを強引に引き取ると、元のショーケースに仕舞い込み、二度と姿を現さなかった。


 これではラチが開かないとばかりに、田尾は早々にその店を出た。その後三軒ほど比較的大きな構えのミュージックショップに入ったが、いずれも空振りに終わった。

 結局、狙いを付けたビッグバンド譜どころかヴィンテージのマウスピースも、特にこれはという堀り出物は見つけることができなかった。


 (今回は縁がなかったのかな)

 

 田尾はいささか弱気になった。


 (仕方がない。こうなったら散歩がてら、その辺をぶらぶら歩いてみるか)


 田尾はひとりつぶやきながら、ウィンドーショッピングに予定を変更した。

 しかしどうだろう。平日だというのに、マンハッタンは相も変わらずダイナミックで活気があり、しかもどことはなしに東京とは異質な緊張感が漂っていた。東京、ソウル、上海、パリ、ローマ、ロンドンといった、世界の中心都市とはまったく異なる雰囲気を、田尾は無意識のうちに感じ取っていた。

 それとなくすれ違う人々の表情を窺うと、たいていは緊張した顔ばかりで、温和でやさしい笑顔を見かけることは滅多になかった。

 

 ビルの谷間では、イエローキャブのクラクションのけたたましいノイズだけが、耳に障るほど響いていた。道路沿いの建物は相変わらず年代ものが多く、先の大戦の被害に遭っていないことが一目瞭然だった。

東京や上海みたいに、建築雑誌に出てくるようなピカピカでモダンな建物は、ほとんどといってもいいくらい目にすることがなかった。街中の地下に蜘蛛の巣の如く張り巡らされている地下鉄に乗ってみても、内部は相変わらず汚く、そして相当古い。

 二人一組の、腰のベルトに拳銃を挿した警官が、チームを組んで警備している光景はいつもの通りで驚くほどではなかったが、彼らの目つきはいっそう険しく、テロの脅威に備えているかのようだった。

 やはりニューヨークという街は、世界のあらゆるものを飲み込むちょっと危ない街なのだ。しかし、この少しばかりワルを感じさせる佇まいが、この街の魅力でもあるのだ。

 アメリカの発展の、生き証人のようなこの街の醸し出す雰囲気が、世界中のビジネスパーソンやツーリストを捕らえて離さないのだろう。そう田尾には思えた。

 それにしても、2001年の貿易センタービルに対するテロアタックは、アメリカ人とアメリカという国にとっては言葉で語りつくせないほどのショッキングな出来事であったに違いない。

 毎日、世界中の富が流れ込んでくるストックマーケット、そして世界から超一流の頭脳を飲み込むこのマンハッタンの、こともあろうに、アメリカ経済の象徴とも言うべきツインタワーが、遠く離れた中東のテロリストたちによって攻撃されたのである。


 田尾は、このテロアタックの2年後、政府の仕事でニューヨークを一週間ほど訪れる機会があった。それは日米両国の文化芸術交流事業の一環で、ビッグバンドの一員として演奏するというもので、米国民のテロアタックへの記憶がまだ鮮烈に残っている頃だった。

 その仕事を請ける際、田尾はニューヨークに着いたら何はさておいてもグランドゼロをこの目に焼き付けたいと思った。コンサートのリハーサルの合間の時間を見つけ、タクシーを飛ばし現場に急行した田尾は、グラウンドゼロの空間があまりにも狭小なことに驚いた。ビルの谷間で起こった惨劇を物語る現場は、瓦礫の撤去作業もあらかた片付いていて、すでに大型のクレーンなどがひしめいて地下の基礎工事にかかっていた。

 さらに田尾を驚かせたのは、グラウンドゼロの現場には世界中からのツーリストが押し掛けていたことだった。田尾が現場にいたほんの短い時間の間にも、数え切れないほどの大型観光バスが、アメリカでの最高の土産話のネタを取材しようと意気込む、好奇心で一杯の目を輝かせたツーリストたちを勢いよく降ろしていた。

 

 そして、彼らは口々に、田尾と同様の正直な感想を漏らした。

 「予想以上に狭いポイントだね」

 

 「ビルが林立する、こんな狭い空間に建てられていた貿易センタービルをアタックするのは、ある程度熟練した操縦技術がないと無理だな」

 

 「テロリストたちは相当準備したんだろうな。そうじゃなきゃこんな芸当はできないよ」

 

 「自信満々のアメリカは、このアタックでショックを受けただろうな」 

 

 「何しろアメリカは、これまで他国から攻撃されるとか、侵略されるという経験がなかったからね」

 

  全てのコメントが、それまで散々に新聞やテレビ、ネットなんかで報道されたとおりの内容をなぞっているに過ぎなかったが、自分の目で直接確認したグランドゼロの感想としては的を射たものばかりだ、と実感した。

 田尾が、現場から立ち去ろうかと考えていたとき、日本語を話すツーリストの一行が観光バスから降りてきた。


 (やっぱり日本人は、世界中どこでもいるんだな)

 

 何とはなしに同胞の方に眼をやると、


 「なんと言っていいのか・・・・・。日本のビジネスマンも大勢亡くなったのよね。人間、どこでどうなるか、本当に分からないものね」

 中年と思しき品の良い婦人が、同行の男性に囁やき、合掌した。

 

 示し合わせたように、他のツーリストのほとんどが犠牲者の冥福を祈るため軽く腰を折り、頭を垂れながら手を合わせた。ニューヨークの街を歩く田尾の脳裏には、この時の生々しい光景が、走馬灯のように駆けめぐっていた。

 

 (アタックから15年か、あっという間だな)

 

 田尾は改めて、時が過ぎ行く現実を噛み締めた。

 暫く歩くと、比較的こじんまりしたミュージックショップの看板が目に飛び込んできた。街路灯にへばりついているアドレス表示板を見ると、165ST48THとなっていた。

 田尾は、前回来たときにはこんな店は記憶がなかったから、最近オープンしたんだなと気づいた。

 

 「53丁目からは、だいぶ横道にそれたのか」と、ひとりつぶやいた。

 

 日本流でいえば、四間程度の間口があるミュージックショップを何気なく通りから覗くと、内部は最近開店したことを思わせる、洒落たインテリアで統一されていた。店の看板には「ウッドウィンド」とのみ書かれていた。おそらくリード楽器を専門に扱うショップなのだろう。


 (ひやかしに、ちょっと入ってみるか)

 

 さっそく、フレームが鋼鉄製で造られ、相当な力でないと開かないような、大きく頑丈なドアを押した。


 「ウワット キャヌアイ ドゥ サー」

カウンターの奥から、ホテル以外で、はじめて全うな英語を話す男が出てきた。

田尾は、いささか拍子抜けしながら苦笑した。

 

 「ビッグバンド譜と、ヴィンテージのマウスピースがあったら、見せてくれないか」

 田尾が、目の前に立った、さっぱりした紺のコットン・ジャケットを着込んだ店主と思しき男に言った。

 

 顎の下まで顔じゅう髭だらけのその店主は、顔に似つかわしくないほどの人懐こい表情を見せながら、 

 

 「ミスター、私の店には残念ながら楽譜は置いてありません。でも今、プロの間でも評判の良いマウスピースのセールをやっています。ご覧になりますか」

と、如才なく田尾に話しかけた。

 

 同時に、ちょっと金を持っていそうな感じのする日本人の懐具合をそれとなく窺うように、

 「探しているマウスピースは、どの楽器用ですか。アルト、テナー、バリトン? いろいろ揃っていますよ」と、訊ねてきた。

 

 そして、言うが速いかその店主は、背後の収納棚の引き出しからいくつかのマウスピースを取出し、ガラステーブルの上に並べた。


 「全部、新品なんだね。ヴィンテージのテナーサックス用のマウスピースのストックはあるかい。たとえばセルマーのソロイストとか、ハードラバーのオットーリンク。あと、グレゴリーとか」と、ここまで田尾が口にすると、その店主は目の前にいる日本人をバイヤーと思ったらしく、たちどころに楽器を取引するビジネスマンとしての表情に変わった。


 「今日本ではヴィンテージブームで、タマが少ないようだね。ミスターがまとめて注文してくれれば、どんなブツでもリーズナブルなプライスで用意できるんだがね」と、返してきた。その顔には、ありありと


 (この、ジャパーニーズマネーをたっぷり持っているカモを、絶対に、空手で自分の店から帰させないぞ)

 

 といった決意が漲っていた。

 彼の眼は、ニューヨーカーのたいていのビジネスマンが持つ、何とも形容しがたいあざとさが充満していた。


 店主の、微妙な眼の表情を読み取った田尾は、間髪を入れず

 「僕はバイヤーではなくて、ジャズで飯を喰っているプロのミュージシャンなんだ」と、誤解を解くように言った。


 店主の顔が見る見る落胆したのを、田尾は見逃さなかった。

 男が落胆したのは、無理からぬことであった。例外を除いて、世界じゅうのたいていのジャズュージシャンには金持ちはいないというのが、この業界の定説であるからだ。だからアメリカはもとより、日本でも同じような状況だろうとその店主が思っても、なんら不思議はなかった。

 同時に、これ以降の田尾に対する接し方も、現地のジャズミュージシャンに対するようなよく言えばフランク、逆に言えばぞんざいなものになった。


 「今、マウスピースのセールスをやっているんだが、リバイユなんがどうかな」と、店主がいきなり本題に入ってきた。

 

 そして、さきほど並べたマウスピースを手際よく片付けたかと思うと、床のダンボール箱から新品のリバイユを取り出し、並べ始めた。

 リバイユのマウスピースは最近日本でも人気のアイテムで、常に品薄の人気商品だった。都内の、田尾がちょくちょく顔を出す大久保の管楽器専門店でも、最近はトンと入荷されていないマウスピースなのだ。


 テーブルに並べられた数本のリバイユには、定価よりもかなり割安のプライスタグが付けられており、日本での販売価格と比べてもおおよそ1万円程度安かった。

 「吹いてもいいかな、リードは持っているよ」と、田尾。

 

 「アルトとテナーとどちらがいい? ちょうどリペアを終えたセルマーのマークシックスがあるから、これを吹いてみな」と、テーブルの隅の梱包された箱の中から一本のテナーサックスを取り出して、田尾に渡した。

 

 店内の奥の方を注意深く見ると、「ザ マーク シックス コーナー」と表示された小さなプレートが、天井から吊下げられていた。

 そのコーナーには、ざっと数えただけでも30本近いアメセルのマークシックスが展示されていた。日本でもこれだけの数のヴィンテージマークシックスがストックされている店は見たことがなかった。


 「すごい数のマークシックスだな。こんなコレクションは始めて見たよ。よく集められたもんだ。驚いたな」

 

 率直な感想を田尾が呟くと、その店主は、待っていましたとばかりに近づいてき て、得意げにそのコレクションを自慢しだした。


 「そうだろう。マンハッタンいやニューヨークじゅうの楽器店を探しても、これだけのグッドコンディションのコレクションは、お目にかかることはできないぜ。何せ、全米に張り巡らせてある情報網を頼りに、俺が直接買い付けに走り回っているんだからな」


 田尾は、この店主の話が長くなりそうな予感がした。

 

 「ここ十年間のヴィンテージブームで、すっかり値段も上がってしまって、本当に良いコンディションのタマはすっかり少なくなってしまったが、それでも俺の集めたマークシックスを目当てに、世界中からバイヤーが買い付けに来るんだ。おまけにこの店は、ブロードウェーから近いときてるから、ニューヨークのプロのミュージシャンも大勢やって来る。そいつらがヤクやギャンブルで金に困って、手持ちのヴィンテージを持ち込んで来ることもある。まあそんな奴らのヴィンテージには、十本に一本ぐらいしかまともなブツはないから気をつけないとな」と、店主は頼まれもしないのに一気にしゃべった。


 そして、まだ言い足りないのか

 

 「俺の店は、ただ売るだけじゃないんだ。ニューヨークで一番腕の良い専門リペアマンを雇っていて、いつでも、うるさ型が多いニューヨークのミュージシャンの注文に対応できるようにしているんだ。ヴィンテージを売るからには、完全に楽器をセッティングしないとね。お蔭様で儲けさせてもらっているよ」


 その店主は、田尾が聞いているかどうかは全く興味なく、かまわずに自分の店のセールストークを続けた。

 店主のマシンガントークが静まったのを見計らった田尾は、ハードラバータイプのリバイユのテナー用マウスピースを選んだ。店主から試奏用に渡されたマークシックスに、そのマウスピースを差し込みながら、ネックストラップを調整した。

 田尾のスムースで、慎重な楽器の扱いを横目で注意深く見ていた店主は、試奏させた相手が申告どおりのプロのミュージシャンだと見抜き、安心した表情を浮かべた。

 リードがある程度湿って口に馴染んできたのを確認した田尾は、先ず、お決まりのロングトーンを吹きながら、一音一音、楽器の鳴りっぷりを確かめた。

普段の自分が愛用しているマークシックスと比べて息の通りはどうか、楽器全体の響き方はどうかを、低域から高域にかけ神経を集中させながら吹き分けた。

 試奏したその楽器は、鳴りは良いが音そのものに厚みがなく音色も少しばかりダークだと、田尾は感じた。次いでキー(調子)を次々に変化させ、いつもの練習でそうするように、スケール(音階)を吹き始めた。

 やがて20分も過ぎた頃、楽器のキーアクションもだんだん指に馴染み、今まで出てこなかったファットで包み込むよう音が、管体から満遍なく出てくるようになった。

 普段、客が練習する音を、毎日飽きるほど聴いている店主でさえ感心するほどの、良い音だった。こうなると、田尾の方も楽器に触発され、だんだん調子が上がってきた。

 ようやく自分の要求に、マークシックスが反応し始めたことが判ると、田尾は違うタイプのリバイユのマウスピースを次々とチェックしだした。マークシックスの、良く通る本来の軽やかなサウンドが、店内いっぱいに響き渡った。

 

 店主から進められた3種類のリバイユは、どれも一長一短があったが、いずれもラバーの質の良さ、内部の削りの丁寧さ、息の通りのスムースさなど、どれをとっても最近の人気振りが判るような気がした。


 「プライスは?」

 

 田尾が、サックスを吹くのをやめて、店主に訊いた。

 

 「このハードラバーのタイプは、一本、140ドルだ。3タイプあるから、あんたの腕だったら、3本買っても損はないと思うけどね。3本で350ドルにするよ、どうかね」

 

 店主が、田尾の表情を探るように応えた。

 「3本で300ドルなら、グッドディールだ」田尾は、これ以上は検討に値しない、といわんばかりのポーカーフェイスで返した。

 

 日本では、このリバイユのハードラバーモデルは、たいてい一本二万円程度はしていたことを田尾は記憶していたので、3本で24000千円ならバーゲンプライスだと、密かに、そして抜け目なく計算していたのだ。


 「最近、日本は経済不況でみんな貧乏しているらしく、たいていは財布の紐が固くなっているけど、あんたもその口だな」

 

 店主がぶつぶつ言いながら、

 「判ったよ、3本で320ドルだ。これ以上は無理だぜ」と、折れてきた。


 「ところで、ヴィンテージサックスに興味はないのかい。あんたほどの腕だったら、もう1本持っていてもおかしくないと思うがね」と、店主がディスカウントの損を取り返すように、誘いをかけてきた。


 「おいでなすったか」

 

 田尾は店主にわからないように、日本語でひとり呟いた。 

 

 「残念ながら、日本に置いてあるマークシックスは絶好調でね。とても浮気するなんて気になれないね」と、軽口をたたいた。そして


 「それとも、店の奥のほうに何か宝物でも隠しているのかい?」と、ほんの軽いノリで、店主をからかった。

 

 のちに、この一言が、自分の運命を劇的に変えることになろうとは、このときの田尾は想像だにしなかった。

 とその時、店主の目つきが一瞬変わったのを、田尾は見逃さなかった。

 店主は一言もしゃべらず、店の奥に消えた。二分ほどして目の前に姿を現した店主は、使い込んだ皮製のフライトケースを黙って田尾の目の前に置いた。

 そのケースをおもむろに開いた店主は、どうだ参ったかといわんばかりの得意げな表情を振りまきながら、田尾の顔を覗き込んだ。

 

 田尾は、息を呑んだ。

 そのフライトケースには、正真正銘の完璧なゴールドプレート仕上げのセルマー・スーパー・バランスアクションが納められていた。最近では都内でも、なかなかこんな程度の良いブツを見かけることがないほどの、すばらしい楽器だった。

 このスーパー・バランス・アクションは、田尾が現在愛用しているマークシックス以前に製造されたモデルで、セルマー社が1947年から53年の間に製造し、現在の同社が製造するサックスの原型になったモデルだ。

 田尾がそっとなでるように、その楽器をフライトケースから取り出し、楽器の下部に取り付けられたU字管に目をやった。その部分に刻まれた、シリアル(製造)番号を確認するためだ。ヴィンテージ楽器を買おうとする者は、たいていこのシリアルで楽器の由来を探ろうとするのだ。

 そのシリアルを注意深く確かめると、42000番台の数字が刻印されていた。バランスアクションの製造開始は35800番台なので、おそらく1950年代の初期に製造されたことが窺える。つまりこの楽器は、第2次世界大戦後早々に出荷されたものであると推測できるのだ。

 しかもゴールドプレート仕上げの管体には、傷がほとんど見当たらない。そうすると、この楽器の由来をどう解釈すればよいのか。考えられるのは、個人のコレクションか楽器ミュージアムの展示品なのか、はたまた、アマチュアミュージシャンの誰かがデットストック(実は、これが一番多いのだが)していたものなのか、のいずれかだ。

 アマチュアには、高価な楽器を所有することに何よりの喜びを感ずるタイプが意外と多いのだ。つまり日本流で言えば、床の間に飾る皿か壺のような感覚なのだ。ほかに、プロの奏者が大事に使用していたが、途中から何らかの理由でデッドストックになったケースも、ごく稀ではあるが、ある。

 田尾の頭の中では、こうしたシュミレーションがめまぐるしく駆け巡っていた。


 (いったい全体、こんな素晴らしい楽器が市場に出てくること自体が不思議だ。何か、特別な理由があるのだろうか。是非知りたい)

 

 目の前の逸品に興味深々で、縦から横から、遠巻きにその楽器をなめるように見入った。

 

 そうした田尾の表情の変化を、聡い店主が見逃すはずはなかった。それができなければ、海千山千の生き馬の目を抜くとまで言われるニューヨークで商売する甲斐性はないのだ。

 

 「興味がありそうだね。ちょっと吹いてみるかい」と、店主は、田尾のプロとしての腕前を確認した安心感からか、そのフライトケースを目の前に置いた。

 もしこの楽器をこの男に売りつけることができれば、今日の仕事はこれで終いにして、店の向かいにあるいきつけのパブで一杯飲ろうと、店主は考えていた。

 田尾は、自身の癖にも十分馴染んだ、現在愛用しているアメセルのマークシックスに、何の不満もなかった。その昔、広告代理店に入社した後の最初のボーナスで買って以来、30年近くも連れ添った愛器と別れようなどとは夢にも思っていなかった。今、目の前にあるスーパー・バランス・アクションを見るまでは。


 ジャズの、テナーサックス奏者の巨人といわれたソニー・ロリンズやジョン・コルトレーン、そして現在も活躍しているウェイン・ショーターたちの愛器として有名なこのスーパー・バランス・アクションを目前で見せつけられ、田尾の考えは揺らぎ始めた。

  田尾は、今度は自分のポケットに手を突っ込み、普段愛用しているセルマー社製の、ソロイストというタイプのマウスピースを取り出して、リードをセットし始めた。そして、東洋からの客の素振りを注意深く観察している店主に視線を向けながら、


 「楽器のコンディションを確かめるためには、時間をかけて吹いてみる必要があるのだが、構わないかい?」と、訊ねた。

 

 田尾のこの反応に、店主は日本から来たプロのサックス吹きに脈ありと見たのか、先ほどとはうって変わった丁寧な物言いで、


 「この店の2階に、ダンス教室のスタジオがあるのだが、今の時間は、まだレッスンが始まっていない。そこで思い切り吹いたらどうか」と、言うが早いか、そのフライトケースを手に提げ、田尾を尻目にスタジオに案内した。

 

 店主にしてみれば、こんな高価な楽器を試奏させる以上、目を離した隙に持ち逃げされたのでは堪らない。過去にもそういう苦い経験があったからだ。

 2階のスタジオには非常用のドアが一箇所取り付けられていたが、鍵を外からかけているので、高価な楽器を持ち逃げされる心配はなかった。その店主はやはり抜け目のない商売人なのだ。

  

 セッティングを終えたサックスをネックストラップに掛けた途端、田尾は驚いた。重いのだ。ゴールドプレートと普通のラッカー仕上げとはこんなにも違うのだ。注意深く見ると、管体自体の厚さが明らかに違っていた。

 目を閉じると、首にかかる重量感が自分の愛器であるマークシックスとは、全然違うことが判る。そっとキーに指をかけてみると、リアクションも幾分重く感じられる。


 (この時代のヴィンテージ楽器は造りがしっかりしているが、肝心の音はどうかな)

 

 年代ものの楽器は、時として鳴りが悪い場合があるのだ。特に、デッドストックされていたヴィンテージは例外なくそういった傾向にあると、田尾はこれまでの経験から想像した。

 はたして、吹いてみると予感どおり音の抜けが悪く、管体自体も響かない。

 

 (やはり、思ったとおりだ)


 しかし数分吹いただけで、田尾は何か底知れないポテンシャルを、その楽器に感じた。


 (恐ろしいくらいに息が入っていく。俺の肺活量では吹きこなせないかも知れない)

 田尾は、不安になった。


 試奏を始めて20分、30分と時間が過ぎ、やがて1時間近くになろうとする頃、ようやく金属で成型された管体に、人の温もりが満遍なく染み込んでいった、まさにその時、まるで突然の長い眠りから目覚めたように、楽器が鳴り始めた。

 それは、これまでにない経験だった。マウスピースもリードも、普段自分が使っているもので、なんら変りはない。しかし今、出ている音は、まったく別次元のものだった。

 田尾は、改めてスーパー・バランス・アクションが、何故にジャズの巨人たちに愛され使用されてきたのか、今、その理由をようやく理解することができた。しかも自分の肌で。

 しかし30分後には、田尾は、この楽器の弱点も見抜いていた。

 それは、現在のモデルと比較してピッチ(音程)がとりづらいことだった。田尾にとって見れば、ヴィンテージには概ねそういった傾向があることくらいは、長年のプロ生活で十分判っていた。 

 それらの弱点を補って余りあるほど、この楽器のサウンドは素晴らしいと、感じさせずにはいられなかった。



 第3章  バ ト ル



 「どうだい、このエンジェルは? 気に入ったかい」

 

 店主の声が、田尾の背後で響いた。

 後ろを振り向くと、店主の横には一人の若い黒人が楽器ケースを片手に立っていた。

 

 「ナイス トゥ ミーチュー」

 

 その黒人は、人なつこい笑顔を浮かべ、田尾に握手を求めてきた。

 彼の手は分厚くおまけに腰回りが太くて、そのことだけをとってみても見るからにタフネスの塊を感じさせるほどだった。

 よく見ると、歳はおおよそ20代前半といったところだろうか。

身長は凡そ180センチで、田尾とそう変らないほどだったが、筋肉質を思わせる身体は、いかにも黒人特有のしなやかさを感じさせた。


 「ちょうど、ジミーが、オーバーホールした自分の楽器を取りに来たところだったので、2階に案内したんだ。どうだい、そろそろウォーミングアップも終わって調子も出てきただろうし、一曲セッションでも始めないか」


 店主が言うが早いか、ジミーは、楽器ケースを手際よく開き、アルトサックスをセットし始めた。

 田尾が、彼の愛器を注意深く観察した限りでは、それはヴィンテージのセルマー・マークシックスで、非常にコンディションが良さそうだった。管体のゴールドラッカーはまだ六割ほど残っており、ヴィンテージによくありがちな腐食した部分は見当たらなかった。 

 マウスピースはオットーリンクのヴィンテージ・ハードラバータイプだった。表面が紫外線の影響で多少くすんだ状態になっていたが、いかにも使い込んでいる様子が見て取れた。リードは多分リコーだろうか。三か三半の硬さがありそうだ。


 (渋い。プロ好みのセッティングだ)


と、目の前の黒人の若者が自分と同業のプロのサックス吹きだと直感した。

ジミーがマークシックスを組み立てている間、田尾は彼の楽器の扱い方を注意深く観察していた。非常に丁寧な、その様子を見て


 (こいつは少々腕が立つかも知れない。ちょっと気合を入れないと、あっという間においていかれそうだ。真剣勝負だ)


と、多少緊張した。こんな気分になったのは何年ぶりだろうか。


 「ジミーは、最近売り出し中のナイスガイでね。特にニューヨークのスタジオでは引っ張りだこの、いわゆるファーストコールなんだ」

 店主が、ジミーを紹介した。


 「つまりジミーは最近相当稼いでいるってことさ。秋には、トランペッターのフレディのバンドのメンバーとして、日本に行くらしい。それで日本から来たサックス吹きがスーパー・バランス・アクションを試奏している、とジミーに教えたら、それじゃ早速一緒に吹いてみたいと言ったのでこっちに連れてきたんだ。構わないだろう?」

 

 店主は、田尾の都合などお構いなしにまるでけしかけるように言い放った。

 

 「それじゃ、ブルースでも演るかい? 何がいいかな。そうだ、セロニアス・モンクのストレート ノー チェイサーなんかどうだろう」と、田尾がジミーに提案した。

 

 一般に、ジャズチューンの中でも、同じリフを繰り返すブルースは、ジャム・セッションで使われることが多い。基本的な曲のコード進行は単純だが、逆にそのフォーマットの範囲内でブルースフィーリングを表現するには、かなりのテクニックが必要なのだ。

 田尾は、まずプロなら誰でも知っているジャズナンバーで、ジミーの腕前を試してみようと思ったのだ。


 「それじゃFのキーで入り、後は流れに沿って自由に演ろうぜ」

 田尾はジミーに宣戦布告した。そして店主はと見ると、スタジオのコーナーに備え付けられている、つや消し塗装のアメリカ・スタンウェー社製の、良く使い込まれたアップライトピアノに向かっていた。


 「久しぶりのセッションだ。こう見えても、俺も若い頃はけっこう演っていたんだぜ。結局、プロにはなれなかったけど、ブルースのバッキングくらいはまだまだOKだ」と、その店主が嬉しそうに言った。

 

 まず田尾が、12小節で構成される「ストレート ノー チェイサー」のメロディーラインを、かなりのアップテンポで吹き始めると、ジミーが、ユニゾンではなくカウンターメロディーで合わせてきた。大きく艶のある音がスタジオ一杯に響いた。タンギングに、一種独特な癖があった。田尾は、一瞬のうちに、この若い黒人のアルトサックス吹きの腕前が並ではないことを肌で感じた。そして、そのことが、田尾のプロミュージシャンとしてのプライドに火を放った。

 

 ソロを取っている間、ジミーはうるさいほどのカウンターメロディーをかぶせてきた。まるで日本の、少し老境に差し掛かったプロのサックス吹きが、どの程度吹きこなせるのかを推し量るように。お互いに変な遠慮など全くない、プロとプロとの、プライドの火花が散るような壮絶なバトルなのだ。


 (このジミーとやらは、俺に喧嘩を売るつもりか。それならそれで受けて立つぜ)

 自分でも、身体中からアドレナリンが噴き出て、次第に熱くなっていくのを感じた。

 もしジミーが、目の前の日本から来たサックス吹きの腕前が自分にとって物足りないと判れば、その時点で楽器を片付け、お義理の挨拶を交わしながらスタジオからゆうゆうと立ち去ることは間違いないだろう。

田尾には、それが手に取るように判っていた。なぜなら、田尾がかつてプロの駆け出しだった20年以上前に、同様の仕打ちを、意地の悪い先輩ミュージシャンからイヤというほど受けたことがあったからだ。その苦い思い出は、今でも心の襞の引っかき傷のように残っていた。


 店主のバッキングはとりたてて上手くはなかったが、最低限の仕事をしていた。時々、タイムがずれることはあったが、これはアマチュアがよくしでかす愛嬌といえる程度のものだった。

 最近の田尾にしてはかなり気合の入った10コーラスほどのソロを吹いた後、ジミーに繋いだ。その途端、サウンドが恐ろしく変化した。ジミーは、全く信じられないほどの高速フレーズを、倍テンポで吹きまくったのだ。それはジョン・コルトレーンの有名なアルバム「ジャイアントステップ」を思い起こさせるような、息もつかせないシーツ・オブ・ サウンドの連続だった。

 しかもジミーのサウンドには、現代的でなおかつ洒落たブルースフィーリングが余すところなく充満しており、そのテクニックとともに田尾を驚かせた。 


 (こいつは、間違いなく本物だ。油断するとやられるぞ)

 

 田尾は、背筋がぞくぞくするのを感じた。こんな緊張感は、全く久しぶりだった。下手に自分がジミーのバックで吹いて邪魔するより、ここは彼に存分に吹かせて、この若い黒人の腕前を、とくと拝聴しようと考えた。

 演奏が5コーラス目に入ったところで、ジミーが前触れもなく、Dフラットに転調してきた。


 (なかなかやるな。俺について来いと言っているのか)

 

 田尾は、ジミーの演奏にカットインするタイミングを慎重に計り始めた。店主はその時点でバッキングを中断した。つまり、これ以上は対応できないことを自ら悟ったのだ。

 田尾は、ジミーが10コーラス目を終える3小節前のタイミングで、半ば強引にソロを奪いとった。

 その瞬間、ジミーは、おっさんにしてはなかなかやるなといった驚いた表情を浮かべたが、今度は静かに、田尾のすぐ傍でソロに耳を傾け始めた。田尾のソロが熱を帯びるにつられ、時々ジミーの顔から笑みがこぼれた。

 それは、日本から来た、はじめて出会うプロのサックス吹きの、予想以上の腕前に驚いたということよりも、ジャズという共通の語法を介し、心と心が繋がり温かい絆を感じ取ることができた、という満足感によるものだった。

 

 30分ほど過ぎたところで、バトルは、ユニゾンによるテーマで締めた。

 マウスピースから唇を離した二人は、期せずして互いの手を差し出して固く握手した。ジャズという音楽が、言葉以上に雄弁であることを互いに実感した瞬間だった。

 ジミーが本当に嬉しそうに笑った。それにつられた田尾も、満足そうな笑みで応えた。


 「サンキュー ソー マッチ、ミスター田尾。秋にフレディのバンドで日本に行ったら、是非もう一度会いたいな。東京ではブルーノートで演る予定だから、良かったら楽屋に遊びに来て欲しいんだ。ボスのフレディにも、日本の凄いミュージシャンとセッションした今日の事を話しておくよ。僕としては、できればブルーノートで一曲演ってくれれば、お客も喜ぶと思うけどね。まあ、こればかりはボスしだいだけど」と、ジミーがアルトサックスをケースに仕舞いこみながら田尾の様子を窺った。


 「そうだな、行けたら行くよ。ただしプレイヤーとしてじゃなく、客としてね。次は、ジミーのバラッドを聴いてみたいもんだ。それじゃ、東京でまた会おう」と、田尾は、半分お愛想を含みながら返事した。


「やっぱり、プロは凄いね。とってもクールだった。俺も久しぶりにピアノを弾いて、楽しかったよ」

 

 店主が顔を上気させながら田尾に向かって言った。そして、

 

 「ミスター田尾、あんたはいつまでニューヨークにいるんだい。ジミーのバンドは、今週、ヴィレッジに出演する予定になっているんだけど、覗いてみる気はないかい。あのクラブは予約制だから、あんたにその気があるなら、オーナーのロレインに、俺のほうから電話を入れとくぜ」

 

 田尾は、今回ニューヨークに来る前に、ブルーノートやヴィレッジといった、有名ジャズクラブの演奏を聴きまくるつもりでいたが、残念ながら、ヴィレッジだけは、席を予約できないでいた。

 突然の店主からの嬉しい申し出を、田尾はありがたく受けることにした。



   第4章   エンジェル



 「OK じゃさっそく電話するとしよう。ところでミスター田尾、今吹いたスーパー・バランス・アクションはどうだった。俺の見るところ、いや聴くところじゃ凄く良いサウンドをしていたと思うのだが」

 

 すでに店主の顔は、ビジネスマンのそれに変わっていた。

 

 久しぶりに、気合の入った他流試合の興奮から覚めやらぬ中、田尾は、店主の声で我に帰った。確かに、自分ながら、納得のいくサウンドをしていた、と実感していた。

 バランス・アクションの少しばかりの不満、例えば、多少のキーアクションのレスポンスの悪さや、タンポンの皮の状態が劣化していて、くたびれていることなどを除けば、この楽器のコンディションは、ほぼ完璧に近かった。

 ブレス(息)の通しやすさ、管体自体の上質な鳴りっぷりなどは、現状のままでも文句のつけようがなかった。こんな魅力的な楽器には、多分、今後一生かかっても出会うことはないだろうと、田尾は漠然と感じていた。


 (しかし、買うとしても問題はプライスだな)


 スタジオから一階フロアに降り、改めて、展示室に所狭しと並べられたマークシックスの、目の玉が飛び出るようなプライスタグをしげしげと見つめ、そう思った。

 程度の良い、シリアルナンバーが80000番台のテナー・マークシックスには、17000ドルのプライスが付けられていた。1ドル110円前後の円安で割高になったいま、日本円にすると190万円近いプライスは、正直いって高い。田尾の現在の年間の稼ぎからすれば買えないこともなかったのだが・・・・・。

 このスーパー・バランス・アクションのコンディションのよさから察すると、最低でも日本円で250万円ほどの値付けがされることは間違なかった。

 しかも、あの商売上手な店主は、とてもディスカウントしそうもない。田尾は頭の中で、すばやく計算した。


 (やはり無理なのか)


  田尾は、流石に今回はこのバランス・アクションを買うのをあきらめざるを得ない、と半ば観念した。

 

 田尾の表情を見透かしたかのように、その店主は、


  「ミスター田尾、このスーパー・バランス・アクションは、あんたが吹いてこそ価値を発揮する代物だと思う」と、おもむろに切り出した。


 「さっきのスタジオでのセッションで、本当にそう思ったよ。アメセルのヴィンテージは、ここ10年で数多く日本に流れたが、実は本当にグッドコンディションの上物は、相変わらずこの国に残っているんだよ。つまりほとんどのヴィンテージは、二流とまでは言わないがそれに近いものなんだ。でもあんたのプレイを聴いて少しばかり感動したよ。ジャズの歴史もそんなにない日本の、しかもベテランプレイヤーが、こっちのミュージシャンにもないようなテイストでジャズを演るなんて。本当にクールだ。この楽器はミスター田尾が吹くべきだよ。そんな運命の巡り会わせなんだ」


 いっきにここまでしゃべった店主は、もう一度目を据えて田尾の顔を凝視した。もうその目は笑っていなかった。その昔、プロになれなかった店主は、アマチュアではあるがミュージシャンとしての心を揺り動かされた風であった。


 「こっちも商売抜きで、つまり、赤字を被ってまで売るつもりはないが、ミスター田尾、15000ドルでどうだ」

 

 いよいよ店主は、交渉のテーブルで飛び切りのカードを切ってきた、と田尾は思った。


 (意外とそそられる値付けをしてきたな。何か、理由があるのだろうか)

 

 田尾は訝った。

 

 「グッドオファーだが、なぜそこにあるマークシックスのヴィンテージよりも値段が安いんだ?」

 田尾は、駆け引き抜きで店主に正直に訊いた。


 「ミスター田尾、あんただからこのバランス・アクションの由来を正直に話しておくよ」

 

 店主の視線が、ハイサイドウィンドウから望む高層ビルに注がれていた。まるで何かを思い出すような表情だった。


 「この楽器が俺の店に入荷したしてきたのはかれこれ2年前のことなんだ。出どころはニューオリンズだといっていた。マイルス・デービスが生まれた東セントルイスで、デキシーランドのバンドで演奏していたジャズプレイヤーが吹いていたものらしい」

 

 店主の話は、少し長くなりそうだった。

 

 「そいつは、このバランス・アクションをエンジェルと呼んで、本当に自分の子供を慈しむように、大事に大事に使っていたんだ。でもその男はよくあるようにクスリ漬けになっていて、つまり正真正銘のジャンキーだったんだ。それでヤクのことで売人とトラブルになって、地元のヤクザに頭を吹っ飛ばされて天国に召されたそうだ。それを知った地元のミュージシャンが、残された妻からそのエンジェルを譲り受けたんだ。とまあ、ここまではよくある話だが、さらにストーリーが続くんだ」

 

 店主は、さてこれからが本当のクライマックスだと言わんばかりに、目の前のバランス・アクションのボディを擦った。 


 「次のオーナーとなった男は白人で、俺と同様プロになれなかったアマチュアミュージシャンだった。マイルスの親父と同じく、そいつも医者だった。もっともマイルスの父親は歯医者だったらしいが、そいつは地元でも腕のよい外科医だったということだ。だから経営する医院はもの凄く流行っていて儲かっていたらしく、頭を吹っ飛ばされた黒人ミュージシャンの妻から、かなり高額の言い値でこの楽器を手に入れた。しかし買ったのはいいが、こいつも自分の女房に頭を撃たれて死んだんだ。ちょうどミスター田尾と同じくらいの歳だったようだ」


 流石に、その店主は一息つくために、田尾にコーヒーを勧め自分でも一口啜った。

 

 「どうして撃たれたかって?」

 

 店主の顔に卑猥な笑みが浮かんだ。

 

 「浮気だよ。南部ではたいてい女癖の悪い白人は、黒人の若い娘に目をつけやりたがるんだそうだ。ご他聞にもれず、その白人の外科医も自分の屋敷に奉公にきていた、若くて肉付きのいい黒人のメードに手を出したんだ。運の悪いことに、その娘を孕ませたのを女房にバレて壮絶な喧嘩の後、頭に血が上った女房がその男、つまり自分の亭主の頭を吹っ飛ばしたって訳だ。本当に女は怖いね。ミスター田尾も用心することだな」


  ここまでいっきにバランスアクションの由来を長々としゃべった店主の顔は、ほんのりと上気していた。

 

 そしてさらにこのストーリーの続編をしゃべりたそうな表情をしていたが、肝心の商談が遅くなるのを心配し、最後の詰めに入った。

 

 「そういうことで、正直に言えば、このバランス・アクション、つまりエンジェルには理由があるんだ。俺の店に入るヴィンテージはたいてい2週間から3週間で、長くても1ヶ月以内で捌けるんだ。ところが不思議なことに、このエンジェルだけは、これまで何人ものプロのサックス吹きが試奏し、いいところまで商談が進むんだが、どういう訳かどいつもこいつも財布からキャッシュカードを出さないんだ。そいつらには、今ミスター田尾に話したストーリーはいっさい言っていないにも拘わらずだ。俺も不思議で仕様がない。たいていこの種のブツは、店頭で17000ドルのプライスタグを付けるんだが、まあそうした理由ありのエンジェルなんで、2000ドルディスカウントして15000ドルにするよ。どうだいミスター田尾、悪い話じゃないだろう?」

 

 店主の長々としたストーリーは、単なる与太話ではないように思えた。


 (不思議な由来があるもんだな)

田尾は、その楽器との出会いに驚くとともに、名器スーパー・バランス・アクションとの、言葉では説明できない不思議な縁を感じざるを得なかった。


 「もちろん、オーバーホールしてからの手渡しのプライスだ。おまけにさっきのマウスピースも3本全部付けるよ、ミスター田尾」

 

 店主はその時、店に入ってきた数名のプロと思しき客には目もくれずに、今度は、懇願するように田尾の顔を覗きこんで言った。


 田尾は、このあたりで話をつけようと腹を固めた。そして店主の言葉を逆手にとり、

 「ミスター、あんたの言うとおり日本じゃここ10年ほどの経済不況で俺の仕事も減って苦しい。しかも知っての通り最近の大津波と地震と原発事故の影響でますます不況になりそうな状況なんだ。俺が今キャッシュカードを財布から出すとしたら、それはあんたがそのエンジェルに12000ドルのプライスタグを付けたときだ」と、田尾は、飛行機の中で読んだイギリスの人気作家、ジェフリー・アーチャーの最近作に書かれていた、ちょっと自分でも恥ずかしくなるような気障な台詞まわしを真似た。


 店主の顔が少しゆがんだように、田尾には思えた。そしてこのエンジェルの仕入れ値が、おそらく10000ドルに近いところにあると見透かした。


 (これはいけるかもしれない)

 

 今この店主を攻めれば落とせるかも知れないと読みきった。これまでだてに歳を喰っているわけではなかった。これまでバンドリーダー、つまり個人事業主としてさまざまな阿漕な奴らと丁々発止のハードネゴの経験を積んだ田尾には、この店主を必ず落とせる自信があった。


 田尾のオファを受けたその店主の眼は、焦点が定まらず空を泳いでいた。明らかに頭を猛烈に回転させて原価計算しているに違いなかった。

そしていったん田尾から目線を切り、目の前のエンジェルのボディをやさしく撫で、

 

 「ミスター田尾はミュージシャンとは思えないようなタフネゴシエーターだな。今日の今日まで、俺は世界の三大ネゴシエーターは中国人とロシア人とユダヤ人だとばかり思っていたが、これからは考えを改めて日本人を追加することとしよう」と、皮肉った。そして


 「それじゃミスター田尾、これから俺はこのエンジェルに14000ドルのプライスタグを付けようと思っているんだが、その前にあんたが財布のキャッシュカードを渡してくれれば、そのタグは引っ込めるよ」

 

 店主の顔には、これ以上交渉の余地はないといわんばかりの意思の強さが表れていた。この辺が潮時かな、と田尾はアメックスのゴールドカードを出そうとした。

 その時、まだ店主が言い忘れたことがあったかのように、

 「ところでミスター田尾、ちょっとお願いがあるんだがいいかな」

 

 ごくごく普通の、人懐こい表情の顔に戻った店主が遠慮がちに切り出した。

 「俺と女房は、今年の12月に結婚40周年を迎えるんだが、今度はじめて東京、京都、上海、香港、タイ、ベトナムを2週間ほどかけて旅行する予定なんだ。東京には2日ほど滞在するので、できれば夜の東京を案内してくれると嬉しいんだが。もちろん仕事柄、都内のジャズクラブにも興味があるんだ。」


 (やはり、ニューヨーカーはタダでは起きないな)

 

 田尾は苦笑した。それでも、このエンジェルを日本円にして150万円程度のプライスで日本に持ち帰ることができることを思えばお安いリクエストだと思った。

 いま使っているヴィンテージマークシックスのテナーを、いつもの楽器店に持ち込めば片手くらいにはなるはずだ。そうすれば実質100万円くらいの出費で、このエンジェルを自分のものにすることができるのだ。田尾は、自分ながら今回のニューヨークツアーの思いもよらない幸運を喜んだ。

 

 「結婚40周年記念のアジアツアーの費用を捻出するためにも、このエンジェルを高く売りたかったんじゃないのかい」と、田尾がいたずらっぽい顔で冗談を言いながら、


 「あんたのオファーは喜んで受けるよ。アメリカを発つ1ヶ月前くらいには、このアドレス宛てに日程をメールして欲しい」

 

 田尾が自分のカードを店主に差し出した。


 「OK ディール。女房と日本ツアーを楽しみにしているよ。でも東京じゃあまり田尾に迷惑を掛けたくないから、仕事に差しさわりのない程度に付き合ってくれればいいよ」といいながら、その店主は満足そうに自分のカードを田尾に渡した。

 カードにはビル・エバンスとクレジットされていた。



第5章   ヴィレッジ



 ビルの店での緊張感溢れるセッションと、ハードネゴで多少疲れた田尾は、ホテルに帰った後の熱いシャワーと、二時間程度の仮眠ですっかりリラックスした。晩飯にしてはいささか早い食事をホテル内で摂り、ビルに教えてもらったとおり、その晩ヴィレッジに出演するジミーたちのバンドの演奏を聴くために、イエローキャブを拾った。

 ヴィレッジは、宿泊しているホテル同じ7THアベニュー沿いなのだが30ブロックも離れている。ぶらぶら散歩がてら歩いてもよかったが、暗くなったニューヨークの街は物騒なので念のためにタクシーで行くことにした。

 

 ヴィレッジの入り口の前に着くと、スポットライトで浮かび上がったテントが目に入った。トレードマークの朱漆のカラーリングは相変わらずで、切妻型の屋根の両サイドにはジャズ雑誌でもお馴染みの「VILLAGE」という白抜きのロゴが、否が応でも伝統の風格を感じさせ、7年前のニューヨークでの記憶を思い起こさせた。

 前回、ヴィレッジに予約もせずに来たときには、通りにも人が溢れるほど開店を待つ人が長蛇の列をなしていて、結局楽しみにしていたセッションを聴き逃したのだ。


 このヴィレッジの人気が高いのは、それなりに理由がある。

 それは、初代のオーナーであるマックス・ゴードンによって開店した一九三五年以来およそ75年の間、アメリカのJAZZの栄枯盛衰を演出した歴史的な舞台だからだ。

 そしてJAZZの歴史に名を刻む数々のビッグミュージシャンも、まだ駆け出しの頃にはこのクラブで腕を競い合い、自分の実力を認めさせ、のし上がっていったのだ。

 このクラブの名声を世界的に知らしめたのは、ブルーノートやバーブ、プレスティッジ、リバーサイドといった当時のビッグレーベルが、ヴィレッジで繰り広げられたジャズの新しいムーブメント、すなわちビーバップをあまねくライブ録音し、全世界にリリースしたからだ。

 そして現在も、ニューヨークで一流と評価の高いミュージシャンたちが、このクラブに出演することを誇りに思っていることも、この店の名声を衰えさせない大きな理由になっているのだ。

 このクラブの人気の理由は他にもある。

入場料が内容に比べ格別にローコストなのだ。出演するバンドの格にもよるが、通常のチケット予約はたいてい30ドルから40ドルの間の料金で、格安なのだ。つまり日本円にすれば、高くても4000円程度払えば、ドリンク付でニューヨークでも一流のミュージシャンによるライブが演奏が楽しめるのだ。

 それに比べると、ニューヨークで人気クラブとして人気の高いブールーノートは、店構えがヴィレッジよりも高級なためか、最低でも70ドル程度のテーブルチャージを請求されるのだ。


 ヴィレッジの入り口に立つと、現オーナーのロレイン・ゴードンがキャッシャーを務めていて、長蛇の列を文句ひとつ言わずただひたすら自分の順番を待つ客から入場料を取っていた。名前のとおり彼女はゴードン夫人だ。見るからに、アメリカジャズ界のゴッドマザーの雰囲気を漂わせている。若いミュージシャンなどなれなれしく口もきけないのではないか、と思わせるほどの風格を漂わせている。

 田尾は、40ドルのチャージを払い店内に入った。どこのジャズクラブでもそうだが、間接照明を中心に、光量を落とした落ち着いた雰囲気が客たちのアルコールの注文を増やしていた。

 店内には、長めのカウンターのほか、小さめのテーブル席がおよそ50ほどしかない。そう広くもない空間は、ステージと観客の間合いが絶妙で、却ってジャズのライブ感を引き立たせるかのようだった。

 中年のおばさん風のスタッフが、田尾をステージから3列目の席に案内した。ステージが意外に小さいのには驚かされた。ここでジャズ史上最高の名作編曲家ギル・エバンスの率いるマンデー・ジャズ・オーケストラが、毎週迫力ある演奏を行なったのだ。

 移民の国アメリカの、クロスオーバーカルチュアーとも言うべきジャズの歴史を創ったこの名門クラブの生気に、まさに今、自分が触れているのだと思うと、田尾は自然に体が熱くなるのを感じた。

 店内の、少しばかりクラッシックな時計の針は、午後7時を少し回っていた。


 (そうだ。ジミーとボスのフレディに挨拶しておこう)

 

 田尾は、先ほどのウェイトレスから教えられた薄暗いステージ横の通路に入った。楽屋の扉を開いたとたん、本番前のスケール練習に余念がないジミーと目が合った。半音階と3度と5度のインターバル練習を入念に反復していた。

 一息ついたところで、ジミーが嬉しそうに握手してきた。まるで旧知の友人同士のような、打ち解けた表情が田尾の心を和ませた。 

そしてリズムセクション(ピアノ、ベース、ドラムス)の3人に、ほんの数時間前に一戦交えた、日本の友人を紹介した。

 

 そのうちのひとりが、

 「ミスター田尾、今夜はワンナイトのギグがあるのになぜ楽器を持っていないんだ?。それともあんたはボーカリストなのかい?それじゃうちのバンドでは用なしだぜ」と、さっそく他のメンバーがニヤニヤ笑う程度のジョークを見舞って、田尾をからかった。

 

 それには答えず

 「来月、俺が東京で出演しているジャズクラブに遊びに来ても仕事はないぜ。ただしボーカリストにはギャラは払うよ」と、クールに返した。

 

 これにはメンバー全員が大笑いし、ユーモアの判るこの日本人に親近感を抱いたようだった。楽屋中に笑い声が響くなか、隣のバンドリーダー専用の部屋から、ボスことフレディが、いったい何を騒いでいるのだ、といった表情を見せながら姿を現した。

 

 「ウァット ゴーイン オン」と、若い衆に向かって訊くと、


 「ボス、この人が昼にビルの店でセッションしたミスター田尾です」と、ジミーが尊敬を払った丁寧な口調で、田尾を紹介した。


 目の前に立つフレディにはこれまで直接会った事はなかったが、ジャズ雑誌や他の業界筋の仲間から、彼に関する波乱万丈の人生についてのいろいろな情報を得ていた。

 それによると、1950年代のまさにハードバップ隆盛期の頃、新進のヤングライオンとしてアート・ブレイキーのバンドでキャリアを積み、ブルーノートレコードとの契約を契機に、一躍スターダムにのぼりつめた立志伝中のミュージシャンなのだ。これまでに吹き込んだ数々のレコードの多くは名盤としての評価が高く、日本でも非常に人気があった。

 

 しかし彼もよくあるように、一流のミュージシャンが陥る罠に嵌った。つまりヤク中毒になったのだ。しかもかなり重症のジャンキーで、プレイできない不遇の時代が長かったのだ。こうしたキャリアは、ジャズ界の帝王マイルスが辿った道と大差なかった。現場に復帰したのはここ10年ほど前で、そうした人生の天国と地獄を覗いてきた、まさにジャズ界の生き証人を目の前にしているのだ。

 田尾にとっては、ひとしお感慨深いものがあった。と同時に今夜の彼がどんなプレイをみせるのか、期待と不安が入り交じる複雑な気持ちであった。

緊張しながらも、自分よりも年齢では一回り上のジャズ界のリジェンドに手を差し出し、


 「ミスター ハバード、初めまして。日本から遊びに来た田尾といいます。お会いできて大変嬉しい。今夜はあなたのステージを楽しみにしています」と、敬意をこめて握手した。


 「ミスター田尾。あんたのことはジミーからいろいろ聞いているよ。たいした腕だってな。うちのジミーが日本にも凄いミュージシャンがいたと言って、嬉しそうに俺に話してくれたよ。何でもヒューストン・パーソンのようなサウンドをしているそうだな」

 

 お世辞とわかっていても、フレディが、自分のことをそんな風に評価していることに感激した。


 「今日は楽器を持ってきてないのか、それは残念だな。秋に東京に行ったら是非遊びに来てくれよ。それから俺のことは、これからフレディと呼んでくれ」


 (フレディにここまで言われたなら、東京ではなんとしても1曲つきあわなきゃ、収まりがつかないな)

 

 思いがけないジャズの大御所の言葉が、柄にもなく緊張していた田尾の心を和ませた。


 「ヘイ、ガイズ。ステージの始まる時間だ。タイムアップだ。それじゃゆっくりしていってくれよ」


 フレディは、もう一度大きくてごつい手を差し出し、力強く握手してきた。彼のやさしい気持ちがストレートに感じられるような瞬間だった。

 

 トランペットを小脇に挟みステージに向かおうと歩き出すフレディに遅れまいと、バンドの若い衆がバタバタとステージに急いだ。自席に戻った田尾は、フレディが言った「ヒューストン・パーソン」のようなサウンドという言葉が妙に気になった。これまで業界のミュージシャンからはスコット・ハミルトンのようなサウンドだと言われたことはあっても、今度のような評価は初めての経験だった。

 田尾の記憶では、ヒューストン・パーソンは確かフレディと同時代のミュージシャンで、歳は80代前半のはずだった。ゆったりとしたリズムとビックサウンド、そして唄うようなフレージングで人気があり、日本では余り知られていないが、ニューヨークではソウルジャズのビッグネームのひとりに数えられている。 

 特に最近は、夫婦ではないが、女性ボーカリストのエタ・ジョーンズと組んで、マンハッタンのジャズクラブを中心に活躍しているようなのだ。

 それにしてもジミーの奴ときたら、ヒューストンのような、歳が自分と半世紀も離れているようなリジェンドを識っているとは。よく勉強しているものだ。やはり今日、エンジェルを勧めた店主のビルがジミーを褒めただけのことはあるな、と妙に納得した。

 ヴィレッジのファーストステージは、いつものとおり午後7時半に開始した。

いきなり火を噴くような、ディジー・ガレスピーの名曲「ソルト・ピーナッツ」からスタートした。名盤「ジャズ・アット・マッセイホール」のライブ録音盤よりやや早めのテンポで、バンド全員が今風のリズムをバックに、気持ちよくスウィングしていた。

 レコードでは、テーマの途中で、ディジー・ガレスピーが「ソルト・ピーナッツ、ソルト・ピーナッツ」と2回叫ぶ場面があるが、その部分は、バンドの若い衆全員が声を揃えてシャウトし、客の笑いを誘っていた。

 

 懐かしい曲だった。

 田尾が最初にこのビーバップ・ナンバーを聴いたのは大学のジャズ研時代で、来る日も来る日も無我夢中で猛練習を重ねていた頃だった。

 

 ある日、ジャズ研の先輩から

 「おい田尾。これを聞いてみな。ぶっ飛ぶぜ」と言って、一枚のレコードを渡された。

 

 ジャケットには「ジャズ・アット・マッセイホール」というタイトルがクレジットされていて、パーカーとガレスピーが並んでステージの上に立って演奏しているモノクロームの写真が、アルバムいっぱいにレイアウトされていた。

  メンバーのクレジットをみると、アルトサックスがチャーリー・パーカー、トランペットがディジー・ガレスピー、ベースがチャールス・ミンガス、ドラムスがマックス・ローチ、そしてピアノがバッド・パウエルとなっていた。当時のジャズコンボでは、よくあるクウィンテット編成で、1950年代初期の、アメリカでも最強の天才プレイヤーたちを擁した伝説的なバンドだった。

 手にしたLPは、彼らの臨場感溢れるライブ演奏が収録された貴重なレコードだったのだ。田尾がジャズ研に在籍していた当時、ジャズの輸入盤は一枚2500円ほどしたのだが、大卒の初任給が凡そ6万円を下回った時代にあっては、大変な貴重品だったのだ。

 田尾は、その先輩から借りたレコードを下宿に持ち帰り、カセットテープにダビングすると、毎日毎日飽きもせず、耳にタコができるほどに聴きまくった。

 プロの今になっても、そのレコードに収められた全曲のアドリブを口ずさめるほどで、当時はレコードを丸ごと耳コピーし、自分の楽器でパーカーやガレスピーのソロを完全に再現できるまで、ひたすら練習に明け暮れたものだった。

 

 ステージでは、ジミーのアルトサックスと、フレディのトランペットの二管によるテーマメロディーからソロに移った。


 (それにしてもリズム隊を含め、メンバー全員の腕前はたいしたものだ)

 

 業界筋でよく使われる、タイトという表現では説明できない、一体感のあるリズムの塊が、バンド全体にグルーブ感を漲らせていた。

 

 アメリカと日本のジャズの最大の違いは、リズムのダイナミクスの差である、と田尾はかねがね感じていたが、このバンドの演奏を聴くと、改めて彼らとの実力差を感じざるを得ないと痛感した。特にジミーと同じ年代と見られる、若い黒人のドラマーが、アタックの効いたリズムをたたき出していて、小気味良かった。 

 ビーバップのリズムを叩かせると、ニューヨークの連中はいかにも筋金が入っていると思わせるような、無駄のない、それでいて筋肉質のビートを、息つく暇もなく浴びせかけてくる。

 やはりアフリカの大陸から連れて来られた民族のDNAを、このドラマーは受け継いでいるのだろうか。そんなことを感じさせるドラミングだった。


 (リズム隊からこんな調子でプッシュされ続けられたら、フロントラインの連中は手を抜くどころか、いつも100%以上の緊張感でプレイせざるを得ないな)

 

 田尾はニューヨークの厳しさを思い知ると同時に、身体中のアドレナリンが吹き出てくるようだった。

 ジミーのプレイは、ビルの店の2階のスタジオでのセッションよりもはるかに緊張感が漲っていた。逆に、彼のほとばしるフレージングが、バンド全体のリズムを引っ張る場面さえあった。

 ソロに入っても、クリシェ(手垢のついたフレーズの繰り返し)なんかはおくびにも出さず、滔滔とよどみなく吹ききっていた。

 なによりも楽器の音色にオリジナリティがあった。リズム隊に位負けせず、楽器全体を鳴らしきるようなビッグサウンドを響かせていることは勿論のこと、ヴィンテージのハードラバー・オットーリンクのマウスピースを通して出てくる渋い音色は、ときとしてジャズ自体がもつ悲哀とか猥雑さを感じさせるのに十分だった。

 5コーラスを吹いた中での、ソロのアプローチにも感心した。それは日本人のそれとは似て非なるものだった。

 登山にたとえれば、同じ峰でも難度のきわめて高いルートをわざわざ選択し、それをいともやすやすと登りきる一流のクライマーのようだった。

 コードチェンジのタイミングも抜群で、ハーモニー自体の解釈も、お決まりの、カビが生えたような気持ちの悪さは皆無だった。流石にニューヨークで売れっ子の、伸び盛りのミュージシャンには勢いがある。

 本当に素晴らしい、と田尾は改めてジミーの実力に舌を巻いた。


 続いて、ボスのフレディのソロにスウッチした。これまた田尾は、別の意味で驚き、凄みを感じた。

 レコードで知るフレディの往年のハイノートによるブリリアントな音色は多少影を潜めてはいたが、反対に、曲に対する解釈が際立っていた。

 全盛時よりも音数そのものは減っていた。が、フレーズとフレーズの間を十分に生かしきったサウンドの造り方が何とも洒落ていた。曲のブリッジに入るときなぞ、ドラマーにプレイを中断させて、絶えず曲全体のダイナミクスを感じさせるなど、スペースを十分生かしながら、バンド全体のテンションを持続させていた。

 熟練というか成熟というのか、目一杯吹きまくる若手の元気一杯のプレイと比べると、フレディのプレイスタイルはコントラストが効いていて、とにかく飽きさせることがなかった。


 (やはり大したものだ。だてに長年競争の激しいこのニューヨークで飯を喰ってきただけのことはある)


 3曲目が終わったそのとき、フレディがステージの脇に置かれてあるスタンドマイクを取り、メンバーを紹介しだした。

 それが終わると、

 「これから、はるばる日本から来たグレートミュージシャンを紹介したい」と、コメントした。

 

 そして田尾の名を呼び、その場で立つようにアナウンスしながら

 「今夜一緒に演奏してもらいたかったが、ミスター田尾はこれから美女とディナーの約束が入っている」と、軽くジョークを飛ばした。

 

 すると客席からは、日本が地震と津波、原発事故の三重苦で喘いでいることを知っているのか、田尾に向かって「我々は友達だ」と声がかかった。

 その声に応えるかのように、田尾は、今度の大震災に対するアメリカの支援に感謝していることを簡単にスピーチした。客席のあちこちから、期せずして大きな拍手が巻き起こったのを見て、田尾は胸が熱くなった。

 このスピーチの後も、フレディのバンドの好演が続き、最初のステージを終えた。田尾は再び休憩に入った彼らと最後の挨拶を交わすために楽屋に向かった。


 帰り際、ボスのフレディが、

 「ヘイ、ミスター田尾。東京じゃスピーチじゃなく、楽器で応えてくれよ」

と、満面に一杯の笑みを浮かべながら、田尾をハグした。


 ニューヨークからの帰りの機中、田尾は短時間ながらも濃密な人との出会いをゆっくりと思い起こしていた。そして隣のシートにはセルマーのスーパー・バランス・アクションが入ったフライトケースが、しっかりとシートベルトで固定されていた。

 しかし、深い眠りに入ろうとしている田尾には、隣のエンジェルが、これからの自分の運命を翻弄するなどとは、思いもよらないことだった。




第6章   シュトゥットガルトの狼



 つかの間の、ニューヨークのリフレッシュツアーから帰国した翌日、田尾は都内のホテルと契約している週末のレギュラーギグに向かうため、横浜にある自宅マンションを出た。

 車は10年間使い続けている、シルバーメタリックペイントが施されたポルシェ911カレラだ。

 田尾の道楽は車のほかにオーディオ、ゴルフ。それと、女房の直美を20年前に肺がんでなくしてからの女遊びだった。それとて還暦を間近にした最近では、往時のねちっこさがすっかり失せてしまっていて、現在は、もっぱらポルシェのドライビングに入れあげてストレスを発散していた。


 実はこの「シュトゥットガルトの狼」こと、ポルシェには田尾の深い思い入れがあった。

 いま乗り回しているポルシェは、友人から5年落ちを譲り受けたもので、今年で10年目を迎えていた。普段のメインテナンスにはそれなりに金がかかったが、それはこの車のオーナーの宿命であると割り切っていた。 

 いつかはポルシェを持ちたいと思ったのは、大学を出て大手広告代理店に就職して五年目の頃であった。

 当時、外資系の製薬会社の国内でのパブリシティとコーポレート・アイデンティティ、いわゆるCIを一手に請け負った会社は、その頃、若手のやり手で鳴らしていた田尾に統括ディレクターを命じ、そのビッグプロジェクトを任せたのだ。

 田尾は、入社以来の初めての大仕事に、それこそ寝食を忘れるほどに仕事に没頭した。その甲斐あってか、注文のうるさいことで有名なクラインアントからの信頼もかちとり、会社も評価するほどの成功を収めた。

 その頃のCI戦略といえば、主としてテレビ、新聞、雑誌といったメジャーなメディアを使ったイメージ情報発信が定番だったが、薬という特殊な商品を扱う会社には、何か物足りないと感じていた。

 売り込もうとする薬の安全と安心を、医師を始めとする医療関係者や病院、そしてエンドユーザーである患者にまで知ってもらい、会社全体のCI向上に繋げていくためにはどうしたら良いか。田尾が必死にたどり着いた結論は、その頃としては非常識とされていたエンドユーザーの生の声をメディアに流すという、斬新な戦略だった。

 社内やクライアントは最初、猛烈に反対したが、結局、薬を使用した消費者の生の声を、細工せずに情報公開することが一番良心的で、信頼を得る最良の方法であり、この評価をクライアントのCI戦略の基盤とすべきであるとして、頑固に譲らなかった。

 田尾はその企画書を何度も懐に抱え、単独でドイツ・フランクフルトに通った。約半年にわたるハードネゴシエーションの末、その企画は一部手直しされたものの、スタートすることになった。

 

 当時の拡販戦略としては画期的であったそのプロジェクトキャンペーンには、想像以上の反響があった。今日でいうところのクスリの情報開示を先取りした企画だったのだ。

 狙い通り、このキャンペーンがスタートした一週間後には、マスコミ各誌がこれを取り上げるようになり、病院、薬局、患者などのエンドユーザーからの生の情報も寄せられ、じわじわと評価が高まっていった。

 ただし評価には良い、悪いはつきもので、クライアント側はネガティブなそれをオープンにすることを嫌がったが、田尾は頑として譲らなかった。そうこうしているうちに、半年を過ぎる頃にはこのキャンペーンの評価も定着し大成功した。

 クライアントの国内での販売実績も、当時の好調な経済の波に乗って右肩上がりに伸びていった。そしてこのきわめて画期的なキャンペーンが浸透するにつれ、会社の企業価値を示す株価も、当初の予想をはるかに上回るスピードで上昇した。

 このキャンペーンの成功により、その当時としては破格の額の社長賞を手にした田尾は、その金をそのころ乗りまわしていたBMW2002TIの残債に充て、晴れて自分のものにした。

 さらに会社は、ほぼ1年にわたり休暇のなかった田尾に2週間のヨーロッパ旅行を航空チケットとともにプレゼントした。会社からの粋な計らいに感謝しつつ、田尾は真っ先にドイツ・シュトゥットガルトで広告代理店を経営するピーター・タイスに会いに出かけることにした。

 田尾は、当初から自分の企画を成功させるためには、ドイツ人の信頼できるアドバイザーが必要だと思っていた。

 ピーターはドイツにおけるビジネスマナー、日本とは異なる企画書の作成、ドイツ人が重要視する法的な問題解決にかかわる重要事項など、あるとあらゆる緻密、かつ実務的なサポートを、ビジネスという関係を超えて提供してくれたのだった。今回の成功の何割かは、ピーターの貢献によるものだと田尾は感謝していたし、仕事が一段落したらピーターに直接礼を言わなくてはならないとも思っていた。

 

 会社からのオファーは、田尾にとっては渡りに船で、さっそくフランフルと経由でシュトゥットガルトに飛んだ。現地では、ピーターから今回の素晴らしい仕事の成果に対する賛辞と、心のこもった温かいもてなしを受けた。そして、田尾にドイツ滞在中に何か希望はないかと訊いてきた。

 そのころ車好きの田尾は、給料の相当の額をBMW2002tiiにつぎ込み、暇さえあればこのドイツ車を転がしていた。田尾の本音としては、勿論ピーターのようにポルシェやメルセデスを持ちたかったのだか、如何せん、そんな高嶺の花の高級車を買って維持できるほどのサラリーは稼いでいなかった。

 それでしかたなく、当時02と呼ばれ、田尾でも手が届くBMW2002tiを転がしていたのだった。特に田尾の02は、鮮やかなオレンジにカラーリングされていて、そのころの日本では否応なく人目を引いた。

 02の心臓部であるエンジンには、マニア垂涎ののソレックス・ツインキャブレターが奢られており、国産車とは全く異質の心地よいエンジンサウンドを響かせた。

 こうした田尾の車に対する深い思い入れもあり、かねてから一度は走ってみたいと思っていたアウトバーンでのツーリングを、遠慮なくピーターに申し出たのだ。

 田尾がBMW2002tiを乗り回していることを、すでに耳にしていたピーターは、自分が所有するポルシェを駆って、ドイツ自慢のアウトバーンを走ることを快く受けた。

  

 それから2日間、田尾とピーターは、ドイツのシュバルツバルトやバーデンバーデンなどをめぐるアグリ・ツーリズムを満喫しながら、アウトバーンを疾走した。そのとき田尾は、はじめてドイツ製スポーツカーの本当の意味での基本性能、とりわけスタビリティ(高速安定性)を、そしてそれを保証するブレーキ性能の素晴らしさを思い知った。

 同時に、何といってもアウトバーンの素晴らしい舗装技術にも感嘆した。速度無制限のこの無料の高速道路は、必然としてドライバーに安心を与える舗装技術なしには成り立たない。ほとんどのアウトバーンは日本のようにアスファルト舗装ではなく、コンクリートで仕上げられていた。

 カーマガジンでは余り触れられていないが、その舗装のレベルは世界最高だと、田尾は羨ましく思った。

 時速300キロに近いスピードでの走行を可能にするためには、鏡のような輝きを持つ、滑らかな舗装技術が絶対欠かせないのである。

 田尾は、自分でもポルシェのステアリングを握り、水平対抗の空冷6気筒エンジンの乾いた音を聞きながら、いつかこの名車を自分のものにしたい、と心底思ったのだ。


 ポルシェは、ストレスなく首都高速を快調に飛ばした。

 横浜のマンションを出た頃にはぐずっていたエンジンも、アドレナリンが吹き出てきたかのように、アクセルワークの微妙な変化に反応してきた。

 ミッションは、最新型911カレラに搭載されている7速PDKのセミオートマティックではなく、安定度抜群の5速マニュアルトランスミッションだ。

 高速道路のすこしきつめのカーブポイントでは、かつてBMW2002tiを転がして、箱根のターンパイクで散々練習し身に着けたブレーキングテクニックを駆使して、車の挙動を注意深く観察した。ブレーキを踏んでいるときでも、エンジンの回転数を落とさないようにするための、ヒール&トゥと呼ばれるテクニックだ。

 田尾はポルシェと対話するときには、いつもこのやり方で車の挙動を注意深く観察し、機嫌が良いかどうかを探るのだ。

 ポルシェは伝統的に、フラットシックスのエンジンをリアのアクスルの背後にマウントし、まさにスポーツカーの王道をゆくシャシー設計となっているのだが、時にはエンジンのウェイトがリアに配分されているため、ウェットな路面とか雪道でパニックブレーキを踏むとオーバーステア、つまり車のお尻が滑って流れるようになりやすい独特の癖を持っているのだ。

 これを回避するためにはカウンターステアという難度の高いハンドル操作の技術が必要なのだが、田尾は時々、首都高速の水溜りのウエットな状態の路面で、このテクニックを意識的に試し、遊んだ。ポルシェの剛性の高いボディは、舵を切ったときの後味の悪い捩れが皆無で、胸のすくような反応を示した。

 今乗り回しているポルシェは、10年も前の5代目996型にも関らず、エンジン、シャシー、ブレーキ性能はいまでも惚れ惚れするほど見事で、不満はなかった。

 本当にいい車だ、と心底思った。コントロールするにはハードルは高いが、使いこなす技術があれば、こんな楽しくて面白い本当のスポーツカーはない。よくあるスポーティーカーとは、全く次元が違う車なのだ。愛車ポルシェ911カレラは、ニューヨークに出発する前となんら変わらず、快適な高速ツアラーとしての力量をさりげなく見せつけた。

 しかし、もうすぐ還暦を迎える自分にとっては、体力や反射神経の衰えは如何ともしがたいことは、悔しいが判っていた。

 田尾は、7速PDKダブルクラッチ・トランスミッションを搭載した、最新型の911カレラが欲しい、と内心思っていた。1500万円出せば手に入るのだ。金ができたら絶対買いたい、と年甲斐もなくそう思っていた。スポーツカー好きに、歳は関係ないのだ。



第7章   マスター小宮山



 と、その時、ダウンロードしていた着メロのテーク・ジ・エイ・トレーンが、田尾のポルシェ911カレラへの想いを容赦なく中断した。モバイルのディスプレーを見ると、大学のジャズ研時代の先輩、小宮山からだった。

 田尾は、首都高速の緊急用のエスケープゾーンに車を寄せ、モバイルを手に取った。サッチモ風の少ししゃがれた、聞き覚えのある声が響いてきた。


 「やあ哲、小宮山だよ。元気でやっているかい。ニューヨークで骨休みしていたんだってな。何かサプライズはあったかい。お前の土産話も聞きたいし、久しぶりに金沢に帰って来ないか」。


 小宮山 健。63歳。

 JR金沢駅前の、昔ながらの旧家が残っている一角で、「バード」」というジャズクラブを経営していた。

 もともと田尾と同じ大学のジャズ研出身で、田尾の四年先輩にあたる。当時はアルトサックス奏者のポール・デスモンドがメンバーとして入っていたデーブ・ブルーベック・カルテットのドラム、ジョー・モレロのような軽快で品の良いドラムを叩いていた。

 田尾と同様、大学に入学後にジャズを始めたこともあり、音楽経歴も郷里も同じ田尾を特にかわいがった。

 当時ジャズの大ヒット曲となったテークファイブがねポップス並みに流行っていた頃で、小宮山もご他聞にもれずデーブ・ブルーベック・カルテットの、カレッジジャズにあこがれたひとりだった。

 田尾と同様、授業にもろくに出ずにジャズにのめり込んだ小宮山は、最終学年になる頃にはセミプロ級の腕前になっていて、プロからも誘いがかかったほどであった。特に右手の自在なシンバル・レガートと左手で叩きだすスネアドラムの3連ビートは、学生ビッグバンドの仲間内でも評判になるほどのセンスの良さを見せつけていた。

 田尾は、ビックバンドの部長を務め何くれとなく後輩の自分の面倒をよく見てくれる小宮山を尊敬し慕っていたし、彼の叩き出すプロ級の洒落たリズムに憧れていた。

 小宮山も田尾も、都内のジャズクラブでのセッションで名を上げ、周囲の誰もが、二人はジャズ研卒業後はプロに転向するものだと思っていたが、ジャズだけで飯が喰えるほどこの業界は甘くないことを既に理解していた小宮山は早々に見切りをつけ、大学を卒業すると同時に地元に本店を置く地方銀行に入社し、友人たちを驚かせた。以来小宮山は、趣味で時おりプレイする、地元では評判のアマチュアプレイヤーとして活躍していた。


 小宮山が、金沢でジャズクラブを開店させたのは20年ほど前、43歳の時だった。地元最大手の銀行の企画部長として辣腕を振るっていたそのころの彼は、絶頂期にあった。

 しかし、好事魔多しの如く、その絶頂期に足をすくわれる事件が起きた。

 小宮山自身、用心していた女性関係が、銀行の幹部に知れ渡ることになったのだ。幹部にタレこんだのは後で知ったことだが、同期入行の自分とライバル関係にあった者の仕業だった。

 入行以来、何かにつけ張り合った二人は、小宮山が出世街道をひた走っていて、同期の中で一番花形の企画部長の席を射止め羨望の的となった。それを妬んだその相手は、小宮山を蹴落とそうと彼のウィークポイントを執拗に窺っていた。

 ちょうどその頃、小宮山の力量を評価し公私にわたって何かとかわいがっていた頭取が病を得て退任し、新頭取を迎えた。新体制の最高幹部と縁戚関係があり、気心を通じていた小宮山のライバルは、彼がこともあろうに人妻をたぶらかしているとでっち上げ、スキャンダラスな女性問題として煽り、吹き込んだのだ。

小宮山は当時すでに先妻とは離婚しており、噂の女と結婚すると決めていたのだが、まさにタイミングが悪かった。

 ある日、新頭取は小宮山の女性問題を詰問したうえで、子会社に転籍させる旨をやんわりと伝えた。新体制に代わって以降、行内の生臭い権力闘争にほとほと嫌気がさしていた小宮山は観念し、銀行を辞めた。42歳の誕生日を1ヶ月後に控えた、熱い夏の日だった。

 

 40歳を少し過ぎて脂ののった気鋭の元銀行マンを、同業や他の業界のトップが無関心である筈がなく、いろいろの会社からヘッドハンティングの話が舞い込んだ。

 すでに両親を失くし身軽だったこともあり、小宮山は、プロのミュージシャンを断念して以来の夢だった、ジャズクラブの開業を実現することに決めた。開業資金は、銀行の退職金と株の売却、そして両親が所有していた金沢市内の実家を売りに出して手当てした。

 

 小宮山は、自分のジャズクラブを古民家風な造りにしたかった。都内によく見られる、いかにも現代風のデザインが施された店よりも、古都金沢の街並みに合ったシックな造りにしたかったのだ。

 銀行時代に知り合った同年代の建築家に相談した結果、その建築家は、県内の白峰村という名峰百選にも入る白山の登山口にあたる集落に、立派な古民家が売りに出されているので、これを解体し移築したらどうかと勧めた。

 日を置かず建築家に案内され、金沢から車で一時間強の距離にある集落を訪れた小宮山は、その古民家に驚いた。屋根は瓦ではなく、昔ながらの藁葺で、外観は全体に長年の風雪に耐え抜いた風情を漂わせていた。

 建築家の、築後300年は経っているだろう話すその民家に足を踏み入れると、今ではとても手に入らないと思われる見事な欅や地松の梁と柱で木組みされた、豪壮という表現が腑に落ちるほどの空間が目に飛び込んできた。 

 居住空間の中心であるオエには、一間四方の囲炉裏が切ってあり、その上部に張り巡らされている欅の極太の梁は、長年の煤で黒光りしていた。2階の蚕部屋まで3間はあろうかと思われる天井高は、ジャズクラブの音響を考えるとほぼ理想的だった。


 「使われている無垢の材は、樹齢と同じ耐用年数があるので、移築してもなんら心配はない」と、その建築士は自信ありげに説明した。


 その古民家にすっかり魅せられた小宮山は、即座に移築することを決めた。以来、約1年を費やし、ようやく金沢駅から歩いても20分程度の旧市街地の一角に、待望のジャズクラブ「バード」を開業したのだ。

 勿論、店の名前のバードは、不世出の天才ジャズマン、チャーリー・パーカーのニックネームから採った。1950年代のニューヨークでは、バードランドと呼ばれた伝説的なジャズクラブが存在したのだが、そのクラブの名前が「バード」の由来となったことを、小宮山は記憶していたのである。

 店の中には、囲炉裏の代わりに北陸の長くて暗い冬を考えて、アメリカ製の古民家にもよく似合うアンコールという名の薪ストーブを備え付けた。

薪の材料として人気のある桜、楢、椚の調達は苦労が多いが、もっと大変なのは薪割りだ。バードでは、一冬の薪の消費量は軽く10トンを超えるのだが、これだけの丸太を薪にするにはかなり体力が要る。小宮山がまだ50歳代の後半くらいまでは、開店前の空いた時間に、何とか自分でこつこつ薪割りに励み備えたものだが、流石に還暦を過ぎた今では、スゥエーデン製の柄の部分が一メートルある斧を振り回すのは到底無理だった。

 そこで金沢市郊外に大きな山林を持っている、バードの熱心な客の一人に薪の調達を一手に手配してもらい、何とか事なきを得ていたのだ。

 店内の漆喰壁と高い天井高は、バードに抜群の音響効果をもたらし、その大空間にはジャズファンの間で今なお根強い人気を誇るアルテックA7が備えられた。こうした劇場用のスピーカーを始めとする高級オーディオ、そして冬には身体と心まで癒してくれる薪ストーブが、間接照明の効いた店内にさりげなくセッティングされていた。

 開店前にひとり薪をくべ、火をおこし、少し温かくなったところで上等の赤ワインをグラス一杯だけゆっくりと味わう。晩秋から春にかけての、小宮山の最高の贅沢なひと時なのだ。ここに足繁く通ってくれる常連客たちもこの空間に身をおき、一日の疲れを癒すため足繁く通ってきた。

古民家を移築したジャズのライブスポット誕生とあって、当時、地元の新聞各紙やタウン誌、放送局はこぞって「バード」の開店を紹介したばかりか、頻繁に小宮山にインタヴューを申し込んできた。こうしたメディアの後押しもあってか、金のかかる広告宣伝費なしに「バード」開店のニュースは、地元金沢のみならず北陸全域にまで浸透した。

 バードの近くには金沢の観光スポット「武家屋敷」があるため、新聞やタウン誌の記事を読んだ、県外からのジャズ好きの観光客が吃驚するほど押し寄せてきて、小宮山を呆れさせた。

当初、自分の店では夕方五時ごろから営業を始めようと漠然と考えていた小宮山が、こうした観光客の予想外の人気を見逃すはずもなく、昼過ぎからコーヒーなどの軽喫茶も出すことにしたのだが、これが店の売り上げを大いに伸ばすことになった。

 そして毎週末には、欅の古材の厚板を張ったステージで繰り広げるライブ演奏を、バードの目玉イベントとして催した。この営業戦略が見事に嵌り、開店三周年を迎える頃には北陸でも有名なジャズクラブに成長した。

 バードの名は、全国の熱心なジャズファンに浸透する同時に、金沢にコンサートで演奏しに来たプロのジャズミュージシャンたちも、ときおりステージが刎ねた後、ふらりと顔を見せるようになった。

時には楽器を持参したミュージシャンがバードに流れ込み、ジャム・セッションを楽しんだりしたこともあってか、バードはさながら、プロ・アマ問わずミュージシャンたちの溜り場としても繁盛していた。


 手にしたモバイルの向こうで小宮山は

 「実はいつまで続くかなと思っていたバードが、お蔭さんでいつの間にかこの9月に20周年を迎えることになったんだ。早いもんだよ、本当に。ということは俺も歳をとっちゃった、っていう事なんだけどね。それでね、無理を承知で哲に頼みたいことがあって電話したんだ」


 (小宮山先輩にしては回りくどい言い方だな)

 

 田尾は、小宮山の話に奥歯にものが挟まっているような違和感を覚えた。 


 「小宮山さんらしくないね。で頼みって何なの。金を貸してくれ、と女を紹介してくれ以外は、先輩のことだから何でも言うことをききますよ」と、本音半分で応えた。


 「それを言ってくれて俺も気が楽になった。それじゃお言葉に甘えて正式にオファしたいんだけど。実はバードのアニバーサリーステージとして、ワンナイトじゃなくて1週間ぶっ続けで哲のバンドを招く企画を考えているんだけど、受けていただけますかね」と、小宮山がおどけた様子を醸し出しながらも、遠慮がちに言った。


 「まあ、ギャラは多少勉強してもらうことになると思うけど、その代り、久しぶりに秋の日本海の活きのいい魚と地酒をたらふく堪能してもらおうと思っているんだが、どうかな」


 「たいてい秋のシーズンはいろいろ立て込む時期だけど、まず先輩の計画を、最初に聞かせてもらいましょうか」と、田尾。


 「9月中で、哲が空いている1週間ならいつでもOKだ。週末は哲のバンドのステージで、これはしっかりチケットを売って稼がせてもらいます。ウィークデーには地元の連中を対象にしたジャズクリニックを開催したり、ジャムセッションをやりたいんだ。若い連中に、少しでも一流のプロミュージシャンとの共演の経験を積んでもらって、励みにしてほしいと思っているんだ。かつて俺たちが若い頃、薄暗い都内のジャズ・ライブスポットでセッションして腕を磨いたようにね。是非考えてくれよ。電話待っているぜ」と、一方的に用件を言うと、電話を切った。


 (バードが開店してもう20年経つのか。早いものだ。相変わらず小宮山先輩は変わっていないな。それにしても面白い企画だな)


 若い連中を対象にしたセッションとクリニックを同時に開催するという内容に、田尾は興味を持った。


 (久しぶりの金沢もいいな。せっかくの小宮山先輩からの依頼を断る訳にもいかないし、ましてバードの開店20周年記念とあれば、お祝いもかねて行くことにするか)

 

 ちょうどニューヨークで仕入れたエンジェルのサウンドを聴いてもらって、先輩の辛口批評も聞いて見たい気持ちもある。


 それとこの機会に、外国人プレイヤーが多いうちのメンバーたちを引き連れ、古き良き日本の伝統が残っている金沢を案内しながら、好物の寿司や日本酒をたらふく味あわせてやるのもなかなかいいアイデアかな、と田尾は少しばかり嬉しくなった。

 さっそくポルシェのパセンジャーシートに置いたクラッチパッグを空け、ビジネスダイアリーをチェックすると、9月には都内ホテルラウンジのレギュラーギグのほか、スタジオでの歌伴の録音、そして企業のコマーシャルソングの編曲などの数本の仕事がクレジットされていた。


 (何とか一週間ぐらいならトラ「代役」を手配すれば、捻りだせそうだな。そうだ、ジミーの話ではこの秋にはフレディのバンドが来日することになっている。うまく都合がつけばアニバーサリーにあわせて、彼らをバードに連れていっても面白いかも知れない。もしも彼らがクリニックの先生を務めてくれれば、若い連にとっても刺激になるだろう。小宮山先輩もきっと喜んでくれるに違いない。さっそくジミーに連絡をとってみるか)


 田尾はとっさの思いつきながら、自分でも良いアイデアだと自画自賛した。

 

 1週間後、ジミーからメールが届いた。それによると、

 《フレディ一座は、九月初旬に全国各地のジャズ・フェスティバルに合わせて来日し、東京、名古屋、福岡のブルーノートでそれぞれ一週間のギグを予定しているほか、いくつかの恒例のジャズフェスティバルをこなし、最後に京都でのライブコンサートを終えて、関空から帰国する》というものであった。

 

 田尾は、東京でのステージには必ず駆けつける旨の返事とともに、

 《京都での最終ライブコンサートが刎ねた後、古都金沢に立ち寄って息抜きをしたらどうか。ついては市内のジャパニーズレストランと芸妓がいるお茶屋さんにも招待したいし、自分の知り合いが経営しているジャズクラブにも案内したい。帰りは小松空港からデイリーの成田直行便があるので、当初の関空アウトのスケジュールを変えるだけでなんら問題ない。是非この提案をボスのフレディに伝えて欲しい》と、打診した。

 

 2週間、後再びジミーから返事のメールが届いた。文面には、

 《ボスのフレディに、ミスター田尾からの心のこもったもてなしの内容を伝えたところ、ボスはジャパニーズレストランではなく芸者に興味があって、間違いなく金沢には綺麗な彼女たちがいるのかとしつこく訊いてきた。そのメニューが入っていれば考える》としたためられていた。

 

 田尾はさっそく、

 《金沢には綺麗なことは勿論のこと英語も話せる芸妓がいる。彼女たちは素晴らしい着物を身に纏い、踊りや笛、太鼓などの日本の伝統芸能をたっぷりと披露してくれる。こんな日本文化を体験できる機会は滅多にない。多少金はかかるがボスの希望なら、金沢には知り合いがいるので手配しても良い》と、多少誇張気味の返事をしたため、再びジミーからのメールを待った。

 

 さらに一週間後、ジミーから待望の返事がメールボックスに届いた。

 《OK ミスター田尾。ボスのフレディは大いに乗り気だ。最後の京都でのライブコンサート終了後、どこにも遊びに行かないで夜の遅い電車で金沢に入る。金沢には二日しか滞在できないので、ミスター田尾に金沢の案内をお願いしたいが構わないか。勿論、金沢の素晴らしい芸者との国際交流が最優先プログラムだ。田尾のメールどおり、予定を変更して金沢にまで出向いてもし芸者がいなかったら、ミスター田尾はボスのフレディに多分殺されるだろう。そうならないように祈っている。なおマネージャーにもこの日程を伝えてあるので、フライトチケットの変更や宿の手配ついてはノープロブレム。それよりもボスは、芸者ハウスに俺たちメンバー全員を連れて行きたがっているがそれでも構わないか。それではミスター田尾と再会できる日を楽しみに。ジミーより》と、今度は田尾の懐具合を心配してきた。


 さっそく翌日、田尾は小宮山に「バード」の20周年記念イベントの仕事を請けること、さらにサプライズとして、伝説的なトランペッター、フレディ・ハバードのバンドのメンバー全員が、京都でのライブコンサートの後、金沢の「バード」に遊びに行く段取りをしていること。彼らの金沢入りの条件として御大フレディがどうしても金沢の茶屋街で芸妓と国際交流したいとの強い希望と一連の日程を伝え、しかるべく受け入れの段取りをお願いしてよいか、という内容をメールした。

 翌日、都内のスタジオで売れっ子アイドル歌手の伴奏で缶詰になっている田尾のモバイルに留守電が入った。小宮山からだった。

 

 スタジオワークがひと段落ついたところで、田尾は小宮山の携帯にコールバックすると、

 「田尾様、仏様。本当にありがとう」

  開口一番、少々おどけた口調の小宮山が電話に出た。

 

 「哲のバンドだけでも来てくれて嬉しいのに、あのジャズ界のリジェンドのフレディと、彼のバンドメンたちがバードに来てくれるなんて。流石に、日本の一流のミュージシャンはやることが違うな」

 

 小宮山が自分に対して初めてお世辞を言ったのには驚いた。

 

 「でも、よく先方のプロモーターがOKしたもんだ。詳しくはこっちに来てから聞かせてもらうことにして、そうそう、お茶屋さんにはもう話をつけておいたよ。知り合いの女将を通して、最近一番の売れっ子で片言の英語も話せる芸妓を押さえておいた。何でも踊りは市内でもピカ一という噂だ。ほかに一調一管も用意した。これは外人さんには絶対受けるぞ。ところでお茶屋さんへの支払いは、俺のほうで出させてもらうよ。これくらいなら店の経費で落とせる。しかし、フレディ御大が調子こいて、オールナイトまでリクエストしてきたら、ちょっと面倒みきれないなあ」と、半ば本気で小宮山が泣きついた。


 「何言ってんの。フレディの歳を知っているの?小宮山先輩。御歳七○の齢を相当過ぎてるんですよ。まずその心配はないね。それよりもフレディは、バンドの若手メンバー全員をひき連れて行くかも知れないんで、そちらの方が心配ですよ」と、今度は田尾が小宮山の懐具合を慮った。


 「OK。なにも心配しないでいいよ。でも必ず連中を俺の店に引き連れて来てくれよ。もしスカだったらお茶屋の支払いは哲のギャラから差っ引かせてもらうよ」

 今度は小宮山が返した。声の調子からすると、本当にやりかねないと田尾は思った。


 「小宮山先輩、秋の20周年開店イベントには間違いなく金沢に行きますので、精一杯、旨い酒を用意しておいてくださいよ。それでは」

 田尾がずるずると長くなりそうな電話を切った。

 

 例年に比べ異常に熱かった夏も過ぎ、田尾のマンション近くのアメリカフウの葉が多少色づき始めたころ、小宮山から20周年イベントの準備が全て完了し、ステージのチケットもソールドアウトしたとの嬉しいメールが、田尾の元に届いた。

さらに地元の若手ミュージシャンを対象とした個人クリニックの応募者が、予想をはるかに超えて、定員の五倍ほどの申し込みがあったので、全員レッスンが受けられるようグループレッスンに変更したとも書かれていた。

 文面からは、小宮山がこの数ヶ月間、いかにバードの20周年記念事業に専念していたかを、窺い知ることができるような内容だった。


第8章   フェラーリ



 「バード」での20周年記念イベントに出演するために、田尾が横浜の自宅マンションを出たのは、開催前日の昼を少し過ぎた時間だった。

 今回の帰省では、いつもの羽田・小松便を利用するのではなく、久しぶりに愛車ポルシェのためにも、長距離ツーリング楽しみながら帰ろうと決めていた。

ニューヨークから帰って以降仕事が忙しく、都内のホテルとスタジオワークでの往復ばかりで、ポルシェと一緒に遠出する機会が少なかったからだ。

 ドイツのアウトバーンで鍛えられたスパルタンな脚と、タフなフラットシックスのエンジンをもつポルシェは、たまに長距離ドライブに連れ出し、エンジンを回してやらないと機嫌が悪くなるのだ。

 最近、田尾が横浜から都内の仕事場に向かうため首都高速を走っても、どうもポルシェのエンジンレスポンスが鈍いのが気になっていたのだ。

 横浜から上越自動車道を経由して金沢に行くには、時間にして約6時間、距離にしておよそ500キロある。この程度の高速クルーズは、シュトゥットガルトで誕生し、世界のモータースポーツシーンで鍛えられたポルシェにとっては、まさにウォーミングアップ程度の仕事でしかなかった。


 ポルシェが横浜を出て関越から上越自動車道に入る頃には、エンジンも本来の調子が戻ったかのように、シャープなレスポンスを見せるようになっていた。

 田尾は、ポルシェをドライブする際は、滅多にカーラジオやステレオのスウィッチを入れることはなかった。ひたすらにフラットシックスのエンジンサウンドや、ブレーキの効き具合、タイヤの鳴きなど、それこそ車から出てくるあらゆるシグナルを全神経を集中させて感じ取るためだ。

 車外から聴くアイドリングサウンドは、水冷の水平対抗六気筒にモデルチェンジされた今でも、少しばかり高周波を思わせるような独特のポルシェサウンドを堅持しているのだが、ひとたびドライビングシートに身をあずけアクセルを踏みつければ、たちまちレーシングカーさながらの、高速回転エンジン特有のピーキーなそれに変貌するのだ。 

 その変化が何よりも田尾にとっては心地よかった。イタリア車であれドイツ車であれ、古今東西の名スポーツカーと呼ばれる車のエキゾースト・ノートは、丁寧にチューニングされた弦楽器のように素晴らしい音を奏でる、というのが田尾の持論だった。

 ポルシェのシートはどれもバケットタイプで、他のスポーツカー同様に固めに造られており、ホールド感が抜群に良い。最近運動不足で腰に違和感を持つ田尾にとっては、ポルシェの優れたシートはありがたかった。特に腰周りの設計が抜群で、オーダーしたわけでもないのにしっかりと腰骨を支えてくれるのだ。

 ポルシェは何一つ不満を漏らすことも無く黙々と仕事をしていたが、関越自動車道に入ってしばらくすると左リアのサスペンションからカッンカツンという、これまでに無いシグナルを出していた。

 上越自動車道に入る頃には、その異質な兆候はさらに強まり、不快感さえ覚えるほどだった。しばらく様子を見ようとそのまま走ったが、念のため佐久平パーキングエリアのガスステーションでリアショックアブソーバーをチェックしてもらった。

 やはり、左リアのアブソーバからオイルが滲み出ていた。原因はこれか、と田尾は納得した。今回のクルージング程度では安全性に何も問題は無いだろうが、帰ってからサスペンション全てをオーバーホールするか交換した方が良いかもしれない、と覚悟した。


 (全くモノ入りだな。しかしポルシェに乗っている以上は仕方ないか)


 田尾は舌打しながら、自分を納得させた。


 そういえばドイツ・シュトゥットガルトにいるビジネスパートナーのピーターも、暇さえあれば自宅のガレージでポルシェを弄くっていた。

 たいていのドイツ人は、車というのはパーツの交換を前提としてコンディションを維持するという考えが徹底していて、ピーターの友人たちもオイルやバッテリー交換などは勿論のこと、腕に覚えのある者は、ショックアブソーバーやブレーキディスクのパッドまで自分で交換する、と言っていたのを思い出した。


 そうこうしているうちに、ポルシェが妙高サービスエリアにさしかかった頃、田尾のサイドを、深紅にペイントされたフェラーリがものすごいスピードで抜き去った。 

 日本では珍しい575スーパー・アメリカだった。2005年のロスアンゼルスモーターショーでデヴューしたその車は、翌年には生産を終了したのだが、フェラーリでは珍しいオープンタイプのモデルだった。

 エンジンは5.7リッターのV12。ミッションは6速のマニュアルとステアリングのパドルで操作する方式のセミオートマティックだ。車体のルーフはガラス製で、開閉しながらリアに格納できることができる高級車だ。


 (たしかデヴューの際には3000万円くらいのプライスが付けられていたはずだ。日本でこの車を小粋に乗りこなすのは、よほどのスポーツカーマニアでも難しいだろうな)


 田尾は、このフェラーリ・スーパーアメリカが都内のあるディーラーに展示されたと聞き、まるで恋人に会いに出かけるようにいそいそと出かけたことが、昨日のことのように忘れられない。

 そこで見たスーパー・アメリカのフロントデザインは、これまでのフェラーリメッソードの流れを踏襲していて、びっくりするほどの新鮮味は感じられなかったが、リアデザインの美しさには目を瞠った。

 何といってもリア全体のマッシブなプレスラインの出し方が群を抜いて秀逸だったのを、いまでも鮮明に覚えていた。カロッツェリアの伝統を脈々と受け継いでいるイタリア車のデサインはやはり世界一だな、と田尾は強烈な印象を受けた。

 

 田尾は暴走族の連中がそうするようにアクセルを踏みつけ、イタリアンレッドにペイントされたスーパーアメリカのお気に入りのリアに、ぴったりとポルシェを寄せた。

 その状態でかれこれ1、2分ほど走っただろうか。まるで自分がフェラーリのオーナーになったような気分で気持ちよく追走した。そしてルーフのガラスがオープンになっているスーパー・アメリカのサイドに回り込んだ。

 横目で見ると、艶っぽいブロンドの髪を風に揺らせ、濃いブラウンのサングラスをかけた30歳ほどの外国人女性が、軽く自分の方に顔を向けて微笑んでいた。チャーミングで彫りの深い顔をしていた。白いTシャツに濃紺の仕立ての良いコットンジャケットを身に着けたその女性には、フェラーリのイタリアンレッドがとてもよく似合っていた。


 (若いお嬢さんが何でスーパー・アメリカを転がしているんだ)

 

 車とドライバー双方の現実感の希薄さにしばし戸惑ったものの、思わず

 「グッドルッキング」と羨望の声をあげた。


 「ひょっとして、誰かいいパトロンからプレゼントされたのか。イヤ違うな。お水商売系の女性にしては明らかに品が良い。それにしてもクールだ」と誰に言うわけでもなく、ひとりつぶやいた。


  その時、スーパー・アメリカをドライブするその女性が軽く手を振るや否や、フェラーリ独特のピッチの高いエンジンサウンドを響かせ、猛然とポルシェを蹴散らした。みるみる遠のく、スーパーアメリカのリアデザインは最高だった。


 (やはりフェラーリはショールームに展示されているより、オン・ザ・ロードで走っている姿が一番似合う)

 

 田尾は、矢のように離れ小さくなってゆくその後姿に魅了された。


 ポルシェは上越自動車道をさらに日本海に向けひた走り、その昔難所で知られた北陸自動車道の親不知に入った。

 

 そんなに飛ばしたわけでもなかったので、結局金沢に入ったのは夜の七時を過ぎた頃だった。久しぶりのポルシェとのランデヴーは、流石に還暦を間近に控えた田尾にとっては少々堪えた。

 が、愛車にとっては、ポテンシャルの実力の片鱗を発揮させるためのちょうどよい足慣らしだった。出かける前に多少グズっていたフラットシックスのエンジンも、500キロをクルーズした後では完全に復調したようだった。

 特に日本海の荒波が眼前に迫ってくる親知不を抜けたあたりからは、これまでのトレーニング不足をいっきに取り戻すように、シュンシユンと回りだして気持ちが良かった。

 

 金沢での小宮山のギグを終えた後は、ピストンで横浜に帰るのも芸が無いので、金沢に近い山間の温泉にでも寄って温泉三昧といくか、と田尾はハンドルを握りながら、何とはなしに考えていた。

 最近の田尾の趣味のひとつが温泉めぐりであった。

 若い頃にはこんな爺くさいことは露ほども思わなかったが、50の歳を過ぎる頃から無性に温泉が好きになった。大きな温泉地で遊ぶというよりは、地元の人以外には余り知られていない、いわゆる泉質が評判の秘湯を訪ねるのが趣味となったのだ。

 

 コンサートツアーで全国をめぐる仕事があれば、まずネットで開催地周辺の秘湯を検索するのが楽しみのひとつになった。

 コンサート会場地が首都圏から300キロ圏内の場合は、たいていポルシェでいくことが多かった。ポルシェにとってはこの方がコンディションを維持するのに都合が良かったし、何といっても田舎の秘湯と呼ばれるところはたいていの場合は交通の便が悪く、現地でのフットワークを考えると、ポルシェを使うしか手が無いからだ。

 田尾は金沢でのギグの後、県内にあって観光客には余り知られていない白山ろくの温泉に足を伸ばそうと考えていたのだ。

 

 金沢から車で1時間ほどの近場に鳥越という地名の集落があるのだが、そこに「白山里」という古民家造りの温泉宿が一軒、ひっそりと営業していて、立ち寄り湯もあることから家族連れにも人気があるのだ。

 地方の過疎地ではよくあるように、研修もできるようになっているその宿には、玄関に入ってすぐに広めのロビーがあり、インポートものの、少し小ぶりの薪ストーブが備えられていた。

 料金も手ごろなその宿の売りは何といっても山ろくから引いた正真正銘の天然温泉で、ちょっと硫黄分を含む柔らかめの泉質は、疲れた心と身体を癒すのに十分すぎるほど上質であった。田尾は帰省のたびに、必ずこの宿の湯船で思いっきり手足を伸ばしガラスの窓越しに山肌の緑を眺めながら、ゆったりと流れる時間を心と身体に染み込ませるのを何よりの楽しみにしていたのである。 

 

 田尾が温泉好きになったのにはもうひとつ理由があった。それは湯船にゆったりと浸かっていると時折思いもかけない新しいアイデアが浮かぶことがあるからだ。仕事で依頼された曲を作る際、そのコード進行や編曲などを考えるに当たって、これまでにもいろいろ温泉に助けられたことが多かった。

 そして音楽に関することは勿論のこと、自分のビジネス戦略、そして最近とみに思案するようになった還暦を過ぎての人生の処し方など、温泉に浸かりながらただひたすらぼんやりと思いをめぐらすことが多くなったからなのだ。



第9章   バード



 「マスター、久しぶり。元気してた?」

 久しぶりのポルシェとのランデヴーを満喫した田尾が、金沢のバードのマスター小宮山に開口一番、声をかけた。

 

 店内は三年前にふらっと思い立って遊びに来たときと変わりはなかった。

 無垢の欅の古材柱を挽き直して造作した20センチほどの厚さがあるカウンターの向こうには、小宮山が手持ち無沙汰に立って微笑んでいた。店内の40席ほどあるテーブル席には、何組かのカップルがいて、額を寄せ合っていた。

 店の奥にセッティングされたステージには、茶色のつや消し塗装が施されたスタンウェーのグランドピアノが鎮座していて懐かしかった。

 小宮山が、バードの開店と同時に無理して買った自慢のピアノだ。北陸特有の湿気がこもる冬でも、薪ストーブが焚かれた店内は程よく乾燥するので、アメリカ育ちのこの楽器の王様は、年間を通して常に良いサウンドを響かせ、地元プレイヤーの垂涎の的だった。

 ステージの隅には、これまた小宮山自慢のスピーカーアルテックA7が、ゆったりとキース・ジャレットのピアノトリオの名盤「スタンダード」を流していた。

 高い天井に張り出した太い欅の梁、白い漆喰壁に囲まれて豊かな音響空間となった店内には、バランスの良い音が溢れ出ていた。空間全体が、音を響かせるもうひとつのスピーカーだと錯覚させるほどだった。

 キースのピアノは、最近流行のハイ上がりの特性を持つスピーカーでは高域がキンキン響き耳障りとなるのだだが、バードではほど良く押さえられて生々しかった。ゲーリー・ピーコックのワイヤ弦独特の乾いた音色のベースも、416型15インチのウーハーがストレスなくその重低音を響かせていた。

 

 「ジャック・ディジョネットのドラムスはいつ聴いてもセンスが良く素晴らしい。ハーヴィー・メイソンと並んで、モダンドラミングのお手本といっても過言ではない」と思わせるほどだった。

 

 明るめのグレーペイントの大型スピーカーボックスの上にセッティングされた902・8Bホーンと511Bドライバーからは、ジャックの粒の揃ったシンバル・レガートがほとばしっていた。

 田尾は、ジャズファンの常連客がコーヒー一杯で何時間も粘って困る、とだいぶ前に小宮山がこぼしていたのを思い出したが、なるほど、その気持ちは良くわかると思った。


(なんか違うな)


 このアルテックサウンドだけは、前回来たときと比べ微妙に変化していると直感した。何というか、サウンドの中域がこれまでよりも厚くマイルドになり、ライブ感が増したように思えたのだ。


 「小宮山さん、アルテックの音が変わったね。マッシブでいい音だ。なにか弄くった?」と、田尾。

 

 両者ともアナログ全盛時代からの筋金入りのオーディオマニアだったこともあり、小宮山は田尾が何を聞きたいのかすぐに察しがついた。そして待っていましたと言わんばかりに、


 「流石だね。相変わらずいい耳をしている。実は最近アンプをUESUGIのチューブ(管球)に替えたんだ。前の20年使ってきたアンプジラが、去年からどうも調子悪くてだましだましきたんだが、つい最近壊れて修理に出してあるんだ。それでストックしてあったこのアンプが再登場したというわけなんだ」と、カウンターの背後の棚の一角に綺麗にセッティングされているオーディオ装置の一群を指さした。


 良く見ると、再登場のアンプというのは国産だが、オーダーメードで有名な専門メーカーの製品だった。現在は生産を中止しているが、アナログのオーディオファンの間ではいまだに根強い人気を持っているモデルだった。


 「へー、この渋いアンプか、久しぶりに見ましたよ。まだまだ先輩同様、十分に使えるね」

 田尾は冷やかし半分に言った。

 

 小宮山は少しムキになりながらも、自慢のオーディオ装置の話をしたくて仕方がない様子で、


 「使えるも何も、ちゃんと立派にアルテックをドライブするよ。何せスピーカーの能率が圧倒的に高いから、管球式のアンプでもストレスフリーだよ。どうだいこの音は。中域の厚みが違うと思わないか。石(トランジスタ)のアンプじゃ、なかなかこの音は出せないと思うよ」


 確かに小宮山の言うとおり、目の前で鳴っているマイルス・クウィンテット「ソー・ウァット」は、まるでマイルス本人がそこで吹いているかのようにリアルだった。

 彼のオープントランペットによる伸びがあって艶やかなサウンドが耳に心地よい。ヴィブラートをかけないマイルス独特のストレート奏法だ。プレイヤーの息遣いまでもが、一緒にアルテックを通して突き刺さってきた。

マイルスのソロを引き継いだ、コルトレーンの聴きなれた音が飛び込んできた。


 (うーん、参ったな。これまで散々聴きまくった彼のテナーサックスの音が、こんなにも厚くて迫力があるものだったのか)

 

 トランペットといいサックスといい、ここで鳴っている分厚いホーンの音は別格だと思わせるほどの迫力ある音が、店内を縦横無尽に泳いでいた。


 「なんだよ、この音は。コルトレーンってこんなにいい音してたっけ。レコードさえこれだから、本物はさぞかし凄かっただろうね」

 

 田尾が、心底感心したように、ため息混じりに言った。小宮山はしてやったりと言わんばかりの表情を浮かべ、


 「なあ哲。こんなのを聴くと、いまどきのMP3で造られた音なんか甘あまのビアカクテルみたいなもんだぜ。もともとこのアルテックA7は劇場用として造られていて、中域の再生をもっとも得意としているモデルだから、1950年代から60年代のクラシックジャズには最適なんだ。それを考えると、アンティークのアンプでドライブしてやることがベストマッチングだと、今更ながらに気づいたんだ。大成功だった。もっともこの店の音響効果も相当効いているんだけどね。このセットでボーカルを聴くと本当、堪らないよ。なんなら、何か聴いてみるかい」

 小宮山が得意そうに言った。

 

 2000枚はあろうかと思われるLPレコードの収納棚から、大好きなヘレン・メリルのLPを取り出そうとした小宮山の口調は、とどまることがないほど滑らかだった。


 (もうこれ以上、ジャズとオーディオ談義に付き合っているときりがない。このあたりが潮時だな)


 田尾は話を変えた。

 「ところで先輩。このたびはバード開店20周年おめでとうございます。チケットも完売して何よりです」と、小宮山のこれまでの準備の労をねぎらった。


 「本当に忙しいのに来てくれてありがとう。しかもフレディのバンドの連中まで引き連れてくれるなんて。この店の常連客にひょっとしたらフレディが来るかもしれないと漏らしたら、あっという間に話が拡がって、どうにもこうにも大変な評判になっているんだ。大丈夫だろうな、哲。もしキャンセルにでもなったら、俺は、期待しているみんなに合わせる顔がない。しばらくこの店を休むことになるかもな」

 

 イベントを週末に控えたこのタイミングで、小宮山はまだ心配していた。

 田尾自身も、著名な海外ミュージシャンの公演が突然キャンセルになるケースを良く知っているだけに、小宮山の心配も理解できなくはなかった。

  

 「大丈夫ですよ、先輩。横浜を出てくる際に、バンドのジミーに確認したんだけど、間違いなくイベント最終日の金沢着23時ごろのサンダーバードに乗ると言っていましたから。その日、僕は彼らを駅に迎えに行ってそのまま日航ホテルに送り込みますよ。多分到着の夜は遅いから、ホテルから出ないと思いますよ。それよりも明日からイベント本番なんだから、よろしくお願いしますよ」と、小宮山を安心させた。


 「迎えには俺も行くよ。いいだろう哲。何せ顔を見るまでは安心できないからな。ところでニューヨークでの土産話を是非、聴きたいもんだね」

 

 田尾は、ニューヨークのブロードウェー近くの楽器店で上物のセルマーのスーパー・バランスアクションを見つけたこと、楽器の由来、その楽器で今回知り合ったサックス吹きのジミーと2階のスタジオで激しいバトルを楽しんだこと、最後にフレディのバンドを始めとした、ニューヨークの最前線で繰り広げられている刺激的なジャズシーンなどを詳細に、面白おかしく語った。

 土産話にしては余りに面白い田尾の話に、いつもは人の話に口を挟む癖のある小宮山も、ただただ黙って田尾の話に耳を傾けるばかりだった。



第10章   クリニック



 翌日の午後から、バード開店20周年の記念イベントがスタートした。

 このイベントに合わせ、店の玄関横には幅が2メートル、高さが5メートルはあろうかという、イベントの開催を告げる大垂れ幕が下屋の軒裏から下げられていて、武家屋敷付近をそぞろ歩く観光客たちの目を引いていた。

 朱漆のような深紅に染められた綿の生地に白抜きの文字が鮮やかで、いかにもアイデアマンらしい小宮山の仕掛けだった。

 

 プログラムどおり、まずは田尾が講師を務めるジャズ講座が始まった。定員の5倍もの申し込みがあった、という小宮山の話を半信半疑で聞いていた田尾だったが、店に入ってその数の多さに驚いた。 

 それぞれ楽器を手にした目の前の生徒たちをよくよく見ると、半分が女の子だった。最近何かにつけ、多くの女性がジャズのプロの世界に進出してきているのだが、開講を待ちわびている彼女たちの目の輝きを見るにつけ、その迫力に圧倒されると同時に元気の良い理由が判るような気がした。

 今回のクリニックではある程度楽器が吹ける上級者以上を対象としたのだが、それ以外の子供たちにもレッスンの様子を無料で公開することにした。予想に反して子供たち以外にも大人のジャズファンが大勢詰めかけていて、スタート前から店内は熱気で溢れかえっていた。

 ジャズ理論の講義では、実践的で高度な内容に絞った。つまり楽器の特性をフルに発揮させるための基礎知識、プロの連中が良く使うテクニック、普段の練習方法、仕事で最低限知っておかなくてはいけないマナー、ルールなど、田尾がこれまで長年にわたって積み重ねてきたノウハウを惜しげもなく伝えた。

 そして最後に、子供たちにとって現在のジャズを学ぶ環境がいかに素晴らしいか、高価な楽器を買い与えてくれた両親に感謝する必要があることなど、少々爺くさいとも思ったが噛んで含めるように語った。


 講義の後は、実際に楽器の実演を交えたグループレッスンによるクリニックに移った。受講者が余りにも多いので、小宮山のいうとおり、イベント期間中にいくつかのグループに振り分けて教えることにしたのだ。

 生徒たちの楽器を見ると、たいていはピカピカのセルマーかヤマハだった。おそらくここに参加している彼等の多くが、親から高価な楽器を買い与えてもらっているのだろう。

 40年ほど前、ジャズ研で半壊れの楽器を手に、朝から晩まで練習に明け暮れた日々を思うと隔世の感があった。やはり日本は豊かになったのだ。田尾は改めて時代の流れを実感した。

 デモンストレーションでは、ニューヨークで仕入れたエンジェルを手にし、ロングトーンの出し方、スケール練習、ブレスの際の横隔膜のメカニズム、マウスピースを銜える際のアンブシュアといった基礎的なスキルを丁寧に説明し、生徒たちには普段演奏している曲を思い思いに吹かせた。

 案の定、彼らは小さい頃から楽器を扱い慣れている様子で、たいていは基礎的なスキルは持っていたが、如何せん楽器奏者の命というべき、洗練された音色をいかに創りだすのか、ということにまでは関心が及んでいなかった。

 田尾は、ニューヨークで仕入れたエンジェルを吹いて見せた。

 最初はロングトーンの多い、ゆったりとしたバラッドを、そして次にアップテンポの軽やかなナンバーを、楽器の音色を変幻自在に操りながら、プロの使うテクニックを判りやすく実演した。

 この頃から、生徒たちの顔の表情に変化が出てきたことが、田尾には手に取るように判った。自分たちとは余りに違う豊な楽器のサウンドに、皆一様に驚いた様子だった。一流プロの楽器を鳴らしきるテクニック、音色の多様さなど、初めて耳にする様子が子供たちの目の輝きで窺い知ることができた。

 

 実演が終わった後、生徒たちから、なぜそんなに良い音が出せるのかという、素朴な質問が田尾に浴びせかけられた。

 

 「自分の楽器を大事にして、ただひたすらに練習するしかないよ」

 

 秘訣を教えてもらおうと意気込んでいる生徒たちにとっては、いささかがっかりするような田尾の第一声だった。


 生徒たちの不満そうな表情を察した田尾は、続けて、これまで名盤といわれるCDを選んでそれを徹底的に耳コピーすることが上達の一番の近道だ。できれば自分の楽器で完璧にアドリブソロが吹けるまで練習することを勧めた。ジャズ理論を勉強するのは、その後でも遅くはない。とにかく耳を鍛えること、楽器を鳴らしきること、リズム感を養うことが何よりも大事であることを、田尾は噛んで含めるようにアドバイスした。

 終了後生徒たちの何人かが、エンジェルに興味を示し近づいてきた。楽器に詳しそうなある生徒が、

 「先生、これヴィンテージでしょう。確かバランス・アクションじゃないですか。しかもゴールドプレートでしょ。高そうだな」

 最近の子供たちの中には、インターネットで情報を得ているからなのか、プロが顔負けするほど楽器に詳しいのがいるのだ。その生徒はエンジェルに顔をつけるほどに近寄って、

 

 「僕もいつかはこんな素晴らしい楽器を持ちたいな」と、叫ぶように言った。

 

 そして

 「でも、それまではお父さんに買ってもらったこのセルマーで、先生みたいにいい音が出せるよう頑張ろう」と、目を輝かせながら呟いた。

 

 次の日、前日に参加した子供たちの何人かが、再び田尾のレッスンを傍聴した。驚いたことに、この光景はクリニックが終わるまで途切れることはなかった。 

 田尾は、四日間のレッスンでおよそ50名の生徒たちを教えたが、彼らと直接触れ合ううちに、自分の学生時代の頃の記憶がまるで昨日のことのように蘇り、懐かしさと同時に、現在の自分には、あのころのフレッシュで一途な音楽に対する情熱が失われていることに気づかされた。

 音楽を生業とするプロだから当然といえば当然なのだが、少なくとも還暦を前にした現在でも、自分の大好きな音楽を仕事にしていられる幸せを、今回のレッスンで改めて思い知らされたのだ。


 (金沢に来て良かった)

 

 田尾は、小宮山に感謝した。


 実技レッスンを終えた田尾が、カウンター席でひとりビールを味わっていると


 「哲、お疲れさん。評判良かったよ。やっぱりプロは凄いと、子供たちが興奮していた。我ながら今回のクリニックの企画は良かったと、本当に思ったね」

 

 小宮山が、彼にしては珍しく柔和な表情を見せながら、しみじみとした口調で話しかけてきた。そして田尾と同様、ビールを一口飲み干し、

 「こんなに評判がいいなら来年もやろうかな。どうだ、哲」

 

 今度は一転して、ジャズクラブのマスターとしての営業用の顔つきに戻り、提案した。


 「まあ来年やるかどうかはともかく、今回のレッスンは、お世辞抜きで面白かったし、これまでの自分を振り返るきっかけにもなりまたよ。やはり、たまに若い子たちと直接触れ合う機会があるというのは、還暦を間近に控えた爺にとってはとっても新鮮ですよ」

 

 田尾がしみじみと、自分に言い聞かせるように言った。


 「俺はあの子供たちを見ていて、40年ほど前に、俺たちが大学のジャズ研で朝から晩まで、ろくに授業にも出ずに練習していたあの頃を思い出したよ。懐かしかったね」と、小宮山。


 「ところでニューヨークで仕入れたエンジェルとかいう、セルマーのバランス・アクションって、以前に哲が使っていたマークシックスとは随分出てくる音が違うね。シックスも良かったけど、それ以上に分厚いサウンドがしていた。リードもマウスピースも替えていないんだろう? ニューヨークで掘り出し物を見つけたということだな。素晴らしい音がしていた。聴き惚れたぜ」


 「いや先輩、この店の音響効果が素晴らしいからですよ。こんな贅沢な空間でプレイできるなんて、東京のジャズクラブじゃまず無理ですからね。本当に自分でもこのエンジェルの音が拡がってゆくのが判るんですよ」と、小宮山を持ち上げた。


 そしてニューヨークでのスタジオセッションの際、フレディバンドでアルトサックスを吹くジミーが、エンジェルから出る音を聴くなり、今でもマンハッタンで活躍中しているビッグネーム、ヒューストン・パーソンを思わせる素晴らしいサウンドだ、とコメントしたことを紹介した。


 「ふーん。ヒューストン・パーソンか。なかなか旨いことを言うな。そういえば、うちの店には彼のレコードが何枚かあった筈だ。探してみるか」と、言いつつ、壁一杯にしつらえた、自慢のジャズライブラリーをぎっしり詰め込んだ棚に足を向けた。

 

 久しくそのレコードをかけなかったと見え、小宮山が目当てのレコードを探し当てるまでには数分の時間を要した。やっと見つけたそのレコードをカウンターテーブルに置きながら、


 「懐かしいな。このレコードを最後にかけたのはいつだったかな。少なくとも半年以上は空いていることは確かだ」

 

 久しぶりに手にした懐かしいレコードジャケットを、手でさすりながら顔にくっつくほど目の前に寄せて、カビが出ていないかどうか吟味した。


 「それにしてもヒューストン・パーソンとはなかなか渋いね。日本ではマイナーだけど、確か、むこうでは実力者だよ。もともと音数が少なくて、スペースの重要さを熟知しているプレイヤーだ。昔は散々聴き込んだもんだ。どれちょっとかけてみるか」と、ガーランドのターンテーブルに、分厚い塩化ビニール製のLP盤を載せた。

 

 そしてまるでいつもの手馴れたセレモニーのように、オルトフォンのSPU・GTのカートリッジを装着した、SMEのアームを静かに下ろした。

最近交換したという、管球式のアンプによってドライブされるアルテックA7からは、田尾のバランス・アクションと驚くほど似通ったヒューストンのビッグサウンドが、店一杯に響いた。


 田尾は、ニューヨークから帰国してすぐに自慢のオーディオセットでヒューストンのCDを聴いたのだが、これほどのゆったりとしたサウンドとは似て非なる音だった。


 (やはり、古民家のゆったりとした空間と残響が醸し出す音とは雲泥の差がある。自分のオーディオ装置ではまず出てこない音だ) 

 

 率直にその差を認めざるを得ないほどの生々しさだった。


 「そのジミーとやらの、若いアルト吹きの耳はたいしたものだな。このレコードを聴くと、哲のサウンドのテイストが驚くほどヒューストンと似ていることがよく判る。レコードの音は、録音のときに多少イコライジングされているはずだから、実際の生音はちょっと違うかもしれないが、サウンド自体はよく似ているな」

 

 小宮山が感心したように言い、

 「それにしても、このレコードの音と比較しても、哲の音がいかに素晴らしいか、実感した」と、批評した。


 「ところで、スタジオとかコンサートなんかではエンジェルをお披露目したのかい。きっと評判になっているんだろうな」と、言いながら


 「音はプロの命だからな。これで哲は当分稼げるな。それにしても楽器の名がエンジェルとは洒落ているじゃないか。いい名前だよ。何かこれからグッドラックが続きそうな予感がする」


  小宮山は、なんだか自分がエンジェルを見つけてきたかのように、嬉しそうに田尾の顔を覗いた。


 「ヒューストンはともかく、哲が生徒たちにレッスンのあいだ、俺はいつもカウンターの中で哲のサックスを聴いていたんだけど、良く通る音がしていた。うちの店では、これまでにもいろんなプロの連中がプレイしたけど、こんな経験は初めてだ。本当に哲は良い買い物をした。せいぜいお宝は大事にしろよ」

 

 大学ジャズ研出身の、いつもは辛口の小宮山の批評は、ポイントをはずさないので信用しているのだが、今回に限っては絶賛の連続で、田尾は少々面映いと同時に、自分が選んだこのエンジェルがこんなにも評価されていることに満足した。



第11章   セッション



 5日目のプログラムは、プロ・アマを問わず腕に覚えのある連中を対象としたジャムセッションで、イベントの目玉のひとつになっていた。

 この日から田尾のパンドマンたちが合流してくる予定で、午後3時までにバードに集合することになっていた。

 この日、田尾は集合時間よりも一時間早くバードに顔を見せ、ひとりステージの上でウォーミングアップを始めた。いつもの通りの手順で、スケールのエクササイズをスタートさせ、一音一音エンジェルの調子を確かめながら徐々にペースを上げていった。

 その間、手持ちのリコーのリードをいろいろ試しながら、音の抜けが良く腰に粘りのあるベストな一枚を選んだ。スタートしてから、およそ1時間を少々オーバーしていた。

 リード楽器プレイヤーにとって良いリードに巡り会うのは、ゴルファーが朝一のティショットをまっすぐ飛ばすほどに難しい。つまり、滅多に当たらないのだ。特に最近のリードは、品質の歩留まりが悪いのだ。1箱10枚のリードの中で、仕事に使えるのはたいてい一枚か良くて2枚程度で、まともに仕事で使える期間もたいていは1週間、長くて10日ほどまでだ。

 リードは消耗品で、常時何枚かはストックしておく必要があるので、使えるリードの賞味期限をいつも頭に入れながら、毎日のウォーミングアップの際に、エースのリードを発掘する準備が必要なのだ。


 「それにしても遅いな。明日、新曲をやるので事前のリハーサルをするからといってあるのに。全くあいつらときたら時間厳守という言葉を知らない連中だ」

と、忌々しそうに田尾が毒づいた。


 すると小宮山が、田尾の新曲という言葉に敏感に反応した。

 

 「その新曲って、明日のコンサートでお披露目するのかい?」

 

 「せっかくバードの開店20周年に間に合わせようと、力を入れて書いた新曲なんですよ。僕にしては珍しく3週間もかけて書いたホヤホヤの曲でね。聴いてもらえば判りますけど、3拍子のバラッドです。実はこの曲は、小宮山さんの奥さんの17回忌に合わせようと思ってね。タイトルは当日のステージで発表します。期待していてください」

 

 田尾は、いたずらっぽい表情で小宮山に語りかけた。


 とその時、店のドアを開ける際の、澄んだ鈴の音が響いた。

 店内は間接照明ということもあっていつも暗いのだが、それでもひと目で、彼らが自分のバンドのメンバーだとわかった。トランペッターのスコット・デービス、ドラムスのトミー・立花、そしてベースの佐藤の3人だった。ピアノのロベルト・鈴木の顔が見えない。   

 

 「やはりブラジル人は時間厳守ということがどういうことか判っていない。仕方がない。あいつ抜きでリハーサル開始だ」と、田尾が呟いた。


 「ハーイ、ボス。ポルシェのご機嫌はいかがですか」

 

 スコットが、アメリカ人特有の人懐こい笑顔を見せながら、流暢な日本語で話しかけて来た。

 このトランペッターは、都内のあるジャズクラブで見つけた逸材だった。業界仲間から噂を聞きつけたその日の夜に、田尾は本人の仕事場に直行し、彼のプレイぶりを自分の耳で確かめた。ひと目で気に入った。

 年齢もまだ30歳を少し過ぎたばかりで若く、なによりもマイルスを思わせる音には艶があり、いっぺんに魅了された。突き刺すようなところが全くないその音色は一晩中変わるところはなかったし、田尾が好むストレート奏法ではないものの、ヴィブラートのかけ方もオーバーなところがなく品が良かった。

 ソロをとる際のフレージングも、スペースを生かした飾り気のないもので、よくコントロールされて、聴いていてセンスの良さが随所に出ていた。 


 (頭のいい奴だ。そして自分好みのトランペッターだ)

 

 翌日田尾は、スコットに電話して、自分のバンドに入らないかと誘った。スコットが、前のバンドの契約の終了を待って田尾バンドのメンバーになったのは、ほぼ1ヶ月後のことだった。


 本人によれば大学卒業後、全米の音楽教育機関としてはトップクラスに数えられているジュリアード音楽院で学び、卒業後何年かはニューヨークのいくつかのバンドを渡り歩いて腕を磨いた後、友人を頼って日本に来たとのことであった。

アメリカ、特にニューヨークでは、新人のジャズマンが音楽だけで飯を喰えるほど甘くはない。彼らの多くはタクシーの運転手などのバイトで喰いつなぎながら音楽活動を続けているのだ。

 その点初見がきき、つまり渡された譜面をその場ですぐに演奏することができる技術とある程度のツテがあれば、いま景気が上向いている上海や香港、ソウル、シンガポールなどでは、ステージやスタジオの仕事にありつくことができ、音楽だけでなんとか生活できるのだ。なかでも、アジアでは東京が一番人気が高いのだ。

 スコットには同じアメリカ人のガールフレンドがいるのだが、田尾にはまだ紹介していなかった。明日のステージには顔を見せる予定になっているとのことだった。

 

 スコットと四方山話をしている間にも、ドラムスのトミーが、10代の頃に苦労して買ったYAMAHA製のドラムセットを丁寧に組み始めていた。

 ジルジャン製のシンバルが2枚、ハイアット、スネア、タムタム、バスドラだけの必要最小限のセットは、かつてのコルトレーンバンドのエルビン・ジョーンズのセット同様、これ以上はないというシンプルさだ。

 名前の通り、トミーは黒人でアメリカ人の父親と日本人の母親の間に生まれた、いわゆるハーフだった。トミー自身の説明によれば、細面の顔立ちは母親に似ていて、黒人にしては色白の肌と体のデカさは父親譲りということらしい。  

 両親が離婚したのはトミーがまだ小学校の低学年の頃で、母と一緒に帰国した後、日本籍を取った。父親は元軍人で、趣味でドラムを叩いていたのに影響され、この道に入ったとのことだった。

 もっとも、日本の学校では小学校高学年の頃からハーフというだけで陰湿ないじめにあい、それは中学校まで続いたという。グレないで働きながらなんとか定時制の高校は卒業したものの、学校ではほとんど勉強らしい勉強はしたことがなかった、と嘯いた。 

 23という歳はバンドの中では一番若く、そのことでキッドというニックネーム頂戴することになったのだが、それを言われるたびにトミーは露骨にイヤな顔をした。


 アフリカ系黒人のDNAを受け継いだ天性のリズム感覚は、余人をもって替え難いほどの素晴らしさだった。メリハリの利いたドラミングに加え、これまでの不幸な生い立ちをおくびにも出さない明るい性格のトミーを、田尾はとても気に入っていた。

 トミーのプレイスタイルは、ドラマーのタイプでいえばマイルスバンドで頭角を現わしたトニー・ウィリアムスといったところだろうか。アップテンポのビートを叩かせると日本でも10指に入る実力を見せつける、と田尾は評価していた。

 ただしバラッドのようなスローテンポに弱点があった。ブラッシュワークをもっと、もっと勉強する必要があった。

 だから田尾は、バンドリーダーとして、トミーにブラッシュをマスターしなければ一流のプロにはなれないことを口を酸っぱくして説いた。特に唄伴と呼ばれる、ボーカリストのバックで演奏するギグでは必須のテクニックなので、これができなければ一流のボーカリストとの仕事ではお前をはずすことになる、と言い渡していた。

 

 プロの世界では、トミーがまだ20代そこそこの若造だからブラッシュの技術が未熟だというエキスキューズは、この業界では全く斟酌されない。どのようなリクエストがあっても、完璧にこなす技術とフィーリングがなければトップに上り詰めることはできない。つまり稼げないということを意味するのだ。

 この点、スティックをもたせたら抜群のドラミングセンスを見せるトミーが、さらにブラッシュのテクニックをモノにすれば、少なくとも日本では、ファーストコールのスタジオミュージシャンとして大金を稼げることは、間違いなかった。

 だからこそ、田尾はトミーに対し、マイルス・デービスのプレステージ時代のメンバーだった名ドラマー、フィリー・ジョー・ジョーンズのブラッシュの技術を盗めと、ことあるごとに発破をかけていたのだが、馬耳東風、まったく意に介さない風だった。

 田尾は、トミーが自分のバンドに在籍している間にその技術をマスターさせようと心に決めていた。そのためにも、今回の小宮山の亡くなった妻に捧げるバラッドの新曲は、ちょうど良い彼への教材になるだろうと期待していた。


 (今度こそ、あいつが泣きを入れるまで厳しく躾けるのだ)

 

 田尾は、密かに心を鬼にしていた。 


 「それじゃ、明日からのステージで演る曲を渡しておくから、よく頭に入れておいてくれよ」

 

 田尾がショルダーバッグから譜面を取り出しながら、ロベルトを除く三人に声を掛けた。


 バンドが普段演奏する約30曲の中から、ファースト・ステージ用に5曲、セカンド・ステージ用に6曲の、合わせて11曲がピックアップされていた。

 バンドではたいていの場合、人気のあるジャズの定番のスタンダードを演奏することが多いのだが、今回のステージでは小宮山に言ったとおり、新曲を各ステージのトリで演奏するつもりだった。


 「ボス、新しい曲が入っていますね」

 

 その譜面を目ざとく見つけたトランペッターのスコットが、書きこまれているメロディーと複雑なコード進行を目で追いながら言った。その譜面のタイトルには、<バラッド フォー KYOKO>とクレジットされていた。

 田尾は、新曲のタイトルをつけるに当たっていろいろ思案したのだが、結局大好きなピアニストのビル・エバンスの作曲で有名なワルツ・フォー・デビーからヒントを得て、このタイトルに決めたのだ。

 この3拍子の曲では、バッキングなしのテナーサックスによるフリーソロから始まり、そのままワンコーラスを終えた後、次のコーラスのトップから、ウッドベースが入るようなドラマチックな構成にした。

 バラッドの場合、アップテンポと違い、特にバンド全体のタイム感覚を揃えるのが難しく、全体の息が合っていなければ曲としては不十分なのだ。田尾はこの曲の完成度を高めるためにも、バンド全体の念入りなリハーサルにたっぷりと時間をかけるつもりでいたのだ。

 メンバーにおおよその曲のイメージ、テンポ、コード進行の注意点などをブリーフィングし、通しのリハーサルに入った。そうこうしているうちに、ピアノのロベルトが頭をかきながら姿を見せた。バードに来るときの道が複雑で、散々道に迷ったという、いかにも見え透いた言い訳を口にしながら、申し訳なさそうに謝った。


 (こいつの遅刻は毎度のことだ。多分死んでも治らないだろう)

 

 田尾は忌々しそうにロベルトの顔を睨みつけた。

 

 「30分の遅れだ、ロベルト。ということはお前の今回のペナルティは30ドルだ。今週のギャラからさっ引いとくからな」

 

 問答無用の厳しい口調で、田尾が言い放った。


 田尾の場合、たいていメンバーへのギャラは週払いにしていて、毎週日曜日の仕事が捌けた後、キャッシュで渡していた。この業界はメンバーの離合集散が激しく、ギャラにまつわるトラブルが絶えないのだが、田尾は自分のバンドを持ったときから、一貫してこの方法を変えなかった。

 これまでメンバーへのギャラの先延ばしや、不払いをただの一度もしなかったことが、田尾の密かな誇りだった。メンバー全員も、そうした田尾の誠実なマネージメントぶりに信頼を寄せていたこともあり、業界では珍しくこの二年間、バンドのメンバーチェンジがなく、その結果、田尾の業界での信頼も厚かったのだ。

 30ドルのギャラのカットを言い渡されたロベルトは、神妙に店のステージに置かれてある、スタンウェーのグランドピアノの前に座わり、譜面台に置かれていた新曲を注意深くチェックし始めた。

 遅れてきた罰として、ボスからのデイレクションはもう期待できず、他のメンバーのプレイを聴きながら待つしかなかったが、その新曲のコード進行が、ビル・エバンスからヒントを得ていることを、腕利きのピアニストのロベルトは、すぐに読み取った。

 田尾がいろんな注意を与えながらのリハーサルでは、およそ1時間を過ぎる頃には、メンバー全員の息もなんとか合うようになった。が、どうしてもトミーのドラムの不安定さが耳についた。


 (スロービートが、相変わらずもたついている)

 

 田尾はトミーに、このバラッドでは全てブラッシュを使うように命じた。ブラッシュワークはトミーの唯一の苦手な分野で、普段からあまり練習していなかった。

 

 田尾は心に決めたとおり、いつもにない厳しい口調で、

 「トミーいいか、いつも言っているようにブラッシュワークが一人前にできないようじゃ次の仕事はないぞ」と、メンバーの目の前で冷たく突き放した。

 

 ステージ上の空気が一瞬凍りつき、メンバー全員に緊張が走った。

 そしてトミーに、曲のブリッジのパートを倍テンポで叩くように命じた。曲全体のリズム構成を変化させることによってダイナミズムが生まれることを狙ったのだ。

 この指示によって、トミーのスロービートに対する苦手意識を回避させることができたばかりか、田尾が驚くほど、リズム全体に活気が蘇ってきた。


 (初演のリハーサルにしては、まずまずのデキだな)

 

 ショートブレークをはさみステージ全曲の通しのリハーサルを終えた後、バンドは夜に予定されているプロアマとのジャムセッションに備えるため、しばしの休憩に入った。

 

 カウンターの隅のテーブル席で休憩していた田尾に、小宮山がトマトジュースをベースにしたビアカクテルのグラスを差し出した。ハイネケンのクリーミーな泡立ちとトマトジュースのヘルシーな赤が程よくブレンドされたこのカクテルは、最近の田尾のお気に入りだった。 


 そもそも、このビアカクテルを小宮山に教えたのが田尾だった。

 前回、田尾がバードに立ち寄った際、オーダーしたそのビアカクテルに小宮山は最初驚いた様子だったが、試しに常連客の女の子に出してみると、おりからの健康ブームに乗ってこれが大ヒットし、店の売り上げに大いに貢献したのだ。

 これに気をよくした小宮山は、その後マンゴジュースやジンジャエール、梅酒、グラッベリージュースなどをブレンドした、新しいビアカクテルを次次と開発し、バードの女性客向けの看板ドリンクとして成功させたのだ。そういった経緯もあり、田尾は、陰ながらバードの売り上げに大いに尽力していたのだ。

 

 今回、ジェームズ一座のメンバーを引き連れて、市内のお茶屋に繰り出す費用は、田尾には内緒だが、バードの人気ドリンクとなったビアカクテルのこれまでの売り上げのことを思えば、小宮山にとっては何ていうことはない程度の出費なのだ。

 田尾は、ペッパーソースとレモンを垂らし、オレンジをトッピングしたトマトジュースベースのビアカクテルを、いかにも旨そうにグラス半分ほど飲み干しながら、 

 

 「先輩、本邦初公開のバラッドはどうでした」と、それとなく訊ねた。


 「哲、良かったよ、とっても。本当に良かった。思わず京子との楽しい思い出が蘇って、年甲斐もなくジーンと来た」と、小宮山。

 

 「先輩からそう言われると、作曲した僕も、バードの開店20周年のお祝いと、亡くなった京子さんの供養になるのなら嬉しいですよ」

 

 「これからこのバラッドを、バードのオープニングとクロージングのテーマにするよ。CDにしたらすぐに送ってくれよ」と、小宮山が念を押すように言った。

 

 「これで哲には頭が上がらなくなったな。バード20周年記念の何よりのプレゼントだ。本当に感謝する。ありがとう」

 

 今にも泣き出しそうな表情を隠しながら、声をふり絞った。

 

 小宮山の表情からは、通り一遍のお世辞ではなく本心から、<バラッド・フォー・KYOKO>を気に入ってくれたことが言葉の端々から窺い知ることができ、田尾は満足感に浸った。

 田尾は、グラスに残ったビアカクテルの残りを一気に飲み干しながら、

 

 「そんなに気に入ってもらって、こちらこそ恐縮です」と、感激覚めやらぬ小宮山の表情を横目で見ながら言った。


 「それにしても京子さんが亡くなってもう17年も経ちましたね。早いものです。小宮山さんもあのショックから立ち直って、随分元気になったように思いますけど」と、田尾がそれとなく小宮山の心のひだに触れないよう、細心の注意を払って現況を尋ねた。


 小宮山と最初の妻、真理子が学生時代からの大ロマンスの結果、双方の親の反対を押し切って結婚にいたったこと、そして子供には恵まれなかったものの、おしどり夫妻として周りがうらやむほど仲が良かった二人の結婚生活が、小宮山の浮気が原因で10年後には脆くも崩れ去ったこと、またその後に知り合った京子との関係が原因で、彼がエリート街道をひた走っていた地元の銀行を辞めざるを得なかったことなど、お互いに口にこそ出さなかったが、田尾はこれまでの小宮山の人生のかなりの部分を、後輩としてまた友人として深く見守ってきたからであった。


 「お陰で店も繁盛して、結構楽しんでいるよ。同世代の連中には、もう第一線をリタイアしてしょぼくれている奴が大勢居るけど、このとおり俺は小さいながらもジャズクラブのオーナーとして、何とかやっている。今はささやかながらこの幸せに感謝しているよ」

 

 小宮山は、田尾の問いかけには直接応えず、現在の心境をとつとつと語りながら、カウンターの横でかいがいしく水仕事をこなしている女を見やった。

 そこには先妻の京子を思い起こさせるような、愛くるしい雰囲気の女性がいた。歳は30代も半ばを過ぎているだろうか。細身だが長身で、長い髪を無造作に束ねた金沢美人だった。上品な立ち振る舞いが、とても印象的だった。


 (品の良さそうな女性だ)

 

 田尾がその女に気づく素振りを見せると、


 「哲には初めてだよな。紹介する。この正月から店を手伝ってもらっている直美さんだ。歳は秘密。前に来ていた娘の就職が急に決まって年末に辞めたので、そのあとに来てもらっているんだ。本当に助かっているよ」と、小宮山。

 

 そして彼女の横顔から目を離さず、聞こえないほどの小さい声で

 「とっても気がつく、俺にとってはもったいないほどの女性だ」と呟いた。

 

 田尾はテーブル席から少し離れた直美という女性に軽く手を振り、会釈した。

 古都金沢のしっとりした雰囲気に似合いそうな、色白の美人だった。小宮山の、彼女に見せる表情と言葉の端々から、この二人はただならぬ仲だと、田尾は直感した。


 (それにしても、歳が離れすぎているが大丈夫なのか。大人同士の恋に、歳の差なんて余り意味はないということなのか)

 

 田尾は、20年前に妻を失ったわが身を振り返り、親しい友人だからといって、あれこれ詮索するのは無粋というものだ、と自戒した。


 午後7時のジャム・セッションの開演が近づき、地元のプロとアマチュアの参加者がぽつぽつと顔を見せ始めたのは、夕方5時を少し過ぎた頃だった。

 それを楽しみにしていた客たちによって、店内は、開演30分前には立ち見席も取れないほどに溢れかえっていた。

 小宮山は今回のセッションの開催予告のチラシを事前に配ってみたものの、果たして参加者がどの程度いるのか全く不安だった。しかしその心配は杞憂に終わった。

  地元大学のビックバンドや、スモールグループでソロをとれるほどの優秀なアマチュアプレイヤーが、予想以上に応募してきたのには驚かされた。

 同時に、北陸はもとよりそれ以外からも、現役の名だたるプロが参加を申し込んできたのは予想外だった。やはり田尾の一流ミュージシャンとしての名声は、小宮山が思う以上に知れ渡っており、彼のバンドと同じステージに立てるのは、プロ・アマ問わず得がたい経験でありチャンスなのだろう、と小宮山は納得した。


 田尾はセッション前に、参加者全員に課題曲を知らせていた。

 1曲目はジャズスタンダードナンバーの定番「枯葉」を、もう一曲はマイルスの「ソー・ウァット」だ。特に「ソー・ウァット」のコード進行はシンプルですぐ頭に入るが、ソロを取る段になるとなかなかの技量が要求され、プロでもこの曲をモード奏法で満足に吹ける者は数少ないのだ。

 結局、小宮山が予想する以上の応募者の中から、プロ、アマから各5人づつが選ばれ、田尾のバンドメンバーと一緒にステージに立つことになった。

 アマチュアの部では、田尾と小宮山の駆け出しの頃がそうであったように、何人かはステージで舞い上がって満足にメロディーも吹けない有様だった。

 

 小宮山はカウンターの中で、かつてのジャズ研時代の自分を思い出し、微笑ましく彼等の初々しさを見守った。アマの緊張ぶりを察した田尾がステージに立ちお手本を示してからは、皆それぞれ思い出したように自分のペースを取り戻した。

 誰もが未熟な技量を駆使しながら、精一杯自分のソロを完結させようと必死だった。田尾と小宮山は、アマチュアのそうした真剣さを見るにつけ、若かりし頃の自分たちの姿に重ね合わせた。


 一方、プロの部では、流石にステージに緊張感が漂った。

 プロとして恥ずかしいプレイはできないというプライド、東京のモンには負けられないという気負い、そして自分のプレイを見せつけて、あわよくば高く売り込みたいという思惑などが入り交じり、ステージに立った彼等の顔には、勝負師だけが見せる厳しさが漂っていた。やはり幾多のステージを踏んだプロの連中の高度なソロは、アマとは比較のしようがないほど精緻で迫力があった。

 今しがた終了したアマの部の参加者たちの誰もが、プロたちの銭の取れる演奏を前に、ただただ口を閉じるしかなかった。

 しかしそのなかにあっても、田尾が、明らかにクリニックとは一変させた変幻自在なソロをみせつけると、バードに集まった誰もがため息をついて黙り込み、ひたすらに聞耳を立てた。

 バックバンドの活きの良い若手も、ボスの気合の入ったソロに引きずりこまれるように、タイトなリズムで煽った。そこには、他のプレイヤーがカットインし、主導権を握るような隙は皆無だった。

 プロ、アマを問わず、参加者全員が、厳しいプロの仕事に気圧された。皆一様に、一流プロの音は別格だと言わんばかりの、諦めにも似た表情を浮かべたのである。  

 

 小宮山は、地元プロの連中を完全に打ちのめした田尾のプレイぶりを目の当りにして、 

 

 「ニューヨークでエンジェルを手に入れてからの哲は、音もプレイも大きく変貌した」と、ステージ上での熱い演奏を聴きながら、心底脱帽した。

 

 午後7時に始まったイベント5日目のジャム・セッションは、午前零時を過ぎてもなお参加者と客たちが帰ろうとせず、結局、終了したのは午前3時を超えていた。

 店にいた全ての者が、ジャズが持つどこか卑猥な魔術にかけられ、余韻を楽しみながら家路についた。田尾と小宮山は、客たちの帰ったバードのカウンター席でセッションの後に襲い掛かってきた虚脱感と満足感に浸りながら、ただ黙々とバーボンを酌み交わした。見る間に1本が空になった。

 翌日、田尾がバードに顔を見せたのは夕方遅くだった。吐く息がまだ酒臭かった。カウンターの中で疲れた表情を浮かべている小宮山も同様に、前夜の酒が、身体から抜け切っていないようだった。

 結局、二人はジャムセッションが終わってからも、朝まで延々と飲み続けていたのだ。こんなに無茶飲みしたのは双方とも久しぶりだった。


 「還暦を過ぎると、深酒は身体に応える」と、小宮山。

 

 「酒の飲み方は心得ているつもりだったけど、嬉しい時の酒は旨いね、先輩」

と、田尾が応えた。 

 

 田尾も小宮山も、昨晩の熱いジャムセッションの様子が頭にこびりついて離れないようだった。


 小宮山がしょぼついた目をこすりながら、ぼそぼそと田尾に話しかけた。

 

 「今回のクリニックとジャムセッションは本当に良かった。参加した若手にとってもきっと大きな刺激になったと思う。俺は絶対来年もこのイベントを続けるよ。是非協力してくれよ、哲」


 「そうですね、バードの定期イベントにしますか」と、何気なく愛想半分で応じた。

 

 「哲、笑わないで聞いてくれよ。何だか書生っぽい言い方になるけど、還暦を過ぎて、俺も少しは世のために何かしたくなったんだ。昨晩の若手の初々しいプレイぶりを見て、本当にそう思った」


  小宮山にしては、思いつめた話しぶりだと田尾は思った。

 

 「小宮山さんも変わったね。若かりし頃の触れなば切らん、と言われたエリート臭さが影を潜め、いい意味で角が取れてきた」と、茶化した。

 

 それには応えず、真剣な表情を崩さない小宮山が自分に言い聞かせるように

 

 「まあ還暦を過ぎていくら角が取れて丸くなったといっても、いまさらボランティアという柄でもないことは、俺自身が一番わきまえているよ。ジャズクラブの親爺ができることって、せいぜい才能ある若手ミュージシャンを育てることぐらいなんだ。これまで何とか20周年を迎えたバードは、今後は本業のかたわら少なくとも10ほどはジャズ道場として社会に還元することにしたい。どうだ、哲、このアイデアは」


 「ジャズ道場か。アカデミーとしないところがいいね。なんとなく響きがレトロっぽいというか、体育会系というべきか。バードが、若い子たちのジャズ教育の場としてお役に立つということですかね。先輩が本気なら、及ばずながら協力しますよ」

 小宮山の決意に押され気味の田尾は、いまさら引っ込みがつかないことを自らに言い聞かせて賛同した。

 

 「よし決まった。哲、さっそく来年の同じ時期の日程を押さえてくれ」と言いながら、小宮山が田尾に手を差し出した。そして一言

 

 「グッド ディール。ただし道場の師範といえどもノーギャランティーだぜ、哲」と冗談を言いながら、握手を求めてきた。小宮山の決心の固さが、痛いくらいの握手に表れていた。


 バード20周年記念イベントのトリは、田尾バンドの2日間にわたるステージだった。小宮山の、エンジェルに対する好意的な批評に自信を深めた田尾のステージは、最近になく快調そのものだった。

 あえて冒頭に予定していたミディアムテンポの「枯葉」を、直前になってチャーリーパーカーのハイテンポな演奏で有名な、「ドナ・リー」に変更した。

 田尾自身も、余り演ったことがないほどの急速テンポのリズムに触発され、火の噴くようなソロをとった。かつて、ドイツのアウトバーンでポルシェ911をぶっ飛ばした記憶を呼び起こすかのように、ブローするほどに熱くなった。

 日頃のゆったりとしたプレイ振りとは打って変わって、元気一杯のボスに目を瞠ったメンバーは、多少戸惑いながらも元来アップテンポの曲を得意としている若手らしく、タイトなリズムで田尾を煽った。


 <バラッド・フォー・KYOKO>のリハーサルでは、田尾から糞味噌に貶されたトミーのドラミングもこの時ばかりは得意なアップテンポの曲とあってか、満員で溢れかえっている店内の客たちを唸らせるほどの迫力を見せつけた。

 かつて、マイルスバンドで一躍スターダムにのし上がった名ドラマー、トニー・ウィリアムスを髣髴させるような、正確無比なオンビートのシンバルや、エルビン・ジョーンズばりの左手によるマシンガンのような3連打ち、スネアドラムとタイトにリンクしたバスドラムスのアタックなど、それこそ田尾の背後から、絶え間なくビートのクラスターを浴びせかけた。

 

 古民家造りの、バードの豊な空間の隅々にまで、地に響くようなバンドの唸りが壁や天井に反響し、耳を突いた。これこそがライブなのだ。客たち全てが、まるで金縛りにあったかのように演奏に魅了された。


 (流石に一流のバンドの生の音は別格だ。店のアルテックA7から出てくる音がまるでBGMのように思えるくらいだ)

 

 カウンター内の特等席では、小宮山が田尾のステージをただ押し黙りながら、しかし全神経を研ぎ澄ませて聴いていた。そして

 

 「それにしてもエンジェルの音の鳴り方は凄い、今までこんな迫力あるサックスは聴いたことがない」と、独り呟いた。


 一方田尾自身も、こんな気持ちの良いステージは本当に久しぶりだ、とエンジェルをブローしながら感じていた。日々のレギュラーギグでは絶対得られないライブステージの感覚を、バンド全員が以心伝心で共有していた。

あたかもエンジェルから噴出す音が、バンドのメンバーと、肩を触れるほど押し寄せた客たちを優しく包んでいるかのようだった。


 (エンジェルによって、明らかに俺のサウンドとプレイスタイルが変わった)

 

 ソロを終えた田尾は、バンドのメンバーを横目に、自分自身の劇的な変化を感じていた。 

 

 いよいよ最初のステージが終わりに近づく頃、この日のために用意したとっておきの曲<バラッド・フォー・KYOKO>を、紹介もせずにプレイし始めた。

 しばらくしてカウンターの向こうで、小宮山が目頭を押さえているのが田尾には判った。泣いているようにも見えた。そして暫く目を離している間に、カウンターから小宮山の姿が消えていた。きっとひとり、カウンター横のパントリーにでもこもって聴いているのだろう、とエンジェルを吹きながら思った。

 バラッドのエンディングテーマを、情感を込めて吹き終えると、これまでで一番の拍手が店内に巻き起こった。どの客たちも感極まった表情を浮かべていた。女性客の中には、ハンカチを目に当てる者もいた。田尾が、あらためてこの曲を客たちに紹介すると、割れんばかりの拍手が漆喰で塗られた分厚い壁に響いた。

 同時に、最初薄暗くてよくは見えなかったが、金沢に帰省する際、高速道路をフェラーリでドライブしていた、それらしき女性がカウンター近くのテーブルで、ひとり拍手しているのに気づいた。

 

 インターミッションに入り、小宮山のいるカウンター席に向かった田尾は、もう一度その女性を凝視した。


 (確かに、あのときの女性に違いない)

 

 身に着けているのは、そのときの濃紺の仕立ての良い綿のジャケットではなく、薄手のカジュアルなセーターだったが、確かにフェラーリ・575スーパー・アメリカを粋にドライブしていた女性だった。


 (何故あのときの女性が、今夜の自分のステージを聴きに来ているのか?)

 金沢での仕事の後の息抜なのか、田尾は自問自答しながらも皆目検討がつかなかった。


 疑問は、すぐに解消された。

 トランペッターのスコットが件の女性のテーブル席に近づき、挨拶も交わさずにいきなりハグしたのだ。呆気にとられてその様子を遠目に眺めていた田尾に、スコットがその女性の手を引きながら近づき声を掛けてきた。


 「ボス、僕の友達を紹介します。彼女はキャロル・マッケンジー。大学時代からの友人です」

 

 柄にもなく目じりを下げながら、田尾の座っているカウンター席に彼女を案内した。

 間近で見る彼女は、高速道路のポルシェの中から窺うよりもいっそう美しさが際立って見えた。身長は175センチもあろうか。手足が細く長く、プロのモデルと見紛うばかりのプロポーションは、店内の多くの耳目を集めた。

 これまで、スコットが田尾に紹介した数多くの女友達の中では一番の、すこぶるつきの美人だった。そしてよくあるように、水商売の女が放つ、特有の品の悪さは少しも感じられなかった。スコットにはもったいないほどの女性だ、とバンドリーダーの田尾は思った。

 

 スコットが、おもむろにキャロルのプロフィールを紹介し始めた。

 

 「キャロルは、普段はCIR(国際交流員)として長野県の高校で英語を教えているんだけど、前々から古都の金沢に来たくて仕様がなかったらしい。そこで、今夜のステージがあることを事前にメールで知らせたらさっそく駆けつけてくれた、という訳なんだ」

 

 説明している間、スコットは日本の女の子たちに人気のある彼の青い目を、一瞬たりとも彼女の横顔から離そうとしなかった。

 こいつは相当、彼女に惚れているな、と田尾は直感した。

 しかし両者の雰囲気の濃淡から、スコットが前のめりになるほどには彼女の方は熱くなっていないことを見抜いた。

 スコットはさらに、キャロルのプロフィールの続編を語った。

 それによると、キャロルはスコットよりも二つ歳下で、両者は、彼女がプリンストン大学の学生だった時に知り会ったのだという。

 

 キャロルは、プリンストンを卒業すると、アジアに興味を持っていたことから上海、香港、タイ、ヴェトナムを数年かけて旅行した後、今は日本に国際交流員として長野に住んでいること。さらに彼女にはニューヨークに住んでいる10歳上のナンシーという姉がいて、父親がオーナーのホールディングカンパニーで、法律とマーケティングを担当する役員を務めていて、名実ともにファミリーファームの最高幹部として、会社を仕切っているのだという。

 姉妹の父親は、テキサス州でのオイルビジネスで成功し、その資金で今やアメリカのニューヨークはもとより、日本と上海、香港であわせて10 以上の一流ホテルを経営しており、まさにアメリカンサクセスを地でいく富豪ということだった。キャロルが、現在、長野で暮らしているのは、軽井沢に父親の別荘があるから、というのがその理由であることなどを得意げに解説した。

 最後に、田尾が高速道路で出会ったイタリアンレッドのフェラーリは、目に入れても痛くないほど可愛がっている末娘のために、父親からプレゼントされた車であることも、スコットのバカ丁寧なブリーフィングによって田尾の知るところとなった。


 一方、田尾が格別問いただそうともしなかったスコット自身のプロフィールは、おおよそ2年間、彼がバンドに在籍して初めて耳にする内容だった。

 田尾は、バンドメンバーが自分から話そうとしない限り、努めて相手の私生活をあれこれ詮索するようなことをしなかった。人には話したくない、そして知られたくないことは幾らでもある。バンドマンはサラリーマンと違って、ミュージシャンとしての実力があれば何とか飯が喰える世界なのだ。 

 極端な話、バンドマンが、譬え前科者であっても、しっかりしたプレイと契約さえ守ってくれれば、よほどのことがない限り大目に見ているのだ。


 スコット自身によれば、ハーバード・ビジネススクール卒業後、嘱望されてマンハッタンでも著名なローファームに入ったのだが、小さい頃から学んでいたトランペットで、プロのジャズミュージシャンとして成功したいという夢を断ち切ることができず、結局、ジュリアード音楽院に入りなおし、いちから勉強したのだという。

 初めて聴く彼自身のプロフィール紹介によって、田尾は、スコットが女好きであることを除けば、最近の若いジャズミュージシャンにしては珍しく教養があって、バランスの良い人物であることの理由を知るところとなった。自分には全く想像もつかない世界だ、と田尾は思った。

 

 (アメリカンサクセスストーリーを絵に描いたようなエスタブリッシュメントたちとはこれまでも縁がなかったし、これからもそうだろう。こんな連中には、庶民の我々は遠巻きに眺めるのが一番だ)


 若い頃勤めていた広告代理店で、欧米で活躍するネイティブのトップマネージャーたちと付き合ってきた経験から、田尾はそう思った。たいていの場合、こうしたエスタブリッシュメントたちは、表面は洗練された物腰で如才なく振舞うのだが、自分たちと異なる経済、文化圏で育った連中とは明らかに意識の中では一線を画している。しかしそうとは思わせない洗練さが、彼等の権益をさりげなく覆い隠しているのだ。

 

 事実、田尾はこれまでのサラリーマン時代を含め、自分が経験してきた海外とのハードなビジネスを振り返ってみるにつけ、こうしたエスタブリッシュメントたちが独自のコロニーを形成し、彼等の権益を侵す恐れのある外敵に対しては、想像を絶するほどの冷酷さで、相手が二度と立ち上がれなくなるまで反撃することを、身をもって学んでいたのだ。

 

 最終ステージは、店内を埋め尽くした客からの、鳴り止むことがない拍手で終了した。

 

 「今夜のパフォーマンスは最高だった」と、田尾がメンバーに言うが早いか、

トランペッターのスコットが真っ先に軽く手を振りながら店を出ようとした。

 

 田尾は、スコットの背中に浴びせるように

 「ヘイ、スコット。明日吹けなくなるほど唇を酷使するなよ」と、からかった。



第12章   ジャッキー



 キャロルの手を握りながらスコットがバードを出た後、田尾は背後から人が近づく気配を感じた。振り返ると、中年と思しき女性が立っていた。

 アメリカ人にしては小柄で栗毛色の髪をした、いかにもスタミナがありそうな肉付きの良い身体をしていた。透き通るような白い肌と、吸い込まれるようなブルーの目がなんともセクシーだった。

 

 「とっても良かったわ。日本にも本当にジャズを演れるミュージシャンがいることがわかったわ」

 

 その女性は、自分をジャッキー・マクラーレンと名乗った。田尾は、その名前を聞いたことがあったが、咄嗟には思い出すことができなかった。

 ジャッキーのそばにぴったり寄り添っていた若い女性のネイティブが、ジャッキーのプロフィールを簡単に紹介した。

 田尾はようやく目の前の女性が、アメリカの有名なジャズボーカリストであることを理解した。

 

(そうか、この人があのジャッキーか)

 

 20年ほど前に突如としてジャズシーンに躍り出て、瞬く間にグラミー賞を獲った華々しいキャリアの持ち主だった。しかし男運が悪く、稼いだギャラを搾り取られた挙句、一時は酒とクスリで身をくずしたという噂を聞いたことがあった。

 スタン・ゲッツとの共演で一躍スターダムにのし上がったアストラッド・ジルベルトを思い起こさせるようなアンニュイなボイスの持ち主は、今は聴くに絶えないほどに落ちぶれているという辛らつな批評記事を、田尾はだいぶ前に業界雑誌で読んだことがあった。

 ジャッキーは、明晩の、市内で一番人気のあるホテルのディナーショーに呼ばれてステージに立つ予定で、ほんの今しがた、金沢駅に着いたのだという。

 最初のコンサートの会場地だった東京で、金沢に行くなら日本の伝統的な古民家を移築した、変わったジャズクラブがあることを、誰かがジャッキーのマネージャーに吹き込んだらしく、駅に到着後、ホテルにチェックインもせず、早々にバードに立ち寄ったのだと言った。

 世界中を旅して歩くジャッキーたちにとっては、仕事柄、格別変わったジャズクラブに興味があったわけでもなく、また田尾のバンドをよく知っているわけでもなかったが、たまたま宿泊するホテルの近くに古民家風のジャズクラブがあり、翌日からのステージの打ち合わせも兼ねて、軽くそこで一杯飲ろうといった程度の気安さでバードに足を向けたのだった。


 ジャッキーは、田尾に対し今まで何枚のレコードを出したのか、キャリアは何年ほどか、今まで誰と共演したのか、普段のレギュラーギグは何かといったふうに、初対面のわりに遠慮のない質問を次々と浴びせてきた。


 (何でこんな質問に答えなきゃいけないんだ)

 

 田尾はまるで保険会社から派遣されてきた調査員から、根掘り葉掘り問いただされているような気分だった。

 かつてグラミー賞を獲ったことのある一流のボーカリストとは言え、まったく失礼な女だなと田尾は少々気分を害したが、自分の簡単なプロフィール、ジャズマンとしてのこれまでのキャリアを手短に説明した。そして作・編曲もできるのかとのジャッキーの問いに対しては、年収の半分はそれで稼いでいるのだと応えると、満足そうな表情を見せた。

 

 田尾が二杯目のビアカクテルを注文しようとしたとき、ジャッキーがおもむろに顔を覗きこむように言った。


 「ミスター田尾。新年早々にブッキングしている私のヨーロッパツアーに、ミュージカルディレクター兼プレイヤーとして参加してみる気はない?」

 思いもかけないジャッキーからの誘いだった。

 

 常に彼女の傍にいて離れることがない、長身でがっちりした体つきの男が、具体的な内容を説明しだした。彼はジャッキーのマネージャーでトムと自己紹介した。ジャッキーとは10年ほどの付き合いだと言う。

 トムの話によれば、まず年末に1週間程度、ニューヨークのスタジオでリハーサルをこなし、ステージで使う曲を仕上げたあと、デンマーク、コペンハーゲンを皮切りにプラハ、ミラノ、パリ、リスボンを巡業した後、再びニューヨークに戻り、名門ジャズクラブ「ヴィレッジ」のライブステージでツアーを締めるというものだった。

 期間はおよそ1ヶ月。ギャランティーは、バンス(前払い)として2万ドル。パリで2万ドル、最後に、ニューヨークのジャズクラブのヴィレッジでのステージ終了後に2万ドルと、田尾にとってはトゥーマッチと思えるほどの破格の額だった。

 

 もちろんニューヨークに飛ぶための往復のファーストチケットや、ツアー中のアゴアシ、つまり交通費、ホテルでの宿泊、食事代全てを負担するという好条件だった。最後に返事は一週間以内と、これまた厳しいリクエストを出してきた。  

 

 田尾には、何故ジャッキーが自分をツアーのメンバー、しかもバンドの要であるミュージカル・ディレクターに選んだのか判らなかった。そしてそのことを正直にジャッキーに尋ねた。 

 

 するとジャッキーは、

 「ミスター田尾。それは貴方に作編曲の能力があることと、何よりもサックスの音がとても素敵だからよ。アメリカでも田尾のような魅力的なサウンドが出せるサックスプレイヤーはそうそう見つけられないの。貴方にとっては、このセルマーはお宝ね」と、田尾を驚かせるような答えが返ってきた。


 「今回のヨーロッパツアーは、私にとった再起のチャンスなの。だから自分の耳で確かめて納得できるプレイヤーと組んでツアーに臨みたいの。その最初のメンバーが、ミスター田尾というわけ」

 

 ジャッキーが、それまでの幾分固い表情とは打って変わって、温和な笑みを浮かべながら言った。しかしその表情の奥底には、何が何でもこの日本人のサックス吹きをバンドの音楽監督に雇ってツアーを成功させたい、という固い決意が漲っていた。

 

 ジャッキーが化粧室に消えた時、マネージャーのトムがしんみりとした口調で話し始めた。それによると、彼女はこれまで言い寄ってきた何人かのポン引きみたいな男に性懲りもなく騙され続け、相当な金をむしり取られた挙句捨てられたこと。それが原因で酒に溺れ、一時はクスリにも手を出すようになったこと。今回のヨーロッパツアーで失敗すれば、多分彼女のキャリアは完全に終わってしまうことなどを、まるで彼女の人生をなぞるように語った。

 

 さらに、今回のツアーバンドのミュージカルディレクターにはメンバーをまとめあげることができる、経験豊富で信頼のおけるプロ中のプロを入れたがっていること。彼女自身は、これまでこのショービジネスという厳しい世界で突っ張って生き抜いてきたが、ひと歳回った最近ではそれにも疲れていて、仕事では純粋に頼り甲斐があって自分よりも年上のミュージシャンを探していたことなどを、正直に教えてくれた。


  最後に、もしこのヨーロッパツアーを成功させてニューヨークのヴィレッジに戻ることができたら、そこでのライブをコーディングする話が進んでいるのだと付け加えた。

 アメリカのビッグレーベルとのレコーディング契約は現在交渉中だが、かなりの額になるという。やはりグラミーを獲ったことのある大物ボーカリストには高値が付くのだと、嬉しそうに笑った。

 最後に、もしジャッキーがレコーディングにまでこぎつければ、そのまま田尾をメンバーとして雇う可能性が高く、その場合のギャランティーは相当な額になるだろう、と説明した。トムは、ジャッキーが気に入った田尾に、是非この仕事を請けてくれるよう、駄目だしするように懇願した。


 化粧室から戻ったジャッキーに対して、田尾は、大変興味のあるオファだが、返事するには余りにも時間に余裕がないことを挙げ、もう少し待てるかどうか訊いた。そのあいだに現在のレギュラーの仕事にトラを見つけられるかやってみて、どうしても無理なら今回のオファは断らざるを得ないことなどを説明した。 

 ショービジネスの世界を知り尽くしているジャッキーは田尾に理解を示し、二週間ほどならば待ってもよいと応え、スタッフとともにバードを出た。


 田尾は、ニューヨークでエンジェルを手に入れてからわずか半年も経たないうちに、身の回りの余りにも目まぐるしい変化が起きたことに、自分でも驚いていた。

 ニューヨークではジャズ・リジェンドの大物トランペッター、フレディと知り合うことができ、そして今夜は大物ジャズボーカリストのジャッキー・マクラーレンからヨーロッパツアーのオファを受けたのだ。

 この予想もしないラックは、エンジェルがもたらしてくれたのだろうか、田尾は半信半疑だった。


 (やはり俺にはエンジェルがついているのだろうか。先輩が言うように、こいつのお陰で俺にも不思議と運が向いてきたように思える。しかも、もうすぐ還暦を迎えようとしているこの俺に)


  田尾は、ビッグチャンスをもらった駆け出しのミュージシャンの如く、浮き足立っている自分を自覚した。しかし一方で、このツアーの仕事を請けるに当たっては、一抹の不安があった。

 

 田尾は、広告代理店時代の海外ビジネスで培った英語力を身につけてはいたのだが、それは通常のコミュニケーションには十分なレベルではあっても、プロミュージシャン同士の、音楽的で微妙なニュアンスを伝えるほどの会話を成立させられるほどのものなのか、正直、自信がなかった。

 しかも今回は自分レギュラーバンドのメンバーを引き連れていくのではなく、ジャッキーが気に入った、ニューヨークのひと癖もふた癖もある、凄腕の連中をまとめていく必要があるのだ。

 

 田尾はこれまでにも数多くのネイティブのミュージシャンを雇ったことがあるので、ある程度は彼等の扱い方は心得ていたが、それは国内でプレイしている連中が多かったからだ。彼らの多くは日本に住み、日本の文化や生活習慣にも慣れている、いわば田尾にとっては、とても扱いやすい類のミュージシャンたちなのだ。

 ところがジャズの本場であるニューヨークでは、正真正銘の、野生の暴れ馬のような、イキの良い連中と対峙することになるのだ。彼らは腕がたつのは当然として、自分の才能を強烈に主張し、それに見合うギャランティーを臆面もなく要求してくる連中なのだ。

 いかにこの業界でのキャリアが長い自分でも、彼らをコントロールするのは骨が折れるだろう。田尾は、そう考えれば考えるほど気弱になっている自分に気づいた。

しかし容易に解答が出てくるはずもなかった。田尾はただ押し黙って、ウォッカの入ったグラスを手にした。


 ジャッキーと田尾のやり取りを何気なくそばで聞耳を立てていた小宮山が、田尾の不安を見透かしたように、彼としては滅多にないほどのやさしい口調で話しかけた。


 「もうすぐ還暦を迎えようとするチャンジィには晴れがましいチャンスだな、哲」

 

 その物言いは決して無理強いするようなものではなかったが、そうかと言って、評論家のような無責任で空虚なものでもなかった。そこには、かつて大学のジャズ研でともに腕を競い合った後輩を思いやる心情に溢れていた。

 

 「飛び込むかどうかは、哲が決断することだが」と前置きしながら

 

 「俺はお前が羨ましいよ。何といってもグラミーを獲ったほどの大物ボーカリストから、じかにミュージカルディレクターとしてお呼びがかかったんだ。ニューヨークじゃなくて、この日本の田舎の、よりによって金沢のしがないジャズクラブでオファーがあったんだぜ。はっきり言って滅多にあることじゃない。いや、絶対にないと俺は思う。東京にいたって、恐らくこんなチャンスは万に一つもないだろう。俺はお前のプロとしてのキャリアと力量が認められたことが何よりも嬉しいのと同時に、彼女のツアーに参加することが、還暦を間近にしたお前の新しい人生を切り拓くきっかけになるような気がするんだ」

 

 いつものシニカルな物言いが癖の小宮山にしては、珍しくとつとつとした調子で諭すように語った。

 

 「それにしても、哲がニューヨークで手に入れたエンジェルは、いわば福の神だ。よほど相性が良いとみえる。絶対に手放すなよ」

 田尾の気持ちをほぐすように冗談を言った。


 小宮山のハートウォームなアドバイスもらってもなお、田尾の心は揺れ動いた。田尾自身、小宮山に言われるまでもなくこんなチャンスは滅多に、いや二度と回ってこないことは十分判っていた。

 これまで国内では紆余曲折はあったものの、何とか自己のレコードやCDを何枚かリリースし、ネームバリューもそれなりに浸透していて、還暦を間近にしたいまでも十分喰えるほど仕事に恵まれている。それでも、それは国内だけの話だった。


 (一歩海外に出れば、アジアの中でさえ、俺はまだまだ一介の無名のジャズミュージシャンに過ぎないのだ)


 この先10年ほどは、現役のプレイヤーとして頑張れるとしても、こんなジャッキーがくれたチャンスは二度と摑めないだろう。

 幸い、週3回のフィットネスジムでのトレーニングのお陰で、人間ドックのメディカルチェックでは、視力が多少落ちている以外は全く問題がないというか、この年代では珍しいくらいの結果が出ている。

 

 むしろ、歳のわりにさばけた担当医によれば、体力年齢は四○歳台前半のレベルで、このままいけば百歳まで生きるかどうか判らないが、少なくとも生物学的なフィジカル面でいえば、あと20年ぐらいは大丈夫だろう、ただし生殖機能までは保証できない。と、どこまで本気で言っているのか判らない程度のお墨付きをもらっていたのだ。

 要は、還暦前のこのタイミングで、居心地の良い現在の恵まれた環境を自ら変えてまで、新たな厳しい仕事に挑戦するのか、という自分自身の気持ちの整理なのだ。


 (はたして、ジャッキーがくれたチャンスを逃さず、何が何でもものにするのだ、という強い気持ちが自分にはまだ残っているのだろうか)

 

 30、40代の、馬力があって自信に溢れていた時代とは状況がまるで違う。

 それなりにこの厳しい音楽業界で経験を積みながら、バンドリーダーとして数々の修羅場を潜り抜けてきた自分にとって、彼女からのオファはとてつもないチャンスであることは間違いないが、逆にこのツアーでもしも失敗すれば、自分のキャリアは相当ダメージを受けるということも覚悟しなければならない。

 しかし一方では、ジャッキーが誘ってくれたヨーロッパツアーに挑戦したい自分をはっきりと意識しているのだ。


 (なにか妙案はないのだろうか)

 

 田尾は、ウォッカの入ったグラスを重ねながら、解決の糸口を探していた。その時、田尾の頭には、これ以上は考えつかないほどのアイデアが閃いた。


 「自分ひとりでアメリカに乗り込むにはやはり不安がある。俺のことを十分理解してくれて、アシストしてくれるバンドマンが必要だ。それにはスコットが一番だ。よし、スコットを連れて行こう」と起死回生の打開策を、思わず口にした。

 自分ではつぶやいたつもりだったが、大きな声を出していたらしく小宮山の耳にも達していた。


 「スコットか。それはグッドアイデアだ。アメリカ人のネイティブを、哲の右腕として同行させれば、精神的にも体力的にも大変なメリットがある」と、小宮山が駄目を押すように田尾に迫った。


 (これで哲の胎はきまったな)

 

 小宮山は、田尾の吹っ切れた表情を見て確信した。


 翌日、ステージが始まる前の休憩時間に、田尾はスコットを店内の別の部屋に呼び、昨晩のジャッキーからのオファの一件を詳しく説明した後、自分の右腕としてツアーに同行してくれないかと誘った。

 スコットがアメリカの富豪の娘、キャロルに入れあげていることを昨晩初めて知った田尾は、彼がこの申し出を請けてくれるかどうか自信はなかったが、スコットは拍子抜けするくらいほどの反応で、あっさりとニューヨーク行きを了承した。と同時にヨーロッパツアー後に予定されている、ビッグレーベルとのレコーディングの話にたいそう興味を持った。

 

 田尾は、この2年ほどスコットをバンドに誘い、一緒に演ってきたが、遠からず彼は次のステップを求めて他の有名バンドに移るのではないかと、内心覚悟していた。

 バンドの世界では、メンバーの移籍は日常茶飯事で、腕が立つミュージシャンほど引き抜きの誘いが多いのだ。事実スコットのところには、複数のバンドから今よりも高給で雇いたいとのオファがきていることを、別のバンド仲間から耳にしていたからである。

 

 スコットの腕前は、この2年間、ステージをともにしたバンドリーダーの田尾の厳しい評価に照らし合わせても、ほぼ完璧と言えるほどの素晴らしさだった。

 流石にジュリーアード音楽院を優秀な成績で卒業したというだけあって、読譜力や楽器を正確に演奏するテクニック、ソロイストとしての力量など、世界中のどこに行っても恥ずかしくないどころか、このままキャリアを積めば世界で通用する一流のミュージシャンとして大成することは間違いなかった。

 田尾とのレギュラーギグがないときは、都内のスタジオセッションに引っ張りだこなとなるほど、ひっきりなしに声がかかっているようだった。つまり若いわりに、いまでも金が稼げるセッションマンとして一流であるとの評価を、業界のプロデューサー筋から獲得していたのだ。 

 田尾は、これからジャッキーのバンドのミュージカルディレクターとして、彼女のパフォーマンスを全面的にサポートしディレクションする立場になった場合、自分の作・編曲する内容を、譜面どおりに、完璧に理解し演奏することができるセッションマンが絶対に必要だと思っていた。自分のソロを押し出そうとするタイプのミュージシャンがいると、たいていバンド全体のセツルメント(落ち着き)が損われることを、田尾はこれまでのキャリアをとおして十分判っていた。

 

 そう、あれは田尾がプロになりたてのころだったろうか。30歳台半ばの頃だから、かれこれ25年以上も前のことだ。

 霧で覆われた山の稜線が徐々にその姿を現わすかのように、田尾の記憶が徐々に蘇ってきた。当時、プロとしてたいした実績のない田尾にまともな仕事の依頼などくるはずもなく、ましてや自分のバンドを持つことなど夢のまた夢の、どこにでもいる駆け出しのミュージシャンだった。

 そんな状況だったから、ともかくどんな小さな仕事でも、たとえそれがジャズ以外の歌謡曲の仕事であっても、嫌な顔ひとつ見せず貧欲に仕事を請け、キャリアを積んだ。

 

 そんなある日、業界の先輩サックス吹きが病気になり、ワンナイトの唄伴の仕事依頼が田尾のところに舞い込んだ。

 還暦をかなりすぎた男性演歌歌手は、かつての一曲だけの大ヒットを持ち歌にして全国のキャバレーや温泉場を巡業していた。いわゆる業界で言うドサ廻りで、盛りを過ぎてなお細々とした仕事を拾いながら何とか生き延びていた。

 

 いつもの通りの、しがない演歌歌手の唄伴か、といった半ばなめた気持ちで開演前のリハーサルに望んだ田尾は、その老いた歌手からこっぴどく叱責された。

 いわく、お前は唄伴ということがどういうことかまるで判っていない。つまり、お前の音が大きすぎて俺の声を邪魔している。アンサンブルに入っても、周囲のプレイヤーの音をまるで聴いていない。演歌では、ジャズで使うバックビートは厳禁だ、リズムを勉強しろ。歌詞をもっと頭に叩き込んで、その情景をイメージしろ。その老演歌歌手は、リハーサルのあいだじゅう、田尾をまるでアマチュアのミュージシャンの如く、糞味噌に罵倒したのだ。

 

 要は、ステージでの主役はあくまでも歌い手でありバンドマンは出しゃばるな。譜面を正確に演奏することが大事で、自己流の解釈で吹く必要は全くない。そしてもっとも重要なことは、歌詞を大切にすること。器楽奏者だからといって、歌詞の情景が頭に想い浮かばないようでは、次からの仕事はないぞ。といった諸々のことをその老歌手は言いたかったのだ。

 

 手厳しい指導を受け、他のバンドメンバーの面前で散々恥をかかされた田尾が、唄伴の心得に気づかされたのは、その老演歌歌手との仕事が終わってしばらくしてからのことだった。それ以降、その夜の貴重な経験を、片時も頭から消し去ることはなかった。

 その夜のことがあってから、田尾は唄伴の仕事が入れば必ずこの老演歌歌手の厳しい教えを忠実に守ってきた。たとえその仕事が演歌でもポップスでも、そして勿論のことジャズであっても。

 その甲斐あってか、田尾の唄伴が、うるさ型歌手の評判をとるのにさして歳月は必要なかった。次第に、唄伴のスペシャリストという田尾の評判が高まるにつれ、当時大物といわれる歌手が、こぞって自分のバンドのバックやソロイストに田尾を指名した。数年後には、唄伴なら田尾という業界での評判を磐石にしたのだ。


 この話には続きがあって、それからさらに2、3年後だったであろうか、件の老演歌歌手が田尾の評判を聞きつけて一週間ほどのキャバレーでの仕事を依頼して来たのだ。 

 仕事に入ってもその老歌手は、田尾の顔をすっかり忘れていたようだったが、田尾の方は昔こっぴどく叱責されたことを敢えて口にせず、そのまま仕事をこなした。

 老歌手はいつもそうするように、契約を終えたバンドのメンバー一人ひとりに黙ってギャラの入った封筒を渡したが、田尾に対してはぶっきらぼうに、


 「あんたは歌詞が分かっている。今度のステージではずーっと気持ち良く唄えた。評判どおりギャラが高いだけのことはあるな。今度また頼むよ」と言いながら、少なからぬ札束が入った封筒を差し出した。


 軽く手を振りながら、キャバレーを後にする老歌手の背中は、前回会ったときよりもさらに小さく見えた。


 「こうして唄伴で飯が喰えるようになったのも、貴方のお陰です。本当にありがとうございました」と呟きながら、田尾は姿が見えなくなるまで見送った。



第13章   ジャズ・リジェンド フレディ



 ジャッキーからの、思いもよらないヨーロッパツアーへの誘いの興奮が覚めやらぬ中、遂に田尾バンドの2日目のステージの日がやってきた。

この日をもって、バード20周年記念イベントが、全て終了するのだ。ただし番外編として、小宮山が熱望するフレディ一座の来県が予定されているのだが、こればかりは、彼等の顔を直接拝むまでは確信が持てないでいた。

 

 驚いたことに、バードの客足は、前夜に比べ衰えるどころか、店の前の通りに列をなすほどの人が押し寄せ、前日をはるかに上回るほどだった。

 田尾の、前夜のステージのパフォーマンスが、一夜にして北陸中のジャズファンに口コミで伝わったせいか、常連客以外の、普段見慣れない顔が目についた。全てが田尾の愛器、エンジェルのビッグサウンドを目当てに、バードに詰めかけたのだ。

 小宮山は、急遽夜のステージを入替え制に変更した。苦労してチケットを手に入れた客たちの多くは、これでは約束が違うと言いクレームをつけたが、歩道に溢れんばかりに開店を並んで待っているファンたち全員に、田尾のステージを聴かせてやりたかったのだ。

 お陰で、全てのチケットを払い戻す羽目になったが、それはそれで、バードの記念イベントの良い思い出として、自分の心に残しておきたいと、腹をくくった。


 (儲けるだけが能じゃない。バードのファンを大事にすることが俺の恩返しなのだ)

 

 小宮山は、多少の損は被っても、バードが金沢の地でしっかり根付き、支持されることのほうがもっと重要で、嬉しいのだ。


 (損はいつでも取り返せる。それよりもいまは、田尾のサウンドを聴きたがっているファンの期待に応えることが、俺の仕事なのだ)

 

 元銀行マンらしからぬ割きりができるのも、子供たちのジャズ教育に残り少ない人生を賭けようと決心したことと、あながち無関係ではなかった。

 田尾は、そうした小宮山の男気を肌で感じながら、わが身の残された人生に、一筋の光明を見いだした思いがした。


(小宮山さんも変った。よし、今夜はなんとしてもその気持ちに応

える。気合を入れないとな) 

 

 バンドは、のっけからフルスロットルで爆走するポルシェのように、躍動した。ボスの愛器エンジェルが、いつもにない、咆哮と形容するに相応しい荒々しいサウンドを放出していることに、サイド面たちは一様に気圧された風であった。

 田尾は、いつもはプレイしないトリッキーなフレーズを次から次と客席に浴びせかけながら、バンドをぐいぐい引っ張った。

 客席のファンたちは、レコードで聴く田尾のいつものウォームサウンドとは違って、まるでコルトレーン張りのシーツ・オブ・サウンドを髣髴させるソロに圧倒された。 

 ついぞ、田尾は自分のソロをバンドの誰にも渡さないまま、最初のステージを終えた。


(今夜のエンジェルは、これまでにないほど良く鳴る。怖いほどだ)


 入れ替えのあとの最終ステージでも、田尾のプレイはますます勢いがついて、手がつけられないほどだった。バンドのヤングライオンたちは、ボスの狂気にも似たプレイ振りに、ただただついていくのが精一杯だった。

 

 田尾が、ソロをピアノのロベルトに引き継いで、何気なく客席のほうに目を遣ると、思いもよらない顔が目に飛び込んできた。

 そこには伝説のトランペッター、フレディを始めとして、ニューヨークの楽器店の2階のスタジオでバトルを交わした、あのジミーの人懐こい顔があるではないか。


 (そうか、しまった。演奏に夢中になって、フレディ一行を迎えに行くのをすっかり忘れていた)

 

 身体中から冷や汗が流れるほどに動転した。自分がジミーに約束した、金沢駅での出迎えをすっかり失念していたのだ。

 しかし、あまりにも演奏に没頭する田尾の様子を察した小宮山が、あえて一人で、フレディ一行を出迎えていたのだ。駅では、約束どおり京都での公演を終え、息つく暇もなく深夜の特急電車に飛び乗った一座が、元気良く改札口にその姿を現した。

 ジャズの興行ではよくあるドタキャンを直前まで心配していた小宮山は、フレディの顔を確認すると、安堵感からか、自分の身体から張り詰めていたものが解けてゆくのを自覚した。


 (これが、あの伝説的なミュージシャンのフレディなのか )

 

 駅に、田尾が出迎えに来ていないことに気づいたフレディは、小宮山との挨拶もそこそこに、


 「サトシは、誰かいい女と飲んでいるのか」と、さっそく軽いジョークを見舞った。

 「サトシ、いや田尾は、いま僕の店でブローしている真っ最中なのです。興奮した客がアンコールを連発して、なかなか帰ろうとしないので、残念ながら迎えに来れなくなってしまったんです。本当に申し訳ないと言っていました」と、小宮山が庇った。

 

 「そうか。ミスター小宮山、あんたの店はこの近くなのか? それなら、これからちょっとサトシのバンドのプレイぶりを覗いてみようか。よかったら案内してくれないか」と、フレディがちょっと興味ありそうな表情を見せた。

 

 小宮山は、これ幸いとばかりに 

 「そうしてもらえれば、田尾も喜びますよ。是非お願いします」と、御大の気が変らないうちに、全員をタクシーに押し込んだ。


  フレディ一行が、旅の疲れも見せずにバードに入ったのは、田尾が、客からの3度目のアンコールを受けて熱演している最中だった。

 店内からは、何ともいえないざわめきが起きた。噂の、ジャズ・リジェンドが、本当にバードにやってきたのだ。


 「ひょっとして、あのフレディなのか」

 

 ある者は、半信半疑の表情を浮べながら、声をひそめて隣の客たちに確かめるように囁いた。

 そうとは知らない田尾は、乗りに乗ったプレイぶりを客たちに見せつけ、圧倒していたのだ。最終日に限り、腕に覚えのあるものは、ステージに上がってもよいと、事前にアナウンスしていたにもかかわらず、ついぞ、そうした勇気のある者は出て来なかった。


 田尾のステージを暫くのあいだ様子見していたジミーが、愛器アメリカンセルマー・マークシックスのヴィンテージ・アルトサックスを手に、ステージに上がった。


 「ハイ、サトシ。相変わらずビッグサウンドを出しているね。ボーカリストのジミーを覚えているかい? 今夜、仕事があったら嬉しいんだが」と、ニューヨークのジャズクラブ・ヴィレッジの楽屋で交わしたジョークに引っ掛け、軽口を飛ばした。

 

 突然のジミーの出現に驚いた田尾は、思わずソロを中断して、ピアノのロベルトに繋いだ。

「ヘイ ジミー元気かい。久しぶりだね。ニューヨークの楽器店の店主・ビルのスタジオでは、ストレート・ノー・チェイサーを演ったが、今夜は何にする?」

と、さっそく田尾が迫った。

 

 今回は、彼の得意な曲を演奏させたいと思ったのだ。 

 「あのときのセッションの後、確かサトシは僕のバラッドを聴きたいと言っていたね。それじゃ、日本の皆さんが大好きな枯葉を、バラッド風に聴かせるというのはどうかな」と、ジミーが余裕のある表情を浮べて提案した。


 「ジミー、グッドチョイスだ」と、待っていましたばかりの表情で、田尾が応えた。

 曲さえ決まれば、この連中の反応は速い。

 ジミーが、誰に言われるまでもなく、オットーリンクのヴィンテージ・マウスピースを口に銜え、一人ソロをとり始めた。

 それにつられて、バックのメンバーが、ジミーの後を慎重に追った。アメリカンセルマーのヴィンテージアルトから噴出する音は、ニューヨークのスタジオで聴いたとき同様、艶があるビッグサウンドだった。


 (流石に一流のサウンドだ。惚れ惚れするほど、ファットで歯切れの良い音をしている)


 ジミーは、最初、おとなしく枯葉のテーマをバラッド風に、情感たっぷりに吹いていたが、3コーラス目に入るや否や、ときおり倍テンポのリズムにスウィッチしながら、トリッキーな音を紡ぎだした。

 いままで聴いたことがないような枯葉の解釈に、客たちの全てが度肝を抜かれたように、あんぐりとした表情を見せた。


 (バラッドでも、しっかりとしたリズム感と構成力をベースに、名曲の枯葉をものの見事に仕上げている。物凄い才能だ)

 

 田尾は、ジミーのソロにカットインすることを躊躇った。自分自身が、一人の聴衆になって聴き惚れていた。

 ステージ下のテーブル席では、御大のフレディが何ともいえない温和な表情を浮べながら、ニューヨークでも売れっ子のジミーのプレイぶりを見守っていた。


 (ジミーの奴、俺のバンドでは決して見せないプレイをしてリラックスしている。結構やるもんだ) 


 結局、その夜のステージは、ジミーのバード初登場という形で幕を閉じることになった。

 バードに居合わせた客たちは、思いもかけない、ニューヨークから来た掛け値なしの一流ミュージシャンのプレイに狂喜した。

 田尾の企画どおり、噂のジャズ・リジェンドが、ヤングライオンたちを引き連れて、本当にバードに遊びに来てくれたのだ。


(本当にフレディたちが俺の店に来てくれた。夢のようだ。これでバードの20周年イベントは大成功だ。哲に感謝しなくては)


 これで、チケットの払い戻しというハプニングがあったにせよ、バードと小宮山の株が一気に上昇したのは間違いなかった。

 小宮山は、フレディ一座が去った後、先ほどまでの喧騒が嘘のように消え去り、しっとりとした静寂に包まれたお気に入りのカウンターで向かい合いながら、新妻の直美と祝杯を交わした。 


 「俺は、本当に幸せ者だよ」

 

 「このイベントが、貴方の次の目標に向かってのスタートになるのね」

 直美が、小宮山の心情を見透かしたように囁いた。 


 翌日、田尾と小宮山は、フレディと彼のヤングライオンたちを兼六園や忍者寺など、定番の観光コースに案内した。夕方には約束どおり、フレディが金沢に足を伸ばすことの条件とした、東の茶屋街に繰り出した。

 フレディは、初めての芸者ハウスに興味津々で、観るもの、聴くもの、触れるもの、食べるもの、飲むもの全てにファイ(何故)を繰り返し、通訳の田尾を辟易させた。

 片言の英語を話す、小菊という売れっ子の芸妓がフレディの相手を務め、評判の地酒をこれでもかと勧めたこともあって、既に80の齢をとうに過ぎた大御所は、バンドのメンバーがこれまで見たこともないような満面の笑みを隠すこともなく、卑猥なスラングを恥ずかしげもなく連発し、日本の伝統文化を体験する喜びに浸った。

 

 宴もたけなわ、小菊が日本舞踊を披露する段になると、興奮したフレディが、自ら和太鼓を打ち鳴らし、誰もが驚くほど興に乗った。

 スポンサーの小宮山は、この盛り上がった国際交流をそうそうに打ち切って、フレディ一座を、なんとか客たちが今か今かと待つバードに連れ戻したかったのだが、彼等の尋常とは思えないほどのはしゃぎぶりを見るにつけ、この調子ではとうてい無理だと覚悟した。

 ところがフレディが、仲良くなった芸妓の小菊が熱心なジャズファンであるばかりか、自分のCDを数枚持っていて今でも愛聴している、と聞き及ぶと、


 「そうか、ミス小菊が俺のファンだとは知らなかった。本当に嬉しいね」と、バンドの若い衆にはっきりと聞こえるような大きな声で、見るからに得意気に言った。


 「若い貴方は、まだ俺の生のステージを聴いたことがないだろう。それじゃ、今からバードに一緒に行こう。俺のバンドの活きの良いプレイを聴かせてあげよう。勿論、俺のプレイが一番だがな」と、小菊の手を引いた。


 この千載一遇のチャンスを、小宮山が逃すはずもなかった。

冷酒でほろ酔い加減のフレディと、既に身体がふらつき、足元も心もとないヤングライオンたちを、やっとの思いで車に押し込んだ。勿論、フレディの横には、芸妓の小菊が着替えもせずに寄り添い、お気に入りの曲ををリクエストして、フレディを喜ばせていた。 

 夜遅くバードで待機していた客たちは、連日のフレディ一座の登場に狂喜した。中には、昨夜の噂を聴きつけた北陸以外からの熱心なジャズファンも駆けつけていて、今か今かと一座を待ち構えていた。

 芸者ハウスでの国際交流で英気を取り戻したフレディ一座の面々は、すっかりリラックスした表情で、ステージ前に溢れた客たちと卑猥なジョークを交わしながら、演奏を始めた。

 フレディのカウントでスタートした演奏は、勿論、彼が1950年代に当時のジャズジャイアントたちとさんざんプレイしたスタンタード曲が中心だった。

 それが終わるとジャズ・リジェンドは、おもむろにステージのマイクを握り、


 「次の曲は、ここにいる本当に素敵な、ミス小菊に捧げる」と、言って、<ザ・マン・アイ・ラブ>という素晴らしいバラッドを、トランペットのソロだけで、たっぷりとした情感を醸し出しながら歌い上げた。

 まさにフレディの独壇場だった。

 

 いつもは陽気で物怖じしないジミーも、流石に場所柄をわきまえたのか、うつむきながらステージの隅でじっとボスの演奏に耳を傾けて、決してソロをとるような無粋な真似はしなかった。

 不思議なことに、演奏後に巻き起こる拍手はなかった。客たちがそれを忘れるほどの、名演だったからだ。ステージの袖で聴いていた田尾も、思わず、フレディの至芸の技に気圧された様子であった。


 演奏を終えたフレディが再びマイクを握り、小菊に向かって

 「俺がもう少し若かったら、そして、この曲の歌詞がミス小菊の気持ちを表しているのなら、貴方をアメリカに連れて帰りたい」と多少ろれつが回らない口で、ジョークだか本気だかわからないような洒落たメッセージを送り、ウィンクした。

 

 最後に、田尾を指名したフレディは、ステージに上がるように言い、メンバーには、ベニー・ゴルソン作曲のブルースマーチを指示した。

 それからほとんど小一時間ほどは、このジャズの定番曲のセッションで、バードの店内は湧きに湧いた。田尾も、愛器エンジェルをブローさせ、ジミーのレポートがガセネタではないことをフレディの頭にしっかりと染み込ませた。


 (伝説の、フレディの生のプレイを聴くことができた今夜のお客さんは、本当に幸せだ。一生の思い出になったかもしれないな)

 

 小宮山は、いつものカウンター越しから、深夜に関らず溢れんばかりに詰め掛けた客たちの満足そうな表情を窺いながら、心底そう思った。

 

 翌日、小松空港でフレディ一座を見送った田尾と小宮山に、フレディは


 「ヘイ、ガイズ。俺もあと何年プレイできるか判らないが、日本のギグがあれば、必ず金沢に足を伸ばしてミス小菊に会いに来るよ。そのときには、バードのステージに立つから、きちっと準備しておいてくれよ」と、本当に名残惜しそうに言い、小宮山にはそばに付き添っていた妻の直美に目を遣りながら、


 「美人の奥さんを、大事にしろよ」と、ウィンクした。


 (あながち、フレディのリップサービスでもなさそうだ)

 

 田尾は、当初の予定を変更して金沢に立ち寄ってくれたことに、心から礼を言い、近々、大物歌手のジャッキーに同行して、ヨーロッパツアーに出ることを告げ、ツアー終了後に予定されているヴィレッジでの再会を約束した。


 「サトシ、ここにいるジミーをクビにするから、お前にその気があるなら、いつでも俺のバンドに来てくれ。待っているぜ」

 

 ニヤつくジミーを横目に、フレディはいつものジョークを飛ばし、成田行きのディパーチャ・ゲートに向かった。

 


第14章   ヨーロッパ・ツアー 



 ジャッキーとの約束の2週間が迫っていた。田尾は約一ヶ月間に渡るヨーロッパツアーに参加するため、自分のレギュラーギグとワンショットのスタジオセッションの穴埋めを全て手配するために忙殺された。

 ツアーに同行させるトランペッターのスコット以外のバンドのメンバーに対しては、これを機にバンドを去りたければあえて引き止めないと伝えた。日本人のベーシスト以外、ドラムスのトミーもピアニストのロベルトも、ボスがツアーから帰るのを待つと言った。 

 田尾は、留守中の1ケ月分のギャラを払おうとしても受け取らなかった二人に対しては、ギャラの良いスタジオセッションの仕事を、友人のプロデューサーに頼み込んであてがった。

 

 田尾が、ジャッキーのマネージャーのトムに、ニューヨーク行きのフライトチケットを送るようにメールしたのは、それから2日後のことだった。トムが大喜びしたのは言うまでもなかった。

返事のメールには、


 《ジャッキーは、貴方を恋人のように待ち焦がれている。すぐにニューヨークに来て、バンドメンバーの人選にかかって欲しい》とだけ書かれていた。

 

 2日後、エアー便が届けられた。

 田尾は、ファーストクラスのチケットを確認しながら、


 (これからが、俺のセカンドステージの本当の始まりなのだ )と、覚悟を決めた。

 翌日、ニューヨーク・ガガーリア国際空港に向け飛び立った田尾とスコットは、ロスアンジェルス経由ニューヨーク行きの深夜便の機中で、それぞれの思惑を胸に深い眠りについた。 

 田尾には、この段階でも少し気にかかる点があった。それは、今回のツアーで重要な役割を期待しているトランペッターのスコットが、はたしてジャッキーのめがねにかなうかどうかということだった。

 これをクリアーしなければ、田尾は単独でニューヨークの猛獣たちをアメと鞭で飼い馴らさなければならないのだ。何が何でもジャッキーの了解を取り付ける必要があるのだ。

 もちろん成田国際空港のボーディングブリッジに入る前には、マネージャーのトムに対して、バンドメンバーの人選については田尾自身が直接オーディションすること、そして日本から腕の立つアメリカ人トランペッターを帯同する旨をメールで伝えてはいたが、ジャッキーがスコットを採用するかどうかは別問題だった。全ての決定権はボスであるジャッキーがもっており、彼女の意向はミュージカルディレクターと雖も従わざるを得ないことは、田尾自身、十分わきまえていた。

 機中、田尾は、マネージャーのトムが指定した約50曲のレパートリーのリストを、もう一度念入りにチェックした。トムからは、この中から本番のステージ用として30曲、アンコール曲として五曲程度ピックアップするように依頼されていたのだ。

 日本を発つ前に、それらの曲全てにナインピース(9人編成)用のアレンジ譜を書き上げていた田尾は、本当に苦労した分、よく書けているとの自負はあったものの、バンドの編成には苦労した。

 ピアノ、ドラム、ベースのリズム隊に加え、管楽器ではトランペットとトロンボーンを各一本、リード楽器ではアルト、テナー、バリトンの3本のサックスで編成することにしていたのだが、残る一本の枠をどの楽器に振り分けるか、相当な時間を費やして悩んだ。

 最初はオーソドックスにギターを入れるつもりだったが、バッキングの旨いピアニストがいれば十分で、並のギタリストを加えれば却ってピアノとギターのコードワークがバッティングする。さんざん思案した挙句、管楽器のボイシングを厚くするためにホルンを入れることにしたのだ。

 ジャズ畑の連中で、難しいホルンを吹きこなすミュージシャンはニューヨークといえどもそうはいないはずだから、クラシックの連中から探す必要があると田尾は考えていた。 その点、今回帯同しているスコットはバークリー音楽院で学んでいたので、腕利きのホルン奏者を探してくれるだろうという期待もあった。

 

 田尾の少し大きめのコーチのショルダーバッグには、このホルンを入れたナインピース用の譜面が約40曲入っていた。出発前の2週間で、半分徹夜しながら念には念を入れて書き上げたこれらのアレンジ譜を、はたしてジャッキーが気に入ってくれるかどうか、田尾は期待と不安を抱きながらも長いフライトを終え、目指す空港に降り立った。


 ガカーリア国際空港にはジャッキーとマネージャーのトムが出迎えに来ていた。

 田尾は、さっそく帯同していたトランペッターのスコットを二人に紹介したが、二人とも既に金沢のバードでのプレイぶりを聴いていた安心感からか、最初から打ち解けた様子で田尾を安心させた。イエローキャブはいつものようにマンハッタンにかかるブルックリン橋を渡って、市内ダウンタウンのある貸しスタジオに到着した。

 ジャッキーは、さっそくホルンを入れたナインピース用のアレンジ譜について鋭い質問を浴びせたきた。いわく、初めてこんな編成でバンドを組むが、はたしてうまくいくだろうか。

 これに対し田尾は、このアイデアは実はギル・エバンスとマイルス・デービスのコラボレーションで有名な「クールの誕生」からヒントを得たことを正直に話した。

 マイルスのマイルドなトーン(実は、田尾としてはちょっと洒落たユーモアのつもりだったのだが)とホルン、トロンボーンの重なり合う音が素晴らしいサウンドを醸し出した例を挙げ、ジャッキーの太くて少し低めの声を引き立たせるには、バックサウンドにはホルンがどうしても必要なのだと、心配するボスを丁寧に説得した。

 ジャッキーはピアノが旨く、駆け出しの頃は弾き語りでの仕事が多かったというだけあって、アレンジ譜を読んだだけで全体のサウンドをイメージすることができたのだが、田尾の説明を聞いてなお、半信半疑の表情をくずさなかった。結局それぞれの思惑を胸にオーディション用に貸しきったスタジオに入った。

 そこには、田尾とスコットを除く7名分のツアー参加チケットを得ようと、30名に近いのプロミュージシャンたちが、それぞれウォーミングアップを終えて待機していた。


 (ヒア・ウィ・ゴー。ここからが本当の仕事だ)

 

 田尾は身震いするほど緊張した。

 

 今回のオーディションでは、参加したミュージシャンに2曲ずつ演奏してもらいその腕前を探った。彼らが、高度なテクニックを要するアレンジ譜を、初見でどの程度読みこなすのか、またアンサンブルでは、譜面が要求するサウンドを正確に演奏しているのかなどを、瞬時に判断しなければならないのだ。

 時折、ジャッキーもマイクを握り、本番さながらにバンドとのタイミングを計るように注意深く歌った。午後3時ごろにショートブレイクに入ると同時に、ジャッキーとマネージャーのトム、そして田尾が、1次のふるい落としをかけ半数に絞った。

 次に、残ったメンバーには再度同じような要領で別の曲を演奏させ、最後のふるい落としにかかった。流石にこの真剣勝負まで残った連中の腕前は世界中どこでプレイしても十分通用するほど素晴らしいものであった。

 田尾はその中から、かつて自分がそうであったように、歌詞が本当に頭に入っていると十分思わせるほどの演奏を見せた、つまり唄伴に適した、どちらかといえば控えめで上質なサウンドを出していた5名をメモし、モニタールームでオーディションの一部始終を見ていたボスのジャッキーに渡した。

 

 ドラマーを除けば、田尾とジャッキーの意見は全く同じだった。ジャッキーは、どちらかといえばメリハリを利かせるタイプのドラマーが好みだったし、これまでの彼女のバンドでもその種のタイプのプレイヤーを雇っていたのだ。

 一方、田尾のチョイスはそれとは違っていた。ジャッキーを生かすことのできる、控えめで、馬力よりもドラミングセンスが良いタイプを雇うべきだと主張した。

 双方の意見がかみ合わないまま、時間がどんどん過ぎようとしていた。

田尾は、切り札として、二人のドラマーに対してブラッシュワークを要求する譜面を渡し演奏させた。その微妙なテクニックの違いは、アマチュが両方の演奏を直接聴いたとしても恐らく判別できないほどのものであったが、ジャッキーと田尾を納得させるには十分だった。

 ニューヨークの厳しいショービジネスの世界で生き抜いてきたジャッキーの耳は、その微妙なテイストの違いを聞き逃さなかった。

二人のドラマーの延長戦が終わると、ミュージックディレクターの田尾を呼んで、


 「ミスター田尾。やはり貴方の目は、いや耳というべきかしら、確かね。ミュージカルディレクター推薦のドラマーに参加してもらいましょ」と、40台半ばの黒人のドラマーに目をやりながら、耳元で呟いた。

 

 そして、最初イメージが湧かず心配していたバンドのサウンドについても、ホルンを含むクールなサウンドがいたく気に入った様子で、


 「ボサノバリズムの曲では、まるでかつてCTIレーベルで一躍名を上げたクリード・テイラーのような気持ちの良いアレンジが光っていたわ。唄っていて、本当に気分が乗ってくる素敵なハーモニーがしていた。なんと言うか、日本人の繊細さが随所に出てくるようで、とっても感心したわ」


 ジャッキーのこのコメントが、全てを物語っていた。

 同時に、田尾はこのバンドで、ヨーロッパツアーに向かう準備が全て整ったことを確信した。スタジオに入って、やがて夜空が白々と明かるくなるほどの時間が過ぎようとしていた。


 (全くニューヨークのミュージックビジネスはタフだ)


 田尾は、初日から厳しい現実を思い知った。

 

 一方で、ジャッキーは、プロモーターとの今回のヨーロッパツアーに関する契約にサインした直後から、フィジカルとボイスのトレーニングを開始し、今度の仕事に対する並々ならぬ決意を周囲に見せ付けていた。

 何よりも、若い頃と比べて声に張りがなくなっていたことは自分自身認めざるを得なかったし、さらに今回のツアーのように長丁場を乗り切るにはそれに耐えうる体力をつけなければならないことを、長年の経験で十分すぎるほど分かっていたからだ。

 マネージャーのトムは、ジャッキーのために評判の良い、それはニューヨークではギャラの高いということと同じ意味なのだが、トレーナーがいるフィットネスジムに彼女の体力づくりを依頼した。

 目が飛び出るような高額のレッスン料は、もしジャッキーがヨーロッパツアーの後に、ヴィレッジでのレコーディング契約にこぎつければ、十分に元が取れると踏んでいたからである。

 さらに、ジャッキーには酒をやめるように申し渡した。今まで何度も断酒に失敗し、男に溺れた前科のある彼女にとっては非常にハードルの高い注文だが、今回はトムが拍子抜けするほど素直に従った。日本式で言えば、「不退転の決意」といったところなのだろうか。ジャッキーにとって今回のツアーは、それほどまでに自分にとって最後のチャンスだということが判っていたのだ。


 田尾は、オーディションの翌日からツアー直前まで、毎日バンドのリハーサルに没頭した。この作業を通して、それぞれのプレイヤーの、真の力量ばかりでなく、一人ひとりの性格を見抜くことに集中しなければならなかったからだ。 

 スタッフを含め、10名以上のひと癖もふた癖もある連中が、これから約一ヶ月間、演奏し、飲み喰いしながら寝起きをともにするのだ。

 道中トラブルがないと考えるのは、余りにも能天気なのだ。これまでの経験から考えても、ツアーの中だるみによるバンドマン同士の諍いが出てくるのは、たいてい日程の半分を消化する頃だ。酒のことだったり、女のことだったり、ギャラのことだったりと、いろいろだ。

 

 特によく目にするのは、コンサートでの入りが良かった場合に、必ずギャラの上乗せを要求する者が出てくることだ。これを押さえるのはマネージャーのトムの仕事だが、余りこの問題でギクシャクしたくない。そうかといって契約どおりの金しか払わないと突っぱれば、やはりバンド全体の雰囲気がまずくなるのだ。

それよりも何よりも田尾にとって一番厄介なのはクスリだ。

 たいていどこの国でも、楽屋にはクスリの売人と思しき胡散臭い輩が出入りする。端から相手にしなければそれまでなのだが、昔ヤクをやってその味を堪能した者は必ずといっていいほどその誘惑に負ける。そういう例を田尾は嫌というほど聞いてきたし、実際に目にもしてきた。

 マネージャーのトムは、バンドマン全員に対して、もしクスリに手を出したら即ツアーからはずすと書いた契約書に全員サインさせたのだが、筋金入りのジャンキーにはそんな紙切れなど何の保証にもならないことなど、この業界では常識なのだ。

 心配の種は尽きないが、ともかく田尾はこの二週間で、でき得る限りの準備をしてきたつもりだった。

 ボスのジャッキーもスポーツジムのトレーナーによる厳しいしごきに耐え、周囲が驚くほど身体を絞り、肌にも張りとツヤが増してきた。さらに毎日、午前中のボイストレーニングの効果も徐々にではあるが表れてきて、バンドのクールなサウンドに艶のある声が乗るようになってきた。

 

 そして最初の田尾の目論見どおり、帯同させたトランペッターのスコットは、作戦参謀よろしく、日本でのボスである田尾のディレクションを効率よく、また敬意を払いつつメンバー全員に浸透するよう尽力した。それもさり気なく。

 ミュージカルディレクターの田尾にとっても、貴重な経験を積み重ねる日々だった。特にアンサンブルでは、予想通り、譜面の読み方やこなし方に、日本人とネイティブの彼らとは微妙なタイム感覚のずれがあった。それは生まれ持ったフィーリングの差であり、口ではなかなか説明が難しい領域で、いわばDNAのようなものだった。

 毎日のリハーサルでは、こうした細かい作業を一つ一つクリアしながら、メンバー相互の微妙なギャップを埋めていった。

 田尾が精魂こめて仕上げた譜面には、ソロパートをきっちり書き込んでいたのだが、これには各プレイヤーからクレームが出た。田尾としては、演奏の質を落とさないためにはプレイヤー個人の日ごとの調子に左右されるよりも、きちんとしたソロパート譜を演奏してもらうほうが良いと考えたからだ。 

 しかし厳しいオーディションを潜り抜けてきた腕利きの連中にとって、ソロパートは自分の実力をアピールする絶好の機会でもあり、楽しみでもあるのだ。毎日のリハーサルでもダレたソロをとるものは皆無だった。結局、田尾はソロパートに関しては、各自のアイデアを尊重するとしたが、少しでも気を抜いた場合には、元に戻すことを条件にOKを出した。

 

 一方、田尾は、自身のプレイヤーとしての変化にも気づき始めた。連日の厳しいリハーサルに触発されたのか、これまでにない才能が自分にもあることを発見した。

 ジャッキーのバックで、ソロをとるときの間の取り方を体得できたのは、田尾にとって大きな財産となった。ジャッキーの本物のスキャットを注意深く聴くと、時折コード進行にない新鮮な音を拾っていることに気づいた。まるでバックと一緒にディミニッシュ・コード(減音和音)を思わせるようなハーモニーを響かせることがあり、彼女の耳の良さに改めて驚かされた。

 ジャッキー自身が、腕の良いピアノプレイヤーだという事からすれば、こんな高度なテクニックを駆使することは驚くほどでもないというべきところだが、ボーカリストの域を超えて、完全にインストゥルメントプレイヤーのアプローチ取り入れていて新鮮だった。

 ジャッキーの実力の片鱗を垣間見て、田尾は自分がソロをとる際に、彼女の独特なディクション(言い回し)を取り入れることにより、自分のテクニックをより多彩にすることができたのだ。まるで自分のプレイスタイルが一皮向けたように感じられ、今回の思いかげない収穫に感謝した。

 そしてリハーサルを通して、エンジェルの音が日に日に良くなっていることに自身も気がついていた。最初メンバーとの手合わせの頃は、このアジアからやってきたミュージカルディレクターに対し半身に構える者もいたが、お互いの音を探り合っているうちに、エンジエルの音色、つまりボイスとも言うべきそのサウンドに、誰もが一目置くようになったのだ。


 一般にプロの世界では、ジャズであろうとクラシックであろうと、楽器奏者の場合、一流といわれる連中の腕前はおおむね均衡しているものなのだ。

 結局最後にものを言うのは、そのプレイヤーが出す音の良し悪し、つまりサウンドの質で決まるのだ。一見、いや一聴して誰それと分かるサウンドをもっていることが一流プレイヤーの証といっても過言ではない。

 エンジェルの音は、徐々にメンバー全員の心を捉えていった。それはとりもなおさず、ニューヨークの凄腕のメンバーから、田尾が一流であるという評価を得たことを意味するのだ。

 2週間ほどの、ニューヨークでの充実したリハーサルをこなしたバンドは、一路ヨーロッパに向かった。

 出発前には、田尾を含め、バンドマン全員に対してギャラの前払いがあった。

全員が小切手の入った黄色の封筒を待ちきれないように開け、額を確認すると一様に表情を崩した。もっとも、誰が幾らもらっているのかは、ジャッキーとマネージャー以外は知る由もない。ミュージカルディレクターの田尾にしても、ことメンバーのギャラに関しては知らされていないのだ。田尾の封筒には、契約どおりの2万ドルの額面の小切手が入っていた。

 機中の田尾は、ワイングラスを片手にニューヨーク入りしてからのこれまでの夢のような時間を振り返り、感無量の面持ちだった。高額のギャラを手にしたこともそうだが、何よりもボスのジャッキーをほぼ満足させる仕事をこなしたことが嬉しかったし、自信にもなった。


 ジャッキーのバンドがニューヨークを発つ前、小宮山は様子伺いもかねて電話を入れた。田尾の背中を押した手前、立派にやってのけるだろうとの確信があったものの、それでも海外で孤軍奮闘している、還暦前の後輩を慮ったのだ。

 モバイルを手に、田尾はジャッキーとのツアーに参加して本当に良かったと、リハーサルでの状況なども織り交ぜながらしみじみと心境を語った。そして先輩のアドバイスに間違いはなかったと、礼を言った。


 小宮山は、いつものやや辛口の口調で

 「礼を言うなら、今のメンバーを連れてバードに連れてきてから言ってくれないか」と、冗談とも本音ともつかない話を持ち出し、そして多少弾んだ声で、


 「できることならバードの来年のイベントで一週間のギグを受けてくれれば嬉しいのだが」と無理を承知で、あつかましく言った。


 ひと呼吸おいて、小宮山はバードの20周年記念イベントの際に紹介した真理子との同棲を解消して、正式に籍に入れたことを恥ずかしそうに告白した。

 田尾は小宮山のこの言葉に驚いたが、あの和服姿がよく似合いそうな金沢美人となら旨くやっていけそうな予感がした。


 「小宮山さん、サプライズだね。本当におめでとうございます。このあいだ店で会ったときに、小宮山さんの様子がいつもと違っていたので、なんとなく怪しいなと思っていたんですよ。やっぱり僕の勘は捨てたモンじゃない。ニューヨークから戻ったら、自分のレギュラーバンドの連中を引き連れてお祝いに駆けつけますよ。勿論エンジェルも一緒にね」と返し、小宮山のにやけた表情を想像しつつ電話を切った。


 一行は、ロンドンのヒースロー空港を経由して北ヨーロッパでは最大のコペンハーゲン国際空港に到着した。長旅の疲れを見せながらも、ジャッキー一座はホテルで軽くシャワーを浴びただけのショート・ブレイクをとったのみで、せきたてられるようにチボリ公園に隣接したジャズクラブに入った。

 初日早々のハードな日程に、バンドマンからはブーイングの声が漏れたが、マネージャーのトムは何食わぬ顔で、ツアーではこれが普通だといわんばかりに、それらの声を平然と無視した。

 心配した初日のステージのチケットは、予想以上の好調さでソールドアウトし、ジャッキーとトムを安心させた。ヨーロッパでのジャズの人気は今でも非常に高い。ある意味、アメリカよりもポピュラーなのだ。


 マイルスがサウンドトラックを担当したフランス映画「死刑台のエレベーター」がヒットしたことを見ても分かるとおり、1950年代以降、アメリカの有名なジャズメンたちが頻繁にヨーロッパ、特にパリやデンマーク、ドイツなどに渡り、演奏活動を続けてきた歴史があるからなのだ。

 最近の映画では、アメリカ人のサックス奏者、ティルに扮したデクスター・ゴードンが出演したことで話題となった<ラウンド・ミッドナイト>が有名だ。

 繰り返し観たこの映画をとおして、田尾は当時の誰でも知っている超一流のジャズマンたちが、相応の待遇を受けず、まるで使い捨ての商品のように軽く扱われていたという厳しい現実を始めて知り、ショックを受けた。

 特に今夜演奏するコペンハーゲンでは、今では店仕舞いした<カフェ・モンマルトル>でのデクスターの名演が、今でも年季の入ったジャズファンの間で噂されるほど有名だった。今、その当時のデクスターと同じような体験をしているのだと思うと、田尾は柄にもなく緊張した。


 (さあ、いよいよだ)


 自然と、体中の力が漲ってくるのを感じた。


 田尾は、今回のヨーロッパツアーでジャッキーを引き立たせることに全精力を尽くそうと考えていた。それが自分をツアーに誘ってくれた彼女に対し、礼を尽くすことだと思っていたからだ。

 ステージというのはある意味ショーだから、華やかさと楽しさがなければいけないことを、これまでの長い経験から熟知していた。

ステージの幕明けでは、まず最初が肝心だ。田尾は冒頭からジャッキーをステージに上がらせないようにした。最初の曲は、ボーカルなしのインストゥルメントだけの<コンファメーション>に決めていた。ビーバップジャズの神様、チャーリー・パーカーが得意としていることで有名なこの曲は、ヨーロッパの熱心なジャズファンなら誰でも知っている、定番のジャズチューンなのだ。

 

 この曲を演るに際しては、さらに手の込んだ仕掛けをまぶしていた。

 まずオープニングでは、ベーシストが頭からランニングのベースソロを一コーラス演奏し、次にピアノ、ドラムスを次々とジョイントさせる。

トリオになった段階で田尾のテナーサックスのソロが入って盛り上げるという演出だった。クァルテット全体の演奏を続けながら、クラブの司会者がジャッキーを紹介しステージに呼ぶ。続いてバンドメンの紹介に続きシックなステージ衣装に身を包んだ御大ジャッキーが、スポットライトを浴びて登場するという仕掛けだ。

 この一連の手の込んだセレモニーで、クラブの客たちは一気にステージ上のジャッキーに集中するという按配だ。長年の経験に基づくショーアップのノウハウは、このコペンハーゲンでも十分生かされて、ステージは大いに盛り上がった。

ジャッキーは、アップテンポの曲とスローバラッド、そしてボサノバといったリズムの異なるナンバーを交互に歌うことによって、客たちを惹きつけた。なんといってもショーアップの最大の秘訣は、リズムの変化によるダイナミズムをどう演出するかにかかっているのだ。客が旨い料理をこれでもかと、次から次と出されても飽きてしまうように、何よりも単調さを避ける工夫が大事なのだ。


 ヨーロッパでは、ディナーの始まる時間が遅くて、長い。たいていの場合、ジャズクラブ側は、テーブルチャージのほかワインや旨い料理で売り上げを伸ばすことを考えている。 

 客たちには楽しいステージを提供し、次々と注文を出してもらわなければ困るのだ。この点が食事、アルコールなしのホールコンサートとの大きな違いなのだ。

 つまり、クラブのオーナーにとっては、言葉は悪いが、演奏の質がほどほどならば、店の売り上げを伸ばしてくれる、エンターテイメント性の高いバンドをブッキングしたいのが本音なのだ。

その点、人気ボーカーリストが出演する前売りチケットは、たいていソールドアウトすることが多い。客たちは美味しい食事とワインとお喋りを楽しみ、ジャズに酔いしれることができるなら、少々チケットが高くても財布の紐を緩めるのだ。

 田尾が想定した通り、ジャッキーの初日のステージは大入り満員となった。

 ステージ前では、地元のうるさ型の批評家やマスコミ各紙、雑誌の音楽担当記者たちが大挙して押しかけていた。たいていの記者たちは料理も注文せず、ワイングラスだけを片手にしながら、ジャッキーのステージの幾分高めに設定されたテーブルチャージが妥当かどうか厳しくチェックしていた。彼らは原稿の締め切りがあるせいか、最初のステージが終わるとともに自分の職場に戻るためクラブを後にした。

 翌朝、田尾はホテルのベッドの上で現地の大手新聞のコンサート批評記事を丹念に読み、思わずしてやったりと笑みを浮かべた。

 各紙には、この種の記事としては異例の大きなスペースを割いた批評記事が掲載されていた。しかも、各社ともジャッキーのステージのワンショットが、トップを大きく飾っていた。その記事には、かなり詳細にジャッキーの仕上がりの良さが書き込まれていた。

 なお嬉しいことに、バックバンドの演奏の質が一流で少々高いチケットでも客たちの見返りは十分あるだろうと書かれていた。特に日本人のミュージカルディレクターのテナーサックスソロは、それだけでも金を払って聴きにいく価値がある、と田尾が気恥ずかしくなるほどの好意的な書きぶりだった。


 これまでの仕事を通じて、田尾はマスメディアの力を十分理解していたし、同時にその怖さも承知していた。極端に言えば、『ミュージシャンを殺すには刃物は要らぬ。糞味噌に批評した記事があればよい』といったところなのだ。

 たいして実力もないのにルックスが良いとか、トークが旨いとか、スキャンダラスな噂話を流しているとかの、くだらないゴシップだけでマスメディアに名前を売った者がちやほやされ、しかも大金を手にする時代なのだ。そんな連中は、いうまでもなく数年のうちに、いつの間にか姿を消していくのだが、一部のメディアは次から次へ、その種の手ごろな餌食を探し記事に取り上げ売り上げを伸ばしていくのだ。

 実力のあるミュージシャンが正当な評価を得て、それにふさわしい待遇、つまりギャラを手にすると考えている能天気な駆け出しの連中が、なんとこの業界に多いことか。

 田尾はその長いキャリアの中で、人並みに実力が有ってちょっと舞い上がっている若いミュージシャンを何人も見てきた。

 ジャズはもともとマイナーでスノッブな音楽だけに、少しばかり売れてちやほやされているミュージシャンの中には鼻もちならないタイプが多い。つまり、彼らは自己主張が強い代わりに、世間の一般常識に欠けるきらいがあるのだ。この点は、クラシック音楽の世界でもほとんど同じようなものだが。

 極論すれば、アメリカの黒人たちがたむろする盛り場から生まれたジャズは、所詮、夜に聴くちょっと卑猥な雰囲気を漂わせる音楽なのだ。

 酒と旨い料理という小道具、加えて男と女という役者が必要なのだ。田尾のこうしたビジネス感は、プロになって以来変わる事はなかった。だからこそ、この浮き沈みの激しい業界で、30年近くも生き延びられたのだ。


 田尾は、朝食をとるために、好意的な批評記事が大きく載っている新聞を小脇に挟み、ロビーに隣接した小粋なレストランに降りた。

 そこでは、ジャッキーとマネージャーのトムとの楽しげな会話が弾んでいた。コーヒーだけを手にして彼等のテーブルにジョイントすると、案の定、さっきベッドの上で丹念に読んだ同じ新聞がテーブルの隅に置かれていた。


 ジャッキーとトムはすこぶる機嫌が良かった。ミュージシャンは口では強がりを言っても、たいていはメディアの批評にナーバスになるものなのだ。今回のエスタブリッシュペーパーの高い批評のネタで、二人は盛り上がっていた。ジャッキーにとっては、彼女の全盛期の頃と変わりないパフォーマンスを地元の連中に認めさせたことで、そしてマネージャーのトムにとっては、ツアーのバンドメンたちに支払うギャラが、結果的に安上がりになりそうな予感で満足していた。

 

 それを察した田尾が

 「グッドモーニング レディ&ジェントルマン」と、満面の笑みを浮かべながら挨拶すると、


 「サンキュー ソー マッチ、ミスター ディレクター」

 ボスのジャッキーが間髪をいれず合いの手を入れてきた。

 

 やはりメディアは怖い。でもこの記事のお陰でジャッキーとバンドメン全員が自信を持つことは確かだろうし、ユニットとしてのまとまりもさらに出てくるだろう。ミュージックディレクターの自分も、早々に荷造りをして帰国せずとも良くなったのだ。田尾は、正直なところ安堵した。

 それにしても、自分のなくてはならない愛器となった「エンジェル」こと、アメリカンセルマー・スーパーバランス・アクションを手に入れてからのツキの良さには我ながら驚くとともに、却ってそのことを恐れる気持ちも芽生えてきた。


 (いずれはこのツキも落ちてくる。でもそれまでは十分このツアーを楽しもう)

 田尾の頭は、目の前にあるツアーの成功をさせるという思いで一杯だった。


 2日目、開演前の店内は、初日は空いていたカウンター横の立見席は既に一杯で、明らかにクラブの客足が前日に比べ伸びてきているようだった。


 「今日も満席か」

 田尾が、ひとりステージの袖で呟いた。

 

 店内のテーブル席に目を移すと、明らかに席数が増えていた。きっと捌ききれない予約をこなすために、オーナーの指示で追加のテーブル席をセットしたのに違いなかった。

 頭が少し薄く、赤ら顔のオーナーが顔を見せた。

 ジャッキーが、カウンターでマネージャーのトムとなにやら話しこんでいるのを目ざとく見つけ、愛想笑いを振りまきながら近寄ってきた。

 その後の、トムが田尾に話したところによれば、くだんのオーナーは、ジャッキーの次のヨーロッパ公演の際には是非自分のクラブのステージに立つよう、しつこいほどに出演を依頼してきたとのことだった。

 もちろん敏腕マネージャーのトムのことだから、オーナーが目をむくような法外なギャラを提示したのに違いないと、田尾はひとり苦笑した。

 その夜のステージから、一流紙の批評記事に自信をもったバンドメンたちとジャッキーは快調に飛ばした。連日クラブは満員となり、オーナーの高笑いが止まらないほどの売り上げをあげたことは言うまでもなかった。契約の一週間は夢の如く過ぎ去った。


 次は、いよいよヨーロッパジャズの本場といわれるパリに乗り込むのだ。田尾は、これまでさまざまなジャズの歴史に登場するパリの地に、いよいよ自分も足を踏み入れるのだと思うと、自然に緊張もしたが、一方ではなんともいえない期待も膨らんだ。

 還暦を前にし、業界では盛りを過ぎた自分がエンジェルを引き寄せた運もあり、こうしてヨーロッパツアーに参加することができた。しかもグラミーを獲ったこともある大物ボーカリストのジャッキーのミュージカルディレクターとして、いよいよパリの一流クラブのステージに立つことができるのだ。

 ニューヨークに旅行した5月以来の目まぐるしい変化を思うとき、田尾には自分の理解を超えた何らかの意志が自分を操っているとしか思えなかった。

 マネージャーのトムは、パリではブルーノートとペニンシュラホテルでそれぞれ1週間のステージ契約を獲っていた。

 ブルーノートではどちらかといえば若い客が多く、多少うるさいほどのノリが心地よく、連日満員の盛況ぶりだった。

 一方、パリでも一、二を争う高級ホテルのペニンシュラでは、反対にハイプライスのチケットを買うことができる中年以上のリッチな客たちに限られてはいたが、それでも豪華さで有名なディナーテーブル席は連日予約で満席だった。

 客たちは、男も女もディナー用のスーツとドレスでセットアップし、今か今かとショーの開演を待ちかねていた。たいていの客たちの身のこなしには、アッパークラスが放つ特有の品の良さが感じられ、功成り名を遂げた雰囲気を漂わせていた。エスタブリッシュメントたちの、豪華なバンケットホールを埋め尽くた様は、まさに圧巻と呼ぶに相応しいものだった。

 これまでホテルのディナーショーを幾度となくこなしてきた田尾にしても、これほどの大規模で豪華なステージは経験したことがなかった。


 戦後のパリでは、ジャズのオールドファンならサンジェルマン界隈を中心に、幾多のジャズクラブが林立していたことは誰でも知っている。

 田尾は、ジャズ研時代に「サンジェルマンのアートブレイキー」というブルーノートの名盤をを、それこそ溝が擦り切れるほど聴きこんで勉強したことがあった。ヨーロッパジャズといえば、このパリのサンジェルマンとコペンハーゲンのモンマルトルが双璧をなすほど、日本のジャズファンにとっては馴染みが深いのだ。

 日本と同様、今でもフランス人には熱心なジャズファンが多い。ジャズのもつ少し退廃的な臭気と、それでいて他の音楽にないヒップさが、彼等のエスプリと知的な好奇心を刺激するのだろう。

 

 ペニンシュラホテルの会場では、紳士、淑女たちがジャッキーのボーカルに加え、最高の料理とワインが楽しめるよう、細心の目配りが行き届いた、豪華な客席とステージが設えてあった。

 田尾は、上質なこの空間に相応しい曲を慎重にピックアップする必要があった。何せ若者たちが羨むほどの金と権力を手にしている連中が聴き耳を立てているのだ。

 彼等の口コミは侮れないほどのパワーを持っている。しかも若い頃にジャズを聴きこんだ彼等の耳は、ごまかしが利かないほど肥えているときている。

 だからこそ、誰でも聞き覚えのある、比較的耳あたりの良いスタンダードを中心に曲を構成した。こうした席では絶対に外せない、スローバラッドとボサノバも抜かりなくリストアップしていた。若い連中が知ったら目を剥くような高額なチケットを買ってくれたエスタブリッシュメントたちを、決して失望させるわけにはいかないのだ。

 

 ジャッキーは、このステージだけはいつもよりも入念にメイクアップし、イタリアのオートクチュールで造らせたシルクのステージ衣装を身に纏い、ステージに臨んだ。田尾たちバンドメンたちも、黒のタキシードとフェラーリレッドを思わせるタイで正装し、毎晩ステージに立った。

 腕利きのミュージシャンたちによる上質な演奏は、客たちの青春の記憶を蘇えらせて、決して飽きさせることはなかった。男も女も、上等なワインで上気した顔をお互いに見つめあいながら、チケット代以上の満足感にどっぷりと浸っていた。 


 バンドがこの調子でパフォーマンスをあげていけば、ツアーを終えた後に予定しているジャズクラブ・ヴィレッジでのライブレコーディングに漕ぎ着ける可能性が高まった、とマネージャーのトムは手ごたえを感じ、ひとりほくそ笑んでいた。

 抜け目のないトムは、ヨーロッパでのジャッキーのステージを好意的に批評してくれた記事の全てをスクラップにして、契約を予定しているビッグレーベルのプロデューサーに送っていたのだ。そして記事を送るたびにジャッキーとのレコーディング契約がいかに会社の売り上げに貢献するかを、念入りに電話で説明して抜かりがなかった。


 ジャッキー一座は、パリでの2週間の仕事をきっちりこなした後、予定したプラハ、フランクフルト、ローマ、リスボンを巡業し、いずれも地元のマスメディアから高い評価を獲得したばかりか、ジャズクラブやホテルのオーナーに大いなる売り上げをもたらして感謝された。

 バンドのパフォーマンスも、ツアーの終盤には新しいスーツが身体に馴染んでくるように、スタート時点とは比較できないほど洗練されてきた。ボスのジャッキーも、バンドの仕上がりには十分満足している様子で、ミュージカルディレクターの田尾としても責任を果たせたという充実感で満たされていた。同時に、最初心配したバンドマン同士のトラブルも、カード遊びの金をめぐる些細な揉め事以外になかったことも、マネージャーのトムと田尾を安堵させた。

 

 ヨーロッパツアーがスタートしてちょうど一ヵ月後、バンドはニューヨークに戻った。ジャッキーは、マネージャーのトムの猛烈な売込みが奏効して、大手ジャズーレコード会社との仮契約を勝ちとっていた。バンドは予定どおり、ヴィレッジでのライブレコーディングに向け、スタジオでの準備を開始していた。

 この契約が取れれば、特別ボーナスが出ることを知っているバンドメンたちは、その話題で盛り上がっていた。

 

 一方、田尾は柄にもなく一抹の寂しさを感じていた。

 バンドのメンバーの離合集散はこの業界の常で、特に珍しいことでもなかったが、この一ヶ月間、田尾にとってチャレンジングな日々をともにすごした仲間たちとの別れが近づくにつれ、徐々に感傷的になっていた。

 業界の修羅場を潜り抜けてきた田尾が、こんなセンチメンタルな気持ちになるのは初めてだった。できればこのバンドメンたち全員を雇い、東京に連れて帰りたいほどだった。

 そして、改めて還暦を間近にした自分に、こんなチャンスを与えてくれたボスのジャッキーにも、深く感謝したい気持ちがさらに深まった。

 仮契約では、ジャズクラブ・ヴィレッジでのステージが三日間組まれ、予定では最終日にライブレコーディングすることになっていた。

 初日と2日目には、契約先のレコード会社の敏腕プロデューサーが、毎晩ステージのかぶりつきのテーブル席に陣取って、マネージャーのトムから頻繁に送られてきたヨーロッパツアーのレポートがガセかどうか、バンドの仕上がり具合を厳しくチェックした。

 件のプロデューサーは、ジャッキーとの高額な契約が本当に会社に利益をもたらしてくれるのかどうか、どんな些細な点も見落とさない、いや聴き逃さないという、周りがぴりぴりするほどの意気込みでプロの仕事に集中した。

 2日目のステージが終了した後、ジャッキーとバンドの仕上がりに満足したプロデューサーは、マネージャーのトムに正式契約すると伝えた。そしてトムが驚くほどの契約額を提示し、小切手にその額を書き入れた。 それはジャッキーやトム、そしてバンドメン全員にとって素晴らしい成果だった。

 ヴィレッジでのライブレコーディングはあっけないほど、そしてとてつもなくスムースに終了した。収録された10曲は全てツアー中に幾度となく演奏してきた曲で、バンドメン全員が譜面がなくても演奏できるほど熟達していた。ジャッキーとバンドとのグルーブ感は抜群で、満員の客たちから何度もスタンディングオベーションを受けるほどで、ほとんどの曲は、ワンテイクがツーテイクでOKのサインが出た。

 

 完全に復調したジャッキーからは、臭うようなオーラが出ていたし、タイトなバンドのバッキングに煽られて気持ちよくシャウトした。バンドメンたちも、互いにこれが最後のステージーだと感じていたのか、いつも以上のパフォーマンスを見せつけた。


 (本当に素晴らしい)


 ジャッキーの後姿を見ながら、客席が一体となったこれ以上はないといって良いほどのステージの出来栄えに、田尾は涙が出るほど感激した。


 プロデューサーから最後のOKのサインが出て、ライブレコーディングが全て終了した。その瞬間、ジャッキーを含め全員が、気が抜けたようにステージの上で放心した様子だった。

 ただひとり、高額の契約金を勝ちとったマネージャーのトムだけが、満面に笑みを浮かべてプロデューサーとがっちり握手を交わした。

 しかし、ものの10分もすると、全てのバンドメンが楽器をケースに仕舞い、帰り支度を始めた。余韻に浸る間もなく、ミュージシャンたちは、ブッキングされている次の仕事に向かうのだ。そこにはセンチメンタルな感情など、あっという間に雲散霧消したかのようだった。これがこの業界の覚めた現実なのだ。

 マネージャーのトムは、バンドメン全員に対して、ツアーの残りのギャラと、レコーディング契約に基づくボーナスを小切手で気前よく支払った。これ以上はないという幸せそうな表情を隠さないバンドメンたちは、トムではなく渡された小切手にキスをした。

 その時、嬉しいハプニングがあった。ツアーを共にした仲間たちが、それぞれ最後の挨拶を交わすため、田尾に近寄ってきたのだ。遠いアジアから参加した、この老境にさしかかったミュージカルディレクターの田尾に、改めて敬意を払おうとしたのだ。ある者は至極真面目な顔で、東京のメンバーに穴が空いたら呼んで欲しいと懇願した。これ以上はないというほどの嬉しいオファだった。

 本当にこのツアーに参加してよかった。心底、田尾は感激した。

 バンドメンたちとの別れをじっと見ていたジャッキーとトムが、一段落したところで、田尾をクラブの別室に招き入れた。そしてツアー契約の残額2万ドルのほか、レコーディング契約分として2万ドル、さらに作編曲料などを含めた特別ボーナスとして2万ドルの3枚の小切手を差し出した。

 つまり田尾は今回のヨーロッパツアーとレコーディングの仕事で、前払金を含め、合計10万ドルのギャラを手にしたのだ。


 驚くような金額が入った小切手をしげしげと見つめた田尾は、

 「トゥー マッチ」と、思わず呟いた。


  これまで田尾が参加したツアーでは、最高のギャラだった。まるで日本とアメリカのプロゴルフツアーの賞金額のような差だった。改めて、田尾は、本場アメリカの音楽ビジネスの巨大さを痛感した。

 ジャッキーは、今回のツアーでミュージカルディレクターとしてバンドメンたちをまとめ、最高のパフォーマンスを発揮してくれた田尾に、高額の報酬で応えたばかりか、別れ際に


 「ミスター田尾、ユーアー エクセレント」と言いながら、目に涙をためて田尾をハグした。

 

 田尾にとっては、生涯忘れられないツアーだった。

 素晴らしいチャンスを与えてくれたジャッキーとのステージの日々を思い出し、不覚にも涙が滲みでた。そしてこのラックを運んでくれた「エンジェル」に心の底から感謝した。



第15章   バーンアウト

  


 紅葉の便りが全国各地から寄せられる頃、ニューヨークから帰国した田尾は、2週間ほど仕事から遠ざかった。

 仕事に向かおうとする気力がどうしても湧いてこなかったのだ。三度の飯よりも大好きなゴルフに誘われても出かける気がせず断った。誘った友人は、冗談に身体でも悪くしたのかと訝ったほどだ。まるで腑抜けの状態になった。

 我ながら、心の底から疲れていると感じていた。やはり今回のヨーロッパツアーで溜め込んだプレッシャーが、滓となって田尾の心と身体に深く沈んでいったのだ。いわゆるバーンアウト状態に陥ったのだ。


 こんな時には、無理は禁物だ。田尾は、自分には休息が必要だと言い聞かせた。そして気分転換に、金沢の小宮山に会いに、そして故郷の街並みにこの身を置きたいと閃いた。

 帰省するときにはいつもそうしているように、無性に白山麓にある温泉宿の湯船に、この身を深く沈めたいと思った。

 そう思うと居ても立ってもおれないほど気が急いた。田尾は、エンジェルを仕舞ったフライトケースを手に、愛車ポルシェに飛び乗った。ただひたすら頭を空にして走りたかった。留守中に四輪全てのショックアブソーバーを交換したポルシェは、まったく別の車と思うほどのしなやかな足回りの車に生まれ変わっていた。

 エンジンもブレーキもいつもの通り快調だったが、今度ばかりはフェラーリ・スーパー・アメリカとは出会うことはなかった。ハンドルを握る田尾の頭には、ヨーロッパやアメリカでの素晴らしい思い出が、次から次へと巡っては消えた。

 

田尾は、今回のドライブでは今まで全く走ったことのない山岳ルートを選んだ。ツアーでの余りにも刺激的な経験がそうさせたのだ。とにかく、一人で頭を空にし、無になってドライブしたかったのだ。ポルシェは東名自動車道をひた走り、名古屋から東海・北陸自動車道に入り岐阜に向かった。

やがてしばらく走って北部の白川郷インターチェンジで降り、岐阜と石川を結ぶ白山スーパー林道に入った。しばらくして、岐阜と石川の県境に聳える三方岩岳の頂上付近のパーキングエリアで一息入れるために、ポルシェを留めた。

時刻は正午を少し回っていた。

 晩秋の、ベールを剥がしたような快晴の空は、目に眩しいほどの蒼さだった。しかしこの季節のころの日は落ちるのが早く、日陰の谷間は、見る間に不気味なほどの漆黒に沈んでいた。

 田尾は、山に漂っている精気を胸いっぱいに吸い込むように、久しぶりに大きく、深く呼吸した。何回も何回も。仕事にかまけ、数年このかた山に入ったのは久しぶりだった。


 「懐かしい」

 誰に言うともなく呟いた。


 北の方角では、日本百名山のひとつに数えられる白山の大汝峰が聳え立っていた。

 何とはなしに、田尾は地元の中学、高校時代に白山に登った頃を思い出した。当時、夏休みに入ると必ず父親と一緒に白山の頂上に立ったものだった。

 そのころの父は、登山を趣味のひとつとしていて、全国各地の有名な山をほとんど踏破していた。特に上高地を中心とした北アルプスが大のお気に入りだった。自然と山の動植物には、田尾が驚くほど詳しかった。最初の白山登山の際、室堂付近で石川の郷土の花、クロユリを最初に教えてくれたのも父だったし、雷鳥やイヌワシを目ざとく見つけ得意そうに解説してくれたのも父だった。白山を眺めながら、田尾の頭にはそのころの楽しい思い出が次々とフラッシュバックした。 


 三方岩岳には既に冬が迫っているのだろうか、谷間から吹き上がってくる重くて湿った風が、田尾の肌を突き刺した。パーキング付近では既に紅葉の最盛期は過ぎていたが、しばらく石川県側に下るうちに、紅く染まった見事な山肌が目に入った。

 特に標高900メートル付近の「ふくべの大滝」から、680メートル付近の蛇谷大橋あたりでの紅葉は、全く見事としか言いようがなかった。林道の路肩にポルシェを止め、田尾はしばらくの間、自然が織りなす鮮やかなコントラストに心を奪われた。

 さらに林道を下り、料金所に出た。人の良さそうな職員が話しかけてきた。

 

 「ここ1週間はぐずついた日が続いたんだが、今日は珍しく天気が良くてよかったね。後10日もすればいよいよ雪が降る。そうすれば今年のスーパー林道も店じまいだ。気をつけて」


 「ありがとう。本当に見事な紅葉が見られてラッキーでした」

 料金所を出てすぐに、田尾はどういうわけか、咄嗟にこの林道沿いに温泉宿があることを思い出した。


 車のナビゲーションは、確かに中宮温泉という、宿が数軒しかないひっそりとした温泉地を表示していた。その説明には、スーパー林道が開通した1977年当時と、白川郷と五箇山の合掌造りが世界遺産に指定された1995年当時は爆発的な観光ブームで繁盛したのだという。現在は四軒の旅館が営業しているのみで、今では日本でも数少ない本物の山あいの秘湯であり、泉質は、皮膚をつるつるにする「美肌の湯」とあった。


 田尾は、かつて広告代理店に勤めていたせいか、秘湯というキャッチに弱い。


 「よし、今回はこの温泉に決めた」


 自分に言い聞かせるように、大きな声を出しながらポルシェを走らせた。

ここから30分も走れば、常宿にしている白山里という一軒宿があり、そこが田尾の「男の隠れ家」だったのだが、今度ばかりは気分を変えたい心境だった。

 スーパー林道から少し入った山間の一角に、その温泉地はあった。ナビゲーションのとおり、中宮温泉には4軒の温泉宿がひっそりと軒を並べていた。

 料金所の職員が教えてくれたように、冬間近の、観光シーズンもオフを迎えようとする頃であったためか、寂しいくらいに人影はなかった。四軒の旅館のうちから露天風呂がある旅館を聞き出し、チェックインした。

 とにもかくにも、田尾は無性に温泉に浸りたかった。身体中に温泉のエキスを染み込ませ、ヨーロッパツアーで溜め込んだ、どろどろとした得体の知れない疲れを癒したかった。


 結局思いもかけず、田尾は、その宿で1週間ほど長逗留することになった。

文字通り湯治である。初日は、ただひたすらに湯に浸かり、囲炉裏のそばで岩魚のコツ酒などの地酒を、浴びるように飲んだ。

 そんな呑み方では身体を悪くする、という宿の主人の勧めで地元で獲れた山菜や虹鱒の刺身、熊、猪といった自慢の肉を、無理やり口に入れた。余計な調味料を使わず、ただ素材の持つ味だけで料理した食事は、決して豪華というわけではなかったが素朴な味がして旨かった。

 最初は細かった食事も、体調が戻ってくるにつれ自分でも驚くほど進み、それと合わせるかのように、日中は宿の主人の長靴を借りて周辺の山道をたっぷり時間をかけ歩いた。父と山歩きをした少年時代の楽しい思い出が蘇り、まるで薄皮を剥くように、心の霧が晴れるようだった。最初、身体に鉛が入ったように重かった田尾の心と身体は、3日目を過ぎる頃から徐々に軽くなり、自分でも、身体に溜まった滓が温泉に溶けてゆくような気がして、なんとも不思議な感覚だった。

 そしてそれとともに、いつもの前向きな精神状態に戻りつつある自分を実感した。

 身体に心地よい温泉のせいか、毎日の山歩きによる森林浴のせいか、地元の食材をふんだんに使った食事のせいか、はたまた岩魚のコツ酒を毎日つき合ってくれた、ジャズ好きの主人とのとりとめののない会話のせいかどうか判らないが、いずれにせよ田尾は、この予定外の湯治で心身ともにリフレッシュした。


 1週間後、すっかり回復した田尾は、ようやく宿を出ようと決心した。見かけはぶっきらぼうで、とっつきにくそうな宿の主人に心から礼を言った。


 「本当にお世話になりました。親父さんの四方山話が聞きたくなったらまた来ます」

 

 お世辞の苦手な、宿の主人は

「田尾さんの演奏が聴きたくなったら東京へ行きます。」と、精一杯の愛想を言って見送った。


 少しばかり寄り道した格好になったが、再び田尾は、エンジンに火を入れ、金沢のバードに向かってポルシェ走らせた。

 前回20周年イベントの際、店で紹介された真理子という女性と正式に結婚した小宮山の顔が浮かんだ。一刻も早くヨーロッパツアーの土産話を聞かせてやりたい。田尾はアクセルを踏んだ。

 事前に連絡を入れずいきなり姿を見せた田尾に、小宮山は、これまで人にはあまり見せたことがないほどの驚きの表情を浮かべた。


 「これは、これは。ニューヨークとヨーロッパで出稼ぎに行っていたビッグスターのお帰りだ」と、第一声を放った。


 「小宮山さん、久しぶりです。イベントではいろいろお世話になりました」

と、すっかり復調したツヤのある顔で言った。そして


 「真理子さんとの結婚、本当におめでとうございます」といいながら、カウンターの中で、洗物に精を出している新妻に軽く挨拶した。

 上品な笑顔が素敵だと、田尾は思った。

 

 「気の利いたプレゼントを考えつかなかったので申し訳ないけど、これ、お祝いのほんの気持ちです」と、封筒を小宮山に渡した。


 「気を遣わせてしまって。ありがたくいただきます」と、礼を述べ中身を取り出した。ハワイ行きの往復のフライトチケットだった。

 

 小宮山と彼女は互いに再婚同士だったから、シャイな小宮山の性格からして再婚旅行には行くつもりはないだろう、と踏んでいた。


 案の定、

 「いやー、参ったな。お互いに2回目だから、いまさら旅行に行くつもりはなかったんだが、これじゃ行かざるを得なくなった」と、表情を崩しながら、


 「ありがとう、哲。年が明けたらさっそく骨休みに行ってくるよ」

と、新妻の真里子の方に目を遣りながら言った。

 

 60を過ぎてこんな金沢美人と所帯を持つなんて、全く幸せな爺だと、臆面もなく崩し放しの表情を隠さない小宮山を見ながら、田尾は内心密かに思った。そして独り身の自分を省みて、正直羨ましかった。

 

 その晩バードでは、小宮山が急遽集めた地元のアマチュアミュージシャンと田尾とのジャムセッションが開かれた。

 田尾は、久々に一人のジャズプレイヤーとして心置きなくステージの輪の中に入った。小宮山が有無を言わせず呼び寄せ集まった若い彼等のテクニックは未熟で、もとよりヨーロッパツアーに参加した腕利きの連中とは比較にもならないが、それでも一人ひとりが大らかでアットホームな雰囲気の中で、純粋にジャズを楽しんでいるのが微笑ましかった。

 ステージには、20周年開店イベントでのジャズクリニックに参加したプレイヤーたちが何人かいた。彼らは、田尾が抱えているエンジェルを目ざとく見つけると、挑発するようにソロをとるよう囃し立てた。

 そしてカウンターでは、小宮山も同様にエンジェルのビッグサウンドを聴きたがっていた。ヨーロッパ帰りの田尾が、現地でプレッシャーのかかる仕事を経験し、はたしてどんな変化を見せるのか興味深々だったのだ。

 彼等のリクエストに応えるかのように、田尾は何回か他のプレイヤーのソロにカットインし、決してイニシアチブを渡そうとしなかった。無心にただひたすらブローした。吹いている間、何度もジャッキーやバンドメンたちの顔が浮かんでは消えた。ソロは彼等へのオマージュだったのだ。

 予定外の中宮温泉での湯治と小宮山夫妻との再会、そしてバードでのアマチュアミュージシャンたちとのセッションは、田尾の精神的な疲労を取り除くには十分な薬となった。 

 金沢に発つ前の、形容しがたい澱んだ精神状態から脱した田尾は、横浜に戻るとただちにベースを除くレギュラーメンバを招集し、ギグに戻った。

しかしツアーから帰った田尾を見る周囲の目は、明らかにこれまでと違っていた。グラミーを獲ったことのある大物ボーカリストのジャッキーのバンドのミュージカルディレクターとして、1ヶ月のツアーを成功させた田尾の力量は、本人の意思にかかわらず業界でも評判になっていた。

 仕事に復帰してからの田尾には、あちこちの敏腕プロデューサーから仕事のオファが舞い込んでくるようになったし、ツアーでの様子を取材しようと、多数のメディアがインタヴューを申し込んできた。

 田尾は思いもかけず、一躍、中高年の星として脚光を浴びることになった。ジャズ関連の雑誌のみならず、全国紙やテレビ局が列をなして田尾を取り上げ、団塊世代のシンボルキャラクターとして相当のスペースを割いて紹介し、オンエアーしたのだ。

 しかも年末に入ると、ジャッキーのヴィレッジでレコーディングしたCDがアメリカでリリースされると、瞬く間に、ジャズ批評家の間でグラミーの有力候補として噂されるようになった。

やがて、日本でもその輸入盤が入るようになると、ジャズのカテゴリーとしてはかってないほどの売り上げを記録した。売り上げが伸びるにつれて、田尾の仕事も渡米前に比べてますます忙しくなった。

 田尾のプレイぶりは、渡米前と比較して明らかに変化した、と業界仲間から噂されるようになった。愛器を、ニューヨークで手に入れたエンジェルに替えたことは一部の関係者しか知らなかったが、金沢のバードのオーナー小宮山には、エンジェルがツキを運んできたのだと思えた。

 小宮山は、漏れ伝わってくる田尾の殺人的なスケジュールが、彼の身体をスポイルしないかと心配した。時々かかってくる田尾からの電話では、仕事をセーブし身体のコンディションに十分気をつけるよう何度も注意した。 

 クリマスの翌日、田尾は人生の節目となる還暦を迎えた。



第16章   メジャー契約



 年が替わっても、田尾のスケジュールは殺人的だった。

 これまでのホテルでのレギュラーギグや、スタジオでの録音、作・編曲依頼に加え、団塊世代をテーマにしたテレビ出演、全国各地から声のかかったコンサートなどが新たに加わり、ビジネス手帳の一年先までのスケジュール表が真っ黒になるほどだった。

 サラリーマンを辞めて好きでこの仕事に入った田尾は、小宮山の心配をよそに、きついと思いながらもそれこそ休む間もなく働いた。団塊世代というのは、どちらかというと仕事に追われているほうが精神的に安定するというタイプが多いのだが、田尾もそのうちの一人なのだ。

 もともと身体のコンディション作りには人一倍神経を使う田尾にしても、これらの殺人的なオファーをこなすのは年齢的に厳しいと、うすうす自分でも感じていた。

 それに、大好きなポルシェとのロングドライブも、息抜きの秘湯めぐりも、当分の間お預けになりそうで、欲求不満が募った。

このままでは再び、ヨーロッパツアーから帰った直後の自分に戻るのではないかという不安も感じていた。


 (何かを変える必要がある)


 田尾は、と漠然と思った。そんな頃、アメリカから一通のメールが飛び込んできた。ジャッキーのマネージャーのトムからだった。

そのメールは、


 《ジャッキーのヴィレッジでのレコーディングを担当したビッグレーベルのケビ ン・マクドナルドというプロデューサーが田尾に興味を持っていて、ヨーロッパツアーのメンバーを再召集して、田尾自身のリーダーアルバムをレコーディングしたがっている》という趣旨だった。


 田尾は読んですぐに、レコーディングの際にぴりぴりした顔で仕事に没頭していた、件のプロデューサーの顔が思い浮かんだ。そして、自分を指名してくれたことに感謝したいという思いの一方、何故いきなりこんな話が急に飛び出てきたのか、見当もつかなかった。


 時差を待ってトムに電話で確かめたところ、ケビンは田尾が吹くエンジェルのサウンドと作・編曲が大変気に入り、できれば田尾のリーダーアルバムを製作し、アメリカはもとよりアジア、ヨーロッパでのビッグヒットを狙っているとのことだった。


 要するに、ニューヨークで発見した、田尾という日本人のサックス奏者を起用したCDを、自国は勿論のこと、最近元気の良いアジアやヨーロッパのマーケットで大大的に売り出して、大儲けしたいということなのだ。

敏腕マネージャーのトムは最後に抜け目なく、田尾の今回のレコーディング契約を任せてくれれば、ポルシェでもフェラーリでも新車が買えるほどのギャラを保証すると、何回も強調した。


 田尾は、トムの説明を半信半疑で聞いていたが、それから一週間ほどして、本当にプロデューサーのケビンから正式なレコーディングのオファがあった。

田尾にとっては、アジアどころか、世界に自分の作品をリリースするビッグチャンスが到来したのだ。電話口でまくしたてるケビンの話しを、注意深く一言も聞き逃さないように集中した。

 さっそく金沢のジャズクラブ「バード」の主人、小宮山に相談すると、田尾からプレゼントされたハワイ往復のエアチケットを利用し、年明け早々、真理子とワイキキのビーチで命の洗濯をしてきたなどと、聞いているのが馬鹿らしいほどの、惚気話を聞かされる羽目になった。

 肝心の本題については、案の定、そんな美味しい話は絶対逃すなと、歯切れ良い返事が耳に響いた。同時に、現在の殺人的なスケジュールをかわすには、ちょうど良いタイミングだとも言った。是非チャレンジしろ。小宮山の声が電話口で弾んでいた。

 ケビンからの契約条件は、田尾にとって全くノープロブレムだった。かつてのヨーロッパツアー仲間の再招集とスケジュール調整は、全部任せて欲しいということであったし、田尾には、今回のレコーディングではストリングスを入れたイージーリスニングテイストなものとし、選曲については全てを任せるというものだった。

 ただし編曲に関しては、かつてジャッキーとのレコーディングで採用したテイストを是非再現して欲しいと、何回も念押しした。

 どうもケビンは、ギル・エバンス風の編曲をバックにして、田尾にスタンダードナンバーのソロを思い切り吹かせたいような口ぶりだった。

そしてもっと大事なことは、今回の手付けとして5万ドル、レコーディング終了時に10万ドル、編曲料として5万ドルのあわせて20万ドルを支払うという契約内容だった。 

 さらに別途、ネット配信とCDの売り上げが50万ドルまでの場合はその10パーセントを、それを超えた場合は、超えた分の15パーセントを支払うという、アジアの無名のサックス吹きにとっては破格の好条件だった。

 つまり、ざっと低く見積もっても50万ドルほどのビッグマネーが、田尾の口座に振り込まれることになるのだ。田尾の年収は約1000万円程度だったから、ケビンから提示された高額な契約金額は、浮き世離れしたものにしか思えなかった。


 田尾は、ギャラについては全く文句ないが、ストリングス以外のレコーディングメンバーについては、自分でチョイスしたいとの条件を出した。つまり現在のレギュラーバンドを中心に編成したいと要望したのだ。せっかくのビッグチャンスを自分だけでなく、普段一緒に演っている自分の若手にも与えてやりたいと考えたのだ。

 ケビンが自分のオファを受け入れるかどうか半信半疑だったが、二日後には、

《バンドの演奏テープを送ってくれればそれを聴いて判断したい》とのメールが届いた。

 結局、ケビン側は田尾のレギュラーメンバーをコアにして編成することを了承し、それ以外は前回ジャッキーとのレコーディングの際に呼んだセッションミュージシャンで固めることで合意した。


 翌日、田尾は自分のバンドのメンバーに対し、近々自分のリーダーアルバムをレコーディングするためにニューヨークに行くが、そのときにはお前たち全員も連れてゆくと発表し、3月には日本を発つことを申し渡した。

 バンドの連中は、田尾のこのビッグニュースに小躍りして喜んだ。さらに、今回のレコーディングでは一人につき2万ドルのギャラを支払うことを告げると、全員が田尾にキスするような勢いでハグした。

 流石にトランペッターのスコットだけは、ヨーロッパツアーから田尾に同行し、ジャッキーのレコーディングメンバーとしてキャリアを積んでいたこともあり、他のメンバーほどには手放しで喜ぶそぶりは見せなかったが、ドラムスのトミー、ピアノのロベルト、そしてスコットの紹介で新たにメンバーに入ったベースのエリックは興奮した面持ちで、全米でも有数のビッグレーベルとの仕事を喜んだ。スコット以外のメンバーは、これまで全米どころか国内のレコード会社とのレコーディング契約もしたことがなかったから、その喜びは尋常ではなかった。

 彼等の屈託のない喜びようを見た田尾は、自分自身もさることながら、若い彼らのためにも今回の仕事を絶対に成功させると決意した。このチャンスを生かすことができれば、自分を含めた全員のステップアップが可能となってくるのだ。自分には、彼らを独り立ちさせる責任があるのだと、田尾は常日頃思っていたが、その責任を果たせそうな予感がしていた。


 しかし田尾には、今回の仕事ではひとつだけ気がかりな点があった。ドラマーのトミーのことだった。

 今回のレコーディングでは、彼の得意とするビート感抜群のアップテンポの曲が少なかったからだ。ボサノバやバラッドなど、ブラッシュワークを多用する曲が多く、トミーには荷が重いのではないかと心配したのだ。

 心配しても始まらない、と田尾は、いつものホテルでの仕事でこの若いドラマーをテストすることにした。日本を離れていた約1ヶ月半の間に、彼がどの程度上達したか知りたかったのだ。

 田尾自身が作曲した<バラッド・フォー・KYOKO>やバラッドのスタンダードナンバー数曲を演奏させ、トミーの上達振りを厳しくチェックした。もし彼が依然として、スロービートのブラッシュワークに問題を抱えているようなら、残念だが、場合によっては現地で優秀なセッションマンに替えることも覚悟していた。

 

 田尾にとっては嬉しい驚きだった。

 トミーの上達は予想以上だった。彼の身に何か起こったのに違いないと、田尾は直感した。実はトミーは、田尾がヨーロッパツアーに出かけている間に、あるスタジオセッションの仕事を請けたのだが、彼のブラッシュが使いものにならないという理由で、そのセッションから外されるという屈辱を受けたのだ。

このことにショックを受けた彼は、田尾から再三再四聴いて勉強するように言われていた、フィリー・ジョー・ジョーンズのプレイを聴きまくり、それこそ手の皮が擦り切れるほどのハードプラクティスを、毎日自分に課したのだ。

 こうなればもともと才能溢れるトミーの身体には、まるで砂漠に水が染み込んでいくが如く、ブラッシュワーク・テクニックがDNAとなって刷り込まれていった。お陰で、もともと目を瞠るほど素晴らしいシンバルワークや切れが良いハイハットなど、他のパーツとのコンビネーションも見違えるように上達し、まるで一皮剥けたようなプレイを披露するようになっていた。

 

 ある日レギュラーギグを終えた田尾は、この若いドラマーを呼び

 「ヘイ、トミー。お前もこれでようやく唄伴で稼げるようになったな」と、素直に彼の上達振りを褒めた。


 一方、自分がボスにテストされているのではないかと、うすうす気づいていたとミーは、


 「ボス、これで僕も正式にニューヨーク行きの正式なメンバーに入れてもらえますか?」と、まるでいたずら小僧のごとく、多少はにかみながら応えた。


 田尾のレギュラーバンド一行が日本を発ったのは、春も間近の三月の下旬だった。ニューヨークでは、まだまだコートが必要なほどの寒さが続いていた。

 

 ガガーリア国際空港に降り立った田尾たちを、プロデューサーのケビンはリムジンで迎え、さっそくエアコンが効いたリッツカールトンの豪華なセミ・スウィートに案内した。

 マンハッタンの一流どころのホテルは慢性的に料金が高く、しかも予約を取るのが難しいといわれている。世界中からのビジネス客とツーリストたちが押し寄せるこのニューヨークでは、たいていの客は金惜しみせず安全で居心地の良いホテルに泊まりたがる。ビジネスパーソンたちは、自分のステータスを誇示し商談が旨く運ぶように、そしてツーリストたちは、ニューヨークでの安心・安全と帰郷した後の自慢話のために、高級ホテルを予約するのだ。

 田尾はこれまで何度もニューヨークに来ているが、こんなVIP待遇の扱いを受けるのは初めてだった。やはりこの国はサクセスストーリーの国なのだ、と快適でゴージャスな部屋を眺めながら改めて気づかされた。


 (他人も羨む生活を夢見て、この国の人々は必死になって、少ないチャンスを摑んで這い上がろうとするのだろう)

 

 田尾の初リーダーアルバムのレコーディングは、大成功だった。

 レギュラーメンバー以外のセッションマンたちは、かつてヨーロッパツアーで一緒にプレイした仲間なので、全くツアーの延長の雰囲気でリラックスできた。

 彼らの頭には、田尾のミュージカルディレクターとしての信頼感と、サックス奏者としての力量が既にインプットされていたので、改めてアンサンプルの際の微妙なニュアンスを確認する必要がないほどだった。

 田尾から手渡された、日本で練りに練った緻密なパート譜を、ただただ正確に、ボスの表現したい方法でプレイするだけでよかった。

 スタジオでのリハーサルの段階では、田尾のレギュラーバンドのメンバーとセッションマンたちとのコミュニケーションには多少のぎこちなさが目についたが、そこはこの厳しい業界を生き抜いてきたプロ同士のこと、半日程度でアイコンタクトが取れるほどに解消した。

 なかでも、タイムキーパー以上のプレイをこなすトミーには驚かされた。

ニューヨークの一流どころのセッションマンたちの中にあって臆するどころか、堂々としたプレイ振りを見せつけ、最近の長足の進歩を証明していた。

一方、今回のレコーデングに同行させたピアニストのロベルトも、田尾の選曲を見事にこなした。南米出身者独特の跳ねるようなリズム感溢れるソロとともに、ボサノバの曲では田尾が苦心惨憺して編み出した複雑なハーモニーを響かせながら、曲を引き立たせていて素晴らしかった。 


 今回のレコーディングでは、同じニューヨークにあるアバタースタジオを貸しきってレコーディングした。このスタジオにはニューヨークでも評判の腕利きのエンジニアがいるという話を、田尾は日本を発つ前に聞いていたが、まさしくそれに偽りはなかった。

 スタジオ内は天井が高く、壁にはメープルの無垢材がふんだんに張られていて、楽器から放射された音が一方向にのみ反射しないように工夫されていた。見るからに最新の音響工学に基づいた独特の設計が施されていて、最初にスタジオに入ったときから仕上がりの音に期待が持てそうだった。

 レコーディングでは、これまでに経験のあるオーソドックスな手法でいきたいと、田尾はあらかじめプロデューサーのケビンに希望を伝えていた。まずソロ以外のバッキングのパートを先録りしておいて、それをモニターしながら、田尾が自分の演奏を被せていくという、オーバーダビング方式だ。

エンジニアによっては、このときやたらにイコライジング、つまり音に手を加えたがるタイプがいるのだが、アバタースタジオの腕利きのサウンドエンジニアには、そうした小手先のテクニックは必要なかった。

田尾も件のエンジニアも、生の音で勝負したいというプロ同士のプライドで繋がっていた。それほどに田尾のエンジェルは鳴っていたのだ。

 

 エンジェルの音を聴いた件のエンジニアは、当初セッティングしていたAKG(プロは普通アカゲと呼ぶ)に替え、ちょっとクラシックなプロ御用達の定番マイク、ノイマンをセットした。テナーサックス奏者で世界的にその名を知られているソニー・ロリンズは、全盛期のころにはこのマイクを使い数々の名盤を世に送り出した。

 中域が豊かで、まるでボーカルの様な艶のあるボイスを響かせるエンジェルには、設計は古いもの、ミドルレンジが張り出した録音には滅法定評のあるノイマンがベストチョイスだ、と判断したのだろう。

田尾もかねてから、インストゥルメント用、特にサックス用のマイクにはノイマンが世界で最高だと確信していた。これまでの数々のスタジオ録音での経験によって、サックスソロの収録では、マイク乗りの良さではノイマンの右に出るものはない、という一種妄信的な思い込みがあるのだ。

 田尾は、このアバタースタジオの評判どおりのエンジニアのセンスの良さに共感するとともに、全幅の信頼を寄せた。


 スタジオでの2日間で予定した20曲を全て録り終えた田尾たちは、いつもそうしているように、直ちにモニタールームに駆け込みプレイバックを待った。

 バンド全員が息を潜めて、リピンスキーという最近評判のモニタースピーカーに集中した。声を立てる者は、誰一人としていない。全員が、バンド全体の響きと自分の出す音がウェルバランスで響いているかどうか、物音ひとつ立てずに聴き耳を立てた。

 やがて田尾のゆったりとしたソロがモニタースピーカーから流れると、サウンドエンジニアを含めた全員がふーっと言葉なく溜め息をついた。それほどに素晴らしいサウンドがモニタールーム全体に響いていた。

 特に田尾の吹く低音域のサブトーンは、まるでエンジェルの囁きを思わせるほど、気だるくセクシーだった。プロでも、最も低いBフラットの綺麗なサブトーンを出すのは難しい。愛器エンジェルは、田尾の高度にリップコントロールされた甘いサブトーンをよどみなく響かせた。バンドメンたちは自分のプレイを忘れ、田尾のプレイに酔いしれた。

 

 誰かが、

 「インクレディブル」と、呟いた。その言葉に反応して、


 他のもう一人が、

 「ビューティフル」と、反応した。


 ニューヨークでも評判の、腕利きのミュージシャンたちが、田尾のサックスを賞賛し、認めたのだ。

 

 田尾は、日本を発つ前に、前回のジャッキーのミュージックディレクターとしてではなく、ソロプレイヤーとしてはたしてジャズの本場で認められるのか、一抹の不安を感じていたのだが、それは杞憂に終わった。

 全てを終えた田尾は、重いリュックを担ぎ、長い登りを経て、やっとの思いで山の頂に立った時の解放感にも似た、清清しい気分に包まれていた。 

田尾はその場で、プレイバックした中から、トラックダウン用の12曲をピックアップしケビンに伝えたが、彼の思いとは少し違っていた。

 アルバムに収録する曲の最終決定権は、通常プロデューサーのケビン側にある。田尾は口を挟まず彼に従った。

 田尾としてはもっとアップないしミドルテンポの曲を入れたかったのだが、かつて大物プロデューサーのクリード・ティーラーが大ヒットさせたウエスモンゴメリーの<夢のカリフォルニア>というアルバムをイメージしていたケビンは、頑として首を立てに振らなかった。


 「オールライト、我々の仕事は終わった」と、なかなかOKを出さないことで有名なプロデューサーのケビンの声で、モニタールームにつめた全員が我に帰った。


 ケビンはバンドメン一人ひとりにレコーディングの成功を労うかのように、契約の金額が打ち込まれた小切手をミュージシャンたちに手渡した。

 ヨーロッパツアーの時と同様、召集された現地のセッションマンたちはこぞって田尾に手を差し出し、握手を求めてきた。


 ある者は、

「ミスター田尾、こんなチェックがもらえるような仕事なら、いつでも呼んでくれよ。待ってるぜ」と、冗談とも本気とも知れない表情で言い寄った。


 さらに別の者は、

 「ミスター田尾、とても楽しかったぜ。ところで、今度俺を日本に呼んでくれないか」と、かなり真面目な顔で売り込んでくるのには閉口した。


 バンドメンたちとの最後の別れの挨拶が終わった頃を見計らって、プロデューサーのケビンが、田尾をスタジオの別室に案内し、契約どおり残りの10万ドルと作編曲料の5万ドルの小切手を渡しながら、


 「ミスター田尾、これからこのアルバムを売るのが僕の仕事だ。そのギャラが倍になるほどこれから稼ぐから、楽しみにしていてくれよ。特にアジアでヒットすることを願っているよ」


 無事、録音が自分の思い描いていた通りの仕上がりになったという安心感からか、いつもの厳しい表情をおくびにも出さず言った。


 さらに田尾の表情を窺うように

 「ところで、ミスター田尾。僕の頼みを聴いてくれないか」と、切り出した。


 「実は、ヴィレッジのオーナーから、田尾のレギュラーバンドと一週間の出演契約をしたいので、何とか説得してくれないかと頼まれてね」と、困ったような表情をみせながら、


 「ただし今日の小切手ほどのギャラは絶対出ないと思うけどね」と、冗談を言った。田尾は、ヴィレッジでのジャッキーとのライブレコーディングを思い出しながら、 

 

 「クラブのオーナーに、誰かが僕を推薦したのかな?」


 「ご名答。ジャッキーだよ」

 

 ケビンによれば、新年早々ヴィレッジに出演したジャッキーが、ミスター田尾のプレイは雇う価値があると、オーナーに推薦したのだという。

 その手の話ならこの業界ではさして珍しくもないが、ジャッキーはさらに、ヨーロッパツアーでのジャズクラブやホテルでのステージが常に一杯の客で埋まってしまい、会場によってはテーブル席を増やすほどの人気で、いつもは難しい顔をしているそれぞれのオーナーたちが、しっかり儲けさせてくれた自分に毎晩愛想笑いを振りまきにきたことを、ヴィレッジのオーナーに吹き込んだところ、急に田尾を呼びたいと言い出したらしい。


 田尾たちメンバーは、レコーディング終了後の一週間のオフをニューヨーク市内のジャズクラブ巡りをしながらゆっくり楽しむもつもりだったが、これをすべてキャンセルし、ヴィレッジの仕事を請けることにした。

 今度は、自分たちがニューヨークという目の肥えた客たちの前で演奏することになるのだ。バンドのメンバーは最初びっくりしていたが、逆に今回のステージで、うるさ型の批評家や地元の大物ミュージシャン、プロデューサーたちに運よく認められれば、そのままアメリカに残って自分のキャリアをステップアップさせる事だって可能になるのだ、と判っていた。特に若いメンバーは、滅多にめぐってこない目の前のチャンスを生かそうと張り切った。


 翌日、田尾は事前の下見を兼ねて、ヴィレッジのオーナーに会いにクラブを訪ねた。昨年5月にふらっとニューヨークに遊びに来た時は、エンジェルを売ってくれた楽器店主のビルが、クラブのオーナーに直接予約の電話を入れて演奏を楽しむことができた。

 今回ひょんなことから、単なる客としてではなく、自分自身がクラブと出演契約して、この名門ジャズクラブのステージに立つことになろうとは。


 (人生とは、本当に判らないものだ)


 エンジェルを手にしてからの、思いもかけないさまざまな人たちとの交流が積み重なった結果とはいえ、ジャッキーが橋渡ししてくれて実現したこのチャンスに不思議な絆を感じるとともに、彼女の自分に対する気配りに感謝するばかりだった。

 田尾は、ヴィレッジのオーナーと一週間の出演契約を交わした。 勿論、出演のギャラはケビンが言うように、自分のリーダーアルバム契約の時に受け取った、魅力ある小切手の額に比べてほど遠いものだった。

 それでも、かつてのボスであるジャッキーの紹介のお陰で、自分のバンドを引き連れて、ニューヨークでもトップクラスのジャズクラブに出演できることが嬉しくてならなかった。 

 田尾は、契約書にサインをしながら、エンジェルが運んでくれた思いもかけない幸運に感謝した。

 

 名門ジャズクラブ、ヴィレッジに日本人がバンドリーダーのバンドが出演するのはきわめて稀で、滅多にないことだった。クラシックの世界に例えるならば、ドイツのカラヤンホールに出演するのと同じくらいの、名誉あることなのだ。

このクラブでのジャッキーのライブレコーディングアルバムが、この年のグラミー賞の有力な候補との噂が流れる中、そのミュージカルディレクターを務めた日本人のサックス奏者がステージに立つとあって、前売りチケットは好調な売れ行きを見せていた。


 公演初日には、噂のジャッキーがマネージャーのトムとともに駆けつけ、ステージに近いテーブル席に陣取っていた。クラブのオーナーは、彼女のテーブル席を取り囲むようにして、地元のジャズ批評家や日本からメディアの取材チームが多数詰め掛けていることに驚き、田尾が日本では時の人になっていることを知った。

 見渡せばほかのテーブル席にも、日本でもその実力が知られている何人かのビッグネームのバンドリーダーたちが顔を揃え、田尾クウィンテットの実力が果たして噂どおりなのか探りにきていた。

 田尾のバンドは、リーダーアルバムのレコーディングの時にピックアップした曲に替え、今度はアップテンポ中心の元気なジャズナンバーを意識的に演奏した。

 ライブステージでは、何といっても元気の良さがないと受けないのだ。

 特にメンバーが若い田尾のバンドでは、若手の良さを引き出すためにも、ある程度の技術を必要とする難度の高い曲を演奏することが、鵜の目鷹の目で聴きに来ているプロたちを納得させる最上の方法だということを、田尾はこれまでの経験知で十分理解していた。

 勿論、田尾が得意なバラッドを、アップテンポの曲の合間にタイミングよく織り交ぜて、バンドの実力をアピールするのを怠りなかった。

 バンドメンたちは、既にリーダーの田尾が目を細めるほど大きく成長し、2管のフロント編成というスモールコンボでありながら、ニューヨークの一流どころと比べ、なんら遜色ないほどの上質で迫力あるパフォーマンスを、目の肥えたニューヨーカーたちにアピールした。

 ジャズクラブ・ヴィレッジでは、初日のステージでバンドの実力を見せつけることが何よりも肝心なことだと田尾は考えていたし、若いメンバー全員も、誰もそのことを疑う者はいなかった。こうしたチャンスは滅多にないことも、お互いに口にこそ出さなかったが十分判っていた。

 このステージで少しでも手を抜いたプレイをするとどうなるか、その怖さも承知していた。つまりジャズの本場ニューヨークのステージでは、どんなミュージシャンでも、本番でハンドレッド・パーセント以上の演奏をしなければ、すぐに新しい才能にそのシートを奪い取られるということなのだ。ステージに立って、そうそうたる業界筋の面々を前にすると、そのことが猛烈なプレッシャーとなって襲いかかってくるのだ。

 バンドは、契約の一週間をとおして全員が熱く燃えた。調教師が元気盛りの駿馬の性格を見極め、あたかも掌でころがすように、田尾はステージ上の若いメンバーをコントロールした。

 

 よくツアーで優勝する新人のプロゴルファーが、最終日のバックナインで自分がどんなプレーをしていたのか全く思い出せない、つまりゾーンに入っていたと、インタヴューで応えることがあるが、バンドメンバーの状態もそれと同様、極限の心理状態にあったに違いない。


 今では田尾のエースとなった愛器エンジエルも、期待にたがわずその魅惑的なビックサウンドを、連日連夜、店内に響かせた。

 誰もがマイルドで太く、そして良く通るその音をひとたび聴いただけで、この日本人の実力がどれほどのものか、否応なく思い知らされた。

 ステージが捌けた後、たびたび地元のミュージシャンが田尾に握手を求めてきた。そして全員がしげしげとエンジェルに目を遣りながら、どこでその楽器を手に入れたのか知りたがった。田尾の、その手の質問に対する応えは決まっていた。


 「もちろん、ニューヨークだよ」 

 

 こんな鬼気迫る緊張感で毎日プレーしたバンドメンたちは、契約の一週間を終える頃には、全員が精魂を使い果たした様子であった。

 しかし田尾たちを聴きに来た全ての客たちが、遠く日本から来た初老のサックス吹きやバンドのヤングライオンたちの掛け値なしの実力をフェアに認め、一目置くようになった。

 

 契約どおり、1週間のステージを終えたあと、クラブのオーナーは次の出演契約を田尾に依頼してきたし、何人かのビッグネームたちが、自分のレコーディングやコンサートに参加しないか、ともちかけてきた。

 田尾は日本でのレギュラーギグがあるので、今すぐには返事ができないとやんわりかわしたのだが、本音は、1年のうちの何回かは一流どころの彼らとニューヨークで演奏できるチャンスを逃したくなかった。

 たいていの相手は、田尾に対し、次にニューヨークに出てくることがあったらいつでもコンタクトしてくれと、未練たっぷりの表情を隠すことなく、ネームカードを差し出しながら握手を求めてきた。

 



第17章   ナンシー



 ヴィレッジの最終ステージを終えたメンバーが、ひと仕事やり終えたという満足そうな表情を浮かべ、カウンター席で一杯飲っていた頃、周りの男たちが振り向くほどの美人が二人、近づいてきた。その一人は間違いなく、金沢の小宮山のクラブ、バードでスコットから紹介されたキャロルだった。


 「ハーイ、キャロル。いったい何故ここにいるんだい」


 驚きを隠さない田尾の問いに、久しぶりに会うキャロルは、長野でのCIRの仕事を辞め、今はニューヨークの父親のところに戻って手伝っているのだと応えた。

 そしてキャロルは、スコットと田尾に、傍にいるもう一人の美人を自分の姉だと紹介した。ナンシーという名の姉は、まるでファッション雑誌の表紙を飾ってもおかしくないほどの美人で、ビレッジにたむろしている男たちの熱い視線を一身に集めていた。シックだが、栗毛の髪に良く似合った仕立ての良いシルクのスーツ、コーディネートされたシューズなど、身につけているもの全てが、彼女のセンスの良さを窺わせた。

 田尾の見るところ、歳は妹のキャロルとひとまわりほども離れているようだった。キャロルによれば、ナンシーは父親が手広く経営するホテル部門を統括するジェネラルマネージャーで、人物評価に長けているニューヨーカーにあって、間違いなく敏腕の一人だと噂されている、と誇らしげに言った。

 

 トランペッターのスコット同様、ハーバード大学ロースクール出身だという彼女は、父親の右腕のような存在で、ニューヨークでも有名なローファームで10年ほど修行をした後、父親のたっての希望で会社に入り、今では実質的にホテル部門全部の経営を任されている、優秀なビジネスパーソンだという。

 キャロル同様、ナンシーも身長が高く、ショートカットした髪型がビジネスの最前線にいることを伺わせた。彫りの深い顔立ちで何を身に着けてもサマになるという、いわゆるニューヨーカーの華やかさが体全体から発散するようだった。透き通るような色白の肌には、さりげないダイヤのネックレスがよく似合っていた。時折ほのかな香りが漂う柑橘系の香水も嫌味がなく、センスの良さが滲み出ていた。


 (流石に、ニューヨークの最前線に立つビジネスパーソンは隙がない)

 

 田尾は、いささか腰が引ける思いだった。


 ナンシーは、田尾に向かって

 「ミスター田尾、とっても素晴らしい演奏でした。今度うちのホテルで演奏していただけないかしら。父も喜ぶと思うわ」と、少し低めの、素晴らしく響きの良い声でオファしてきた。

 何とも言えないほどの、上品で魅力的な笑顔がチャーミングだった。

 つづけて、自分たちの父親がハーバード大学の学生時代に、カレッジバンドでアルトサックスを吹いていたこと、プロになりたがったが結局、祖父の石油ビジネスを継ぐためにそれを断念したこと、妹のキャロルも自分も、ハイスクールの頃から父に連れられていろいろなジャズコンサートに足繁く通ったことなどを、面白おかしく紹介した。


 (とても品の良い英語を話す人だ)


 最近の、スラングが頻繁に出てくる聞くに堪えないアメリカンイングリッシュではなく、いわゆるアッパークラスの作法とも言うべきハーバードイングリッシュを話し、滲み出る知性と幅広い教養を感じさせた。

 翌日、田尾とスコットは、ナンシーとキャロルの招待で、父親がマンハッタンの一等地に所有する、ゴージャスなホテルのレストランで、食事を共にした。遅れて、彼女たちの父親であるトムが、評判の日本人のジャズミュージシャンに会いにテーブル席にやって来た。小宮山と同じような歳回りのトムは、残念ながら二人の娘たちがともに独身で、早く孫の顔を見せて貰いたいと思っているのだが、自分のアルトサックスほどにはなかなか思い通りにはならない、と彼女たちの横顔を覗きながら、田尾に言った。

 スコットは彼の熱い視線をキャロルに送っていたが、彼女の方は気がつかないか、気がつかない素振りを見せた。


 (スコットには残念だが、キャロルには脈がないな)


 田尾は、二人の関係が成熟していないことを嗅ぎ取った。

 食事が終わりに近づいた頃、ナンシーは唐突に、翌月にはビジネスで香港、上海を回って東京に行く予定で、できれば東京で田尾に会いたいと言い、妹のキャロルを驚かせた。

 ナンシーに求められるままに、田尾は自分のモバイルの番号とメールアドレスをメモして渡した。傍でそのやり取りを注意深く観察していたキャロルは、普段は慎み深く自分から初対面の男のモバイルナンバー聞くことなど決してすることのない姉が、還暦も間近い日本人のジャズミュージシャンにただならぬ興味を抱いているのではないかと直感した。

 しかしそれはあくまでもビジネスでのことであり、よもや男と女の深い関係になろうとは、そのときには夢にも思わなかった。


 日本に戻った田尾は、いつものように、レギュラーバンドの仕事をステディにこなしていた。変わった事といえば、2年間一緒に演ってきたトランペッターのスコットが、キャロルと一緒に居たいがために、そのままニューヨークに残りバンドを抜けたことと、田尾が愛車ポルシェ911を下取りに出し、念願の七速PDKという、最新のダブルクラッチ仕様のトランスミッションを装備した、新しいポルシェ911カレラと入れ替えたことくらいだった。


 田尾はニューカーを手に入れ、毎日楽しくて、そして嬉しくて仕様がなかった。子供が、欲しかったオモチャを手に入れたようなものだった。

毎日の都内でのホテルの仕事にはニューカーを走らせたのだが、それに飽き足らず、時間ができればサラリーマン時代の若い頃、BMW2002tiを駆って箱根のターンパイクを攻めて腕を上げたように、週末にはニュー・ポルシェの自慢の7速PDKを操りながら、スポーツカーフリークに人気のあるワインディングロードに挑んでいた。

 格段に洗練された水冷6気筒の水平対抗のエンジンフィールは、以前のモデルに比べても、シルキータッチといわせるほどに上質になり、一層高級感が増したように感じられて、ドライブする楽しみが増えた。

 耐フェード性能が抜群に高く、踏めば確実に車を減速させる強力無比なブレーキ性能、アクセルを踏めば踏むほどに、底知れない力強さを感じさせるエキゾーストノート、体全体をしっかりホールドしてくれる皮製のバケットシート、頑固にデザインテイストを変えないダッシュボード回りのインテリアなど、田尾は、ドイツのアウトバーンで初めてポルシェをドライブした時の感激を思い出すかのように、毎日走り回って飽きることがなかった。


 田尾の耳には、既にニューヨークで録音した自分のリーダーアルバムの評判が届いていた。加えてヴィレッジでのライブステージの様子は、国内外のいくつかのジャズ雑誌などによって大きな扱いで紹介されていた。これまでに経験がないほどの注目を浴びていささか戸惑ったが、反面そうした自分に対する好意的な評価を素直に喜んだ。

 何よりもそうしたメディアの評判が高まったお陰で、日本での仕事のギャラが跳ね上がり、ニュー・ポルシェの購入代金を現金でポンと支払うことができたばかりか、バンドメンバーの給料もアップさせてやることができて、これまでの苦労に見合った仕事の成果に満足していた。

 ニューヨークで田尾がエンジェルを手に入れてから、やる事なすことが恐ろしいくらいに全て上手く運んでいた。事実は小説よりも奇なりという言葉を実感するほど、田尾にとってはここ一年くらいの目まぐるしいほどの自分を取り巻く変化と、恐ろしいくらいの成功に、正直なところ戸惑いを隠せなかった。


 4月の後半に入り周囲の新緑がいっせいに芽吹く頃、予想も期待もしていなかった電話が、ナンシーからかかってきた。電話を取ると、ハーバードイングリッシュの、女性にしてはどちらかといえば低くて響きの良い声が響いてきた。


 (その声は、・・・ひょっとして彼女なのか)


 「今日は、田尾さん。ナンシーです。憶えていますか」続けて


 「お元気ですか」と、流暢な日本語で話したのには、田尾も驚いた。


 ナンシーは、いま上海でのビジネスミーディングの最中で、明朝の早いフライトで成田に向かうのだと話した。そして、できれば都内のナンシーの父親が所有するホテルでランチはどうかと訊いてきた。

 田尾は、彼女が誘ったランチが単なるビジネスランチだと解釈して、快く了解した。そして久しぶりに、買い換えたばかりのニュー・ポルシェを駆って、ショートツーリングを楽しみたい気持ちもあり、車で迎えに行くことにした。

 翌日田尾は、いつもは寝ている早朝の時間帯に横浜のマンションを発った。久しぶりのナンシーとの再会に、自分でも不思議に心が弾んだ。成田の到着ロビーに着いたのは午前10時を過ぎた頃で、はやる気持ちを抑えて暫く待つと、ひときわ目を引くナンシーが姿を現わした。

 マリンブルーに少し黒が入った仕立ての良いスーツに、シルクの白いブラウスを身に着け颯爽と歩く姿は、それだけでもオーラを放っていて多くの人がふり返ったほどだ。 

 手にしているのはやや大きめのコーチのショルダーバッグと、スモールサイズのリモワのジュラルミン製スーツケースだけという身軽ないでたちだった。

 無数の傷跡が見られるそのケースは、いかに彼女が世界中を頻繁に旅しているのかを雄弁に物語っていた。誰が見てもナンシーが醸し出すオーラは、世界を飛び回るビジネスパーソンそのもので、気軽に話しかけるのが憚られるほどだった。

 ナンシーは、迎えに来ていた田尾の姿を見つけると、笑顔を浮かべながら軽く手を振った。到着ゲートからはかなりの数の外国人女性が出てきたが、ナンシーの美しさは出色といっても過言ではなかった。何も知らない他人が見れば、年齢の違いなどから察して、二人はごく普通のビジネスパートナーで、決して恋人同士とは思わなかったであろう。


 成田から都内へ向かう間、田尾とナンシーは、それぞれが互いの近況をポルシェの車内で話し合ったが、時折匂い立つ彼女の趣味の良い香水が、田尾の気持ちをリラックスさせた。田尾は、何故こんな美人のビジネスパーソンとポルシェの中で、こうして談笑しているのか、とその現実感のなさに戸惑っていた。朝の時間帯ということもあって、ニューポルシェは全くストレスなく、ナンシーとのランチの約束を果たすために高速道をクルージングした。

 ナンシーは、新緑が目に眩しい車窓からの風景に目を遣りながら、誰に言うともなく、


 「日本の田園風景は、素晴本当にらしい」と、呟いた。


 ポルシェが、ナンシーの父親が赤坂に所有する立派なホテルの地下駐車場に滑り込んだのは、午後一時を少し過ぎた頃だった。

 ナンシーは単なる思い付きではなく、父親のトムの思い入れが詰まった自慢のホテルを見せたいと言って、田尾の腕をとった。最上階の、スタンウェイのフルコンサートピアノが置かれている趣味の良いラウンジを手始めに、ひととおりホテルを案内した後、約束のランチをとるために2階のレストランに降りると、既に一番眺めの良い席が準備されていた。

 

 ランチにしては豪華な料理と高級なワインを楽しみながら、ナンシーはまず、仕事の話を切り出した。週末だけでよいから最上階のラウンジで演奏してくれないか、というオファーだった。田尾は、いま都内の他のホテルでの契約が二ヶ月残っているので、今は無理だがそれを待ってくれるのなら、リクエストに応じると返事した。ナンシーは、今回の田尾とのビジネスランチの目的を早々に達成したことに、まずは満足した様子を見せた。

 しかし田尾には、この程度の話ならば、ナンシーほどの経営トップが、わざわざ上海から東京に立ち寄ってオファーするほどのことでもないように思われた。


 (何か他に理由あるのだろうか)


 漠然とそんな想いが頭を過ぎった。

 ナンシーは、田尾が快く自分の希望に添った返事をしてくれたことに礼を言い、現在の年収をさりげなく訊いた。1000万円程度だと判ると、その倍の金額を提示して驚かせたが、その申し出には伏線があることなど、このときの田尾には思いもつかないことだった。

 

 ワインの話題を挟み、ナンシーは用意周到に準備してきた言葉をなぞるように、これから一週間ほど日本で休暇をとるつもりなのだが、大好きな日本の原風景を探訪する旅に出たいと思っている。迷惑でなければ京都や奈良、高山といった古都に案内してもらえないか、とビジネスでは決して相手から目をそらさない彼女が、田尾の前ではうつむき加減に、そして遠慮がちに言った。

 

 田尾は、一瞬、自分の耳を疑った。

 確認のためにもう一度聞き返したいほどであったが、ナンシーに恥をかかせることになるので、その言葉を危うく喉元で飲み込んだ。

 彼女からの申し出が単なるビジネスではないことぐらい、田尾にはすぐ理解できた。そしてその時に初めてナンシーが自分に好意を寄せてくれていることが気づいた。しかも、ひと回り以上ほども歳が離れていて、他人が羨むほどの品の良い女性なのだ。何故彼女が、自分にこんな申し出をするのか検討もつかなかった。


(何故、俺なんだ)


 年甲斐もなく、自分の心臓の鼓動が聞こえてくるようだった。


 田尾は、20年前に妻の直美を癌で失くし、現在は気ままな独り身であった。

 純也という一人息子がいるが、既に親元を離れていて、現在は大手の外資系コンサルタント会社のマネージャーとして立派に独立していることもあり、妻のいない不自由さよりも、誰にも干渉されない、現在のミュージシャンとしてのライフスタイルに十分満足していたのだ。

 しかも昨年の12月には、まだまだ先のことだと思っていた還暦を迎えた。

 否応ながら、人生の大きな節目に差し掛かったことを自覚し、後半の人生に思うところが増えた。これからが新しい人生のスタートなのだ。昨年からの、エンジェルが運んでくれた幸運により、仕事は怖いくらいに順調だった。。

 40歳を機に始めた週3回のスポーツジム通いは現在も続けており、トレーナーからは、体力年齢は今でも40歳前半とのお墨付きをもらっていた。健康面での不安はほとんどなかった。気力も同世代のしょぼくれた連中から見れば、まだまだ充実していると自負していた。 

 時おり女の友達とも遊ぶこともあったが、お互い大人の付き合いだと割り切っていたし、いまさら女性に縛られたくない。誰に憚ることなく好きな音楽の仕事を続けられるのならば、このまま独身で過ごすのも悪くない、というのが田尾の偽らざる気持ちだったのだ。

 その一方で田尾は、金沢でジャズクラブを経営する小宮山が、歳の離れた金沢美人と再婚したことを心の中で羨ましく思っていた。歳の離れた者同士の結婚は、言うほど簡単なものではないことぐらい、これまでの経験をとうして十分判っていた。


 ナンシーの気持ちはありがたいと思ったが、これまでと同様、大人の恋を超えてその先に進もうという気持ちには、どうしてもなれなかった。今ここで自分の気持ちを日本流の曖昧さで伝ええれば、きっとナンシーは傷つくことになるだろう。そう感じた田尾は、自分の気持ちを正直にナンシーに伝えた。

 ナンシーは全く表情を崩さずに、田尾の気持ちを大事にしたいと、驚くほど平然と言い放った。ナンシーの表情には、ニューヨークの厳しいビジネスシーンでの修羅場を経験した、大人の女性だけが見せる意思の固さが表れていた。そんな彼女のクールな態度に圧倒された田尾は、それ以上の言葉を繋ぐタイミングを失った。

 二人がともに人生を歩むということは、必然的に一方のライフスタイルを変えざるを得ないということを意味することであり、現実には不可能であるということぐらい、大人同士なら十分理解できることであった。

 つまり、ナンシーがニューヨークを離れ、東京にビジネスの活動を移すことは、経営のトップである立場上現実的ではなかったし、同様に、それは田尾についても同じことであった。万が一、譬えナンシーがそうしたいと願っても、彼女を自分の右腕として信頼している父親が絶対に承服しないであろうことぐらい、田尾には十分に察しがついた。


 田尾は、さっそく仕事先のホテルの支配人や、関係するプロデューサーに、最近の殺人的なスケジュールを理由に、一週間程度の休みをとると電話を入れ、バンドには、リーダー抜きのピアノトリオで仕事を続けるように指示し、ナンシーとの古都めぐりに備えた。

 翌日から1週間、ナンシーの希望どおり、田尾はニューポルシェを駆って、京都、奈良から金沢、高山へと、日本の古都を案内した。お互いに分別のある大人の恋であると承知していても、田尾の気持ちは、ナンシーの心と身体を知れば知るほど、どうしようもなく彼女に傾いていった。

 京都、奈良などの旅行を通じて、田尾はナンシーが予想以上に日本の伝統的な文化に造詣が深いばかりか、アジアの他の国についても驚くほどの知識を持っていることに驚いた。日本の古都めぐりを熱望していたナンシーの輪郭が、おぼろげながら見え出してきた。

 ナンシーがハーバード大学のロースクールを終えた後も、プリンストン大学の日本語学科で、松尾芭蕉の奥の細道などの古典文学を専攻したことを知ってさらに驚いた。

 彼女の日本に対する知識、教養が付け焼刃ではなく本物であることを、田尾はその時初めて思い知らされたばかりか、現在では日本人でさえ話さない美しい日本語を、流暢に駆使することにも感心させられた。

 しかしナンシーは、自分の日本語は今ではオールドファッションだからと言って、人前でこれ見よがしに得意げに話すような品のない振る舞いは、決してしなかった。田尾は、そうしたナンシーのアメリカ人にしては珍しいほどの控えめな立ち振る舞いに、一層好感を持った。


 (ビジネス以外では、日本人以上に日本的だ。一流の教育を受けた教養人というのは、彼女のような人のことなのだ)


 小旅行も終盤にさしかかる頃には、彼女こそが本物のエスタブリッシュメントだ、と田尾はナンシーのことを尊敬するようになっていた。一方、ナンシーとの1週間の古都めぐりは、ポルシェを駆ったロングツーリングに飢えていた田尾にとっても、久々に訪れたリラックスした日々となった。

 

 成熟した大人どおしの日々は、瞬く間に過ぎ去った。

 ナンシーは、田尾との別れを惜しみつつ、成田を後にした。空港出発ロビーでの別れ際には、田尾の耳元で、


 「今度はニューヨークで会いましょう」と、囁いた。

 

 一瞬、その言葉に田尾の気持ちは傾きかけたが、ナンシーの言うままにニューヨークに行けば、彼女から離れられずにずるずると住み着くことになりそうで怖かった。


 (心を決めるまでは、ニューヨークには行けない)

 田尾は、崩れそうになる自分に言い聞かせた。



第18章   ターニング ポイント(転機)



 ナンシーの帰国後、田尾は約束どおり、彼女の父親が都内の一等地に所有する高級ホテルを新たな仕事場として、毎週末ラウンジのステージに立った。

 流石にそのホテルは、アメリカンメッソードを踏襲した従業員の教育など、他の都市ホテルと比べ、全ての面のホスピタリティが群を抜く素晴らしさだった。もちろんナンシーのオファーどおり、バンドのギャラはこれまでに比べ大幅にアップし、バンドマンたちの新しい仕事に対するやる気を出させた。高級志向が強い、ホテルの馴染みの客筋からの評判も上々で、田尾のバンドの人気も次第に高まっていった。

 

 そのまま3ヶ月ほど過ぎたある日、ナンシーから一通のメールが届いた。

 

 メールには、

 《彼女の父親が所有するニューヨークのホテルの改装に合わせて、隣接した10階建のビルの地下に、高級ジャズクラブを開店することになったのだが、その件についていろいろと相談したい》という内容がしたためられていた。


 文面には、ジャズクラブのプレイング・マネージャーとして、田尾を指名したいという信じ難い依頼も含まれていた。

 翌日の朝早く、枕もとの携帯が鳴った。ナンシーからだった。


 「hi  satoshi」

 二人で過ごした日本での一週間に、彼女は田尾のことをファーストネームで呼ぶようになっていた。


 「メールを読んでいただいたかしら?」

 彼女にしては珍しく、自信なさそうな声だった。


 「読んだよ。次からはできたら日本語で頼むよ」と、田尾が彼女の気持ちをほぐすために、冗談を言い、


 「驚いたよ。僕にとっては、本当に光栄なオファだとおもっているよ。ありがとう」と、正直に礼を言った。


 「そう、じゃ、プレイング・マネージャーの件については、受けてくださるの?」と今度は、ナンシーがはっきり判るほどの明るい声で反応した。


 「今回の話は、私の父が前のめりになっているの。私が父からこの件について相談を受けたのも、ほんの10日ほど前で、とても驚いたわ。satoshiに東京のホテルでプレイしてもらっているのも、どうもそのことが頭にあったみたいね」

と、今回のビジネスが、彼女の父親のイニシアチブで進められていることを、暗に仄めかした。


 「なにしろ、ニューヨークでジャズクラブをオープンさせることが父の長年の夢だったから、毎日その話でもちきりなのよ」と、父親思いの彼女らしく、嬉しそうに言った。


 「父は、そのクラブのステージで自分でもプレイしたいらしいの。勿論サトシのバンドの一員としてね。もっとも、satoshiがノーと言えばステージの件はなかったことにするけど」と、田尾からすぐにでもOKの返事がもらえるだろうと確信しているような口ぶりだった。


 「それで、僕は一体何をすればよいのかな。ナンシー」と、田尾は本題に入った。


 「satoshi、貴方には新しいジャズクラブの経営を一切任せるから、自分の思い通りにマネージメントしてほしいと思っているの。これは父の意見でもあるの。だからsatoshiには、とりあえず空きビルの地下フロアを自分の目で確認してもらって、貴方が考える理想のクラブに造り替えて欲しいの。勿論クラブの売り物は、サトシをバンドリーダーとする趣味の良い演奏よ。これは忘れないでね」


 と、まるで父親から前もって渡されたコメント原稿を、一言も間違ってはいけないかのように、慎重に、ゆっくりと話した。


 「satoshi、とにかくできるだけ早くニューヨークに来て欲しいの」

 

 田尾は、ナンシーからの申し出が、自分の転機になるのではないかと直感した。エンジェルを手に入れてから、自分の演奏が高い評価を受けたといっても、所詮、このままミュージシャンとして現役を続けられるのは、長くとも10年から15年程であろう。 

 評判の良いミュージシャンでも、たいてい70歳を超えれば、体力とともに気力も衰えることを、業界の先輩たちを横目で見て痛感していた。

 田尾は、50歳を過ぎた頃から、還暦後には思い切ってライフスタイルを替えてみたいと、具体的なイメージはないが、なんとなく願望していた。

 ミュージシャンとしての活動をある程度抑えて、得意な作・編曲の仕事を中心にシフトするか、はたまた先輩の小宮山が、金沢でジャズクラブを開店させたように、自分も小奇麗な店を持って、ゆったりと暮らすのも悪くない、と漠然と思っていた。

 

 具体性のない、極めて曖昧なアイデアだったので、還暦を過ぎた現在、恵まれた現在の生活を捨ててまで、敢えて自分の夢にかけるほどの熱い思いはなかった。正直に言えば、思いがけず季節はずれに開花したような自分のキャリアを、ここで捨てるのは余りにももったいない、との想いが強かったのだ。

 マスメディアでの注目度がウナギ登りになるにつれ、嬉しいことに田尾のギャラもバブル期のレベルに戻っていた。業界の仲間たちが、経済停滞に影響されたショービジネスの衰退につれ仕事が減ったとか、酷いときには喰うに困っているといった声があちこちで聞こえる中、自分はエンジェルのお陰で、気味が悪いくらいに順風満帆だった。

 収入も税務署の調査を心配するほどに増え、新しいポルシェ911カレラを現金でポンと買えるほどに、金にも余裕ができた。こんな恵まれた生活をいま変えることはない。ライフスタイルを替えるのは、多少、自分の旬が過ぎたあとでも決して遅くない。売れている今のうちに、田尾というブランドでもっと稼がせてもらおう、と計算していたのだ。

 ナンシーからのオファーは、近頃、そんな風に考えていた田尾にとっては、かなり魅力的なものに思えた。


 「それでは、来週早々にニューユーク行くから、まず予定しているビルの地下フロアを見せてもらえるかい。それと君のお父さんからも具体的な話を聞いたうえで、返事することにしたい。それでいいかい、ナンシー」と、申し出を了解した。


 「嬉しいわ、satoshi。それでは、ニューヨークで待っている。さっそくフライトチケットを送らせるわ」と、電話の向こうで、ナンシーの満面の笑みが想像できるほどの張りのある声が響いた。

 

 翌週、ナンシーとの約束どおり、仕事に影響がないウィークデーを選んで、田尾はニューヨークへの直行便に飛び乗った。ナンシーが用意してくれた豪華なファーストクラスのシートに身を沈めながら、昨年の5月からの頻繁なニューヨーク通いの日々を思い出していた。


 (エンジェルを手に入れてからの俺は、本当に運が良い)

 

 機内サービスで出された、冷たいシャンパンにすっかり酔った田尾は、そのままガガーリア国際空港到着の機内アナウンスで起こされるまで、ただひたすらに眠った。まるでこの1年の、予想もしない仕事の充実振りを物語るように。


 空港到着ロビーには、ナンシーと父親のトム・マッケンジーが迎えに来ていた。田尾とトムは、前回ヴィレッジの一週間のステージを終えたあと、ナンシーとキャロルを交えて3人で食事をともにして以来の再会だったので、まるで、旧友が久しぶりに顔を合わせたかのような雰囲気で打ち解けた。

 

 トムは、末娘のキャロルからナンシーの田尾に対する想い入れを前もって聴いていたので、父親としての多少の無念さはあったものの、娘の幸せを思えば嬉しくもある、という何とも複雑な気持ちだった。

 しかしそれを田尾に気づかれるほどの、心の狭い人物ではなかった。トムはそういった個人的な感情はおくびにも出さず、ニューヨークで成功した超一流のビジネスマンらしく、自分が所有するホテルのスウィートルームに田尾を招き、冷えた白ワインのボトルを開けさせ、はるばる日本から長旅をしてきた客人を、最大級のもてなしでねぎらった。

 田尾は、ホテルの建築デザインやインテリア、さらにそこに備えられている調度品などの趣味の良さ、そしてホテルマンたちのマナーの素晴らしさなど、サービスの質の高さに目を瞠った。東京では仕事柄、高級ホテルに出入りする機会が多い田尾の目で見ても、トムとナンシーのホテル経営に対する並々ならぬ熱意を感じ取った。


 (ジャズクラブのほうも、客層を限定し、高級志向にしたほうが良いかもしれない。ホテルとの、統合された経営戦略が必要だ)


 プロのミュージシャンになる以前、大手広告代理店で辣腕を発揮した田尾は、サービス産業の微妙な時代変化を嗅ぎ取り、現場に反映させる経営的なセンスを持っていた。単なる一介のバンドリーダーではなく、これからはそれに加えてニューヨークの一等地でオープンさせるジャズクラブのマネージメントの全責任を負うことになるのだ。

 相当なプレッシャーもかかるが、反対に、この経験がさらに自分をひと回りもふた回りも大きく成長させてくれそうな予感がしていた。


 トムとナンシー、田尾の3人は、ランチミーディングを済ませ、ジャズクラブをオープンさせる候補物件をチェックするため、ホテルを出た。

 ホテルに隣接したそのビルは、築後、かなりの年数を経た様子が窺えたが、戦災にあっていないニューヨークでは、この手のビルはさほど珍しくはなかった。それよりも角地に立つそのビルの立地条件は、これ以上はないと思われるほどで申し分がなかった。ちょうどパリのブルーノートが入るアパートを、ふた回りも大きくしたような建物だった。

 ジャズクラブとなる予定の、地下フロアーに入った田尾は、天井の高さと、300坪はあろうかと思われる、その広さに目を瞠った。ここにジャズクラブをオープンさせれば、恐らく世界で最も規模の大きいものになるだろうと、天井を仰ぎ見ながら圧倒された。瞬間的に田尾は、内装については日本の古民家のテイストで仕上げたいと思った。

 欅や松、ヒノキなど、日本から本物の古材を集め、柱や梁を表しにし、全ての壁を白の漆喰塗りとする。店内に備えられる椅子、テーブル、照明などのインテリアは、現代建築の巨匠、コルビュジェのテイストで統一すれば、高級感のある、面白い空間ができる。

 それならば、絶対にニューヨークの、他のクラブと差別化することができるし、資産価値も高まるのではないか、そんなアイデアが頭の中を駆け巡った。内部の造りこみについての、田尾のアイデアは固まったが、問題はこのジャズクラブに相応しいコンテンツ(出し物)をどうするのか、というクラブの売り上げに直結するコアの戦略を詰める必要があった。


 トムとナンシー親子は、敢えて自分たちの意見を控え、口にしなかった。ホテルに戻ってからの本格的なミーディングで、田尾のアイデアに期待したい様子であった。

 ミーティングでは、まず田尾が口火を切った。 

 ビルの立地条件、クラブの広さについては全く申し分がないと伝え、このビルがレンタルなのかそれとも購入するのか、とオーナーのトムに訊いた。


 「銀行からの融資を受けなくても、買えそうな物件だったので、すぐにサインしたよ」こともなげに、トムが言った。


 そして、彼は、

 「完成後は、このビル全部をナンシーに譲り、全てを任せるつもりだ」と、日頃の自分の娘の献身的な貢献に、感謝の気持ちを込めるように続けた。

 思いもよらない父親の言葉を聞いたナンシーは、飛び上がらんばかりに驚き、満面の笑みを浮かべ、温かいまなざしを向けたままの父親をハグした。

 ナンシーは、ビルの一階を高級ブティックに、そして2階以降を高級アパートに改装して分譲するつもりだと明かした。


 ニューヨークでは、市内の一等地でのアパート需要はバブルが弾けた今でも高く、常に品薄の状態で、このビルをセンスの良いインテリアと設備を備えた高級分譲アパートに改装すれば、資産価値は倍増するのだと解説した。そして恐らく半年後には、ビルの購入額の倍程度のリターンが手に入るだろうと、さも当然のような顔でいった。


 「投資としては、悪くないわね。パパ」と、ナンシーが傍にいる父親のトムに、さりげなく言った。


 (全く、この親娘のビジネスは、スケールが格段に違う)

 

 田尾は、半ば呆れて言葉が出なかった。


 田尾はホテルと同様、ジャズクラブの客層を、リッチ層に狙いをつけることを提案した。そうすれば客単価を上げることができるばかりか、客たちのステータス感を満足させられる。そのためには全席予約制にするのは当然として、料理やワインもホテルと同様のグレードの高いものを提供できる体制が必要だと訴えた。

 肝心のステージパフォーマンスは、ジャズの楽器演奏だけではなくボーカル中心の、大人の雰囲気を売り物にする戦略を提案した。狙いはずばり、金持ちの大人のための洗練されたクラブというコンセプトなのだ。

 田尾はこのボーカルこそが、ステージパフォーマンスのコアメニューになると説明し、そのためには多少金はかかっても一流の歌手を獲得することが不可欠であると強調した。

 

 田尾は内心、昨年のヨーロッパツアーと、ヴィレッジでのレコーディングをともにした、大物歌手のジャッキーを頭に思い描いていた。彼女ならばグラミー賞を獲った実績からしても、そのネームバリューはニューヨークでも群を抜いているので、これ以上の人選は無いと考えていた。グラミーウィナーのジャッキーを、ジャズクラブのハウスボーカリストに迎えるという田尾のブリーフィングは、トムとナンシーを驚かせた。

 これまでの経験からしても、どんなに上手い楽器奏者であっても、インストゥルメントだけのステージでは客は飽きてしまうことを、田尾は十分すぎるほど判っていた。音楽だけを聞かせるライブハウスならそういった仕掛けでもよいが、今回のジャズクラブは、料理も酒も一流のものを提供するのである。そんな場所には一流のエンターテイメントが絶対必要なのだ。

 田尾は、ヨーロッパ各地でのジャッキーとの公演を通して、クラブやハイランキングホテルでの客たちの反応を、ステージの上で注意深く観察していたのだった。直接、自分の肌で感じ取った経験に、田尾は絶対の自信を持っていた。

 歌唱力は勿論のこと、お洒落で飽きさせないスピーチを披露するボーカーリストがいれば、それだけで客は満足し、高いチケットも難なく捌けることも判っていた。勿論、ジャッキーのバックバンドのリーダーには自分が就く予定だと言って、トムとナンシーを安心させたことは言うまでもなかった。

 

 一連のブリーフィングを終えると、トムは、


 「ミスター、田尾。ナンシーと君が親しい友人だということは、この際抜きにして、お互いにビジネスマン同士として、私のプランを聞いて欲しい」と、切り出した。


 「まず最初に、もしサトシがジャズクラブの経営に興味があるなら、生活の拠点をこのニューヨークに移す必要があると思うが、どうかね」と、田尾の表情を窺った。


 「君には、先ほど案内した地下のジャズクラブの一切のマネージメントを任せたい。毎週の売り上げからコストを引いた、残りのベネフィットの30パーセントが、君の取り分だ。その代わり6ヶ月間、店が赤字だったら、そのときは君の居場所はない。私とオーナーのナンシーにきっちりとベネフィットをもたらしてくれれば、君の将来は明るい。君が若い頃、広告代理店に勤めていてやり手だったことは、ナンシーからよく聞いて知っている。君にとって、決してハードルの高いオファだとは思わないが、どうかね」と、自信ありげな口ぶりで提案した。


 「できれば、ときどき目の前にいるオーナーの父親が、君のバンドに飛び入りするというサプライズを提供すれば、きっと、客たちは喜ぶと思うが」と、冗談を言いつつも、トムの目は笑っていなかった。


 「オーナーの父親といえども、前もってバンドリーダーのオーディションを受ける必要がありますね」と、田尾が軽くいなした。

 

 田尾にとっては、トムの申し出が、自分にとっていかにリスクが高いものであるか、十分に判っていた。しかし一方では、還暦を機に、自分が勇気を持って新しい世界に挑戦するには十分魅力的なフィールドであるとも感じていた。


 「メニィ サンクス。トム、ナンシー。素晴らしいおオファに感謝します。大変光栄なことだと思っています。こんなチャンスは二度とないということも、判っているつもりです。しかし、僕にとっては未知の分野に挑戦することなので、アイデアはいっぱいあるが、上手くクラブをマネージメントできるかどうか正直、自信がないのです」と、正直に、心にあるものを包み隠さず吐露した。


 「僕の返事の猶予は、どれくらいあるのですか」と、心持ち沈んだ表情を浮べながら、訊ねた。


 「ジャズクラブの工事は来週にでも始める予定だが、ミスター田尾にもいろいろと準備しなければならないこともあるだろうから、一週間ほど君の返事を待つことにしよう」と、トムがいつものように極めてビジネスライクに応えた。

 

 一通りのミーティングを終えた後、トムは顧問弁護士とのミーディングがあるといって、席を立った。部屋を出るとき、


 「ミスター田尾、君とナンシーが親しい友人になってくれたお陰で、長年温めていたジャズクラブをオープンさせる決心がついた。頼むから私の夢を壊さないで欲しい。私は、きっとナンシーも同様だと思うが、君の挑戦をサポートするつもりだ。ここはアメリカだ。我々のチャレンジを成功させようじゃないか。それでは失礼するよ」と、田尾に握手を求め、ホテルの玄関に待たせているリムジンに消えた。


 トムを見送った田尾の手には、トムの温かい手の感触がいつまでも残っていた。


 (ナンシー同様、トムも一流の人物だ)

 

  田尾は、こんな人物を引き合わせてくれたエンジェルに感謝したい気持ちだった。

 

 ひとり残ったナンシーに、田尾はその日の晩のスケジュールを訊ね、空いているとわかるとブルーノートのライブを楽しみに行かないかと誘った。

 田尾からの誘いを待っていたかのように、ドレスアップしたナンシーが、夕方、田尾の部屋のドアをノックした。二人は、ホテルの豪華なディナーを楽しんだ後、ニューヨークで一番のライブハウスに乗りつけた。クラブを出たのは午前を回っていた。日本での古都めぐりの楽しい思い出が、二人を熱くさせていた。

 その夜のナンシーは、田尾の求めるまま、これまでの遠く離れた時間を取り戻すが如く、執拗に愛を確かめた。妹のキャロルが既に見抜いていたように、二人の出会いは、エンジェルがとりもつ運命によって、新たな絆を確かめ合わずにはいられないほど、濃厚な大人の恋に変貌しつつあった。


 翌朝、田尾を空港まで見送るため、ナンシーがホテルのロビーで、コーヒーを味わいながら新聞に目をとおしていた。田尾は、忙しいナンシーを慮ってタクシーをピックアップするからとやんわり断ったのだが、ナンシーは頑として耳を貸そうとはしなかった。

 ホテルの玄関先には、イエローペイントに塗られた、ポルシェ・ケイマンが待機していた。ひときわ人目を引くこのポルシェをナンシーがドライブすると聞いて、田尾はそのミスマッチに驚いたが、彼女とスポーツカーの趣味が共通していることに何ともいえない喜びを感じた。

 ナンシーのケイマンは、2015年のビッグチェンジを受けた後の最新モデルだ。田尾が最近買い換えた、911カレラに比べエンジンパワーはすこし劣るが、マンハッタン周辺で乗りこなすには、必要にして十分なモデルだ。ナンシーのドライビングは感心するほど上手で、普段ポルシェを乗りこなしている田尾を大いに刺激した。シートでの姿勢、アクセルの踏み方、ブレーキングのタイミング、ハンドルの切り方など混雑するニューヨークの街なかで、まるで思いのままにポルシェを操った。

 どこかでドライビングを習ったのかという田尾の問いに、ナンシーはたった一言

「パパよ」と応え、さらに田尾を驚かせた。

 

 ナンシーの父であるトムは、ニューヨークのビジネス界ではスポーツカーのマニアとして有名で、ヴィンテージの「フェラーリ・ディノー」やマニア垂涎のロードゴーイングカー「マクラーレン P1」のほか、田尾と同じく「ポルシェ911カレラ・ターボ」を所有していると教えてくれ、ヨットとともに、トムの唯一の息抜きだと言った。

 ガガーリア国際空港が近づくと、ナンシーは、田尾がニューヨークに来てくれるなら、今改装中の最上階のアパートを用意すると申し出た。田尾はナンシーの一途な思いをあり難いと思ったが、返事をするにはまだ早いと伝え、ニューヨークに心を残したまま飛び去った。

 機中、田尾はナンシーを愛おしく想う気持ちと、これからの自分の選択すべき道について幾度となく思案したものの、決断するにはいたらなかった。 

 

 

第19章   サムシング・ニュー ( 挑 戦 ) 



 日本に戻った田尾は、自分ひとりではなかなか見つけられそうにない答えを出すために、息子の純也に相談することにした。純也は、癌で亡くした妻、直美との間にもうけた一人息子だった。

 小さい頃から、ピアニストだった直美からクラッシックピアノを徹底的に仕込まれ、中学生になる頃には全国大会のピアノコンクールにも優勝するほどの腕になったのだが、高校に入ると一転して親の言うことなぞどこ吹く風といったように、直美の落胆振りをよそにゴルフとスキーに熱中した。

 成績は、数学が飛びぬけてよくできたが他の学科はおしなべて並という程度で、結局北大の理学部数学科に入った。その大学を選んだ最大の理由は、スキー場の雪質が最高だという、いかにも、後先を考えない青年特有の単純な発想によるものだった。

 加えて大学のゴルフ部に入部した純也は、週末は小樽カントリー倶楽部でキャディをしながら腕を磨き、ウィンターシーズンが到来すれば、ニセコスキー場のレストハウスでコックのバイトをしながら思う存分北海道のパウダースノーを満喫するなど、人一倍学生生活を楽しんだ。

 おかげで大学院では、指導教官から博士課程は無理だとの烙印を押され、当初の目標だった研究職に就くことをあきらめざるを得なかった。

 田尾は、純也が将来、高校の先生にでもなるのだろうと息子のことを見ていたが、当の本人ははなからその気はなく、都内に本社のある、外資系の大手コンサルタント会社への就職をさっさと決めた。以来、親元を離れ独立した純也とは、時々息子夫婦たちを食事に誘うか電話で近況を話す程度の関係だった。

 

 純也には、北大の大学院時代に知り合い学生結婚した妻がいた。ゴルフとスキーの趣味が取り持つ縁で結婚したような夫婦だった。息子夫婦には幼稚園の年長組みに通う一人息子、つまり田尾にとっては庚亮という初孫がいるのだが、田尾は、亡くなった妻の血を受け継いで、明らかに音楽的な才能の片鱗を見せるこの孫が可愛くて仕方がなかった。

 庚亮には徹底的な音楽教育を受けさせるよう、純也が閉口するほど熱心に勧め、知り合いの音楽大学の教授に無理を言って個人レッスンを頼み込んだ。そして、毎月の高額なピアノのレッスン料を肩代わりするほどに、初孫に入れ込んでいた。

 最近、息子夫婦に連れられてちょくちょく田尾の横浜のマンションに顔を見せるようになった孫は、田尾の商売道具であるサックスにいたく興味を持つようになり、田尾を喜ばせた。

 

 「純也、ちょっと庚亮をつれて今度の日曜日に遊びに来ないか。二ヨーヨークのお土産もあるし」と、息子を誘った。


 その週末、久しぶりに横浜のマンションを訪ねてきた息子夫婦と孫の庚亮に、いつもよりも張り込んだニューヨーク帰りのお土産を渡しながら、純矢に、ちょっと相談に乗って欲しいと切り出した。

 田尾は、昨年五月以降の、目まぐるしい身の回りの変化をかいつまんで説明し、現在の自分の置かれている状況についてアドバイスが欲しい、と話し始めた。

 自分の父の近況を、最初は面白おかしく聞いていた純也も、日本での仕事を休止しニューヨークに拠点を移す段になると、流石に表情が締まってきた。父の話を、いつものような冗談を入れず最後まで真剣に聞いた純也は、暫く口を開かなかった。明らかに、最近還暦を迎えた自分の父親を慮ってのことであり、まして、まだ顔さえ知らないナンシーとの行く末を心配してのことであった。

 純也にしてみれば、母を癌で亡くしてから既に相当の歳月が流れ、自分の父にも人生の残された時間を共にする伴侶が必要だと、最近思うようになっていた。しかし、まさかひと回り以上も歳が離れているアメリカ人女性と生活を共にするという突拍子もない話は、純也にとっては現実離れしていて、にわかには信じ難い話だった。

 おまけに、そのビジネスパートナーとなるアメリカ人女性とは、ニューヨークで一緒に住むことになるが、結婚するかどうか判らないという、小説にでも登場しそうなラブストーリーには、正直抵抗があった。


 (一体、親父は何を考えているのだろうか) 

 

 純也は、父が還暦を機に何か新しい人生に挑戦したがっていることを、日頃の口ぶりでうすうす感じていたし、残された人生を家族ではなく、自分のために精一杯楽しんで欲しいとも思っていた。


 (結局、親父はあの歳になっても、何か新しいことに挑戦したがっているのか)

 

 今度の相談話は客観的に見て、明らかにリスキーだと感じたが、さりとて、昔から自分の夢を追ってそれに向かって迷いなく進むという父の頑固な性格を知り抜いている純也は、父に対してリスキーなことを承知で飛び込むことも男のロマンだと言い、反対はしないと伝えた。

 家族として心配はするが、敢えて反対はしないという、自分の息子ながら大人になったことを感じさせるメッセージを送ってくれた息子に感謝し、田尾は、迷いなく自分の道を進もうと胎を決めた。

 

 そして、これまで揺らいでいた自分の気持ちをやっと吹き切ったかのように、

 「ニューヨークに行って、新しい生活を始めるよ」と、自信に満ちた声で言った。


 「お父さん。ジャズクラブをクビになったらいつでも日本に帰って来いよ。それまでは、このマンションには、俺たち家族が住まわせてもらうよ。ちょうど今のマンションが手狭になっていて、広いところを物色していたところなんだよ」

と抜け目なく、自分の妻の方に目を遣りながら言った。

 

 翌日、あれほど悩みに悩んだ人生最大の難問に答えを見つけた田尾は、晴れ晴れとした気持ちで、ニューヨークでのビジネスパートナーになるであろうナンシーに電話を入れた。


 「ナンシー、僕は挑戦してみようと思う。君とは旨くやっていけそうだ」とだけ、短く伝えた。


 ナンシーには、その言葉だけで十分だった。

 電話の向こうでは、いつもの陽気なお喋りは影を潜め、鼻を詰まらせたナンシーがいた。


 「ありがとう、satoshi。二人で世界一のジャズクラブをつくりましょう。このうれしいニュースをまず父に報告しないと。彼の喜ぶ顔が目に浮かぶわ」と、かろうじて途切れ途切れに言った。


  「ところでsatoshi、でニューヨークにはいつ来てくれるの。余り待たせないでね。クラブの改装工事は、サトシの希望通り順調に進んでいるから心配しないで」

 

 田尾は、横浜を引き払いニューヨークに定住することを、息子の純也にも洗いざらい打ち明け理解を得たことや、現在の仕事の後始末を綺麗に片付けるには、さらに2、3ヶ月ほどの時間が必要だと説明した後、それでも間違いなくニューヨークに行くから待っていて欲しい、と確信に満ちた声で約束した。


 (いったん心を決めてニュークに向かえば、恐らく2、3年は日本には戻れないだろう)


 エンジェルがたらしてくれた幸運のお陰で、プレイング・マネージャーとして現地で自分の可能性を求める仕事に就くからには、自分のみならず、ナンシーのためにも納得できる成果が欲しいと強く思った。

 

 2週間後、これまで何かと世話になったジャズ研時代の先輩であり、ジャズクラブ・バードのオーナーでもある小宮山にしばしの別れを告げるため、田尾は金沢に向かった。勿論愛車ポルシェを従えて。

 金沢に着いた田尾は、バードに顔を出す前に、市内郊外の高台にある野田山墓地に向かった。日本三名園のひとつ、兼六園の四倍もの広大な敷地には、百万石の大藩として国中にその名をとどろかせた加賀前田家の墓所があり、市民の心の安らぎの場として親しまれている。

 金沢最大のこの墓地には、両親が眠る墓があった。田尾はニューヨークに旅発つ前に、自分の気持ちに踏ん切りをつけ退路を断つためにも、墓地に眠る両親に自分の覚悟を報告しておきたかった。

 金沢市内の中心地からわずか数キロしか離れていない墓地には、荘厳な雰囲気が満ち溢れていた。風のざわめきと鳥たちのさえずりだけが、墓地の木々の間にこだましていた。田尾はひとり静かに、その荘厳な余韻を全身で感じながらゆっくりと歩いた。緑深い空間に包まれるうちに徐々に肩の力が抜けていくような、安らいだ気持ちになっている自分を感じた。久しぶりに見る墓は、誰が掃除したのか、綺麗な生花が供えられていた。


 「親父さん、お袋さん、ただいま帰りました。元気でやっているかい」

  誰に言うともなく、田尾は囁いた。


 (自分もやがて、両親の眠るこの地に戻ることになるのだろう。残された人生を悔いなく生きよう)


 両親の前で静かに手を合わせながら、自分に言い聞かせるように、これからの一点の曇りもない覚悟を、穏やかに語りかけた。

 墓参りを終えた田尾は、バードに向かった。事前の電話も入れない突然の訪問に、小宮山はいったいなぜ田尾がここにいるのか、と呆気にとられた表情で見つめた。

 「なんと、なんと」といいながら、暫く声がなかった。


 「昨年のバード開店20周年記念の時は、本当にお世話になりました。ところで突然の帰省、何かあったの」と、訝しげな表情を隠さないで訊いた。


 田尾はニューヨークで開店するジャズクラブのプレインマネージャーに就くため、暫く日本を離れることを説明した。そして、キャロルの姉であるナンシーとの出会いと、その後の顛末をかいつまんで話した。

 小宮山は、田尾の現実離れした話を一言も聞き漏らすまいと、ただただ口を開くことなく田尾が話し終えるのを待った。


 「なあ、哲。本当に俺はお前が羨ましいぜ。お前のその歳で日本を離れ新しい仕事にチャレンジするのは相当に悩んだだろうし、決断するにはさぞかし勇気が要ったことだろう」

 

 いつものシニカルな口調はおくびにも出さず、後輩の決断に心底感心した表情で言った。


 「だいたい俺たち団塊の世代の連中はとうに第一線をリタイアしているか、その直前だ。俺が知っている銀行時代の同僚の何人かは、既に子会社に出されている奴、病気でベッドから抜け出せない奴、自殺した奴、数えればきりがないほどだ。そんな中で、まだまだ日本で勝負できるのに、敢えてそれを捨ててニューヨークで新しい仕事にチャレンジするなんて、全く恐れ入りました。お前さんを見直したよ」


 傍で小宮山の妻の真理子が微笑んでいた。金沢美人らしく、藍染の紬の着物が良く似合っていた。


 「しかし、ニューヨークで哲が一緒に住むという女性が、あのキャロルのお姉さんとは。青天の霹靂とはまさにこのことだな」と言って、小宮山がしばし絶句した。


 「人の縁とは本当に不思議だね。人生には、何が起きるか判らないものだ」

と、感無量の面持ちで呟いた。


 「小宮山さんが真理子さんと結婚すると聞いたときには、本当に僕もそう思いましたよ」

 

 今度は田尾がまぜっ返すと、小宮山が大笑いした。

 そのやり取りを傍で聞いていた妻の真理子が、上品な笑みを浮かべながら小宮山を見つめていた。


 笑い声が収まる頃、小宮山はいつになく厳しい表情を見せて、

 

 「ニューヨークでエンジェルを手にして以来、恐ろしいくらいに哲に運が回っていると感じる。運って奴は、永遠には続かない代物なんだ。それは俺が一番良く知っている。人の一生でラックと言うのはノーリミットじゃあないんだ。必ずリバウンドがやってくる。俺は、そのことを心配するんだ」と、自分の過去を振り返るように言い、


 「哲に、今後どんな禍がしのび寄ってくるのか。それこそ神のみぞ、いやエンジェルのみが知っていることなんだが」と、田尾の身を案じた。

 

 小宮山の言葉をさえぎるように、田尾はこれで当分バードにも足を向けることができないので、今夜はお別れの挨拶を兼ねて、オールナイトのジャム・セッションを開きたい、と小宮山に段取りを依頼した。 

 小宮山に異存があろうはずがなかった。その夜、小宮山が急遽集めた地元のトップクラスのミュージシャンたちが、つきつぎとバードに集合した。彼らは、既に小宮山から、田尾が暫く日本を離れることを聞いているらしく、尊敬する大物ジャズマンに次々と挨拶し、我先にとステージに上がった。セッションは、さながら田尾の送別会のような雰囲気で盛り上がった。馴染みの客たち全員が、田尾のテナーサックスソロを聴きたがった。

 エンジェルは咽び泣くようなサウンド出したかと思えば、一転してコールマン・ホーキンスのような硬質なビッグサウンドを店内いっぱいに響かせて、聴衆をノックアウトした。誰もが、田尾との暫くの別れを惜しむかのように、無駄口を叩くものはいなかった。セッションが終わりに近づく頃、誰かが言った。


 「田尾さん、バードの25周年記念には顔を出してくれるんでしょうね」    

 田尾はそれには応えず、ただ黙って笑っているだけだった。


(そんな先のことは、俺にも判らないんだ)


 ニューヨークに発つまでに、田尾には片付けなければならない仕事が山ほどあった。自分が抱えている現在の仕事の後始末をつけることは勿論のこと、バンドのレギュラーメンバーたちの身の振り方も考えてやらねばならなかった。

 メンバーには、一緒にニューヨークに行きたければ連れて行くと伝えた。対して、全員が異口同音に同行したいと応え、田尾を喜ばせた。

 しかしメンバーには半年間クラブの売り上げが上がらず赤字が続くようなら、マネージャーの自分は間違いなくクビになるだろうと話し、そうなれば全員が同じく仕事を失うことになるがそれでも良いかと、率直に訊いた。

 

 バンドのメンバーにとっては、ボスの田尾の言うことぐらいこの業界では当然の事だと思っていたし、そんなことよりも本場ニューヨークのジャズクラブで、ハウスプレイヤーとしてキャリアを積むことのほうがより魅力的に思えた。

世界一競争の激しいニューヨークで認められれば、ビッグチャンスを摑むことができる。つまりそれはビッグマネーを手にすることと同じ意味を持つということぐらい、誰もが知っていた。たとえニューヨークに連れていっても、ギャラのアップは当分ないとボスから言い渡されても、誰も不平を口にする者はいなかった。

 田尾はニューヨークに出発する前の最大の宿題に取り掛かった。

 それは、前回のニューヨークからの帰りのフライトの中で考えついたアイデアだった。

 大手広告代理店時代の企画力が、あたかもデジヤ・ヴのように時を超えて蘇ってきたのだ。田尾は、まず広告代理店時代に知り合った、旅行エージェントの大熊社長にコンタクトをとった。

 

 大熊は、国内で最大の旅行代理店の企画部長を最後に独立し、スペシャル・インタレスト・ツアー社(SIT)を起こした。企画部長時代の辣腕ぶりは業界の関係者なら知らぬ者はいないほどで、同業他社から恐れられていた。

 このSIT社は、世界のリッチ層に限定しテーマを絞ったツアーの企画で急成長していた。会社の設立当初は、海外からのインバウンドに限定した企画でヒットを飛ばし続けていたが、アメリカのテロや、東北大震災の影響で客足が遠のき、起死回生の商品を開発しようと躍起になっていた。田尾は大熊にアメリカの知られざる文化をテーマにした商品開発を持ちかけ、飛行機の中で書き上げた詳細な企画書を提示した。

 

 アメリカと言えば、建国以来の歴史は浅いが、だからこそ、世界から一流の文化を飲み込んでいる国なのだ。田尾は、アメリカのそうした富を紹介するツアーを企画した。つまりアメリカの誇るジャズ、ブルース、カントリーといった音楽や現代美術をクリエートするスタジオやアーティスト、世界の富を感じさせるニューヨークの街並みの紹介されていないスポット、ショッピングなどをパッケージ化した内容だった。

 勿論、ナンシーの経営するホテルチェーンとのタイアップを前提として、大熊が手にする魅力的なマージンを提示することも忘れなかったし、近々開店するジャズクラブのスペシャル・テーブル席を、年間を通して売りつけることも織り込み済みだった。特に、今回は急成長するアジア、つまり中国、インド、韓国、台湾などのリッチ層をターゲットに、アメリカに呼び込もうという企画をもちかけたのだ。

 現在でも、小規模ながらアメリカでのジャズツアーだけを手配するマイナーなエージェントはあるにはある。それらのエージェントの商品価格は低目に押さえられているが、信頼できるゴージャスなホテルやジャズクラブのステージがセットされていなかったりして、リッチ層とっては満足できるクォリティではないことを、田尾は熟知していた。

  一般に、英語でコミュニケーションできないアジアからの観光客は、いかにジャズやカントリー、ロックミュージックが好きだと言っても、個人でチケットを手配したり治安の悪いクラブに出かけるのは相当抵抗があってまず尻込みしてしまうのが普通だ。

 ジャズクラブで現地のネイティブの連中と同じように酒や料理のオーダーを伝えるのは、簡単そうで結構ストレスがかかってしまうものなのだ。ましてステージが終了した深夜にタクシーを拾ってホテルに帰るという、地元の客たちにとっては当たり前のことでさえも、たいていのツーリスト、特に女性にとっては結構ハードルが高いのだ。

 

 ビッグネームが出演する全米のコンサートでは、たいてい一流ホテルの豪華なバンケットホールを借り切って、宿泊とディナーとのセットでチケットを売り出すビジネスが頻繁に見られる。こうしたゴージャスなショーを楽しめる幸せな人たちは、ヨーロッパでの一流オケのクラシックコンサート同様、やはりある程度のリッチ層に限られるのだ。

 そういった業界の状況を知り尽くしている田尾は、ナンシーが全米に展開し経営するホテルと、自分がマネージャーとなるジャズクラブのステージをパッケージにして、他の商品の相場よりもコストダウンして値頃感を出せば、たとえ大熊のSIT社に割高のマージンをペイしても十分ビジネスになると、緻密に計算していた。

 この辺の企画力は、広告代理の現場を離れた今でも、田尾がもっとも得意とする分野だった。何よりも優先されるのは、なにがなんでも、新しく開店する自分のジャズクラブに、コンスタントに客を入れることなのだ。


 (絶対に閑古鳥が鳴くような状況にはさせない。俺に逃げ場はないのだ)

 

 マネージャーとしての力量が問われることを、誰よりも田尾自身が重く受け止めていた。

 勿論、実質的なホテル経営を統括しているナンシーや父親のトムのサイドでも、総力を挙げて新しいジャズクラブのプロモーションに全力を注ぐことは想像に難くないが、田尾はマネージャーとしてのプライドをかけて、アジアのマーケットを新規に開拓し、一刻も早くクラブの経営を軌道に乗せたかったのである。

田尾は、日ごとに若かったころの広告代理店で汗して学んだ企画と営業の感覚を取り戻していた。


 (その気になれば、還暦を過ぎた俺でもまだまだやれる) 

 

 田尾は、我ながら、体中からアドレナリンが噴出している自分を感じた。毎日が充実していて、新鮮だった。

 SIT社の大熊は、田尾のプレゼンテーションを面白いと言い、乗り気の様子を見せた。ただしタイアップの条件としてアウトバウンド、つまりアジアからの送客だけではなくインバウンドを含めたツーウェーのビジネスにしたいと逆提案してきた。

 つまりアメリカから日本への送客にも力を入れたい、と主張した。東北大震災と、フクシマの原発事故発生以来、海外からのビジネスマンや、ツーリストの訪日客数が激減していたからだ。ツーウェーの企画で誘客すれば、広報宣伝やフライト、宿の手配などの効率が良くなり、会社の収益も上がると踏んだのだ。


 (流石に、やり手の大熊社長だ。狙いどころが違う)


 田尾は、大熊のまくし立てるような迫力ある演説を黙って聞いた後、ニューヨークには「ライジングジャパン」、そして東京には「自由の女神」という会員制の旅行クラブを同時にオーガナイズすることを提案した。

 ニューヨークでは、ナンシーが経営するホテルチェーンの馴染み客や、ジャズクラブのリッチな客をターゲットとして、旅行クラブのメンバーになってもらう代わりにインセンティブの効いた魅力あるアジア向けの旅行商品を売り込むという仕掛けだ。

 飛行機のエグゼクティブシートが奢られたその商品は、ターゲットを所得が高く社会的な地位もあるハイランキングだけに絞った。東京は勿論のこと、京都、奈良といったゴールデンルートに加えて、歴史と文化の集積が高い地方都市、例えば金沢、高山あたりの滅多に経験できない、たとえば人間国宝たちのアトリエ訪問や田植え体験、寿司作りといったインタラクティブな仕掛けをふんだんにまぶし、旅慣れたリッチ層が満足できる商品構成にするというかなり斬新な内容だった。

 田尾の広告代理店時代やジャッキーとのヨーロッパツアーで実感した、ハイソサエティのクラブ運営からインスピレーションを得た企画であり、大熊ともども双方が潤うプレミアム・インタレスト・ツアーの共同開発だった。

 ナンシーの経営するホテルチェーンとのタイアップなら間違いなくビジネスになると踏んだ大熊は、即決で田尾の緻密なアイデアに飛びつき、売って売りまくると確約した。


 (敏腕社長の大熊が、責任を持ってオペレーションするなら、この企画のヒットは間違いない)

 

 田尾は、思いのほかスムースに進んだ経営戦略に自信を持った。

(これで準備は整った)


 故郷に聳え立つ、霊峰白山の頂が例年より遅く冠雪した晩秋、ナンシーとの約束どおり、田尾はニューヨークに旅立った。機中の田尾は、ニューヨークでのエンジエルとの出会いから、これまでの目まぐるしく過ぎた一年半を、ひとつひとつはるか遠く昔のことのように振り返った。


 「このさき、日本に帰る日が来るのだろうか」

 焦点の定まらない視線を、紺碧の空に向けながら、一人呟いた。

 

 エンジェルととともにニューヨーク・ガガーリア空港に降り立った田尾を、ナンシーが出迎えていた。その顔には、喜びが溢れていた。今日から田尾と生活をともにできる幸せが、全身から滲み出ていた。

 空港からはナンシーが運転するイエローペイントに塗られたポルシェ・ケイマンでマンハッタンに向かった。ナンシーのドライブは、相変わらず見事だった。車中、田尾がそのことを褒めるとナンシーは日本にある911カレラはどうしたのかと聞いた。田尾は、日本を発つ前に売ったと少々機嫌が悪そうに返事した。

 

 少しばかり沈んだ表情を敏感に察したナンシーは、

 「satoshiさえよければ、暫く私のポルシェを使ってもいいのよ」と、言った。

 

 田尾は首を立てに振らなかった。男としてのプライドが、そうさせたのだ。

 

 田尾は、もしジャズクラブの赤字が続くようなら自分の資金を充て、暫くは耐え忍ぶつもりでいた。そのため、息子夫婦に譲った横浜のマンション以外、めぼしい金目のものは全て売り、大手レコード会社と交わしたレコーディング契約で得たかなりの金を加えて、可能な限りの資金を用意していたのだ。

 田尾の腹積もりでは、店が赤字でもこの手持ちの資金で半年程度は支えられるはずだった。この金が尽きた時が自分の夢が終わると時だと腹を決めていた。せっかく買い換えたセミ・オートマチック・トランスミッションPDK付きのポルシェ911カレラを売りに出すのは断腸の思いだったが、それくらいの覚悟がなければニューヨークでは成功しないと、自分に言い聞かせたのだ。


 ポルシェは、改装のペイントの臭いが残るジャズクラブの前に止まった。10階建てのビルの、地下を改装したクラブの入り口の看板には、「バードランド」という文字が浮かび上がっていた。

 ナンシーによれば、父親のトムが、クラブを開店した暁には、必ずこの名前にすることを何年も前から思い続けていた、という曰く付きのネーミングだった。オーナーであるトムのハートには、かつて、1950年代に、チャーリー・パーカーの愛称から取ったという、有名なジャズクラブ「バードランド」を復活させようとの、熱い想いが息づいていたのだ。

 田尾は、予想以上の店構えの豪華さに驚き、しばし口を開けることができなかった。


 (間違いなくニューヨーク一のクラブだ。これが俺の店なのだ)


 ナンシーは、そんな田尾の様子を見ながら、


 「どう、satoshi 、思い通りの店になっているかしら」

 

 まるで子供にクリスマスプレゼントを渡す母親のような、優しい眼差しを振り向けながら言った。地下の店内に入った田尾は、事前に要望していたアイデアどおり、日本の古民家風の造作に、コンテンポラリーアートを意識させる家具や照明をマッチングさせたセンスの良さに感心した。計算しつくされたその店舗設計には、舌を巻いた。


 (まるで芸術に近いインテリアデザインだ。やはり二ヨーヨークの一流デザイナーの仕事は、すみずみまで神経がゆきとどいていて、本当に惚れ惚れするくらいだ)

 

 ナンシーは、田尾がOKを出せばいつでもクラブをオープンさせることができると言い、既に開店に向けたパプリシテイを先行させ、前売りチケットも大方捌けている、と嬉しそうに報告した。店の中では、既にオーナーのトムが待ち構えていた。


 「頼りになるマネージャーが、やっと日本から来てくれた。ヤンキースに入団したマツイみたいに、ホームランをガンガン打って欲しいもんだね。そういえば、サトシもマツイと同じイシカワの出身じゃなかったのかい」と、悪戯っぽい顔をして田尾にプレッシャーをかけてきた。


 (相変わらず、完璧なリサーチだ)


 田尾は目の前にいる敏腕オーナーの神経の細かさに感心しながら、

「マツイも入団当初はヒットばかりで、オーナーのスタインブレナーから散々クレームをつけられていたが、僕はそうならないようにベストを尽くしますよ」

と、さりげなく返した。


 田尾と大熊のSIT社との共同企画による、ホテルの宿泊とジャズ巡りツアーをパッケージした企画商品の売れ行きは予想以上に好調だった。トムは、三ヶ月先までの予約がブッキングされているのは田尾のマネージメント能力のお陰だといい、したがって売り上げに見合ったボーナスを手にする権利があると断言した。

 さらに大熊への見返りの条件であった日本への送客については、既に全米のナンシーの息のかかった旅行エージェントに檄を飛ばしたことを報告した。勿論抜け目なく、日本での宿泊はオーナーのトムが経営しているホテルチェーンとタイアップすることを条件にしていたことは言うまでもなかった。

 日本や上海、香港に所有するホテルへアメリカから送客を増やし新たなマーケットを開拓することは、オーナーであるトムにとっては新鮮で魅力的な企画であるに違いなかった。

 つまり、日本側のランドオペレーターとなるSIT社の大熊とのジョイントは、日本だけではなくインドやシンガポールなど、成長著しいアジアにおける将来のビジネス展開の足がかりを築くことを意味する。まさに田尾、大熊、トム、ナンシーの四者の利害が一致するスキームなのだ。

 一方、肝心の新しいジャズクラブ、バードランドの客の入りは、当初の田尾の心配をよそに、開店早々ニューヨーク中の話題を呼び、半年先の予約で一杯になるほどの盛況ぶりとなった。

 人気の理由は、田尾のバンドの趣味の良い演奏も功を奏したが、何といってもグラミーウイナーの大物ジャズボーカリスト・ジャッキーが、バードランドの専属ボーカリストとして契約してくれたからだ。

 

 ジャッキーの、ヨーロッパツアー後のジャズクラブ・ビレッジで録音したCDが、批評家たちの予想通りその年のグラミー賞最優秀アルバム賞に輝いたのだ。ジャッキーにとって2回目のグラミー受賞は大いに自信となり、以降、全盛期を思わせるようなステージ活動をスタートさせていた。

 

 一方、プライベートでは相変わらずプロデューサーやミュージシャンたちと浮名を流していたが、たいていはジャッキーの金を目当てに擦り寄ってくる、性悪なろくでなしの連中だと噂されていた。

 あたかも、アルバム「奇妙な果実」を発表して、ジャズボーカル史にその名を刻んだビリーホリデーを想起させるようなライフスタイルを送っていた。

そんなジャッキーに、なんとしてでもバードランドのステージに立ってもらいたいと思っていた田尾は、敏腕マネージャーのトムから法外な出演ギャラを要求されたが、開店の宣伝だと思えば安いものだとと言うオーナーのトムのアドバイスによって、当面半年間のステージ契約を結んだのだ。

 ジャッキーとのステージは、田尾にとってヨーロッパツアーを思い起こさせるほど楽しくリラックスしたものだった。田尾の太く芳醇なサックスのサウンドは、決してジャッキーのボーカルをディスターブしないばかりか、背後で演奏するオブリガードやソロはバンド全体を引き締めていて、客たちから好評を得ていた。お陰で、大物ボーカリスト・ジャッキーの出演が、ニューヨークの熱心なジャズファンたちの話題を呼び、オープンから半年間のチケットが連日ソールドアウトとなったという話題が、ニューヨークの他のクラブのオーナーの耳に届くまでには、さしたる時間はかからなかった。お陰で田尾は、バードランドが赤字になったときのために用意した、自分の資金を使う必要がなかった。

 

 こうして、バードランドのプレイイングマネージャーとしての1年は、それこそ、光陰矢のごとしであっという間に過ぎ去った。まさに、無我夢中の日々だった。バードランドの経営も予想を超えて、順調な成果を挙げていた。

 オーナーのトムが驚くほど収益をもたらした田尾は、ビジネスパートナーとしてのポジションを確立したばかりか、マネージャーに指名されたことが決して間違ではなかったことを証明して見せた。

 

 バードランドは、ニューヨークの新たな社交クラブとしての存在感を高め、押しも押されぬほどの一流のジャズクラブに成長した。

 ニューヨークは、世界でも屈指のビジネスの激戦地である。

 世界の情報と頭脳が集まるこの地では、最先端の情報に神経を尖らせるリッチピーブルたちにとって、良質の酒と料理と音楽が楽しめる、社交倶楽部が必要なのだ。そしてそれはクローズであることがより望ましいのだ。

 田尾が狙ったとおり、バードランドはビジネスをスムースに運ぶための夜のエンターテイメントを楽しむ倶楽部であると同時に、マスメディアにも流れない、金を生む情報を取引する巣窟でもあるのだ。

 社会的なステータスを得ている男と女たちのスキャンダル、ストックマーケットの裏情報、政治屋たちが喉から手が出るほど欲しがる献金の駆け引きなど、この魑魅魍魎の世界には、そうした人間のあるとあらゆる欲望が渦巻いていた。

 バードランドで交わす、エスタブリッシュメントたちの計算されつくした何気ない一言には、他のところでは絶対手に入れることのできない、価値ある情報の断片が隠されているのだ。この高級ジャズクラブに出入りする連中は、おしなべてここで得た情報が確実に利益を生み出すことを、信じて疑わなかった。

 バードランドのワインがいくら高くとも、ここで得た断片的な情報をパズルの如く繋ぎ合わせ、さらに自分自身の、絶対に外には出さない、とっておきの情報を組み合わせることによって、よりベネフィットをもたらしてくれる打ち出の小槌に化けさせるのだ。バードランドには、単なる大人のジャズを楽しむ以上の付加価値をつけようと当初からもくろんでいた田尾にとって、この予想を超えた手ごたえは、まさに嬉しい驚きだった。

 しかし、よい事尽くめの話など、この世の中にはそうそうあるものではない。バードランドが繁盛するにつれて、田尾は別の頭の痛い問題に直面せざるを得なくなった。

 フランシス・コッポラという名監督による映画、「コットンクラブ」は、1920年代から30年代の禁酒法時代のアメリカのショービジネスの内幕を描いて話題になったが、この時代の大方のクラブでは、アルカポネに代表される大物ヤクザが出入りして激しい抗争の舞台になっていたことは良く知られている。

 田尾は、バードランドが盛況になるにつれて、この映画に描かれているようなヤクの売人やマフィアといった胡散臭い連中が出入りすることに、極端に神経を尖らせていた。

 いったんそうした連中の御用達という噂が立つだけで、金払いの良い上客があっという間に逃げていくことを、経験的に判っていたからだった。田尾は、トムとナンシーのホテル経営のノウハウや人脈のネットワーク情報をフルに活用して、信頼がおける支配人を雇ったほか、こうした店の評判を貶めるような胡散臭い輩がバードランドに出入りしないよう、テーブル席の予約にはことのほか気を配った。

 こうした客たちの安心や安全を何よりも大事にするという目配りによって、バードランドの信用と名声は時間がたつにつれて上がる一方だった。それにつれ、バンドの演奏と同様、マネージャーとしての力量も高く評価され、約束どおり店の売り上げの30パーセントを保証するという年収は右肩上がりに伸びていき、その勢いは2年目を過ぎても衰える様子はなかった。


 ビジネスパートナーであるナンシーとの大人の関係は、異文化同士の男と女が生活を共にすることによる、予想されたリスクを何ら感じさせないほど順調だったが、田尾の、結婚には踏み切らないという決心を覆すほどではなかった。

 ナンシーとひとまわり以上も歳が離れた田尾とは、もともと喧嘩になりようがなかったし、一緒に過ごす時間が増すほど、ナンシーは田尾の心根の優しさと、成熟した大人の魅力に夢中になった。

 田尾にとっても、ナンシーの若さを多少もてあますことはあっても、彼女の、日本を理解する深い知識と教養に裏付けられた、人間としての魅力や、アメリカ人とは思えないほどの気配りのできるパーソナリティに一層惹きつけられていった。

 田尾はナンシーさえ良ければ、結婚という形に縛られず、独立した男と女が相手に敬意を払いつつ、ともに豊な人生を歩むことがお互いにとってベストな選択なのだ、と自分に言いきかせていた。

 

 バードランドの売り上げの増加に伴い、田尾の収入も日本にいたころとは比べものにならないほどに伸び、銀行口座には毎月まとまった金額が積みあがるようになった。

 日本を発つときに感じていた、十分余裕のある生活を捨てて新たなビジネスに挑戦するという不安は、もはや完全に消え去っていた。自己資金を調達するために売り払ったポルシェ911カレラへの愛着は、さらにグレードの高い911カレラターボを再び手に入れたことで取り戻すことができた。

 エンジェルを薦めたューヨークの楽器店のオーナー、ビルとはすっかり顔なじみになり、月に一度は、楽器のバランス調整を兼ねて顔を出し、絶えずニューヨークの音楽業界の最新情報を仕入れ不測の事態に備えていた。

 ビルは、最初、田尾がニューヨークのジャズクラブのプレイング・マネージャーに就いたことを、目を丸くするほど大袈裟に驚いていたが、そのうち、バードランドが一流の評判をとるにつれ一層親しくなっていった。もっとも、田尾がビルの店に顔を出すたび、売り渡したエンジェルの由来をまるですっかり忘れたかのように、妻との結婚40周年を記念した思い出深い京都や奈良の旅行、そしてそのほかのアジアでの四方山話を何度となく聞かされるのには閉口した。

 

  

第20章   エンジェルの呪い

  


 田尾がニューヨークに渡って、早いもので3年の歳月が過ぎた。

 セントラルパークの木々に残っていた色鮮やかな葉が大方落ちてしまった秋、全く想像もしなかったことが田尾の身に降りかかった。その頃、バードランドには田尾があれほど警戒していた品性卑しからぬ連中が、ちらほら出入りするようになっていた。

 つまり、地元のマフィアの幹部の数人が、バードランドの居心地と客筋の良さに魅かれ、頻繁に顔をみせるようになったのだ。勿論、彼らはいかがわしい、その手の女を同伴させたり、マネージャーの田尾に難癖をつけ金をせびるといった、場末のクラブで見られるような、傍若無人の振る舞いに及ぶことは決してなかった。

 表面上は金払いの良い、他の上客と同様、バードランドの酒と料理とステージを楽しんでいただけだった。そうしたこともあって、田尾は暫く彼等の様子を注意深く観察して、何か問題がありそうならばそのときは毅然とした意思を伝えるつもりで抜かりなく準備していた。

 田尾のバンドがいつもの通り最終ステージを追え、エンジェルを片付けようとしていた、まさにそのときに田尾の悲劇が始まった。クラブの入り口から、黒い目だし帽を被った3人がいきなり小型のマシンガンをコートに隠して、入って来た。懐にはロシア製の短機関銃、ビゾンが肩から吊り下げられていた。

 世界のベストセラーとして名高い、ロシア製のアサルトライフル・AK47のDNAを受け継いだこのウエポンは、コンパクト、軽量、低反動という特徴を持っているほか、スパイラル・マガジンと呼ばれる弾倉が銃身と平行に装着されており、最大で64発の連射が可能なことから、接近戦で敵を倒す必要がある特殊作戦には最適の武器だといわれている代物だ。

 

 まるでハンバーガーショップの店員向けに作成された業務マニュアルどおりの、手馴れた何ひとつ無駄のない動きは、彼らが熟練したプロのヒットマンであることを窺わせた。 3人は、店に入っても単独に行動しようとはせず、獲物を決めたパンサーのごとく、ステージの隅のVIP席に素早く近づいた。

 リーダー格だとおぼしき男が、ギャング映画に出てくるような洒落た台詞を喋ることもなく、ターゲットの、自称実業家の大物マフィアだと確認すると、あたかもいつものルーティンをこなすように、躊躇なくトリガーを引いた。そしてこれ以上は必要ないと思われるほど、9ミリのマカロフ弾を頭とボディに撃ち込んだのだ。

 あっという間の出来事だった。これが映画のワンシーンならうっかり見過ごすほどで、恐らくこの仕事に要した時間は20秒もかかっていなかったであろう。

 他の二人は、大物マフィアのボディガードからの反撃に備え、座っていたテーブル席の周辺に鋭い視線を配って、不測の事態に身構えていた。大物マフィアの目が空を泳ぎ、痙攣しながらテーブル席から崩れ落ち息絶えたのはほんの数秒後のことで、まさにプロの手による鮮やかな仕事ぶりだった。

 帰り支度を急ぐ他の客が、その大惨事に気がついて大騒ぎしていた頃、ボディカードとヒットマンたちの凄惨な銃撃戦が始まった。


 田尾が記憶しているシーンは、そこまでだった。

 長い間生死の間を彷徨い続けた田尾が目を開けたのは、それから一ヶ月後のことだった。確かに見覚えのあるジャッキーの顔がそこにあった。


 「satoshi、やっと目を開けてくれたのね」


 ナンシーの、すぐに彼女と判る優しい響きの声が耳に入って来た。


 「satoshi、貴方は一ヶ月の間、意識がなかったのよ。ドクターが、命を取り留めたのは本当に奇跡的だ、と言っていたわ」


 生気を取り戻した田尾の顔を優しく手でさすりながら、心から安堵した表情を見せた。

 ナンシーの説明によれば、ステージにいた田尾やバンドマンたち全員が、銃撃戦が始まったとたん、反射的に腹這になり流れ弾を避けようとしたのだが、田尾はステージに立て掛けたエンジェルに気づき、銃弾から守ろうと起き上がろうとした。

 その瞬間、ガードマンたちとの銃撃戦を始めた殺し屋たちのマシンガンの流れ弾が、不幸にも田尾をヒットしたというのだ。至近距離から頭に1発、そして脚の大腿部に1発、のあわせて2発が田尾に命中し貫通したのだという。映画「ガントレット」で蜂の巣になったバスのように、件の、狙われた大物マフィアは、あえて救急車を呼ぶ必要がないと、誰もが判るほど銃弾を打ち込まれ、呻き声を出す間もなく即死した。

  

 この修羅場から生き延びた田尾には、まだ少しばかりのラックが残っていたというべきなのか。

 田尾は撃たれた直後、ナンシーが熟知していた、ニューヨークでも一流の脳外科スタッフが揃っている病院に、手際よく担ぎ込まれた。その病院には、医師とともに最先端の医療機器が備えられていて、患者に目の剥くような治療費を請求することでも有名だった。

 大腿部を貫通した弾は、幸い動脈のそばを通り過ぎ重症と呼べるほどの損傷ではなかった。頭に撃ち込まれた弾は、奇跡的に脳の中枢部を外れ致命的なダメージを与えるほどではなかったが、脳の一部に損傷を与えながらいくつかの神経を切断して貫通した。

 ナンシーは事件の直後、バードランドの支配人から、田尾が頭を撃たれたと聞いて、恐らく助からないであろうと覚悟を決めたという。しかしナンシーが期待したとおり、一流の外科医たちの10時間にも及ぶ手際の良い手術のお陰で、脳のダメージが最小限に抑えられ、切断された神経もほぼもとどおりに繋がれた。手術の結果、嬉しいことにナンシーの最悪の予想に反して、田尾は再びこの世に舞い戻ってきたのだ。

 

 銃弾を頭に撃ち込まれた後遺症で、田尾の術後の右半身は、コントロールするには全く程遠い状態だった。手術を担当した有名な外科医は、付き添ったナンシーに対して、麻痺は残るかも知れないが、根気よくリハビリすることによってある程度までは機能を回復する見込みもある、と控えめな希望を持たせた。病院のベッドに寝たきりの田尾は、ひとりこれまでの余りにも運に恵まれた自分を省みたが、この事件で自分のキャリアが終わったのだと、半ば覚悟した。


(ビルの店でエンジェルを手に入れてからの俺は、自分でも恐ろしくなるほどの運の良さを、さも当然と思い込み、ちょっといい気になりすぎていたのかもしれない)

 

 ニューヨークでの新しいビジネスが恐ろしいほど好調で、自分でも知らず知らずのうちに傲慢になっていたのではないかと、ベッドの上で初めて気づいた。こんなグッドラックが長く続くはずがないとうすうす心の中で思っていても、毎日の充実した仕事が、一抹の不安をどこかに追いやっていたのだ。


 (楽器店の店主のビルは、これまでに、エンジェルの二人のオーナーが揃いも揃って頭を撃ち抜かれて亡くなったという。エンジェルの呪いが今でも生き続けていたことを、自分には、さも関係がないことのように思っていたのだ)


  ナンシーが病室を出て一人になると、田尾は言いようのない孤独感と不安に襲われ、漆黒の沼の底に引きずり込まれるような暗澹たる気持ちに襲われた。


 (結局バードの小宮山さんが心配したとおり、人のグッドラックは長く続かないのだ。このまま一生、俺は右半身が不自由なままベッドの上で生活することになるのだろうか)


 深夜、物音ひとつしない病院の個室で、このまま自殺したいという考えが、たとえ田尾の脳裏をよぎったとしても、なんら不思議はなかった。


 (今なら俺一人の問題で片がつく。ナンシーとは正式に結婚していないから、彼女のキャリアに傷がつくこともないだろう。息子の純也ももう立派に独立して、俺のバックアップなしでも十分やっていけるはずだ。孫の庚亮の成長ぶりを見届けることができないのは残念だが、この3年間で稼いだ金を孫に残すことにすれば将来何らかの役に立つだろう)

 


第21章   ディパーチャー(旅立ち)



 田尾は自分の事よりも、ナンシーや家族のことを思うたび、心の襞を掻き毟られるような激しい苦しさに苛まれた。しかし、そうした田尾のネガティブな妄想は、ナンシーによって木っ端微塵に粉砕された。

 大手術からちょうど3ヵ月後、体力を回復した田尾に対し、まるで喧嘩に負け意気消沈した子供に母親が叱咤激励するように、リハビリを開始するよう迫ったのだ。

 有無を言わさないほどの強い決意が、彼女の表情に漲っていて、患者はおとなしく従わざるを得なかった。田尾は気乗りしないまま、ジャッキーが見つけてくれたニューヨークでも一番の、リハビリ専門のクリニックに転院した。そしてこれまた街一番と評判の高いトレーナーを相手に、いつ終わるとも知れない長く苦しいリハビリに入った。

 ナンシーは、父親であるトムの右腕としてホテルチェーンを任されていて多忙を極めていたにもかかわらず、毎日の田尾の厳しいリハビリに目を光らせていた。まるでフィットネスクラブの厳しいコーチのように、少しでも田尾が弱音を吐こうものなら容赦なく鬼のような形相で叱り、励ました。

 忙しいはずのナンシーが毎日欠かさずクリニックに日参するという、田尾が疎ましく思うほどの徹底ぶりは、職員や周りの患者の間でも評判になるほどだった。

 田尾は、自分を心の底から労わり心配してくれる彼女の献身ぶりを目の当たりにして、これまで以上に彼女に対する気持ちが深まっていくのを感じた。

 悪夢のような事件を振り返りながら、田尾はナンシーと二人でその年のクリスマスイブを病院で過ごした。本格的な冬将軍が来たと思わせるほどの寒さにもかかわらず、市内の目抜き通りからはいつまでもイブを祝う歓声が消えなかった。


 そんな時、多忙な仕事の合間を潜り抜け、オーナーのトムがいつものように田尾の様子を伺いに来た。トムはクリスマスプレゼントだといって、深紅にラッピングされた、手のひらサイズの小箱を差し出しながら、


 「satoshi、元気になったら一緒にツーリングしよう」と、言った。


 「この歳になって、クリスマスプレゼントをもらえるとは、思ってもみなかった。ありがとう、トム」と、田尾が何とも気恥ずかしそうな表情を見せながら呟いた。


 458Italiaと金文字で刻印されたボックスの中には、スポーツカー好きには堪らない、見事にデザインされたフェラーリのキーが入っていた。


 トムは、驚いた様子の田尾の顔を嬉しそうに見ながら

 「サトシのお陰でホテルもバードランドも好調だ。この3年間本当に頑張ってくれたね。ささやかながらサトシの働きに対するボーナスだと思って受け取ってくれよ」

 大事なビジネスパートナーを労わるように、言葉を繋いだ。


 田尾が苦しいリハビリを開始してから半年後、ナンシーとクリニックの腕の良いトレーナーのお陰で、あれほど頑として動かなかった右半身がようやく言うことをきくようになってきたが、右手の指はまだまだエンジェルのキーを自由に操るほどには動かなかった。

 

 そんなある日、田尾は、いつものように日参した彼女に、

「ナンシー、いつも本当にありがとう。君のお陰で僕は奇跡的に回復し、ようやく一人で歩けるようになった。君の親身な看病がなかったら、今の僕はない。心から感謝している」と、切り出した。

 

 ナンシーが理解している日本人の常で、普段、自分に面と向かってそんなことを言わない田尾が、一体何を言い出すのかと訝った。


 「でも、もうこれ以上、君に迷惑をかける訳にはいかないと思っているんだ。もう少しリハビリした後で、僕は日本に帰ろうかと思っている」と、静かに告げた。

 

 全く予想もしない田尾の言葉に、ナンシーは返す言葉を失うほどショックを受けた様子で、その場に立ち竦んだ。暫くの沈黙の後、ナンシーはこれだけは何がなんでも引き下がらないという決意を胸に仕舞いこみ、強い口調で、


 「satoshi、貴方を、絶対に日本には帰らせない」と、短く言い放った。そして一転して、


 「それとも日本に貴方を待っている女性がいるのなら、仕方がないわね」と、今度は悪戯っぽい笑みを顔に浮べながら、田尾の表情を注意深く読み取ろうとした。

 ナンシーの勢いに圧倒された田尾は、この話は別の機会に切り出そうと、リハビリ中に気になっていたバードランドの経営状況に話題を変え、訊ねた。彼女によれば、バードランドはマフィアの銃撃事件のあと少し客足は鈍ったが、田尾がカムバックするまではと、ハウスボーカリストのジャッキーが出演契約をさらに一年延長してくれたお陰で、再び開店当時の勢いを取り戻しつつあるのだと、嬉しいニュースを聞かせてくれた。

 もうひとつ、日本のSIT社と共同企画した企画商品、スペシャル・インタレスト・ツアーが順調に売り上げを伸ばしていて、毎月のバランスシートを見るオーナーのトムの顔が緩むほどの収益をあげているという。

 だから契約どおり、田尾を首にする理由が見当たらないばかりか、たとえ高額な治療費を払ってもなお、十分なキャッシュが口座に残っているはずだ、と教えてくれた。そして最後に、ナンシーは、彼女にとって一番大事な話を切り出した。


 「私はsatoshiを愛しているし、結婚してもしなくても一生貴方とともに過ごしたいの。私には、掛け替えのない人だと思っているわ。satoshiの気持ちが、私と同じだと信じている」


 言い終えた彼女の顔は、いつもの優しく成熟した大人のそれに戻っていて、想いを寄せている男に言うべきことをはっきり伝えた、という吹っ切れた満足感で一杯のようだった。


 それから幾日も経ずに、クリニックを翌週に退院する田尾の前に、息子の純也が事前の連絡もなしに現れた。バードランドでの、銃撃事件以来の訪問だった。

 久しぶりに見た純也の顔には、多忙な仕事のせいによるものなのか、少しばかり疲れが滲み出ているように見えたが、表情はいたって明るかった。いきなり面会に来た理由を純也に訊ねると、


 「お父さん、俺、こんどニューヨーク本社に異動といおうか、転勤することになったんだ」と、嬉しそうに報告した。

 

 純也によれば、現在勤めている大手外資系コンサルタント会社での仕事ぶりが評価され、幹部の推薦によりニューヨーク本社のシニアマネージャーに抜擢され、近く赴任することになる、ということだった。勿論、単身ではなく孫の庚亮を連れて、一ヶ月以内には家族全員が、生活の拠点をニューヨークに移すことになるだろう、と言った。


 リハビリの苦しさにほとほと沈んでいた田尾の心は久しぶりに躍った。

 そして、純也からの願ってもない朗報を、嬉々としてナンシーに語った。銃撃事件以来、田尾のこんな嬉しそうで生き生きとした表情を見ることのなかったナンシーは、彼の息子夫婦の移住が田尾と自分にとって思いもかけない幸運を運んでくれるのではないかと、心の襞に一筋の光が差し込んでくるような幸せを感じた。

 さらに至極真面目な顔をして、孫の庚亮がニューヨークに来たら、まず日本語学校に入れてこの地に溶け込ませ、時機を見て名門のプライベートスクールに入学させるのだと、もしも息子夫婦が耳にしたら顔をしかめるようなプランを、いかにも好々爺らしく語り出したのには、驚きを通り越して微笑ましくさえあった。

 ナンシーは、全米でも屈指の名門校・ハーバード大学を孫の庚亮が無事卒業するまでは、何が何でも現役で働いてサポートするのだとまで言いだした田尾が、再び心の張りを手に入れもう二度と日本に帰るなどとは言わず、自分とともにこの地で末永く暮らすことになるのだと確信した。


 日をおかずして、たまたま田尾とナンシーが住む、高級アパートビルの3階にある30坪はあろうかという広い一室を入居者が売りに出したと聞き、ナンシーは、さっそく息子一家のために買い戻したらどうか、と田尾に提案した。

 純也の言うとおり、田尾が退院した翌月には、首を長くして待っていた息子夫婦が横浜のマンションを引き払い、孫の庚亮とともに、ニューヨークの田尾とナンシーが生活を共にするアパートに元気な姿を見せた。

 久しぶりに会う孫の庚亮は、暫く会わない間にすっかり大人びたことを言うようになり、田尾を驚かせた。


 息子夫婦との四方山話が終わった頃、田尾は家族全員にナンシーを紹介した後、彼女のOKの返事が貰えれば近々結婚するつもりだと、ちょっと照れながら切り出した。

 不意をつかれたナンシーの眼は、一瞬焦点が定まらず漂っているようだったが、長年待ち焦がれた言葉の深い意味を理解するのに、さしたる時間は必要なかった。

 一呼吸置いたナンシーは、その場の全員がはっきりと聞き取れるほどの落ち着いた声で、

「イエス」と応え、すぐ傍でバツの悪そうな表情を隠そうとしない、恋した男の眼を凝視した。


 そして、純也たちには、

 「結婚式のパーティには、貴方たちのパパが素敵な演奏を披露することになると思う」と、これ以上はないと思われるほどの笑みを浮かべて、言った。

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そのエンジェルには理由(わけ)がある Amori 森(しん) @amori

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