第6話

「私、この前帰りがけ、駅で勇人さん? 見たかもしんない」

次の週学校に行くと、みちるが言った。ロッカーの上に腰掛けて、黒いタイツの足をぶらぶらと宙に浮かせながら。

「え、うそ?」

「ベージューのコート着てる?」

「あ、うん。着てる。え、じゃあ本物かな」

「髪、結構長いよね?」

「うん」

「じゃあ多分そうばい」

教室は、黒板の壁と出入り口のスペース以外は、クラス全員のロッカーに囲まれる作りになっている。ロッカーといっても、小さな正方形が縦に二つ積み重なっている背の低いものなので、ほたるたちでも両手を使ってひょいとその上に腰掛けることができた。ほたるとみちるは二人並んで、そこに腰掛けてお喋りをしていた。

今日はとっておきでお気に入りの、桜色のミニスカート。ほたるはパンツが見えないように、しっかりと、足を閉じる。

「でもなんでわかったの?」

「うん、なんか。なんとなく? ほたるの話聞いて、頭のなかで想像するイメージとかあるでしょ?」

「イメージがそのまま当たったってこと?」

「うん、すごくない、私?」

「うん」

予鈴が鳴った。だけど、ほたるもみちるもそこに座ったまま。教室の皆も、ほとんどはその場から動かず、ざわめきは続く。大体皆、先生がやってきてから急いで動き出すのだ。

ほたるは、見渡す。教室のなかに雷太の姿はない。だから、もうすぐ、あのドアから入ってくるだろうか。そんな風に、教室の後ろのドアを振り返ると、次の瞬間その通りに雷太がそこから現れた。

「勇人さんもみちるのこと知ってるけん、会いたがってるし、今度いるときに遊びにおいで」

みちるに話しながら、ほたるの心は、歩いてくる雷太を追いかけ始める。

「ほんと?」

そしてみちるの後ろで、雷太は立ち止まった。

「どけよ、オメーの足、太すぎて通れねーよ!」

——ほら、やっぱり来た!

「普通に通れんじゃん」

「うん、みちるの前はね」雷太はみちるの前はすたすたと通り過ぎた後で、わざとこちらに寄って、ほたるの脚に「いて、いて」とぶつかりながら歩いた。

「もう! 痛いのはこっちばい!」

「じゃあ痩せろよー」雷太を鼻歌でも歌うみたいにおちょくる。ほたるは目の前の雷太の坊主頭を、ばしんっとひっぱたいた。

「いって! いってぇ!」

思いきりではなかったから、そこまで痛くはないはず。けれど雷太は頭を押さえ、大げさに痛がりながら歩いて行く。

「あー、あいつほんとありえないっ」

雷太が言ってしまうと、ほたるは言った。

「・・・・・・でも、優しいところもない?」

「え? どこがぁ?」

「前に、グランドで遊んでて、男子のボールが頭にぶつかったときあったじゃん? あんときさ、後で、これで冷やしなよとかって、凍らせてたペットボトルのジュース授業中貸してくれてたの」

「えー!?」

「・・・・・・なんかそういう優しさって、いいなとか思っちゃった」

「へぇ〜。あいつのことそう思う人もいるんだね」声が上ずったりしないよう喉にぐっと力を入れ、なんでもない顔をする。

「えー、いるよ! いっぱいいるよ!」

「うそお?」

「って、私は思う。スポーツしてるときの真剣な顔もよく見るとかっこいいよ」

野球帽のつばの下の、じっと前を見据える、あのまなざし。ほたるには、それがどんな表情かがわかる。

「ふーん。見たことないや」

「じゃあほたるは、雷太のこと別に好きじゃないんだね?」

「え!?」

みちるはじっと、ほたるの目を見た。

「そんなわけないし! 嫌いだっていつも言ってんじゃん!」

どくどくと、急ぐ鼓動が顔まで暖める。心のなかを見透かされてしまいそうで、みちるに目の奥まで見られるのが怖かった。

「うん、でも。雷太はほたるのこと好きなんじゃないかって皆言っとるけん」

「それは、皆が勝手に言ってるだけっさ」

「まぁ、そっか」

みちるは、一度何か考えるように頭を俯かせ、そして意を決したようにもう一度首を上げた。

「じゃあ、私頑張ってみようと思うけん、ちょっと協力してくれる?」

「・・・・・・え、うん。協力って?」

「いや、まだわかんない、考え中だけど。なんか仲良くなるきっかけが欲しくてさ」

「きっかけかぁ」

「この際こっちの気持ちがわかってもいいから、アピールするのとかがいいのかなぁ」

みちるは、宙を見上げる。

「アピール?」

「うん、なんかちょっと考えたのが・・・・・・、まぁ、ほたるも協力してくれたら、だけど。クリスマスプレゼントとか」

「へぇ!?」

みちるが「しっ」と素早く、人差指をほたるの口に近づけた。

「声大きい」

「ごめん」

「え、クリスマスプレゼントってそんな変かな? まずい?」みちるは眉を下げ、突然戸惑った表情になった。

「いや、まずくはないけど・・・・・・、だっていきなりあげてもびっくりするんじゃない?」

「びっくりしてもらうためにあげるんだよ!」

「あぁ、そっか」

「私もね、雷太はほたるのこと好きなんじゃないかって思うの。じゃけぇ今のまんまだと雷太が話しかけるのはほたるだけだし。そこをぐっと私のほう気にしてもらうきっかけ作らんと、進展ないんじゃないかって思って」

「うん・・・・・・なるほどね」

「おはようー!」教室に先生が入ってきて、ほたるもみちるも、ロッカーの上からトンと降り立った。教室の皆も、自分の席に戻り始める。ガラガラと、そこらじゅうで机や椅子の床をする音が響く。

「あ、これ絶対に内緒ね?」

騒がしさのなか、みちるははっきりと、言った。

「うん、大丈夫だよ」

「ねえ、本当に協力してくれる?」

「うん、するする」

「やったー!!」みちるは思い切り、嬉しそうな声で両手を挙げる。

そして歩き始め、みちると離れたほたるの顔からは、それまでなんとか作っていた笑顔が消えた。心臓の音は相変わらず速い。だけど、それはもう頬や頭を暖めない。反対に、体温が少しずつ、奪われていく。

先生の配ったプリントが、前の席からまわってくる。振り向いて後ろの子に渡すとき、雷太とみちるの表情を、それぞれ一瞬確かめた。雷太は、ちょうどプリントを配るための振り向き際で、こちらに背を向けた瞬間だった。みちるは、頬杖をついていたようだったけれど、前の子がプリントを差し出すと、花が咲くような笑顔でそれを受け取った。

——ほたるは、雷太のこと別に好きじゃないんだね?

好きだ、と答えられていたなら、どうなっただろう。

だけど、言えない。どうしても、そんな風に言葉にはできない。

俯くと、スカートの裾に、初めて小さなほころびを見つけた。

「はーい! じゃあ朝のホームルーム始めるぞー! 今日の日直は・・・・・・坂部、朝の挨拶よろしくなっ」

教卓の先生が言うと、坂部という男子は立ち上がり、

「皆さんおはようございますっ」と大きな声を出す。

「おはようございます!」それに応える皆の、鳥のようにかん高い声が響いた。

映画やテレビドラマのなかで、大人たちは愛を告白し、激しく口づけしてはお互いを求め合う。お母さんと勇人さんも——。

その夜遅く、あの日と同じ時刻に、ほたるはまた裸足のまま、部屋を抜け出した。ひんやりとした床の冷たさが、足の素肌に静かに触れる。段々と暗闇に目が慣れ、焦げ茶色の床と、白い壁の境がはっきりと分かりはじめてから、ほたるは歩き出した。踏み出した足が、何にもぶつかることのないよう、右手の指先を、優しく壁に這わせていく。

あのときはあれ以上、近づくことができなかった。だけど今日は、ゆっくり、ゆっくり、と裸足のまま、音もなく廊下を進んでみる。そしてそっと、二人の寝室のドアに、右耳をつけた。

ぽかんとした静けさだけが、そこにあった。今日は違うのかな、そう思いかけた瞬間、ドアの向こうより、もっと遠くから聞こえているみたいに小さく、お母さんの声が聞こえた。いつも喋っているときとは全然違う。夏風に揺れる風鈴のように、高く澄んだ、綺麗な声。その夜それは、どんな上手な歌声よりも、ほたるを切なくさせた。スン、スン、スン。あのときと同じ、ベッドの揺れるリズムが、奥に流れている。二人が一緒になっている、その姿が心に浮かぶ。

大人になったらこんな風に、身体中で好きをぶつけられるのだろうか。

ぶつけてもらえることが、いつの日か本当にあるのだろうか。

だったら、早く大人になりたい。生まれて初めて心の底から、ほたるはそう願った。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

大人の国のダイヤモンド 西川エミリー @Emily113

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ