第5話

部屋には、シングルベッドが二つに、ホテルの人が組み立ててくれたソファーベッドが一つ。「ソファーベッドってなんか昔から好き」と言った勇人さんが、そこで眠ることにすぐに決まった。

もう二十二時半を過ぎていた。少しの間のつもりでベッドに寝転ぶと、そのまま鈍い眠気に包まれる。

「夕子—、お風呂入ってから寝てよー?」

「・・・・・・うん」

薄く、目を開ける。瞼と瞼の隙間に、ぼんやりとシルクのネグリジェ姿のお母さんがいた。長い濡れ髪を右肩に全て流し、タオルでふきながらこちらを見ている。

「勇人さんが出てくるまで寝てていい?」

壁越しに小さくシャワーの音が聞こえてくる。今は、勇人さんがシャワーを浴びている。

「お布団はちゃんとかけときなさい」

お母さんの声に従って、足と手を動かして、首までなんとか布団をかける。そのまま、柔らかい布団に溶けるように、眠りに・・・・・・落ちかけたのだけれど、そこからお母さんのドライヤーの音が始まり、横になりながら、段々と目は冴えていった。

起き上がろうかな、思ったところで、カタ、とドアの音がした。勇人さんがシャワーから出てきたのだ。お母さんのドライヤーの音が、そこでぷつ、と途切れる。

一瞬、沈黙があった。

「寝ちゃった?」

勇人さんの、吐息みたいな、小さな声が聞こえた。なんとなくタイミングを失って、ほたるは横になったそのままの体勢でいた。

「うん。お風呂入っちゃってからにしなさいって言ったんだけどね」

「でも明日休みだし、ゆっくりすればいい」

「うん」

「少し遅くまでいすぎたね。疲れちゃったんだろうな」

「たまには大丈夫よ」

「うん」

「それに、この街あんな風に上から見たことなんて、なかったかもしれない、この子。そういう初めてに、悪いことなんてないから」

「そうかな」

「そうだよ」

「・・・・・・今日楽しかった」

そして静かに、多分、唇の触れ合う音がした。

ほたるの心臓が走り出す。けれどお母さんも勇人さんも、まもなく沈黙から腰をあげ、それぞれに動き始めた。勇人さんが歯を磨きに洗面所に戻った音がした。お母さんはもう一度ドライヤーのスイッチを入れ、長い髪が乾くまで、その音はずっと響いた。それから後、また少し、小さな会話が聞こえたけれど、やがて二人は「おやすみ」を言い合って、静かにお互いの布団で眠りについたようだった。静けさのなかの微かなキスの音が、怖いのか。それとも探したいのか。明かりが消えて、二人の寝息が聞こえてきた後も、ほたるは長い間眠ることができなかった。



あれは、三人での生活が始まって、やっとひと月を超えたくらいの頃だ。夜中にトイレに行きたくなって、裸足でひんやりとした廊下を歩き始めたとき、ふいに猫の鳴き声みたいな声がひとつ、廊下の暗闇に響いた。どこか外から、とも思ったけれど、それにしては不自然だった。声は明らかにもっと近く、家のなかから聞こえてきたように思えたし、やっぱり猫の泣き声とも違う。

なんだろう。

ほたるは、じっと身を止めて、耳をすましてみる。すると、澄んだ静寂のなかに、スン、スン・・・・・・、か細い音が、一定のリズムで流れてくるのを感じた。

忍び足で、お母さんと勇人さんの寝室のドアに、一歩、二歩、近づいていく。すると、その音はさっきよりほんの少し、近くの聞こえたのだった。

キィと、それは時折、軋むような音に変わった。

抱き合った二人の重さだと、そのときはっと、ほたるにわかった。閉じたドアの隙間には、真っ黒な暗闇が見えるだけ。だけど重なり合う二人の肌色が、その限りなく細い隙間に、一瞬でも映ってしまうのではないかと、ほたるは思わず目を背けた。

女の子のお腹のなかには赤ちゃんの素があって、男の子のおちんちんにはもう一つの赤ちゃんの素がある、だから大人になったら女の人と男の人は抱き合って、赤ちゃんができる。そんな知識と、セックスと呼ばれるものの結びつきについて、現実感を持って考えたことなどなかった。保健の授業で習ったそれは、どこか遠いところ、大人の国の不思議な儀式だった、けれど二人が、一枚ドアを隔てた向こうで、裸になって抱き合ったり、唇を重ねたり、ほたるが想像もつかないような色々な方法で、愛を表現し確かめ合っているということが、そのときはっきりとわかった。

素足でひらひらと、一歩、二歩、音一つ立てずにほたるは部屋に戻る。そしてまだ温かさの残る布団に急いで潜り込んだ。心臓は身体の真ん中でばくばくと、シーツまで揺らすのではないかと思うくらい、激しく鳴り続ける。

大人になって好きになると、皆がこういうことをするのだろうか?

とてもじゃないけど、想像がつかない。

細い瞼の隙間に覗く、悪戯な黒目。絵に描いた野球少年そのもののような、真っ黒に焦げた肌。笑うと覗く、白い八重歯。浮かんでくるのは、ほたるよりも少し背の低い、雷太の姿だった。

——雷太って絶対、ほたるが好きだよねー!

雷太が何かにつけてほたるにちょっかいを出すようになったのは、四年生にあがった新学期、席が隣になってからのことだ。皆で廊下を歩いていれば、後ろからやってきては、ほたるの頭だけを軽く叩いて走り去っていく。

——ちょっと、雷太!

——ぼーっと歩いてっからだよー!

そういう対象が、自分だけであることが、誇らしかった。そしてやりとりを見た周りが皆、「雷太って絶対ほたるが好きだよね」とひやかし始める。そのひやかしも気持ちよくって、徐々に雷太を心で追うようになり、いつでも微かに彼を思い出すようになった。

誰に話したわけでも、聞いたわけでもない。だけどこれがきっと人の言う、好き、ということなのだろう。どうしてか初めから、胸の奥でわかっていた。

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