第4話
「え! そんなとこまで行ったのぉ!」
お酒のせいで、普段より少し大きくなった、お母さんの声が響く。
テーブルからは、ガラス越しの港町の夜景が一望できた。遠く散りばめられたビルの窓の明かりは、なんだか意思を持ってこちらを見つめる、大勢の目のようにも見える。細かな光の中央に輝くのは、夜空にエメラルドグリーンを滲ませる、大きな観覧車。ゆっくりと動く観覧車が、いつもより遅く、時を刻んでいる。小さくかかったクラシック音楽と、品の良い食器の音、周りの人たちのささやかな笑い声が時折響く、ホテルの最上階のレストラン。そのなかで、お母さんの驚いた声は、やはりひときわ目立って、向こうの席の女の人がちらりと振り返って、こちらを見た。
「しいー! 朝海声でかいって!」
勇人が笑いながら、右手の人差指を口に当てる。
「あっ!」とお母さんが、また大きな声を出して口を抑える。その仕草に、ほたるも勇人さんも声を出して笑った。
「うん」
笑いがおさまると、ほたるはさっきのお母さんの言葉に頷いた。そんなに驚かれると、みちると一緒に従業員の休憩室に入ったということが、より一層誇らしく思えてしまう。
「エレベーターの横の壁にドアみたいなのがあってね、金の輪っかが付いてたけん、試しに引いてみたら、なかが休憩室だったばい」
「えぇー! 次からそういうとこは入っちゃだめだよー。大事にならなかったからよかったけど」
「うん。でもすぐにホテルの人たちが来て、間違えて入っちゃったって言ったら、お菓子くれたけん、そのまましばらくいたんだよ」
「知らない人からもらったもの食べちゃ駄目ってあんだけ言ったでしょー?」
「でもホテルの人なら大丈夫でしょ?」
「そんなのわかんないでしょーが」
「いやでも夕子ちゃんしっかりしてるし、もうちゃんと人のことは見てる感じだよな」
白ワインをくっと、グラスの底まで飲み干した勇人さんが口を開く。
——しっかりしてる。
勇人さんは、初めて三人で食事をした日にもそう言っていた。
「どうかなぁー」
お母さんは悪戯っぽい表情を浮かべると、勇人さんと同じ仕草で、ワインを静かに流し込む。綺麗に澄んだワインだけれど、さっきほたるが小さな一口を貰うと、口いっぱいに苦さが広がった、鉄のように苦い。急いで水を口に含むまで、顔をしかめずにはいられなかった。よくこんなにも大きな一口を、平気な顔して飲み込めると思う。これが美味しいと、思うようになるのだろうか。きっといつの日かなるのだろう、とほたるは思う。だってお母さんと勇人さんは、こんなに喜んで、結婚一周年の今日の日に、このワインで乾杯をしたのだから。
「一人だったらちょっと不安だけど。でも、みちるがいるから」
「みっちゃんはしっかりしてそうけんねー!」
「みっちゃんって、今日来たお友達?」
「うん」
みちるのことは、既に何度もうちに招いたことがあって、お母さんはみちるのことをもうよく知っている。けれどいつも帰りの遅い勇人さんは、まだ一度もみちるの顔を見たことがない。
「そう、すごいの。なんていうかね、既に色気あるっていうか、めっちゃ大人っぽいの」
「えーっ本当? それは是非お会いしたいな」
冗談まじりに勇人さんが言う。そんな勇人さんの肩に、そんなこと言って、とお母さんの手が、ぱしん、と軽く触れる。
「いや、けど冗談なしにね、あれは大物になるわ、女として」
女、だって! あはははっ、ほたるが笑うと、
「女って、夕子ちゃんの前で」勇人さんも目尻を下げて笑った。
お母さんが勇人さんを初めて連れてきた日、怖い、とほたるは思った。グレーのスーツに包まれた身体はごつごつとして、クラスの一番大きな男子とも比べ物にならない。この人がその気になったら、全部簡単に壊されてしまう。そう思った。そして、細い一重瞼の奥の表情は、いつも涼しげで、余裕がありそうで、それが何より怖かった。けれど、こんな風に思い切り笑ったときの、眉も目尻も下げて笑う表情は暖かく、頼りなげでもあって、それを見るたび、小さくなっていく消しゴムみたいに、恐怖心は薄れていく。
三人での暮らしに「慣れてきた」と、みちるに告げた言葉は、正直な気持ちだった。お母さんと勇人さんは、ほたるの前では自分たちの男女である部分をそっと隠す。それでも時折、勇人さんの女であるお母さんの香りが、ほんのりと伝わってくる。女の人の夢がいっぱい詰まったみたいな、甘い花のフレグランスだ。けれど、もともとそういうお母さんがいることはわかっているから、気づかないそぶりをするだけで戸惑うことはない。
またこれで勇人さんが、変にお父さんの役割を果たそうとしたり、逆にどうしていいかわからない様子で接してきていたら、居心地が悪かっただろうとも思う。けれど、勇人さんはいつも自然体だった。だから、お互いのよくわからないことや、本物の家族にはない気の使い、そういうものが見え隠れしたときでも、誰も変に気張らず、これから時間は沢山あるのだ、とただ思うことができた。
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