第3話
「私、再婚しようと思ってる人がいる」
あの頃。もう一年と、少し前のことだ。お母さんから、勇人さんとの再婚を告げられたとき、蝉のさなぎが殻を破って羽化するみたいに、胸の奥から右足、左足、と、行き場のない反発心が突き上げてくるのを感じた。
お母さんに恋人のような相手がいることは、知っていた。夜、なかなか寝室にやってこないお母さんが、隣の部屋で電話をしながら笑う声を聞いたこともあったし、早めの夕食のあとに出かけていくことも、時折だけれどあった。それでも、お母さんがほたるに対し、それをはっきりと明かしてこないこと、それどころか、なるべく悟られないようにしていたことが、自分と、いなくなったお父さんの、優勢を証明していると思っていた。
こっちが光で、あっちは影。それが、再婚をきっかけに、強く揺り動かされていくような気がした。壁越しに聞いた、お母さんの笑い声。おばあちゃんと電話しているときとも、友達と電話しているときとも違う。それは宙に回せたティッシュペーパーのように、ふわふわと柔らかい。
「ほたる?」
「ほたるー?」
自分が呼ばれたことにピンと来て、振り返った。教室。友達が二人、けらけらと笑いながらこちらを覗き込んでいる。この頃ほたるは、学校でも、例えば退屈な授業中、宙を見上げては、お母さんのことを考えていた。二人のクラスメイトは、ほたるを見て、同じように目を細め、白い歯を見せて笑っている、後ろの子が前の子の肩を両手でがっしりと掴んだ、電車ごっこのような絡み方をして。二人は楽しそうに顔を見合わせ、片方が言った。
「今の顔! わかった!?」
「わかったー! ほんとだ、すっごい! 右目と左目がばらばらのほう向いてる!」
「ねぇ、ほたる、もっかいやって? 今の顔!」
「え?」
ほたるは黒板のほうに向き直り、さっきまでしていただろう表情を、顔の上に思い出そうと試みる。
「違うよー! さっきと。今は普通の顔」
「そう?」
斜視のことを言われているのは、すぐにわかった。
——疲れたとき、斜視になっているから、癖にならないように意識して、ちゃんと両目で前を向くんだよ?
そう時々、お母さんから注意をされる。
「さっきのはこんな感じ」電車ごっこの前の子が、むりやり両目を力ませる。けれど、そのなかの黒目と黒目はじっと留まって離れていかない。
「全然できてないってばっ!」」
くはははははっ、と、後ろの子が前の子の肩をぽんぽんと叩いた。
——みっともないから、ぼーっとしないの。
お母さんの声が頭に響く。
——したくて、こういう顔、してるわけじゃない。
ほたるが言うと、
——違う、顔がみっともないなんて言ってないわよ。ぼーっとしてることがみっともないことって言ってんの。
お母さんは言った。からっとした言い方だったから、なんだそうか、そのときはすんなりと思った。だけどそうだ、本当は、多分こういうことなんだ。こうやって、私が笑われてしまう子だ、というのが、お母さんのプライドを傷つけている。
ツンとした痛みが、喉元にこみ上げた。
「真奈美たちさー、今はちょっとそっとしといてあげたら?」
横からみちるが現れたのは、そのときだった。みちるとは、皆でドロケーや、ドッジボールをするときなんかには、一緒に遊ぶこともある。けれど、ほたるとみちるが二人きりで話をしたことなど、それまで一度だってなかった。そのうえ、みちるはクラスで一番おませなグループにいるものだから、ほたるにとって彼女は遠い存在だった。
そういえば、こんなことだってあった。四年生にあがったばかりの頃。
ある日クラスの女子で、グランドで大縄跳びをして遊んでいると、サッカーをしていた男子のボールが、思い切りみちるの頭を直撃した。順番に縄跳びを飛ぶための列に並んでいたみちるは、ドンッ、と鈍い音のあとで、うずくまるようにして泣き始めた。
——大丈夫!?
すぐにボールを蹴った男子と、その周りの数名が駆け寄ってきた。いつもの様子と打って変わって、「ごめん」「ごめんな?」心配そうな表情で声をかける、
みちるは顔を隠し、うずくまった姿勢のまま、「・・・・・・ん」震えた声で、なんとか答えていた。きっと泣き顔を見られたくないんだ、ほたるは思った。そんなに酷いのだろうか。
——今ジーンと痛いだけけん。しばらくほっといて。治るから。
か細い声で、ようやく、みちるが言った。しばらくそのままで時が流れたけれど、不安そうに目を合わせあっていた男子たちも、やがてその場から離れ元の場所へと戻って行った。
——大丈夫、みちる?
みちるの隣に屈みこんだ杏里が、丸まった彼女の肩に優しく触れる。杏里たちのように、いつも一緒にいるグループの子以外は、そこまで近づくことはできない。けれども、周囲の女子たちは皆心配そうに、みちるを見つめていた。ところがそのとき、突然ひょっこりとみちるの首が起き上がったのだった。
——ふふ、ほんとは大丈夫なんだけどね。
涙の面影ひとつない悪戯な表情で、彼女はさっきの男子たちが遠くに行ったことを確かめ、膝についた砂埃を払った。
——え? 嘘泣き!?
——うん。だって泣きでもしないと、あいつら謝らんけん、むかつくじゃん。
どよめく女子陣をよそに、みちるは平然としていた。
こんな女の子が本当にいるのか。それも、同い年の女の子に! 衝撃だった。怖い、とも感じた。いつか自分だっていとも簡単に、騙されてしまうかもしれない、と。
だから、斜視のことで助けてもらったときは驚いて、そして尚更に、嬉しかった。そのあとほたるは少しずつみちると親しくなり、自然と、みちるのグループにも溶け込んでいったのだ。
やはりみちるは、他の友達とどこか違った。ここから向こうは、相手を傷つけるかもしれない、一線。そんな常識を軽々と飛び越えて、彼女はいつだって率直に振舞った。
例えば、歌手になりたい、目を輝かせる杏里に向かって、今いる歌手の真似が上手いだけじゃ、デビューなんてできないよ? 彼女は涼しい顔をして言った。杏里がそのあと静かに涙をこらえたことを、ほたるは知っている。
そして、「ほたるって、もう名前がほたるみたいな気ぃするけど、本当は夕子なんだよね」杏里と麻里子と、仲良しグループの四人で話していたとき。前の苗字、つまりお母さんがお父さんと結婚していたときの苗字、「蛍川」からとったそれについて、
——え、じゃあもう何もほたるじゃないけん。
みちるは言ったのだった。
そう、私はもう何にもほたるじゃない。
どうしてみちるっていつもそうなの! 周りの友達は驚いた。だけど、そんな彼女の言い草が、ほたるにとっては、お母さんの再婚への不安を少しだけ笑い飛ばせる、勇気になっていった。
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