第終章

皐月に喜びの桜咲く。

 中学の頃から乗っている自転車から、きぃこきぃこと軋んだ音がする。どこも壊れていないはずだが、古くはなっているようだ。乗るのは今年いっぱいにして来年度は新しい自転車を買おうか。きちんと感謝をして替えよう。


「……良い天気だね」

「ああ……そうだな」


 後ろから聞こえる、鈴の鳴るような声に返事をする。2人乗りでよろけながらも時折視線を上に向けると、抜けるような青空が広がっていた。



――文化祭での告白の後。

 その日の夕方のこと。

 俺と皐月は、自分たちの教室で18時になるのを待っていた。クラス企画をやっている1~2年生のいる教室は騒がしいが、3年生はみなどこかに遊びに行っているようで、昼間に比べると静かそのものだった。

みんなが皐月を認識するようになったのは分かったが、まだ安心出来てはいない。本当に大丈夫なのかを確かめるために、俺と皐月は教室に残っていた。


「匠くん……」


 17時59分を迎えた時、皐月が俺の手を不安げに握った。


「大丈夫。大丈夫だから……」


 皐月の手を握り返して、ゆっくりと抱きしめる。

 そして、迎えた完全下校時刻。家に帰るよう知らせるチャイムが鳴った。


『…………っ』


 抱きしめる腕に力を込めて、祈った。もう、行かないでくれ……!


『…………』


――チャイムが終わると、そっと目を開ける。

 俺の腕の中には変わらず皐月がいた。

 温もりが消えることは無かった。


「皐月……おい、皐月、やったぞ。もう大丈夫だぞ!」


 俺の胸に顔をうずめた皐月が恐る恐る顔を上げる。


「……私、下校のチャイムを最後まで聞いたの……すごく久しぶり。……もう、私、大丈夫……なのかな?」

「……最後に確認しよう。一緒に校門から外に出よう」

「わかった」


 下校時刻を迎えても無事だったことを知り、俺と皐月は急ぎ足で昇降口に行った。皐月の外履きはまるで時が止まっているかのように下駄箱に入っていた。

 2人で手を繋いで校門に向かい、目の前まで来たところで深呼吸をした。


「行くぞ……」

「う、うん……」

『せー……のっ!』


 2人で同時に足を踏み出すと――何事もなく、俺と皐月は学校の外へ踏み出すことが出来た。今まで何百回とくぐってきた校門を跨ぐ一歩が、途方も無く大きく感じられる。


「や、やった、匠くん、私、本当に……っ!」


 皐月が口元を手で覆い、ぽろぽろと涙を零す。嬉し涙がぽろぽろとアスファルトを濡らしていた。

 と、そこへ――薫、更紗、そして卯月先生がやってきた。


「皐月さん! やったね……良かった……」

「皐月ちゃん、うぅ、ひっく、う、うぇ、良かった、良かったぁぁ……っ」


 薫と更紗が涙混じりに皐月と握手したり抱擁したりしているのを、少し遠目で先生が眺めている。


「皐月……」


 先生が呼び掛けると、皐月が穏やかな目で先生を見つめた。


「ありがとう、卯月先生……いえ、お母さん」

「……っ」


 皐月がその言葉を口にした瞬間、卯月先生の澄んだ瞳からぽろぽろと大粒の涙が溢れ出す。釣られるように、皐月もぽろぽろと泣き始めた。母娘で泣き方まで似ているんだな、と思った。

 互いに駆け寄って、2人が抱き合う。


「お、お母さん、私、今まで、ずっとお母さんのこと忘れて……ひっく、ご、ごめん、ごめんなさい……っ」

「何を言っているんだお前は……お前は悪くない。今までずっと、よく頑張ってくれた……っ」


 2人の肩が互いの涙で濡れていく。俺たち3人は、桐橋母娘の本当に意味での再会をしばし眺めていた。目元を拭うと手は湿り気を帯びていて、それも当然だよな……と納得した。

 母娘の時間が、ずっと止まっていた時間が、やっと動き出した。



「この間は、その……恥ずかしいとこを見せちゃったな……」


 後ろで皐月が照れた声を出す。文化祭の夕方のことを思い出しているようだ。


「気にすんなって。可愛かったぞ」

「…………」


 無言で背中を抱きしめられた。信じられないくらい柔らかい感触が背中を包み、激しく動揺する。盛大によろけて、土手にでもいたら転がり落ちそうだった。


「ま、待て、俺が悪かった。許してくれ」

「え? 別に悪いだなんて思ってないわよ? ……むしろ、褒めてくれてありがとうって言う意味でのお礼……」


 蠱惑的な声で囁きながら、抱きしめる力を強める。


「いや、ちょ、待って、あかん、あかんぞ」

「自転車に乗りながら射精ってあんまりしたことないんじゃない?」

「あんまりどころか1回もねえよ! ていうかそんな発想自体浮かばねぇよ! 何言ってんだお前!?」

「うふふ……」

「やめろやめろ! チャックを開けるな! あ、なんか股間が涼しく……ってやめろマジで! 今俺は前しか見れないんだから!」


 こんな問答をしていると……俺と皐月は、ある場所に差し掛かった。


「綺麗……」


 皐月の声が耳に心地良く染み渡る。チャックを下ろしてなければ最高なシーンだと思うんだけど。何で喋りながらもズボンの中をまさぐってんの!? ねえ!?

 そこは毎年桜が咲き乱れる並木道で、多くの人が通学や通勤、散歩をしながらこの景色を楽しむ。今年は例年よりだいぶ遅く桜が開花して満開を迎えていた。

 そこで俺たちは――正確に言えば、皐月は、姉の桜と会う約束をしていた。

 本当なら、卯月先生と同じタイミングで会えば良かったのだけど、姉は敢えてそこには居合わせなかった。


「私と桜はね、入学してすぐに仲良くなったんだ。それで、それ以来毎年桜の下でお花見をしていたの。この桜並木は、私と桜の大事な大事な思い出なんだ」


 姉がここで会うという提案をしたことに首を傾げていると、皐月がこう説明してくれた。どうせ再会するならロマンチックに……ということだろう。我が姉ながら中々粋なことをしてくれる。


「皐月ー! こっちこっちー!」


 聞き馴染んだ声がして視線を前方に向けると、桜並木の少し奥まった所――他の木よりもずっと昔からそこにあるであろう、一際大きな桜の木の下で、姉が喜色満面の笑みで手を振っていた。


「桜!」


 木の下に辿り着くと、皐月は慌てたように自転車を降り、俺に丁寧にお礼を言って姉の下へ駆けだした。

 姉に対して、皐月が飛び込むように抱き付く。姉がそれを器用に受け止めるのを見て、きっと2人はずっとこんなやりとりをしていたのだろうと思った。


「桜……桜ぁ……っ」

「皐月……ごめんね? 私が中途半端にお願いをしたばっかりに……」

「そんなことない……そんなことないよ……。確かに苦しかったけど、でも、桜が願ってくれなかったら、私は今ここにいないんだよ……」


 互いに背中をさすり、優しい声音で言葉を交わす。3年という長い空白の時間を、ゆっくり埋めるかのように。


「皐月。今日はうちに来なよ。話したいことがいっぱいあるから!」


――やっべ。

 姉がそう言った瞬間――皐月も俺も、顔を逸らした。


「……何その、2人の反応?」


 姉が目を細める。あ、やばい、糾弾モードに入った。姉は普段そういう面を見せないが頭が物凄く良く、特に人の心情を読み取る時の理解度が尋常ではない。


「……まさか、皐月。あんた、匠をあんたの家に呼ぼうとしてたりする?」

「ぎくっ」


 皐月が古典的なセリフを漏らす。おばか!

 皐月が俺と交わした約束があった。

 その内容は、

――もし願い事が成功したら、私の家に来て。そこで匠くんの好きなようにして良いから――

 というものだった。

 死ぬ程どきどきする言葉に、当然俺は食いついた。

 だって、「好きなようにして良い」んですよ?

 ここで「あーわかった、それじゃあ、めいっぱいくつろがせてもらうわ」なんて言う唐変木はそうそういまい。


 こんな約束を交わしたものの、いざ成功するとその嬉しさのあまりついそのことが頭の中から飛んでいた。皐月がずっとそばにいてくれるということがあまりにも幸せ過ぎて、本当に忘れていたのだ。文化祭翌週の金曜日に、皐月が約束の件を再び持ち出して思い出した。明日が休日だからと、俺を皐月の家に招こうとしていた。だから2人で自転車に乗って、皐月の家に向かっていたのだ。

――ていうか、なんで姉はこんなに簡単に見破れるの? 俺と皐月って、そんなに分かりやす……分かりやすいか。


「ねえ、皐月、あんた知らないでしょう?」

「え、な、何を?」


 姉が皐月を抱きしめたまま、皐月の肩に顎を乗せて俺を見つめる。その目がまるで獲物を捉えた蛇のようで、一瞬で身体が固まってしまった。


「……匠の、朝勃ちの逞しさを」


 吹き出した。


「ぶふぉっ!? ちょ、姉ちゃん何言ってんだよ!?」


 すると皐月は、あろうことかそれに対抗し始める。


「さ、桜だって知らないでしょ! 匠くんが授業中に寝てる時に淫夢を見てがっちがちに勃起して、『うへへ……皐月のここ、柔らけぇなぁ……挟んでもらっていいか?』とか言っている時のふやけた顔を!」

「え、ちょっと待ってごめんなさい死んだ方が良いですか俺」

「むぅ……やるわね皐月。でもあんたは知らないはずよ。朝勃ちした時の匠のアレの見事な反り返り具合を」

「え、ちょっと待って姉ちゃんまさか剥いたのか?」

「ああ、半分だけ皮をかぶってたからぺろんと剥いたわよ。きちんと綺麗にしててお姉ちゃん感心しちゃったわ」

「そういう意味の剥くじゃなくて! ズボンを下ろしたのかって意味だよ!」


 ていうか完全に触ってんじゃねぇか!


「……匠が寝相で脱いでたのよ」

「そんな器用なことしたことねぇよ!」

「いえ、発想の転換よ匠。もしかしたら私は匠が幼少の頃からずっと、匠が寝相でズボンを下ろす度にそれを戻していたのかもしれないわ。それをこの間はたまたま行わなかったというだけで」

「かもしれないって何だよ!? ていうかそれ何の係だよ!?」

「わ、私だって……っ、授業中の匠くんのアレを足で挟んだことがあるわ!」

「うおぉぉい!? 皐月さん何言ってやがりますの!?」


 こんなやりとりをしていると、ふと、電話の着信音が自分のポケットから聞こえてきた。画面を確認すると、そこに表示されている名前を見て瞬時にポケットに引っ込める。相手が相手なので、電話を切る勇気までは無かった。

 しかし……いつの間にか2人は抱きしめ合ったまま向きを変えていて、俺の様子を一部始終見ていた。やばい、2人揃って糾弾モードに入った。


「あぁっと……その……何でもないから」


 顔を逸らして答えると、頬に2人に視線がちくちくと刺さる。本当に刺さる。


「匠。今のは誰? ここに来て第3勢力?」


 第3勢力ってなんだ、第3勢力って。


「匠くん。私を恋人にして桜を愛人にするのまでは許せるけど、流石に3人目はだめだよ?」


 なんか寛容になってる!? 姉が皐月を見て「皐月……っ!」と何故か感動した瞳を向けてるけど。違うからね、おかしいからね皐月の言ってることは!

 観念してスマホを取り出して、着信画面を2人に見せる。未だ鳴り響くコール音は、ある種の執念さえ感じるものだった。


『…………』


 姉と桜が一様に目を細める。こう見ると、姉妹のようにも見えた。

 画面には、俺が登録した名前が表示されている。俺が皐月のことで相談した際、連絡先交換を提案してくれた相手を。


『卯月先生(推定Gカップ)』


 …………。


「匠……Gカップ無いとだめ? ねえ、わたしも皐月も一応Fカップはあるよ?」

「そうよ匠くん、2人で挟んだらそれはもう天国よ?」

「なんか共闘態勢に入ってる!?」


 国内を上手くまとめるには、国外に敵を作るのが一番……という話を今急に思い出した。俺はまだ何も言っていないのに、娘とその親友は2人して卯月先生を敵視している。女の勘が鋭いってレベルを超えてる気がするんだけど……。

 姉と皐月が身体を離したかと思うと、


「あっ!? おっ、ちょっ、おわっ!?」


 皐月がするりと俺の背後に回り込むと、てっきり羽交い絞めにでもされるのかと思いきや片手で俺の目を塞ぎ、もう片方の手は――あろうことか、俺の股間に添えられた。そして躊躇なくズボンの上からまさぐり始める。


「はい、借りるね。スピーカーモード……っと」


 そして姉が俺の手から流れるようにスマホを奪い取り、通話状態にしてスピーカーモードにした(と思われる)。股間をまさぐる手が1本増えたのは気のせいですかね、ここ一応道路のすぐ目の前なんですけど、桜の木の下なんですけど、これ大丈夫ですかね。


『やっと出たか、橘』


 電話の向こうから凛とした声が聞こえる。よりにもよって何でこのタイミングで……と思っていると、卯月先生は小声で『……ん?』と呟いた。


『もしや、今この電話を他に聞いている者がいるのか?』

『…………』


 あまりにも鋭すぎる先生の勘に、3人揃って目を剥いた。あ、俺は視界を塞がれてるから、2人のリアクションは息遣いで判断しました。姉も皐月も緊張をほぐすために俺の股間をまさぐるのをやめてほしい。もう既に限界が近いんだけど。なんでこんなに手つきが艶めかしいの?


「……お母さん。私と桜も聞いてます」


 皐月が答える。その声は熱を帯びていて、女の臨戦態勢を思わせる声音だった。

 皐月の声とは対照的に、『おお、そうかそうか』と答える先生の声は冷静そのもので。


『橘。今晩私の部屋に来るか。お前が好きそうな下着を着用して待っているぞ。本当に興奮してどうしようもないなら、入ってすぐ私に入れてくれて一向に構わないからな』


 ひゅっ――と息を吸った。いつもなら即座にツッコむこの場面だが、俺の身体に触れている2人の強張りから、恐ろしい程の緊張を感じ取ったからだ。


「卯月先生、残念ながらそれは叶いません」

『む。なぜだ。私なら橘を心ゆくまで満足させられる自信があるぞ』

「お母さん。お母さんがどれだけ上手くても、その頃までには……いえ、今この場で。匠くんのアレが空っぽになるから、意味が無いんだよ」


 姉と皐月の言葉に「……へ?」と間抜けな声を漏らした瞬間。

 ぢぃぃ……っと聞き慣れた音がして――急に、股間が涼しくなった。


「……って、ちょっと!? なんで俺のを外気に晒してんの!?」


 パンツ越しに浴びる風が存外心地良い。いかん、パニクっている。


『む!? エロの気配!? お前たち、今どこにいる!?』


 この人頭おかしいんじゃないだろうか。


「卯月先生。匠の童貞は今日この場で、桜の木の下で奪わせてもらいます。恨まないでくださいね」

『む……ああ、あそこか。久しぶりにそこで花見をしたいな、皐月』

「うっ……」


 どうやら桐橋母娘にとっても思い出の場所らしい。皐月が先生の言葉で明らかに戸惑った様子を見せている。


「どうしたの皐月! 早く剥かないと!」


 こんなんですが、愛しの姉です。


「私も早く剥きたいけど……お母さんの思い出の場所だから……早く剥きたいけど……」


 こんなんですが、愛しの恋人です。


「お前ら何言ってんだ!? いやだー! 初めてがいきなり2人となんて……って、あれ?」


 …………。

 ……これ、意外と……。


「あ、匠。今『意外とアリかも』って思ったでしょ」

「ぎくっ」

「あー、だめだ、匠くん可愛すぎ。よし、剥こう」

「きゃー!」


 だめだ、2人の目がぎらぎらしてる!

 怖いよー!


 2人に制服を剥がされていると、不意に電話から聞こえてくる音が変わった。2人も異変に気付き電話に耳を澄ませる。

 風を切るような音と、シャカシャカと何かが高速で回っている音。


「……まさかお母さん、移動してる!?」

「う、卯月先生!? 今何をしてるんですか?」

『うん? 今か? 愛用のクロスバイクにスマホを固定してスピーカーモードにしてそちらに向かってるところだ。着くまで5分といったところだな。2人の努力を一瞬で水泡に帰すようなテクニックを見せてやろう。橘の……いや、匠を頂くのはこの私だ』


 そう言って、電話が切れる。ツーッ、ツーッという無機質な音が聞こえると、2人がゆらりとこちらを向いた。


「……桜。じゃんけんしましょう。今からでは卯月先生が来るまでに本番まで行くのは難しい。どちらかが匠くんの口、どちらかが匠くんのアレを頂くのよ」

「……そうするしかなさそうね。くっ……まさか先生があんなに早く行動に打って出るなんて……! しょうがない、この短時間で、全力で匠を骨抜きにしちゃいましょう」

「ええ」

「お前ら揃って何言ってんだ!?」


 何で俺、桜の木の下で4Pをしそうになってんの!?


「うるさいよ匠。全部は脱がなくていいから。脱ぐのは上半身だけでいいから。下半身はチャックを開ければ十分」

「きゃー!」

「はい、出したわ。……これ、が、匠くんの……すごぉい……っ」

「やめてー!」


――女の子みたいな悲鳴を上げながら、俺を組み伏せて剥いてくる女の子2人の間から覗く色に、ふと目が行く。

 樹齢百年は超えているであろう大木には、雄大さを感じさせるほどの桜が咲いていて。

 毎年見ているこの木の桜は、例年より豪華に咲き乱れていて、まるで咲くまで我慢した分を解き放っているかのようだ。


 この桜の木の下で、仲睦まじい家族が花見をして。

 この桜の木の下で、可憐な少女2人が仲を深めていた。


 一度は失われて、長いこと空っぽになっていた時間が……ちょっとした、それでいて不思議なきっかけで、こうしてまた、流れ始めている。


 それが、どうしようもなく嬉しくて、どうしようもなく幸せだ。

 俺も、皐月も、姉も、薫も、更紗も、卯月先生も。


 ゆっくりと、時を進めていこう。


「なに感慨に浸ってるの匠くん? 今浸るべきは情欲だよ?」

「そうよ匠。おとなしく上の口と下の口に神経を集中させなさい」

「台無しだよ! 俺の渾身のモノローグが台無しだよ!」

『いいから大人しくしなさい』

「は、はいぃ……」


 こんなやりとりをしながらも、姉と皐月はずっと楽しそうに笑っている。俺も、悲鳴は上げているが、相当上げているが、きっと表情は笑顔なんだろう。

 そうだ、俺たちはここからまた、各々のペースで歩み出していけば良いんだ。


「よし、桜。じゃんけんしよう。一生もののじゃんけんよ」

「そうね。行くわよ~……? 最初はぐー、じゃんけん――」

「やっぱりこんな爽やかな空気の下でなんていやだー!」

『あ、こら、待ちなさい!』


 上着を抱えて股間を隠し、よれよれと自転車に向かう。

 すると、1台のクロスバイクが目の前に停まった。ワイシャツのボタンを3つも外し、強烈なまでに強調された双丘の谷間が視線を吸い寄せる。


「おや、まだ思ったより事は進んでいなかったようだな。匠、どうだ、一緒に家に来るか?」

「お、お母さん! くっ、遅かったか……!」

「まだよ皐月。諦めちゃだめ!」


 よく分からないノリになっていると、この空気にはそぐわない呑気な会話が聞こえてきた。


「更紗さん。ここね、お気に入りの場所なんだ。ちょっと話していかない?」

「わぁ……綺麗。うん、いいよ。最近忙しかったし、いっぱいお話したいな、薫くん」

「さ、更紗さん……って、うえぇ!? 何この状況!? 何で匠が半泣きで、襲われた直後みたいな感じになってるの!?」


 くっつきそうでくっつていないランキング第1位(俺調べ)の薫と更紗がやって来た。


「見たまんまだよ! 助けてくれ! 俺は4Pなんてしたくない! いや、正確にはやってみたいけど、いきなりそんな極楽を味わったらこの先普通の行為が出来なくなる!」

「更紗さん、場所変えようか」

「うおぉい!? ごめん、ごめんって!」

「匠くん……がんばってね」

「更紗ぁっ!? 何その生温い目は!?」

「どれ匠。家に来なさい。まずは一緒に風呂に入るか? それとも自転車でじっとりと汗をかいた私の身体を隅々まで舐めてみるか?」

「匠くん。思い切り勃ってるわ。やっぱりここで空っぽにしていかないとだめね」

「そうよ匠、あっさりと卯月先生の誘惑に乗っちゃって許せない。今すぐここで抜いてあげる」

「はーーなーーせーー……っ!」


 青空の下に、俺の悲鳴が響く。

 少し前までなら有り得なかったこんな展開も、悪くない。

 だって、今ここにいるみんなが、楽しそうに笑っているんだから。

 ……まあ、俺は、恐らく人生最初で最大の貞操の危機に見舞われているんだけど。


 ――不思議なノートが繋いだ縁は、今こうやって花開いて。

 まるで、俺たちを祝福してくれているかのように、見上げた5月の青空を桜の花びらが鮮やかに染め上げてくれている。


 この物語は一旦ここでお終い。

 けれど、きっとまたどこかで続きが始まるかもしれない。


「たーーすーーけーーてーー……っ!」


 ……もしかしたら、続きはラブコメじゃなくて官能小説になっているかもしれないけれど。それはそれで、ありなのだろうか。


 振り返ると、更紗が幸せそうに笑っている。手つきが卑猥なのは今は考えないでおこう。


 こんなおバカたちの日常の話でよければ、また、どこかで。




 皐月に喜びの桜咲く。






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皐月に喜びの桜咲く。 高橋徹 @takahashi_toru_

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