崩壊の音が聞える

 そこまで話終えたところで玲ちゃんのお義母さんは号泣してしまった。つられるように僕も涙を流していた。滅多に泣かない僕だけど、とどまることを知らない涙で視界は歪み、お義母さんの表情をよく確認することができない。

「今日はここまでにしましょう」ようやく嗚咽を呑み込んで、言葉を発したお義母さんに、僕は無言でうなずくことしかできなかった。


 もうこの先の話を聞くのが怖くてしょうがなくなってしまっていた。この話を聞いた後に浮かぶ最大の疑問。なぜ玲ちゃんが今の両親のもとで暮らしてきたのかなど、疑問は尽きなかった。でもそんなことどうでもよかった。僕は子供が好きではないはずなのに、お義母さんの話を聞いただけで、玲ちゃんの実のお母さんの痛いほどの愛情が伝わってきた。自分だったらどうしていただろう。死にゆく中でわが子へどんな思いを募らせただろう。そんな風に感情移入してしまったからだろうか、数奇な奇跡によって僕の妻になった玲ちゃんの人生を改めて見つめなおした。


 あの時にもし、玲ちゃんが死んでしまっていたら・・・。そう考えただけで彼女に過剰な愛情を持つ僕の心は今にも張り裂けそうだった。起きてもいないことで気持ちが張り裂けるのだから、今もし彼女を失ったら僕は。僕は生きてはいけないと思った。そして自分自身、事故の被害者であったお義母さんの気持ちを汲むと、話してくれたことに感謝する一方で、「知らなければ僕はこんな気持ちにならずに済んだのに」自分にもたらされた処理しきれない情報と感情で頭がいっぱいになった。この感情をお義母さんにぶつけるのは甚だ間違っている。知らなければよかった真実など、人間長く生きれば生きるほどあるだろう。そのたった一つに触れてしまっただけで、僕の思考はあっさりと活動を停止した。

そのときテーブルに置いておいた僕のスマートフォンが、振動をしながら呼び出し音を高らかに鳴らし始めた。無言でうつむいてしまったままのお義母さんを一度見てから、画面の確認をした。そこには、玲ちゃんと僕が付き合いたての頃に、恥ずかしがりながら二人で撮ったプリクラの画像が表示されていた。僕は咳ばらいを一つしてから、着信のボタンにスライドをかけた。

「もしもし?玲ちゃん、どうかした?」僕はさっきまでの涙が、電話越しに悟られないように平静を装って電話に出た。お義母さんも嗚咽を飲み込み、自分から出る音を必死に抑えてくれた。あくまでも、電話越しの彼女にこの湿った空気を悟られるわけにはいかない。

「どうにもこうにも。仕事が今終わったところだ。今日は早く終わると言っておいただろう?」予想の上を行く速さで仕事を終わらせてきた玲ちゃんに驚かされた。

「えぇ?!もう終わったの?」さすがに今すぐにはお義母さんを放って家に帰るわけにはいかないと思いながら今どこにいるのかを尋ねた。

「玲ちゃん、今どこにいるの?」

「いや、今しがた取引先を出たところで今から駅に向かって新幹線に乗る。まぁ、いまからざっと3時間もあればそっちにつくだろう」久しぶりに直帰で帰れることに彼女はいたくご機嫌である。

「土産なら買ったぞ。喜べ、千里の好きな赤福にしておいてやったぞ」ちゃっかり僕にお土産まで用意してくれる有頂天ぶりだ。

 彼女がご機嫌なのは結構なことだが、この後3時間後どんな顔を見せて彼女に会えばいいんだろうと思ってしまった。

「では、近くまで戻ったら連絡する」そう言って電話は一方的に切られてしまった。

「はぁ」切れた通話にため息を1つついて、画面をホームに戻して元の位置に戻した。

「なに?玲はもう仕事が終わったの?」ようやく落ち着いたお義母さんは泣きはらして真っ赤になった瞼をこすった。

「えぇ。今日は出張の後で直帰だそうで、思っていた以上に早く終わったみたいです。今から新幹線に乗るみたいなんで、どのみちこっちにつくのは夕方になりますけどね」そういって気になっているであろう、娘の動向を伝えてあげた。

「たまには二人でゆっくり食事でもして来たら?」玲ちゃんの普段のワーカーホリックを分かり切っているお義母さんが、僕を労ってくれているのが伝わってきた。

「えぇ。その約束を今朝していたんですよ。今日は久しぶりに外食してきます」

「そうだったの。いいじゃない。じゃあ、こんなところでうじうじしている場合じゃないでしょう?」

「まだ時間はあるから大丈夫ですよ。お義母さんあと何か、困っていることはないですか?まぁ、またすぐに顔を出させていただくつもりではあるんですが」そう言ってお義母さんに尋ねたが、首を横に振られてしまった。このまま帰るのではなんだか大切な話を聞き逃げをしたような、後ろめたい気持ちになった。

「私のことはいいから今日はもう帰ってお出かけに備えなさいな」まるで僕の気持ちを見透かしたように笑顔で断られてしまった。

「じゃあ、今日はもう帰りますね。何かあったら、すぐに連絡くださいね」

「もちろんよ。雪に気を付けて帰るのよ。今日は本当に助かったわー。ありがとね」もうお義母さんの顔に涙の後はなかった。

「じゃあ、お暇するその前に、おトイレ貸りますね」そう言って、自分の顔を確かめに行った。涙をぬぐった跡が残ってでもいたら玲ちゃんに何を言われるかわかったものではない。あの話のことは玲ちゃん自身の口から直接聞くまでは、僕の胸の中にしまっておくと今、心に決めた。


 聞いてしまったことは、別にどうしようもないことだ。愛する玲ちゃんの過去に何があったとしてもきっと、僕たちの関係にはなんら影響はないだろうと思う。だから別に忌々しい記憶を掘り起こす必要なんてどこにもない。一つもないのだ。愛する玲ちゃんが悲しむところを見たくないというのが一番の理由だけれども。


 大した顔はしていないが、目も当てられないような泣き顔でもなかったので一安心して、お義母さんがいるはずのリビングへと戻った。お義母さんはマリを撫でながら、テレビの連続ドラマの再放送を見始めようとしているところだった。

「じゃあ、帰りますね。この容器は持って帰りますね」そう言って前に煮物をおすそ分けした容器を予定通りに、忘れないように回収して買い物してきた袋に入れた。

「本当にありがとうね。じゃあ、また来て頂戴。千里君が来てくれるとマリも喜ぶわー」いつの間にか僕の足元の周りをくるくる回るマリの額をワシワシと強めに撫でてあげた。

「じゃあ、また来ます。戸締りだけはしっかりとお願いします」そう言って玄関で湿った靴を履いてコートのジッパーを上げてドアを横に引いた。


「気を付けて帰るのよ」僕の背中にそう語りかけるお義母さんに、かつての自分の母の面影が一瞬見えた気がした。人を見送るというのはなんとも寂しい気持ちにさせられる。見送られる側も同様だ。今生の別れであろうとなかろうと、僕は人に見送られるのも、見送るのも好きじゃない。毎朝の見送りだっておなじこと。寂しさは毎回同じように僕に少しずつ散り積もっていく。


「はい。また来ます」そう言って引き戸を最後までゆっくりと閉じた。施錠がされたガチャリという音を確認してから踵を返して歩き始めた。2,3時間前に買い物袋を引っ提げて上がってきた坂道を今度は駅に向かって降りていく。すれ違う人もなく、曇り空の下トボトボ歩いて行った。これから楽しい玲ちゃんとの外食のはずなのに、いまいちすっきりしないのはやはり、さっきの話が引っかかっているからだろう。人間そう簡単に物事を忘れられる生き物でもない。いやなことや気がかりなことはたいていいつでも意識の中心に居座り続けるのだ。「心ここにあらずの」の僕でさえ意識をぼやけさせることができずにいた。

 濡れて履き心地が最悪な靴を履き替えるために、自宅にいったん帰るための電車をの少ないホームで待った。

 今僕の大切な人は、僕の好きなお土産を引っ提げて新幹線に乗っているのだろうか。疲れて眠っているかもしれない。ここ数日は今日のために帰宅がいつも以上に遅くなることも多かったし、家に帰ってきてもなお、食卓にノートパソコンと資料を広げてうなっていた。仕事は家に持ち帰るな。と言われる昨今だが、彼女にそんな言葉は通用しない。とことん納得するまでは眠ることさえ惜しかったのだろう。今は快適な車内でゆっくり休んでいてくれることを願った。頑張りすぎる彼女に、僕ができることは何だろうと考えながら、不規則に揺れる車内の座席に座ったまま彼女にメッセージを送った。


「仕事お疲れさま。夕飯どこに行こうか?」

 返事の内容はあらかた予測はついてはいたが彼女の希望を最優先するために、念のため聞いてみた。メッセージはなかなか既読にはならない。きっと眠っているのだろう。なんだか僕も眠くなってきた。いつもにまして今日は眠気が強かった。「朝の仮眠時間はあんなに快適に眠ることができたはずだから、この時間に眠くなるなんて変だった。先ほど泣いたからだろうか。家に帰って少し仮眠する時間をとろう」と思った。2駅しかないはずなのに異様に長く感じた乗車時間がすぎて、ようやく自宅の最寄駅についた。通勤ラッシュにはまだ時間は早く、乗り降りする人はまばらだ。そんな少ない乗客のうちの一人に、見かけたことのある男性を見た。


 僕と同じようにこの駅でホームに降りたその人は、あのホスト風の細身の男性で、どことなく僕のほうを見てホームの真ん中で立ち尽くしていた。前回同様、まだ冷えるこの陽気にコートを羽織ることもなく、かなり大きめの真っ黒なサングラスをかけていた。見つめられた僕も何となく立ち止まってしまった。彼はあの日と全く同じ恰好でそこに立っていた。あの時と違うのは、彼の後にぴったりとくっついて、一緒だった女性の姿は見当たらず彼は一人だったぐらいだろうか。


「この近くに住んでいるんだろう。それにしても浮く恰好してんな」なんて声に出さずにひとりごちて、彼から視線を外してエスカレーターを上がった。何となく気になって後ろを振り返ると、あの彼はまだホームで立ち尽くしたままだった。「いったい何がしたいんだろう」とは思ったが自分には関係ないと思い改札へと急いだ。


 

 その時だった。またあの声が僕に問いかける。


「君には何が見える?それとも何が聴こえる?」


 確かにそう聞こえた。頭上から雷が落ちてくるような衝撃的な感覚を伴って、この声は僕に呼びかけてきた。驚いて思わず周りをきょろきょろしてしまったが、周囲に特段変わった様子はない。あの気がかりな男性の姿も確認することもできない。気色が悪いと感じながらも、空耳だと思い込むことにした。三度も同じセリフを聞けば何かのお告げでお降りてきているのではないかと信じたいところだが、あいにく僕はオカルトの類は全く興味がないし、信じていない。そんな僕でも気味が悪くなるほど、クリアに僕の脳内に直接語り掛けてくるようだった。


 その声の主が分からぬまま、とにかく家に帰ろうと慌てて改札をぬける。急いで家に帰りたいから、走ってバス停までたどり着いた。

 仮眠の時間を取るためにも、歩いて帰るよりバスを迷わず選んだ。ちょうど停車中の車両に早足で乗り込み中ほどの席に腰掛けて、ようやく一息つくことができた。まるであの声から逃げるように、あの場所から〈といっても改札の中だが・・・〉早く離れたかった。何も聞こえてなかったことにするように慌ててバスまで来てしまった。


  発車時間までまだ数分あるらしく、バスはまだ発進してはくれない。車内は雪がもたらす湿気によって窓ガラスは白く曇り、不快指数が高く感じた。早く発信してほしい気持ちにかられる。

「君には何が見える?それとも何が聴こえる?」僕のなかで繰り返される、見知らぬ人からね意味のわからない問いかけ。


「質問に答えてやれば、もう聞こえることは無くなるだろうか。いや、待てよ。そもそも発している問いかけの主が分からない以上、答えようがないではないか」目に見えぬ相手は幽霊か、はたまた自分自身の潜在意識とでも言うのだろうか。


 考えをそらすために曇りガラス越しに、駅前のロータリーを眺めれば、先ほどよりどんよりと曇って、これから雨でも降り始めてしまいそうだ。重たげで灰色の雲は風によって、その見た目とは裏腹に早く流れていく。もしかしたら、この後は雨かもしれないと思った僕はなおのこと家路を急いだ。




幸いなことに、家に到着するまでは降りだすことはなかった。乾いている洗濯物を慌てて取り込んでから、靴下を脱ぎ捨てた。洗濯物が雨風にさらされてしまう最悪な状況はなんとか避けられてホッとした。ここまで済ませてから、自分の体が結構冷え切っていることに気づき、暖かいものを飲みたくなった。いつものケトルにお湯を沸かし、お茶を飲むことにした。朝同様にキッチンの椅子に腰掛けて、沸騰するまでの時間をすごした。


「君には何が見える?それとも何が聴こえる?」



どう考えても、質問の意味がわかりかねた。僕は普通に目が見えるし、聴力の異常は一切ない。だから、普通の生活をしている限りの想定の範囲内で物を見て、聞いて生活している。



思い当たる節が一つだけあるが、そのことは他人には全く予測のつかないものだから、質問の主がこのことを知っているわけはない。


思い当たる節というのは、僕の見る悪夢のことだ。確かに悪夢を見ている時には、実際には見たこともない支離滅裂な光景を目の当たりにしている。だから、このことに関して言えば日によって、頻度と内容は変わるが何かしらは見ている。そして痛みに苦しんでいる。でも、このことを知っているのは玲ちゃんと、父さんだけだ。今まで生きてきたなかで、この二人以外に具体的に話した覚えはない。


奇妙な気持ちになりながら、マグにティーバッグに入った緑茶に熱いお湯をそそいだ。じわじわと鮮やかな緑色に液体が染まっていくのをただ眺めていた。この間に服を着替え、靴下も履き替えた。この一杯を飲んだら横になろうと決めた。念のためにスマートフォンのメッセージを確認するも、返信はいまだないままだった。


まだ、玲ちゃんの実家を出てから一時間半ほどしか経ってはいない。お義母に甘えて早く帰ってきたおかげで1時間くらいなら仮眠を取っても問題はなかった。


熱く、濃く入ったお茶をすすって胃に落ちたとき、ようやく一息つけた。何かに追われていたような嫌な気分から解放された。そこにタイミングを合わせるようにスマートフォンがなり、メッセージの受信を知らせる。

「無論、ステーキだ。肉が食いたい。千里はそれで異論はないか?」僕の愛する彼女はかなりの肉食系女子だ。とにかく肉類への執着心が人一倍ある。一番好んで食べるのは、やはり塊の肉をそのまま焼いただけのステーキだ。最近外食するときは結構な確率でステーキハウスに行くことが多い。僕も肉類が嫌いではないから別に問題はないし、何より家で作れないものを食べられることが外食の醍醐味だと思っている。玲ちゃん的には仕事が片付いたら、食べたくてしょうがなかったのかもしれない。「普段の献立ももっと肉類のレパートリーを増やさなければ・・・」なんて思ってはいる。


 予想通りに帰ってきた返信に予定どおりの返信を返す。

「もちろん。いつもの駅前のステーキハウスKでいいんでしょ?何時に駅に到着する予定?」玲ちゃんが僕らの家の最寄り駅につく頃にはちょうど夕食時よりちょっと早い時間帯でお店もそんなに混雑はしていないだろう。目的のステーキハウスは駅から5分ほどのところにあるから駅で待ち合せれば問題はないだろう。

「6時40分ごろに駅に到着予定だ。そのまま店に向かいたいのだが、それでいいか?」僕の計算通りにすぐにメッセージが帰ってきた。

「うん。その時間には駅にいるようにするよ。残りの道中気を付けてね」約束を取り付けて、彼女が帰ってくるのを心待ちにしながら、寝室のベッドに斜めに倒れこんだ。現在時刻は5時5分。スマートフォンのアラームをジャスト1時間にセットして、いつもは玲ちゃんが使っている大きくて、縦ににバナナ型をしているビーズクッションを抱きしめて瞼を閉じた。何かを抱きしめることで安心感を得られるような気がして、普段は滅多に触らないそれにすがって体を丸めた。僕はあっという間に意識を手放すことに成功し、つかの間の眠りへと深く落ちていった。



 僕はまたあの小さい踏切に存在していた。今朝の仮眠時には踏切の上に横になっていたが、今回は違う。遮断機の下りた踏切の手前で立ち尽くしている。ただその場に突っ立ているだけだ。周りにはまたしても誰もいない。僕だけが踏切が上がるのを待っているようだ。しばらくすると、車両の走る音が聞こえてきた。貨物列車のようで轟音と共に、いくつものコンテナの連結部分が軋みながらこちらに向かって走ってくるのが確認できる。今は夜でもない、昼でもない。また自分を含むすべてが灰色に染まった世界にいるようだ。色味のない世界。列車は右から一本、左から一本通過していった。左右の列車が重なり合う瞬間を終えて、列車は通り過ぎた。しかし、遮断機は上がらない。警報音は鳴りやみ、警告灯は点滅を終えている。ふと踏切の向こう側にさっきまでは誰もいなかったはずなのに、人影が確認できた。少し距離があるから人物との目線はまだ合わない。

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その断末魔に訊け 有馬佳奈美 @kanami-arima

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