彼女の始まり

 それは玲ちゃんが生後七か月の乳児だったころ。1991年の春の始まりのころのことだった。玲ちゃんは普通の一般家庭に長女として生まれていた。実の母親、父親共に良き人格者であり円満な家庭にやってきた彼女は、まさに天使のような存在であったことだろう。僕はこのころまだ、母親の胎内に宿ってさえいない。

このことを事件と呼ぶと、いささか表現が適切ではないような気がする、ほかに思い当たらないので玲ちゃんが実の両親と離れるきっかけとなった事件としよう。


 彼女の以前の氏名は「紺野 玲こんの れい」というそうだ。もし事件が起こることなくそのまま成長し、おとなの女性となっていたなら、僕は彼女に出会い、彼女を愛することはなかっただろう。


 事件は様々な運命の歯車がかみ合って起こってしまった災厄だった。しかしこれは今の僕にとってはなくてはならない出来事であった。


 それは突然訪れて、玲ちゃんと実の両親とを別ち、今の両親のもとへとやってくることになる大きなきっかけ。


 つまりは僕の愛する妻 「雨宮 玲」の始まりの話である。



1991年の寒さが厳しい二月のころ、里帰り出産を終えた妻と生まれたばかりの愛しいわが子乗せて運転しているドライバーがいた。シルバーカラーのいたって普通のファミリーカー。車はこの日のために念入りに点検を終え、わが子のためにベビーシートから授乳グッツなどが準備された、ようやく生まれたわが子を自宅へ連れ帰るという幸せを運ぶ使用になっていた。

ドライバーはというと、後部座席に座る妻とシートで静かに寝むるわが子のためにスピードは緩やかに、ブレーキも気持そっと踏んでいた。

 道は里帰り先の妻の実家が田舎の山の上のほうの集落にあるため、今はほとんど下り坂ばかりで山道を走っている。念のために履いてきたスタットレスタイヤが大活躍なほどこの数日は冷え込み路面の状態はすこぶる悪かった。


しかし、この日は久々の晴天に恵まれ母子ともに健康で、自宅に帰るにはこの上ない日和であった。

「車の揺れが気持ちいいのかしら、走り出した途端あっという間に夢のなかだわ」

微笑みながら、健やかな寝息を立てて眠る娘の頬に、そっとキスをする。

この女性は「紺野 綾香こんの あやか」玲ちゃんの実のお母さんであり、文字通り、つい数か月前に生みの苦しみを味わい、自らの命を懸けて紺野玲の実母だ。

慣れない長距離の運転で緊張しているのかハンドルを握る手にいつもよりも力の入ってしまっている運転席の男性が「紺野 貴文こんの たかふみ」。

 彼が玲ちゃんの実の父親である。

 

 彼は娘と暮らすこれからの毎日に期待しながら生まれてきてくれた命への喜びで満ち溢れていた。

 

 またしかし、自分自身親としてやっていけるかという不安とが入り混じっていた。自分の人生設計の中で、〈自分が人生設計というものをしっかりと立てていたかと、問われるとまっすぐには答えられないが・・・〉こんなにも早く親になるなんて思ってもいなかかったからだ。


 子供を設けるは、あと5年先でも十分だと思っていたくらいだった。妻の綾香が早く子供がほしいと望んでいたのはわかってはいたが、いざ自分が人の親になろうなんて、なかなか乗り気にはなれなかった。

 どうせ自分のもとに生まれてきてくれるならば、苦労を掛けずに、周囲に望まれ、祝福を受けて生まれてきてほしいと思っている。だからこそ、まだ子供を作るのは早いと思っていたのだ。


 だがしかし、そんな風に思っていてもすべてが自分の重い通りになるわけではなく。妻の綾香はあっさりと妊娠してしまった。夫婦間の考え方のずれを話し合う間もなく、結婚して数カ月での妊娠報告だった。綾香は満面の笑みを浮かべて、検査薬の丸くくぼんでいる箇所に浮かび上がっているピンク色のラインが、陽性を示していることを説明してくれた。結婚してからは避妊についてはあいまいになっていたところがあったから全く持って普通のことだった。綾香は本当に嬉しそうに病院に行く日取りを決めている。また唯一の肉親である実母に電話をかけて、妊娠報告をして、電話先の相手と喜び合っている。


 数日後に連れだって受診した、近所の産婦人科の診断によって、僕は綾香の子宮内に宿ったばかりの命の親になることが決定した。全く実感にかけて、喜ぶことなんてしばらくは全くできなかった。かといって、喜んでいないふりなんて見せられないから、喜びに満ち溢れているふりを数カ月は演じていた。まぁ、腹を括るしかないとはよく言ったものだが、綾香のお腹が日に日に大きくなっていき、彼女の優しさが腹の中の胎児に注がれていくのを見ているうちに、ようやく自分にも父親になる実感がわいてきたとでも言うのだろうか。生まれてくる予定のわが子を受け入れる決心がようやくついてきたのが、綾香が妊娠9カ月に入ろうとしていたころだった。

 その頃には、綾香は務めていた事務員としてのパートも辞めて産休体制に入っていた。相変わらず仕事が生きがいの自分は綾香に特段何もしてあげることはできていなかった。徐々に大きくなるお腹に綾香は頻繁に話しかけていた。

「早く、あなたに会いたいよ。早くお外に出ておいでー」なんて言ってみたり。

 胎教に良いからとクラシックのCDを日中はいつもかけて過ごしていたようだった。不器用なりにベビーグッズも手作りしているようだった。大人の親指より少し大きいくらいしか大きさのない新生児用のソックスを編んでいたり。

 スタイやベビードレス、はたまた生まれてすぐだけは布おむつでお世話をしたいと言い出し、布おむつまで自作するほど、わが子の誕生を今か今かと待ち望んでいた。そんなこんなしているうちにあっという間に臨月に入り、彼女はありったけの荷物を詰め込んだキャリーを用意し、入りきらなかったものは別のバッグに入れて車に詰め込んだ。もちろんその荷物の中には彼女お手製のベビーグッズがわんさか入っていた。自宅での出産を選ばせてやれなかったことを後悔しても仕方はないが、送り出すときはさすがに緊張した。連絡はこまめに取ればいい。会いに来ようと思えば仕事を切り上げて会いにくればいい。そう思って彼女の実家へ車を到着させた。

 

 おそらく次に会うときは、もう僕だけの妻の綾香ではない。

 子供の母親の綾香になっているんだろう。僕だけのために生活をしていた綾香はもういなくなってしまうんだろう。そんな寂しさは女の人には分からないのかもしれないだろう。子供へやきもちを焼くわけではないが、自分の子供ながらライバルのような存在が産まれることに、ちょっとばかし嫉妬心がわかない自分ではなかった。そんな気持ちを綾香や義母に悟られてはまずいと、彼女の実家に無事に到着したらすぐに荷物を下ろすことに集中した。


 綾香はお義母さんに何を作っただの予定日はいつだから、陣痛が来たらタクシーにすぐ来てもらえるような手筈は取ってあることなどを、話し合っている。義母はといえば初孫の誕生を、今か今かと待ち望んでいる。だから綾香の里帰り出産の打診をしたときも二つ返事で了解をしてくれた。


 このことに感謝しつつ、母一人、妻一人を残して仕事ばかりしている自分の情けなさが急にこみあげてきた。綾香は小学生の頃に実父が交通事故で無くなって以来、義母と二人で生活してきた。その後綾香が成人して都内に就職してから、義母はずっとこの同じ家で一人で生活してきていた。綾香の祖父母などの親戚やい寄りの類は全く持ってなかった。だから、綾香がこの家で母親と生活するのは7~8年ぶりというわけだ。まぁ、子供が生まれるまでは、母子水入らずでゆっくりと過ごしてもらえたらいいななんて思っていた。

 

 荷物を綾香が寝泊まりする予定の部屋にすべて運び終えると早々に車のエンジンをかけ、庭の隅のほうに行って煙草に火をつける。綾香が妊娠してからは一緒の空間では決して吸わないようにしてきたが、禁煙をすることはできなかった。わが子への愛情が薄いわけでは決してないのだ。日々忙しい仕事の中で、煙草を吸うことだけが自分にとって唯一のストレスの発散法だった。わが子を自分の腕に抱きしめたなら止められるんだろうか。そんなことを考えながら煙を吸っては吐いてを繰り返していると、遠くのほうで綾香の声がする。


「荷物は積み終わったのね。あら、もう帰っちゃうの。もうすこしゆっくりしていけばいいのに」

「あぁ、荷物は全部あの真ん中の部屋に運んだからな。仕事が残っているから早々に帰らせてもらう。付き合ってやれずに申し訳ないな」仕事が残っているというのは嘘だった。さっきの嫉妬心を悟られてしまうのが怖くて、仕事が残っていることにさせてもらった。

「ふうん。まぁ、私とこの子のために働いてくれているんですもの、文句は言えないわね」ニッっと口角を上げて、歯を見せて笑う綾香は美しかった。僕だけのためのこの美しい笑顔を見るのはこれが最後かもしれない。

「次に会うときはお外の世界で会おうな」彼女の大きく膨らんだ腹部を、そっと手のひらでさすりながら腹の中のわが子にしばしの別れを伝えた。


「じゃあ、陣痛が来たらすぐに連絡をしてくれ。仕事中でもできる限り早く病院へ駆けつけるからな」腹をさすっていた掌は自然と綾香の頭を撫でていた。ずっとそばにいてやれなくて済まないっという罪滅ぼしの気持ちも入っていた。

「いいのよ。何かあったらすぐに連絡をするわ。なんたって母さんが一緒にいてくれるんですもの。百人力だわ。あなたは大船に乗ったつもりでいて頂戴な」なんとも頼りがいのある妻を持ったものである。


「じゃあ、またな。風邪なんかひかないようにな」そう言いながら運転席に乗り込んでドアを閉めた。後ろ髪をひかれる思いでアクセルを踏み、自宅へと車を走らせ始めた。



 それから約3週間後の火曜日の午後だった。義母からの着信に、通話のボタンを押す手が震えてしまった。

「もしもしー貴文さんですか~?綾香ちゃん、さっき陣痛さ始まってねー。まだ弱いけれど、もう病院行くタクシーは連絡着いたから、今から病院に行きますよ。貴文さんも来られそうならよろしきお願いします」落ち着いた様子の義母の口調に、さすが経験者は落ち着いているなぁと感心してしまう。そこで綾香に通話が切り替わった。

「んん~~。痛い感覚がだんだん短くなってきたから、一応病院に行くわ。あなたもどうしても外せない仕事じゃなかったら来てほしいわ」はぁ、はぁ。と痛みを逃がそうとしているのだろうか、電話越しの綾香の息遣いは荒く、熱を持った感じだった。

「そういうことなもんで、貴文さんよろしくお願いしますー」そう言った義母の言葉で通話は終了した。


 僕は慌てて自社に戻り、前もって相談してあった上司への報告と、仲間への引継ぎをして急ぎ自宅へと向かう。綾香の実家へは自宅から車で約1時間半ほどのところだから、生まれるまでは何とか間に合うだろう。なんせ初産だ。時間がかかることくらい自分でも知っていた。


 しかしいざ、わが子が産まれようとしているにも関わらず、僕はドキドキも緊張もあまりしていなかった。さっき電話越しで綾香の声を聞いた時はさすがにあせりはしたが、なんだか未だに他人事のように思えてならなかった。

 かくして無事自宅へ到着し、明日の分の着替えや簡単な荷物を積んで車を発進させた。車内にはあの胎教用のクラシックが相変わらずかかっている。こんな時にゆったりとした音楽なんか聞いていられないと思ったが、あせって急ぐ気持を落ち着かせるために一役買ってくれた。

 そんなに気持ちがあせっていないからか、この音楽が気持ちよく感じられた。まもなく自分の子供をこの手で抱く瞬間が来る前の世の中の男性はどのような心境でいるのだろう。僕はといえば、なんともない、いたって冷静で嬉しさや焦りで興奮することもなく、なんとも表現しがたいものであった。そうこうしているうちに、綾香の実家から15分ほどの総合病院が見えてきた。彼女は今、陣痛に苦しんでいるのだろうか。明日の明け方くらいまでには生まれてくれるのだろうか。そんなことを考えながら駐車場に車を止める。まだ外来の診療時間ぎりぎりらしく何人かの妊婦さんやそのパートナーさんの視線を感じながら病棟へと進んでいく。手にはスポーツドリンクに、エネルギーが取りやすいゼリー飲料をしこたま買い込んでおいた袋を握りしめ、ナースステーションへと声をかける。

 先ほど、到着した旨を義母に連絡したのだがつながらなかったからだ。

「先ほど入院した紺野綾香の夫なんですけども」ナースルームは田舎の病院にしては珍しく、明るくて清潔な感じで好感が持てた。

「はい。お待ちしておりました。紺野様は現在、お母さまとご一緒に陣痛室にいらっしゃいます。案内いたしますので、少々お待ちくださいませ」


 案内を待っている間、一組の夫婦に目が留まった。明らかに周囲のほかの夫婦とは違うというか、浮いてしまっている。まず身なりが立派すぎる。たかが病院の検診なのに、旦那のほうはびしっとスーツを着込んで待合室の端のほうで立って待っている。奥さんのほうといえば、大きいお腹で着られる服が限られてくるのだろうが上品なドレスのようなワンピースを着てまるで人形のようだった。特に夫婦間で会話が弾んでいるわけでもなく、かといってギスギスしている雰囲気でもなかった。なんともまぁ、こんな田舎に似つかわしくない妊婦がいるもんだとその時は思った。都内の高級な産院で見かけそうな感じの優しそうな女性だった。


「お待たせしました。ご案内します。奥様の状態ですが子宮口がまだ3センチほどなのでまだまだ出産まではお時間がかかると思われます。自然分娩をご希望なさっていらっしゃるので、子宮口が全開になり次第、分娩室へと移動していただきます」

流れるような説明が頭に全く入ってこないなか、ナースステーションから綾香のもとに行く途中に新生児室があり、生まれたばかりの真っ赤な色をした赤ん坊たちが透明なベビーベッドのようなものに並べられている。


 激しく泣いている子にあくびを大きな口でしている子。赤ん坊の名前の通り、どの子もみんな真っ赤なサルのような顔をしていた。明日には、この部屋にわが子の姿があるのだと思うといよいよだとようやく気が引き締まってくるのを感じた。


 その前には陣痛で苦しむ綾香を少しでもサポートしてやらなければと、決意を新たに案内してもらった陣痛室とプレートの張られた重い扉をスライドさせた。


 綾香はどれだけ苦しんでいるんだろうと、緊張して奥歯をぐっと噛みしめながら奥へと入っていった。するとそこには、何も起こってないように陣痛室に用意されいた椅子に腰かけながら読書をする義母と、なんとおにぎりにパクついている綾香の姿だった。僕は思わず拍子抜けしてしまい、病室を間違えてしまったかと思うほどだった。

「意外と早かったわねぇ。遠いところありがとね」今は陣痛の痛みが引いている感覚らしく全く痛みがないようにみえる。

「痛くない間に体力補給しておかなくちゃね」綾香はそう言いながら、あっという間におにぎりを食べきってしまった。


「あら、貴文さん。よく来たわね。貴文さんも夕ご飯まだでしょう。はい、おにぎりどうぞ」読書をやめて、カバンの中から僕の分のおにぎりを手渡してくれた。


「痛くはないの?」綾香のあっけらかんとした様子に僕はなんだか不安になってしまう。

「今はね。もうすぐまた、陣痛の波が来るからそしたらあなた、よろしくね」

「僕に何ができるかなあ」とりあえず、持ってきた飲み物の入った袋を綾香に渡した。

「あらぁ。あなたにしては気が利くじゃない。ありがとう」綾香が喜んでくれたので僕はひとまずほっとした。

「そろそろくるわよー。あなたは力の限り腰をさすって頂戴。お義母さんはこれお願いね」そう言って綾香は義母にテニスボールを渡した。


「はいはい。まかせなさいな。先はまだまだ長いよ~」そういう義母は腕まくりをし始めた。これから何が起こるのか僕だけが分からないまま、綾香は陣痛が強くなり始めた。


 そこから先は痛みの波が来ては去り、また来ては去りの繰り返しだった。綾香は身体全身が絞り取られるような痛みに耐えている。いきんでしまわないように、力はあまり入れられないようだった。痛みがつよくなると同時に僕は渾身の力を込めて彼女の腰をさすった。さすることで少しは痛みが増しになるらしい。義母はというと、痛みが強くなるたびに綾香のおしりと会陰の間を、これでもかというくらいの強い力で押してあげていた。陣痛の痛みを逃すにはこの方法が一番効くらしい?。だんだんと痛みのやってくる間隔が短くなってきて綾香もだいぶん辛そうだった。定期的に看護師が内診来ては、子宮口の開き具合を確かめている。この許可さえ下りれば晴れて分娩台に上がっていきむことができるのだが、子宮口はなかなか開いてはくれなかった。綾香もつらいが、全力でサポートしているこちらとしても、出口の見えない迷宮に迷い込んだようでもうそれは必死だった。


 先ほどおにぎりをパクついていた綾香はもうどこにもいなかった。まさに命がけである。あまりの痛みに「もうやめる!!」なんてさっきから言い出してしまうほどの痛さらしい。僕がこの陣痛室に入って4時間くらいたっただろうか。


 今までの陣痛の波とはまた違い,今度は綾香のお尻側から足元にかけてびっしょりになった。するとお義母さんはやっと来たかという表情でナースコールのボタンを押した。

「紺野さん?どうされました?」

「ようやく娘が破水したみたいですぅ」お義母さんに疲労の色が見え始めていた。

「すぐにうかがいます」


 綾香は破水したことには気づかなかったようできょとんとしているが、またすぐにやってくる痛みの波に身体をこわばらせている。

 廊下をバタバタと走る看護師の足音がこの部屋に近づいてくる。

「ようやく破水しましたかー。ちょっと見せてくださいねー」そう言って何度目かの内診を済ませると、

「子宮口の開きは十分ですね。じゃあ、分娩室に移動しましょう。もうすぐ、赤ちゃんに会えますよー」

 そういいながら胸ポケットの携帯電話で何やらやり取りをしたのちに、綾香を乗せる車いすを持ってくると言ってこの部屋を去っていった。

「やったー。あと少しで赤ちゃんに会える。痛いのがおわるー」といって綾香はいつの間にかガッツポーズをしている。お義母さんはやっと分娩までたどり着いたことにほっとしているようだった。


 そこからのことは、先ほどまでとは打って変わって嵐のような速さで進んでいった。分娩台に上がってからはわずか一時間ほどでのスピード安産であった。母子ともに異常はなくこの上なく健康であった。

 僕たちは立ち合い出産を希望しなかったから、分娩室へ入っていく綾香を見送った後はロビーの椅子に座って生まれるのを待っていた。外来時間が終了し、患者の誰もいない薄暗いロビーで座っていた。ちょうど病院についたときに目についたあの浮いた妊婦さんが座っていた位置と偶然同じだった。ようやくても空いたので先ほど、お義母さんからいただいたおにぎりを食べ、この後の長丁場に備えて仮眠でもしようと思っていた。しかし、そんな時間は実際にはなく、食事が終わったところで、

「紺野さん。おめでとうございます。お子さん今、生まれましたよ!」予想以上の速さで生まれてきたことに驚きつつも無事にこの世に、自分たち夫婦のもとに生まれてきてくれたことを、普段は信じてもいない神仏に感謝を述べた。母子ともにしばらくは安静にしていなくてはいけないそうなので、僕は自分の両親に電話を掛けた。

「もしもし、貴文だけど。うん。深夜遅くにごめんよ。たった今、無事に生まれたよ。女の子だってさ。まだ顔は見ていないけど写真送るよ。じゃあ、またね」


 深夜遅くになっていたので、母親への簡単な報告だけで済ませた。そのあと少したってから僕は綾香の待つ病室に呼ばれた。

 綾香の顔を見て最初に口から出た言葉は「ありがとう」だった。綾香は何かを成し遂げたようなすっきりとした笑顔で僕を病室へと迎え入れてくれた。

「みて。あなたに眉毛なんかそっくりよ。すっごくかわいいでしょう」

 確かにかわいい。夕方新生児室で見た、ほかのお子さんより群を抜いて愛おしいという感情が僕の中に芽生えた瞬間だった。


 綾香に手伝ってもらって、自分の胸に抱きよせてみる。赤子の体温と小さな呼吸音が自分の掌を伝って感じられた。

「名前はもう考えてあるんだ。女の子だったらこの名前にしようって」

 沐浴を済ませてしわが寄ってはいるが、しっとりとした肌から伝わってくる温もりがこの命の鼓動を貴文に伝える。

「そうだったの。なら早く教えてくれてもよかったのに」綾香は僕が子供の名前を考えていたことが意外なようだった。出血が少し多かったらしく、白ぽっく血の気の少し引いた顔色だ。


「玲だ。一文字でレイと読む名前にしよう」まだ柔らかく、触ってはいけないように感じる頭部を優しく支えながら、開かない瞳を覗き込む。


「うん。いい名前じゃない。賛成よ」握りこぶしに親指を立てたグッドサインをこちらに向けて歯を見せて笑ってくれた。

「玲ちゃん。生まれてきてくれてありがとう。パパとママのもとにようこそ」

 綾香は感動して涙を流していた。貴文も滅多に流さない涙が頬をつたっていた。この子を手に抱いた感覚を、「僕は一生忘れずに生きていこう」とこの時貴文は、自分自身に誓った。






 車内では、生まれた後にも聞かせるとに良いからと、例のクラシックのCDが流れ、空気は車の窓ガラスを通して入りこむ暖かく柔らかい日差しに包まれていた。


「母さんのおかげで何とかここまでやってたけどこれからは離乳の時期にも入るし、大変なこともあるかもしれないから頼んだわよ」


「おぅ。何にもわかっちゃいないが任せておけ。この子のためだったら会社だっていくらでも休んでやるさ。だからお前は無理するなよ。お義母さんに頼るのは本当に困ってどうしようもない時だけにできたらいいな」


「そうね。母さんの病気のことを含めて検討したけれど、やっぱり里帰り出産してよかった。孫の成長を身近に感じてもらえたなら、ようやく親孝行できた気分だわー」綾香は胸のつかえを手放すように大きく伸びをした。するとそれに合わせて寝ている玲が、顔の大きさには見合わない大きな口を開いてあくびをする。まるで、母親が吐き出した不安を吸い込んでしまうようなしぐさに、目を細めて玲の額をそっと撫でる。


 綾香は思う。大きなベビーシートに小さな体で寝そべるこの天使は、きっとこれから私をどれだけ幸福にしてくれるのだろう。

いや、私たちがこの子を幸せにしていかなくてはならないんだと、今再び決意を新たにした。


そんな綾香の心中を察してか、貴文は穏やかな顔でより一層スムーズに車を走らせていた。早く家に帰ってわが子を思いっきり抱きしめたい。短いこの赤ん坊であるうちに注いであげられる愛情のすべてを注ぎたい気持ちは綾香のそれと変わらなかった。


夫婦の会話はこの子の将来の話にまで飛躍し始めている。


「この子はどんな人生を歩いていくんだろうな」車内の中での会話は玲の話ばかりが続いていく。


「私は優しい子に育ってくれたらそれだけで十分だわ。こうして私たちのもとに命がけで生まれてきてくれたんですもの」

シートに差し込む光が玲の顔に直接あたってしまわないように、目元に薄いガーゼのハンカチをかけてやる。


「そうだな。この子がどう育っていくのかが本当に楽しみだな。まぁ俺たちも親として初めての経験だから、玲と一緒に成長していけたらいいなぁ」


「でもいつかはこんなにかわいい俺たちの天使も結婚したり、出産したりするんだろうなぁ」貴文は這えていないあごひげをさすりいかにも父親らしいしぐさをしていながら、話は続く。


「そんな先のこと今から心配してたら、いざそういうときが来たときあなたはショック死してしまいそうだわ」満面の笑みをたたえた綾香の視線が玲へと降り注ぐ。


車内はこれ以上にないほどの幸せに、これからの未来への期待に淡く優しい色で満たされていた。


その空気は玲を包み込んで安心させて、健やかな眠りを授けてくれた。






 そして、紺野一家を乗せた車が下っている峠道。そこを通って中腹にある集落を目的地として走る車。またしても、いかにも高収入な夫婦が乗る車が緩やかなカーブを上っている。車は先ほどの車とは比べ物にならないほどの、黒塗りの高級車。車体は日差しを跳ね返すほどつやを保つように磨かれ、周囲の田舎の山道には似つかわしくない雰囲気を醸し出している。

 運転席には眉の太く、きりりと前方を見つめ、姿勢よくハンドルを操作する男性。こちらは緊張ではなく性格が運転に出ているといったところである。後部座席にはもう間もなく出産予定であろう大きなおなかを抱えた物腰の柔らかそうな女性が座っていた。こちらの車はラジオが流れ、夫婦間の会話はあまりない。

母親はお腹を壊れ物を扱うかのように優しくさすり、子宮内の胎児は元気よく足を蹴り上げたり、身体を回転させたりしている。激しい胎動にはもう慣れているのかその動きに対して微笑みが絶えることはない。身なりはこぎれいで上品、どこに連れて行っても恥ずかしくないように大きなお腹ながらキチンとした恰好をしている。


今日は彼女が臨月に入る前の最後の検診の日であり、その検診を受けるためにこの夫婦が乗る車は、この峠道を走っていた。


「また、すっごく動いているわ。もう本当に元気いっぱいでしょうがないわ」


「そうか。健康に生まれてきてさえくれればそれで十分だ。くれぐれもあと残りわずかだか養生してくれよ」腹の中の胎児の暴れっぷりに男の厳しい顔もほころび、普段は言わないような妻への労いの言葉が口から出ていた。


「あら、あなたがそんなこと言うなんてどういう風の吹き回しかしら。さすがに親になるのは初めてのことだから緊張してるのかしらねー」からかうような妻の言葉に夫は何も返しはしない。もうすぐ目的の病院へ到着する。彼女には申し訳ないが、この夫はいつも仕事に追われて家庭のことなどお構いなしなのである。妻の妊娠を知った時には手放しで喜ぶことはできたが、子育てや今後のことを自分がこなせていける自信など皆無であった。だから出産は実家に里がりをすると言われたときは心底ほっとしたものだった。


 仕事で手がいっぱいなことを理由に逃げていると言われてしまえばそこまでだが、自分は仕事をしているときが一番生き生きとしていることは妻も理解してくれていたし、そこは本当にありがたかった。だから、今日このままこの峠を上る途中にある総合病院で最後の検診を受けた後、彼女を実家まで送り届けることが、自分に課せられた最重要課題であった。


 妻はこの陽気と心地のいい車の揺れでうたたねをし始めている。お腹はもう臨月になり、シートベルトは苦しいからと後部座席全体にもたれ掛かるようにして座っていた。

疲れてしまったら横になることも可能だろう。バックミラーでそんな妻の寝顔を確認ながら、ドリンクホルダーに先ほど購入してさしておいた缶コーヒーを開けて一口飲んだ。この陽気のせいで、全く持って冷たさを失ってしまっている。ぬるい液体が喉を伝って胃に落ちる感覚で余計に喉が渇いてしまうような気がしてきたので半分ほどで口をつけるのをやめてしまった。あと15分もあれば目的地まで到着するだろう。ラジオでは流行のJ-POPが流れ、温度が上がりすぎないように外気を入れながら走っていた。


 車の外の景色はこの時期だというのにまだ結構雪が峠の道路沿いに積もったままである。今年の冬は例年になく寒さが身に応える冬だった。普段住んでいる都内でさえ2,3回の積雪があり積もったのだ。ここは北関東の田舎の山道だし、日の当たらないところは雪が積もっていくばかりなんだろう。路面の凍結こそしていないが、念のため車のメンテナンスはしてきた。

 路肩には凍結防止の砂が入った土嚢が積まれている。夜にでもなれば相当冷えるのだろう。

 こんな山のほうにある実家で果たして無事に出産などできるのだろうかと心配になってしまうほどだが、この峠を上り切ると、それなりに大きい町と集落があり、病院などの施設もキチンとあるから大丈夫、と妻から説明を受けてはいたが想像以上に何にもない道が続くので、「本当に大丈夫なのか?」と心配になってしまった。


 この峠道は山をぐるぐる回りながら登っていくように道が作られている。道と言っても、山を削り取ってそこにアスファルトを敷いただけのようなもので車線の左右は大きな木々や植物がそのままになっている。


 交通量も少なく、手入れもされてはいなかった。無論この山の中腹にある集落の人たちにとっては下にある都会へと下る唯一の生活道路である。とくにこれまで大きな事故もなかった。だけれども、この道で事件は起こった。




 玲ちゃん一家を乗せた車と、夫婦の乗った黒い車がすれ違おうとしたちょうどその瞬間だった。


この日の気温上昇によって積もっていた雪が解け、左側を走り集落へと向かっていた黒塗りの車へ、突如として大きな土砂崩れが襲い掛かってきた。

 ハンドルを操作して回避するまもなく車は丸ごと右に移動しながら大量の雪と土砂に呑み込まれてしまった。



 そして流れ落ちてくる土砂と雪は道路の上に乱立していた太い木々たちを根こそぎなぎ倒して峠を下ってきた。そしてそれは、玲ちゃん一家のシルバーの車へと襲い掛かった。

 

 とっさのことで玲ちゃんの父は、そのすさまじい勢いに思い切り踏み込んだ。

 しかし、ブレーキは全く意味を持たず、土砂や丸太は車ごと巻き込むようにして、車道から車を、左側の急こう配な林へ押し流した。横向きに一回転しながら脇道へと落ちていき、丸太のような太い木がボンネットに刺さるようにしてようやく動きが止まった。


 あまりに突然のことに、夫婦の乗った黒い車の後を走っていた後続の車は、ぴったりとくっついて走っていたために、減速が間に合わずに、雪と土砂、木々に埋もれてしまっている車の後部座席に向かって突っ込んでしまった。


 車体同士と雪に土砂が激しくぶつかり合う音がガシャンッと響く。その時間にしてわずか数十秒にして、峠道は多重事故現場となり二台の車が生き埋めになるという最悪の状況に陥ってしまった。






 僕は掌で包んでいたマグカップを危うくフローリングに落としてしまうところだった。お義母さんの唐突な一言から始まった話は一番大事な部分で今、止まってしまっている。


「まぁ、いきなりこんな話を聞いて衝撃を受けないわけはないわよね」とてもつらそうな顔をしてうつむいたままお義母さんは続ける。


「今話したことが玲が産まれた時の話よ。私だってすべてを知っているわけではないの。そして、あの時は私にとっても地獄のような体験だった…」頬には涙が静かに伝っていく。


「その…事故の後の話は…」


「玲ちゃんの本当のご両親のことはどうなったんですか!? それにお義母さんそのときお腹にお子さんがいたってことですよね…」


矢継ぎ早に出る僕の質問を遮るように、マリが僕のひざの上に乗っかってきた。お義母さんは車いすで自室へと戻って行ってしまった。

「そんな。こんな話、玲ちゃんから一言も聞いたことはなかったのに…」

 僕はどうにもならない気持ちでからのマグをテーブルへと置きマリを抱きしめるようにしてうなだれた。僕が命として宿るずっとずっと前の話。自分の力ではどうすることもできなかったことが起こっていた事実を咀嚼できないでいた。

「どうして玲ちゃんはこのことを僕に話してくれなかったんだろう?」

 この考えばかりが頭の中を支配していく。僕が信頼されてないからなんてことは思いたくはなかった。可能性としては考えにくかった。だとすれば、彼女の中ですら、まだわだかまりが残ったままになっているということだろうか。

 生まれが複雑なのは玲ちゃんのせいではないのだから、今聞いた話では玲ちゃんは不幸な事故に巻き込まれた被害者だ。


 僕の不安で押しつぶされてしまいそうな心境を察してか、マリはグルグルと喉を鳴らし自分を撫でるように要求してくる。こういうときの動物の感覚はとても鋭い。僕はそれに甘えるように、手触りのよい背中を優しくさすった。今の自分の気持ちの糸を落ち着かせるように、ゆっくりと優しく、丁寧に。


 すると、玲ちゃんのお義母さんの自室の扉が開いて、何かを手に持った彼女が車いすでこちらに近づいてきた。彼女の持っていたものそれは大きめのお菓子でも入って居そうなアルミ製の四角い箱だった。


 彼女が近づいてきたことで、僕のそばにいたマリは、颯爽と彼女のお腹とひざの間へと着地していった。


「あの話の続きをさせて頂戴。千里君には聞く権利があるわ」先ほど流していた涙は拭かれてしまったのか、残ってはいない。

「--でもっ、お義母さんがつらいなら別に僕は…」と言いかけて押し黙った。僕の愛する玲ちゃんのことで知らないことがあるのはどうしてもいやだったからだ。


「この箱には当時の資料や写真なんかが収められているわ」そう言って彼女は箱の蓋を開けて僕に持たせてくれた。中身は様々だった。新聞のスクラップ、結婚式の写真だろうか…。見たことのない夫婦が移る写真。男の僕にでもわかる、お腹の中の胎児を写しているであろうエコー写真など、それは箱いっぱいに詰め込まれていた。僕が一番気になったのは箱の一番奥にしまわれていた白地に茶色い線の枠線が書かれている書類だった。僕は、もしかするとっと思ったがこの場では気づいていないふりをした。


「じゃあ、あの忌まわしい事故の続きの話をしましょう」そう言ってお義母さんは決意を新たに、僕に身体ごと、車いすごと向きなおして話し始めた。




 激しい土砂や雪の解け残りに呑み込まれた二台の車は周りの人間にはどうすることもできずに数時間が経過していた。消防や自衛隊まで出動して生き埋めになった二台の車の捜索が急がれていた。しかし、狭い峠道に大型の機械は入ることができず、迅速な対応はできなかった。時間ばかりが過ぎて行った。


 事故が起きた瞬間、今の玲ちゃんの両親が乗っていた車は前方を土砂や雪に押しつぶされて、後ろのほうはかろうじて車体が確認できる程度だった。しかし後続の車両が追突を繰り返したため、車は原型をとどめておらず、乗っている中の人間の救出が優先された。


 玲ちゃんの今のお義父さんは、事故が起こった瞬間はハンドルは言うことが効かず、車体に容赦なく打ち付けてくる土砂や雪から体を守ることぐらいしかできなかった。幸い頭を守るように体を丸めることができ、エアバッグも作動したために、頭部や大きな外傷は負ってはいなかった。しかし強い衝撃を受けたため、一時的に意識を失ってしまっていた。


 問題は後部座席にいた、臨月を迎えていたお義母さんだった。大きくなったお腹のせいでシートベルトを着用しておらず、また事故の瞬間はシートに横になって眠っていたためにとっさの行動がとれなかった。それでもとっさにではあるが、車体が激しく揺れ、後ろから追突の衝撃を受けながらも腹部を必死に守ろうとしていた。しかし腹部を覆うように体を丸めたため、様々なところに打ち付けられた。

 一番ひどかったのは下半身で、窓ガラスを突き破った大きな木の下敷きになってしまっていた。

 

 自分では全く身動きができず後部座席の足元のくぼみに閉じ込められてしまっていた。後ろからの追突により、シートは浮いてお義母さんをますます狭い空間へと追いやった。何とか抜け出そうともがいてみるものの、腹部を守るときに頭や腕も大きく負傷しており、自分の目でも大量に出血しているのが確認できた。これ以上動けばお腹の赤ちゃんに何かあってはいけないと自力で脱出するのをあきらめたのだった。また同乗していた夫の安否も気になっていたが、呼びかけても応答はなかった。


 その後出血が多かったため次第に薄れていく意識の中で、お腹の赤ちゃんに必死に話しかけたそうだ。

「ママなら大丈夫だから」どうか無事でいてほしい。私の身に変えてでもこの子を守る。そう誓っていたそうだ。





 

 そして、土砂崩れに巻き込まれたもう一台の車のほうは、先ほどの車よりももっと悲惨な状況だった。突然大量の木々と土砂に押し流されて、ガードレールを超えて道の脇にあるくぼみへと落下してしまったのであった。

 小さめの崖から車ごと落っこちてしまったようなものである。ただ、落ちただけならまだよかったかもしれないが、大量の土砂や雪に飲みこ荒れながら、車体には何本もの太い木や枝が車を串刺しにするように刺さってしまっていた。

 事故の起きた瞬間、運転していた貴文は頭を激しく打ち付けてほとんど即死に近い状況だった。もちろんシートベルトはキチンと着用しエアバッグも作動はしたが、いかんせん受けた衝撃が大きすぎたのだ。身体がフロントガラスに打ち付けられるように激しく揺さぶられ、首の骨は折れ、意識はとうになかった。


 綾香は迫りくる土砂が目に入ったとたんにわが子が横になっているベビーシートに覆いかぶさるようにした。自分のシートベルトを外し、激しく揺れ、窓ガラスが割れる中でわが子に覆いかぶさるようにしがみついていた。しかし車がくぼみへと落ちる際に車が一回転した際には車体の上側に身体を激しく打ち付けてしまった。


 しかしそれでもなおわが子に迫りくる木々や土砂から守り抜こうと必死だった。シートから玲を胸に抱きかかえ、丸くなることでわが子を一切の衝撃から守った。

先ほどまで玲が眠っていたシートは枝に貫かれ、それは綾香の背中に刺さるようにして止まっている。一瞬にして最悪の状況に陥ってしまったが玲の命だけは綾香によって守られていた。玲の無事を確認した綾香はそっと抱きかかえ直して、少しでもスペースを広げて玲に酸素を届けようとしていたが、貴文同様に全身をものすごい勢いでぶつけており、体の自由はもはやどこも利かなかった。


「玲。生きるのよ。お願いだから生きて頂戴…」絞り出すような声で綾香は玲に訴える。救助はまだ来ないのか。このままではせっかく守った玲の命が危険にさらされてしまう。しかし救助を待つほかに自分でできることはもうないだろうと頭ではわかっていた。

 もうこの先、愛しいわが子に会うことさえないのかもしれない。身体は指先でさえ言うことを聞かなくなってきてしまっていた。時折、目に染みる自分の血液で受けたダメージの大きさをうかがい知ることができた。

「自分はもう持たない、ここで死んでしまう」薄れ行く意識の中でそう確信した綾香は、その意識がなくなる最後まで、泣きじゃくる玲をなだめ、「生きるのよ」と言い聞かせていた。





 事故から数時間後、ようやく土砂が撤去され黒い車内の中から、男性一人は意識不明の重症。臨月の女性一人も意識不明ではあるが、何とか一命をとりとめているのが発見された。二人ともすぐさまドクターヘリによって峠を降りた大きな病院へと搬送された。


 そして、事故に巻き込まれたもう一台の車からは、頭蓋骨骨折や頸椎骨折など即死状態であったであろう男性一人の遺体と、新生児を守るように抱きかかえたまま同じく激しい外傷によって死に絶えた女性の遺体が発見された。そして奇跡的なことに、女性が抱きかかえていた赤ん坊は生きており、すぐさま医療機関へと搬送されていった。

 この赤ん坊を守って死んでいった母親は外傷が特に激しく死因は出血性のショックであった。たとえ救助できていたとしても、生きながらえることは無理であっただろう。


 搬送先の病院での精密検査の結果、本当に奇跡的なことであるが、救出された赤ん坊にはなんの外傷や後遺症もなく、いたって健康そのものだった。だが母親が亡くなってしまったために、母乳をあげることはかなうはずもなく、病院のスタッフによってすぐさま栄養管理が始まった。一緒に車に乗っていた両親はいまだに井本の確認はとれておらず、この赤ん坊は名前も身元も不明なままだった。


 痛ましいい事故からおおよそ半日立ってから、事故に巻き込まれたのは紺野貴文・綾香夫妻であることが確認され、玲の身元がようやく判明した。


 両親を新生児のうちに失ってしまったことを悲しむ感情さえ、まだ持ち合わせていない玲に看護師の女性たちの憐みの目線が注がれる。保育器の中で自分の両親が亡くなったことには気づくことはなく、健やかな寝顔で眠っていた。それがさらにかわいそうに思えてならなかった。痛々しくて見て居られなかった。同じ病院内の霊安室には死亡確認が済んだ両親が眠っているのだから。

 

 それからさらに数時間後、ようやく連絡のついた玲の祖父母がやってきた。もうそれは目にも当てられないほど憔悴しきっていた。綾香の母親に至っては娘夫婦の遺体確認の際には意識を失って倒れてしまうほどだった。


 貴文の両親も連絡を受け至急、病院に向けて移動をしていたが遠方のため、未だ到着はできずにいた。あと一週間後の日曜日にはようやく里帰り出産を終えた初孫に会いに来る予定だったのに。その予定は成し遂げられることはなく、息子夫婦は不運な事故死を遂げた。やりきれない思いが残された遺族に襲い掛かった。玲だけが何も知ることもなく、悲しむこともなく、ただただようやく光をとらえるようになった瞳で目の前に映る祖母に向かって微笑んでいた。











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