日常の崩壊の始まり

 今朝もアラームの音で目を覚ます。昨日の朝とは何ら変わりはしない。僕の左側には玲ちゃんが眠っている。毎日同じような生活スタイルを送る僕は自分で言うのもなんだけど生真面目なところがたくさんある。

 玲ちゃんを起こしてしまわぬようにそっとベッドを抜け出して、ゆっくりとそして静かにキッチンへと向かった。


 毎朝、同じように弁当を作り、朝食を用意するがたまにそうでない日もあったりする。僕がさぼっているわけでは決してない。


 時たまある、弁当のいらない日。それは日帰り出張をするので弁当は不要とのことで、今日はその日だった。前にこの特別な日があったのは玲ちゃんの健康診断の当日であっただろうかと、そう多くはないこの特別な日を思い出す。


 今朝の朝食は昨晩の残り物と、胃に優しいおかゆで済ませようと思っていた。昨日、雪道を歩き歩き汗をかいたせいか少し風邪気味で、頭がさらにぼうっとしていたのでやることのない今朝がたは非常にありがたかった。幸いアルバイトも休みだし、今日一日は体調を戻すことに気を向けることができそうであった。


 ガスコンロにケトルの水を汲んだものと、土鍋に水と米を入れたものの2つに同時に火をつける。調理を始めたおかげでキッチンが少しずつ暖められて、深夜のうちに失っていた暖かさという色を取り戻す。コーヒーを飲むためにカップを取り出して粉を適量入れてスタンバイをしておく。朝に嗅覚を刺激するコーヒーの香ばしいにおいは胸の奥のほうまで届いて、僕をさわやかな気持ちにさせてくれる。


 ケトルの中のお湯が沸くまでの時間は何もしない。キッチンにおいてある折り畳みの椅子に腰を掛け、徐々に沸き立つ湯の音を聞いているだけ。火をつけたままこの場を離れることもできなくはないけれど、何もしないことを楽しみ、過ごす、この時間がたまらなく贅沢で、僕が愛する時間の1つだ。


 安らぐ気持になるとでも言うのだろうか。考え事やコーヒーをすすりながら過ごす時間以上に僕の気持ちの糸をたるませてくれる。シュン・シュンと音が鳴るこのケトルが好きでずっと使っている。引っ越しの時は、このケトルを実家からわざわざ持ってきたのだ。物や人に対する執着が少ない僕にとっては、妙に放しがたいものの1つだ。今のところこれを超えるものには出会っていない。量販店の大量生産品だが、実に気に入っている。湯を沸かしていると、まるで幸福がそこから湧き出しているような温かさを感じずにはいられない。僕はコーヒーなんてインスタントで十分だけど、このケトルで湯を沸かして飲むことが好きなのだ。もしかしたら日本茶でもいいのだろう。専業主夫である僕の愛する道具である。

 

 僕がのんびりとただ椅子に腰かけていると、不意に今の照明がつけられて玲ちゃんがキッチンへとやってきた。よほど大切な仕事なのだろう、滅多に一人で起きることのない玲ちゃんが重そうな瞼をこすりカーディガンを羽織ってケトルの先端を見つめて居る。

「おはよう。コーヒー飲む?」

寒いのだろう、瞼をこすっていた腕は流れるようにそのまま自分の腕の外側をさすっている。

「ああ。頼む。こうも寒いとシャワーを浴びるのは考え物だな」

そう言い残して浴室へと向かって行った。僕は彼女の分のコーヒー用にケトルに水を足して、もう一度沸くまでしばし待つことにした。


 昨日の晩はどんな夢を見ていたのだろうか。 



 今朝はどんな夢を見たのか。なぜだろう、昨日あの男女とすれ違った踏切が浮かんできた。そして僕は理由は分からないが、あの踏切の真ん中で寝そべっていた。


 冷たいレールが背筋全体が当たる。もうこの時点でこの夢の結末が予想できてしまって、嫌な予感しかしなかった。すでに頭痛が強くなってきて意識が遠のく感覚に襲われていた。これ以上は何も考えらえないような頭で、懸命に周りを見渡そうとしたが、身体には力が入らない。何とか首を持ち上げることが精いっぱいだった。

 周りには誰もいない。日中なのか、夜中なのか、はたまたその間なのかもまるで分からない。周囲は無音で灰色がかった色に染められている。うまく言い換えるならば、濃い色の灰色のサングラスをかけているといったところだろうか。



 どのくらいここに横たわっていただろうか。景色は何1つ変わることなく何かが動くわけでもない。時間の感覚なんてなくて何ひとつ見当がつかなかった。ただただ横たわっていた。僕をくるむのは灰色の空気だけ。唯一わかることはここが踏切の列車が通るレールの上にいるということだけ。時間という概念がこの夢の中にあるならば時間は止まってしまったように静かだった。


 しかし嫌な予感はやはり当たるもので、その衝撃はいきなりやってきた。突然やってきて静かな世界に横たわっていた僕を夢から現実へと引き戻してくれた。1秒も数えられないような時間の間に、あおむけに寝ていた右側から何かものすごい力で押しつぶされるような衝撃。全身に走る圧迫感のある痛み。するとそのまま左に寝返りを打つように転がり、背中から抗いようのない強い力が僕の体を丸ごと突き飛ばした。


 実際は感覚で感じているだけで、身体に傷や跡は少しも残らない。要するに今朝は痛みと悪夢の両方で目が覚めてしまったということだ。目覚めが悪いとはよく言ったものだ。僕の場合は字のごとく。今朝の始まりは列車に挽かれて目が覚めた。


 こんな風に憂鬱な朝を迎えることが多々ある僕は、この気分の重さを消し去るために朝を過ごす時間をほかの時間よりもずっと大切にしている。

 グラグラに沸き立ってしまったケトルをガス台から下ろして僕と彼女、二人分のコーヒーを入れる。彼女が身支度を終えるころには、ちょうどよく飲み頃の温度まで下がることだろう。シャワーの水が体を伝いはじけ落ちる水音は止み、彼女の湯浴みが終わったことが伝わってきた。

「コーヒーお待たせ」

「済まないな。置いておいてくれ」


 姿が見えないので大きめの声だけで、浴室とキッチンでやり取りをする。今日も彼女は仕事をこなし、お金を稼ぐために身支度をし、外に出ていく。僕は今日はアルバイトのない日だから図書館と買い物にでも行こうかとでも思っていた。


 この間、城野とのアルバイト中に、

「休みの日の日中は何をしているのか?」と尋ねられたので大方家にいると答えたら、

「本当に専業主夫やってんだな」と信じられないというような顔で返されてしまった。

 買い物や読書のために図書館を利用したり、病院に行くくらいしか外出をしない。僕は出不精なのだと言うと、

「ふうん。子供の予定とか希望はないわけ?」


 これは結婚したばかりではなくとも夫婦になったカップルを悩ませるであろう難しい質問だと僕は思っている。少なくとも僕は答えに詰まってしまう。上手に言い逃れるのも、言葉にすること自体が難しいと思うからだ。

 子供を・・・。という言い方はしっくりこない。しかし、育てるというのも自分自身想像もできない。だがしかし、子供が嫌いなわけでも、ほしくないわけでもない。つまり流れに任せたい、どっちでもいいという無責任な自分の考えに答えが行きついてしまうのだ。


 だからいつもこの手の質問にはいつも、「まだ予定はないよ。玲ちゃん仕事忙しそうだしね」と答えていた。この言葉はそのまま僕の気持ちを表していた。たとえ玲ちゃんが仕事よりも大切なものがあるとするならば、それはであってほしいのだ。年甲斐もなく、大人げないのは承知しているつもりだ。

 愛する人を独占していたいという僕の幼い人格がそうさせている。


 城野も一度玲ちゃんに会ったことがあるから、彼女が忙しく仕事をしていて、子供がほしそうな女子ではないことはわかっているのだろう。彼はそれ以上聞くことはなく、黙々とレジの後にずらりと並ぶたばこの在庫の点検を始めてくれた。


 玲ちゃんがこの問題についてどう考えているか、話したことはないけれど僕から聞いたりすることはないのだろう。怖くて聞きたくないし、聞けないのだ。僕以外が彼女の中身を占めることは身を切られるように悲しい。


 僕は自分が見てしまう悪夢を、感じる耐えがたい痛みとのストレスの2つを忘れさせてくれる彼女を独り占めし続けたいのだ。いつまでこの贅沢が続くのかは分からない。だからいつもベッドに入るときには先に眠りにつく彼女を見つめながら祈る。どうか僕の物だけでいてほしい。


 いつかこの僕がいる悪夢も見せる苦しさの原因も、彼女が埋めてくれ、痛みが消えてしまうことを願う。僕は彼女のためだったらなんだってできるだろう。


   〈きっと彼女こそ望めば・・・〉


 僕はなんだってできる。人を殺してしまうくらいのことだって、きっと。

 僕たちが現代に生まれ、幸福なことに夫婦として生きていくことができることを僕は目に見えない何かにいつも、感謝している。他人に言うことは今までもこれからも決してないが。


 眠れる森の美女は愛する者のキスで目を覚ますシーンがある。同じようなシーンに僕と玲ちゃんが当てはまるのなら、僕は彼女にキスをすることはないのかもしれない。目を覚まさなくていいのだ。そうすれば、僕だけのものでいてくれる。できる限り長い時間そうであってほしい。そうしようと思っている。



 彼女への僕のいびつなまでに曲がっている愛情はひとまず置いておこう。


 煮えたおかゆに卵を溶いたものを加えるために、鶏卵を2つ割って菜箸でこぼれてしまわないようにかき混ぜる。

 ふつふつと沸き立つ粥の中に回しいれるよう流し込み、ふたをしてしばらく待つ。

 かき混ぜて薄めの味付けをする。ネギに、ショウガ、佃煮を刻み、梅干をパックからさらに盛り付けた。薬味を要出来たら鍋に粥を入れたまま食卓へと運んだ。


 玲ちゃんは身支度を済ませていつものように食卓へむかって椅子に座り、小さな指先でタブレットの画面をスクロールしている。今朝は昨日と打って変わって雪が光を反射するまぶしいくらいの青い空が広がっていた。


「昨日は雪の影響で何度も電車が止まって実に不愉快だった。全く持って今日でなくてよかった」

 

 いつものように小さくすぼめた口でコーヒーをすすりながら目だけがこちらを向いて、昨日の愚痴をはいている。

「本当だね。うちの父さんは連絡したら問題なかったって言ってはいたけれど、玲ちゃんのお義母さんとお義父さんは大丈夫だったかな?一応聞くけれど、玲ちゃん連絡とった?」


 玲ちゃんの両親の心配をしていると、彼女は持っていたマグをテーブルへと置いて、「あのジジィなら問題ないだろう。第一今、日本にいるのかどうかさえ私はしらん。母さんは何かあれば連絡をよこすだろう」


 全く持ってどうでもいいことを言うように僕の心配を振り払って、今度はテレビをつけて天気予報を見始めた。雪が積もったのもとても珍しいがそれが気温が上がって落ちてきたりする二次被害が怖いのだとキャスターは話している。


 僕は小さめのどんぶりにおかゆをよそい、薬味の乗ったトレーを彼女の前に置いた。

「熱いからやけどに気を付けてね」猫舌の彼女に前もってアツアツだということを伝えておく。まぁ、冷えてしまったおかゆなんて絶対に食べたくはないと僕は思うけれど。

 僕の警告を耳にして、右手に持っていたマグを置き、れんげに持ち替え、食卓へと向き直った。テレビのニュースは相変わらず昨日の雪の被害を各地方ごとに分けて報じている。

 

「今朝はおかゆか。胃に優しいな。こう毎朝寒いと体の温まるものはありがたいぞ」そう言いながらやけどすることを恐れて、少量ずつ口に運んでいる。しっかりと息を吹きかけて覚ますことにも余念がない。


「今日は直帰の予定だからいつもより早く帰るぞ」右の口角だけを上に引き上げながらニヤリと僕に微笑みかける。


「本当に?」彼女の〈早く帰る〉はあまりあてにならないからだ。

「おそらくな」彼女は大きくうなずきながらようやく覚めた粥に薬味を大量に入れたものを呑み込んだ。


 僕はうれしくなってしまって興奮した犬のように息が荒くなってしまった。

「じゃあ、僕は念のために今からお義母さんに電話してから、午前中は玲ちゃんの実家に行ってくるよ。玲の容器の件ね、僕が取りに行くことにしたからさ」


 毎日忙しく仕事をしている玲ちゃんは、一般の社会人よりもいつも帰りは遅い。しかも最近は特に根を詰めていて、帰りがいつも以上に遅いことがデフォルトになりつつあったのだ。決して声にはしないけれど帰りを待つ僕としては寂しかったのだ。



 僕は日ごろから頻繁に彼女の実家に顔を出すようにしている。今時ありえないと思われるかもしれないが、おかずのお裾わけに行ったり、家事の手伝いに行ったり、お茶を飲みに行ったりとちょくちょくお邪魔させてもらっている。


「ふん。千里をいいように使いおって。まぁ母さんのことは頼んだぞ」

 空になったどんぶりをキッチンのシンクにおいてこびりつかないように水を張ってから僕に頼みごとをする。

「そんな風には言わないでよ。僕は楽しいから別にいいよ」

 今時の若者にはありえないセリフだろうか。


 僕は玲ちゃんの両親と仲良くさせてもらえることが純粋にうれしかったし、婿養子にしてもらった手前といえば当然のことだと思っている。ましてや僕は専業主夫だから基本的に人との触れ合いが少ないから、気ごころ知る自分の親の世話をしているようなものなのだ。今日は昨日の雪のことが心配になって雪かきに行くつもりだった。


 両親と仲良くさせてもらっているといっても、玲ちゃんのお義父さんは出張が非常に多い仕事をしていて尋ねて行ってもほとんど家にいることはない。まあ、働き盛りだから当たり前なのかもしれない。しかし、家で一人で暮らしているよな状況のお義母さんは腰から下が不自由で普段は車いすに乗っている。杖を使えば歩けなくもないが、万が一転倒した時のことなどを考慮したうえで、完全にバリアフリーに設計された家での車いす生活を送っている。


 「一人では何かと不自由だろう」と様子を見に行くのと、なかなか出かけられない彼女の話相手になることくらい僕にだってできるのだ。幸い、婿・姑関係は非常に良好で、実の息子のようにかわいがってもらっている。もちろん、玲ちゃんとは幼稚園からの幼馴染だからお義母さんは僕のことが本当の息子のように感じても全く違和感はないだろう。


 僕の父のことを忘れてしまっているようだけど、玲ちゃんのお義父さんほど忙しくはしていないけれど、元気に今も働いているから、たまに連絡を取り合うくらいだった。昨日の雪の影響は特になく。一カ月ぶりの電話越しの声はいつものように穏やかだった。


 僕はようやく湯気がおさまったおかゆを少しずつ口に運びながら、仕事の資料に目を通す彼女を見つめていた。大事な契約の商談なのだろう。いつもよりアイメイクは濃い目で、普段は使わないチークを小ぶりな頬に乗せている。彼女を見つめることで僕は胃袋と共に心の中まで優しく温かいものに満たされるような気持になった。あの朝の憂鬱さなんてこの短時間で消えてしまっていた。



 いつものように玄関を出ていく彼女を見送り、仮眠をする。ベッドに夢に見たようにあおむけになってみる。深く深呼吸をしているが天井はいつも通りの近さに存在し、僕に見える世界は色を失ったりしていけない。

 さっき出かけぎわに彼女は「今日の夜は久しぶりに外食はどうだ?」と言ってくれた。最近は仕事の休みさえ少ないため、外へ出かけて食事をすることは学生時代に比べて極端に少なくなっていた。だからとてもうれしくて、小さい子供のように興奮気味に返事をしてしまった。この嬉しさがまだ胸の中で波を立てているようで、その音に意識を乗せながら、僕は目を閉じた。






 

  僕はまた踏切の中のレールの上にあおむけになっている。周囲には影もなければ、影さえもない。やはり色味がないので時間帯は確認することは不可能なようだ。昨日の夢と同じように首だけを持ち上げて上下左右を確認すると、踏切の遮断機は両側ともに降りきってしまっている。普段は静止画のようにしか見ることができないのに、断片的ではあるが今は警告灯が点滅しているのが確認できた。まるで普段は聞こえない音まで聞こえてきそうな感じまである。そして僕はただただ、あおむけで横たわっている。

 

 吸う息で胸は上へと上がり、吐き出す息は白い靄となって灰色の中に滲みこんでいく。大きく吸って、口からため息を出すようにすべてを吐き出してみた。ひょっとしたら、僕の中身が出て行ってはくれまいかと願いながら息を吐き出した。


 このままこの灰色に溶け込んで、線路と一つになってしまいたかった。そう思うほどに妙に心が落ち着き、心地が良くなっていた。


 遮断機の明りはいまだについては消えることを繰り返している。上下交互に点灯することで周囲への警告を示している。僕の視界から入る情報から判断するに、このままだと今朝と同じように走ってきたと思われる列車に弾き飛ばされるのだろうか。それとも、このレールの延長線上を走る列車によって下敷きにされてしまうのだろうか。

 どっちにしろ、死ぬことは免れないだろう。普通の人ならばこんな状況には決してならないだろうが、どういうことかは理解しかねるが、今僕はこうして踏切の中で寝そべっている。しかも居心地がいいときている。僕はこのまま死んでしまいたいんだろうか。断じてそんなことはないと言っておこう。だけれども動けないでいるのだ。動けないわけではないのかもしれない。僕はこのまま動きたくないのだ。


 眠りから目を覚まして布団から出たくない、動きたくないことはよくあるだろう。それと同じ感覚なのだ。このままこうしていたい。断じて自殺してしまいたいわけではないのに、なぜだろう。


 僕自身のことなのに、僕にはなんにも分からなかった。僕にわからない僕自身のことは、他人には決して分からないだろう。そう思っていたらレールに触れている背中を伝って列車の軋みが、レールのゆがみが感じられるようになってきた。

 それは少しずつ強くなり、大きくなって、列車であるはずのものが僕のいる踏切に近づいてくることを教えてくれる。


 逃げないと死ぬ。それはわかっている。でもここを離れたくはない。じゃあ、僕はいったい何を望んでいるんだろう。誰かにおしえてほしいくらいだった。


 耳で聞くよりもずっと重い感覚で近づいてくる。身体がかすかに跳ね上がるほどの振動を感じた。上を見上げれば、ただ灰色に染まった高さの分からない空が広がっている。雲もなければ星もない。そこにあるはずの太陽、もしくは月も見ることはできない。ただ空であるはずの空間が僕の上に広がっていた。。


 周りの物がこんなに詳細に見える夢は初めてだった。今までならとっくに意識が戻り、痛みを逃すことに集中しているころだろうか。

 夢の中なのに、夢の中だからだろうか、こんなに心が落ち着いているのはなぜだろう。いつもこんなに落ち着いた穏やかなな気分が得られるのならいいに・・・。と感慨に浸っていた。僕は首だけを右に向け、こちらにやってくる列車に車体を遠くに視界にとらえることができていた。

「もう逃げなくてはならない」なんて思ってもいない。むしろこのままがいい。

 

 轟音を立てながら僕が寝そべるほうに向かって迫ってくる。


 そのとき・・・。まさに僕と列車が合いまみえようとした瞬間に、聞いたことのある声が聞こえた。それはきのうのあの男が発した質問のような言葉。



「君には何が見える?それとも何が聞こえる?」



 この声の主を再び探そうと試みたところで、列車は僕の身体の上を通り過ぎて行ってしまった。


 同時にアラームが鳴り始めたアラームを止めようとして不思議な夢から目を覚ましていた。痛いはずの身体はなんともなかった。あのまま列車にひかれていたはずなのに。もうこのままでいいと思っていたのに。そうはならなかった。


 突然の彼の二度目の質問に戸惑った。声の主は、彼は何者なのだろう。どこにいるのだろう。別にどうでもいいはずの声についてわだかまりを残しながら、体を起こした。眠りに落ちるまではダルかった体は妙にすっきりとしている。目も冴えている。目覚めがこんなにいいのは一年に一度あるか、ないかであるから純粋にうれしかった。しかし、あまりにも慣れない感覚に居心地の悪さも同時に感じた。


 先ほどの概要の掴みようのない夢は、僕に何をもたらすんであろう。

 暗くしたままの寝室でベッドに右頬を押し付けながらおんぽいにふけっていた。せっかくすっきりとした身体なのだからとベッドから体を起こして、出かける準備をするために体中の関節を鳴らしながら、居間へと歩いて行った。


 我が家の最寄駅から2駅と歩いて10分ほど。今朝彼女に予告したと通りに、仮眠から目を覚ましてすぐに彼女の実家へと向かう。いわゆる閑静な高級住宅街。家賃相場は高く、有名人が多く住んでいるエリアでもあり人気はたかい。彼女の実家があるのは駅から直線距離で1.5キロほどまっすぐに進んだところである。そこにたどり着くための道沿いを、昨日の雪を避けながら歩いていく。途中、駅からすぐのスーパーマーケットに立ち寄る。彼女の母親から聞いておいた買い物を一通り済ませる。様々な食料品が並ぶ店内を一周しながら、清算した後に両手で持てる限界までカートに乗せていく。時たまこうしては買い物代行的なことを僕はやっているのだ。


 頼まれたものをあらかたカートに乗せたら重いかごをレジに乗せて。読み上げられるバーコードの音と、商品の金額に気を向けていた。この後はこの商品をお義母さんに届けられればミッションクリアである。日ごろ、車いすで生活しているお義母さんにとって今回の雪は、生命に関わるからだ。外出できるようになるには、下手したらあと2,3日はかかるだろう。なので今回はできうる限りのに荷物を届けてあげたい。

 購入した商品を薄い半透明のレジ袋につぶれることのないように詰めていく。この時点で袋の耐久性に一抹の不安を抱えるほど買ってしまった。詰め終わった袋を手に持つと、左右の腕が伸びきってしまい袋が今にもはちきれてしまいそうである。買い込んだ荷物の重みを両掌で感じながら、さっき店員に、「袋を二重にしますか?」と聞かれて断ったことを激しく後悔した。彼女の実家までの残りの距離で袋が破けてしまわぬことを祈りながら、店を出てまっすぐに進んでいった。


 さすがに買いすぎて重いのと、彼女の実家は上り坂に面しているため息が上がりそうになりながら歩いていく。滑らないように気を付けながら、荷物を引きずってしまわないように気を付けた。今歩いているこの道は車の通ることの多い、生活道路にも関わらず、雪がほとんどそのまま残っていた。誰かが歩いて踏みしめてくれたその道を歩いてようやく彼女の実家の門の前までやってくることができた。


 お義母さんには昨日連絡を入れておいたから、在宅しているはずだ。家の門はおろか玄関のすべての部分において、雪が全くの手つかずの状態である。おそらく、一昨日から人の出入りが全くなかったのだろう。荷物を持ったまま素手で、門の雪を取っ手の部分を中心に払う。荷物をきれいな雪の上に下ろして、僕が歩くことのできる幅を確保するためにブーツを左右にずらしながら、簡易的に道を作った。

 

すると僕の出す音に気付いたのか、玄関の自動ロックが開錠されるガチャリという機械音がした。僕を招き入れてくれている彼女のもとへと、荷物を持ち直した。両脇を占めるようにして肘まで荷物を食い込ませて、横にスライドする門を右側に強く引く。軽い作りになっている黒い格子状のデザインのこの引き戸は簡単に全開まで開くことができた。目の前にはやっと玄関ドアが現れた。この中には僕を待っていてくれる彼女がいる。

 周囲の家と同じように家庭の裕福さが一目でわかるほど大きな一軒家。周りと違うのは平屋建てだということくらいだろうか。壁面は白を基調としていて、落ち着いた色のレンガがデザインとして組み込まれている。この落ち着いた佇まいが、この地域周辺にとてもよくなじんでいる。まぁ、それも今は雪にすべてが覆われてしまっていて、玄関のおしゃれなマリンカラーのタイルも、庭木や花壇のハーブ、冬に咲く植物たちは雪の下にその身を隠してしまっている。いかにもアンティーク調の小人の置物だけが、玄関の軒先にあることで雪から身を守ることができている。この庭の支配者になったような状況を動けない彼はどう思っているのだろうか。

 

 ドアを隔てた向こうに人の気配を感じてはいるが、いつもと同じようにカメラに顔を向けて笑顔を作ってからインターフォンのボタンを押した。相手には僕の間抜けな姿がさらけ出されているが、しばし反応を待つ。

「お義母さん。こんにちは、千里です」

遠隔操作によって扉が開錠された音と共に彼女が笑顔で僕を迎えてくれる。

「いらっしゃい。いつもありがとうね。さあ、入って」

僕は彼女と視線を合わせながら持っていた荷物を左手一つに強引にまとめた。

「玄関に入ってくるまでに雪がすごかったでしょう。ごめんなさいね」

謝る彼女に「大丈夫ですよ」と言いながら、空いた右手で何とかブーツを引っこ抜いて、ようやく荷物を下へと下ろす。

 謝る必要のない謝罪の言葉を口にしながら、彼女ははにかんだ笑顔を僕に見せてくれる。車いすのために広く幅の取られた廊下で向き合いながら、僕は脱いだ靴をそろえて下駄箱の端のほうに寄せ置いた。

「停電とかは特になかったですか?水道とか、ガスなんかも問題ありませんでしたか?」笑顔を質問の答えとしてはにかむ彼女は、器用に車いすの方向を変換させながら、「何にも問題なかったわ。心配かけるわね」

 僕は玄関先に置きっぱなしにしていたレジ袋を両手に持ち直して、リビングへと向かう彼女の背中を追いかけた。

「お義父さんは今、出張中ですか?」背中越しに彼女に話しかける。

「えぇ。先週からね。今頃はきっとイギリスね。一カ月は帰ってこないはずよ。今帰ってきたら、この雪を見てびっくりするでしょうね」彼女は前を向いたまま背中越しに微笑みながら返してきた。リビングに入ると、僕は買ってきた大きな荷物を少し雑だが、食卓へと置かせてもらう。彼女はキッチンへと入ろうと、車いすのレバーを小刻みに操作して自分の進路を調整している。車いすの前輪についている小さなタイヤが、フローリングの上で踊るように右へ、左へと回転している。

「寒かったでしょう。今、お茶を入れるわね」

「ありがとうございます。じゃあ、僕は買ってきたものを冷蔵庫にしまってもいいですか?」先ほど置いたばかりの袋を持ち直して、これまた広いキッチンへと彼女にぶつからないように入った。

「本当に助かるわ。まさか、こんなに積もるなんて思わなかったんですもの。いつも頼んでいる宅配業者さんも、この雪で車が動かせないって言われてしまったのよ」少々ご立腹のような気持高い声で彼女は話し続ける。

「あの人もいないもんだから、このままだったら危うく孤独死してしまうところだったわ」自ら言った冗談を笑い飛ばすように、さきほどの微笑みとは違った大きな声を出して笑い、笑っていた。


「千里君がいて本当によかったわー。全く、玲になんてもったいないわ」これはこの家に来るたびに言われるセリフだ。「そんなことはないですよ」と心から思うことそのままを、僕はお義母さんに伝える。

 そんな彼女とのやり取りをしながら、買ってきた食料品を何とか破けることなく、耐え抜いてくれた袋から取り出して、ちょうどいい場所へと仕分けをしていく。トマトにリンゴにカットしてあるパイナップルのパック。少し高価だったけれどお義母さんの好きなイチゴは冷蔵庫を開けて開いているスペースに、適当にだが入れさせてもらう。この作業を僕がやることに疑問の念をもつ人もいるかもしれないが、車いすに乗っているお義母さんにとってはやはりやりにくい作業であるのは間違いがない。だから初めてお使いを頼まれた時から僕がやることになった。


「そういえば、あの日玲はキチンと会社へいけたの?」さすがにニュースなどであれだけ報道されれば、誰だって心配になるだろう。昨日の雪での娘の仕事への影響を心配していた。

 僕はレタスにきゅうり、ブロッコリーなどこの時期には割高になった野菜たちを野菜室に並べながら、「えぇ、さすがに足元は悪かったみたいですが、早い時間に

家を出発したおかげで何とか出社できたみたいです」

 実際の玲ちゃんはというと、駅で結構な時間足止めを食らい、駅員に「いつになったら電車は動くのか?」と詰め寄っていたとはお義母さんには言えなかった。

その時の彼女のプリプリと怒って人に詰め寄っている姿が頭に浮かんできた。僕はお義母さんに申し訳ないと思いつつも、とっさに小さな嘘をついたのだった。


「それならよかったわー」と本当によかったと思っているような安心した言い方をした。お義母さんは、キッチンのコンロから沸いた湯をドリッパーに入れたコーヒーの粉に向かって注いだ。僕は心の中で小さく彼女に頭を下げた。これこそ、嘘も方便というものだ。なんでもかんでも、真実だけを伝えればいいというものではないということを、僕は生きてきた中で学んだからだ。特に親子関係に関する嘘は大したことは無いと思っている。玲ちゃんとお義母さんとのあいだのことなら、まぁこのくらいの小さな嘘は、嘘のうちに入らないことにしようと思う。これは僕が勝手に決めて、かってについている嘘ではあるが。

 嘘をつく理由は明白である。僕は玲ちゃんが大好きだし、玲ちゃんを生んでくれたお義母さんも大切に思っている。つまりはお義母さんを安心させつつ、玲ちゃんのご機嫌を損ねたくないのだ。お義母さんは玲ちゃんのことを、いつもたいそう心配している。玲ちゃんにはうざったがられてしまい、一方通行なのがなんとも物悲しいのだが、親子なんて大抵こんなものだろう。だから最近では、お義母さんも物を多く言わないようになった。これも娘に対する彼女なりの愛情の示し方の1つなんだろう。

 時に天然で、玲ちゃんにうっかり大したことないことを仕事中に電話をして怒らせてしまうというかわいらしさあふれるお義母さんである。コーヒーの棟すく香りを嗅ぎ、ポタポタとフィルターを伝い落ちていくそのしずくの波紋を見ている彼女はとても笑顔で幸せそうに見える。この笑顔でいてくれるということは、僕は彼女にとって「家族」だと思ってもらえているのだろうと、少し安心する。信用していない相手に対して、コーヒーを入れながらあんなに優しい表情ではいられないだろう。

 彼女のその姿を視界にとらえながら、買ってきた残りである、豆乳や今日食べてもらいたいお義母さんの好きな鯛のお刺身をしまい終えて冷蔵庫を閉じた。続いて冷凍庫に取り掛かる。ドリップし終わったコーヒーのピッチャーをカップと共にトレーに乗せながら彼女は、僕にはわからない曲を小さくハミングしている。車いすのための全体的に低く設計されたキッチンからつながるカウンターへととれーを移動させ、彼女は僕よりお先にキッチンからリビングへと回り込んで行った。


 冷凍庫には玲ちゃンが好んで通っているお店のスープが真空になっているものがたくさんストックされていた。袋の中に残っている、うどんやれんじで調理ができるパスタなどをしまい込んで、ようやくずっとひざをついていたキッチンの冷たい床から立ち上がった。彼女の入れてくれた先ほどのコーヒーをごちそうになるべく、リビングへと向かった。リビングは暖かく暖房が効いていて、いい香りと暖かい空気に包まれている。この空気に満たされて、僕は居心地のいいことこの上がない。

「このカップ、使ってくれているんですね」

 彼女の手に持つコーヒーの入ったカップは先日、お義母さんの誕生日に僕たち夫婦でプレゼントしたイギリスのブランドの物だ。大ぶりの花柄に淡いパステルカラーという色付けをされたそれは、玲ちゃんのセレクトで僕もとても気に入ったデザインだった。

「ありがとねぇ。このカップ、大きくてたくさん入るから使い勝手がいいのよー」

「よかったです。さすが玲ちゃんがセレクトしただけありますね」僕は自分のカップに入ったコーヒーをすすりながら答えた。

「あら、そうなの。てっきり千里君が選んでくれたものだとばかり思っていたわ。あの子にもこんなセンスがあるのね」僕の言葉を聞いて、嬉しそうに持っていたマグカップをまじまじと見つめなおしていた。


 普段はあっさりとした付き合いのみを心掛けている母と娘である二人は、実はお互いをすごく大切に思っているのだろうと僕は知っている。この真ん中にいる僕は、時にはどっちつかずの難しい立場に置かれることもあるだろうが、きっとこの位置にいれること、ただそれだけで幸せなのだ。コーヒーも残りわずか、底のほうを覗き込むようにしながら最近のお義母さんの体調の話なんかを聞いたりする。車いすを使って生活をしていても、痛むところや優れないところが良くなることは決してないからだ。


 

「ここ最近の体調はどうですか?やっぱり寒さのせいで腰から下は痛みますか?」

寒さがきつくなると節々の痛みが強くなるらしいと玲ちゃんから聞いたことがあったからピンポイントで聞いてみる。

「特に変わりはないわ。ここ最近の冷え具合には困ったものだけれども」

屈託のない微笑みをたたえている彼女の表情に嘘の色は混ざってはいないようだ。いつも思うことなんだけれども、玲ちゃんのお義母さんは本当に幸せそうな、穏やかな表情でいることが多い。喜怒哀楽がすごく激しくて、見ていて面白い時もある玲ちゃんとは全く正反対というか・・・なんとも穏やかな女性である。

 今はコーヒーを片手にいつの間にか彼女のひざの上には、飼い猫のマリが

気持ちよさそうに昼寝を始めている。マリを愛おしく撫でるその姿はまるで歳暮のように尊く感じられた。


 マリは玲ちゃんが小さいころから飼われている猫で、玲ちゃんとはすこぶる中が悪い。というより、お義母さん以外にはあまりなついていないようだった。だからマリと玲ちゃんはいつもライバルのように何かを競い合うようにと、言えば適切だろうか、相いれないでいる。玲ちゃんもマリをかわいがらないし、マリも玲ちゃんに甘えたりしなかったのだと、付き合っていた当時に教えてもらった。玲ちゃんとは幼いころから一緒にいたから、その当時からずっと飼い猫のマリと仲があんまりよくないのは知っていた。玲ちゃんとしては、自分の言うことを聞かず、可愛げのないマリが気に食わないらしい。見た目は非常にかわいらしいし、少し肥満気味ではあるが毛並みもよい。何よりふわふわとしているところが最大の特徴といったところであろうか。なぜだかは知らないが、僕のことは認識はしてくれているようで、気まぐれではあるが甘えてきたりすることもある。

 

 つまりはツンデレ。玲ちゃんそっくりな猫なのだ。お互いが仲が悪いのも納得せざるを得ないのだ。


「こんなに雪が降っているんですもの、お父さんのいるところはもっと寒いはずよねー」とマリに向かってお義母さんは話しかけている。

 マリはわかっているのか、わかっていないのかなんとも言えないご機嫌なあくびをしてお義母さんのひざでついにはあおむけでお腹を撫ででもらっている。


 僕はイギリスの気候や日本との温度差も全く分からないから、黙ってマリの茶色く細い瞳を追いかけてみる。リラックスして伸びきったマリを抱きなおして、今度は首を撫でながら「こっちでこんなに雪が降ったことを知っているのでしょうが、お父さんは何にも連絡をくれないんだから冷たいわよねー」と孫に話しかける祖母のようにマリの鼻先に額を押し付けていた。


 僕はその甘やかされて嬉しそうなマリを見ながら、一度も言ったことも見たこともない、彼女の夫がいるイギリスの地について思いを巡らせてみる。向こうも冬であったなら、とても寒いはずだろう。テレビ番組でそんな映像を見た気がするのだ。まぁ、最近一番最後にお義父さんにあった時に、長い期間出張に行くことなったのは聞いていたから、この日本での大雪はどうしようもないのだけれども。玲ちゃんの父であるお義父さんは玲ちゃんがそうであるように、ワーカーホリックに完全に侵されている。玲ちゃんは足腰の不自由なお義母さんそっちのけで仕事ばかりするお義父さんが気に入らないらしく、接触するたびにしょっちゅう衝突を起こしている。クソジジイ呼ばわりをして、父親とはみなしたくないようである。そこが仲をよくしてくれるのなら僕としては手放しで喜べるのだけれども、どうもうまくいく気配さえないから困りものである。


「向こうも冬だったら、すごく寒そうですね。いつ頃戻っていらしゃっるんですか?」偶然にもマリと目が合ったので逸らさないようにしながら尋ねてみる。

「再来週の予定よ。お土産を送るようにお義父さんにはたのんだわー」

「フフフ。マリちゃんも寂しいわよねー」

 本当に帰りが待ち遠しいのだろう。異国での仕事ばかりの夫への思いに、黙り込みながら、マリの眉間をマッサージしている。

 僕としては、「どうか僕たちがプレゼントしたこのマグカップと同じようなものを選びませんように」と口には出さずに祈るだけだった。

 そういえば、再来週といえば、ワーカーホリックの玲ちゃんが珍しく、「絶対に、二日連続で有給を取る」なんてことを言っていたのを思い出していた。それをそのまま質問のような形にしてお義母さんに伝えたら、急に普段は見せないような暗い顔をした。

「玲ちゃん、来週は珍しく、連休を取るなんて宣言してました。それお土日にですよ。どういう風の吹き回しですかね」


 一瞬だけ見せたその表情を僕は見逃すことができなかった。



 それはただ悲しいとか、そういう感情で現れてくるものではないように感じた。何か、触れてはいけないものにふれたというか、知ってはいけないことを知ってしまったような後ろめたさを、僕はを覚えた。


 それは来週の土日のことじゃないの?」その通りで、玲ちゃんが休みを取ったと言っていたのは来週の土日のことだった。

「そうです。詳しくは聞いていないんですが、もしかしてお母さん方の結婚記念日か何か、かと思っていました。存じ上げて居なくてすいません」僕は正直に何も知らされていないことをお義母さんに打ち明けた。


「やっぱりねぇ。あの子はほんとにダメなんだから。まぁ、あの子が話したくないって気持ちも理解できるから・・・」

 

いったい何のことだろう。僕が知る限りの彼女の情報と来週の休みの理由を考える。

「玲ちゃんが話しにくいって、どんなことですか?」玲ちゃんはほとんど皆無と言っていいほど僕には隠し事はしない。会社の社外秘の資料から口座の残高、スマートフォンのパスワードから何から何まで、僕が聞いていないのに教えてきてくれる。

 まるで、僕に隠し事がないことを、自らの潔白を証明するかのように。

「この話はあの子の口から直接聞いているものだと思っていたわ」マリはお義母さんに遊んでもらえて満足してしまったのか、彼女のひざの上からさっと軽く尾を振らながら床に着地して電気の点いていない暗いはずの寝室へと向かって行った。


「なんのことだか、全く見当がつかないんですが?」普段の二人でのお茶を飲んでいる時の雰囲気とは明らかに違う、重い雰囲気が広がっていく。

「来週の土日はね、あの子にとっても、私たち夫婦にとっても大切というか、とても重い意味を持つのよ」

 僕のほうへ顔を持ち上げながらゆっくりと話し始める。

「まぁ、あの子としては千里君と結婚したんだから、近いうちに話すつもりだったと思うけど・・・。私から聞いても問題はないでしょう」そういうとお義母さんは空になったマグにコーヒーをなみなみと注いだ。

 そして、僕にその〈大切な〉話を、今まで僕が玲ちゃんから聞かされていなかった彼女の秘密を、ゆっくりと1つ、1つ。

 もしも、あ母さんの記憶の本があったとするならば、それを一枚一枚丁寧にめくり、一文字のこぼれもないように丁寧に僕に語り始めた。


 マリはどこかへ行ってしまったままだ。やり場のない寂しさが僕の手をそわそわさせた。中身は飲み干して、空になってしまったカップを手に持ち、お義母さんの瞳をまっすぐと見つめた。



「あの子はね、玲は私たちの実子ではないのよ。結婚までしているのに、今まで黙っていてごめんなさいね」

「玲が私たちの子供になったのがあの子がまだ生後間もない、一歳にも満たないころだったわ」


いきなりすぎて、また衝撃の度合いが大きすぎて、お義母さんから発せられる言葉の一つ一つの咀嚼はおろか、飲み混むことさえできない。

「ええと。何が何だかさっぱりです。訳が分からないことが多すぎてなんとも・・・」感情の行き場がなくなって、空になったコップを手の中で転がすように抱きしめる。

 もう本当に衝撃的で、分からないことが分からないといった究極の混乱状態に陥った。


「えぇ。そうなって当たり前だわ。できる限り千里君が分かりやすいように話していくわ。分からないことがあったら私のわかる範囲で答えるわ」


彼女はそう言って、玲ちゃんが実の子ではない理由を、それが来週の土日にどう関係しているのかを話し始めた。


 


 



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