日常の痛み
退屈な時間は長く感じたが、時間は確実に過ぎていく。特に体調の変化もなく、診察に来た医師からは明日退院していいと言われてほっとしていた。そろそろ、やることもなく、学校の勉強も置いていかれることに不安を覚え始めた。
医師はこう続けた。
「つらいことを思い出したりして、体や呼吸が苦しくなってしまうことがあるんだ。もし次に苦しくなるようなことがあったら、専門の先生を紹介するから、お父さんと一緒に会いに行ってね」
医師の話に納得がいかないものの、悪い病気ではないことはよかった。忙しそうに病室を出ていこうとする彼とすれ違いに看護師が清拭に来てくれた。
退院が許可されたことで、片腕を不自由にしていた点滴針を外してもらえた。どこも悪くはないとはいえ小学生高学年になって着替えを手伝ってもらうのは小恥ずかしかった。父は、夕方にケーキを買ってきてくれると言っていたし、退院したら前からほしかったサッカーゲームを買いに連れていってもらおう。僕の中身は先ほどとはうって変わって明るい内容で埋め尽くされていた。
父が来てくれるまでは暇だからと、院内をうろうろと徘徊していた。総合病院だから様々な科があり、患者もまさに文字どおり老若男女だ。入院しているとはいえ、明日には退院が許可されて時間を持て余していた。
僕が救急車で搬送され入院したこの病院は市内一規模が大きく入院患者もたくさんいたし、1階の外来患者が行きかうロビーはさながら国際空港のように広く人であふれかえっていた。患者はみな個別に番号を割り当てられて、頭上の掲示板に数字が表示されるたびに自分の番号と照らし合わせて診察、会計を首を長くして待っている。僕は滅多に体調を崩すことはないから病院という今、この空間が非日常に感じて少し興奮した。まるで全校集会のような規模で待つ人々の退屈さと、たくさんの足音、話し声、薄い消毒液のようなにおいすべてが僕を異空間にいるような気持ちにさせてくれたのだ。
誰一人、僕個人を認識してはいないだろう。遠い異国の地にいるような、そんなロビーで見知った瞳の大きい女の子と視線が合った。玲ちゃんだった。どこで僕の入院を聞きつけてか、お見舞いに来たのだろうか。もし違っていたらただの思い上がりだが、相手はずんずんと音を立てるようにして僕に近づいてきた。そして手に持っていたスクールバックを振り回すようにして質問と共に、僕にぶつけてきた。
「どうしてここにいるんだ?病室が1階にあるのか?」
「ううん。父さんが来るまで暇すぎたからちょっとした散歩のつもりだった」
「そんなことをしていていいのか?散歩はいいから早く病室に案内しろ。ここはなんだか息が詰まって仕方がない。つくづく病院とはいやなところだな」
やはり彼女は僕のお見舞いに来てくれていたようだ。うれしくなって並んで歩きながらエレベーターに向かって歩き出した。僕の病室は14階にある。
エレベーターの中で後ろの鏡越しに中学の制服姿の彼女をこっそりと見つめる。身長は相変わらず、150センチほどで足はすらりとしている。スカートの裾が短く太ももが半分ほど出てしまっている。
病室につくと彼女は、入院患者である僕を面会人用のパイプ椅子に座らせて、なぜかベッドに横になりながらそばにあった漫画を読み始めた。靴を脱ぎ、ちゃっかりと布団に潜ってしまっている。これは彼女の部屋のベッドだっただろか・・・。
「玲ちゃん?何してるの?」
「何って見舞いに決まっているだろう。でもなんともなさそうでよかったな」
視線を漫画に落とし込んだまま戸惑う僕の質問に答えた。
「うん。明日には退院するよ。痛みも入院してからは起きてないから大丈夫だよ。そんなことより、玲ちゃん学校は?まだ授業終わってる時間じゃないよね?」
「無論、さぼっている。千里が入院しているんだ。だから、見舞いに来たんだ。授業の1つや2つ・・・イヤ、3つくらい気にすることでもない。親にはここに来ると伝えてあるから心配はいらん」
ようやく視線を合わせてくれた彼女はどうやら僕をネタに学校さぼれたことでご機嫌がいいらしかった。
漫画に興味が失せたのか、テレビのチャンネルを操作しながら搬送された夜のことを僕に尋ねてくる。
「結局、なんの病気だったんだ?」
「わからないんだ。さっき先生から聞いた話ではひどいトラウマ?のせいで体が痛くなったり呼吸が苦しくなったりしたんじゃないかって言われた。だけど本当なんだ。頭が割れてしまいそうなったのも、胸が苦しかったのも信じられないくらい痛かったんだ。だから昨日の夜は怖くて眠らなかったんだ。そうしたら痛くはならなかった」
僕は入院以前から現在までのことの経緯を説明した。要するに僕は医師から見て、現代社会で言うPTSD(Post Traumatic Stress Disorder 心的外傷後ストレス障害)だろうと診断されたのだった。
説明を一通り聞いた彼女はふんぞり返っていたベッドから身を乗り出して僕に抱き着いてきた。いきなりのことで、のしかかられるように抱きしめられたのでパイプ椅子から転げ落ちてしまいそうだった。彼女は満足するまで抱擁を交わして、僕の体をようやく解放してくれた。
「何かつらいことがあればすぐに私に相談しろ。不安なままにしておくな」
僕の瞳の奥の1点だけを見つめながら彼女は僕を諭した。
父も、父から僕の生い立ちや暮らしを聞いた先ほどの医師や知り合い、幼いころから一緒の玲ちゃんにはこの僕の入院騒動の原因に何かしらの見当がついているのであろう。みな腫物に触るように僕に優しく接し、僕にこれ以上つらい思いをさせないようにしてくれているのが分かった。(雨宮玲については一部、僕への優しさという部分において、例外ありと補足しておく)
僕もその皆の雰囲気を子供ながらに理解し、感謝していたはずだ。
玲ちゃんも父もこの痛みの原因に思い当たる節があり、また僕もこれが原因ではないのかと推測していた。ひどいトラウマに当たる原因。それは、僕の両親の片割れである母がかかわっている。それは僕がまだ小学生になる前の5歳のときだ。
僕が、僕の母さんが死んでいくところをすぐ隣で見てしまったこと。
ただ死んでいくところではない。交通事故でもなければ、病死でも自殺でもない。
僕が見たものは、僕の母さんが僕の目の前で殺されるところだ。
「すいません。懐中電灯っておいてありますか?」年配の女性の声で僕は小学生の頃に入院していたあの病院のパイプ椅子の上から、コンビニのレジスペースへと意識を戻した。背中越しにかけられた声のほう向かって降り帰ると、魚屋さんが履くような白い長靴にレインコートという格好の50歳くらいに見える女性客がいた。
まれにみる都心の積雪のせいで電線が切れて、停電してしまっている地域があると今朝のニュースでやっていたのを思い出した。
普段と違うことが起こると日常はあっという間に非日常に変化を遂げてしまう。
「あちらの棚の下段にございます」
僕は店内のちょうど中央にある列に向かって掌で場所を示した。
女性は軽く会釈をして目的の物を探しに店内を進んでいった。この店が停電していないのだからこの付近の住人ではないだろうか。それとも報道を見て念のためにコンビニまで買い求めに来たのだろうか。
まもなく退勤時刻になる。そういえば、我が家に懐中電灯はあっただろうかと思いを巡らせてみる。実家からは持ってきてはいないし、玲ちゃんの一人暮らしの生活で購入していたとは考えにくいのでおそらく我が家には用意されていないだろう。帰りにホームセンターによりながら購入することに決めた。
僕の退勤時間の5分前になると交代のアルバイトがやってくる。もしかしたこの雪の影響で来てくれないことも頭の片隅によぎっていたが、交代の時間より少し早くに店内に姿を見せてくれた彼の姿を見て安心した。彼というのは僕の大学のゼミ仲間の心優しいあの城野君である。彼は主に夕方のシフトに入っていることが多かったから、大学でというより、最近ではこの店で顔を合わせることが多くなった。
僕も結婚するまでは夕方のシフト、それよりも深夜勤務が多かったのだが、玲ちゃんと一緒に暮らし始めてから夜中のシフトに入ることは無くなった。僕は運送会社の荷物を仕分けする倉庫でも掛け持ちでアルバイトをしていいたけれど、替えの場合はパチンコのホールでバイトをしている。ギャンブルなんて全く似合わないが時給がいいのだという。ここの店のアルバイトは実はというと僕が誘って始めたのだった。パチンコのアルバイトが休みの日に、別のアルバイトをしようと求人情報誌を読んでいた彼を誘ったのだ。
僕は大学を卒業するまでは、寝る時間さえ惜しんでアルバイトに明け暮れていたと僕の結婚のきっかけの思い出の中でも話したが、それに負けないくらい城野もバイト三昧の毎日を送っていた。
僕は結婚を機にシフトを昼のみにしたが、彼は大学卒業後大学院に進んだため、今でも両方のアルバイトを続けている。
「どんだけつもるんだよ。靴下の中までびっちょりだわー」
彼は替えの靴も用意する間もなく、パチンコのアルバイトの終わったその足で来たのだろう。彼のスニーカーは湿っていてとても冷たそうだった。
彼の靴と同じように出入りする客の持ち込む水分で店内の床は濡れてまたひどく汚くなってしまっていた。僕は彼にレジを任せてバックルームにモップを取りに行った。このままにしておくとお客が店内で転倒しかねないと思ったのだ。
バックルームのロッカーからモップを取り出して店内を一通りモップ掛けを行う。いつもより強めに、水分が残らないように。きれいになったところで退勤時刻となったので上がるためにレジの城野に一言かけて裏に引っ込んだ。
「じゃあ、時間だからいくわ。あとよろしく」
「おう。おつかれー」
今日も、金銭の不足も特にこれといった問題もなくアルバイトが終了した。
バックルームにはオーナーが事務作業をいつものようにしていた。60代で僕の父よりもずっと年上のオーナーだが、若いアルバイトにも優しいので従業員の中には人生相談する人間もいるくらいだ。優しさが体形にも表れていて、一言でいうならば、ひげのない、和風顔のサンタクロースだろうか。
おおきな体を猫背をに丸めたまま、小さく見えてしまうパソコンに向かってキーボードを打っていた。僕は「お疲れ様です。お先に失礼します」と言って制服を自分のハンガーにかけた。帰り道は来た道と違って懐中電灯購入のために迂回して帰らなければならない。ブーツに履き替えてコートを着込んでボタンを一番上まで止めてから店内へと出て、こちらに気づいた城野に向かって、右手を軽く上げて合図をおくり店を後にした。
帰り道には先ほど決めていたように、いつも通る道とは違う道を通り、なんおーための懐中電灯と今思いつく限りのその店でする買い物を考えて歩いていた。相変わらず足元からなザクザク音が聞こえてきて、足の裏ではキュゥキュゥと雪が圧縮されるのを感じている。気温が低いから当分はアスファルトは雪に覆われたままだろう。
家から歩いて約15分ほどのところにあるホームセンターまで用心しながら歩いていく。途中雪で立ち往生してしまっていた車がいたりしたが何とか到着することができた。到着した店内は広く数え切れないほどの商品があり、目当ての物がどのあたりにあるなんてあったく見当がつかないでいた。
会計レジのすぐ横には急ごしらえで作ったであろう雪対策に関する商品のコーナーができていた。プラスチックの雪かきシャベルに凍結防止剤、防水スプレーにレインシューズといったところだろうか。
もしかしたらこのコーナーに目当ての懐中電灯があるのではないかと期待はしたが置いてはいなかった。仕方なく頭上にある案内板を頼りに目的の品をかごに入れ、ほかにも同じように備えておいたほうがいいだろうと電池を隠すかごの中に入れた。ほかにもいくつか気になる商品はあったが、徒歩で来ているのと足音が悪いので次の機会にと諦めて帰ることにした。
特設コーナーは先ほどよりも人が増え皆それぞれ雪対策のための商品をカートへと放り込んでいく。もしかしたら今夜も積雪が続くといった天気予報が出たのかもしれないなんて思いながらレジに並んで会計を済ませて家路を急いだ。
その家への帰り道。来る途中も通ったけれど小さな踏切に差し掛かった。
僕が手前に差し掛かるとちょうどカンカンとサイレン音が鳴り始めたので普段なら走りこんで、渡り切ってしまうのだが今日は仕方なく渡らずに待つことにした。滑って転んだりでもしたら洒落にもならない。本当にただの役立たずになってしまう。
すると、電車がまだ踏切のまで到達しない間に、向かい側にいる男性がこちらを見つめて居る。僕はなんだか不思議な気がしてきた。この男性、他しか僕がさっき通った時にも線路の向かい側で見かけた気がしたからだ。駅からそう遠くない子の踏切はいつも少なからず2~3人はいるのから、僕の思い過ごしだろうと走ってきた列車に乗っている乗客に視線を移した。
15両以上の長い列車の後には貨物列車が通過したために5分ほどその場に立ち尽くしていた。吐く息は白い靄となり、素肌のままの荷物を下げた両手はかじかんで感覚がなくなってきてしまっていた。これは雪がこんなに積もるはずだと一人で頭の中で納得した。もしまた今夜、雨雲が近づいてきたのなら、間違いなくさらに雪が積もることだろう。今年はここ数年で特に寒い日が多かったから。
ようやく踏切が上がり両側に隔てられていた人たちが一斉に渡り始める。
このとき、先ほど見ていた男性がちょうど僕とすれ違うようにして踏切をこちら側へと歩いてくる。彼を見て理由の分からない違和感が僕に浮かぶ。
こんなに雪が積もっているというのにコートも着込んではいない。先ほどと同じように彼の視線は何を捉えているか分からない。身長は僕よりこぶし一個分ほど低いだろうか。上下紺色のスーツに身を包み、靴は革靴を履いている。ここにいるにはふさわしくない恰好のような気がした。彼は真っ黒で、顔つきを分からなくするほど大きいサングラスをかけている。細身の体形でスタイリッシュといえばそうかもしれないが、今この状況では非常に浮いているというか。なんというか、夜の繁華街がぴったりといったところだろうか。髪は黒いままだが前髪は一般男性には長すぎるほどだ。
突然、夜の街から飛んできてしまったような彼は仕事に出勤前なのだろうか。普段あまり他人に興味のない僕だけれども、なぜか彼には強烈にひかれてしまった。いや、僕だけではないだろう。すれ違うひと皆、彼のほうを一瞥しながら踏切を渡っていた。
今まで彼の後にすっぽりと隠れてしまっていて気づかなかったけれどどうやら女性と一緒にいるようだ。彼のすぐ後ろにぴったりとついて歩いている。まるでカモの親子のように近すぎるくらいで、その彼女は彼がつける足跡を踏みしめ歩いていた。
とてもきれいな顔の形の整った人だった。和風美人とでもいうのだろうか。長い髪が一歩踏み出すたびに左右に揺れてきらめいている。服装はスーツではなかった。彼女は連れの彼とは違い、カーキ色のコートを羽織り、淡いピンク色の格子模様の入ったストールを巻いている。この場に玲ちゃんがいたら怒られ、はたかれるであろうが、僕は結構長い時間彼女にくぎ付けになってしまった。
僕がきれいなその女性に視線が奪われているといつの間にか、奇抜な格好の彼がちょうど僕の右隣を通り過ぎようとしているときのことだった。
「君には何が見える?それとも何が聞こえるんだい?」
何を言いたいのかよくわからない会話。師匠が弟子に物事の本質を問うようなぼやけた質問が僕に投げかけられたように感じた。それはまるで天から降ってきたようにも感じられ、僕は一瞬天から何かしらのお告げでも聞こえるようになったかのようにその場に一瞬固まってしまった。
僕は天から降ってきたようなこの言葉にハッとさせられて思わず声の主を探したが奇抜なスーツの男はもとより、彼女さえ僕の隣にはもう誰もいなかった。あまりにもゆっくりと気が過ぎているように感じたが、踏切を渡り切るわずか数秒の出来事だった。歩きながらきれいな女性に見とれ、知らない人の会話が僕に質問を投げかけているように感じただけだろうと思った。
ようやく踏切を渡り切り、声の主を探して思わず振り返ったがあのカップルは路地にでも入って行ってしまったのかどこにも見当たらなかった。なんだか狐につままれたような気持ちになった僕は、残り1キロほどの家路を注意しながら歩いた。
自宅のドアの目の前についてかじかんでしまった右手でポケットの中の鍵を探し当てる。ドアを開けて誰もいない、冷たい空気が充満する部屋に入って荷物を下ろした。玲ちゃんは予告していたように帰ってはいなかった。僕は一人きりの寂しさとこの部屋のしんとした冷たすぎる空気が嫌になって、見もしないテレビのスイッチをつける。
早く温まりたくて、自宅に帰ってきた安心感につかりたくて、ケトルに水を汲んでガスコンロに火をつける。沸くまでの時間はどうにもやり過ごしようがなくて、キッチンのシンクにもたれ掛かっていた。さっきの天から降ってきた言葉はいったい何だったんだろうと自身に問いかけてみる。もしかしたら連れの女性に話しかけていただけっだたのかもしれない。きっとそうに違いない。
だけれども僕に向かってピンポイントで当てられたようなこの質問にもし、僕が答えるのなら・・・と言葉には出さず自身に語り掛けてみるのだった。
僕には何が見えるか?見えるというよりも痛みを感じる、といったほうが表現が近いだろうか。僕は小学生のあの入院騒動以降も痛み苦しみ、悪夢を見続けていた。結局対策なんてできるはずもなく眠っては苦しくなり、眠らないようにすれば悪夢を見る。時には視覚と痛覚の両方が支配されてしまうこともある。特に悩みなんて、トラウマなんて、きっかけなんてないのに僕はキチンと眠れなくなってしまったのだ。
あれから約10年以上が経過した今もこの症状は続いている。痛みや悪夢のバリエーションもだいぶん増えた。
時には全身が何かに強く弾き飛ばされるような感覚の痛みであったり、胸の苦しみではなく呼吸が全くできなくなる苦しさ。実際生身では経験していないけれど、「もういっそ殺してくれ」とさえ思ったことがある。実際そう叫んでいることもあるようだ。
僕はこの痛みの解決策を見つけることができないでいるが、やはり対処法は深く眠らないことだった。長い時間眠らないようにすれば痛みを感じなくて済むことも多くなり、幾分かコントロールする感覚をこの十年で身に着けた。
しかし眠りが浅くなれば日常生活には少なからず影響してくるのだ。そして痛みを感じない代わりに確率は高くはないけれど、悪夢を見るのだ。いい夢なんて一度だって見たことも覚えていたことはない。
時には狭く体も動かせないような箱に閉じ込められる夢、水の中で呼吸ができずにもがき苦しむ夢、震える手で自分の前に立つ人の足をつかむ夢。
自分が流しているであろう血液に浸される夢。夢といっても写真のように一場面だけしか覚えていないのだ。
<まるで死に際の人間の見た景色>を見ているようで本当にいい気分はしないが、この十年で慣れてしまったのも事実だった。
夢の中では色彩も一定ではなく、かすんでいることも多かった。普通にいつも視覚を通して見ているようにいることはできない。ちぎれるようにところどころかけているフィルムのような見え方をすることが多かった。だから僕は、今夢を見ているのか、起きて考えて思い浮かんだことが頭をよぎったのか一瞬訳が分からなくなるほどだった。
また全く同じ夢というのは見たためしがなかった。どの夢も、似通ったことはあれど完全に同一の夢は見たことはない。
僕の睡眠中の様子を玲ちゃんに尋ねると、僕は睡眠中たいていうめいているかうずくまるように体を丸めて居たり、手を天井に伸ばしていたり目をつぶって居ながらない打を流しているそうだ。
たいてい夢から目が覚めると寝間着は汗で湿り、奥歯を噛みしめすぎてこめかみが痛くなっていることが多い。ものすごく体力と気力の二つともを擦切るように消耗している感覚でそれこそもう一度眠りに落ちてしまいたいくらいけだるいのだ。
玲ちゃんと付き合うようになってからだけれども、一緒眠った初めての晩にも僕はうなされて玲ちゃんを起こしてしまった懐かしい思い出がある。
「どうした千里?」
「どこか痛むのか?」
僕は揺さぶられながら意識を取り戻した。顔を近くに寄せて覗き込む彼女は険しい顔をしている。
「ううん。大丈夫、起こしちゃってごめんね」
僕はこのとき右足が強烈な痛みでしびれていたけれど嘘をついた。
「構わん。何かあったら、水をかけてでも起こしてくれ」
そんなことできるわけがない。彼女を起こしてしまったことを僕は強烈に公開していた。
「明日早いでしょ。本当にごめんね」
「謝るな。なんでもないならそれでいい。疲れているのだろう。気にするな」
そういって彼女は布団に潜りこんで僕が起こしてしまう前にしていたであろう小さな寝息をたてて夢の世界に戻っていった。
初めての日はそれで誤魔化すことができたけれど、やはり回数を重ね、それも毎度のこととなると彼女に問いただされてことの経緯を話すことになってしまった。
僕が一生懸命に彼女に対して隠していた嘘はあっさりと日の目を見ることとなった。自分でもこの症状について訳が分からないことしかないけれど、他人には迷惑をかけてはいないだろうと誰にも、ましてや玲ちゃんも相談したり、打ち明けたことはなかった。
何度目かの夜だったろうか。ついに眠りから覚めた玲ちゃんに僕は捕まってしまった。
「その・・・深く眠ると悪い夢を見るんだ」
「毎回か?」
彼女の視線はとても厳しいものだ。僕は面接に臨んでいるように心臓の音が体の中にこだまする。
「うん。夢というか、僕自身よくわからないんだ。僕が見ているのが夢なのかさえ」
「夢でないなら何を見ている?」
彼女の追及は決してとまらない。
「うん・・・。見ているというか、痛いんでよね。一番は。どこかが必ずと言っていいほど痛くなったり苦しくなる」
「医者には見せたのか?」
彼女は体をゆっくりと起こして僕に向かって正座になった。
「いやというほど病院は行ったよ。父さんが心配してほうぼうの病院に見てもらったよ。小学校のころに僕入院したの覚えてる?あのころからだけど、本当に足の先から頭の中までくまなく調べてもらったけれど、体はどこも悪くないんだ」
僕も彼女と同じように体を起こして布団の上で胡坐をかいた。
「なら精神科はどうだ。眠りの質が悪いなら改善できるやもしれん」
「うん。そうだね。その手の薬もいろいろ試したんだけれど、ほとんどかわりはしなっかたんだ」
布団の上に二人で向き合い、僕は体勢を組み替えて正座で座り、二人でひざを突き合わせている。電気もつけない暗闇で、お互いの息遣いだけが響く。
「そうか・・・」
僕の告白に思い当たる節があったのだろうか。彼女は少し黙り込んでこう続けた。
「ならどうすれば千里が苦しまないで済むように私が何とかしよう」
「いや、大丈夫だよ。僕はもう慣れているよ。それよりも起こしてしまって申し訳ない」
暗闇にだんだんと目が慣れて、玲ちゃんの顔が認識できるようになってきた。なぜだろう。彼女はとても不安そうな顔をしているようにうかがえる。聞いてはいけないことを聞いてしまったような、後悔でもしているかのような表情だった。彼女が後悔しているのではなくて、僕が後悔させてしまったんだろう。
次の日の朝が来るまでの間、僕は玲ちゃんを抱きしめるようにしてもい一度布団に入りなおして目を閉じた。
今までたくさんの病院にかかり、様々な薬も服用してきた。抗不安薬、安定剤、睡眠剤、抗鬱薬。だけれども、どの薬も目に見えるような効果はもたらしてきるはしなかった。脳の疾患を疑いCTスキャン、MRIなどの画像診断を受け、血液検査、遺伝子検査に近いような検査までした。
結果として何ら以上は見つけることができずに、精神科を受診することになった。当時まだ小学生の僕を連れ、父さんは不安で仕方なかったのだろう。当時は憔悴していたようだった。
「大丈夫だ。心配するな」
「きっとそのうちに悪い夢も、この痛みもきっとよくなる」
自分に言い聞かせるような父さんの表情を僕は今でもはっきりと覆いだすことができる。
時間は流れ僕は1つ、また1つと歳を重ね、成長していく中で症状はよくなることもなく、かといって悪くなることもなく過ごしてきた。
しかし幼いころの苦しさと言ったら特別だった。眠りから覚めてなお、痛みに苦しみ見ていた景色がよみがえってくる。映像がフラッシュバックするとでも言えば似た表現になるだろうか。日中学校にいてもいつも落ち着きがなく、夜の眠りが浅い分授業には集中できずにいた。休み時間は症状が出るまでは遊んだり、運動に当てていた時間は昼寝の時間にとって代わってしまった。
クラスの担任も、クラスメートも心配して声をかけてくれた。とてもありがたかったはずなのに、何か腫物に触るように接してきているように感じられて、僕は嫌気がさしていた。誰にも打ち明けられず、ただただ、抜け殻のような日々を過ごしていた。身体は成長し、年齢は重ねていくのに、肝心な僕の中身はいつでも同じままだった。もしかしたら、中身なんてなかったのかもしれない。
僕の体調の変化や眠りを一番近くで見ていた父さんは、あの時の恐怖のせいだといつも僕を気遣ってくれた。別に父さんのせいじゃないのに。
だから、大丈夫かと聞かれる前に前置きをして生きてきた。症状は治まらないんだったらしょうがないとあきらめがつくようになった。
もともと諦めがよい性格だったのが功を奏して、
「どうして僕だけがこんな目に合わなくちゃならないんだ!」とか、家庭環境のせいにして悩んだりとかはほとんどなかったのだ。自分なりにこの症状に、痛みに慣れて、苦しみへの対策を講じるようになった。
まず第一には、やはり深く眠らないこと。2~3時間おきには目を覚ますようにすることで悪夢を遠ざけようとした。痛みは避けようのないものになりつつあったから、苦しい時の痛みの逃がし方をマスターしようと心掛けた。この2つの作戦が上手くいけば快適な睡眠を取り戻せるのではと考えていた。
だからこそ僕は、睡眠欲を極端なまでに持たないようにしている。寝うることが好きな人はたくさんいるだろうが、眠ることが嫌いな人間はそう、いないだろう。
しかし、人間は眠らなければ生きていくことはできない。だから僕は、睡眠とそれによって生じる症状とのバランスをとりながら生活をしているのだ。
玲ちゃんはそのことをもちろん把握しているので、寝室を、僕の眠りをできるだけいいものにしようと協力してくれている。
カーテンは遮光性の高いものを買い就寝前はリラックス効果の高いアロマを焚く。枕も結構値の張るものを使わせてもらっているし、羽毛布団は軽くて暖かい。
パジャマも汗をたくさんかくからと、吸湿性のよいシルクの素材をで出来たものを着ている。何から何まで本当にいたれりつくせりだった。僕は申し訳なく思いながら、僕を思ってくれている愛情の深さにただただ感謝するのみだった。玲ちゃんおおかげか最近では一度に眠る時間がほんの少しだが伸びたことを2人で喜び合った。
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