【三】

 無理をするなともう一度念押しして大空へと飛び立った父の姿を見送り、凌幻はやっと人心地ついた。

 隣で同じく見送っていた慶華は、大天狗の気配が小さくなったのを確認すると、盛大な溜息をついていた。

「ぷっはあ……。あー、緊張した!」

 その様子は、さっきまで幻濤の隣で淡く微笑んで座していた麗しい姿からは想像できないほどの豪快さである。

 その正反対の切り替わりように慣れている凌幻は、呆れた笑いが出てくるだけだ。

「よくもまぁ、これだけの長い時間を耐えられたものだな」

 大きく伸びをしている慶華に向き直る。

「あたしもこんなに拘束されるとは思ってねぇからな。薬湯だけ煎じて、とっとと帰るつもりだったんだぜ? とんだ御仁に好かれたもんだぜ、まったく」

 そんなのは自業自得だろう。しとやかそうな仮面を被っているのは慶華なのだから。

「おい、言いたいことが顔に出てるぞ」

 半眼でじっと睨まれる。

「わかっているのなら話は早いではないか。お前のことだ、いつもの観察眼で察してくれるだろうと思っていた」

 慶華は、口は悪いが根は悪くない。弟や戒蓮たちと同じように一目置いている存在である。

「そういえば、近頃はどうしていた? しばらく姿を見なかったが」

 慶華は定期的に黒栄山を訪れては、凌幻を始めとする天狗たちの健康状態を診てくれている。

 人間たちで言うところの「医者」のような存在だ。

 ところが、ここ十数年は訪問がなかったのである。

「あー……それなー……」

 慶華は柄に似合わず言葉を濁す。

 どうしたのかと顔を覗き込むと、彼女は頬を掻きながら顔をそむけた。どうやら、気軽に話せる内容ではないようだ。

「ちょっと、時間あるか」

 離れをちらりと見やりながら、凌幻に目配せする。

「ああ、聞こう」

 二人は、再び凌幻の部屋へと戻った。

 向かい合って座るも、慶華はなかなか口を開こうとしない。

 凌幻も無理に聞こうとはせず、話したくなるような姿勢を見せて待っている。木々を揺らす風の音がひどく大きく聞こえる。

(ああ、空を翔けたくなるような風だ……)

 凌幻がぼんやりとしていると、小さなうめき声のようなものが聞こえた。

「――――が……――ってるんだ……」

「ん?」

 よく聞き取れず、身を乗り出す。

 慶華の表情を見ると、少し青ざめているように思う。

 ただ事ではないようだ。

 今度はしっかり聞こうと意識を集中させる。

「奇病が、流行っているんだ……」

「奇病?」

「ああ。それも、発症するのは天狗ばかり」

 初耳だ。

 凌幻は眉間にしわを寄せる。

「はじめにこの病が見つかったのは、西の京蔡山きょうさいやまで、まだ幼い小天狗だったってさ」

 その小天狗は、昼間はいつものように活発に遊んで過ごしていたが、昼下がりからしばらく姿が見えなかったという。

 日が落ちてから屋敷に戻った小天狗は、どこか雰囲気が変わって様子がおかしかった。

 目はうつろで覇気がなく、口をぽかんと開けて心ここにあらずといった有様。

 そして、ときどきある一点を見つめてはぶつぶつと何かを呟いていたり、突然奇声を発して柱をよじ登ったりしているという。

 そのうちに、森に飛んでいったかと思うと、周りが無理やり引き剥がすまで、ずっと笹を食べ続けるようになってしまった。

 さすがに手に負えないと、その地域をまとめる長老や医学に明るい天狗たちに助けを求めたところ、誰もが首を振った。

 どの症状も今までに見たことがないものばかりで、病の正体がわからないのだ。

 ならばと、全国の長老や詳しそうな天狗たちにも協力を依頼し、慶華の元へも書状が届いたのだという。

「あたしもその小天狗を診に行ったけど、話に聞いてたときより酷くなってたねぇ……」

 小天狗は見事に痩せこけ、肌は緑がかったように変色し、羽根は抜け落ちて飛ぶこともできなくなり、床に臥せってしまった。

 横になっていても落ち窪んだ眼光は鋭く、薄く開いた口からはひゅうひゅうと息が漏れ、悪鬼と見紛うほどだという。

「最近になって、逝っちまったらしいよ。可哀想だけど、そのほうがよかったかもねぇ」

 そのときのことを思い出したのか、慶華はぶるりと体を震わせた。

「それで、病の原因はわかったのか?」

 その場の空気を変えようと、凌幻は少し明るい声で問うた。

「いんや、まだわかっちゃいねぇのさ。絶賛、調査中ってとこだなぁ」

 凌幻の声に救われたのか、慶華の声色も明るさを取り戻した。

「だけどな、一つだけわかったことがあるのさ」

 身を乗り出す慶華。

 つられるように凌幻も身を乗り出す。

「小天狗の体に、何者かに噛まれたような痕が見つかったのさ」

「噛み痕、か……」

「ああ。こう、足のところにな、牙の痕のような小さい穴が二つ並んでたって」

「蛇かなにかの類ではないのか?」

「あたしもそう思ったんだよ! でも、蛇にしちゃあ歯と歯の間隔が大きいんだ。それに、あたしら天狗様が、いくら子供とはいえ、蛇なんかに噛まれるなんてことがあると思うかい?」

 蛇は土地の守り神として祀られることもある存在である。

 また天狗も神の使いと崇める地域もあるほど、高貴な存在だ。

 お互いに共存してきた過去はあるが、今までに傷つけあうことはなかった。

 ましてや、天狗の五感は驚異的なほど優れているのだ。子供の天狗とはいえ、蛇に噛まれるような鈍くさい者がいるとは思えない。

「ま、そこらへんについては、いまは爺さんたちが躍起になって調べてくれてるんで。あたしらは、その結果がわかるまで、ほかの天狗たちに注意を呼び掛けることしかできないんでね」

 だから、あんたも気をつけんだよ。

 言葉にはしないが、慶華の目がそう訴えていた。

「無論だ。いまは俺も弱っている時期だからな、充分気をつけよう」

 自嘲気味に笑いながら、ふわりと左翼を持ち上げる。

 肩をすくめるような羽根の仕草に、慶華は優しく微笑みを返してくれた。

「凌幻。あんたの羽根はいつ見てもいい味出してるよねぇ。羽根そのものにまた別の魂でも宿ってるみてぇだわ」

「待て。こいつに別の魂が宿るなどという話は止めてくれ。俺が飛ぶときに違う方向へ行かれたり、空を翔けているときにはばたきを止められたりしたら、かなわんではないか」

「あっははは! いいねぇ、それ! 逆に見てみたいもんだわ! あはははっ!」

 慶華の笑い声につられ、凌幻も一緒になって笑った。

 こんなに笑ったのはいつ以来だろうかと、そんなことを考えながら。



                     ***



 再び連れ立って外へ出ると、慶華が振り返りながら言う。

「そんじゃ。またなんかあったら、すぐに知らせ送れな?」

「……だから、わかったと言っているだろう。しつこい奴だな、お前も」

 幼い子供へ言い聞かせるような口調に、凌幻も半ば呆れながら首を縦に振った。

 若い天狗たちの頂点に座する凌幻は、これまで弱さを見せることなく、すべての天狗たちを魅了してきた存在だ。

 そんな彼が空を飛べなくなるほどの大怪我を負ったのだ。

 彼を慕う過保護な仲間たちは、凌幻の強靭な心さえも折れてしまわないかと心配になるものだ。

「そうは言ってもな、また無茶なことをしでかすのがお前だろ? どんだけの付き合いだと思ってんのさ」

 慶華の指摘に苦笑いを浮かべる。

「でもま、こっちにはしばらく、あんたのお守りが付いてんだろうし、大丈夫かねぇ」

「お守りって、お前なぁ……」

 脳裏に二人の顔が浮かぶ。

「まっ。あたしがこれ以上ここにいてもできることはねぇし、あとのことはあいつらに押し付けとくんで、よろしくー」

「ああ」

 慶華は羽根を広げ、空の一点を見つめた。

 鴉天狗である彼女は、身の丈ほどもある黒々とした翼を持つ。

 暮れかけた日の光に照らされて、その翼には綺麗な艶が出ていた。

「こっちのほうも、なんかわかったら知らせるから」

 言いながら振り向いた慶華の顔には、いつの間にか嘴の形をした装飾具がつけられている。

「頼んだぞ」

 慶華は目元をふっと緩めると、風のように飛び立った。

 その黒い姿は空高く上昇すると、鳥類の鴉との見分けが付かなくなる。

 現に、夕暮れ時に集ってきた鴉たちに紛れ、慶華の姿もどれだかわからなくなってしまったくらいだ。

「相変わらず、すごい奴だ」

 ぽつりと独りごちると、凌幻は離れへと足を向けた。

 自室の障子を開けると、寝床と平行に座る砕稜の姿があった。

「どうした?」

 後ろ手に障子を閉めながら問うも、弟はちらりとこちらを見上げただけで、何も言わない。

 仕方がないなと肩をすくめながら、彼の正面に腰を下ろした。

 砕稜は、こういうところがわかりやすい。

 大事なことほど抱え込みやすく、自分の中で消化しきれなくなると、拗ねたように兄の元へやってくる。

 さて、今度は何についての話だろうか。

「それで?」

 聞く姿勢を取り、もう一度促してやる。

 なおもこちらを睨みつけるような視線は変わらないが、口がもごもごと動いて、話したそうにしている。

 じっと待っていると、ふらりと彷徨さまよわせた瞳をこちらへ向け、意を決したように息を吸い込んだ。

「……父上から、聞かされました」

 ああ、片翼のことか。

 凌幻はすぐに合点がいった。

「すぐには、元に戻らない、と……」

 少しばかり楽観視していたのだろう。

 がっくりと項垂れると、膝に置いた拳を強く握った。

「まあ、そうだろうな。小物といえど、妖怪の力で吹き飛ばされたのだ。そう簡単には戻るまい」

 凌幻は額に指を当てて記憶を巡らせる。

「あれはおそらく、妖水で強化したクロカエデの葉を丸く成形して、中に妖力を押し込めたものだろう。ぶつかった衝撃で破裂し、対象を破壊するように、と」

 だが、今回の代物は破裂するだけの簡単な作りではなかった。

 となると。

怪火かいかを使う妖怪の力も込められていたのだろうな。でなけば、燃え落ちることもなかっただろう」

「……んで」

「うん?」

「なんでっ、そんな冷静に考察なんかできるんだよっ!!」

 がばりと上体を起こした砕稜が兄に食らいついた。

 突然の豹変ぶりに、さすがの凌幻も目を見開く。

 よく見れば、目元にうっすらと涙を浮かべているではないか。

「なぜ、と言われてもな……」

 後頭部をぽりぽり掻きながら言葉を濁すと、弟はさらに詰め寄ってきた。

 両襟を鷲掴みにされる。

「兄上はっ、天狗の命ともいうべき翼を、片方失ったのに! なんで、なんで……っ!」

「目の前の人間が死ぬよりは、いくらかマシだろう」

 瞬間、くわりと目を剥く。

 父譲りのにび色の瞳が銀色に光った。

「人間なんかどうだっていい!! 弱くて短命で何の取り柄もないのに!」

「砕稜。それ以上は禁句だ」

 兄に強めの口調でたしなめられ、砕稜が一瞬だけひるむ。

「なんでだよ……。兄上だって人間なんか嫌いだって……」

「まあ、そうだな。肝っ玉の小さい奴らは、今だって嫌いだ。だが、目の前で餌食になろうとしているのが、まだうら若い女となれば話は別だ」

 兄の言葉に落胆したのだろう。

 怒りとも悲しみとも知れない感情にわなわなと震えていた砕稜は、深く息を吐き出しながら再びうな垂れた。襟を掴んでいた両手がずり落ちる。

 彼の右手が完全に落ちきる前に、凌幻が片手で握り止める。

「兄上は……俺の、自慢で……。憧れなのに……っ」

 伏せられた顔は長い前髪で隠されてよく見えない。

 絞り出された声とともに落ちた涙が、砕稜の膝頭に小さくしみを作った。

「ああ、わかっている。そうやってお前たちが俺のことを気にかけてくれるから、俺も無茶ができるし、こうして生きていられる」

 襟元の手を引き寄せると、弟の体は力なくこちらへ傾いてくる。そのまま受け止めると、空いている手でそっと頭を支え、自分の肩へと導いてやる。

 短く切り込まれた髪を優しく撫でてやると、嗚咽が聞こえ始める。

 凌幻は何もいわず、片翼で弟の体を包み込んだ。



                     ***



 どれくらいそうしていたのだろうか。

 ようやく落ち着いたらしい砕稜が、兄からそっと体を離した。

「もういいのか」

 返答はせず、乱れた前髪で顔を隠したまま座り直す。

 どこかぼーっとしているような弟の様子を、じっと見つめる。

 こちらの視線に気づいたのか、片手で前髪ごと顔を覆い隠すと、深く息を吐いた。

 肺の中身が空っぽになるのではないと心配になるほど、長い溜め息だ。

「……くっそ」

 最後に舌打ちが聞こえた。

「お前の銀光を見たのは久しぶりだな」

 片翼を器用に折り畳みながら、努めて明るい口調で話しかける。

「お前の瞳は父上より色味が濃い。ゆえに、光り方にも深みがある。それが気に入っているんだよ」

 砕稜は両手でごしごしと顔をこすると、いつもそうしているように、前髪を左側へ掻き上げた。

 頬に涙のあとは残っていない。

「ああもう、兄上はいつもそれだ。これだから調子の狂う……」

「ふっ。今に始まったことでもないだろう」

 にやりと笑うと、砕稜もつられたように笑った。

「ええ、そうですね」

 もう大丈夫そうだな。

 弟の口調が戻ったのを確認すると、凌幻はよいしょと立ち上がる。

「兄上?」

 どこに行くのかと暗に尋ねると、にっと口角を上げただけで部屋を出て行ってしまった。

 気になるならついて来い。

 彼の表情はそう語っていた。

 あれは、何かを企んでいるときの顔だ。

「仕方ないなぁ……」

 好奇心に抗えない砕稜は、頬をくすぐる前髪をいじりながら立ち上がり、幼いころと同じように兄の背中を追いかけていった。

 砕稜が追いついたのは、書庫へ続く廊下に差し掛かったときだった。

「何かの調べ物ですか」

 自分がついてきていることに気づいているはずだが、振り返る素振りのない兄に問いかける。

 彼はちらりとこちらを見やるだけで、やはり何も言わない。

「兄上?」

 砕稜の声にもどかしさがにじみ出てきた。

 凌幻は書庫の中に入ると、迷わず奥へと進んでいく。

 狭い通路を蛇のようにすり抜けて最奥に到着すると、厳重な扉と対峙した。

「兄上」

 凌幻はなおも無視すると、扉に手をかざし、口の中でぶつぶつと何かを唱え始める。

 それが扉を解錠するための呪文だと気づいた砕稜は、邪魔をしないようにと唇を結んだ。

 否、ふてくされて唇を尖らせている。

 ガキン、という鈍い音に続いて、腹に響くほどの重低音で軋みながら、重厚な扉が勝手に押し開かれていく。

 扉が完全に開くと、手前から奥へ向かって明かりが点いていく。

 凌幻が中へと足を踏み入れた。

「兄ちゃんってば! まっ……げほっ、ごほっ」

 口をついて出た懐かしい呼びかけに、自分でも驚いた。

 だがそれ以上に、室内に立ち込める独特の古びた臭いにむせ込んでしまった。

「大丈夫か」

「うえっ……なに、この臭い……」

「お前は鼻がいいからな。つらいだろう」

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妖怪叙事譚 飛べない天狗 金野 碧 @azure_sky

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