幸せの雪

@Igumust

幸せの雪

町外れの小さな介護士派遣施設、そこが僕の職場だ。高校での成績が芳しくなかった僕は、担任や親の言うがまま専門学校に入学し、介護士になった。元々祖母っ子だった僕にとって、お年寄りとの付き合いが億劫という事はなく、週に何度かの出張介護が楽しみになりつつあった。

外に出て、思いがけぬ寒さに首をすくめた。足早に今日の訪問先へ向かう。肩にうっすらと積もった雪を払いながら、街路樹の立ち並ぶ大通りを抜けた。


訪問先に到着し、ドアをノックする。古ぼけた表札から辛うじて桑本という苗字が読み取れる。ここの住人は、今年で喜寿を迎えるおばあさんだ。かなり高齢であるが、その顔立ちと佇まいにはかつての美貌が見て取れた。気高い雰囲気の彼女はどこか近寄り難さを感じさせる。僕は週に1回程度、食べ物の差し入れをしているのだが、毎度受け取ってはくれるものの、彼女はどこか迷惑そうな困ったような表情をしているように思われた。

―返事がない。

もう一度ドアをノックしてみる。部屋の中からは何の物音も聞こえない。不審に思ってドアノブに手をかける。音も立てずにドアが開く。僕の背後から、冷たい風と共に小雪が舞い込む。同時に、僕の視界にはベランダの近くにうつ伏せに倒れる老婆の姿が写り込んだ。

僕は慌ててその老婆に駆け寄った。既に息は絶えている。だが仕事上、こういうことには少し慣れてしまった。僕はすぐに落ち着きを取り戻し、老婆の元にかがみ込んだ。

しかし抱き起こした老婆の表情に背筋が寒くなった。それは無愛想だった彼女のついぞ見せることのなかった笑顔であった。痩せさらばえた冷たい体に貼り付けたような微笑が僕に向けられていたのだ。幸福そのものが、不気味とも言える微笑とともに彼女に貼り付いているように見えた。その幸福に立ち入ってはならない、そう思った僕は、彼女を床に置き直さずにはいられなかった。

遺体をそっと畳に置いた僕は室内を見回した。いつもと変わらずきちんと整頓された部屋にはまるで生活感というものがなかった。その時僕の脳裏をかすめたのは、先週のこの部屋のとある光景だった。いや、かすめたという表現は嘘になるだろう。必死で考えまいとしていたのだ。ふとした拍子に開けてしまった小さな冷蔵庫。その中の光景だけが僕の頭を支配していた。おぼつかぬ足取りで冷蔵庫に向かう。先週差し入れた菓子折が机の上に置かれている。それから僕はおそるおそる取っ手を引いた。

中はーー1週間前と相も変わらぬ、もぬけの殻だった。



最後にお食事をしたのはいつだったでしょう。ついこの間だったような気もしますし、もうずぅっと前だったような気もします。いずれにせよ私の命の灯が尽きようとしていることはよく分かります。

昨晩降り積もった雪がお日様を跳ね返しているのでしょうか。お外はいつもよりも明るいような気がします。

上質なコートに降り積もった雪を玄関で払うのが、雪の日に貴方を迎え入れた私の仕事でした。思えば私も歳を重ね続けて七十七年になるのですね。長い人生でしたけれども、私はどうしても貴方を忘れることができません。貴方の広い胸に抱かれるあの感覚は今でも思い出せます。少女のような胸の高鳴りとともに、それはもうはっきりと。

貴方が私の所へ足を運んで下さるのは週に1度でしたね。私は幸せでした。たった1日だけの逢瀬でも、私にとって残りの6日間を過ごすのに充分でしたから。貴方はいつも何の連絡もせずにいらっしゃいます。私は毎日が楽しみでなりません。愛するひとを今か今かと待ち続けるのです。寂しくなんてありません。いつか必ず、貴方は来て下さるのですから。これにまさる幸福がありましょうか。

夕食を2食こしらえるのは私の日常です。ついこの間までもずっとそうしておりました。貴方がいらっしゃれば偶然2人分の食事があったかのように振る舞い、貴方のいらっしゃらない日はそっくり一人分の食事をお捨てして。

私は幸せでした。夜の褥で貴方の細長い指が愛おしげに私の髪を梳ります。貴方は愛の言葉を囁くことはしなかったけれど、私は幸せでいっぱいでした。愛されていると思えたから。何より貴方を愛していたから。

それでもいつからだったでしょう。週に一度が日に日に減り始め、ついには月に1度になってしまいました。お仕事が忙しかったのでしょうか。その頃にはもう貴方のお名前は立派な起業家として世間にも知れ渡っておいででしたから。

それから一年ほど経った頃、とうとう貴方が私の所へいらっしゃることは無くなってしまいました。それでも私は2人分の夕食を欠かさず作り、貴方を待っていました。貴方がかつてのように突然いらした折にお食事がないと困りますもの。きっと今日こそは―。そう信じて。

そのままこんなにも歳を重ねてしまいました。ついに貴方が訪れることは1度も無かった。

私も次第に1人での生活が厳しくなりました。半年ほど前から週に1度、介護士の方が様子を見に来て下さいます。とても愛想の良くて優しいお方です。いつも私に食べ物の差し入れをくださいます。お饅頭やお茶菓子を。人と関わることの多くなかった私は上手く感謝をつたえられないのですけれども。いつかお礼をと思っていたのですが、機会を失ってしまいました。

私が貴方の訃報を目にしたのはそんなある日のことです。新聞を取りに出て、吐息の白さに驚かされた、とても寒い朝でした。

押しも押されもせぬ大起業家として名を馳せた貴方の死は、地方紙でも大きく取り上げられておりました。私はにわかには信じられず一日中おろおろと部屋の中をさまよった挙句に、公衆電話からあなたの会社へ電話をかけました。不審そうな電話口の声が教えてくれたのは、信じたくなかった貴方の死でした。

私の待ち人はいなくなってしまったのです。私の愛した貴方は、いえ私の愛する貴方は永遠に、私の所へは来て下さらないのです。私はその日から夕食をこしらえるのをやめました。一人分の分量が分からないのです。

このままお腹をすかせて死んでしまおうと思いました。今まで捨ててしまったたくさんの食べ物たちに対するお詫びのつもりでしょうか。いいえ、違いますね。ただ他に方法がなかっただけ。

こうも歳をとってしまうと風に揺られる灯火を吹き消すのさえ一苦労なのでした。でももう火を灯し続ける必要も無いのです。その弱々しい灯火を目印としてくれる人は、もういなくなってしまったのですから。

次の日からはお買い物に行くのもやめにしました。冷蔵庫の中のものを食べきってしまわなければ勿体ないですものね。幸い小さな冷蔵庫でしたので3日と経たずに空っぽにすることが出来ました。

そうして家の中に食べ物がすっかりなくなってしまった頃、ちょうど介護士さんがいらっしゃいました。また律儀に差し入れをして下さったのですが、食べようかどうか迷ったあげく食べずに置いておくことにしました。困ったような顔を見られはしなかったでしょうか。介護士さんには本当に申し訳なく思います。

さていよいよ私の命も残り少ないようです。もう空腹は感じません。どこか安らかな気持ちになります。雪が降っているというのに、体はぽかぽかと暖かい気がします。そう、まるで、貴方の胸に包まれているような。貴方の細長い指が真っ白になった私の髪を梳ります。

あぁ、また来て下さったのですね。夕食の支度、出来ていますよ・・・。


老婆はその耳に、愛の囁きを聞いた。

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