第31話

「逃がすなッ!! 奴らを追えッ!!」

黒田如水が肺腑を搾り出すような怒号を幾千の兵らに向けた。

「行けッ!! 断崖を登るのだッ!!」

無数の馬の嘶きは谷底を揺るがし、巨岩には雄健な蹄の跡が次々

と残された。

ゲンジが背に担いだヨイチを案じて、声を掛けた。

「ヨイチ、主の頂が見えてきたぞ」

「ヨイチ……?」

ゲンジはヨイチに、二度三度と声を掛けるが、ピクリとも反応が

ない。

背に伝わるヨイチのぬくもりは感じられず、ゲンジは混乱した。

「ヨイチ、死ぬなっ!!」

その刹那、黒雲の間から閃光が走り、矢のような稲光は凄まじい

轟きで、岩に張付く兵馬たちを根こそぎ叩き落とした。

「なにッ!!」

黒田如水が真上に眼をやると、兵馬たちは嶮しい崖を次々と転が

り落ちて来るのが見えた。方々で嘶きとうめき声が聞こえる。

高山右近、小西行長らは息をのんだ。

「ゲンジよ……己の生死を省みず、ヨイチをこの頂まで引き上げてくれたこと、

誠にご苦労であった」

主の声がした。

冷たくなったヨイチの躰は、彩衣の雲間に吸い上げられたのち、

主の足もとに置かれた。

やがて四大空に帰したその屍は、骸骨となり粉々となって、風に

吹き上げられてゆく。そこには、永別としての深い悲しみはない。

懸命に生きたヨイチの三有三界の只の一時でも、自分が彼とともに、

まさしくその世界に「存在」しえたことを有難く思う。

「永劫回帰……」

「過去」はこの瞬間とともに、次の「未来」へと移り行く。それ

が畢生なのだとゲンジは悟った。

ツバクロが天を翔る。

忘れな草が風にそよぐ。

「ヨイチ、知っているか? この花言葉の意味を。『悲しみを忘れ

る』と言うんだ」

ツバクロはすーっとゲンジの肩に止り、ふたたび大空の果てに吸

い込まれて行った。

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ゲンジとヨイチ 夕星 希 @chacha2004

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